All Chapters of 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります: Chapter 11 - Chapter 20

31 Chapters

11:出会い

 職人たちが工房に戻り、桜の心は久しぶりに温かい光に満たされていた。しかしその光が強くなるほど、現実の壁が作る影も濃くなるものだ。「お嬢、これだけの数の注文をこなすとなると、漆も金粉も、今までの問屋じゃとても足りんぞ」 源さんの言葉は、的を射ていた。桜はこれまでの取引先である材料問屋を訪ね、頭を下げて回った。「事情は重々承知しております。ですが、どうかそこを何とか……! 必ずお支払いはいたしますので、もう少しだけ、材料を融通していただけないでしょうか」「そう言われましても。申し訳ありませんが、実績のない工房さんを優先はできませんよ」「資金繰りが苦しいのですか。となるとやはり、今まで取引のないご新規さんですので、うちではちょっと……」 だが返ってくるのは、丁重であっても厳しい断りの言葉ばかりである。個人の小さな工房、しかも実績のない新しいブランドに、前払い無しで材料を下ろすリスクを許す問屋はなかった。(どうしよう。このままでは、せっかくの注文をお断りし続けるしかない) 成功の喜びは、日々の資金繰りの悩みという重いプレッシャーに変わりつつあった。◇ 桜は交渉に疲れ果てて、アパートへ戻った。 これから先のことを考えあぐねていた時、ピンポーンと古いインターホンが鳴った。(誰かしら?) 配達の予定はない。訝しみながらドアを開けた桜は、息をのんだ。 そこに立っていたのは、この古びたアパートには到底似つかわしくない、一人の美しい男だった。 長身で、完璧に仕立てられた上質なスーツを纏っている。艶のある黒髪は、明らかに東洋人の色だった。だが黒い睫毛の下にある瞳の色は、サファイアのような青。底冷えするような光をまとって、桜を射抜いている。 高く通った鼻筋、深く彫られた目元は西洋の骨格を思わせるのに、その佇まいにはどこか東洋的な静謐さが宿っている。西洋の彫刻と東洋の水墨画が、一つの肉体の中で奇跡的な調和を保っているかのようだった。 他を圧倒するエキゾチックな美しさと有
last updateLast Updated : 2025-09-11
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『VALENTIS』――その世界的ブランドの名と、エミリーのブログにあった謎の言葉、『氷の皇帝』が、桜の頭の中ではっきりと結びついた。 部屋の空気は張り詰めて、職人たちが固唾をのんで成り行きを見守っている。 玲遠はそんな緊張感を意に介さず、口を開いた。「ここにいては、話もできない。近くに、落ち着いて話せる場所はあるか?」「は、はい。すぐ近くに喫茶店があります。そこへ行きましょう」 桜は戸惑いながらも、彼をアパートの近くにある馴染みの喫茶店へと案内した。古い木の柱が美しい、落ち着いた雰囲気の店だ。コーヒーが二人分の湯気を立ててテーブルに置かれると、玲遠は一切の前置きなしに、単刀直入に本題を切り出した。「来たるパリ・オートクチュールコレクションで、『VALENTIS』と『SAKURA SAIONJI』のコラボレーションを実現したい」 目を丸くしている桜に構わず、玲遠は続けた。 桜が直面している問題をすべて見透かしたような、具体的な条件を提示していく。「資金は『VALENTIS』が全面的に提供する。あなたの仕事にふさわしい最高品質の材料も、世界中から調達しよう。必要なら、パリにあなた専用のアトリエを用意する」 話のスケールが大きすぎて、現実感が全くなかった。(パリのアトリエ? 資金提供??) これは何かの冗談だろうか、と桜は思った。 彼女は一度、健斗に騙されている。うまい話には裏があると知ってしまったのだ。 せっかく新しいスタートを切った彼女を貶めるための、健斗よりももっと巧妙な罠かもしれない。 ほら、最近、オレオレ詐欺とかよく聞くし。 桜はカップを持つ手に力を込めた。「なぜ、私のような無名の職人に、そこまでの条件を?」 疑念に満ちた声だった。玲遠はその問いに「氷の皇帝」の顔で、冷静なビジネスロジックを語る。「『VALENTIS』は投資をする。私は、君の才能に投資する価値があると判断した。それだけだ。君の持つ伝統と革新性の融合は、停滞しつつあるラグジュアリー市場において、圧倒的な起爆剤になる
last updateLast Updated : 2025-09-12
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 玲遠からの正式なオファーを受けて、桜の小さな工房は熱気に満ちていた。 来るべきパリでの仕事に思いを馳せて、桜も再び集った職人たちも、希望を胸に制作に打ち込んでいる。「お嬢、楽しみだなぁ! まさかあの、ゔぁれんてぃー? とかいうすげえブランドの社長様が、わざわざ日本まで来てくれるとは」「今は社長じゃなくてCEOって言うのよ、源さん」 桜がくすくすと笑えば、源さんは頭をかいた。「おっと、そうだったか。俺ぁ横文字に弱くってよ。まあそれだけ、お嬢の腕に惚れ込んだんだろう」 部屋の中に笑い声が満ちる。誰もが明るい未来を夢見ていた。 そんな穏やかな空気を破るように、アパートのインターホンが鳴る。桜が作業を中断して向かおうとすると、待ちかねたのだろう、扉が乱暴にノックされた。 訝しみながらドアを開けた桜は、絶句した。 そこに立っていたのは、東山健斗だった。腕には、この質素なアパートにはあまりに不釣り合いな、巨大で高価なバラの花束が抱えられている。 桜の血の気が引いた。彼の顔を見た瞬間、パーティでの屈辱と絶望がフラッシュバックする。 恐怖で体が強張り、すぐにでもドアを閉めようとした。「待ってくれ、桜さん!」 けれど健斗は半ば強引に、ドアの隙間から部屋へと足を踏み入れた。 健斗に気づいた源さんたちが、手を止めて一斉に睨みつける。しかし健斗は彼らを意にも介さず、桜の前で芝居がかったように深く頭を下げた。「桜さん、すまなかった! 君に酷いことをしてしまった。僕はどうかしていたんだ」 彼は顔を上げて、悲痛な表情を作る。自らの裏切りを正当化する、身勝手な言葉を続けた。「でも、分かってほしい。あの一件は君の才能を、僕が誰よりも信じていたからこそなんだ! あの小さな工房でくすぶっている君を、世界に羽ばたかせるための……僕なりのショック療法だったんだよ!」(ショック療法? 何を言っているの、この人は?) 最初の混乱から立ち直った後、桜の心は冷めていた。 彼の言葉が
last updateLast Updated : 2025-09-13
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 健斗が去ってから数日、工房には静けさが戻っていた。  だが、落ち着いているとは言い難い。どこか張り詰めた空気が漂っている。桜は不安を押し殺して、職人たちも何も言わず、ただ黙々と手を動かしていた。「あの男、何をやるつもりだろうなぁ……」 職人の一人がぽつりと呟くが、桜は首を振った。「気にしちゃ駄目。私たちは、目の前の仕事をやるだけだよ」 桜は健気に振る舞うが、健斗が残した脅迫の言葉は、棘となって全員の心に刺さったままだった。 ◇  その日、材料の追加発注のために馴染みの問屋を回っていた源さんが、険しい顔で工房に戻ってきた。「お嬢、どうにも妙だ。懇意にしとった問屋が、揃いも揃って売り渋りやがる」 桜の心臓が、どくんと嫌な音を立てて脈打った。「『急に大口の契約が決まってしまって』だの、『在庫の品質が保証できない』だの……。皆、申し訳なさそうにはしとるが、わしの目を見ようともせんかった。こりゃあ、誰かに手を回されたに違いねえ」(始まった……) 桜の背筋に冷たいものが走った。健斗の脅迫が、現実のものとなって襲いかかってきたのだ。材料がなければ、一本のかんざしすら作れない。工房の生命線が断たれてしまう。  玲遠のおかげで一度は解決したはずの問題が、再燃してしまった。 妨害はそれだけでは終わらなかった。  その翌日、さらに陰湿な攻撃が始まる。職人の一人が、不安そうな顔でスマートフォンを桜に見せてきた。「お嬢。これを見てくれ」 それは、匿名で書き込めるネットの掲板だった。そこには健斗が流させたのであろう、悪意に満ちた言葉が並んでいる。『SAKURA SAIONJIのデザインって、元々いた西園寺工房の伝統意匠のパクリじゃん』『人間国宝の祖父の名前を汚す孫娘』『恩師だった職人たちを工房から追い出して、手柄を独り占めした悪女らしい』『西園寺工房の土地は売りに出されたんだろ? 土地を売った金、何に使ったのやら』『金にがめついだけのクソ
last updateLast Updated : 2025-09-13
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 深夜の工房はしんと静まり返っていた。暗闇の中、スマートフォンの画面だけが桜の顔を青白く照らし出している。『何か、トラブルか?』 ――その短い言葉を、彼女は何度も読み返した。 一瞬、安堵の涙が溢れそうになる。助けてほしい、と叫びたかった。けれどその感情は、健斗に裏切られた記憶を思い出してせき止められた。(助けを求めてもいいの? また誰かに頼って、もし裏切られたら……?) 玲遠に「投資価値がある」と評価されたばかりなのに、こんなに早く助けを求めるなんて、あまりに情けない。自分の無力さを認めるようで、悔しかった。 桜は返信画面を開き、『大丈夫です、ありがとうございます』と打ち込んだ。だが指は「送信」のボタンを押すことができず、画面の上をふらふらとさまよった。 結局、返事は出せなかった。◇ 翌朝、工房に集まった職人たちは誰も言葉を発しようとしなかった。 材料がなければ仕事が始まらない。誰もが手持ち無沙汰になって、何もない作業台を見つめるばかりである。 工房の空気は重い沈黙が漂って、時折誰かのため息だけが聞こえてきた。 源さんが、桜の方へと歩み寄ってきた。彼の顔には、深い疲労と苦悩が刻まれている。「お嬢、わしらのことは気にするな。食い扶持なんぞ、どうにかなる。だが……このままでは、注文してくれたお客さんたちに申し訳が立たん。わしらは、約束したもんを作れんのが一番つらい」「そう、……よね」 源さんの言葉が、桜の胸に深く突き刺さる。彼女の失敗は、金銭的な問題だけではなかった。 職人としての誇り、顧客からの信頼、その全てを傷つけている。責任の重さが、彼女の両肩にのしかかった。 桜は、突き動かされるように自分の作業台に向かう。何かを作らなければ。手を動かさなければ。 心の支えであるはずの、祖父の形見の蒔絵筆を手に取る。作りかけの作品に向かい、一本の線を引こうとした。 けれど指が動かない。
last updateLast Updated : 2025-09-14
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 玲遠の突然の来訪に、工房の重苦しい空気は凍り付いた。 源さんたち職人は、目の前に現れた、雑誌でしか見たことのない世界の頂点に立つ男を前に、どうしていいか分からず立ち尽くしている。 桜も来訪者の気配に気づいているはずだった。けれど心を閉ざした彼女は、何も見たくないと言わんばかりに動かない。 玲遠は机に突っ伏したままの桜を一瞥すると、源さんに向き直った。「皆さん、少し席を外していただけますか」 その声は静かだったが、有無を言わせぬ響きがあった。「分かった。どうか、お嬢を頼みます」 職人たちは戸惑いながらも、玲遠に頭を下げる。桜に心配そうな視線を送ってから、部屋を出て行った。 扉が閉まれば、工房には玲遠と桜の二人だけが残された。 玲遠は桜のそばに歩み寄った。だが彼女の肩に手を置くような、安易な慰めはしない。代わりに、作業台に転がった桜の蒔絵筆――彼女の折れた心の象徴――を拾い上げた。 彼は筆を指先でそっと撫でる。使い込まれた筆は指の跡が刻まれていて、主の熱意が感じられた。 玲遠が最も好む「本物の美」の意識が、一本の筆から放たれている。彼は一瞬だけ愛おしそうに目を細めて、すぐに表情を戻した。 玲遠は突っ伏している桜の背中に、鋭い刃のような言葉を投げかける。「君は、誰のために創る?」 桜の肩が、ぴくりと震えた。「ネットの雑音で揺らぐ程度の情熱だったのか?」 彼の言葉には一切の同情がない。それは桜のプライドを抉る、挑発的な問いだった。 悔しさと反発で桜は顔を上げる。その顔は、涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。 桜は涙の浮かぶ目で、玲遠を睨みつけた。「玲遠さんには、分からないんですよ。あなたみたいに強くて、大きな会社のトップにいるような人に、小さな工房の苦労が分かってたまるものですか。私は全てを奪われた。再起しようとしたのに、そのチャンスさえめちゃくちゃにされた! おじいちゃんにも、職人さんたちにも、お客さんにも。みんなに顔向けができないの!」 桜の言葉を受け止めて、玲遠の青い瞳は揺る
last updateLast Updated : 2025-09-14
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「最高の仕事を、お約束します」 桜の力強い言葉が、工房に響き渡る。玲遠は、闘志の炎が宿った彼女の瞳を青い瞳で見つめ返した。彼の張り詰めていた「氷」の気配が、ほんのわずかに和らぐ。その表情の微かな動きに、桜だけが気づいていた。「いいだろう。その言葉、違えるな」 玲遠はそう言うとドアを開ける。外で心配そうに待っていた源さんたちに「お入りください」と声をかけた。 戻ってきた職人たちは桜の涙の跡を見つけるが、何かを振り切ったような力強い表情と、部屋の空気の変化に戸惑っていた。 玲遠はアタッシュケースから、一枚の薄いタブレット端末を取り出した。職人たちにも見えるように、画面を表示させる。「まず、君たちが直面している材料の問題だ。東山健斗が金沢市内の問屋に圧力をかけている件だが、これは今から解決する」 彼は桜と源さんに問うた。「この街で、最も歴史と信頼のある漆と金粉の問屋はどこだ?」「それだったら……」 源さんが、おそるおそる数百年続く老舗の名前を挙げる。 すると玲遠は、その場でスマートフォンを取り出して耳に当てた。流暢なフランス語で、秘書に短い指示を飛ばす。「……ああ、イザベルか。日本の金沢にいる。今から言う名前の工房と、明日の朝食会を設定しろ。最優先だ」 驚く桜たちに、玲遠は「切り崩し」のプランを説明し始めた。 質の良い材料を提供する老舗を、東山の影響から切り離すのだと。「彼らに、『VALENTIS』との公式サプライヤーとしての長期専属契約を提示する。君たちのパリ・コレクションで使われる素材として、彼らの工房名と職人の名前を、全世界のプレスリリースにクレジット付きで掲載することも約束しよう。もちろん、契約金は東山健斗が提示できる額の数倍を、前金で支払う」 彼は、絶対者の自信に満ちた目で言った。「東山健斗が提示できるのは、目先の利益と恐怖だけだ。私が提示するのは、彼ら自身の仕事への誇りと、世界に繋がる未来だ。どちらを選ぶかは、言うまでもない」 
last updateLast Updated : 2025-09-15
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 数日後、桜と三人の職人たちは、初めて国際線の飛行機に乗っていた。轟音と共に巨大な機体が滑走路を駆け上がり、ふわりと浮き上がる感覚に、源さんが「おぉ……」と感嘆の声を漏らす。「お嬢、飛行機っちゅうもんは、腹に響くもんなんだなあ」 窓の外には、あっという間に小さくなっていく地上の街並みが見える。桜は不安げな源さんに微笑みかけた。「大丈夫ですよ、源さん。この先には、私たちの新しい仕事場が待っていますから」 彼女は膝の上のバッグをぎゅっと抱きしめた。中には、祖父の形見の蒔絵筆が、お守りのように入っている。◇ パリの空港で彼らを迎えたのは、玲遠の秘書だという理知的な女性だった。「イザベル・ローランです。CEOから話は全て伺っています。手配は済んでおりますので、どうぞ」「日本語、お上手ですね?」 桜がびっくりして言うと、イザベルは微笑んだ。「我が社、VALENTISは国際的な企業ですから。特にCEOのお母さまは日本人です。私も日本の美を尊敬しております」 彼女に案内されて、車は美しい街並みを抜けてマレ地区へと向かう。歴史を感じさせる石造りの建物の前で車を降た。最上階まで上がると、重厚な扉が開かれた。 その瞬間、桜たちは息をのんだ。 壁一面の大きな窓から、柔らかなパリの陽光が降り注いで、部屋を明るく照らしている。工房には真新しい木の机と、磨き上げられた最新の道具類が整えられていた。新しい木材とかすかな塗料の匂い。広々とした空間に、職人たちの驚嘆のため息が響いた。 源さんは、最高級の木材で作られた作業台を、皺だらけの手でそっと撫でる。「信じられん……極楽みてえな場所だ……」 桜も自分の名前がプレートに刻まれたデスクを見つけて、指で触れた。これが夢ではないと確かめている。「ここが、私たちの新しい工房」「はい。こちらが、ムッシュ・ヴァレンティが皆様のためにご用意したアトリエです。必要なものはすべて揃っております。
last updateLast Updated : 2025-09-16
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19:共鳴

 パリのアトリエは、完璧な環境だった。 セーヌ川の光が差し込む広大なアトリエ。玲遠が世界中から手間と費用を惜しまずに集めた最高品質の漆に金粉、そして使い手の魂に応えるかのような極上の筆。桜の創作のために用意されたその場所は、伝統と革新が融合する聖域のようだった。 なのに、桜の心は鉛のように重かった。 目の前に置かれた漆器が、まるで彼女の才能の枯渇をあざ笑っているように見える。玲遠から渡された前衛的で美しいデザイン画と、祖父から受け継いだ魂。二つの偉大な世界の狭間で、桜は進むべき道を見失っていた。(描けない……) 一度は取り戻したはずの誇りが、プレッシャーという名の見えない重圧に押し潰されそうだった。健斗に裏切られたあの夜の絶望が、冷たい影のように心を覆う。蒔絵筆を握る指先に、力がこもらない。(玲遠さんから、お母さまの形見を託されたのに。最高の仕事をすると、約束したのに!) 期待に応えられない悔しさで心が軋む。 焦れば焦るほどインスピレーションは遠ざかって、桜の心を沈ませた。 その時のこと。アトリエの重厚な扉が開く音がした。 振り返ると、そこには玲遠が立っていた。いつも通りの完璧なスーツを着こなし、氷のような鋭い青い瞳がまっすぐに桜を射抜く。 桜の肩が、無意識にこわばる。彼の前で、何も生み出せない自分がひどくちっぽけに感じられた。「……筆が進まないようだな」 彼の声に、非難の色はなかった。ただ、全てを見透かすような静かな響きがある。 桜は俯いて、言葉を返せずにいた。玲遠は彼女の作業台に近づき、そこに広げられたままのデザイン用紙――何も描かれていない――を一瞥した。 そして予想もしない言葉を口にした。「少し外に出よう」「え……?」「気分転換も仕事のうちだ。付き合え」 有無を言わせぬ口調。それは命令だったが、不思議と反発する気にはなれなかった。 桜は素直に頷いて、彼に続いてアトリエを出た。
last updateLast Updated : 2025-09-17
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20

(この人も、戦っていたんだ……) 巨大な組織の中でたった一人で。孤独に、誇りを守るために。桜が健斗に感じていた無力感とは違う、もっと大きくもっと重い孤独がそこにある。 同情ではなかった。もっと深く、魂が共鳴するような感覚。目の前にいるのは「氷の皇帝」ではなく、自分と同じように「守るべきもの」のために傷つきながら戦う、一人の人間だった。 桜の心の中で凍てついていた何かが、静かに溶けていくのを感じた。「君の仕事を見た時、思い出したんだ。私が、何のために戦ってきたのかを」 玲遠の青い瞳が、まっすぐに桜を見つめている。その瞳の奥に、鎧の下にある素顔の彼がいる。「だから、君には負けてほしくない」 桜は強く頷いた。もう言葉は必要なかった。◇ 帰り道、二人の間に言葉はなかった。だが行きとは全く違う、温かい沈黙がそこにはあった。 アトリエに戻った桜は、まっすぐに自分の作業台へと向かう。 目の前の白いデザイン用紙は、もう彼女をあざ笑ってはいなかった。それはこれから生まれる新しい世界を待つ、希望そのものに見えた。真っ白であるからこそ、これからどんな絵でも描けるのだ――と。(玲遠さんの孤独に、私の全てで応えたい) 祖父の形見である蒔絵筆を、そっと手に取る。不思議なほど指先にしっくりと馴染んだ。 玲遠から託された形見の櫛を取り出して、桜は息を吸い込み、心を研ぎ澄ませる。 思い浮かべるのは、彼女の原点である祈り。あの絶望の朝に見た朝日。 迷いの消えた筆先が櫛の上に、最初の一筋となる力強い光を描き出した。◇ コレクションに向けた本格的な創作が始まって、数週間が経過した。 アトリエは熱気に満ちている。桜と職人たちの手によって、玲遠のデザイン画は次々と命を吹き込まれ、形となっていく。そんな中、桜は一つの小さな桐箱を手に玲遠の姿を探していた。 彼は、窓辺に立ってセーヌ川の鉛色の流れを眺めていた。その背中は、CEOとしての重圧を物語るようにどこか張り
last updateLast Updated : 2025-09-17
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