夕暮れの光が、大きな窓から斜めに差し込んでいた。金沢、ひがし茶屋街の路地裏にひっそりと佇む『西園寺工房』。その広い仕事場は、ひとけがなくがらんとして静まり返っていた。 西園寺桜は、作業台に向かい、息を詰めて一本の古い蒔絵筆を手入れしている。祖父の指の形に馴染んだ黒漆の軸を、柔らかな鹿の皮で丁寧に磨き上げる。かつて人間国宝にまで上り詰めた祖父が、生涯手放さなかった筆だ。 部屋には、漆の甘く深い匂いだけが満ちている。(おじいちゃん、この筆の感覚、まだ指が覚えているよ) 祖父から受け継いだ技術と、この工房に宿る魂。それだけが桜の誇りだった。 しかし、誇りだけでは人の腹は満たされない。最盛期には十人以上いた職人たちも、今では三人だけ。その彼らに、来月の給金を払えるあてさえないのだ。 伝統工芸の分野は、年を追うごとに厳しさを増している。 人々は便利な大量生産の工業製品に目を奪われて、古臭い技術に見向きもしない。(私のせいで、みんなの生活が駄目になってしまう) 桜の胸に、ずしりと重い責任がのしかかった。 仕事場の静寂を破ったのは、不釣り合いなほど軽快な着信メロディ。作業台の隅に置かれたスマートフォンが、ぶるぶると震えている。画面には【東山 健斗】という名前と、白い歯を見せて笑う彼の写真が映し出されていた。 桜は一瞬ためらい、それからおそるおそる通話ボタンに触れた。声が、自分でも驚くほど弱々しかった。「もしもし……健斗さん」『もしもし、桜さん? やっぱり声が暗いよ。心配しなくていいって言ってるだろ? 僕がついているんだから』 電話の向こうから婚約者の声が聞こえてくる。いつも通り明るく力強い自身に満ちた声だった。 その声を聞くと、不安で張り詰めていた心が少しだけ和らぐ。『工房のこと、もう悩まなくていい。僕が君と、君の大切な工房の未来を、必ず守るから。信じて』 彼の言葉は、桜には救いのように感じられた。ITベンチャーを一代で築き上げた彼の手腕は、メディアでも度々取り上げられている。時代の寵児と言われていた。 そんな彼が言うのだから、きっと大丈夫。桜は、自分に言い聞かせるように、その光を手繰り寄せた。「はい。信じています」(この人しかいない。この人がいれば、きっと工房を立て直せる) もう他に手はない。すがりつくような思いが、桜の冷静な判断を
Last Updated : 2025-09-04 Read more