All Chapters of 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります: Chapter 21 - Chapter 30

31 Chapters

21

 翌日、アトリエの前に停まっていたのは、流線形のフォルムを持つクラシックで美しい銀色のクーペ。桜が車の名前も知らないでいると、いつの間にか隣に立った玲遠が後部座席のドアを開けた。「どうぞ」 促されるまま乗り込むと、柔らかな革のシートが体を包む。運転席には寡黙な壮年の男性が座っていた。車は滑るように、パリの石畳の上を走り出した。(これが、彼の世界……) 行き先は知らされなかった。ただ、車は観光客で賑わう大通りを避けてマレ地区の静かな路地へと入っていく。 車を降りた玲遠に導かれ、桜が足を踏み入れたのは、看板もない重厚な扉の向こう側だった。 そこは個人の収集家が営む、完全予約制のアンティーク・ジュエリーのサロンだった。「ムッシュー・ヴァレンティ。お待ちしておりました」 白髪の老店主が深々と頭を下げて、二人を奥の部屋へと案内する。天窓から柔らかな光が降り注ぐ部屋には、美術館のように宝飾品が並べられていた。「ここの主人は、私の母が懇意にしていてね。私も昔、よくデザインの着想を得に来た」 玲遠はそう言うと、一つのネックレスを手に取った。「見てみろ、桜。このエナメルの細工を。百年前の職人が、恋人の瞳の色を再現するために生涯を捧げたと言われている」 商談の目ではなかった。本当に美しいものを前にした、一人の創作者の瞳だった。「美しい色です……」 彼は桜の蒔絵を見るように、一つ一つの宝飾品に宿る物語と職人の魂に敬意を払っている。桜もまた、玲遠の解説に耳を傾けながら、時代を超えて受け継がれてきた「本物」の仕事に心を奪われた。 玲遠はさらに、ベルベットの敷かれたガラスケースの中の一つを指さした。店主が恭しくそれを取り出して、彼に手渡す。それは、手のひらに収まるほどの小さな金の小箱だった。「ルイ16世時代のタバティエール(嗅ぎタバコ入れ)だ。この蓋に描かれた田園風景のミニアチュールを見てみろ。複数の色のエナメルを寸分の狂いもなく焼き付ける、プリカジュールという非常に高度な技法が使われている」 彼の指先が示す小箱の表面には、羊飼いの男女が寄り添う緻密な世界が描かれている。その背景の空の青のどこまでも澄んだ美しさ。「完璧な調和だ。金の彫金とエナメルの色彩、そして描かれた幸福な一瞬。西洋装飾美術の一つの到達点と言える」 玲遠の声には、本物の美に対する純粋な賞
last updateLast Updated : 2025-09-17
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22

 サロンを出ると陽は傾きかけていた。玲遠は桜を再び車に乗せて、今度はセーヌ川沿いに佇むアパルトマンへと向かう。最上階にある、彼のプライベートな空間だった。 部屋は彼の美学を体現するように、無駄なものが一切ない静謐な空間だった。大きな窓の向こうには、夕暮れの光に染まるパリの街並みが広がっている。ダイニングテーブルも華美な装飾のない、磨き上げられた一枚板のテーブルが置かれているだけだった。(こんな風に、誰かと食事をするのはいつ以来だろう……) 緊張する桜の前に、清潔なエプロンを身に着けたシェフが音もなく現れて、最初の一皿をサーブする。 大ぶりの帆立貝を香ばしくポワレしたもの。添えられているのは、鮮やかな緑色をしたアスパラガスのソース。皿の縁には、食用だという小さな花びらが、まるで蒔絵の金粉のように散らされている。「……美味しい」 口に運ぶと、帆立の甘みと春野菜の持つかすかな苦味が完璧に調和していた。素材の一つ一つの味が互いを引き立て合って、生きている。「口に合ったようで何よりだ」 玲遠が、目の前のワインボトルを手に取った。彼はシェフに任せるのではなく、自らの手で桜のグラスにワインを注ぐ。深いルビー色の液体が、グラスの中で揺らめいた。「ブルゴーニュの、小さな作り手のものだ。ヴォーヌ・ロマネという村で、家族だけで作っている」「とても芳醇(ほうじゅん)な香りがしますね」「この作り手は、決して畑を広げない。自分の目が届く範囲で、完璧な仕事をするためだ。君の仕事と、どこか似ていると思わないか」 その言葉に、桜はハッとして玲遠の顔を見る。ワインの話をしている彼の横顔はCEOでも皇帝でもなく、ただ本当に良いものを愛する一人の男性のものだった。「君は、普段はどんな酒を飲んでいるんだ?」「ビールが好きだけど、一番は日本酒です。金沢にいい酒造所があって。おじいちゃんの代からお付き合いがあるんです」「ほう。次に日本に行った時、ぜひ味わってみよう」「はい、案内させてください!」
last updateLast Updated : 2025-09-18
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 パリでの創作活動が軌道に乗り、数週間が過ぎた。 アトリエには心地よい緊張感と、創造の喜びに満ちた空気が流れている。だが桜は気づいていた。故郷を離れた職人たちの顔に、少しずつ疲労の色が浮かび始めていることに。「源さん、皆さん。明日は一日、思い切って休みにしませんか」 ある日の作業終わり、桜はそう提案した。「パリに来てから、ずっと仕事詰めでしたから。リフレッシュを兼ねて、皆で街を観光しに行きましょう!」「観光ですかい。お嬢がそう言うなら……。ですが、仕事は大丈夫ですかね」 心配する源さんに、桜は笑いかける。「良い仕事のためには、良い休息も必要ですよ」 桜は玲遠の受け売りをしてみせた。「それに、私もまだちゃんとパリを見ていないから」 茶目っ気を込めた笑顔で言えば、他の職人たちからも「そりゃあいい!」「行ってみたいです!」と賛同の声が上がった。◇ 翌日。少し着飾った源さんたちと桜は、わきあいあいと話しながらアトリエを出た。軽やかな足取りで石畳の道へ踏み出そうとした、その時。 一台の黒塗りのセダンが、音もなくアトリエの前に停まる。後部座席から現れたのは、寸分の隙もなく仕立てられたスーツを纏った玲遠だった。「玲遠さん。おはようございます」 桜は朗らかに挨拶をする。「ああ、おはよう。……どこかへ出かけるのか」 玲遠の青い瞳が、桜とその後ろにいる職人たちを順番に見る。「はい。今日は皆さんと一緒に、パリの街を観光しようと思いまして」 桜がそう答えれば、玲遠の完璧な表情がほんのわずかに揺らいだ。いつもは落ち着き払っている彼の声が、心なしか硬質になる。「そうか。……ならば、私も行こう」「え?」 予想外の言葉に、桜は素直に驚きの声を上げた。源さんたちも顔を見合わせている。「ただの観光ですよ。この前は素敵なところに連れて
last updateLast Updated : 2025-09-19
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 突然二人きりになり、玲遠と桜の間に気まずい沈黙が流れる。それを破ったのは玲遠だった。「……さて。市場調査の続きをするか」 彼の言葉に桜は思わず噴き出した。「ふふっ。玲遠さん、まだそれを言うんですね」「仕事だからな」 そう言って表情を崩さない彼に、桜は「はいはい」と頷いて、歩き出した。◇ 向かったのは、石畳の坂道に露店がひしめくモンマルトルの丘だった。絵描きがイーゼルを立て、観光客相手に似顔絵を描いている。桜は店先に並んだ色とりどりの小物やアクセサリーを、桜は一つ一つ手に取って眺めた。 坂の中腹に差し掛かると、甘い香りが漂ってきた。一台のキッチンカーがクレープを焼いている。「わあ、美味しそう。少しお腹が減ってきました。玲遠さん、食べませんか?」 桜が指さすと、彼は「……ああ」と頷いた。「わあ、メニューがいっぱいある。どれにしようかな……。よし! フランボワーズのジャムにします!」 桜が先に注文を済ませ、玲遠が自分の分を頼む番になった。彼はごく自然な仕草で懐から財布を取り出し、一枚のカードを店主へ差し出した。艶消しの黒いカードは、それ自体が周囲の陽気な雰囲気から浮き立つような、絶対の存在感を放っている。 桜は横目で黒のカードを見て、たじろいだ。(おおお、ブラックカードだ。本物、初めて見た)「支払いは、これで」 しかし、恰幅のいい店主は眉一つ動かさなかった。「にいちゃん、悪いな。うちは現金だけなんで」「何……?」 その言葉に、玲遠が完璧な仮面をつけたまま、わずかに固まった。 氷の皇帝が下町の小さなキッチンカーの前で、完全に動きを止めている。その光景が何ともおかしくて、桜は笑いを堪えるのに必死だった。(現金、持っていないんだ。そうよね、普段使わないよね) 桜は自分の小さな財布から、数枚のコインを
last updateLast Updated : 2025-09-19
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25:転落の始まり

 その頃、東山健斗は成功の絶頂にいた。 東京の高層ビルにあるオフィスから都心の景色を見下ろして、高級なウイスキーを嗜む。テレビでは、金沢の再開発計画を「未来への投資」と絶賛する経済番組が流れていた。 秘書が持ってきた『VALENTIS』と桜に関するレポートを一瞥し、健斗は鼻を鳴らした。「ふん。ヴァレンティだか何だか知らないが、所詮は時代遅れのカビの生えた老舗だ。僕の事業の方が、よほど革新的で未来がある。西園寺桜? ああ、いたな。僕が才能を見出してやったんだ。せいぜい頑張ればいいさ」 彼にとって、桜の成功は自分の手柄。捨てた駒が予想外に働いただけの話だった。『再利用』できないのは残念だったが、まあ仕方ない。健斗の輝かしい未来に、もう必要のない存在だ。◇ だが健斗の築いた砂の城に、最初の亀裂が入る。 提携デザイナーである青山ミキに、大規模な「盗作疑惑」が持ち上がったのだ。 ネットにリークされた検証記事を見て、健斗は怒りに顔を歪めた。「どういうことだ!? 君は僕の顔に泥を塗ったんだぞ!」「あ、あたしは……」 ミキをオフィスに呼び出して、なじる。 彼女はおどおどとして目を合わせようとしない。 その態度から、彼は盗作が本当であると悟った。「くそっ、とんだ貧乏くじだ! 金はいくらでも出す。火消しを急げ!」「は、はいっ」 健斗はPRチームを怒鳴りつけて、対策を急いだ。 緊迫したオフィスの中に、血相を変えた秘書が駆け込んでくる。「社長! これを見てください!」 秘書はタブレットを差し出した。画面には世界的な経済ニュースサイトのトップページが映し出されている。 その最上段に表示された大きな見出しに、健斗は思わず動きを止めた。『世界的ブランドVALENTIS、日本のIT企業『Higashiyama Holdings(東山ホールディングス)』を悪質な妨害行為で告発』 健斗はタブレットをひったくるように
last updateLast Updated : 2025-09-20
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 健斗と『Higashiyama Holdings』の崩壊は、間近に迫っている。  社長室のデスクに置かれたノートパソコンのモニタが、小さな電子音を上げた。常に表示されている会社の株価が、断崖絶壁のような急落を示していた。  情報に敏感な投資家たちが、会社の未来をないものとして、次々と株を投げ売りしているのだ。「社長……こんなニュースが」 秘書が怯えた様子で、再度タブレットを差し出す。今度は日本のニュースサイトだった。『金沢の伝統文化連盟、不当な圧力をかけたとして『Higashiyama Holdings』を告発。提訴の準備も』 桜の工房に材料を売らないよう、指示した件だった。  健斗が圧力をかけたのは有力な数店だが、いつの間にかこんな話になっている。「まさか、また『VALENTIS』か」 金沢の大規模開発を手掛ける健斗は、地元に強い影響力を持つ。彼の圧力を振り切って告発するなど、協力者がいなければ不可能だ。  彼はしばし呆然と天井を見て、それから我に返った。「いい加減にしろよ、カビ臭いだけが取り柄の老舗のくせに! 俺にはまだ再開発事業がある。あれさえ成功させれば、VALENTISの影響など吹き飛ばせる! そうに決まっているッ」 恐怖に震える心を、無理矢理に強がってみせる。  けれどその強がりを、一本の電話が完全に崩壊させた。 ◇  電話の主は、健斗の再開発事業に融資していたメインバンクの支店長だった。「今後の融資計画について、一度ご相談したく思います。なるべく早くお時間を取ってください」 支店長の声は冷たい。健斗は猛烈に嫌な予感がして、取りすがった。「ニュースになっている件ですか? あの話でしたら問題ありません。すぐに収まります。ですので……」「とにかく、一度ご来店を。今から来てくださって構いませんよ」 電話が切れる。  健斗は重い体を引きずりながら、銀行へ向かわざるを得なかった。 ◇
last updateLast Updated : 2025-09-20
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27:みじめな終わり

 コレクションの発表を数日後に控えて、パリのアトリエは緊張の中にも充実感を感じる空気で満たされていた。 桜はショーで使うための小物類に、最後の仕上げを施している。 極限まで集中した筆が、正確な線を引いていく。 原さんたちもそれぞれの仕事に取り掛かっていた。 静かな創作の時間を破ったのは、秘書のイザベルの来訪だった。 彼女はいつもの冷静さを失っていないが、どこか苛立ちを感じさせる口調で言う。「桜様。大変申し上げにくいのですが……東山健斗と名乗る男が、『VALENTIS』本社のセキュリティを突破し、ロビーで面会を強要しております」 東山健斗。その名前に、アトリエの空気が固まった。「あの男! お嬢にまだ何の用があるっていうんだ」 源さんが苦々しく呟いた。(来たか……) 桜は口元を引き結んだ。けれどもう、恐怖はない。 櫛をそっと台に置くと、作業で汚れてしまった手を布で拭って立ち上がった。「大丈夫です、源さん、みんな。これは私自身が片付けなければいけない、最後の仕事ですから。……行ってきますね」◇ 桜はイザベルが運転する車に乗って、『VALENTIS』本社まで赴いた。「イザベルさん、玲遠さんに伝えてください。私が自分で決着をつけるので、見守っていてほしいと」「分かりました。伝えます」 裏手の駐車場からVIP用のエレベーターに乗り、ロビーへと出る。 美しい大理石造りのロビーにふさわしくない姿で、健斗はそこにいた。高級スーツは皺だらけ。両目は落ち窪んで覇気を失っている。 両側を体格のいい警備員に押さえられていて、それがみすぼらしさを増していた。 ロビーを行き交う社員たちが、何事かと遠巻きに見ていた。 桜が近づくと、健斗は目を上げた。手を伸ばして彼女に取りすがろうとする。「桜さん……来てくれたんだね。僕が
last updateLast Updated : 2025-09-21
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 健斗が連行された後、玲遠は桜をアトリエまで送り届けた。「お嬢、大丈夫だったか? あの男に何もされんかったか?」「大丈夫ですよ。玲遠さんが守ってくれましたから」 源さんたちが心配そうに駆け寄るが、桜は安心させるように微笑んでみせた。 玲遠はアトリエの隅にあるキッチンに立つと、心を落ち着かせる効果のあるカモミールのハーブティーを淹れて、桜の手にそっと握らせた。 源さんたちは気をきかせて、いつの間にか部屋からいなくなっている。 温かいマグカップの感触が、強張っていた桜の指を優しくほぐしていく。柔らかな香りが、ロビーでの醜い記憶を綺麗に洗い流してくれるようだった。 桜と玲遠は向かいった椅子に座って、互いに見つめ合う。「……本当に、もういいのか?」 桜を見守るようにしている玲遠に、彼女は数日ぶりに心からの笑みを浮かべた。「はい。もう大丈夫です。私の過去は、清算できました。玲遠さんのおかげです」 玲遠の唇の端にごくわずかな、偽りのない笑みが浮かんだ。「私は手助けをしただけだ。過去を振り切ったのは、君の力だよ。……パリ・コレクションまであと三日だ。ここからは君の時間になる」「はい。力を尽くします」◇ そしてパリ・コレクション当日。 会場のバックステージは、美の創造のための戦場と化していた。国籍も言語も様々なプロフェッショナルたちが、ぴりぴりとした緊張感をまとって飛び交っている。ヘアスプレーと香水の匂い、シルクが擦れる音、ショーディレクターがフランス語と英語で飛ばす鋭い指示。 その喧騒の中心から少し離れた一角に、桜と職人たちだけの静かな空間があった。 彼らはこれからランウェイに登場するモデルが纏うドレスやアクセサリーに、最後の調整を施している。源さんは、外科医もかくやという精密な手つきで、ドレスにあしらわれた蒔絵のブローチの角度をミリ単位で調整していた。 一人のトップモデルが、自分のカフスに施された蒔絵をうっとり
last updateLast Updated : 2025-09-21
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 バックステージのモニターに、フィナーレを歩くトップモデルの姿が映し出されている。桜、玲遠、源さんたち職人は、その画面を食い入るように見つめていた。 会場に響くのは、心臓の鼓動を思わせるような重いビートの音楽だけ。ランウェイを照らす一本のスポットライトが、漆黒のドレスを纏ったモデルを追う。桜は呼吸さえも忘れてしまっていた。冷たくなった両手を、胸の前で強く握りしめる。(お願い、届いて! おじいちゃんの、私たちの魂。世界中の人たちに、届いてほしい!) モデルがランウェイの最先端で静止し、ポーズを取る。全ての照明が彼女一人に集中し、ドレスとアクセサリーの全貌が明らかになった。 深い闇を思わせるドレスのシルクが、光を吸い込む。その漆黒をキャンバスとして、ドレスの裾やカフス、そしてモデルの髪に挿された鼈甲の櫛に施された蒔絵が、まるで夜空にまたたく星々のように、眩い光を放った。 特に、櫛に描かれた曙光の意匠は、暗闇から生まれる希望そのものだった。 漆黒の星空と、生まれ出る朝日。 最新のデザインで編まれた完璧なドレスと、日本の古い伝統の美。 その対比。 カメラのフラッシュが嵐のように焚かれる。 一瞬、時間が止まったかのような、完全な静寂が会場を支配した。誰もが言葉を失い、その荘厳な美しさに圧倒されていた。 やがて客席の一人から始まった拍手が、瞬く間に熱狂的なスタンディングオベーションへと変わり、会場全体を揺るがす轟音となった。◇ その光景を、東京の薄暗いビジネスホテルの一室で、健斗は見ていた。部屋には安い酒の匂いが立ち込めている。画面のひび割れたスマートフォンで、ショーのライブ配信を見ていたのだ。 小さなスピーカーから、割れた音質の喝采が響き渡る。画面には喝采の中心に立つドレスと、その作者として『SAKURA SAIONJI』の名が大きく映し出されていた。 健斗は、かつて自分が「古臭いガラクタ」と嘲笑した蒔絵のクローズアップを見て、絶句する。 ――美しかった。薄汚い彼の心でさえ、一条の光を感じられるほどに。
last updateLast Updated : 2025-09-22
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30

 ショーの後のアフターパーティは、熱狂の渦の中にあった。会場はファッション業界の頂点に立つ人々で埋め尽くされて、桜は賞賛の言葉を次々と投げかけられていた。「マドモアゼル・サイオンジ、あなたの仕事は伝統への最高の敬意であり、同時に最も美しい裏切りだ。伝統と最先端との融合を、ここまで見事にやってのけるとは。素晴らしい……!」「ありがとうございます」 著名な評論家が興奮した様子で彼女の手を取った。焚かれるフラッシュが眩しく目を焼く。 夢のような光景に、桜は気圧されそうになる。そのたびに隣に立つ玲遠が、彼女の腰を支える手に力を込めた。  彼は桜に殺到する人々を、時に「氷の皇帝」の鋭い視線で、時にスマートな会話術で巧みに捌いていく。彼女が疲弊しないよう、静かな盾となっていた。桜は彼の大きな背中に、大きな安心感を覚えていた。「桜、疲れただろう。そろそろ行こう」 喧騒の合間に、玲遠が桜の耳元で囁いた。  二人は退出の挨拶をして、華やかなパーティの場を離れていった。  これからは二人だけの時間。  ショーの成功の余韻を抱えて、桜は玲遠の存在だけを感じていた。 ◇  数日後、パリのホテルの静かなカフェで、桜と玲遠は穏やかな朝食を取っていた。「まだ夢のようだわ。私たちの蒔絵が、あれほど華やかな舞台で輝いたなんて」「これは始まりに過ぎない。これからもっと多くのチャンスが待っている」 二人は視線を見交わして、微笑み合った。「おはようございます、ムッシュー、マドモアゼル」 声を掛けてきたのは、秘書のイザベルだ。彼女はタブレット端末を玲遠に差し出した。  焼きたてのクロワッサンの香ばしい匂いと、カチャリと響く銀食器の音。  穏やかな朝の空気を破るように、タブレットの画面に表示された見出しが、桜の目に飛び込んできた。『東山ホールディングス、破産申請へ。旧西園寺工房の土地は債権者の手に渡り、近日中に競売予定』「ムッシュー。東山ホールディングスの件、最終報告です。
last updateLast Updated : 2025-09-23
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