翌日、アトリエの前に停まっていたのは、流線形のフォルムを持つクラシックで美しい銀色のクーペ。桜が車の名前も知らないでいると、いつの間にか隣に立った玲遠が後部座席のドアを開けた。「どうぞ」 促されるまま乗り込むと、柔らかな革のシートが体を包む。運転席には寡黙な壮年の男性が座っていた。車は滑るように、パリの石畳の上を走り出した。(これが、彼の世界……) 行き先は知らされなかった。ただ、車は観光客で賑わう大通りを避けてマレ地区の静かな路地へと入っていく。 車を降りた玲遠に導かれ、桜が足を踏み入れたのは、看板もない重厚な扉の向こう側だった。 そこは個人の収集家が営む、完全予約制のアンティーク・ジュエリーのサロンだった。「ムッシュー・ヴァレンティ。お待ちしておりました」 白髪の老店主が深々と頭を下げて、二人を奥の部屋へと案内する。天窓から柔らかな光が降り注ぐ部屋には、美術館のように宝飾品が並べられていた。「ここの主人は、私の母が懇意にしていてね。私も昔、よくデザインの着想を得に来た」 玲遠はそう言うと、一つのネックレスを手に取った。「見てみろ、桜。このエナメルの細工を。百年前の職人が、恋人の瞳の色を再現するために生涯を捧げたと言われている」 商談の目ではなかった。本当に美しいものを前にした、一人の創作者の瞳だった。「美しい色です……」 彼は桜の蒔絵を見るように、一つ一つの宝飾品に宿る物語と職人の魂に敬意を払っている。桜もまた、玲遠の解説に耳を傾けながら、時代を超えて受け継がれてきた「本物」の仕事に心を奪われた。 玲遠はさらに、ベルベットの敷かれたガラスケースの中の一つを指さした。店主が恭しくそれを取り出して、彼に手渡す。それは、手のひらに収まるほどの小さな金の小箱だった。「ルイ16世時代のタバティエール(嗅ぎタバコ入れ)だ。この蓋に描かれた田園風景のミニアチュールを見てみろ。複数の色のエナメルを寸分の狂いもなく焼き付ける、プリカジュールという非常に高度な技法が使われている」 彼の指先が示す小箱の表面には、羊飼いの男女が寄り添う緻密な世界が描かれている。その背景の空の青のどこまでも澄んだ美しさ。「完璧な調和だ。金の彫金とエナメルの色彩、そして描かれた幸福な一瞬。西洋装飾美術の一つの到達点と言える」 玲遠の声には、本物の美に対する純粋な賞
Last Updated : 2025-09-17 Read more