「川口幸絵(かわぐち さちえ)さん、ご逝去後、ご遺体を無償で病院にご寄贈され、胃癌研究に役立てたいというご意思で、間違いありませんか?」 幸絵は受話器を握りしめ、静かに「はい」と答えた。 「病院としましては、献体に対する要件が厳格で、その一つに、一切の薬物治療――痛み止めも含め――を受けられないことが求められます。この過程は非常に苦痛を伴うものとなりますが、本当に覚悟がおありですか?」 「覚悟はできています」 向こう側は一瞬驚いた後、「ご献身に感謝いたします。こちらで登録を承ります。約半月後に再度確認のメールをお送りしますので、ご確認ください」と答えた。 電話を切ると、真っ暗な部屋にはテレビの画面だけがぽつりと光っていた。そこには川口貞弘(かわぐち さだひろ)の医学インタビュー番組の生放送が映し出されていた。 MCが、なぜ彼の胃癌初代分子標的治療薬の特許が「幸絵」という名前なのかを尋ねると、貞弘は微笑んだ。その目には深い愛情が満ちていた。 「家内はよく悪夢を見るんです。自分が胃癌になり、もうすぐだめになるという夢を。私は彼女のためにこそ、癌克服の道を歩んできました。いつか特効薬を開発できれば、たとえ夢の中であっても、彼女がそんなに絶望しなくて済むようにと思ってのことです」 彼らの仲を知る研修医たちは、一様に羨望の表情を浮かべた。 「二年前、奥様が病院まで川口主任をお迎えに来られた時、ちょうど患者トラブルに巻き込まれてしまったんです。刃物が奥様に刺さろうとした瞬間、川口主任が咄嗟に身を挺してそれを押し止めました。刃物が心臓のすぐ脇に刺さって来たその時でさえ、川口主任は奥様の目を優しく覆いながら、『大丈夫、俺がいるから』と言ったんですよ」 「以前川口先生のインタビューでお聞きしましたが、お二人が出会われたのは平波市の豆島だったそうですね。今ではもうカップルたちのホットスポットになってしまって。この前、私と彼氏で写真を撮ろうとしたら、順番待ちでしたよ!」 健康番組はたちまち恋愛トーク番組と化し、MCまでが思わず微笑みながら尋ねた。 「お聞きするところでは、奥様とは幼馴染だとか。さぞかし月のように明るく優しい女性なのでしょうね。それがまさに川口先生の好みのタイプだったのですか?」 その時、ずっと隅で濃いメイクをした研修医が
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