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小舟はここより流れ去り

小舟はここより流れ去り

By:  手本ちゃんCompleted
Language: Japanese
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「川口幸絵(かわぐち さちえ)さん、ご逝去後、ご遺体を無償で病院にご寄贈され、胃癌研究に役立てたいというご意思で、間違いありませんか?」 幸絵は受話器を握りしめ、静かに「はい」と答えた。 「病院としましては、献体に対する要件が厳格で、その一つに、一切の薬物治療――痛み止めも含め――を受けられないことが求められます。この過程は非常に苦痛を伴うものとなりますが、本当に覚悟がおありですか?」 「覚悟はできています」

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Chapter 1

第1話  

「川口幸絵(かわぐち さちえ)さん、ご逝去後、ご遺体を無償で病院にご寄贈され、胃癌研究に役立てたいというご意思で、間違いありませんか?」

幸絵は受話器を握りしめ、静かに「はい」と答えた。

「病院としましては、献体に対する要件が厳格で、その一つに、一切の薬物治療――痛み止めも含め――を受けられないことが求められます。この過程は非常に苦痛を伴うものとなりますが、本当に覚悟がおありですか?」

「覚悟はできています」

向こう側は一瞬驚いた後、「ご献身に感謝いたします。こちらで登録を承ります。約半月後に再度確認のメールをお送りしますので、ご確認ください」と答えた。

電話を切ると、真っ暗な部屋にはテレビの画面だけがぽつりと光っていた。そこには川口貞弘(かわぐち さだひろ)の医学インタビュー番組の生放送が映し出されていた。

MCが、なぜ彼の胃癌初代分子標的治療薬の特許が「幸絵」という名前なのかを尋ねると、貞弘は微笑んだ。その目には深い愛情が満ちていた。

「家内はよく悪夢を見るんです。自分が胃癌になり、もうすぐだめになるという夢を。私は彼女のためにこそ、癌克服の道を歩んできました。いつか特効薬を開発できれば、たとえ夢の中であっても、彼女がそんなに絶望しなくて済むようにと思ってのことです」

彼らの仲を知る研修医たちは、一様に羨望の表情を浮かべた。

「二年前、奥様が病院まで川口主任をお迎えに来られた時、ちょうど患者トラブルに巻き込まれてしまったんです。刃物が奥様に刺さろうとした瞬間、川口主任が咄嗟に身を挺してそれを押し止めました。刃物が心臓のすぐ脇に刺さって来たその時でさえ、川口主任は奥様の目を優しく覆いながら、『大丈夫、俺がいるから』と言ったんですよ」

「以前川口先生のインタビューでお聞きしましたが、お二人が出会われたのは平波市の豆島だったそうですね。今ではもうカップルたちのホットスポットになってしまって。この前、私と彼氏で写真を撮ろうとしたら、順番待ちでしたよ!」

健康番組はたちまち恋愛トーク番組と化し、MCまでが思わず微笑みながら尋ねた。

「お聞きするところでは、奥様とは幼馴染だとか。さぞかし月のように明るく優しい女性なのでしょうね。それがまさに川口先生の好みのタイプだったのですか?」

その時、ずっと隅で濃いメイクをした研修医が、「いいえ、川口先生がお好きなのは、黒いストッキングの、ワイルドなタイプですよ」と艶かしい口元をほころばせて言った。

現場は一瞬気まずい空気に包まれたが、貞弘はまるで聞こえていないかのようだった。

「俺が幸絵を好きなのは、彼女がどのタイプだからではなく、たまたまあの人が彼女だったからなんです」

幸絵はテレビの電源コードを抜いた。すると、広い部屋に突然、機械的な電子音が響いた。

「宿主様、貞弘さんは依然としてあなたを愛しているように見えます。もし後悔されているなら、癌細胞転送プログラムを終了できます。この世界で健康な体を取り戻し、貞弘さんと余生を過ごすことが可能です」

「貞弘のいる場所の映像を映すことはできる?」幸絵は直接には答えず、問いかけた。

システムは数秒躊躇した後、「規則には反しますが、もし宿主様のお考えを変えられるなら、お手伝いいたしましょう」と答えた。

幸絵はうなずくと、貞弘に電話をかけた。

ちょうど健康番組の収録を終え、車中にいる貞弘は、幸絵からの着信を見ると目を輝かせ、口元にかすかな笑みを浮かべた。

「どうした、俺のことが恋しくなったのか?」

「うん、いつ戻ってくる?一緒に食事をしよう。待ってる」

「すぐだよ、今ちょうど車で向かうところさ」

「そうだ、サプライズを用意しているんだ」貞弘は四角い黒ビロードの化粧箱を取り出し、蓋を開けた。中にはブルーダイヤモンドのネックレスが収められていた。

このネックレスは、幸絵がほしい物リストに入れてからずっと気にかけていたものだ。番組の出演料が入るやいなや、貞弘は待ちきれずに購入したのだった。

その時、貞弘は頭の中で、幸絵がこのネックレスを付けてどんなに喜ぶかをすでに想像していた。

すると、システムの声が幸絵の耳元で響いた。

「ほら、彼がまだ宿主様を愛していますと言いましたでしょう」

その言葉が終わらないうちに、キラキラと輝くカラーダイヤモンドのネイルを施した手がそのネックレスを取り上げ、その手の持ち主の首元に当ててみた。

その手の持ち主は、まさに今日「先生はワイルドなタイプが好き」と発言をした研修医だった。

彼女は前襟をわざと深く開け、貞弘の膝の上に座り、黒いストッキングに包まれた脚をその両側にたらしていた。

「私が着けると、似合う?」唇の動きで貞弘に問いかける。

「絵ちゃん、今から車を運転してるから、電話一旦切るよ」貞弘の喉仏がぐっと動き、吐息が一瞬乱れた。

「ちょっと待って」

「どうしたんだい?」貞弘の額に青筋が浮かび、明らかに我慢の限界だったが、それでも幸絵には優しく言った。

隠そうとしているのがわかるほど、電話越しに、幸絵は彼のやや慌ただしい息遣いを聞き取れた。

「貞弘、あなたはずっと私を愛し続けてくれる?」幸絵の胸は締め付けられ、声は自然と沈んだ。

「もちろんだよ。永遠に愛してるよ。裏切ったりするわけないだろう」彼の返答に躊躇はなく、幸絵を愛することはすでに肉体にまで刻み込まれているかのようだった。

幸絵がそっと「うん」と応じると、貞弘はようやく電話を切った。

しかし、投射された映像はまだ続いていた。電話を切った貞弘は、まるで束縛を振り解いた猛獣のように、身にまとわりつく黒い蛇を後部座席に押し倒した。

「俺が幸絵と電話してる時に乗ってくるな!」

「川口先生、どうして家庭的な良い男のふりをしてるの?あなたの幸絵ちゃんは、今あなたが私を押さえつけているって知ってる?」女の指が彼の唇に触れ、挑発的な口調で言った。

「黙れ」貞弘の声は低くかれており、何かを必死に堪えているようだった。

女が言い終わるのを待たず、貞弘は抑えきれずに彼女に唇を落とした。

二人の息が混じり合い、激情の渦巻きに落ちる。

貞弘が手を女の服の中に滑り込ませた瞬間、システムが投射された影像を消した。

幸絵は自嘲気味に口元をわずかに歪め、深く息を吸った。

「これで分かったでしょう、私がなぜ去らなければならないのかが」
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第1話  
「川口幸絵(かわぐち さちえ)さん、ご逝去後、ご遺体を無償で病院にご寄贈され、胃癌研究に役立てたいというご意思で、間違いありませんか?」 幸絵は受話器を握りしめ、静かに「はい」と答えた。 「病院としましては、献体に対する要件が厳格で、その一つに、一切の薬物治療――痛み止めも含め――を受けられないことが求められます。この過程は非常に苦痛を伴うものとなりますが、本当に覚悟がおありですか?」 「覚悟はできています」 向こう側は一瞬驚いた後、「ご献身に感謝いたします。こちらで登録を承ります。約半月後に再度確認のメールをお送りしますので、ご確認ください」と答えた。 電話を切ると、真っ暗な部屋にはテレビの画面だけがぽつりと光っていた。そこには川口貞弘(かわぐち さだひろ)の医学インタビュー番組の生放送が映し出されていた。 MCが、なぜ彼の胃癌初代分子標的治療薬の特許が「幸絵」という名前なのかを尋ねると、貞弘は微笑んだ。その目には深い愛情が満ちていた。 「家内はよく悪夢を見るんです。自分が胃癌になり、もうすぐだめになるという夢を。私は彼女のためにこそ、癌克服の道を歩んできました。いつか特効薬を開発できれば、たとえ夢の中であっても、彼女がそんなに絶望しなくて済むようにと思ってのことです」 彼らの仲を知る研修医たちは、一様に羨望の表情を浮かべた。 「二年前、奥様が病院まで川口主任をお迎えに来られた時、ちょうど患者トラブルに巻き込まれてしまったんです。刃物が奥様に刺さろうとした瞬間、川口主任が咄嗟に身を挺してそれを押し止めました。刃物が心臓のすぐ脇に刺さって来たその時でさえ、川口主任は奥様の目を優しく覆いながら、『大丈夫、俺がいるから』と言ったんですよ」 「以前川口先生のインタビューでお聞きしましたが、お二人が出会われたのは平波市の豆島だったそうですね。今ではもうカップルたちのホットスポットになってしまって。この前、私と彼氏で写真を撮ろうとしたら、順番待ちでしたよ!」 健康番組はたちまち恋愛トーク番組と化し、MCまでが思わず微笑みながら尋ねた。 「お聞きするところでは、奥様とは幼馴染だとか。さぞかし月のように明るく優しい女性なのでしょうね。それがまさに川口先生の好みのタイプだったのですか?」 その時、ずっと隅で濃いメイクをした研修医が
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第2話  
この世界に遷される前、幸絵は末期胃癌の患者だった。 システムは彼女に告げたーー貞弘の攻略に成功すれば、健康な体を得て元の世界に戻れると。 攻略は成功した。しかし彼女は攻略対象である彼を愛してしまった。 システムが元の世界に戻る意思を伺った時、幸絵は躊躇った。 彼女がいなくなると、彼女を自分の命よりも大切にする貞弘が、どう生き延びるか、想像すらできなかったからだ。 一晩中考え抜いた末、彼女はこの世界に残り、貞弘と結婚することを決意した。 結婚して五年、貞弘の彼女への愛情は深まるばかりだった。 地方の名物料理から、高価な宝石、限定版のぬいぐるみまで、幸絵が欲しがるものなら、時間と労力を惜しまず、貞弘は何とかして彼女の手元に届けた。 「若いうちに子供を多目に産んだ方がいいじゃない?」とある時、幸絵はからかわれるように言われた。 「絵ちゃんは痛みに弱いんだ。たとえ子供ができなくても、俺はこれからもずっと彼女を大切にするよ」貞弘は即座に幸絵を擁護した。 二人だけの愛の物語は永遠に続くと思われたが、愛というものが常に流動し、人の思い通りにならないものだと気づかされることになる。 「私は自分の欲張りの報いを全て受け入れる」 「いいえ、宿主様、それはあなたの過失ではありません。お詫びとして、元の世界に戻られても、健康な体でいられることを保証いたします」 「ありがとう、システム」 「絵ちゃん、誰と話しているんだ?」貞弘が不意にドアを開けた。 彼のスーツとシャツは朝出かけた時と同じようにきちんとアイロンがかけられ、一片の皺もなかった。 ただ、彼のものではない香水の匂いが付いており、うつむいた時に開いた襟元から、まばらな引っかき傷がかすかに見えた。幸絵の心は突然沈み込んだ。 「何でもない、オーディオブックを聞いてただけよ」 「悪いな絵ちゃん、遅くなって」彼は罪を償うようにそのネックレスを取り出した。 「長い間欲しがってたけど買えなかっただろう?買ってきたよ、どう?気に入った?付けてあげる」 幸絵は昼間、村田千尋(むらた ちひろ)がそれを胸辺りで弄っていた様子を思い出し、胃のあたりに嫌悪感がこみ上げてきた。 「一ヶ月後は私たちの結婚記念日だし、その日に着けようかな」 「そうだな、その日はどこにも
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第3話  
病院に行く途中、貞弘はアクセルを目一杯に踏み込んだ。黒いランドローバーは矢のように街を駆け抜けていく。 「絵ちゃん、寒くないか?エアコンをつけようか?」彼は幸絵が一緒について来るとは思っていなかった。 「どんなことで、そんなに急いでるの?」幸絵は淡々と聞く。 「病院の研修医だ、千尋って子なんだけど、彼女の母親がまた病院に押し掛けてきてな。 家に連れ帰って、地元のチンピラと結婚させようとしてる」 千尋という名前は、ずいぶん前に貞弘から聞いたことがあったが、その度に彼は嫌悪の表情を浮かべていた。 「あの千尋ったら、患者に注射するのに血管も見つけられないんだ。いったい学校で何を学んでたんだか」 「千尋は今日もまた二分遅刻して、その上口答えまでしてきたんだよ。ここまで手に負えない奴も珍しいよ」 「病院は奇抜な服装禁止って決まってるのに、千尋ときたら、毎回黒ストッキングにミニスカートだ。往来の人がみんな彼女をじろじろと見てるのに!」…… あの時、幸絵は貞弘に「女性にはそんなに厳しくしないで」と注意したものだった。 今思えば、あの時から貞弘はもう彼女に心を動かされていたのだろう。 車は疾風のように走り、すぐに病院に着いた。入口はすでに人だかりができていた。 「絵ちゃん、車から出ないで。俺が中で処理するから」 貞弘は人ごみをかき分けながら中に入ると、千尋は衣服も乱れた状態で地面に座り込んでいた。 一人の男が彼女の腕を掴み、引きずり上げようとしていた。 「彼女に触るな!」貞弘はその男をぐいと押しのけると、自分のジャケットを千尋に掛け、彼女の前に立ちはだかった。顔には曇りがかった表情が浮かんでいる。 「彼女の主任だ。用事があるなら俺に言え」 「主任?俺は彼女の彼氏だ。千尋は俺に600万借りてる。付き合ってた時は金をくれたら結婚するって言いやがって、その金を湯水のように使って、いい男を見つけたってわけか?」やくざ風の男は貞弘をじろりと睨みつけ、冷ややかに笑った。 床に座り込んだ千尋はメイクを崩して泣いており、貞弘を見ると慌ててその胸に飛び込んだ。 「こっちが私の彼氏よ!私の彼氏は私にとっても優しいの!あなたなんて全然知らない!」 「さっき警察を呼ぶって言ってたよな?借用書にはっきりと書いてあるから、ちょ
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第4話  
「おい、はっきり言えよ、誰の女だって?」貞弘は顔を曇らせ、その男に言った。 理由もなく罵倒され、男も少しむっとした様子だったが、振り返ると幸絵の姿が目に入った。 「おっと、絵ちゃんもいるのか」 「お義姉さんって呼べ」 貞弘は幸絵の両親に養子として迎えられ、新しい街に引っ越してきた。 何人もの男の子たちが彼をいじめようとしたが、皆んな彼の命知らずの戦い方に屈服し、最後には良い友人関係を築くようになった。 「みんな夕飯まだだろ?ちょうどいいや、一緒にどこかで食うか?」 「もし連中の騒がしさが嫌なら、家で食べてもいい」貞弘は答えず、代わりに身をかがめて幸絵に小声で言った。 幸絵は傍らに立っている千尋に気づき、「大丈夫、一緒でいいわ」と親切に誘った。 「私なんか行く資格ないですよ、皆さんだけでどうぞ」千尋は貞弘を一瞥し、軽く唇を噛んだ。 「いやいや、一緒に来いよ!人多ければにぎやかでいいだろ!」 一行は個室を押さえ、貞弘はメニューを幸絵の前に差し出して、「絵ちゃん、好きなもの頼んで」と愛想よく言った。 その場にいる人々は、貞弘が妻を寵愛するこの光景にもう慣れているようで、特に何も言わなかった。 ただ千尋だけは冷ややかに鼻を鳴らし、タバコに火をつけた。 「消せ。絵ちゃんはタバコの煙が嫌いだ」貞弘は眉をひそめた。 「それじゃトイレに行きますよ、川口先生」千尋は彼の視線を恐れず、まっすぐに見返した。 千尋が去った後、貞弘は注文を続けたが、幸絵には彼の眉間にいくらかの苛立ちと上の空な様子が見て取れた。 食器が運ばれてくると、貞弘は幸絵のグラスに飲み物を注いだ後、「トイレに行ってくる」と彼女の耳元でそっと囁いた。 側にいた彼の親友たちは、ことごとくひどく楽しそうな表情を浮かべ、中には幸絵に哀れみの眼差しを向ける者もいた。 幸絵は携帯を車に忘れたという口実で個室を離れた。 「こっち来い!」廊下の突き当たりで、貞弘は千尋の顎をつかみ、壁に押し付けていた。 千尋は彼の手のひらに噛みついた。貞弘は「うっ」と声を漏らした。 「本当に野良猫になったのか?」 「野良猫なんて飼い猫にはかなわないわ」 「誰が言った?」貞弘は彼女を洗面台に押し上げ、大きな手で彼女の後頭部を押さえつけた。 二人はすぐに離
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第5話  
再び目を覚ました時、頭上には真っ白な天井が広がり、部屋には誰もいなかったが、ドアの外にかすかな話し声が聞こえた。 幸絵は起き上がり、ドアまで歩いて行くと、ドアノブを回そうとした手が止まった。ドアの外で貞弘が千尋と電話していた。 「彼女別に大したことないでしょ、なんで私のところに来てくれないの?あの赤いホルターミニドレス、私が着るのを見たくないの?今夜来てくれたら着てあげるよ。おもちゃも使い放題だよ」千尋の甘えた声が電話からはっきりと伝わってくる、まるで媚びているようだった。 貞弘が返答する間もなく、幸絵はドアノブを回して外へ出た。 貞弘は彼女を見つけると目を輝かせ、すぐに電話を切りながら彼女を支え、表情は後ろめたさと心配でいっぱいだった。 「絵ちゃん、どうしてベッドから起きてるんだ? 全部俺が悪い。お前の体調が悪いのを見た時、帰らすべきだった。 お前が倒れているのを見た時、俺がどれだけ怖かったか分かるか?絵ちゃん、俺はお前なしではやっていけない。永遠に離れないでいてくれないか?」 幸絵は彼に強く抱きしめられたが、目は虚ろで、顔には何の感動も浮かんでいなかった。 「そうだ、絵ちゃん、もう一つサプライズがある」彼は検査書類の中から一枚のエコー検査報告書を取り出した。「絵ちゃん、お前は妊娠している。俺たちの赤ちゃんが来るんだ」 それを聞いて幸絵は無意識に手をお腹に当てた。指先は少し冷たく、内心は複雑な思いでいっぱいだったが、母親になる喜びだけは感じられなかった。 後一ヶ月しかないから、この子には、最終的にこの世界に来て彼女を母親と呼ぶチャンスがないことを彼女は知っていたからだ。 貞弘は幸絵の沈黙を、初めて母親になることへの不安だと思い込んだ。 彼は自分の手を彼女の手の上に重ね、「これは俺たちの最初の愛の結晶だよ、絵ちゃん。俺、良い父親になるように努力するから」と優しく囁いた。 幸絵が言葉を発しないのを見て、貞弘は愛想よく弁当箱の蓋を開けた。 中には湯気が立つ海鮮粥が入っていた。 幸絵が一向にスプーンを手に取らないのを見て、貞弘は軽く眉をひそめ、「わざわざ行列に並んで買ってきたんだよ。どうして食べないの?」と優しい声で言った。 「忘れたの?私はずっと前から海鮮アレルギーなのよ」幸絵は視線をそらし、淡々と言っ
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第6話  
貞弘は素早く携帯電話を手に取り、洗面所に駆け込んだ。 数分後、貞弘が出てきて、顔色の蒼い幸絵を見ると、やや言いづらい様子で口を開いた。 「絵ちゃん、友達から緊急の用事で呼び出されてる。すぐに向かわないと。デリバリーを注文するから、いいか?」 「とても大事な用事なの?」彼女は男の目をじっと見つめ、静かに尋ねた。 貞弘は少し躊躇い、そして、「ああ、大事な用事だ。絵ちゃんは良い子にしてて、終わったらすぐに戻るから、いいか?」と優しく宥めるように言った。 「わかった、行ってきて」幸絵はうなずいた。 貞弘の足音は次第に遠のいていった。 窓の外では、餌を探していた二羽の雀が驚き、別々の方向へ飛び立った。 貞弘が去った後、幸絵は点滴の針を抜いた。 彼女の病気はシステムが設定したもので、病院では検査できず、まして治せるものではない。 彼女は一人でコートに身を包み、ゆっくりと病院を後にした。 初冬の夜風が落ち葉を巻き上げ、寂しさを添えるように、またまるで内臓に吹き込むようで、幸絵は目を開けていられなかった。 しばらくして、彼女は遅ればせながら頬を拭った。 身体の記憶はまだ習慣的に悲しんでいたが、おそらくは離れると決心したためか、これらのものはもう彼女を傷つけることはできなかった。 夕暮れ時はタクシーが捕まえにくく、彼女はまる二キロも歩いた。冷たさが足底から少しずつ彼女の生きる気力を蝕んでいく中、ようやく一人の女性ドライバーが彼女を乗せてくれた。 幸絵の水死者のような青白い顔を見て、ドライバーは気遣って車内のエアコンの温度を上げた。 「お嬢さん、彼氏と喧嘩でもしたの?折れる時は折れた方がいいよ。ちょっと甘えれば、彼も迎えに来て、そして仲直りしてくれるよ」 幸絵はただ苦笑いするしかなかった。割れた鏡は元に戻せないように、彼女と貞弘も、もう二度と元には戻れないのだ。 家に着くと、幸絵は千尋から送られてきた写真を受け取った。 仄暗い灯光の下、白いシーツは皺くちゃに丸められ、さっき行われた情事の激しさを物語っているようだった。かすかに大きな水染みも見えた。 【今日彼が私の体が最高だって言うから、私もあなたも最高だよって返したの】 だが幸絵はもうそんなことは気にしていなかった。彼女は携帯を置くと、手持ちのお金と
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第7話  
「川口先生がどれだけ堅物で、奥さんをどれだけ愛してるかと思ってたけど、所詮そんなものなのね」千尋の軽薄な声が流れてきた。 「黙れ!俺は絵ちゃんを愛してる、ただ……」貞弘の声は、見抜かれた後の恥じらいと怒りが混じっていた。 「ただ私の体の方がもっと好きって言いたいの?セックスと愛は別物だなんて信じないわ」 しばらくして、貞弘はそっとため息をついた。 「絵ちゃんは、今年で34歳だ。彼女のお腹にはぜい肉がつき始め、肌もだんだんたるんでくる。笑う時の目の端の皺も見える。彼女は何度も子供が欲しいと言ってくれたが、俺は怖かった。彼女のすべすべしたお腹に醜い傷跡が残ると思うと……吐き気がする」と彼はまるで自分自身に呟くように続けた。 「吐き気がする」という言葉は、厚い繭を切り裂く刃のようだった。幸絵は長い間その中に閉じ込められ、ほとんど窒息しそうになっていた。 かつて一瞬、貞弘の優しさと裏切りの氷と火の二重地獄の中で、彼女はぼんやりと考えた――もしかすると自分にどこか足りないところがあったのかもしれない、と。たとえそれが自らを傷つける行為だと分かっていても。 今、彼女はついにその呪縛から解放され、新鮮な空気を深く吸い込みながら自分に言い聞かせた――違う、腐ったのはあの男だ、あなたは何一つ間違っていない。 「何を見てるの?どうして泣いてるの?」貞弘が近づいてきた瞬間、幸絵はスマートフォンの画面を消し、ティッシュを取って涙をぬぐった。 「妊娠してると情緒が不安定になるのかな?」貞弘は後ろから彼女を抱きしめ、一冊の旅行ガイドを彼女の前に置いた。 ページをめくると、そこには最近幸絵が旅行番組で興味を示した街々が並んでいた。 貞弘は色とりどりのペンで入念にメモを付け、幸絵の好みに合わせて旅行ルート、レストラン、宿泊施設を計画していた。 「絵ちゃん、ここ数日俺が忙しすぎてね。来週は俺たちの結婚記念日だ、二人で旅行に行って、最後の二人きりの時間を過ごそうか?」 幸絵はカラフルなメモを見つめた。彼はホテルまで予約してあった。 しかし彼女は突然思い出した――千尋が送ってきた写真の中に、予約したホテルのスクリーンショットが数枚混ざっていたことを。それはまさに貞弘のメモに記入された部屋番号の隣だった。 「二人きりの世界には、余計な三人目は
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第8話  
貞弘は硬直しながら振り返り、いつの間にか幸絵が彼の後ろに立っているのに気づいた。 「絵ちゃん、説明を聞いてくれ。俺は本当に彼女を妹のように思ってるんだ、お前が思ってるような関係じゃない」彼は慌てて千尋を抱いていた腕を離し、彼女はほとんど転びそうになった。 「私、妊娠しましたの。この前川口先生に助けていただいたので、子供を連れてお礼に来たんです」千尋はお腹を押さえ、不満そうな表情で立ち上がった。笑ってはいたが、目には挑発が満ちていた。 「そう、それはおめでとう」幸絵は千尋を長い間見つめた後、平静に言った。 「この子もいつか川口先生をお父さんと呼ぶかもしれませんね!」 「千尋、何てデタラメを言ってるんだ!」貞弘は突然声を荒げ、その口調は緊張と怒りに満ちていた。 「仮親でもだめですか?」怒鳴られた後、彼女は悔しそうにまばたきをした。 幸絵は突然激しく咳き込み始め、額にも冷や汗がにじみ出た。 貞弘は初めて気づいた――幸絵が前回気絶して以来、彼女の顔色はずっと優れず、体もますます痩せ細り、まるで一枚の紙のように、風が吹けば倒れてしまいそうだった。 貞弘は上着を脱いで彼女に渡し、心配そうな表情は偽りではなさそうだった。 「朝はこんなに寒いんだから、さっさと中に入りなよ」 「中に招いて座ってもらうのは遠慮するわ」幸絵は顔を上げ、満面の不満そうな千尋を淡々と見つめ、静かに言った。貞弘は幸絵を支えて家に入ったが、背後から千尋が慌てふためいた声が聞こえた。 「川口先生、私を家まで送ってくれないんですか?お腹が……」 「黙れ!」貞弘は陰鬱な表情で彼女を遮り、幸絵を抱きながら容赦なくドアを閉めた。 朝食の間中、貞弘はどこか上の空で、絶えず携帯電話を取り出してはメッセージを確認していた。 「用事があるなら、行って処理してもいいよ」と幸絵が言うと、「せっかくの休みだ、今日一日は俺の絵ちゃんと一緒に過ごすんだ」貞弘はようやく携帯を置き、幸絵の手を握った。 幸絵の平静な顔を見て、貞弘はなぜか一抹の緊張感が胸に湧き上がるのを感じた。幸絵が彼を見る目には、まるで輝きがなくなったかのようだった。 「豆島には久しぶりだな、また行こうか」と幸絵が言った。 豆島は、幸絵と貞弘が初めて出会った場所だった。 貞弘は内心ほっとした。幸絵はま
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第9話
幸絵の冷淡な視線が彼の上に落ち、声には一欠片の悔しさや不満も感じられなかった。 「いいよ」と彼女は言った。 ふと、貞弘は心にぽっかり穴が空いたような気がした。しかし慌ただしい着信音が再び鳴り響き、彼は詳細を追究する暇もなく、急いで車で去って行った。そして心の中で静かに誓った――次こそは必ず幸絵のそばにいようと。 貞弘が去るとすぐに、列は幸絵の番になった。 彼女の後ろにいたカップルがおどおどした様子で、写真を撮るかどうか尋ねた。必要なら彼女のために写真を撮ってもいいと。 幸絵は苦笑いしながら首を振った。 彼女は傍らのベンチに座り、日が沈むまで待った。写真を撮る人々が皆去った後、ようやく業者を呼んであの話題看板を撤去させた。 「お嬢さん、彼氏と喧嘩したの?每日あの看板と記念写真を撮る人はたくさんいるんだよ、なんで撤去するの?」通りかかった数人の通行人が足を止めて尋ねた。 「そうだよ、この看板に書かれた男性は彼女にとっても優しくて、命を懸けて彼女を守ったんだって。カップルがこの看板のところで写真を撮ると、ずっと幸せでいられるんだよ!」 幸絵は苦々しく口元をわずかに緩めた。過ぎ去ったいろんなことは、まるで夢のようであり、はかなく消える露のようであり、また一瞬で過ぎ去る稲妻のようだった。 周囲の人々は幸絵が黙ったままであるのを見て、密かに「頭がおかしい」と罵った。 「君はただ彼らが羨ましいんだろ?ネットで炎上したら、すぐに懲りるようになるさ。その時には大人しく看板を返しに来るよ」と言って、携帯電話を取り出して動画を撮る者もいた。 幸絵が家に着いたのはとても遅い時間で、貞弘はまだ帰宅していなかった。 千尋が破ったコンドーム包装紙と貞弘の眠っている横顔の写真を送ってきた。【今日私の産婦人科検診に付き添ってくれたの。胎児の映像を見た瞬間、彼はとても喜んでたよ。それに妊娠中なのに、何度も私を求めてきたの。今終わったばかりで疲れて眠ってるから、結局私の勝ちね!】 幸絵は千尋の挑発を無視し、家の中の自分のものを全て処分した。 12個のウサギのぬいぐるみは、最後に残った一個を除いて全て売却済みだった。 幸絵はアカウントのお金を躊躇なく全部慈善団体に振り込み、最後にそのウサギのぬいぐるみを手に取り、静かにゴミ箱の前に立った。
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第10話
「大したことないわ、多分詐欺メールよ」幸絵は何ともなく携帯電話を受け取り、画面を消した。 貞弘は幸絵をじっと見つめて、そこで初めて気づいた――彼女の顔は青白く、頬骨はこけ、全身に活気がなく、まるで軽く押せば、彼女は永遠に倒れてしまうかのようだった。 貞弘は医師として、数多くの死別を見てきた。今の幸絵の様子は、なぜかまもなく世を去ろうとする重病患者を連想させた。 彼はベッドの前に跪き、彼女の冷たい手を握り、自分がわけもなく非常に慌てているのを感じた。 「絵ちゃん、顔色がとても悪いよ。病院で診てもらおうか?」そう言うと、彼は幸絵の服を探し、上着を取ろうとした。彼自身も気づいていなかったが、これらのことをしている間、彼の手はずっと震えていた。 どう言うわけか彼の絵ちゃんがもうすぐ自分から離れてしまうような気がした。 幸絵はまるで人形のように、そこに座り、彼に服を着せられても一言も発せず、ただじっと彼を見つめていた。「絵ちゃん、診療の予約を取ってあげる」 その時、彼の携帯電話が再び鳴り響いた。 貞弘は一瞬躊躇し、そして切った。 しかし間もなく相手がしつこくかけ直してきた。静かな部屋では、それはまるで呪文のように不気味だった。 「電話、出ていいよ」幸絵は口元をわずかに緩めた。声はか細く、まるで息も絶え絶えのようだった。 なぜか貞弘は怒りを感じた。全てこの電話のせいだ。これが何度も俺を幸絵のそばから引き離す原因なんだ。 「これ以上俺に連絡するな!消え失せろ!」彼は通話ボタンを押し、制御できないほど相手に向かって叫んだ。 「貞弘、私、転んでしまって、たくさん血が出て、どうしよう」 千尋の泣き声が電話から伝わってきた。貞弘は猛然と幸絵を見上げた。しかし彼女はあらかじめ予測していたかのように落ち着いていて、「行っていいよ、私は大丈夫」と彼にそっと言った。 「絵ちゃん、俺はちょっとだけ行く。すぐに戻るから、約束する!」貞弘は両手を拳に握りしめ、今や彼はもう幸絵の表情を見る勇気がなかった。 貞弘は心の中で密かに決意した。今回は千尋を病院に送ったら、すぐに幸絵のところに戻ろうと。 車の鍵を持って出かけようとした時、幸絵が突然彼を呼び止めた。 「あのネックレスを付けてくれない?今日は私たちの結婚記念日だから」
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