「佐藤先生、海外での手術日程を手配していただけますか?」水島結衣(みずしま ゆい)はひとり暗がりに座り、窓の外を見やりながら静かに言った。「わかりました。二週間後ならちょうど時間が取れます。もし急ぎでなければ一か月後でも……」結衣はそこで彼の言葉を遮る。「いいえ、二週間後でお願いします」電話の向こうで、医師の佐藤直樹(さとう なおき)は一瞬、言葉を失った。彼には腑に落ちない。結衣が乳がんと診断されて以来、彼は幾度となく海外での専門治療を勧めてきたのに、結衣は、篠原晃(しのはら あきら)のそばにいたい一心で手術を拒み、薬で抑えるだけにしてきたのだ。「佐藤先生、このことは晃には言わないでください」直樹はすぐに応じた。「わかっています。篠原さんに心配をかけたくないんですよね。手術が終われば、すぐ帰国して静養できますよ」結衣はそれ以上何も言わず、手術の細かな日程を確認すると電話を切った。月明かりに目を慣らし、部屋をぐるりと見渡す。ここに自分の物はほとんどない。二週間あれば、この家に刻んだ五年分の痕跡だって消せる。もうすぐ去るのだと思うと、結衣の胸は大きな手で締めつけられたように痛み、息が詰まった。――カチッ、と音を立てて、酔いの覚めた晃がリビングの灯りをつけた。晃はくらむこめかみを押さえながら結衣に気づき、わずかに眉をひそめて、何気ない調子で問いかけた。「どうして灯りもつけずにここにいるんだ?」結衣は、五年間の夜ごとに何度も指先でなぞってきたその顔を見つめ、胸の奥がふと揺らいだ。もしかしたら、今度こそ彼は気にかけてくれるのかもしれない。唇がかすかに動いた。胸いっぱいの期待を込めて結衣は声を発した。「晃、この前、私は病院で検査を受けて……」その言葉は、唐突な着信音にかき消された。晃がスマホの画面をのぞき込んだ途端、さっきまでの険しい表情が一気にやわらぐ。「莉子、どうした?」「お兄ちゃん、家の電気が急に消えちゃって……どうしたらいいの、こわいよ、うう……」甘ったるい声が受話口から流れてくる。その声が月本莉子(つきもと りこ)のものだと気づいた瞬間、結衣の鼓動は激しく跳ね上がった。彼女は晃の表情を食い入るように見つめる。そこに浮かんだ緊張の色を目にしたとたん、さきほど揺らいだ心は再び固く定まった。
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