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彼にとっての億分の一

彼にとっての億分の一

By:  晴天に会うCompleted
Language: Japanese
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初恋を手放した先に、人生のパートナーを見つけた。

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Chapter 1

第1話

「佐藤先生、海外での手術日程を手配していただけますか?」

水島結衣(みずしま ゆい)はひとり暗がりに座り、窓の外を見やりながら静かに言った。

「わかりました。二週間後ならちょうど時間が取れます。もし急ぎでなければ一か月後でも……」

結衣はそこで彼の言葉を遮る。

「いいえ、二週間後でお願いします」

電話の向こうで、医師の佐藤直樹(さとう なおき)は一瞬、言葉を失った。彼には腑に落ちない。結衣が乳がんと診断されて以来、彼は幾度となく海外での専門治療を勧めてきたのに、結衣は、篠原晃(しのはら あきら)のそばにいたい一心で手術を拒み、薬で抑えるだけにしてきたのだ。

「佐藤先生、このことは晃には言わないでください」

直樹はすぐに応じた。

「わかっています。篠原さんに心配をかけたくないんですよね。手術が終われば、すぐ帰国して静養できますよ」

結衣はそれ以上何も言わず、手術の細かな日程を確認すると電話を切った。

月明かりに目を慣らし、部屋をぐるりと見渡す。ここに自分の物はほとんどない。二週間あれば、この家に刻んだ五年分の痕跡だって消せる。

もうすぐ去るのだと思うと、結衣の胸は大きな手で締めつけられたように痛み、息が詰まった。

――カチッ、と音を立てて、酔いの覚めた晃がリビングの灯りをつけた。

晃はくらむこめかみを押さえながら結衣に気づき、わずかに眉をひそめて、何気ない調子で問いかけた。

「どうして灯りもつけずにここにいるんだ?」

結衣は、五年間の夜ごとに何度も指先でなぞってきたその顔を見つめ、胸の奥がふと揺らいだ。もしかしたら、今度こそ彼は気にかけてくれるのかもしれない。

唇がかすかに動いた。胸いっぱいの期待を込めて結衣は声を発した。

「晃、この前、私は病院で検査を受けて……」

その言葉は、唐突な着信音にかき消された。晃がスマホの画面をのぞき込んだ途端、さっきまでの険しい表情が一気にやわらぐ。

「莉子、どうした?」

「お兄ちゃん、家の電気が急に消えちゃって……どうしたらいいの、こわいよ、うう……」

甘ったるい声が受話口から流れてくる。その声が月本莉子(つきもと りこ)のものだと気づいた瞬間、結衣の鼓動は激しく跳ね上がった。彼女は晃の表情を食い入るように見つめる。そこに浮かんだ緊張の色を目にしたとたん、さきほど揺らいだ心は再び固く定まった。

晃は養子で、莉子は彼の養父母の実の娘。箱入りで育ち、のちに留学したが、半年前にその両親が亡くなり、弔いのために帰国していた。

「莉子、落ち着いて。すぐ行くから」

晃は二、三言なだめると電話を切り、コートをつかんで玄関へ飛び出そうとした。

結衣が淡々と声をかける。

「待ってるから……戻ってくるよね?」

出ることに気を取られた晃は、いつもと違う声音に気づかなかった。

彼は気のない返事だけを残した。

「うん」

扉が閉まり、部屋はまた静けさに沈む。

結衣は動かず、夜明けまでそのまま座り続けた。空が白み、陽の光が肩に落ちても、彼は戻らなかった。

スマホの画面がふっと明るむ。通知は、優先通知に設定している莉子からだ。

彼女のSNSには、晃が彼女の膝に頭を預けて眠る横顔の写真が上がっていた。添えられた言葉は【神さまのめぐみに感謝。世界には、私を愛してくれる人がまだいる】

間を置かず、今度は晃の返信の通知が届く。

【いつだってそばにいるよ】

結衣は無表情のまま視線を落とし、胸の奥に残っていた最後の未練が音もなく消えていくのを感じた。

彼女は冷静に二人をブロックし、こわばった体を引きずりながら壁際のカレンダーに向かった。出ていく日に、静かに丸をつける。

結衣は心の中で思いめぐらせた。残された二週間で、せめてすべてにけじめをつけてから、この場所を去ろうと。

晃のことは、もう二度と追いかけない。結衣はそう心に決めた。本当に、もう疲れ果ててしまったのだ。
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第1話
「佐藤先生、海外での手術日程を手配していただけますか?」水島結衣(みずしま ゆい)はひとり暗がりに座り、窓の外を見やりながら静かに言った。「わかりました。二週間後ならちょうど時間が取れます。もし急ぎでなければ一か月後でも……」結衣はそこで彼の言葉を遮る。「いいえ、二週間後でお願いします」電話の向こうで、医師の佐藤直樹(さとう なおき)は一瞬、言葉を失った。彼には腑に落ちない。結衣が乳がんと診断されて以来、彼は幾度となく海外での専門治療を勧めてきたのに、結衣は、篠原晃(しのはら あきら)のそばにいたい一心で手術を拒み、薬で抑えるだけにしてきたのだ。「佐藤先生、このことは晃には言わないでください」直樹はすぐに応じた。「わかっています。篠原さんに心配をかけたくないんですよね。手術が終われば、すぐ帰国して静養できますよ」結衣はそれ以上何も言わず、手術の細かな日程を確認すると電話を切った。月明かりに目を慣らし、部屋をぐるりと見渡す。ここに自分の物はほとんどない。二週間あれば、この家に刻んだ五年分の痕跡だって消せる。もうすぐ去るのだと思うと、結衣の胸は大きな手で締めつけられたように痛み、息が詰まった。――カチッ、と音を立てて、酔いの覚めた晃がリビングの灯りをつけた。晃はくらむこめかみを押さえながら結衣に気づき、わずかに眉をひそめて、何気ない調子で問いかけた。「どうして灯りもつけずにここにいるんだ?」結衣は、五年間の夜ごとに何度も指先でなぞってきたその顔を見つめ、胸の奥がふと揺らいだ。もしかしたら、今度こそ彼は気にかけてくれるのかもしれない。唇がかすかに動いた。胸いっぱいの期待を込めて結衣は声を発した。「晃、この前、私は病院で検査を受けて……」その言葉は、唐突な着信音にかき消された。晃がスマホの画面をのぞき込んだ途端、さっきまでの険しい表情が一気にやわらぐ。「莉子、どうした?」「お兄ちゃん、家の電気が急に消えちゃって……どうしたらいいの、こわいよ、うう……」甘ったるい声が受話口から流れてくる。その声が月本莉子(つきもと りこ)のものだと気づいた瞬間、結衣の鼓動は激しく跳ね上がった。彼女は晃の表情を食い入るように見つめる。そこに浮かんだ緊張の色を目にしたとたん、さきほど揺らいだ心は再び固く定まった。
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第2話
結衣は病院へ向かった。医師から自分の診療記録を受け取り、直樹に送って所見を仰ぐつもりだった。エレベーターが三階で止まり、扉が開いた。そこには、莉子が力なく晃の胸にもたれかかっていた。視線がぶつかった瞬間、三人とも固まった。腫瘍内科は五階にあるが、結衣は病気のことを晃に知られたくなくて、そのまま一歩踏み出し、エレベーターを降りた。降りてから気づいたが、三階は産婦人科だった。結衣は信じられない思いで振り返り、晃と莉子を見つめる。晃が何か言いかけたところで、莉子が先に声をあげる。「結衣、どうして産婦人科に?もしかして、妊娠したの?どうりで下腹が少しふくらんできたと思ったわ。三か月くらいかしら。お兄ちゃん、おめでとう。でも……赤ちゃんができても、私のことは見捨てないでね」赤く泣きはらした目のまま、莉子は晃の上着の裾をそっとつまみ、か細く続ける。「私には、もうお兄ちゃんしか家族がいないの」晃の顔色がみるみる沈んだ。半年前に莉子が帰国してから、仕事に追われ、莉子の相手もし、結衣には半年触れていなかった。それなのに、妊娠?誰の子だ。「説明してくれ」細めた目、歯の隙間から冷たくこぼれる短い言葉。晃はまるで犯人を取り調べるかのように、鋭い視線で結衣を射抜いた。結衣の胸はひりつくように痛み、心の中で自分の不甲斐なさを罵った。二年ものあいだ晃を追いかけ続けて、ようやく彼が自分との交際を受け入れてくれたというのに。あの日の浮き立つ気持ちは、永遠に忘れられないのだ。彼の首に腕を回して跳ねるように抱きつき、結衣は胸を弾ませながら叫んだ。「ずっと一緒にいる、ずっと」それからの結衣は、晃のあとを追いかける子どものようになった。年収一千万円を超える仕事を辞め、彼の会社に入り、ごく普通の一社員として一からやり直した。晃は特別に抜擢しようとしたが、結衣は言った。「晃、私は自分の力で、あなたの隣に立ちたい。あなたを困らせたくないの」結衣は一年もかからず実力だけで下積みから彼の専属秘書にまで昇りつめた。けれど二人が付き合っていることを知る者は誰ひとりいない。晃の養父母が事故で亡くなり、彼はその事業をすべて引き継いだ。私情を持ち込んでいると言われないよう、養父母の遺したものを汚さぬように、二人の関係は秘められたままだった。そのころ結衣
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第3話
結衣は馬鹿げて笑えるとしか思えなかった。最初から最後まで、莉子に視線すら向けていないのに、どうして晃は、自分が彼女を敵視しているなどと思うのだろう。結衣が心から気にかけ、大切にしてきたのは、いつだって晃ひとりだ。けれど今は、その晃さえ、もういらないと彼女は決めた。もう二人のくだらない言い合いを聞く気もなければ、産婦人科に何の用があるのかも気にしない。結衣は背を向け、その場を立ち去ろうとした。晃は理由のない胸騒ぎに襲われ、このまま何もしなければ結衣を失う――そんな予感に突き動かされて、彼女の手首をぐっとつかんだ。「どこか、具合が悪いのか?」と訝しむように問いかける。晃の腕に抱かれた莉子が、結衣を鋭くにらみつける。結衣は口の端をわずかに上げ、晃を見返した。「じゃあ、私と行くの?」晃の体が硬直した。腕に抱えた莉子を見下ろし、思い悩んでどうすればいいのか分からなくなる。そのとき、莉子が突然、苦しげな声をあげた。「お兄ちゃん、お腹、すごく痛い……死んじゃいそう。私、このままパパとママのところへ行っちゃうのかな。うう……いやだ。お兄ちゃん、あなたを置いてなんていけない……」晃はたちまち慌てふためき、結衣の手首を放すと、莉子を横抱きにして足早にエレベーターへと向かった。「馬鹿なことを言うな。まずは医者の言うとおり、エコー検査を受けよう」と、彼は低く優しくなだめた。エレベーターの扉がゆっくり閉まりゆくその瞬間になって、晃はようやく外に残された結衣のことを思い出す。狭い隙間から見えたのは、嘲りの色を浮かべた彼女の顔だった。結衣は扉の外に立ち尽くし、二人が去っていくのを見送った。やがて背を向け、階段へと足を踏み入れる。言葉もなく、静かに五階へと歩を進めていった。涙は音もなくこぼれ落ちる。捧げた五年の青春は、結局、すべて無駄だったのだ。結衣は、五年間すべてを懸けて晃を愛し抜いた自分が、あまりに不憫だと感じた。――夜。結衣はテーブルに座り、納豆ご飯をかき込んでいた。珍しく晃が早く帰ってきた。玄関を開けた瞬間、納豆の匂いが部屋に充満し、晃は思わず顔をしかめ、吐き気を覚えるほどだった。彼は昔から納豆が苦手で、匂いをかぐだけで耐えられないのだ。けれど結衣は知らぬ顔で、両手で茶碗を抱えたままカーペットに座り、バラエティ番組を見
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第4話
結衣は軽く眉を上げ、茶碗の底までさらうと、口を開く。「あなた、食べないんじゃなかったの?」「急に、食べてみたくなった」結衣は立ち上がり、晃の「囲い」からするりと抜け出す。声は淡々としていた。「もういいの。あなたが自分を変える必要はないって、今日ようやく分かった。無理に結びつけた縁は甘くならない。今のままでいい」得体の知れない不安がまた晃の胸に押し寄せる。彼は立ち上がって結衣の前に回り込み、顔を傾けてまっすぐその瞳をのぞき込んだ。「昨夜、何を言おうとしてた?」結衣の脳裏に、昨夜の光景がよぎった。彼女は晃の約束を信じて一晩中待ち続けたのに、返ってきたのは彼と莉子の親しげな投稿だった。結衣は口元だけで笑った。「何でもないわ。体調を整えることよ」晃は、五年を共にしてきた結衣を目の前にしながらも、なぜか遠くへ隔てられているように感じていた。確かにそこに立っているのに、今にも自分の手の中からこぼれ落ちてしまいそうだった。衝動に駆られた晃は、思わず大きな腕で結衣を強く抱き寄せる。自分をなだめるように、そして彼女に約束するかのように、低く囁く。「結衣、両親が急に亡くなって、莉子には支えが必要なんだ。余計なことは考えるな。彼女の気持ちが落ち着いたら、俺たちは公表する」以前の結衣なら、この言葉に胸を震わせただろう。けれど今は、ただ離れたい。だから、これまでのように汲み取って飲み込むのではなく、彼女はまっすぐ切り込む。「莉子はいつ落ち着くの?一生落ち着かないなら、私たちは一生、公表しないの?」晃の腕が緩み、眉間に深い皺が刻まれる。険しい目つきで結衣をにらみつけ、苛立ちを隠さず吐き捨てた。「お前、いったいどうしたんだ。莉子が帰ってきてから、お前は変わった。俺はもう手一杯なんだ。これ以上、掻き乱すな」結衣はそっと彼を押し離し、食器を流しで洗い、棚に戻してから、短く応じた。「分かった。もう掻き乱さないわ」晃の眉間の皺がふっと緩んだ。「やっぱりな。お前は一番分かってくれると思ってた。すべて片づいたら、必ずお前に……」そこへ、また莉子からの助けを求める電話が入った。晃は再び呼び出された。だが今度の結衣は何も言わなかった。ただ静かに上着を手渡し、玄関まで送り出した。彼の訝しむ視線を受けて、ただ一言。「晃、私は
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第5話
莉子が帰国したとき、晃は結衣を連れて空港へ迎えに行った。その場で結衣が自分の恋人だとはっきり紹介した。そのときの莉子は一瞬だけ驚いたものの、すぐに受け入れて、「これからは仲よくしようね」と口にした。だが、莉子の厄介な振る舞いは止まらなかった。結衣は何度も飲み込み、こらえ続けたが、ついに限界を迎え、晃と繰り返し激しく言い争うようになった。やがて、莉子に関わることがあれば、そのたびに結衣は晃に言葉をぶつけずにはいられなくなった。そんな結衣が、急に態度を変えた。その変化に、晃はすぐには馴染めなかった。だが、彼女がようやく吹っ切れて、もう細かいことにこだわらなくなったのだと彼は思い込み、それ以上深くは考えなかった。莉子はぱちぱちと瞬きをし、無邪気そうな顔で言う。「結衣、黙ってるってことは怒ってるの?怒ってるなら、私ここには座らないよ。ただ、知らない場所で一人だとこわくて、お兄ちゃんの近くにいたいだけなの」手放すと決めた結衣は、もう莉子を甘やかすつもりはない。「私が不機嫌なのを分かってて、どうしてそこに居座るの?」満面の笑みだった莉子の顔が、ぴたりと固まった。結衣がこんなふうに言い返したのは初めてだった。これまではどれほど挑発しても、結衣はいつも穏やかで優しかったからこそ、莉子はますます図に乗っていたのだ。けれど莉子はすぐに思い直した。むしろ好都合じゃないか。これでお兄ちゃんに、結衣の本性をはっきり見せられる。莉子の目からはたちまち涙があふれ、二筋の雫が頬をつたう。悲しげな声で言う。「私が悪かったの。ここにいるべきじゃなかった。結衣、安心して。すぐにまた海外に行くから、だから怒らないで、ね?」晃は鼻を鳴らし、低い声に不快の色をにじませた。「莉子を呼んだのは俺だ。文句があるなら俺に言え。彼女を責めるな」結衣は拳を固く握りしめ、爪が掌に食い込み、鋭い痛みがじわじわ広がっていった。胸の痛みがほんの少し和らぐのを感じながら、冷えた視線を晃に突きつける。「社長、会議の時間です」不意を突かれたその一言に、晃の怒りは喉に詰まり、吐き出すことも飲み込むこともできなくなった。結局、莉子を連れて会議室へ向かうしかなかった。出ていく間際、振り返りざまに結衣へ言いつける。「アイスアメリカーノを一杯買ってきて、会議室に持っ
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第6話
莉子の頬にようやく引いた赤みが、またたちまち戻った。彼女は晃をちらりと見てから、気恥ずかしそうに身をもじもじさせ、口を開く。「田中さん、からかわないでください。そんなこと、私にはまだ早いです」田中俊弘(たなか としひろ)取締役はからからと笑い、いかにも意味ありげに言う。「分かってるさ。莉子、もう心に決めた相手がいるんだな。なら余計なお節介はしないでおこう。篠原社長、祝言はいつだ?身内同士なら、これ以上ない良縁じゃないか」先ほどまで満足げだった晃の表情が、はっと曇る。彼は険しい顔つきになり、きっぱりと言う。「田中取締役、その手の軽口は控えてください。莉子は俺の妹です」莉子の頬から羞恥の色がすっと消え、無理に笑みを貼りつけてうなずく。「お兄ちゃんの言うとおりです。田中さん、まだ何も決まっていませんから」俊弘は晃の言葉にたじろぎ、思わず自分が失言したのではと身構えた。だが、莉子の口ぶりを聞くうちに、「兄妹」という立場がある以上、軽々しく触れてはならないと感じつつも、どこか腑に落ちないまま、探るように晃へ問う。「篠原社長には、もうお付き合いしている方がいらっしゃるのですか?」晃は振り返り、結衣にちらりと視線を送り、うなずこうとする。だがその瞬間、隣の莉子が割り込むように声を上げる。「お兄ちゃんは会社のことに追われていて、恋人を作る暇なんてないんです。もしできたら、私が真っ先に田中さんに報告します。ねえ、お兄ちゃん?」晃は眉をわずかにひそめた。莉子は結衣が自分の恋人だと知っているはずだ。事情が片づけば公表する、と自分の口から伝えてもある。なのに、なぜこんなことを言うのか、晃には理解できなかった。だが、頼りなげで哀れな表情を浮かべる莉子を目にすると、まだ両親を亡くした悲しみから立ち直れず、彼の慰めを求めているのだろうと考え、晃はそっとうなずいた。これまで「恋人はいるのか」と問われても、晃は決して答えなかった。今回が初めての返答だったが、それは、結衣が五年間捧げてきた想いを真っ向から否定するものだった。晃は振り返ることができなかった。だからこそ、彼のその仕草によって、結衣の瞳にかすかに残っていた愛が静かに消えていくのを目にすることもなかった。やがて会社には噂が立つ。晃は長年、身を慎んでいた。それは莉子の帰国を待ってい
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第7話
晃は胸のつかえをそのまま言葉に乗せ、わざと棘のある言い方で結衣を刺した。だが、事の成りゆきは彼の予想を大きく外れていく。いつもなら結衣はきっと目を赤く潤ませて、「私、何か間違えた?」と不安げに問い、さらに晃の手を握りしめて「怒らないで」と必死に縋りついてきただろう。けれど今の結衣は、声一つ震わせなかった。かつて晃が何より好んだやわらかな声色が、今はひどく耳障りに響く。「あなたの言うとおりです。私にはそんな資格がありません。すぐに資料をまとめます。篠原社長、お先にどうぞ。あとでお持ちします」結衣は伏し目がちに視線を落とし、滲む涙を必死に飲み込んだ。五年の想いと歩みの末に返ってきたのは――「お前にそんな資格あるか」の一言だった。晃はその態度に胸の鼓動を荒立てられ、今すぐにでも「お前はいったいどうしたんだ」問いただしたいが、周囲の視線がじわじわと集まってくる。勤務中に私事を持ち込むつもりはない。結局、結衣を鋭くにらみつけただけで、踵を返してその場を離れた。晃が去ると、結衣は黙々と資料をまとめはじめた。すると耳元で、押し殺したような嘲りの声が響く。「これが分不相応な夢を見る女の末路よ。自分の立場もわきまえず、私と張り合おうだなんて」顔を上げると、莉子が得意げにデスク脇へ立っていた。手には白いマグカップを抱え、ゆったりとコーヒーを口にしている。それは結衣が買ったペアのマグカップだ。黒い方は晃のデスクに置かれ、彼はずっと愛用している。結衣の白い方は、周囲に気づかれぬよう自分の机の引き出しにしまい、仕事中にそっと眺めては力をもらっていたのだ。目ざとい噂好きの同僚がすぐに気づき、信じられないといった声を上げた。「莉子、そのマグカップ、社長のデスクにあるのとそっくりじゃないか?」莉子はわざとらしく慌てたふりをして、瞳をぱちぱちさせながら甘えた声で言う。「やだ、変なこと言わないで。私、今日カップを持ってくるの忘れちゃって、お兄ちゃんが私に使えって、くれたの」言い終えると、莉子はわざとらしく挑むように一度結衣を見やった。結衣の背筋が、すっと冷たくなる。自分が心を込めて選んだ贈り物は、あっさりと莉子の手へ。その瞬間、結衣はようやく悟った。晃の心に自分の居場所など、初めからなかったのだと。すべては、彼女の思い込みにすぎなかったのだと
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第8話
周りで野次馬的に見ていた同僚たちは、晃の姿が現れるや否や、烈火のごとき上司の怒りに巻き込まれるのを恐れて、すっとその場を離れた。結衣が顔を上げると、すでに莉子は晃の胸にすがりつき、いかにも心細げに身を寄せていた。晃は彼女の手を握りしめ、痛ましげに眉を寄せながら、その血を優しく拭ってやっている。そして非難のこもった視線を結衣に突きつけ、怒気をはらんだ声で言い放った。「お前に、彼女にこんなことをする資格があるのか!」結衣は床一面に散った破片を指し、晃の目をまっすぐ見返した。「これ、あなたが贈ったの?」晃は床一面に散らばったガラスの破片を見て、胸がぎゅっと締めつけられた。思わず弁解の言葉が喉まで出かかった。だが結衣の冷ややかな視線がこちらに向けられたとき、晃はただ一瞥しただけで、取り合う様子もなく言う。「問い詰めているのか?たかがマグカップ一つだろう。莉子にやったって、別にどうということはない。お前がそこまで莉子に敵意を向ける必要があるのか?」結衣は何かに気づいたように小さくうなずき、独り言のように呟く。「たしかに、もう必要ない」晃は結衣の表情を目にした瞬間、胸の奥がどきりと鳴った。思わず莉子を放し、結衣に歩み寄って何か言おうとしてしまう。けれど莉子は勢いよく晃の腰にしがみつき、顔を彼の胸に埋めて甘えるように言う。「お兄ちゃん、結衣を怒らないで。悪いのは全部私なの。私のせいで、結衣ががあなたに怒ったんだわ」晃は腕の中で顔を涙でぐしゃぐしゃにした莉子を見て、はっと我に返った。ためらうようにそっと抱き返し、背中を軽く叩いて宥める。「莉子、お前のせいじゃない。全部、結衣のせいなんだ」結衣は目の前でべったり寄り添う二人を冷ややかに見据え、晃の手に資料を押しつけようとした。「篠原社長、これがご所望の資料です」「結衣、莉子に謝れ。今回はもう庇わない」結衣は少しもひるまない、踏み出して莉子を晃から引きはがすと、その隙に書類を二人の間へぐいと押し込んだ。「謝るのは私ではありません。それに、今ケガをしました。午後は休ませていただきます。許可しないなら、解雇で結構です」言い終えると、晃の怒りに歪んだ顔を見ようともせず、二人の横を抜けてオフィスを後にした。晃は結衣の去っていく背中を食い入るように見つめ、その脚の
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第9話
「ほんと図々しい人っているわよね。わざとらしく取り繕って、晃を誘惑しようとしてさ。残念だけど、晃はそんなに甘くないわよ」「聞いた? 彼女が異動になったの、篠原社長に下心を見透かされて嫌われたからなんだって」「私なら、とっくに会社にいられないわ。よく平気でいられるわね。どれだけ厚かましいのよ。自分の分、わきまえなさいよ」皮肉混じりの言葉は矢のように結衣の全身に突き刺さった。けれど彼女は一言も返さず、ただ静かに胸に刻み込む。そうでもしなければ、何度でも自分に言い聞かせられない――二度と振り返ってはならないのだと。会社を出た結衣はそのまま病院へ向かった。胸の痛みはまるで形あるもののように押し寄せ、息もできないほどだった。病状が悪化したのではないかとさえ疑うほどに。だが結果は異常なし。そこでようやく気づく。痛んでいるのは、打ち砕かれた自分の心なのだと。帰り道、タクシーの後部座席で、窓の外の景色が後ろへ流れていくのを見つめる。涙はどれだけ拭っても乾かない。ならば、と結衣はもう拭うのをやめた。スーツケースのファスナーを閉め、引きずって出ようとしたとき、玄関の扉が晃に開けられた。入ってきた晃はその光景を目にすると、収まりきらなかった怒りがまた込み上げ、結衣の手首を乱暴に掴むと、憎々しげに言い放つ。「結衣、無茶にも限りがある!」結衣は必死に振りほどこうとしたが、かなわない。やがて抵抗をやめ、落ち着いた声で口を開く。「晃、あなたと一緒にいたこの五年こそ、私の無茶だったわ」晃の体がこわばり、視線が揺れたあと、鋭い眼差しで結衣を射抜くように睨みつけた。歯ぎしりするように言葉を吐き出す。「お前、自分が何を言っているかわかっているのか」結衣はうなずき、一語ずつ区切って告げる。「莉子が戻ってきた。私たちも、もう終わりにすべきよ」晃の目元はさらに冷え、声には警告めいた響きがにじむ。「どういう意味だ」結衣はふいに手を伸ばし、晃の寄った眉間をそっと撫でてならした。やわらかな声で言う。「そんなに眉を寄せないで」晃はほっと息をつき、張りつめていた体の力を緩めた。だが結衣は痛みも顧みず、渾身の力で一気に手首を晃の手から振りほどいた。不意を突かれて掴み直そうとしたとき、結衣は二歩さがり、赤く腫れた手首を掲げて晃の目の前に突き
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第10話
晃はどうしようもなく、胸の奥の焦りを必死に押し殺した。まず莉子を宥めてから、改めて結衣と向き合って話そう――そう心に決めた。結衣は親友の小柳美雨(こやなぎ みう)の家に身を寄せた。事情を聞いた美雨は、今にも飛び出して莉子をぶん殴り、ついでに晃に「頭はどうかしてるんじゃないの」と詰め寄りに行きかねない勢いだった。結衣は彼女を制し、柔らかい声で説明する。「もういいの。五年一緒にいても、晃は私を愛さなかった。今さら会いに行く必要なんてない。私はずっと、彼が少なくとも私を好いてくれていると思っていた。けれど、今となっては、私の重みなんて莉子の一万分の一にも満たない。晃には大事なものがたくさんある。仕事、養父母への約束、そして妹……そのどれも手放せない。でも手放せるのは、私だけ。執着していたのは私のほうだった。だから、もう全部終わらせる」美雨はそばで聞いているうちにぽろぽろ涙をこぼし、結衣を抱きしめてわんわん泣いた。「結衣、泣きたいなら泣きなよ。あんなクズ、いらない。あなたにはもっとふさわしい人がいる。もうすぐ手術で海外に行くんだから、気持ちを押し殺しちゃだめ。体に障るわ」泣きたいのか?結衣は自分の心に問いかけても、答えは否だった。彼女の涙は、とっくに愛情とともに枯れ果てていた。今の結衣が望むのは、ただ一刻も早く去ることだけ。会社に戻った結衣が最初にしたのは、退職届を差し出すことだった。退職届には晃の署名が要る。だから、だから彼に呼ばれてオフィスへ入ることになっても、意外ではなかった。「本当にここを辞めるつもりか?」晃は退職届を強く握りしめ、結衣の表情を食い入るように見つめた。わずかな手がかりすら逃すまいとするように。「もう社内の人は私を好いてなんかいない。私が残っても悪影響になるだけだし、あんな中傷も聞きたくない。だから辞めるわ。サインしてください」結衣は淡々と言った。晃はその言葉を聞き終えると、寄った眉間がわずかにほどける。「あんなの聞き流せばいい。気にするな」彼は知っている。結衣がこの職を得るために、どれほどの努力を重ねてきたかを。だからこそ、そう簡単に諦めるはずがない。本当に諦めの早い人間なら、あの頃、あれほど長く自分を追い続けたりはしなかっただろう。結衣は理を尽くして言う。「晃、刃があなたの体に
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