All Chapters of 愛の言葉、もう届かない: Chapter 1 - Chapter 10

純也は優しく微笑み、「それぐらい、足りるわけないだろう？」朋子は顔を真っ赤にして、たしなめるように彼の腕を軽く叩いた。「ここ、人がいるのよ！」洋子は慌ててうつむき、乾いた目をゆっくりと瞬かせた。横に垂れた手はすでに抑えきれないほど激しく震えていた。純也はごく自然に朋子を抱き寄せながら外へ歩き出した。扉を出る直前、ふと顔を横に向け、冷ややかな視線を洋子に投げかけると、薄い唇が音もなく動いた。――今夜、待っていろ。そのまま二人は扉を開けて出て行き、細やかな雨の中へと消えていった。洋子は顔が青白くなりながらゆっくりとしゃがみ込み、棚にすがっていなければ、その場に崩れ落ちていただろう。涙は音もなく頬を伝った。彼女はもう涙なんてとっくに枯れ果てたと思っていた。純也が残した言葉はひどく曖昧だったが、洋子にははっきりとわかっていた。彼は彼女に復讐しようとしているのだ。彼女は純也の姉を殺した仇だ。二人が以前の関係に戻ることなど、もはやありえない。並んで去っていく二人の背中を見つめながら、洋子は思わず駆け出して、心から想い続けてきた人の手を掴み、すべてを打ち明けたくなった。けれど、彼女は白野青美（しらの あおみ）と交わした約束を思い出した――この秘密は、決して誰にも明かさないと。三年前、やはりこんな雨の日だった。ずぶ濡れでぼろぼろの姿の青美が彼女のもとに飛び込んできて、声をあげて泣き崩れた。「洋子……私は汚れてしまった、もう生きていけない……」青美は精神的に追い詰められ、言葉も支離滅裂だったが、それでも洋子にはすべてが伝わった。純也に商売を奪われたライバルはその恨みを募らせ、青美を拉致し、彼女にあらん限りの憎しみをぶつけて拷問し、復讐を果たした。「洋子……内緒にしてて。彼らには絶対言わないで。純也が自分を責めちゃうから……わ、私も汚されたくないの……」洋子は、青美がこの言葉を口にした直後、何のためらいもなく窓へと身を投げたことに、ただただ驚いた。その時、洋子は確かに青美の手を掴んでいた。だが、青美は迷いも見せず、洋子の指を一本ずつ力強く引き剥がしていった。彼女が落下するその瞬間、洋子の背後から純也の心を引き裂くような絶叫が響いた。「姉ちゃん――」三十二階――あらゆる穢れが粉々に砕け散る高さだった。洋子の記憶は朧げ

一瞬にして、すべての視線が嘲りと好奇の目に変わった。「白野社長の幼なじみってあの子？ふん、あの子って確か精神に問題があるって聞いたけど、なんで精神病院から出てきたの？」「近づかないほうがいいよ。暴れ出して誰か傷つけたら大変だし。やっぱり江崎さんと白野社長が一番お似合いだよね」「洋子の今の姿を見てごらんよ。お嬢様らしさなんて微塵もないじゃない」「江崎さんがいらしたわ！」朋子が純也に手を引かれて現れた瞬間、たちまち場内の賞賛の視線を一身に浴びた。まるで人々が自然と集うお姫様のように、花と温かな拍手に包まれていく。朋子は皆に挨拶をし、ふと視線を動かして、隅にいる洋子に目をやった。彼女はすでに洋子が誰なのかを知っており、すぐに少し不満そうな目で純也を見つめた。「純也、そこまでしなくてもいいんじゃない？」純也は鼻で軽く笑い、「彼女は自業自得だ」と言った。朋子は彼にそっと近づき、甘えるように言った。「純也、ただ悲しい思いをしてほしくないの。過去のことはもう忘れたほうがいいわ」純也はそれ以上何も言わず、朋子を連れて前へ進み、誕生日パーティーを続けた。朋子は四方八方からの祝福や贈り物を受け取り、とても嬉しそうに、終始甘い笑顔を浮かべていた。その姿は、よろめきながら床磨きに励む洋子のそれと、鮮やかなまでに対照的だった。その対照ぶりに、誰もがただ言葉を失うほどだ。だが、周囲の冷たい視線や嘲笑に晒されても、洋子は一度も顔を上げることなく、ただロボットのように手元の作業を続けていた。目は虚ろで、何の感情も感じられなかった。すべての賑わいが、まるで彼女とは一枚の膜を隔てた別世界のようだった。艶やかな床には華やかなシャンデリアの光が映り込み、目がくらむほど眩しかった。パーティーの主役は、いつの間にか彼女の目の前に立っていた。「洋子さん、あなたのことは前から聞いてたわ」朋子は自分の長い髪をくるくると指に巻きながら、見下すような視線で悪意に満ちた嘲笑を浮かべた。「あなたたちの間には深い因縁があるのに、よくもまあ純也の前に現れたわね。まさか自分にまだ彼を奪う資格があるとでも思ってるの？」洋子は黙って耳を傾けていたが、その言葉にうつむき、かすれた声で言った。「奪うつもりなんてなかった……」「じゃあ、なんで戻ってきたのよ！？

独房は狭く、光も差さず、完全に隔離されると時間の感覚はほとんど失われてしまう。闇に包まれたその瞬間、洋子の全身はこわばり、瞳孔は虚ろで空っぽになり、かろうじて指先だけが微かに震えていた。まるで彼女は、あの療養所の独房に戻ったかのようだった。当時、暗い小部屋には一台の電子スクリーンがあり、そこには彼女が優秀な卒業生として壇上で表彰を受ける場面が延々と繰り返し映し出されていた。校長は微笑みながら表彰状を差し出した。彼女は思わず前に出て受け取ろうとする……だが、その指が触れんばかりの瞬間、首輪がバチッと激烈な電流を放つのだった！彼女は苦痛に顔を歪めて仰向けに倒れ、歪んでいくスクリーンを見つめる。そこには次々と嘲笑する人々の顔が映し出されていた。「お前は人殺しだ！狂ってる！」「お前のようなお姫様こそ、泥濘の底に堕ちて、その醜さを味わうがいい！」洋子は叫び、地面にひざまずいて、ある方向に向かって何度も頭を打ちつけながら、狂ったように呟いた。「私が悪かった……私は純也を愛していない、愛される資格なんてない……」額からは血が流れ出し、失血がひどかったのか、彼女はついに意識を失い、いくつもの夢の中へと落ちていった。まだあどけない純也が、桜の木の下で彼女の手を握り、照れくさそうに言った。「洋子、愛してる。付き合ってくれない」その返事を聞くと、彼は目を輝かせ、恐る恐るささやいた。「君の瞳、本当にきれいだね……キスしてもいい？」二人は手をつなぎ、キスを交わし、桜の花びらが敷き詰められた道を、果てしなく歩いていった。もう戻れない、二度と戻れない……「わざわざ自分をそんな姿にまでして、いったい誰の哀れみを買おうってんだ？」洋子は純也の嫌悪と苛立ちの混じった声を耳にした。すぐに誰かにどこかへ引きずられ、どれくらい時間が経ったのか分からないまま、朋子が彼女の前に現れた。「洋子、私、純也と婚約するの」洋子のまつ毛がかすかに震えたが、すぐに静まり、死んだような目つきで、かすれた声で言った。「おめでとう」「でも、あなたに消えてほしいの」「私は……永遠に離れるか……」朋子は嘲るように笑った。「でも信じてない。自分の目で確かめたいの。純也がどうしてまだあなたみたいな人を気にしてるのか、本当に理解できない」彼女は一束の写真を取り

目を失ってから、洋子は一言も話さなくなった。彼女はまるで命を完全に失った人形のように、静かに、機械的に、日々朽ちていった。純也は一度も姿を見せなかったが、看護師たちの噂話は絶え間なく耳に入ってきた。「VIP病棟の江崎さん、誤診だったらしいよ。実は目はそれほど悪くなかったんだって」「白野社長のあの心配そうな顔を見ると、二人は本当に仲がいいのね」「そうね、本当にお似合いのカップル。もうすぐ結婚するらしいわよ」洋子はただ黙って、それらの話を静かに聞いていた。自分の力で体を支えてベッドから起き上がれるようになった日、彼女は古びた車椅子を頼み、病院を後にした。歩くこともできず、目も見えない彼女は、記憶を頼りに何度もつまずきながら、親切な人々の助けで、実家の前にあるあの桜の木にたどり着いた。木がどんな姿をしていたのか、もう彼女には見えない。洋子はよろめきながら地面に倒れ込み、素手で土を掘り続けていた。指に激しい痛みが走り、爪が割れたのかもしれない。どれほどの時間が経ったのか、ついに深く埋められていた箱を掘り出した。それは、彼らがまだ若かった頃に埋めたものだった。洋子は箱の中の品々をひとつひとつ優しく撫でた。可愛らしい鈴は、不器用な純也が手作りしたもの。柔らかなマフラーも、彼が自ら編んだものだった。初めてのデートのチケット、初めて交わした贈り物、婚約のときの指輪……療養所での最初の一年、彼女はよく昔の夢を見ていた。それらの記憶に支えられて日々を過ごしていたが、繰り返される苦しみによって、次第に記憶は薄れていった。彼女は記憶を守りたかった。かつての自分を忘れまいと、自分の血液で部屋の壁や床に日記や過去の出来事を書き綴っていた。やがて発覚し、彼女は十日間独房に閉じ込められた……洋子にはもはや涙は枯れ果てていた。彼女は全ての品にそっと触れ、別れを告げると、ライターの火ですべての思い出を炎へと還した。彼女の輝かしい青春と恋は、すでに消え失せた愛と運命を共にし、今日という日に灰となって散った。純也に療養所へ送られたあの瞬間から、自分にはもう未来がないのだと、洋子はわかっていた。「青美……」洋子はかすれた声で呟いた。「本当に……すごく痛いの……」彼女と純也は幼馴染であり、青美は二人の成長をずっと見守ってきた。

虚ろな眼窩をじっと見つめた瞬間、純也は自分の血が凍りついたように感じた。心臓が何かでぎゅっと締め上げられ、そのまま地面に叩きつけられたような感覚だった。瞬間、恐怖が走り、続いて血まみれの見覚えのある顔を目にすると、彼は茫然と瞬きをした。「洋子……」自分が声を出していたのかすら分からなかった。ただ、喉が蜘蛛の巣のように絡みつき、名前を呼ぶことさえ、粘りつくような裂ける痛みを伴っていた。これが……洋子？なぜなんだ？純也の顔から一気に血の気が引き、次の瞬間、顔を歪めて怒鳴った。「洋子！洋子―」目を真っ赤に染めて、ほとんど転がるように車から飛び降りた。車の前に立ちすくんだ彼の目はさらに赤く染まり、戸惑いながらも手を差し伸べたものの、洋子のどこに触れていいかわからなかった。目の前にいる彼女はすでに見るも無惨な姿で、どこから流れているのかわからない鮮血がとめどなく溢れ出し、瞬く間に車の前部を真っ赤に染めていた。そして、彼女の裸の身体には、目を背けたくなるような傷痕が刻まれていた……とくにあの部分は、もはや原形をとどめておらず、純也はそこに視線を向けることすらできなかった。純也は震える手を伸ばし、洋子をそっと抱きしめた。まるで重さがなく、腕の中にあっても実在感がない――純也の心は、圧倒的な恐怖に呑み込まれていった。彼は虚ろな目をしながら、力の入らない足取りで前へと進み、口の中で呪文のように繰り返した。「洋子……怖がらないで、大丈夫だ、俺が助ける、俺なら助けられる……」しかし、腕の中の温もりは少しずつ失われていき、どれほど強く抱きしめても、その温度の消失を止めることはできなかった。純也は洋子の顔を見ることができず、ふらつきながら一台の車の前に立ちはだかり、低い声で怒鳴った。「止まれ！病院まで運んでくれ！」車内の人物は、彼の腕の中で血まみれになっている人を見て恐怖に凍りつき、叫んだ。「無理だ！彼女はもう死んでる！早く行け！」純也の顔には殺気が浮かび、片手を伸ばして車の窓を激しく叩きつけた。冷酷で暴力的な気配が漂う。「開けろ！病院へ行け！」相手は恐怖で呆然としながらドアを開けた。純也が洋子を抱えて乗り込むと、運転手は慌ててアクセルを踏み込んだ。「急げ！早くしろ！もし彼女に何かあったら、お前も道連れだ！」