All Chapters of ワンナイトから始まる隠れ御曹司のひたむきな求愛: Chapter 61 - Chapter 70

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「ですが、だからこそ心配なのです。彼女は真面目すぎるあまり、一つのことに集中すると、周りが見えなくなりがちでして……。私が以前、彼女の指導係をしていた頃も、そうやって一人で突っ走っては、何度も壁にぶつかっていました。そのたびに、私が陰でフォローに走っていたのですが……」 翔のセリフに美桜は絶句した。 違う。翔が言っているのは、美桜が彼のゴーストライターとして無茶な要求に応えるために、一人で無理をしていた時のことだ。翔はその事実を巧妙に捻じ曲げて、美桜を「暴走しがちな若手」、自分を「それを必死に支えてきた、懐の深い先輩」として、物語をすり替えているのだ。 翔は決定的な一言を田中取締役に告げた。いかにも偽善に満ちた、悲劇のヒーローのような口ぶりだった。「彼女のその情熱が、今は如月社長という外部の人間の、過激な意見に煽られている。私は彼女が間違った方向に進んでしまうのが、ただただ、心配でならないのです。彼女を守るためにも一度、冷静になる時間が必要だと、私も思います。取締役のご懸念は、ごもっともです」 美桜は、全身から血の気が引いていくのを感じた。 翔のこの発言は、美桜を「心配している」という体裁を取りながら、彼女を「若く経験不足で、感情的になりがちな女性リーダー」という型に嵌めることで、論理的な反論を完全に封じ込める、極めて巧妙で悪質な罠だった。 これ以上反論すれば、それこそ「周りが見えなくなっている、感情的な女」という彼の筋書きを、自ら証明することになってしまう。 この会議は仕組まれていた。最初から結論ありきだったのだ。 美桜は唇を噛み締め、俯くことしかできなかった。 田中取締役は机を叩いて、最終決定を言い渡す。「佐伯君の言い分はよく分かった。このままでは、高梨君にプロジェクトを任せることはできん。荷が重すぎたのだ。よって追って通知があるまで、君のリーダーとしての権限を一時的に凍結する。その間プロジェクトの監督役として、経験豊富な佐伯課長にオブザーバーとして入ってもらう。いいね、高梨君」「な……!」
last updateLast Updated : 2025-10-16
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 美桜がリーダー権限を凍結され、翔が監督役になったというニュースは、瞬く間に社内を駆け巡った。「やっぱり、高梨さんには荷が重かったんだ」「佐伯課長が戻ってきてくれて安心した。あれだけ大きなプロジェクトだ、実績ある人じゃないと」「いや、でも何かおかしい。これはパワハラじゃないのか?」「権限を凍結したの、田中取締役でしょう。あの人はこう言っちゃ何だけど、保守派の代表だから……」 社員たちの反応は様々だったが、美桜に対して同情的な声はそこまで多くない。 彼女の周りには好奇と、『やっぱりね。高梨さんが悪かったんだ』とでも言いたげな満足感を含んだ、無数の視線が突き刺さっていた。若くしてリーダーに抜擢された彼女への、嫉妬もまじっていたかもしれない。 美桜は悔しさで体が震えるが、ここでムキになれば翔の「感情的な女」という筋書きを肯定してしまうだけ。ただ無表情を貫いた。 その時、陽斗が怒りに顔をこわばらせて美桜の元へ駆けつけてきた。「先輩、聞きました。こんな理不尽なこと、絶対に間違ってます!」 彼は今にも飛び出していきそうな勢いで続けた。「俺、すぐに役員に抗議して……!」「やめて」 美桜は陽斗を制した。彼の熱い怒りが今の彼女にはありがたくもあり、少しだけ眩しすぎるものでもあった。 ただの新人社員が役員に表立って楯突くなど、大変なことになる。これ以上、彼を巻き込むわけにはいかない。「でも、先輩……」 陽斗がさらに言いかけた時。美桜のPCに一通のチャットメッセージが届いた。差出人は蒼也だった。彼は社外の人間でありながら、既に状況をしっかりと把握していた。『話は聞いた。実に古風で非合理的な人事だね。君のリーダーとしての価値が、あの会社のご老人たちには理解できなかったようだ』 蒼也のメッセージは感情的な同情ではなく、冷静な分析に基づいていた。さらに続く。『高梨さん。改めて言う。うちに来ないか? 君を正当に評価し
last updateLast Updated : 2025-10-17
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 陽斗と蒼也、差し伸べられた二つの対照的な手。自分は、どちらの手を取るべきなのか。あるいは、どちらの手も取ることができないのか。 美桜はもう孤独ではない。だからこそ複雑な選択の岐路に立たされていると、痛感するのだった。 ◇  プロジェクトの定例会議の光景は、一変していた。 いつも美桜が座っていたリーダーの席には、翔がふんぞり返るように座っている。反対に美桜と陽斗は、末席に近いチームメンバーの席に座らされていた。「みんな、これを見てくれ」 翔は得意げに腕を組んでは、スクリーンに映し出された資料を指し示す。それは美桜が心血を注いで作り上げたプロジェクト計画書だった。「――というわけで、このプロジェクトの根幹は、俺が初期段階から提唱していた『リスクヘッジを最優先した段階的移行プラン』だ。以前の計画は、やや理想論に偏りすぎていたからな。俺が現実的な路線に修正しておいた」 彼は美桜の功績を、さも当然のように自分のものとして語っている。陽斗はテーブルの下で固く拳を握りしめた。怒りにはらわたが煮えくり返る思いだった。 翔はわざとらしく美桜の方に視線を向けた。目には憐れみと侮蔑が入り混じった、いやらしい光を宿している。「で、そこの部分の補足データだが。高梨君、君、一応データ担当だったよな? 第3四半期の関連数値を、今ここで暗唱してみてくれるか。今はもう『ふさわしくない』辞めさせられたとはいえ、以前はリーダーを任されていたんだ、当然、頭に入っているんだろう?」 それは議題とは何の関係もない、ただ彼女に恥をかかせるためだけの悪意に満ちた質問だった。 会議室の空気が凍り付く。誰もが気の毒そうに美桜を見ていた。「佐伯課長、さすがにそれは関係ないのでは……」 他部署の社員が見かねて言うが、翔は黙殺した。「で、高梨君? 答えは?」 美桜が答えられずに唇を引き結ぶのを、翔は満足げに眺めている。「佐伯課長。その数値は、こちらの補足資料の…&
last updateLast Updated : 2025-10-17
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 美桜は悔しさを押し殺して、記憶の底から数値を引きずり出す。彼女がやっとの思いで答えると、翔は「ふん、まあいいだろう」とだけ言い、次の議題へと移っていった。「――で、だ。ここの点も、俺は前々から問題だと思っていた。高梨君がリーダーだった時は、まるで問題にされなかったがね。計画が穴だらけだよ、穴だらけ」「……」「黙っていないで、質問に答えてくれ。答えられないなら頭を下げろ。誠意を見せるために土下座でもいいぞ? ん? どうする?」 重箱の隅をつつくような質問を繰り返し、すぐに答えられない美桜をあざ笑う。 会議の間中、翔による陰湿な嫌がらせは続いた。彼は組織の力を盾に、かつての恋人で自分を支え続けた女性のプライドを、執拗にじわじわとなぶり殺しにしていたのだ。実に楽しそうな笑顔を浮かべて。 その間、玲奈は勝利を確信したように、翔の隣でにやにやと笑っていた。◇  その日の午後、翔は美桜に聞こえるように大きな声で電話をかけた。相手はプロジェクトの重要な取引先であり、美桜のことも高く評価している「K-Tech社」の担当者だった。「ああ、K-Techさん? ええ、俺が佐伯です。ははっ、ご無沙汰しております。ええ、そうです、高梨に代わって、今後は俺がこのプロジェクトを監督します。いやー、彼女、少し暴走気味でしてね。若さゆえ、というか……。ええ。それで交代したんですよ。当然ですね」 彼は電話の向こうの相手が何かを話すのを、相槌を打ちながら聞いている。そしてさも残念そうな、しかし心の底では喜んでいるのが透けて見えるような、歪んだ表情を浮かべた。「ええ、ええ、おっしゃる通りです。高梨君は、本当に頑張り屋なんですが、いかんせん視野が狭くて。少し自分の意見に固執しすぎるきらいがあるんですよ。ええ、それで、プロジェクト全体が停滞しかけてしまいましてね。我が社の恥をさらすようで、まったくお恥ずかしい限りです。我々役職者や年長者の管理不行き届きですね。ええ、これからはきちんと彼女を指導しますとも」 美桜は言葉を失った
last updateLast Updated : 2025-10-18
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 美桜は言葉を失った。翔は美桜の長所である「粘り強さ」や「信念の強さ」を、「視野が狭い」「頑固」という言葉に巧みにすり替えているのだ。「それで私が責任者として、改めてプランを練り直しているところです。ご心配をおかけして、申し訳ありません。ええ、もちろん、彼女の功績も尊重しますよ。彼女には今後、データ入力などの細かいサポート業務に集中してもらうつもりです。さすがに、それくらいはしてもらわないとねぇ」 それは、あまりにも身勝手な宣告だった。リーダーとしてプロジェクトを牽引してきた美桜を、彼は電話一本で「データ入力係」に降格させたのだ。「来週の会食の件ですが、ええ、もちろん、俺と新しいパートナーの玲奈とでお伺いします。高梨君は……そうですね、まあいらないんですけど、議事録係として末席にでも座らせましょうか。ははは」 最後の言葉は明確に、美桜に聞かせるためのものだった。 翔は美桜が時間をかけて築き上げてきた取引先との信頼関係を、意図的に徹底的に破壊しようとしている。電話の向こうの担当者に、「美桜は無能で、自分が彼女に代わった救世主だ」という印象を、巧妙に植え付けながら。 美桜は血の気が引いた手で、タブレットを強く握りしめることしかできなかった。◇ 電話を切った翔に、玲奈が甘い声で寄り添った。「翔さん、さすがです! 言いたいこと全部言ってもらえて、あー、すっきりした。でも、それだけじゃまだ不安じゃないですか? あの高梨先輩のことだから、会食の場で何か言ってくるかもしれないし……」「それもそうだな」 翔が首を傾げている。「でも、大丈夫ですぅ」 玲奈は意地の悪さがにじむ笑みを浮かべると、翔の耳元で何かを囁いた。「私に、いい考えがあるから」 それを聞いた翔の顔に、歪んだ笑みが浮かんだ。取引先との重要な会食の場で、美桜をさらに貶めるための罠が仕掛けられようとしているのだ。 美桜と陽斗は、まだその悪意ある計画に気づいていない。 
last updateLast Updated : 2025-10-18
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 隣で玲奈がわざとらしく、勝ち誇ったように口を挟む。「あら、ごめんなさい! 私、高梨先輩にはちゃんとお伝えしたつもりだったんですけど、伝わってなかったみたいで。本当に申し訳ありません!」 玲奈が仕掛けた卑怯な罠だ。美桜は唇を噛み締めて、深く頭を下げた。「大変、申し訳ございませんでした」 重苦しい雰囲気の中で会食が始まる。美桜はなんとか流れを変えようと、この日のために準備した詳細なプレゼン資料を取り出した。「中村様、本日は先日ご提案したプランの、より詳細なデータをお持ちしました。こちらの資料を……」 けれど彼女が資料をテーブルに広げようとした瞬間、隣に座っていた玲奈が、赤ワインのグラスを大きく傾けた。「あーら、ごめんなさい!」「なっ……!」 赤い液体が美桜が何日もかけて作成した資料を、見るも無残に汚していく。緻密なグラフも説得力のあるテキストも、全てが滲んで読めなくなってしまった。翔は「おいおい、気をつけろよ」と言いながらも、その目は笑っている。「何をするの、河合さん!」「えー? ごめんなさーい、ちょっと手が滑っちゃってぇ」 中村は大きなため息をついた。「……高梨さん。佐伯課長から、あなたは少し準備が雑なところがあると伺っていたが、まさかここまでとは。重要な会食の場で、プレゼン資料も用意できないようでは、リーダー失格と言わざるを得ないな」 翔の事前工作と、玲奈の妨害。彼らの連携によって、美桜は完全に窮地に追い込まれた。 彼女は「申し訳ありません」と再び頭を下げることしかできない。 だが。「お待ちください」 陽斗が凛とした声で口を開いた。自分のビジネスバッグから一台のタブレットを取り出す。「高梨リーダーの素晴らしい資料が、このような形でお見せできなくなったのは、誠に残念です。ですがご安心ください。リーダーの指示で、万が一の事態に備えて、全ての資料はデータ化しバックアップを取ってあります」
last updateLast Updated : 2025-10-19
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68:逆転のプレゼンテーション

 陽斗が差し出したタブレットには、美桜の資料が完全な形で復元されて映し出されている。「どうぞ、リーダー」という彼の静かな一言が、美桜に戦う勇気を与えた。 美桜はタブレットを受け取ると、立ち上がった。彼女はもう、うつむいて謝罪するだけの無力な女性ではない。その瞳には、リーダーとしての強い光が宿っている。「中村様、大変失礼いたしました。今、目の前で起きたことは、紙媒体の資料がいかに脆弱であるか、また、リアルタイムデータ共有の重要性を示す、良い教訓となりましたね」 美桜は不敵に微笑んだ。 翔と玲奈の妨害を逆手に取って、見事なアドリブを交えながらプレゼンテーションを再開する。彼女声には一つの迷いもなかった。「中村様。このシステムは、単なるコスト削減ツールではありません。これは、未来を予測するための『水晶玉』です。例えば、特定の地域での天候不順の兆候をAIが検知し、それがサプライチェーンに与える影響を、三ヶ月前に予測することが可能になります」 その革新的なビジョンに、中村の目が鋭く光る。「面白い。だが、その『予測』の精度は? 絵に描いた餅では、投資はできんよ」 中村の厳しい指摘に、翔が「それ見たことか」とでも言いたげな笑みを浮かべた。しかし美桜は全く動じない。彼女が答えるより早く、隣の陽斗が自分のタブレットを操作した。「中村様、ごもっともな懸念です。こちらの画面をご覧ください」 陽斗が操作すると、美桜が持つタブレットの画面が瞬時に切り替わる。「これは、過去10年間の実際の物流データと気象データを基に、我々のAIプロトタイプが行ったバックテストの結果です。予測精度は、92.7%を記録しています」「ありがとうございます、一条君。そして中村様、この92.7%という数字が意味するのは、現在予測不能な遅延の9割以上を、我々は事前に回避できる、ということです。これにより生まれる利益は……」 まるで事前にリハーサルをしていたように、二人の連携には一切の無駄がない。 美桜が戦略という名の美しい旋律を奏でれば、陽斗がデータという名の正確な伴奏を完璧
last updateLast Updated : 2025-10-19
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 美桜がビジョンを語り、中村が疑問を呈し、陽斗がデータで証明する。流れるようなやり取りは、翔や玲奈が入り込む隙など少しもなかった。 中村の表情から徐々に険しさが消え手、純粋な感嘆と興奮の色が浮かんでくる。 翔と玲奈はただ呆然と、その光景を眺めていることしかできなかった。 プレゼンが終わると、中村は感嘆のため息をついた。「……素晴らしい。実に見事だ、高梨さん。佐伯課長からは、あなたは少し暴走気味だと伺っていたが、とんでもない。これほど緻密で、かつリスク管理まで完璧とは。君たちのチームを、全面的に信頼するよ」 彼の言葉は翔が電話で吹き込んだ中身のない誹謗中傷を、真っ向から否定するものだった。屈辱に顔を赤くした翔は、最後の悪あがきとして叫ぶ。「なっ……中村さん、お待ちください! そのプランは、まだ役員の承認を得ておりません! 高梨の暴走に過ぎないのです!」 中村は、翔に冷たい視線を向けた。「佐伯課長。私は、本プロジェクトの総責任者である担当役員からも、全権は高梨リーダーにあると伺っている。君は、会社の公式な決定に、異を唱えるのかね?」 翔は完全に沈黙した。彼の妨害は、自らの立場を危うくするだけの愚かな自滅行為に終わった。 玲奈も顔を青ざめさせて、小さく震えている。 美桜と陽斗は互いに視線を交わして、小さく頷き合った。二人の力でもぎ取った勝利だった。◇ 後日、翔は田中取締役に呼び出されて重役室に立っていた。「佐伯課長。K-Tech社の中村さんからクレームが入った。会食の進行を妨げて、我が社の体面に泥を塗ったそうじゃないか」 翔を支援していたはずの田中から厳しい叱責を受けて、彼は冷や汗を流す。「と……とんでもございません。私はただ、高梨の未熟を諌めただけで……」「中村さんは、高梨君をたいそう褒めていたよ。一条君もな。キサラギ・イノベーションズのプロジェクトも、最近はどうにも停滞
last updateLast Updated : 2025-10-20
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70:迷い猫と秘密の名前

 週末、美桜が買い物に出かけた時のこと。先ほどまで降っていた小雨が上がり、アスファルトが綺麗に洗われている。 雨上がりの空には淡い虹がかかって、美桜は「きれいだなぁ」と微笑んだ。 ふと。住宅街の植え込みの奥から、か細い鳴き声が聞こえてくる。 声の主は、一匹の猫――スコティッシュフォールドだった。雨に濡れてぐっしょりとした体で、前足をかばうようにして、小さくうずくまっている。赤い首輪をしていることから、飼い猫が迷子になったのだとすぐに分かった。「どうしたの? 大丈夫?」 よく見れば、猫は前足を怪我していた。交通事故か、猫同士の喧嘩か。少し深い傷で血が流れている。 美桜はその場を通り過ぎることができなかった。「あの、すみません。この猫ちゃんが怪我をしてそこにいたんですけど、どこの子がご存じありませんか?」「さあ……? 見たことないです」「ごめんなさい、分かりません」 周囲の人に尋ねるが、誰も飼い主を知らない。そそくさと立ち去られてしまう。(困った……。怪我をしている子を放っておけないし。病院、連れて行ってあげなくちゃ) 心を痛めた美桜は、一番近くの動物病院に猫を連れて行くことにした。◇ スマホで調べると、幸いすぐ近くに動物病院があった。 美桜は猫の怪我にハンカチを巻き、そっと抱き上げて向かう。猫はぐったりとした様子で抵抗しなかった。「かわいそうに。怪我、痛いよね。お家から離れてしまって、心配だよね」 美桜は猫に話しかけながら、動物病院へと急ぐ。やがて目的の建物が見えてきたので、急いで入った。 休日のせいか、待合室には何匹もの犬や猫がいる。オウムのような鳥までいた。 病院という場所柄、年を取ったり元気のない子が多いが、そうでもない子もいる。治療だけでなく、ワクチンや色々な事情があるのだろう。 動物病院の待合室で、美桜が猫の診察を待っていると、聞き覚えのある声がした。「こら、言うこと
last updateLast Updated : 2025-10-20
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 美桜の笑う声が聞こえたらしく、蒼也は振り向いた。「高梨さん? どうしてここに?」「如月君こそ」「僕はこの子のワクチン接種に。君はその子の怪我を?」「ええ。道端で怪我をしていたから、放っておけないと思って」「君の猫ではないのか……」 蒼也は眩しいものを見るように、少しだけ目を細めた。「君は変わらないね。昔と同じ、優しい人だ」「そんなことないわ。怪我をしている猫がいたら、みんな助けるでしょ」「そういうことを平気で言うのが、優しい証拠なんだけどね」 蒼也は少し苦笑して、すぐに表情を改めた。「その子の飼い主を探してあげなければ。ちょっと写真を撮っていいかな。あと、拾った場所を教えてくれ」「ええ」 蒼也はスマートフォンを取り出して、怪我をした猫の写真を何枚か撮影した。 それからその写真を、地域の迷子ペット掲示板や、複数のSNSコミュニティに的確な情報を付けて投稿していった。驚異的なスピードだった。「こういう情報は、スピードと拡散力が命だ。飼い主が利用しそうな媒体を予測して、同時に網を張る」 彼の姿は、まさにIT企業の社長そのもの。プロジェクトで見せる天才的な頭脳が、今、一匹の迷い猫を救うためだけに使われている。 そのギャップに、美桜は改めて蒼也の不思議な魅力を感じていた。 美桜が猫の診察を終えて、投稿から一時間も経たないうちに、蒼也のスマホが鳴る。「飼い主を見つけた。すぐこちらに来るそうだ」 それから20分程度で、顔色を変えた飼い主の家族が動物病院に飛び込んできた。「ムギちゃん! 良かった、窓の隙間から逃げちゃったから!」 小学生の女の子が泣きながら猫を抱っこしている。 両親は美桜と蒼也に深々と頭を下げた。「ありがとうございます。この子は大事な家族なんです。何とお礼をしていいやら」「大丈夫ですよ。ムギちゃんが無事に家族の元へ帰れて、良かったです」
last updateLast Updated : 2025-10-21
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