「もう片付けない。適当にやって」知佳はそう言い残してドアを開け、家を出た。朝食もとらずに外に出て、コンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、店の外で軽く口にしたあと、タクシーで病院へ向かった。鍼治療が終わったころ、スマホが震えているのに気づいて取り出すと、表示には「拓海」の名前があった。電話に出ると、焦った声が響いた。「知佳、茶色の封筒をどこに片付けた?」「知らない」知佳の声は冷静だった。「スーツケースの仕切りに入れておいたのに、どこにしまったんだ?今すぐ会議で使うんだ」拓海の口調はさらに切迫している。知佳は医師に軽く会釈し、バッグを持って診察室を出ると、ゆっくりと答えた。「スーツケース?片付けてないから、知らない」「片付けて……」驚いたような声のあと、拓海は慌てて玄関へ向かった。案の定、スーツケースはそのまま置かれていた。「玄関にスーツケースを置いたのに、見なかったのか?」「ああ、見たよ」知佳は病院を出て、タクシーを呼ばず、通り沿いをゆっくり歩きはじめた。「なのに片付けなかったのか?」拓海の声に、さらに驚きが混じる。「ええ、片付けてない」なぜ、絶対に私が片付けなければいけない?「どこにいるんだ?音楽が聞こえるけど」追及する声は、焦りを帯びていた。「買い物してる」知佳はそう言いながら、通りに面したカフェを見つけた。テラス席から流れる音楽が、電話の向こうの彼にも届いていたのだろう。「買い物?どうやって買い物するんだ?」カフェに入ると、黒い制服の店員が丁寧に席へ案内してくれた。「つまり、足が不自由な私は買い物できないってこと?」電話の向こうで、拓海が言葉に詰まった。しばらく沈黙のあと、また声がした。「どうしてスーツケースを片付けなかったんだ?」――スーツケースに、どうしてそんなにこだわるの。「片付けたくなかったから」知佳は落ち着いた声で言い、手元のメニューを開いた。手書きの文字は丁寧で、可愛いイラストも添えられていて、見ているだけで心が和む。けれど耳の奥では、まだ雑音のように彼の声が響いていて、不快だった。「知佳、まだ飛行機のことで怒ってるのか?どうしてそんなに怒りっぽくなったんだ。結衣のことばかり気にして、結衣は……」知佳は電話を切った。もう、結衣の名前も、彼の声も、彼の言葉も聞きたくな
Read more