All Chapters of 愛のない夫婦生活から、私はもう一度踊り出す: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

「もう片付けない。適当にやって」知佳はそう言い残してドアを開け、家を出た。朝食もとらずに外に出て、コンビニでサンドイッチとコーヒーを買い、店の外で軽く口にしたあと、タクシーで病院へ向かった。鍼治療が終わったころ、スマホが震えているのに気づいて取り出すと、表示には「拓海」の名前があった。電話に出ると、焦った声が響いた。「知佳、茶色の封筒をどこに片付けた?」「知らない」知佳の声は冷静だった。「スーツケースの仕切りに入れておいたのに、どこにしまったんだ?今すぐ会議で使うんだ」拓海の口調はさらに切迫している。知佳は医師に軽く会釈し、バッグを持って診察室を出ると、ゆっくりと答えた。「スーツケース?片付けてないから、知らない」「片付けて……」驚いたような声のあと、拓海は慌てて玄関へ向かった。案の定、スーツケースはそのまま置かれていた。「玄関にスーツケースを置いたのに、見なかったのか?」「ああ、見たよ」知佳は病院を出て、タクシーを呼ばず、通り沿いをゆっくり歩きはじめた。「なのに片付けなかったのか?」拓海の声に、さらに驚きが混じる。「ええ、片付けてない」なぜ、絶対に私が片付けなければいけない?「どこにいるんだ?音楽が聞こえるけど」追及する声は、焦りを帯びていた。「買い物してる」知佳はそう言いながら、通りに面したカフェを見つけた。テラス席から流れる音楽が、電話の向こうの彼にも届いていたのだろう。「買い物?どうやって買い物するんだ?」カフェに入ると、黒い制服の店員が丁寧に席へ案内してくれた。「つまり、足が不自由な私は買い物できないってこと?」電話の向こうで、拓海が言葉に詰まった。しばらく沈黙のあと、また声がした。「どうしてスーツケースを片付けなかったんだ?」――スーツケースに、どうしてそんなにこだわるの。「片付けたくなかったから」知佳は落ち着いた声で言い、手元のメニューを開いた。手書きの文字は丁寧で、可愛いイラストも添えられていて、見ているだけで心が和む。けれど耳の奥では、まだ雑音のように彼の声が響いていて、不快だった。「知佳、まだ飛行機のことで怒ってるのか?どうしてそんなに怒りっぽくなったんだ。結衣のことばかり気にして、結衣は……」知佳は電話を切った。もう、結衣の名前も、彼の声も、彼の言葉も聞きたくな
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第82話

あの夕暮れが、青春の思い出として色あせずに残っていたら――今のように、五年の結婚生活の中で、長年の片思いがすり減って何も残らなくなることはなかったのかもしれない。知佳はまったく急いでいなかった。カフェの席に座り、コーヒーとケーキをゆっくりと味わってから、映画館へ向かった。映画が終わるころには、もう午後になっていた。まだ昼食を取っていなかったので、タクシーで評判の餃子屋へ向かった。一口かじると、肉汁が口いっぱいに広がり、思わず笑みがこぼれた。幸せな味だった。これで、今日やりたかったことは全部終わった。お腹が満たされると、知佳は路地を抜け、タクシーを拾うために散歩がてら歩き出した。路地には小さな個性豊かな店が並び、どれも見ていて楽しい。ゆっくり歩いていると、ケーキ屋の前に若い女の子たちの列ができていた。知佳も興味が湧き、その列に並んでみた。不思議だった。誰も知佳の足の不自由さに気づいていないのか、あるいは気づいても、変な目で見る人はいなかった。ケーキを手にして店を出たとき、知佳は胸の奥に小さな感動を覚えた。拓海との狭い世界から抜け出すのは、思っていたほど難しくなかった。拓海とその仲間たちは、いつも知佳の足を嘲笑っていた。けれど、見知らぬ人たちの中には、そんな悪意などどこにもなかった。知佳はケーキを抱えてタクシーに乗り、家へ帰った。家には中村さんしかおらず、拓海はまだ帰っていないようだった。「奥様、今日の夕飯はどうしましょうか?」中村さんはちょうど夕食の準備を始めようとしていた。「これからは、料理のことを私に聞かなくていいよ」知佳はケーキを持ったまま言った。ここで過ごす時間は、もうそう長くはない。自分が出て行ったあと、拓海が中村さんを雇い続けるかどうかも分からない。戸惑うような中村さんの目を見て、知佳は心の中で小さくため息をついた。「これからは、あなたの好きなものを作って。あなたが食べたい料理を作ればいい」「奥様……?」中村さんは明らかに驚いていた。お手伝いが自分の好みで料理を決めるなんて、今まで考えたこともなかったのだろう。「本気よ」知佳は微笑んだ。ケーキをテーブルの上に置くと、部屋へ戻り、シャワーを浴びて着替えた。そして、さっぱりした気分で机に向かい、この日の出来事をノートに書き留める。
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第83話

18日、知佳は送られてきたパスポートを受け取った。16日は、ビザ面接の予約日だった。時間は、本当にあっという間に過ぎていく。ビザ面接の日、知佳は早めに起きたが、拓海はそれよりも早く起きていた。彼は部屋で何かをしていたが、言葉を交わすことなく出て行った。拓海が出てから、知佳はベッドを離れた。面接は午後の予約だったので、急ぐ必要はなかった。朝食をとってから、ビザ申請書類の入った封筒を取り出し、もう一度、不備がないかを確認する。書類を一枚ずつ丁寧に確かめ、問題がないことを確認してから、財布を取り出した。――その中にあるはずのマイナンバーカードが、なくなっていた。知佳は息をのんだ。昨日、飛行機を降りたあと、確かに財布にしまったはずだった。ポケットもすべて確認したが、見つからない。朝の光景が頭をよぎる。拓海が部屋で何かをしていた!まさか、彼が……?嫌な予感がして、知佳はすぐに電話をかけた。呼び出し音のあと、淡々とした声が返ってきた。「もしもし?」「拓海!私のマイナンバーカード、どこ?」知佳は焦った声で言った。「あなたが取った?」「ああ」拓海はあっさりと認めた。「どうして取った?」「君は今、マイナンバーカードを探してどうするつもりなんだ?」意外にも、逆に質問が返ってきた。「あなたには関係ない!返して!」知佳の声は少し震えていた。だが拓海は、正面から答えず、何度も「何に使うんだ」と問い返してくる。「またどこかに遊びに行くのか?」彼が低い声で聞いてきた。「私……部屋を探しに行くの」知佳は咄嗟に嘘をついた。電話の向こうで沈黙が落ちたあと、拓海が言った。「こっちに来い」「どこ?会社?会社に取りに行くってこと?」「そうだ。来てくれ」「どうして私のマイナンバーカードを取ったの?」会社へ行くために知佳は玄関で靴を履き替えながら聞いた。拓海は大したことではないように軽く言った。「資産関係の手続きで使う」その言葉を聞いて、知佳はやっと信じた。以前にも、似たようなことがあった。お金のことに関しては、拓海は知佳をあまり疑っていなかった。いくつかの不動産は、今でも知佳の名義になっている。けれど、それは決して喜ばしいことではなかった。彼にとってそれは、愛ではなく「補償」にすぎなかったか
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第84話

知佳には理解できなかった。類は友を呼ぶというのは本当なのだろうか。拓海の周りの人たち以外、見知らぬ人は誰も彼女の足のことを悪く言わない。それなのに、どうして拓海の周りの人たちはみんなこうなのか。「お嬢さん、上に確認した方がいいんじゃない?」知佳は受付の人を困らせたくなかった。「受付の仕事って、来客に失礼な態度を取ったり侮辱したりすることなの?あなたを訴えるつもりはないけど」「あんたが客だって言える?」受付は不機嫌そうに口を尖らせたが、それでも社長アシスタントに電話をかけた。誰が森川社長に会いに来たかを説明すると、受話器の向こうで何かを言われたらしく、受付の顎がさらに高く上がった。「やっぱりね!私の目は間違ってなかった!いい加減にして!出て行け!出て行かないなら警備を呼ぶからね!彼女が言ってた、そんな人はいないって!森川社長の奥さんは、知佳なんて名前じゃないんだって!」「そう?」知佳は、警備を呼ばれても怖くなかった。今日はビザ面接があるので、必要な書類も不要な書類もすべて持っている。婚姻を証明できる書類も、その封筒の中にある。「じゃあ教えて。森川社長の奥さんは、何て名字なの?」受付は突然、口元に笑みを浮かべた。「すみませんね、私は真面目な社員だから、社長のプライベートには興味ないんだよ。誰かさんみたいに恥知らずで、出世のために何でもするタイプとは違って。社長の奥さんのフリをするなんて、一体どこにそんな勇気があるの?足が悪いから何でもしていいと思ってる?警告するけど、さっさと出て行きなさい。出て行かないなら、警察を呼ぶから!」「警察?」知佳は言い返した。「じゃあ、早く呼んで。警察が来たら、書類を見せなくても私が誰かすぐに分かる。調べれば、真実は明らかになる」「書類?笑わせないで。偽物でしょ?じゃなきゃ、社長が目が見えないとでも?足が不自由な人と結婚するわけないじゃん」受付が勝ち誇ったように言ったそのとき、エレベーターのドアが開き、ビジネススーツ姿の女性が現れた。「芦田さん」受付は、さっきまでの態度が嘘のように恭しくなった。知佳はその女性を知っていた。拓海の会社のことはよく知らないが、芦田が五年前からここにいることは覚えていた。「知佳さん、社長秘書の芦田です。こちらへどうぞ」芦田は先に歩いて、知佳をエレベーターへ案内した。エレベ
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第85話

知佳には分かった。これが罠でなければ、こんなことは起こるはずがない。誰が仕組んだのか、目的は何なのか。そんなことを考えている時間はなかった。ビザの面接には、もう間に合わない。知佳は会議室を見回した。ここは最上階。窓から飛び降りるなんて無理だ。スマホには、拓海の会社のいくつかの番号が登録されていた。彼女は一つずつ、順にかけてみる。まずは受付。電話がつながると、知佳は叫んだ。「助けて!最上階の会議室に閉じ込められてる!お願い、助けて!」受話器の向こうから返ってきたのは、あの女の子の冷たい声だった。「社長を誘惑しようとして警備に捕まったんでしょ?ざまあみろ」そして、電話は切られた。知佳のスマホには、文男と新吾の番号も入っていた。嫌い合っている人だが、以前、拓海の友人として連絡先を交換していた。だが、案の定、二人とも出なかった。これも予想通りだった。最初から、あの二人は自分の味方じゃなかった。知佳は座り込み、震える手でスマホを操作した。急いでメールを開き、ビザ面接の予約をキャンセルする。そのあと、テーブルの上に置かれた「パッションフルーツレモンジュース」を手に取り、一気に飲み干した。すぐに、顔がかゆくなり始めた。これは、パッションフルーツレモンなんかじゃない……時計を見ると、また十分経っていた。秘書は戻ってこない。誰も、彼女がこの部屋に閉じ込められていることを知らない。オフィスビルの中では、いつも通り人々が黙々と仕事をしていた。そのとき――突然、最上階の煙探知機が鳴り、ビル全体に警報音が響き渡った。「何が起きた?」人々が騒ぎ始め、オフィスから次々と外へ出ていく。「煙が出てる!火事だ!」誰かが叫んだ「早く消防に連絡して!」拓海も警報音に気づき、すぐに出てきたが、小会議室のドアの隙間から煙が漏れているのを見た。「会議室が火事です!幸い、今日は誰も使っていないはずでした」スタッフが慌てて報告する。「もう消防には連絡済みです。すぐ来るはずです」「どうして火が出たんだ?警備部門は何をしてる!」拓海は胸騒ぎを覚え、嫌な予感がした。ドン……ドン……ドン……何かがドアを叩く音がした。「何の音だ?」拓海は音のする方へ駆けた。その音は、まさに会議室の中から聞こえていた。「誰だ?中にいるのは誰
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第86話

「いいから!喋るな!死なせない!病院に行こう!」拓海は知佳を抱きかかえ、猛スピードで階段を駆け下りた。知佳は目を閉じ、唇の端に微笑みを浮かべていた。本当に、さよならを言っている。拓海、さよなら。エレベーターの中で、拓海は腕の中の知佳が目を閉じているのを見て、片手で狂ったようにボタンを押し続けた。まるで、そうすればエレベーターがもっと速く降りるかのように。「知佳、寝るな!起きろ!目を覚ませ!」彼は叫びながら、何度もボタンを叩いた。ようやく一階に着くと、消防が到着していた。思っていたより早かった。だが拓海は火事のことなど気にも留めず、知佳を抱えたまま車に飛び乗り、最寄りの病院へと走り出した。病院に着いて間もなく、知佳はゆっくりと目を開けた。医師が詳しく診察したが、火傷は見当たらなかった。ただ、顔中に細かい発疹が広がっていて、煙で黒くなった跡と混ざり合い、ひどく見えた。医師は綿棒で知佳の顔を拭き取りながら言った。「これはアレルギーによる発疹ですね。先ほどお話しされていた失神も、その反応が原因でしょう」それから、少し語気を強めた。「アレルギーで意識を失って火事になった部屋にいたなんて、命に関わる事態ですよ!どうしてそんなに不注意だったんですか」拓海は、まだ呆然としたままつぶやいた。「アレルギー?知佳、何を食べてこうなったんだ?」知佳は経過観察室のベッドに横たわり、何も言わなかった。「しばらく様子を見ましょう。検査結果がすべて出てから判断します」医師はそう言い残して部屋を出ていった。知佳の顔は拭かれてきれいになったが、ところどころ黒ずんだ跡が残っていた。拓海はベッドのそばに座り、綿棒にアルコールを染み込ませ、そっと知佳の頬を拭った。その瞬間、少しだけ痛みが走り、知佳は眉をひそめて顔を背けた。「拭いてあげる。汚れてると細菌が入るから」拓海は優しく言った。その言葉を聞くと、知佳の胸の奥に熱いものが込み上げた。この言葉、知ってる。怪我をした直後のあの日々、彼も同じように言っていた。「知佳、動くな。傷口を拭くから。汚れてると細菌が入って感染したら大変だ」その優しさ――いや、あの偽りの優しさが、知佳に憧れと期待を抱かせ、この五年間という時間を捧げさせたのだ。思えば、あの頃の拓海はきっと、心のどこかで気
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第87話

顔だけのぞかせて、すぐに引っ込めた。「ちょっと見てくる」拓海はそう言って立ち上がり、部屋を出ていった。結衣は外で花束を抱え、どこか怯えたような遠慮がちな表情をしていた。「拓海、知佳はどう?お見舞いに来たんだけど……あの人、私のこと嫌いだから、会いたくないかもって」「大したことはない。休めばすぐ治る」拓海は、知佳が確かに結衣を嫌っていると思いながら言った。「気持ちは受け取っておく。今は気分が悪いから、今日は帰ってくれ」「うん……」結衣はもともと知佳を見舞うために来たわけではなかった。拓海に会えれば、それでよかったのだ。彼女は唇を噛み、目を赤くしながら言った。「拓海、ごめんなさい。私が悪かった。アシスタントとして仕事でミスして、知佳をこんな目に遭わせて……無事でよかった。もし何かあったら、命で償っても足りない」そこまで言うと、結衣は泣き出した。知佳は経過観察室で、その会話をはっきり聞いていた。結衣が今、会社で彼のアシスタントになっている?どうりで彼らは一緒に出張にも行き、いつも二人で行動しているわけね……でも彼女がアシスタントなら、今日のことも納得できる。拓海は外で逆に結衣を慰め始めた。「今回の件がどうして起きたのか、まだはっきりしていない。知佳が落ち着いたら、会社に戻ってきちんと調べよう」結衣は鼻をすすりながら泣いていた。「文男と新吾が調べたの。会議室の電線から出火したって……どうして老朽化したのか分からないけど、私が普段ちゃんと点検してなくて……ごめんなさい」「電線の出火なら君の責任じゃない。女の子が電気のことなんて分かるはずないだろ。とにかく、先に帰ってくれ。消防の調査結果を待とう。こっちにも少し時間が必要だから」拓海はそう言った。「……じゃあ、この花を知佳に渡してもらえる?私と文男たちからの気持ちなの。私たちは仲間だから……知佳は私たちのこと嫌ってるけど、それでも早く元気になってほしい」知佳は、耳を疑った。こんな芝居までできるなんて。それに、拓海は本当に馬鹿なの?結衣だって理系なのに、電気火災の仕組みを知らないはずがない。私ですら分かるのに。電線の異常には、会議室に閉じ込められたとき気づいていた。そして、その電線にはっきりとした切り口があった。誰かが、わざと絶縁層を削いでいた。それを見たあと、電
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第88話

誰かが、自分にマンゴージュースを飲ませようとしていた。つまりこれは、彼女を死に追いやるためのものだ。アレルギーで意識を失い、火事が起きても気づかず、そのまま昏睡状態で焼き殺される?いいわ。なら、飲んでやる。誰かが犯罪を犯そうとしているのなら、その罪が「成立するように」手伝ってあげる。けれど、知佳は分かっていた。自分のマンゴーアレルギーは、発疹が出る程度で、これまで一度も意識を失ったことはない。なのにどうして相手は、彼女が気を失うと思ったのか。拓海から聞いたのだろう。結婚して間もない頃、一度だけ、知佳はうっかりマンゴーケーキを食べて、ひどいアレルギーを起こしたことがあった。顔中が発疹だらけになり、拓海に見られたくなくて、知佳は部屋にこもって寝たふりをしていた。拓海がドアを叩いても開けず、心配した中村さんは「アレルギーのショックで倒れたんじゃないか」と何度も言ったらしい。それで、拓海はドアを壊して中に入ってきた。ベッドに横たわる知佳を見て、本当にショックを起こしたと思ったのだ。だから、今回も同じように思ったのだろう。知佳には、誰が自分を殺そうとしているのか分からない。それとも、みんながそう望んでいるのか。でも、自分がマンゴーを食べても死なないし、意識も失わないことは分かっていた。だから一度、気絶したふりをしてやろうと思った。あの「拓海、私が死んだら、あなたは私に借りがなくなる」という言葉も、すべて演技だった。可哀想なふりなんて、誰にだってできる。ただ、病院まで来てしまった以上、これ以上演技を続けるのは申し訳なかった。医者の時間を無駄にするわけにもいかない。自分はただのアレルギーなのだから。経過観察室の外では、まだ拓海と結衣が話していた。知佳は身を起こし、テーブルの上に置かれた自分のバッグに手を伸ばした。「知佳、何が欲しい?取ってやるから」拓海が気づき、慌てて病室に戻ってきた。結衣はまだ帰らず、外から病室の中をそっとのぞき見ていた。知佳はすでにバッグを手にして、スマホを取り出した。まだ電池は残っていた。「スマホで何をするんだ?」拓海が聞いた。「言ったでしょ。警察を呼ぶって」知佳はロックを解除した。「もう消防に通報したじゃないか。消防が火事の原因を調べてくれる。君がなぜ会議室にいたのか、なぜドア
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第89話

拓海の顔が突然こわばるのを見て、知佳は逆に異様なほど冷静だった。「拓海、芦田さんは私にパッションフルーツレモンジュースだって言ったのに、どうしてマンゴージュースになった?これは芦田さんがわざと細工したの?それとも、誰かが飲み物をすり替えた?それに拓海、あなたは私のマンゴーアレルギーのことを、いったい誰に話した?」結衣の顔が青ざめた。知佳は彼女に口を開かせず、続けた。「ドアを誰が施錠したかは、防犯カメラを見ればすぐ分かるでしょう。あなたの会社には防犯システムがあるはずよ。もちろん、カメラが壊れていたり、記録が消されていたら話は別だけど。それなら、警察に調べてもらうしかない。だから警察への通報は、絶対にする」結衣と拓海が何か言おうと口を開きかけたが、知佳はその前に言い切った。「誰かが私を殺そうとした!警察に通報しなきゃいけない!止めようとする人がいたら、その人が犯人よ!」結衣の顔がみるみる真っ青になった。「拓海!あなたの妻がもう少しで会議室で焼き殺されるところだったのよ!それなのに、警察に通報しないなんて、まさか庇うつもり?」知佳は目の前の男を睨みつけた。「違う、知佳……」拓海は目を閉じた。「君は、結衣を疑っているのか?」知佳は顔を強張らせた。「私は誰も疑っていない。ただ真実を知りたいだけ。だから、誰にも止める権利はない!」「拓海、私じゃない。私が知佳を傷つけるわけないじゃない!」結衣は焦って、涙をぽろぽろと流し始めた。拓海は知佳の肩を掴んだ。「そうだ、結衣がそんなことをするわけ……」「じゃあ、どうして警察に通報するのを怖がる?」知佳は彼の言葉を遮った。「もし彼女が無実なら、通報しても潔白が証明されるだけじゃない?」「知佳……」「もうその名前で呼ばないで、拓海。良心のある人なら、命の安全とくだらない感情を比べて、どちらを選ぶか分かるはず。あなたが犯人を庇うつもりなら、私は何も言わない。でも、警察への通報は私の命に関わること。あなたが私の夫であろうと、彼女があなたの何であろうと、関係ない。もし、あのとき私が人を助けた報いが、何年も経って自分の命を奪われることだとしたら、私だけじゃなく、誰も納得しないと思う!」知佳は二人のねちねちした言い訳をもう聞きたくなかった。だからためらうことなくスマホを手に取り、再びロックを解除した。
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第90話

「みんなが会社のためにどれだけ心血を注いで、どれだけ徹夜したか。会社が今日の成果を上げられたのは、そのおかげなのに……彼女は……彼女は家でみんなの努力の果実を享受してるだけで、いつもあなたに文句を言って、文男や新吾にも不満ばかり。私、彼女といい関係を築こうとして、仲良くなって、みんなの関係をうまくしようとしたかっただけなのに。でも、彼女はそれすら嫌がって、いつも私に冷たくして……悔しくて、どうして知佳があなたに会いに来たらすぐ会えて、彼女が何を望んでもあなたはすぐに与える!私、頭に血が上って、会議室に閉じ込めちゃったの。ただ……ただ、あなたにすぐ会わせたくなかっただけ……会議室が火事になるなんて、本当に思ってもみなかった……!」結衣は息も絶え絶えに泣きながらそう言った。知佳は冷たい目で彼女を見つめていた。この芝居を見て、どうせ次は拓海が「許してやれ」と言い出すのだろう。「拓海、私……もう二度としない。私……おとなしくするから……ね?許して……」結衣は涙をぽろぽろこぼし、そのすべてが拓海の袖に落ちた。知佳は軽く笑った。「結衣、あなた勘違いしてるみたいね。被害者は私で、彼じゃない。彼に許しを請うのは、おかしくない?」「でも、知佳……」結衣は怯えたように知佳を見つめた。「私を恨んでるのは分かってる……もともと私のこと嫌ってたし、今はもっと許してくれないよね。でも、謝るから。賠償する!医療費も慰謝料も全部払うから、許してくれない?」知佳は何か面白いものを見たようにさらに笑った。「賠償?私の夫のお金で、私に賠償するつもり?」結衣の顔が一気に真っ赤になり、悔しさと涙が混ざったその目から、次々と涙がこぼれ落ちた。なんて可哀想なの。まるで今日、焼き殺されそうになったのが彼女みたいじゃない。拓海は深く息を吸い込んだ。「知佳、そういう言い方は……」「じゃあ、どう言えばいいの?」知佳には分かっていた。このクズ男はすでに結衣に説得されている。彼の心の中で、結衣は可憐で優しい妖精だ。妖精が人を傷つけるなんてありえない。きっと「善意」で、「正義感」から、彼と彼の親友たちのために仕返しをしてあげて、この悪妻を懲らしめようとしただけだとでも思っているのだ。「結衣はもう君に賠償すると約束したじゃないか……」「私の夫のお金で賠償するんでしょ?彼女は会社は
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