All Chapters of 愛のない夫婦生活から、私はもう一度踊り出す: Chapter 71 - Chapter 80

272 Chapters

第71話

知佳はドキッとした。留学の情報で消し忘れたものがあったかと思った。首を伸ばして見ると、ブランドの販売員との会話だった。拓海が見ていたのは、販売員が長年ブランドを支持してくれてありがとうと言っている部分だった。知佳の返事は【もちろん!イメージキャラクターを応援しないと!】。拓海はブランドのイメージキャラクターを調べた後、スマホを投げ返して、冷笑した。「意外だな、知佳。君、芸能人のファンなのか?この数年、なんで同じブランドの服ばかり買ってるのかと思ったら、俺の金で男性芸能人を応援してたわけか」実は彼は勘違いしている。知佳が応援していたのは前のイメージキャラクターだ。チャット記録は去年まで遡っていた。あれは去年の話で、その時のイメージキャラクターはまだダンス学科の同級生だった……自分はもうダメになったけれど、かつてのルームメイトがテレビに出ているのを見ると、やはり嬉しかった。だから、コスメも香水も服もこのブランドを買って、別の形で応援していた。今年イメージキャラクターが変わったが、知佳はもうこのブランドを買うのが習慣になっていた。それに、自分も拓海も、このブランドの服が結構似合う。わざわざ変える必要もなかった。でも、たとえ男性芸能人でも何か問題ある?拓海は自分の服を見下ろした。「君は俺より他の男の方が大事なのか?」知佳は返す言葉もなかった。結婚して5年経って初めて気づいた。この人、意外と嫉妬深い。やはり結衣が戻ってきたことで、彼が生き生きしてきたのだ。知佳は手を振った。「お互い様でしょ。人生は続けなきゃいけないんだから」自分だって同じじゃない?だって、あんなに深く彼を愛していたのに、もう諦めたんだから、彼に何か言う資格があるの?「寝ましょう。明日は朝早く飛行機に乗らなきゃいけないの」知佳は以前とは別人のように冷静だった。ちょうどその時、スマホが鳴った。翔太からの電話だった。「もしもし?」知佳は寝室に向かいながら電話に出た。「誰だ?」拓海が後ろで聞いた。知佳は無視して、電話を続けた。電話の向こうから翔太の声が聞こえた。「母と妹が、ホテルに着いたか聞けって。僕が送らなかったから、厳しく叱られたよ」知佳は笑った。澤本さんと瑠奈に交代で説教されている様子が目に浮かぶ。「知佳さん、知
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第72話

実のところ、そんな必要もなかった。結婚はお互いの選択だ。あの頃の彼女も選び間違えただけだった。「ため息?彼と電話したあとにため息?」拓海が知佳のスマホを指さした。「君は、結婚証明書に誰の名前が書いてあるか忘れたのか?」知佳は力なく彼を見つめた。「忘れてるのは、私じゃない。拓海、あなたよ」拓海は眉をひそめ、冷たい笑みを浮かべた。「それで?今さらこんな芝居を見せて何になる?目的は何だ?俺を君のように嫉妬させて、結衣から取り戻して、また自分の側に縛りつけたいのか?挑発のつもりか?」知佳は呆れて、冷ややかに目をそらした。「好きに思ってれば」彼女は布団に滑り込み、スマホを枕元に置いて眠る準備をした。「起きろ!寝るな!」拓海が布団を乱暴にめくる。「拓海、もう寝ましょう!私はあなたみたいに恥知らずじゃない。ただ澤本さんたちと話してただけよ!」理不尽にもほどがあるだろう。拓海はさらに冷ややかに笑った。「どういう意味だ?あいつの家族と仲良くなったって言いたいのか?」彼は知佳のスマホをつかみ、顔にかざしてロックを解除した。「何してるの?スマホ返して!」知佳は慌てて取り返そうとした。だが、拓海は連絡先を探すのに集中しており、その隙に知佳が奪い返した。「渡せ!澤本を消せ!」拓海の声が鋭く響く。「俺の金を使う人間が、俺の言うことを聞かないなんて許さない!」知佳はスマホを枕の下に押し込んだ。「お前……」拓海は怒りに顔を歪め、身を乗り出して奪い取ろうとした。「男ひとりのために、そこまで言うことを聞かないのか?」知佳は必死にスマホを押さえ、譲らなかった。二人はしばらくもみ合った。そして、拓海が本気で怒った。スマホを奪うのをやめ、ベッドの前に立ち尽くし、知佳を見下ろす。その瞳には、見たこともない冷たい光が走っていた。知佳は思わず布団を胸元まで引き寄せた。次の瞬間、布団ごと持ち上げられ、体をひっくり返された。拓海が覆いかぶさる。「拓海、やめて!またおかしくならないで!」知佳は押さえつけられ、身動きが取れなかった。「おかしい?」拓海の手がパジャマの中に滑り込む。その瞳には、得体の知れない熱が宿っていた。「今日、警告しただろう。どれだけひどい男か見せてやるって!」拓海がこうして理性を失うのは、初めてではなかった
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第73話

知佳のかすれた叫びは、拓海には何の効果もなかった。彼の動きはますます荒くなり、知佳の体からは、もはや何も覆うものがなくなっていた。拓海も服を脱いでいるかもしれない。肌が直接触れ合い、恐ろしいほどの熱が伝わってきた。知佳の胸の奥に、絶望にも似た恐怖が広がった。もしかしたら、今夜は本当に何も守れないかもしれない……「拓海、このまま続けたら、私はあなたを恨むよ!」本当に恨む。これから新しい生活を始めようとしているのに、未来に希望を抱いているのに、どうしてまた地獄に引きずり込もうとする?絶望のあと、知佳は妙に冷静になった。自分の力では、理性を失った拓海を止められない。ならば、もしこのまま何かが起きてしまったとしても、そのあとのことを考えなければならない。絶対に、あの暗闇に戻ってはいけない。明日、必ずアフターピルを買う。それがいちばん大事。そして、このことで離れる計画を止めてはいけない。今夜が過ぎれば、拓海と別れるまでのカウントダウンは残り二十日だけ。五年も経った。二十日なんて、すぐ、すぐ終わる……知佳が抵抗しなくなると、拓海の動きも少しずつ緩やかになった。知佳の耳元で、低い声がささやく。「今は素直だな。最初からそうしていればよかった。どうして言うことを聞かない……」知佳は目を閉じた。涙が頬を伝い、止めようとしても止まらなかった。「泣くな。優しくする。少し痛いだけだ……行くぞ……」拓海の指先が彼女の頬をなぞり、次の瞬間、視界を覆った。どうして、目を隠す?まさか顔を見えなくすれば、本当に私を結衣だと思い込めるからか……ピンポーン。そのとき、チャイムが鳴った。拓海は動きを止めなかった。「チャイムが鳴ってる。スタッフが食器を片付けに来たのよ。開けないと勝手に入ってくる!」知佳は最後の望みにすがった。「俺が呼ばなきゃ誰も入ってこない」拓海はむしろ、さらに激しくなった。痛みが体を貫いた。チャイムが再び鳴り、ドアの外から女性の声が聞こえた。「……拓海」と呼ぶような声。「結衣!結衣が来た!」知佳は叫んだ。そして、痛みが消え、拓海の動きが止まった。だが、背中からは離れない。「結衣が来て、嬉しいのか?」息を荒げながら、嗄れた声で問う。知佳はどう答えればいいのか分からなかった。まだ彼の体温が背中に
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第74話

「怖がらなくていいよ。俺も一緒に行く。俺がそばにいるんだから」知佳は心の中で呆れた。まるで自分がよそ者みたいな会話だ。「うん……」結衣は甘えるような声で答える。「拓海、ありがとう。本当に優しいね」「俺が優しくなくて、誰が優しいんだ?」拓海の声には、柔らかな笑みと温もりがにじんでいた。「拓海……もう一つ言ってもいい?怒らないでね……」結衣はまだぐずぐずとした声で言う。知佳には理解できなかった。わざわざここまで来たのに、どうしてまだ行かないのだろう。まさか、ドアの前でイチャイチャを聞かせる気?「もちろん怒らないよ。俺が結衣に怒るわけないだろ。俺は永遠に結衣に怒らない」その言葉を聞いた瞬間、知佳の頭にあのノートの一節が浮かんだ。結衣との約束100項目。その中に一つあった。【拓海は、永遠に結衣に怒らない】あの人は、本当に言ったことを守る人なんだ……はあ……「拓海……」結衣の声がさらに甘くなる。「言ってみな」「拓海……」結衣の声は恥ずかしそうに、少しねっとりしていた。その声を聞いただけで、彼女が体をくねらせている様子が目に浮かぶ。「私ね……あなたが知佳と一緒に寝るの、イヤなの。二人が、その……あのことをしてるんじゃないかって……」知佳は息を呑んだ。言葉が出ない。そして拓海の答えは、さらに胸を刺した。「してない。彼女とはしない。行こう、部屋まで送るよ」ようやくドアが閉まった。知佳はほっと息をつき、ベッドから降りて、慌てて内鍵をかけた。ドアにもたれ、胸に手を当てる。痛くないはずがない。鈍い痛み。まるで誰かが巨大な石で胸を何度も叩いているみたい。でも、不思議と怖くはなかった。時間は、人を恋させることはできないかもしれない。けれど、痛みを癒してくれることはできる。知佳は息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。ようやく安心して眠れそうだ。ええ、偶然ね。私もあなたの拓海と「あのこと」をするのはイヤだから……二メートルの大きなベッドで一人で寝るのは、思ったより快適だった。目覚ましをセットしていなければ、時間どおりに起きられなかっただろう。目覚ましは朝の五時に設定していた。早めにこっそり出て、自分のホテルに戻ってから海城に帰るつもりだった。けれど、思いがけないことが起きた。ドアを開けると、自分のスー
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第75話

「拓海、朝からわざわざ出かけて疲れないのか?あとであの部屋をキャンセルしたって、大したことないだろ?」文男の声だった。「俺があとで行く?彼女は朝一番で逃げるに決まってる」今度は拓海が言う。「いや、拓海、逃げるってなんだよ。どうせ飛行機で帰るだけだろ?」拓海は一瞬、言葉に詰まったようだった。少し間を置いてから、ぽつりと答える。「……そうだな。ただ、腹が立って」「俺だって腹立つさ。お前の金を使って他の男と?そんな嫁、もうとっくに追い出すべきだっただろ!」「俺に言わせりゃ、一発殴ってやるべきだ。拓海、お前は優しすぎるんだよ。殴ってやれば、少しはおとなしくなる」はあ……これが、拓海の友人たち。いつもこう。もしこの人たちが、拓海の前で一度でも自分の悪口を言わない日が来たら――太陽が西から昇るわ。結衣が口を開く。「もうやめて。拓海は十分つらい思いをしてるのに、みんなまでそんなこと言ったら、余計苦しいでしょ?それに、拓海がこんなに優しくて、真っすぐでいるからこそ、今日のあなたたちがあるのよ。もし拓海が悪徳商人だったら、みんな食べていけなかったはずじゃない」一瞬、空気が止まった。文男が苦笑しながら頷く。「……その通りだな。拓海がこんなに義理堅くていい人じゃなかったら、俺たちが親友になんてなれなかった。俺たちも拓海が心配なんだよ。やっぱりお前だ、結衣。お前だけが拓海を一番わかってる」「そうそう。お前が戻ってきて本当によかったよ。拓海はここ数年本当につらい思いをしてきた。お前みたいに気づかってくれる人が必要なんだ」もう一人の友人がそう言った。「もういい、その話はやめよう」拓海が静かに言う。「みんなが俺のことを思ってくれてるのはわかってる。この数年、お前たちがそばにいてくれたから、なんとかやってこられたんだ」……つまり、自分といた五年間は地獄ってこと?結衣が戻ってきたのは、苦しみから救ってくれる天使ってこと?知佳はコーヒーカップを置いた。朝のアメリカンは、やっぱり少し苦すぎる……彼女は静かに立ち上がり、柱の陰から出て、テーブルの横を通り過ぎた。正面に座っていたのは文男だった。文男は口に食べ物を運んだまま、顔を上げる。そして、微笑みながら通り過ぎる知佳の姿を見て、目を丸くし、思わず口の中の食べ物を落とした。「文男、
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第76話

知佳はまた下を向いて拓海に言った。「ごめんなさい、拓海さん。気をつけてなかった。でも、このコーヒーってそんなにまずい?一口も飲まないなんて。ねえ、苦いのは拓海さんの人生?それともコーヒー?」カチャン、と音がした。拓海のもう一人の友人の手から、スプーンが皿に落ちた音だった。この言葉で、知佳がさっきの会話を全部聞いていたことがはっきりした。「あら?山城新吾(やましろ しんご)、スプーンすらしっかり持てないなんて。私、驚かせちゃった?ごめんなさい。じゃあ、失礼するね。ゆっくりどうぞ」知佳はそう言って微笑み、一歩ずつレストランの外へ向かった。背後から、食器がぶつかる音がした。そして、すぐに結衣の泣き声が響いた。「文男、やめて、落ち着いて。拓海のことを考えてよ。拓海の立場で考えられない?私が行くから、私に行かせて!」「知佳!」結衣が後ろから呼んだ。知佳の足が不便なので、すぐに追いつかれた。結衣は知佳の前に立ち、何も言わずにまず泣いた。「知佳、ごめんなさい。昨夜は私が悪かった。拓海を呼び出すべきじゃなかった。でも、本当に怖かったの。私……あなたが想像できないようなことをたくさん経験して、昨夜悪夢を見て……いけないって分かってる。私が悪かった。責めるなら私を責めて。水をかけるなら私にかけて。拓海を責めないで」拓海はずっと席に座ったままだったが、結衣が駆け出すと、彼もすぐに立ち上がって後を追った。結衣が泣き終わると、知佳の前には二人が立っていた。拓海は彼女を睨むように見て言った。「知佳、結衣に悪気はない。怒ってるなら俺に向けろ」知佳はただ可笑しかった。可笑しくて、そして哀しかった。彼女はまだ結衣に何も言っていない。何もしていないのに、彼はもうこんなに庇っている。もし先、彼が友人たちの前でほんの少しでも自分を庇ってくれていたら、あの連中もあんなに好き勝手言わなかったのに。知佳は本当に笑った。声を出して笑い、手を振った。「怒ってない。誰も責めてないよ。考えすぎ」結衣と拓海は呆然とした。たくさんの言葉を用意していたのに、もう続けられない?「知佳」拓海は言葉を選びながら言った。「分かってる。君は反対のことを言ってる。でも昨夜、結衣は本当に悪夢を見て、夜中ずっと泣いてて……」知佳は隣の空いたテーブルからティッシュを何枚か取って、結衣
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第77話

「俺も文男と同じ意見だな。この手は女がよく使う。桐生家の息子に近づいたのも同じ理屈だろ。桐生さんほどの家業、あの御曹司は生まれた時から恵まれて、どんな女も見てきただろう。女優だって列を作ってるはずだ。知佳なんかに目を向けるか?」「あなたたちったら……知佳のことをそんなふうに言わないで。拓海が辛くなるでしょ!」結衣は咎めるような口調で言った。「でも……拓海、新吾は知佳を貶めてるんじゃなくて、その……実は……事実を言ってるだけで……私も女だから分かるの。ああいう心理。注目を引きたいだけなの。……私も、時々使ったことがあるから」「知佳のことは分かってる」拓海の声が響き、ようやく朝の茶番劇に終止符を打った。「彼女は俺の責任で、俺の問題だ。結婚した時から、一人で背負うつもりだった。お前たちを巻き込むつもりはなかった。なのに、結局お前たちまで巻き込んで申し訳ない」「何言ってんだ?みんな仲間だろ、そんな水臭いこと言うなよ」「そうだよ、拓海。俺たちは、お前が辛い思いしてないか心配で……」知佳はレストランを出た。もう、彼らの声は聞こえなかった。朝のあのアメリカンの苦味が、舌先から胃の奥へ広がっていく。体の中が、全部苦くなったような気がした。拓海の目には、辛い思いをしているのは結局、文男と新吾と結衣だけなのだ……でも、まだ遅くない。この五年間、無駄に過ごさなくてよかった。もし本当に何もせずに過ごしていたら、今この瞬間、どれほど絶望し、どれほど無力感に襲われていただろう。知佳は部屋に戻るとすぐに荷物をまとめ、空港へ向かった。朝食をほとんど取らなかったので、空港のラウンジで軽く食べたら搭乗の時間になった。この便の機材は、ビジネスクラスの左右窓側が一席ずつ、中央が二席になっていた。知佳は窓側を選んだ。座席に腰を下ろし、スマホの電源を切る。飛行機の離陸を待ちながら、バッグから英語の原書を取り出して読み始めた。それは、彼女がこの五年間続けてきた習慣だった。一日数ページでも、数章でも、必ず読む。そうしてページをめくっていると、聞き覚えのある声が耳に届いた。「拓海、私の席は真ん中なの。あなたは?」「拓海、俺と結衣が一緒だから、交換しない?あなたが真ん中に座ってよ」「ああ」そして、知佳の隣の二席に、見覚えのある二人が座
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第78話

「じゃあ、使わなくていいんじゃない?」「でも、機内が寒くて……」結衣はスカート姿で、両腕を出していた。拓海は上着を持っていた。その言葉を聞くと、すぐに上着を脱いで結衣にかけた。「俺の上着を着てくれ」その光景は、知佳の視界の端にも映っていた。結衣が、得意げな視線をこちらに送ってくる。知佳は本に視線を戻し、何も反応しなかった。けれど、結衣はそれで満足する気はなかったらしく、わざわざ声をかけてきた。「知佳、拓海の上着を借りても気にしない?」わざとおどおどしたように、申し訳なさそうな表情で。知佳は思わず笑いそうになった。この茶番、誰に向けて演じているつもり?私?それとも、拓海?彼女は顔を上げて、穏やかに微笑む。「もちろん気にしないよ」夫を譲ったんだから、上着一枚ぐらい何だというの。「ありがとう、知佳。あなたって本当に優しいのね」結衣は感動したような顔をして言った。「どういたしまして」知佳はまた本に目を落とした。「結衣」拓海が呼ぶ。知佳には、彼がどんな目で結衣を見ているのかまでは分からなかった。ただ、結衣が申し訳なさそうに小さく言うのが聞こえた。「拓海、私、知佳と仲良くなりたいの。そうすれば、あなたが家に帰ったとき、彼女もあなたに優しくしてくれるかもしれないし……」知佳は呆れた。こんなセリフ、小説なら間抜けな主人公しか騙されない。でも今の拓海も、その「間抜け」と何も変わらない。考えなくても分かる。今この瞬間、拓海と彼の取り巻きはきっと「さすが結衣、本当に気が利く」って思っている。……お願いだから、静かにして。せめてこのフライトぐらい、平穏に終わらせて。けれど、結衣は本当にそう思っていないらしい。また、わざわざ話しかけてきた。「知佳、何読んでるの?」知佳は本を閉じた。「暇つぶし」「わあ、英語の原書!知佳、読めるの?すごい!」口調は褒めているようだったが、結衣の目には嘲りの色しかなかった。「知佳、意外ね。英語の原書が読めるなんて。芸術系の学生だったのに」そのとき、「良き夫」森川拓海氏が、同じような目で彼女を見ながら言った。「何が分かるんだ?俺は彼女のIELTSの本を見たが、中学レベルの単語にその意味が書いてあった。問題の正答率は三割だ」拓海さん、本当に大げさね。どんなに勉強が苦手でも、本を
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第79話

知佳も彼らを見て笑った。冷静に、淡々と。やがて拓海は笑わなくなった。他の人たちも、次第に笑いをやめた。知佳は拓海を見て、微笑みながら尋ねた。「そんなにおかしい?」拓海の目が徐々に険しくなっていく。知佳は笑みを浮かべたまま続けた。「他人と一緒に、自分の妻を笑いものにして、楽しい?」拓海はすぐには答えられなかった。「知佳……」結衣は目を赤くし、何か言おうとした。またお芝居が始まるの?知佳は聞きたくもなかったし、もう関わる気もなかった。イヤホンをつけて、この人たちとはもう関わらないことにした。この後、結衣がどう拓海に甘えて訴えようと、もうどうでもよかった。最初から、知り合わなければよかった。その後、このフライトで彼らと関わることは一度もなかった。降機のとき、知佳は荷物を取ろうとした。結衣は筋力を自慢している人みたいな姿勢で棚を開けながら言った。「拓海、知佳の荷物を取ってあげて。足が不自由だから」知佳は唖然とした。ちょうど結衣の荷物を取ろうとしていた拓海が、動きを止め、回り込んで知佳の棚を開けた。可笑しかった。つまり、結衣の顔を立てるために手伝ってくれるのね?拓海は眉をひそめた。「何が可笑しい?」彼は、この笑い方が一番嫌いだった。知佳の笑みは深くなった。「考えてた。結衣に感謝しなきゃいけないのかなって」結衣の名を出した途端、全員の視線が結衣へと向いた。警戒に満ちたその目は、まるで足の不自由な彼女が結衣に何かできるとでも思っているかのようだった。結衣は慌てて言った。「いいの、気にしないで、知佳……」知佳は結衣を見ず、ただ拓海の目をまっすぐに見つめ、微笑んだ。「結衣に感謝しなきゃね。私の夫を少しだけ貸してくれて、荷物を運んでもらえるんだから」「知佳!」拓海の目つきがすぐに変わった。拓海だけではない。文男と新吾の怒りもあふれそうだった。文男は拳を握った。殴るつもり?結衣の目がまた赤くなり、涙がにじんだ。はあ……知佳は自分が一体、どこで結衣をいじめたというのか理解できなかった。「通して。荷物はないの。……でも、ありがとう、拓海さん」知佳は笑顔を消し、拓海の横を通り抜けて機内のドアへ向かった。背後から、結衣の悔しそうなすすり泣きが聞こえてくる。「拓海、本当に善意だっ
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第80話

たとえ完全に治らなくても、治療の過程が医師の経験や症例のひとつになればそれでいい。実際生活に希望が持てるようになれば、心は穏やかになる。鍼治療を終えて外に出ると、知佳は近くのショッピングモールで新しいアイスクリーム店を見つけた。ピスタチオ味のアイスを美味しく食べてから、タクシーで家へ帰る。それから留学ビザの予約だ。近い日付を選んで申し込みを済ませると、すぐに「予約が完了しました」というメールが届いた。その文字を見た瞬間、心が躍った。数日の旅の疲れがまだ体に残っていた。予約を終えると、軽く食事をして、シャワーを浴び、早めにベッドへ横になった。スマホで物件を見たり、留学体験談を読んだり、同じ学校に通う人がいないか探したりする。賃貸の方法を調べてサイトを開くと、異国の雰囲気にあふれた部屋や街並みの写真が目に飛び込んできた。その瞬間、涙がこみ上げそうになり、一度あふれ出すと止められず、頬を伝って流れた。けれどそれは幸せの涙だった。これまでの苦労がようやく報われたような涙。知佳は、まるで背中に一対の翼が生えて、ぐんぐん伸びていくような気がした。やがてそれが大きくなれば、遠い空へ飛び立てる……そんな気がした。窓の外はもう暗い。この場所と別れる日まで、また一日減った。今は本当に、日を数えるようにして暮らしている。拓海が今日、海城に戻ってからどこへ行ったのか。知佳には分からなかったし、もう知りたいとも思わなかった。以前の知佳は、いつも彼の帰りを待っていた。特に結婚したばかりの頃は、距離を縮めたくて。けれど結婚前は、二人の生活にまったく接点がなかった。彼に近づきたくて、「今日は何をしたの?」「どこに行ったの?」と聞いていた。返ってくるのはいつも同じ答え――「会社」。会社に行ったのは分かっている。でも、もっと話すことはないの?知佳も、自分が一日何をしていたのか、何を読んだのかを共有したかった。けれど拓海は興味を示さなかった。やがて知佳は気づいた。その無関心は、ただ話したくないからではない。生活を共有したくないし、彼女が一日どう過ごしたかにも関心がない。病気をせず、痛みもなく、生きていればそれでいい――拓海にとっては、そういう存在なのだと。夜の十時を過ぎたころ、拓海が帰ってきた。そのとき、知佳の涙
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