All Chapters of 愛のない夫婦生活から、私はもう一度踊り出す: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

ずっと同じような話ばかりを繰り返し、結衣は一言ごとに「あなたが恥をさらしている」と責め立ててくる。知佳はもううんざりしていた。「もういい。本当に恥をかきたくないなら、私から離れて。今、ちょっと頭がおかしくなってるから、何を言い出すか分からない。どうせあなたたちの目には、私は恥ずかしい存在なんでしょ?だったら、もっと恥をかいても構わない」知佳は開き直った。ただ、この人たちに離れてほしかった。もう、ただ目に入るのも嫌だった。しかし、拓海は去らなかった。三人とも、その場に残り、知佳の周りの席に座った。そのとき翔太がジュースを持って戻ってきて、三人を見て呆れたように笑った。知佳の周りにはもう席が空いていなかったので、ジュースを彼女に渡し、自分は少し離れた場所に腰を下ろした。結衣はすぐに話題を変え、桐生家がいかにすごいかを語り始めた。特に桐生みさきの紹介となると、桐生グループの謎に包まれた実力者だの、MITの優秀な卒業生だの、国際的な協会の会長だのと、まるで肩書きのオンパレードのように並べ立てた。「桐生社長の長男として、今回帰国してすぐに正式にグループを引き継ぐらしいの。あとで姿を見かけたら、絶対に失礼のないようにしてね」結衣は知佳に念を押しながら、拓海の顔色をうかがった。まるで「私って気が利くでしょ?」とでも言いたげに。翔太はずっとその話を聞いていて、苦笑まじりに言った。「桐生さんにそんな長男がいたなんて、初耳だな」「あなたが知らなくて当然よ。ダンサーのあなたが、どうして知ってるの?」結衣は睨みつけるように言った。この男のことを、彼女は心底恨んでいた。自分が森川夫人ではないことを暴いたのが、この男なのだ。調べたこともある。彼はただの海城舞踊団のダンサーで、大した家柄でもない。今日この場にいられるのも、どうせ誰かのコネだろう。なにしろ、ここは純粋な上流のビジネスパーティーなのだから。「知佳」拓海が名を呼んだ。「結衣の言う通りだ。桐生家の背景は理解しておいた方がいい。しくじらないようにな」「私がしくじったって、あなたに関係ある?さっきも言ったでしょ。あなたたちとは知り合いじゃない」知佳は、結衣の口から出た「桐生家の長男」という言葉を思い出し、内心で笑いをこらえた。「もういいよ、結衣。彼女に言っても無駄だ」文男が白い目を向けて言った。「
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第62話

「僕と殴り合いでもするつもり?」翔太は笑った。「美人のために怒るわけか。でも、ちょっと不思議だな。あなたは愛人のために僕と殴り合って、僕はあなたの奥さんのためにあなたと殴り合う。どう考えても変じゃないか?」「澤本さん、あなたには誰かのために俺と殴り合う資格はないようだが、あなたが言った二人は――言い方が正しいかどうかは別として、あなたとは何の関係もない。ただ、その無礼を懲らしめるために、後で一発殴るのは構わないがな」いつも冷静な拓海が、ここまで挑発的になるのは珍しかった。それだけ彼も、翔太の言葉に本気で腹を立てていたのだ。しかし、翔太はまったく動じなかった。軽く笑いながら言った。「森川さん、本当に僕を殴れると思ってる?」「試してみるか」拓海の瞳に、冷たい光が宿る。その緊張を破るように、結衣が口を開いた。「拓海、もういいじゃない。ただのダンサーと張り合うことないわ。彼とは立場が違うんだから。私たちには、守るべきものがあるのよ」その言葉を聞いた知佳は、思わず笑いそうになった。結衣が翔太を見下す口ぶり――それが滑稽でたまらなかった。そのとき、来賓席のあたりでざわめきが起こった。澤本夫人と、その夫である桐生氏が会場に入ってきたのだ。二人の後ろには、一人の若い女性がついている。きっと桐生美咲だろう。「来たわ!」結衣が立ち上がり、声を弾ませた。「こっちに向かってきてる、拓海!」その言葉に促され、全員が立ち上がった。知佳と翔太も礼を失しないように席を立つ。桐生夫妻の一行は、確かに彼らの方へ向かってきた。澤本さんが遠くから笑顔で声をかける。「今日は本当に綺麗で、すぐには分からなかったわ」結衣はうれしそうに拓海を見上げた。「拓海、澤本さん、私のことを褒めてるの?」だが、拓海はどこか違和感を覚えた。翔太の表情が妙におかしい。それに、澤本さんの視線があまりにも親しげだった。結衣のように一度しか会ったことのない相手に、こんな目を向けるはずがない。知佳は静かに微笑んだ。その言葉が自分に向けられたものだと、すぐに分かったからだ。一歩前に出ようとしたその瞬間、足元で何かに引っかかり、体が前のめりになった。「あっ、知佳……!」澤本さんの声が響く。翔太は少し離れた場所にいた。一番近くにいたのは、拓海と結衣。拓海はすばやく手を伸ばし、知佳
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第63話

結衣は顔色を変えて拓海を見つめた。まるで「どうして澤本さんが知佳にこんなに親しげなの?」とでも言いたげだった。拓海も戸惑いを隠せなかった。まさか自分の妻が桐生家と関わりを持っていたなんて――そんなことこれまで一度も聞いたことがない。これは一体どういうことなのか。澤本さんは桐生さんを鋭く睨んだ。「知佳よ、うちの息子の命の恩人なのよ。忘れたの?」桐生さんははっとしたように目を見開いた。「ああ、思い出した。ダンス学科のあの子か。知佳、無礼をしたね」結衣と拓海は、ますます理解が追いつかなくなった。――知佳が二人の息子の命の恩人?澤本さんと一緒に来た女性が、穏やかな笑みを浮かべて知佳に手を差し出した。「はじめまして、知佳さん。私は桐生美咲。お会いできて嬉しいわ」知佳はその名を聞いて、結衣が話していた桐生家の長男のことを思い出し、思わず微笑んだ。結衣の顔はみるみる紅潮し、すぐにその血の気が引いていった。そんな結衣を見て、翔太あえて笑いながら言った。「姉さん、もう少し外に出たほうがいいよ。今じゃ世間では桐生家の御曹司は万能な桐生美咲さんだって噂になってるんだから」「そんな大げさな……いつから私が御曹司になったの?御曹司はあなたでしょ?」美咲はおかしそうに笑った。「やめてよ、姉さん。からかわないで。僕なんてただの弟だよ」翔太は知佳に目を向けて笑った。「家の中での僕の地位なんて、うちのモチより下だ」「モチは私たちの家の犬なのよ」澤本さんが知佳に説明した。知佳は思わず吹き出し、目を細めた。なんて温かくて、賑やかな家族なんだろう。まだ知り合って間もないはずなのに、彼らからは心からの善意が伝わってくる。ただ一人、結衣だけが息苦しさに襲われていた。桐生美咲が御曹司じゃない、その事実だけで、すでに大恥をかいた。つい先ほど、知佳の前でどれほど桐生美咲と親しいかを自慢していたかと思うと、穴があったら入りたい気分だ。それに、自分が「ただのダンサー」と侮った相手が、まさか桐生家の息子だったなんて。知佳が桐生家の人たちと楽しそうに話しているのを見て、結衣はもう我慢できなくなり、翔太に向かって叫ぶ。「あなた、ダンサーじゃなかったの?澤本って名前じゃなかったの?」翔太はわずかに口元を緩めて答えた。「母の姓を名乗ってるだけだ。それが何か?
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第64話

案の定、拓海は結衣のもとへ歩み寄った。結衣は彼の姿を見るなり、まるで頼れる人を見つけたかのように、甘えた声で泣き出した。「拓海、私じゃないの。本当に違うの。ただ……澤本さんが来てくださったのが嬉しくて、話しかけようとしただけ。あなたの役に立ちたいって思ったの。知佳があの瞬間に立ち上がるなんて思わなくて……多分、私たちのスカートが引っかかったのかもしれないの。それで急いで説明したのも、みんなが知佳を責めないようにと思って……誤解されたくなくて……」相変わらず、結衣は見事に自分の責任をすり抜けた。そして、拓海はきっとこの嘘を信じる。「分かってる。怖がらなくていい。俺がいるから」ああ、やっぱりね。拓海のこの言葉。もし彼が自分の夫じゃなければ、この二人を応援したくなるかもしれない。――なんて情熱的で、献身的な愛なんだろう。その時、澤本さんがやっと結衣は誰かを思い出したように頷いた。「森川さんじゃありませんか」「はい、森川拓海です。先日はお世話になりました」拓海は結衣のそばに立ち、彼女を守るように腕を伸ばしながら、視線を知佳に向けた。その瞳の奥にある意図は、知佳には読み取れなかった。澤本さんは再びうなずき、桐生さんに向かって言った。「森川さんとのプロジェクトって、あなたが話していたものよね。続けるかどうかは、あなたが決めなさい。私は口を出さないわ。ただこの女性は気に入らない。今日は私のパーティーだから、出て行ってもらいましょう」実際、拓海が首都まで来て提携の話を進められるということは、それだけで彼の実力と地位が確かな証拠だった。けれど拓海は「海城の愛に生きる男」、結衣のためなら、すべてを捨てる覚悟のある男なのだ。知佳は、拓海が結衣の手を取って立ち上がらせるのを見つめた。そして、堂々と優雅に澤本さんと桐生さんへ一礼する。「今夜のパーティーでご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。これにて失礼させていただきます。皆さま、どうぞお構いなくお楽しみください」拓海はそう言って、泣き続ける結衣を連れて会場を後にした。文男も後を追ったが、去り際に振り返り、敵意のこもった目で知佳を睨みつけた。まったく、また私のせい?「行きましょう、知佳。嫌なことは気にしないで、パーティーを楽しみましょう」澤本さんが知佳の手を優しく引いた。澤本さん
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第65話

彼は結衣たちと一緒に帰ったはずだった。どうして、またここにいるのだろう。拓海はパーティーのときと同じ礼服を身にまとっていた。その立ち姿は、富裕層の男たちの中でもまったく見劣りしない。ただ、少しだけ髪が乱れている。彼は階段のいちばん下に立ち、動こうとしなかった。まるで、知佳が降りてくるのを待っているかのように。「こっちから行こうか」翔太が小声で促した。知佳は黙って頷く。二人が横の通路へ回ろうとしたその瞬間、拓海は素早く階段を上り、知佳の前に立ちはだかった。「俺を見たのに、他の男と行くのか?」声は静かだが、底が読めない。今夜のことは、彼にとっても衝撃だったはずだ。もし恨みを抱くなら、その矛先は自分に向かうに違いない。知佳は小さく笑った。「あなたが、知らないふりをしろって言ったんじゃないの?」「俺が?いつそんなことを言った?」拓海は逆に問い返す。知佳はくだらないと思った。「言った」「言ってない」――そんな証拠もない言い争いに、終わりなんてあるはずがない。「通してください、森川さん」そう言って身体を傾け、彼の脇をすり抜けようとした。だが次の瞬間、拓海が予想外の行動に出た。彼は身をかがめ、知佳を抱き上げたのだ。「拓海、何するの!」知佳は思わず声を上げたが、拓海は一言も返さない。ただ黙って、彼女を抱いたまま階段を下りていく。宴会が終わったばかりで、出入りする人の姿が多い。ここで大声を上げるわけにはいかない――そんな恥をかくことはできなかった。拓海は低く告げた。「君は俺の妻だ。あの澤本の坊ちゃんには、分別を持たせろ。俺は西京の人じゃない。もし切れたら、恥も外聞も関係ない。桐生家の御曹司が人妻に手を出したなんて、そんな醜聞を背負えるか?」「みんながあなたみたいに恥知らずだと思わないで!」知佳は抱えられたまま、怒りを込めて叫んだ。だが彼女も翔太を巻き込みたくはなかった。彼に追いかけてこないよう、目で合図を送る。どうせホテルに帰るだし、誰と帰るかなんて、もうどうでもよかった。拓海は車で来ていた。宴会場の階段の下に停めてある。彼はそのまま知佳を抱え、ドアを開け、彼女を助手席へ押し込んだ。「泊まってる場所はどこだ?」車に乗り込むと拓海が問う。知佳は答えなかった。「言わなくてもいい」拓海は短く言い、アクセ
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第66話

「自分で歩く」知佳は眉をひそめた。ホテルに連れてきて、いったい何をするつもりなのか。逃げようとは思わなかった。足の悪い自分が彼より速く走れるはずもない。そして、彼女は拓海が部屋を取るのが見えた。何?知佳の頭の中は疑問だらけだ。「まさかこの部屋、私のために取ったなんて言わないでよね?」「運転免許証」拓海が手を差し出した。「嫌よ。自分で部屋を取ってるから、どうしてあなたのところに泊まらなきゃいけないの?」拓海は知佳を無視して、フロントに尋ねた。「本人確認のため、彼女の免許証番号を伝えても大丈夫ですか?」「はい、大丈夫です」その声を聞きながら、知佳は彼が数字をすらすらと読み上げるのを聞いた。それは自分の免許証番号だった。「私の番号、覚えてるの?」知佳は、拓海が細やかな男であること自体は否定しない。ただ、その細やかさはスマホのリマインダー頼みで、心に刻んでいるわけではない。その言葉に、拓海の表情が険しくなる。「俺の遺産を相続する人間の番号を、覚えてないわけないだろ」知佳は黙り込んだ。フロント係はルームカードを拓海に手渡した。知佳が沈黙しているのを見て、拓海は薄く笑った。「俺があとどれくらいで死ぬか計算してるのか?それとも、どうやって殺すか考えてるのか?」知佳は呆れた。言葉も出ない。拓海の一言でフロント係が怯え、カードを渡す手が震え、テーブルに落としてしまう。おずおずとこちらをうかがうような視線をよこした。知佳は無邪気な顔でフロント係を見返した。私が人を殺せそうに見える?拓海はすぐに彼女の考えを見抜いたように、鼻で笑った。「無実ぶるな。このあいだ、もう俺を殺しかけただろ」知佳は思わずため息が出そうになる。拓海の目は相変わらず鋭い。こんな小さな考えまで見抜くのに、結衣の策略は見抜けない。――見抜きたくないんでしょう。拓海はカードを拾い直し、知佳を見据えた。「行くぞ」「私……」知佳はなおも抵抗しようとしたとき、ふっと体が軽くなり、また抱き上げられた。フロント係は、ただ呆然と見送るしかなかった。拓海は知佳を抱えたままエレベーターに乗り、動き出してからようやく下ろした。鏡には、彼に腰を強く抱き寄せられている姿が映る。知佳ははっと目をそらし、力を込めて彼を押した。「そんなに嫌か?
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第67話

「ねえ、拓海。結衣のところに行かないの?私をこんなところに連れてきて、いったい何のつもり?」知佳はスイートルームの中を見回したが、拓海の意図がまったく読めなかった。その問いに、拓海は怒りを押し殺すように笑った。「そんなに寛大だとは思わなかったな。そうと知っていれば、この五年で十人でも二十人でも女を作っておけばよかった」知佳は靴を脱ぎ、裸足で柔らかなカーペットを踏みしめながら特に気にする様子もなく言った。「今からでも遅くない」一度、愛さないと決めたらどれだけ心が痛もうとも、もう二度と愛してはいけない。そうやって、耐えるしかない。拓海は眉をひそめ、窓際に立つドレス姿の知佳の背中を見つめた。「まさか、澤本に取り入ろうとしてるんじゃないだろうな?」知佳は冷笑して返す。「自分の心が汚れてると、人の心まで汚く見えるのね」「知佳、教えてやるよ」拓海はゆっくりと彼女の隣へ歩み寄った。「金持ちの世界は、君が思ってるほど甘くない。人生は恋愛小説じゃない。空から都合のいい男が降ってきて、毎日愛されるなんてことはない。金持ちの世界にあるのは、利益の交換だけだ」二人は並んで立ち、窓の外に広がる無数の灯りを見下ろした。知佳はその言葉に、どこか聞き覚えがあった。「あなたもそう思ってるのよね?みんなが何を狙ってるのかって」口元に笑みを浮かべ、続けた。「私がおばさんだから?それとも、足が悪いから?」「そういう意味じゃ……」「そうよ」知佳は彼の言葉を遮り、顔を上げて微笑んだ。「あなたは母より少しだけ言い方がましなだけ。胸に手を当てて言ってみて。それ、本当にそういう意味じゃないって言える?私みたいに何の取り柄もない、三十近い女を、誰が好きになるって?違う?」拓海は黙った。知佳は小さく頷き、皮肉げに笑った。「この数年、ご苦労さまでした」誰も欲しがらない女と結婚してくれて、本当にお疲れさま。「君をここに連れてきたのは、喧嘩をするためじゃない」拓海はそう言って、彼女の手首を取った。「まず何か食べよう。今日はほとんど水も飲んでないから」そう言ってソファに腰を下ろし、ホテルのメニューを手に取る。意外なことに、酒も注文した。結衣が戻ってきてから、禁酒をやめたのか。拓海は確かに疲れているようだった。注文を終えると、背もたれに体を預け、指先で眉間を
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第68話

「中村さんがいないから、何かあったら呼んでくれ。無理するな」拓海の声を背に、知佳はバスルームに入った。その瞬間、ふと気づく。彼は、自分がシャワーを浴びることですら中村さんの助けが要ると思っているのだろうか。蒸し暑さが肌にまとわりつく。北の夏は、南より早く来る気がする。今夜はいろいろあって、拓海とも揉めてきたゆえ、汗ばんだドレスが肌にぴったり張りついていた。ぴたっと、べったりと、本当に脱ぎにくい。脱ぎにくければ脱ぎにくいほど汗がにじみ、布はいっそう吸い付いて、余計に脱げない。外からはいつまでも水音がしない。やがてドアの向こうから拓海の声がした。「知佳?大丈夫か?」「大丈夫!入ってこないで!」知佳は慌てて叫ぶ。「知佳!手伝いが必要なのか?」「いらない!入ってこないでって言ってるでしょ!」焦りが募り、声が大きくなる。拓海は何か問題があると思い、そのままドアを開けて、ドレスと格闘する知佳の姿を目にした。「脱げないのか?」彼は浴室へ入った。「わ、私……」否定するより早く、拓海の手はすでに彼女の背中のファスナーに触れていた。「引っかかってるな」拓海がそう言って指先に力を込めると、しんとした沈黙が落ち、時間が妙に長く伸びていく。知佳は息を詰めて待ったが、彼は何をしているかがわからず、すこし焦った。「まだ?できないなら出て行って!自分でやるから!」そのとき、拓海の手が前に差し出され、掌の上には外れたファスナーの金具が乗っていた。「この服、質が悪いな……」と彼は短く不満を洩らし、「破くしかない」とつぶやく。そして、ビリッという音がはっきり響き、ドレスは背中から完全に破かれた。背中にひやりと風が触れ、知佳は反射的に身をひねって裂けた上半分を両手で押さえる。「早く出て行って!」拓海は眉をひそめ、何か言いかけたが、そのときちょうどチャイムが鳴った。ルームサービスだ。彼は振り返って浴室を出ていった。シャワーを浴び終えた知佳は、ようやく落ち着きを取り戻す。髪を乾かすのも面倒で、タオルに包んだままパジャマに着替え、部屋へ戻った。スイートルームには浴室が二つある。彼女が出たときには、拓海もすでにシャワーを終えて窓際の椅子に腰を下ろしており、テーブルには食事とワインが整然と並んでいた。「知佳」彼が呼ぶ。「
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第69話

知佳は浴室に戻り、スマホのメールアカウントを別のものに切り替えた。そしてタオルで半乾きの髪をざっと整えると、そのまま部屋を出た。その短いあいだに、拓海はもう一杯ワインを注いでいた。大きなボトルは、すでに半分ほど減っている。「知佳、もう控えめにするよ。酔ったりしないから」まるで禁酒を破った理由を弁解するみたいに、拓海は言葉を重ねた。「最近いろいろあってさ、ちょっと癒されたくて」「そう」知佳は淡々と返すだけだった。かつて知佳は命がけで彼を救ったことがある。もし前世で彼に借りがあったとしても、もう返し終えた。彼には彼の人生がある。これ以上、他人の運命に踏み込むつもりはない。「君のステーキ、もう頼んである。熱いうちに食べてくれよ。ここの焼き加減はなかなかいいんだ」拓海がすすめる。「夜たくさん食べたから、もう入らない」知佳が軽く首を振ると、拓海は苦笑した。「楽しい夜だったんだな」「うん、楽しかったよ」知佳はうなずいた。拓海はグラスに酒を注ぎながら、その言葉に首を振りため息をついた。「君はすごいな。俺のプロジェクトが次々とダメになってるのに、まだ楽しめるのか」本当は言いたかった。私のせいで失敗したって?原因は自分でわかってるはずでしょ。でも、こんな言い争いはもう何度もしてきた。どうせ無駄だ。何を言っても彼は変わらない。もう諦めたほうがいい。そう思いながら、知佳は黙って手元の水を一口飲んだ。「知佳」拓海は残りのワインを半分飲み干して、眉をひそめる。「君が言いたいこと、わかってるよ。結衣のせいだって言いたいんだろ?」「違う、それは違う」知佳は慌てて首を振った。「そんなこと、全然思ってない」「いや、君はそう思ってる」拓海は残りを一気に飲み干すと、続けた。「でも、結衣を責めないでくれ。彼女、海外でずっと苦労してたんだ。彼氏にDVされて、殴られて入院までして、ボロボロになって帰ってきた。家族とも上手くいってない。頼れるのは、俺たちくらいなんだよ」そう言って、彼は知佳の反応をうかがうように黙った。「……そうね」知佳はまたうなずいた。こんな簡単にわかってくるなんて思ってもなかったみたいに、拓海は意外そうに目を瞬かせた。「怒らないのか?」シャワーのあと、部屋のエアコンが少し冷たく感じた。知佳は気持ちよく温かいカップを両
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第70話

ああ、もしかしたら拓海の視点では、結衣こそヒロインで、自分はただのサブヒロインなのかもしれない。「君がこんなふうだと、逆に調子が狂うな」拓海は笑って、またグラスに酒を注いだ。「知佳、さっきも言ったけど、安心してくれ。俺のものは全部君のものだ。家も、財産も、会社も。君は俺の妻なんだから、正真正銘、君のものだ。ただ、結衣のことは気にしないでくれ。もう結衣のことで争うのはやめよう。俺が働いて稼いでるのは、俺たちのためなんだから」知佳は長い話の中から要点を拾って、まとめた。「つまり、家も車も会社もお金も全部私のもの。でも、心は彼女のものってことね?」「知佳!もう気にしないって言ったのに、なんでまたそんな話をするんだ?君はもう十分持ってるのに、まだ嫉妬するのか?」拓海は眉をひそめた。クズ男……知佳は心の中でそう吐き捨てた。でも、彼は勘違いしている。嫉妬なんてしていない。ただ、話を整理しただけだ。彼女は水を置き、皿を取ってブドウを口に運んだ。「いいじゃない、悪くない取引ね。契約成立。心配なら契約書を作って、公正証書にしてもいいわよ」なんて素晴らしい条件だろう。棚ぼたと何が違う?お金はあっても、夫はいない――そういう話じゃない?拓海は手の中のグラスをくるくる回していた。彼がこうしてグラスを回すときは、たいてい何かを考えている。どう交渉すれば向かいの人を納得させられるか、そんな計算だ。けれど、今回は違った。知佳の言葉を聞いた瞬間、拓海はグラスを回すのをやめ、驚いたように顔を上げた。「君は……本当にそれでいいと思ってるのか?不満はないのか?」知佳は軽く手を振った。「ないない、安心して。それで、いつ公正証書にする?」拓海の表情が沈んだ。「……そんなの必要ないだろ」知佳は少しがっかりした。公正証書にしないなら、口約束なんて意味がない。離婚のとき、今日の言葉を覚えててくれればいいけど。ブドウを一粒ずつつまみながら、彼女は目をくるくる動かした。まるで何も気にしていないように見える。けれど、不満そうな人がいた。拓海が彼女の皿をひったくる。「夜にそんなにブドウ食べてどうする?糖分多いんだから、歯が痛くなるぞ。お腹空いてないんじゃなかったのか?」ブドウがとばっちりを受けた……「話は終わった?終わったなら歯を磨いて寝るけど」
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