「近くまで来たものですから。お部屋、片付きましたか?」 部屋に広がっているのは、作りかけの豚の生姜焼き匂い。甘辛くて素朴で、お腹の減る匂いだ。「あ……どうぞ。散らかってますけど」 私が彼を招き入れると、彼は少しだけためらうように言った。「いえ、お食事の準備中でしたら、ご迷惑でしょう」「ううん、そんなことないです」 私は気づけば、ごく自然に彼を誘っていた。 新しい部屋で数日続いていた、一人だけの食事が寂しかったからかもしれない。「今、ちょうど夕食を作っていたところなんです。一人前も二人前も手間は変わりませんから。もしよろしければ、食べていきますか?」 私の申し出に、湊さんは一瞬驚いたように目を見開いた。 それからこれまで見たこともないような、子供みたいに嬉しそうな顔で頷いた。「はい。ぜひ」◇ 小さなダイニングテーブルに並んだのは、サラダと豚の生姜焼き。炊きたてのご飯と、お豆腐とわかめのお味噌汁。 そんなごくありふれた内容である。「近くのスーパー、お肉の品揃えがよくて、しかも安いんですよ。今日は特売で、すごく得しちゃった」 そういう意味でもこのマンションは当たりだった。近場にいいスーパーがあると、生活の質が上がる。 私がそう言って笑うと、彼は愛おしいものを見るような眼差しで、ただ黙って頷いていた。 豪華どころかむしろ質素な献立。 でも私は、なぜだか湊さんに喜んでもらえる自信があった。 料理にはそれなりに自信がある。なにせ圭介との3年の結婚生活で、食事は毎回私が作っていた。 それに、何日か前に引っ越しを手伝ってくれた時の様子を思い出す。 こんな庶民的な食卓は、彼はきっと知らないだろう。だから面白がってくれると思ったのだ。「どうぞ、召し上がってください。お口に合うか分かりませんが」「いえ。いただきます」 湊さんは少しだけ緊張した面持ちで、丁寧にお箸(お
Last Updated : 2025-10-15 Read more