LOGIN結婚記念日に夫の裏切りを知った、インテリアデザイナーの夏帆。 絶望の夜、見知らぬ男性と一夜を共にする過ちを犯してしまう。 後悔に苛まれる彼女の前に、新しいクライアントとして現れたのは、あの夜の彼――大ホテルグループの御曹司、黒瀬湊だった。 「僕から逃げられると、思わないでください」 穏やかな笑顔の裏に底知れない執着を隠した彼に、仕事もプライベートもすべてを絡め取られていく。 これは罰か、それとも――。 傷ついた心が再び愛を知るまでの、甘く危険なシンデレラストーリー。
View Moreとろりとした黄金色のシロップが、こんがりと焼けたフレンチトーストの上を滑り落ちていく。
湯気の向こう、夫の圭介(けいすけ)はスマホの画面に釘付けだった。今日は結婚3年目の記念日になる。
私こと相沢夏帆(あいざわ・かほ)は、いつもより少しだけ早く起きて、夫の好物を用意していた。 それなのに、ダイニングテーブルに漂う空気はひどく冷めている。「圭介、できたよ」
「ん、サンキュ」
彼は画面から一瞬たりとも目を離さない。
圭介の指は大切なものに触れるみたいに、なめらかに液晶の上を滑っていく。 その仕草が、私の胸をちくりと刺した。「今夜、楽しみだね。予約したレストラン、人気のお店だから」
「あぁ、そうだな」
気のない返事。
スマホの画面を見つめていた彼の口元が、ふ、と緩んだ。 私にはもう、ずっと向けられていない種類の笑みだった。(いつからだろう)
圭介が、私を見て笑ってくれなくなったのは。3年は夫婦の時間を冷ますのに、十分な期間だった。
スマホの画面の向こうには、一体誰がいるんだろう。 問い詰める勇気なんて、今の私にはなかった。 ◇ 「――というわけで、このコンペはうちが勝ち取りました!」所長の弾んだ声が、事務所に響く。同僚たちの間から、わっと歓声が上がった。
この事務所は「Atelier Bloom(アトリエ・ブルーム)」という名前で、インテリアデザインを手掛けている。 私は所属するデザイナー、兼、コーディネーターだ。「やりましたね、夏帆さん!」
同僚の一人が満面の笑みで手を差し出してくる。私はその手を取って、握手をした。
私も、もちろん嬉しかった。
この数ヶ月、必死で取り組んできた大型案件だったから。 でも心のどこかが、素直に喜ぶことを拒んでいた。その少し前、デスクの上で震えたスマホに表示されたのは、圭介からの短いメッセージ。
『ごめん、急な仕事が入った。今夜のディナー、キャンセルで』
(仕事なら、仕方ないよね……)
たったそれだけ。
記念日だっていうのに、私の名前すら呼ぼうとしない。胸の奥が、ずきりと痛む。大丈夫。大丈夫よ。
自分に何度も言い聞かせながら、キーボードを叩く手に力を込めた。 コンペの件で興奮する同僚たちの声が、今はどこか遠かった。 ◇ 仕事を終えて、事務所を出る。 街はきらきらと輝いていて、幸せそうな人たちで溢れている。 それが、ひどく疎ましかった。冬の寒さはまだまだ続く。町行く人々はコートを着込んで、白い息を吐いている。
気づけば、私の足は予約していたレストランへと向かっていた。
馬鹿みたいだとは分かってる。 でも、万が一。 ほんの万が一でも、彼がサプライズで――あるいは「仕事」にきりをつけて、来てくれているかもしれない。 そんな最後の望みにすがりたかった。レストランまであと少し。
その時、通りの向こう側に見慣れた後ろ姿を見つけた。圭介だ。
心臓がドクンと大きく跳ねる。
やっぱり来てくれたんだ! 駆け寄ろうとして、私はその場で凍り付いた。彼の隣には、知らない女がいた。かなり若い。まだ20歳そこそこだろう。
華奢な肩を抱き寄せられ、圭介の顔を見上げている。 二人は楽しそうに笑い合って――そして、唇を重ねた。実に自然で手慣れた動作だった。(あの人は誰? いつからこんなことに……?)
時間が止まったみたいだった。
頭が真っ白になって、何も考えられない。 ただ目の前の光景だけが、スローモーションのように焼き付いていく。建物の陰に隠れて、その場に座り込みそうになるのを必死でこらえた。
全身の血の気が、さーっと引いていく。 心臓が、氷の塊になったみたいに冷たかった。――魔法をかけてあげる。 湊さんはそう言うと、ベッドを抜け出した。リビングへと向かう。「……魔法って、何のこと?」 私は呆気にとられて、彼の後ろ姿を見送る。一体、何をどうするというのだろう。 リビングから彼の話し声がかすかに聞こえてくる。だが、内容は全く聞き取れない。 しばらくして、湊さんは寝室に戻ってきた。「もう大丈夫だよ。あとは、サンタクロースを待つ子供みたいに、いい子で眠って待っているだけでいい」「何をしたの?」「それは、朝になってのお楽しみ。さあ、今はぐっすり眠って」 彼は私の目を、その大きな手のひらで優しく覆った。その温かさに、私は子供のように素直に目を閉じる。彼の言う通りにしていれば、本当に何か素敵なことが起こるのかもしれない。 そんな不思議な安心感に包まれて、私はいつの間にか再び眠りに落ちていた。◇【湊視点】 夏帆さんの言葉を聞いて、僕はリビングで電話をかけた。「僕だ。夜分にすまない」 相手は、インペリアル・クラウン・ホテル札幌支社の総支配人。夜中にもかかわらず、すぐに電話に出てくれた。「すぐに、懇意にしているイチゴ農家を探してほしい。そうだ、ハウス栽培で「さちのか」を夏にも出荷しているところだ。……ああ、今すぐに頼む。これから、僕のプライベートジェットをそちらへ向かわせる。日の出までに最高の苺を、一粒も傷つけずに東京へ運んでほしいと、そう伝えてくれ」「かしこまりました」 次に電話するのは、プライベートジェットのパイロットだ。「羽田から、札幌へ。悪天候も予想されるが、必ず夜明けまでに、荷物を東京へ届けてくれ」「お任せください」(また過保護だと叱られてしまうかな) 電話を終えて、僕は苦笑する。でも、あの我慢強い夏帆さんが珍しくほしいと言ったものなのだ。できるかぎりの力を使って届けてあげたい。 贅沢かもしれない。だが、僕には
真夜中の二時。私はふと、喉の渇きで目を覚ました。 同じベッドの隣では、湊さんが穏やかな寝息を立てている。その静かな寝顔を見ていると、私の心までが安らいでいく。(よく眠っているわ。起こさないようにしないと) そっとベッドを抜け出して、キッチンで水を一杯飲んだ。けれどどうにも、渇きは癒えない。何かがものが足りないような、不思議な物足りなさがあった。 その時。一つの強烈な欲求が湧き上がって、私の頭を支配した。(イチゴが食べたい!) それもただのイチゴではない。北海道の「さちのか」という品種の、完熟した大粒のイチゴである。宝石のような見た目と、甘酸っぱい香り。口いっぱいに広がる瑞々しい果汁。その記憶があまりにも鮮明に蘇ってきた。 今の季節は真夏。さちのかの旬は春で、もうとっくに終わっている。ましてや東京の、この真夜中に手に入るはずもなかった。 念のためにスマートフォンで検索してみるが、どのサイトでも「売り切れ」の表示が出ている。(はぁ……。諦めなければ) 妊娠中特有の理不尽な食欲なのだと、自分に言い聞かせる。隣で眠る彼を起こすのは、あまりにも申し訳ない。私はでベッドに戻ると、イチゴの衝動が過ぎ去るのを待った。◇ 私が何度目かの寝返りを打った時のこと。「……どうしたの、夏帆さん。どこか痛むのかい?」 隣から、ささやくような声がした。心配に満ちた声。私が身じろぎしたわずかな気配で、湊さんは目を覚ましたのだ。「ううん、何でもないの。ごめんなさい、起こしちゃって」 私がそう誤魔化そうとすると、彼は私の額にそっと手を当てた。熱がないことを確かめて、今度は私の頬を優しく撫でる。「何でもなくはない顔をしているよ。何か、我慢しているんだろう? 教えてほしい」 彼にかかれば何でもお見通しだ。下手に心配させるより、話してしまおう。私は観念して口を開いた。「あのね、馬鹿みたいなんだけど……」
湊さんの視線が、床に広げられた壁紙のサンプルへと落ちた。次に私のスケッチブックへ。最後は鉛筆を走らせる私の手に留まる。「君の手から世界が生まれる瞬間を、こうして見ていられるのが、好きなんだ。幸せな光景だな、と思って」 その声は、心からの満足に満ちていた。◇ ベビーベッドの最後のディテールをスケッチブックに描き込んだところで、私はペンを置いた。 からん、と。乾いた音が静かな部屋に響く。 いつの間にか、西の空は茜色に染まっていた。午後の柔らかな日差しは、今はもう蜂蜜を煮詰めたような濃いオレンジ色の光に変わっている。その光がまだ何もない部屋の床に、窓の形の四角形を描き出していた。 私たちの足元には、何枚ものデザイン画や壁紙のサンプルが散らばっている。 私たちは言葉もなく、床に広げられたそれらの紙を並んで眺めていた。まだ線と色でしかない未来の断片。 けれど私たちの目には、もう見えていた。 このがらんとした部屋に、あの白樺のベビーベッドが置かれる。壁には優しいクリーム色の壁紙が貼られて、柔らかな光の中で小さな命が笑う風景が。 湊さんが私の隣に座ると、そっと私のお腹に手を当てた。「よかったな。君の世界は、世界一のデザイナーが作ってくれるそうだ」 お腹の子に、誇らしげに語りかける。私は彼の手の上に自分の手を重ねた。「ううん。世界一のデザイナーと、世界一心配性で優しいパパと、二人で作るのよ」 湊さんの指先が、私の頬にかかった髪をそっと耳にかけてくれた。その優しい手つきに、私はゆっくりと目を閉じる。 唇に柔らかく温かいものが触れる。 全てを許し受け入れ合うような、慈しみと愛情に満ちたキス。 唇が離れた後も私たちはしばらくの間、互いの額を寄せ合ったままだった。 彼の息遣いを感じる。触れ合った額が温かい。 やがて私が目を開ける。目の前には夕日でオレンジ色に染まる、がらんとした部屋が広がっている。 けれどもう、その部屋は空っぽには見えなかった。 こ
私は果物ならだいたい好きだが、イチゴが特に好きなのだ。「わ、おいしそう」「糖分補給も、大事な仕事のうちだよ」 彼はそう言うと、小さなフォークでイチゴを一つ刺す。私の口元へと運んできた。「やあね。一人で食べられるって」「でも、今は手がふさがっているだろう。スケッチが汚れてしまうといけない」 湊さんに食べさせてもらう(食べさせられる)のは、あの山荘の食事を思い出して苦笑してしまう。 あの時の彼は正気を失っていたが、それでも本質は変わらなかった。 湊さんは私の世話を何くれと焼きたがるのだ。 手がふさがっているのは本当だった。私は諦めてぱくりと苺を食べる。 甘酸っぱい果汁が口の中にあふれてくる。思わず笑顔になった。「んっ。ありがとう、美味しい」「それはよかった」 彼は満足そうに微笑んでいる。 苺を食べ終わった私は立ち上がる。本棚の少し高い位置にあるサンプルブックを取ろうと手を伸ばすと、すぐに彼が代わりに取ってくれた。「無理はしないで。僕をもっと頼ってほしい」「十分頼っているわ。たくさん助けられているもの」 本を受け取りながら言うと、湊さんは少し困ったように眉尻を下げた。「君が自立心旺盛な強い人だと、分かっているんだけどね。今は身重の体だから。危ないことはしてほしくないんだ」「危ないこと? たとえば、山荘の三階からカーテンのロープで伝い降りたり?」 私が意地悪く言うと、彼はますます困った顔になった。「そうだよ! 閉じ込めたのは完全に僕が悪かったけど、夏帆さんも無茶しすぎだから」「うん。無茶したのは反省している」 たとえ正気に戻っても、過保護なところは変わらない。不器用で愛情に満ちているところも。 私は笑って、再びスケッチブックに向き合った。 スケッチブックにデザイン画を描いていると、ふと隣の気配が消えた。(湊さん、また私の飲み物でも取りに行ったのかしら) そう思っ