美咲が離婚届に署名し、タクシーに乗って去ったあの朝から、哲也は家に戻ることを避けていた。都心のホテルの一室で過ごし、仕事に没頭することで心のざわめきを押し殺す。だが、夜になりベッドに横たわると、彼女の寝顔が脳裏に浮かんだ。 病院で見た、苦しげに眉をひそめた美咲の姿。冷たい手の感触。そして、夢の中で呟かれた自分の名前――『哲也』と言う声。 あの声が、なぜか胸の奥に棘のように刺さっていた。 その日、両親からの突然の連絡が哲也を現実に引き戻した。三か月の海外旅行を終えた彼らは今から帰宅して息子夫婦を訪ねたいという。 哲也の心臓が跳ねた。美咲との離婚をどう説明すればいいのか。 彼女の裏切りに母を奪った事故の告発、沙羅との関係――すべてを話す覚悟が、まだできていなかった。急いでタクシーに飛び乗り、神宮寺家の門をくぐると、予期せぬ光景が目に入った。 リビングには沙羅がいた。鮮やかな赤いドレスをまとい、まるでこの家の主のように振る舞っている。 召使いが彼女の荷物を運び込み、クローゼットから美咲の服を無造作に取り出して庭に放り出していた。まるで悪魔のようだった。それを見て哲也の血が逆流する。 「何してるんだ、沙羅! やめろ!」 だが、言葉を終える間もなく、玄関のベルが鳴る。両親だった。父の厳格な顔と、母の鋭い視線が、部屋に入るなり沙羅に突き刺さる。母の声は氷のように冷たかった。 「この女は何? 美咲さんはどこにいるの? 哲也?」 沙羅が口を開く前に母は警備員を呼び、彼女を即座に追い出すよう命じた。沙羅は青ざめ、泣きそうな顔で哲也を見たが、彼は視線を逸らした。 警備員に連れられ、彼女が門の外に消えると、母は哲也に説明を求めた。 「全て、話してちょうだい」 哲也は重い息をつき、例の運転手の手紙について語った。七年前の事故、美咲の母が神宮寺夫妻を事故に見せかけて殺害しようとしたという告発のことを。 だが、言葉を紡ぐほど、母の顔は怒りに曇っていった。 「そんな手紙……運転手が目の前で自白しない限り信じません。三か月以内にその男を見つけなさい、哲也。さもなくば、お前がこの家の名を汚した責任を取りなさい」 母の言葉は、まるで刃のように哲也の胸を刺した。父もまた、無言で頷き、その場を去る。哲也は立ち尽くし、手紙の重みを自分がしてしまったことを改めて恥じた。
Last Updated : 2025-12-24 Read more