All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

胡桃が駆けつけた時、明里はまだ車の中に座り込んでいた。身動きひとつせず、手足に力が入らず、目は泣き腫らして真っ赤だった。胡桃は胸が張り裂けるような痛みを覚え、彼女を運転席から抱き出すようにして、自分の車に乗せた。明里を後部座席に横たわらせ、病院には行かず、まずは自分のマンションへ連れ帰った。先ほどの電話で、明里は途切れ途切れに事情を話していた。拓海から、緊急の知らせが入ったのだ。彼女がアルバイトをしていた化学工場で事故があったと。以前、ある作業員が不注意で、強力な放射線を発する機器のスイッチを切り忘れ、丸一日つけっぱなしにしていたという。その機械の放射線量は極めて高く、病院のレントゲンとは比較にならないほど強力なものだ。通常、医療用なら、照射時間はほんの一瞬だ。だがその機械は、二十四時間近くも放射線を放出し続けていた。その機械と同じ部屋にいた人間が、あの日どれだけの線量を浴びたか、想像するだけで戦慄が走る。化学工場でこれほどの被曝事故が起き、現場はパニックに陥っていた。誰かが拓海に連絡し、拓海が真っ先に明里に知らせてくれたのだ。あの日、明里も現場に行っていた。彼女も放射線が降り注ぐ部屋に、長時間とどまっていた。しかも、正確な時間は覚えていない。だがあの放射線量なら、お腹の胎児への影響は甚大だ。障害が残るリスクどころか、そもそも母体内で無事に育つかどうかさえ危ぶまれる。明里には、賭けることなどできなかった。胡桃は、明里がこの子をどれほど待ち望み、愛おしんでいたかを知っている。だが誰が予想できただろう。神様がこれほどまでに残酷だとは。胡桃は明里を家に連れ帰り、ベッドに寝かせてから、樹に連絡を取った。帰る車中で明里の希望を聞き、樹の実家が経営する私立病院で手術を受けることにしたのだ。樹は弁護士だが、実家は医療法人を含め、手広く事業を行っている。この私立病院もその一つだ。電話を受けた樹は、数秒の沈黙の後、短く答えた。「手配する」胡桃が電話を切り、ベッドの傍らに腰を下ろす。何度も口を開こうとしたが、どんな慰めの言葉も空虚に響きそうで、かける言葉が見つからなかった。「大丈夫よ」明里が自ら胡桃の手を握り、弱々しく首を横に振る。「心配しないで」「どうして……」胡桃は、こんな時でさ
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第282話

おそらく、神様は別の道を示しているのだ。潤と完全に縁を切るための、残酷だが唯一の道を。そう、きっとそうだ。それに、この子を諦めれば、その時こそ……潤も自分を引き留める理由を失うだろう。彼もきっと、絶望して離婚に同意するはずだ。明里はそこまで考えを巡らせ、唐突に口を開いた。「胡桃、潤に電話するわ」胡桃が強く勧める。「かけなさい!このことは彼にも知る権利があるわ。じゃないと、後であなたがどれだけ冷酷な女だと思われても、言い訳できないわよ……」「いいえ」明里が静かに遮る。「本当のことは言わない……ただ、私がこの子を要らなくなったとだけ伝える」胡桃が一瞬言葉を失い、すぐにその意図を理解した。「そうすれば、彼は諦めて離婚に同意すると?」明里が頷く。「そう思うわ」胡桃が立ち上がる。「じゃあかけて。私は席を外すわ」明里は潤の番号をタップした。コール音が鳴るか鳴らないかのうちに、向こうが出た。潤の声が、スマホ越しに低く響く。「アキ」明里はふと思う。もし結婚したばかりの頃、潤がこんなに切実な声で名前を呼んでくれていたら、どれほど嬉しかっただろうか。だが今の心は、不気味なほど静まり返っていた。「あなたに、言っておきたいことがあるの」明里は胸が張り裂けそうな喪失感を押し殺し、努めて平坦な声を装った。潤がスマホを握りしめ、嫌な予感に襲われる。「言ってくれ」明里が告げる。「この子、要らなくなったの」潤の心臓が早鐘を打つ。「……どういう意味だ?」「産まないってことよ」「駄目だ!」潤が悲鳴に近い声を上げる。「アキ、駄目だ!そんなこと許さない!」明里が冷たく続ける。「子供のせいで、ずっと離婚できなかった。子供がいなくなれば、あなたも離婚に同意するでしょう?」「いやっ、違う……」潤の声が乱れる。「そうじゃない、アキ、この子を諦めるなんて駄目だ……」「もう決めたの」明里が言い放つ。「あなたが離婚してくれないなら、私もこの子は産まない」「いや、違う、俺は、俺は離婚に同意する!お願いだ、産んでくれないか?頼む!」明里が指先が白くなるほど強く、力を込めてスマホを握りしめる。「潤、たとえ離婚しても、この子は要らない。決めたの。私は……あなたのために子供を産みたくない」そう言い切って、他には何も言わず
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第283話

「アキ、潤が来たわ」明里が一瞬強張り、それから覚悟を決めたように立ち上がった。「会いに行くわ」胡桃が思わず彼女の体を支える。明里が痛々しく微笑む。「胡桃、大丈夫よ」胡桃はゲストルームに残り、彼女の後を追わなかった。明里がゲストルームを出ると、玄関に立ち尽くす潤の姿が目に入った。あの逞しかった背中が、どこか小さく、頼りなげに見える。足音を聞いて、彼が顔を上げる。その瞳には深い苦悩と葛藤が渦巻いている。口を開くが、声は掠れて聞き取りにくい。「どうして……」明里が顔を背け、彼を見ようとしない。「何しに来たの?もう決めたって言ったでしょう」潤が彼女をじっくりと眺め、わずかな表情の変化も見逃すまいと。「お前は本当に、そこまで冷たくなれるのか……」「そうよ」明里の声には何の感情もない。「何も言わないで。もう決めたの」「離婚のことだって、俺には何も言わずに決めた。今度は子供のことまで、また勝手に決めるのか。明里、俺は子供の父親じゃないのか?俺に父親としての権利はないのか?」「子供は私のお腹の中にいるわ」明里が心を鬼にして、心にもない言葉を口にする。「この子が要らない。それだけよ」手を、そっとお腹に当てる。誰も知らない。彼女の心が今まさに八つ裂きにされていることを。この子を諦める。そんな決断を強いられることが、誰よりも辛いのは自分なのだと。「俺が父親だからか?」潤の声は冷たく、絶望に満ちている。「俺が離婚に同意しないからか?その当てつけに、子供を犠牲にするのか?」「そうよ」明里が視線を落とす。「本当は残したかった。でもずっと考えて……潤、これから先、あなたとは何の関わりも持ちたくないの……」潤が大股で彼女に詰め寄る。触れたいが、手が空を切る。彼はなりふり構わず、懇願した。「アキ、お願いだ。この子を残してくれ。約束する、離婚に同意する。これから……これからもお前の生活には一切干渉しない。お願いだ、この子だけは……」「無理よ」その声は、氷のように冷たかった。「もう言わないで。もう病院の予約もしたわ」「どうしてそこまで冷たくなれるんだ!」明里がついに彼を見据える。「だってあなたの子供だから!あなたが、もう好きじゃないからよ!」潤がよろめくように二歩下がる。目尻が赤く充血している。「あなたと
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第284話

潤が呆然と立ち尽くしている間に、ドアの外へ締め出された。言葉にできない苦痛が胸を襲う。生きたまま心臓を抉り出されるような痛みだ。明里は……どうしてこれほどまでに冷酷になれるのか。そんなに自分が憎いのか。離婚だけでは飽き足らず、子供の存在まで消してしまわなければ気が済まないのか。自分自身の血肉だというのに!潤は痛みで呼吸すらままならず、その場に崩れ落ちそうになる。全身の力が抜け、壁に寄りかかって辛うじて体を支えた。目を閉じる。息をするたびに、内側から引き裂かれるような激痛が走る。どのくらい時が経っただろうか、ポケットの中でスマホが鳴った。機械的に取り出し耳に当てるが、言葉が出ない。啓太の声が響く。「潤?どこにいるんだ?この前は忙しいってフラれたけど、今日は時間あるか?飲みに来いよ!」潤が唇を動かそうとするが、全身が硬直して思うように動かない。苦しげに声を絞り出す。「どこだ。行く」声は枯れ果て、ひどく掠れていた。今にも消え入りそうだった。啓太が驚く。「どうした?風邪でも引いたか?」「いや」潤がもう一度問う。「場所は?」三十分後、啓太は潤と対面した。啓太の知る潤は、いつだって自信に満ち溢れ、唯我独尊を地で行く男だった。そうだ。彼はK市の経済界に君臨する男だ。全国にその名を轟かせている。彼が握る財産は底知れない。かつて誰かが言った。もし彼が長者番付に載れば、トップの顔ぶれが塗り替わるだろうと。だが彼はそんな名声に興味がない。表向きのグループ会社以外にも、莫大な隠し資産を持っている。そんな男の自信と傲慢は、天性のものだ。だが目の前の潤は、見る影もなくやつれ、挫折し、全身から精気が抜け落ちていた。啓太がこんな無様な潤を見るのは初めてだ。「おい、一体どうしたんだよ?」啓太も事態の深刻さに驚き、急いで手を振って、侍らせていた女たちを全員退出させた。潤がソファに沈み込み、一言も発さずにまず酒をグラスに注ぎ、一気に煽った。「飲んでばかりいないで話せよ!」啓太が焦れる。「何があったんだ?」「彼女が……子供を要らないと言った」潤が呻くように口を開く。「中絶するって」その数文字を口にするだけで、残された全ての気力を使い果たしたようだった。啓太が数秒間固まり、よう
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第285話

潤は自分がどれほどの酒を煽ったのか、記憶が定かではなかった。最後は啓太が泥酔した彼を担ぎ、自宅まで送り届けたらしい。翌朝目覚めると、頭が割れるような激痛が彼を襲った。だが目を開けた瞬間、明里のあの冷酷な言葉の刃が、胸をえぐった。急いでシャワーを浴びて着替え、胡桃のマンションへ向かった。一方、樹は系列の病院に手配を済ませ、朝早く迎えに来ていた。樹は、本当の理由までは聞かされていなかった。それ以上、詮索もしなかった。明里は潤と離婚しようとしている身でありながら、彼の子を宿している。この子を産むのは、現実的に考えて茨の道だ。片親家庭で育つ子供は、どうしても苦労するのは目に見えている。それに、二宮家のような名門が、明里に子供を連れて行かせることを黙って見過ごすとは思えない。以前から、明里もこれらの現実に直面しているのではないかと危惧していた。まさか、本当に中絶という選択をするとは。胡桃のマンションの下に着いたちょうどその時、スマホが鳴った。画面を見て、眉をひそめながら出る。「こんな朝早くに、何の用だ?」大輔が弾んだ声で言う。「この数日、暇か?俺の温泉宿がようやく完成したんだ。オープン記念に遊びに来ないか?」樹は彼が純粋な親切心で自分を招待するとは思えなかった。樹は用件を切り出した。「誰を呼びたいんだ?」大輔が笑う。「察しがいいな。胡桃を誘えよ。ついでに明里もな。人数が多いほうが賑やかでいいだろ?」樹が即答する。「無理だ」大輔が怪訝そうに訊く。「どうした、また胡桃に袖にされたのか?」「違う」樹は少し考えたが、明里の中絶の件はどうせ隠し通せることじゃない。遅かれ早かれ知られることだと思い、口を開いた。「村田さんが中絶手術を受けるんだ。温泉旅行なんて行けるわけないだろ」大輔は自分の耳を疑った。「……何だって?」樹がもう一度、事実を淡々と告げる。大輔が驚愕の声を上げる。「どうして子供を諦めるんだ?あんなに楽しみにしてたのに!」樹が答える。「おそらく二宮さんとの関係だろう。二人はもう離婚するんだ。子供を持つのは、お互いにとって足枷になる」「でも彼女は以前……」「俺にも詳しいことは分からない」樹が話を切る。「もう切るぞ。迎えに行くから」大輔は電話を切ると、すぐに明里にかけ
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第286話

明里が頷く。胡桃は彼女の充血した目を見て、昨晩、一睡もせずに泣いていたことが見て取れた。「アキ……」彼女を優しく抱きしめる。「大丈夫よ」明里が気丈に振る舞う。「胡桃、私、大丈夫だから」「これから……」胡桃は、「これからまた新しい命を授かるチャンスはある」と言おうとした。だが明里はもうすぐ潤と離婚する。たとえ将来子供ができても、それは潤の子ではない。やはり……この子を諦めるのは、あまりに辛すぎる。胡桃が明里を支えて階下へ降り、待機していた樹の車に乗り込んだ。潤がマンションに到着した時、彼らはすでに出発した後だった。潤がドアを叩いても応答はなく、胡桃に電話をかけたが繋がらない。潤はスマホを握りしめ、一瞬、心臓を引き裂かれるような痛みが走った。三十分後、樹が病院の駐車場に車を停め、胡桃と明里が降りた。樹は気を使ってか、入り口で足を止めた。「俺は外で待ってるよ。安心して、中のスタッフには全て手配してあるから」明里が頭を下げる。「ありがとうございます」胡桃と明里が診察棟の入り口に差し掛かったちょうどその時、潤の姿が見えた。どうやってここを突き止めたのか分からないが、彼は全身から汗を噴き出し、息を切らせて、明里に向かって猛ダッシュで駆け寄ってくる。胡桃がとっさに明里を背後に庇う。「潤!何しに来たの!」潤が彼女を通り越し、真っ直ぐに明里を見据える。その瞳は深く、今にも零れ落ちそうな涙を湛えているようだった。声が掠れている。「明里、頼む、この手術を受けないでくれ」明里が背筋を伸ばし、顎を上げて彼を直視する。「無理よ。もう決めたの。これから先、あなたときっぱり縁を切るために。潤、手術が終わったら、離婚しましょう」「認めないぞ!」潤が低い声で唸るように言う。「俺たちの子供だぞ。アキ、そんな……そんな殺生なこと言わないでくれ。頼む、もう一度チャンスをくれ。この子を残そう……」明里が顔を背ける。「無理よ」「本当に……この子に本当に、何も感じないのか?俺に子供を産むのが、そんなに耐え難いことなのか?」「そうよ」明里の声は氷のように冷たい。「この子に感情なんてないわ。あなたに子供を産みたくもない」「明里!」胡桃が割って入る。「そんな大声出して何のつもりよ!もう離婚するのに、アキがあなたの子供
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第287話

海外の気候は、明里の肌には合わなかった。だが、もう三年近くも住めば、さすがに慣れてくる。朝目覚めると、容赦ない日差しと四十度近い酷暑が、やる気を削いでいく。「ママ!」お人形さんのように整った顔立ちの男の子が、とてちてと短い足で駆け寄ってくる。彼女の心が瞬時に解け、しゃがんで小さな体を抱きしめた。二歳半になる村田宥希(むらた ゆうき)が、明里の頬にちゅっとキスをする。明里も彼にキスを返した。「くるみ……ビデオ……」まだ発音がおぼつかず、長い文章も話せない。だが明里には彼の言いたいことが分かった。昨夜寝る前、今日胡桃とビデオ通話すると約束したのだ。「胡桃」ビデオが繋がると、明里が画面の向こうに挨拶する。胡桃は夕食を終えたばかりらしく、ソファでくつろいでいる。「ちょっと、どいてよ。ゆうちっちが見えないわよ」宥希が一生懸命小さな顔を画面に近づけて、幼い声で呼ぶ。「くるみ……」「はーい!」胡桃の声が瞬時に弾む。「可愛い可愛いゆうちっち!くるみに会いたかった?」胡桃は数日前に帰国したばかりだ。会社の仕事を片付けて時間を捻出し、明里のところに十数日間滞在していたのだ。その間に、宥希と本当の親子のような絆を築いていた。明里は子供を甘やかさない方針だが、胡桃の宥希への愛情は、溺愛と言って差し支えない。難しいことは分からなくても、誰が自分を可愛がってくれるかは本能で理解する。だから宥希は胡桃に格別懐いているのだ。二人がビデオ通話し、宥希がたどたどしく、言葉にならない言葉で話しかけるのを、胡桃は楽しそうに相手をし、かれこれ二十分以上も話し込んだ。シッターが宥希をミルクの時間だと連れて行き、明里はようやく胡桃と二人だけで話す時間ができた。「来月帰国するって決めた?」胡桃が訊く。「日程は決まった?」「まだ調整中よ」明里が髪を耳にかける。「決まったら必ず連絡するわ」「ようやく帰ってくるのね。これで毎日ゆうちっちに会えるわ」明里は三年前、あのプロジェクトに選抜されて海外へ渡り、今やプロジェクトも最終段階に入っていた。最終段階の実証実験と運用テストは、全て国内のK大のラボで行うことになっている。それに伴い、明里も帰国することになったのだ。「本当によかった」胡桃がしみじみと言う。「
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第288話

顔立ちはさらに洗練され、男の子だが、まるでビスクドールのように愛らしい。明里はもちろん、胡桃も彼を溺愛している。それに彼は見た目が可愛いだけでなく、たどたどしい話し方や愛嬌のある性格も手伝って、誰が見ても好きにならずにいられない魅力を持っていた。明里と胡桃だけでなく、明里と一緒に働く研究員たちも皆、宥希をマスコットのように可愛がっている。そしてもう一人、特別な存在が大輔だ。明里が海外へ渡った後、胡桃は彼女が出産する際に半年間付き添った。その後も時間があれば、数日泊まりがけで会いに来た。だが大輔は、雨が降ろうと槍が降ろうと、毎週必ず二日間はやって来るのだ。胡桃が宥希の名付け親だと知ると、彼は鼻で笑い、対抗意識を燃やした。そして厚かましくも、自分こそが父親役にふさわしいと言い出した。胡桃は腰に手を当てて彼を睨みつけ、食ってかかる勢いで言い放った。「お断りよ!そしたらこっちが気まずくなるわ!」「何を勝手なことを!」大輔も一歩も引かない。「お前と関係ないだろ!」結局、勝負はつかなかった。こうして大輔も時々こちらへ足を運ぶようになったのだ。宥希が二歳を過ぎる頃には、事情を知らない多くの人々が、大輔こそが明里の夫であり、宥希の本当の父親だと思い込んでいた。明里は当初、誤解されるたびに訂正していた。だがそのうち、外出先で誰かに会っても、いちいち訊かれなくなった。ただ彼女はもう、大輔と一緒に外出する機会を極力減らすようにしている。何しろ二人が子供を連れて歩いていると、絵に描いたような幸せな三人家族に見えてしまうからだ。この二年余り、明里も遠回しに大輔に釘を刺したことがある。だが直接「私のことを諦めて」とは言えない。何しろ大輔は一度も愛の告白などしていないのだ。そんなことを言えば、自意識過剰だと笑われるのがオチだ。だが何も言わなければ、毎週大輔がプライベートジェットを飛ばして会いに来るのが、申し訳なくて仕方がない。案の定、大輔はその時、彼女を一瞥して「自意識過剰になるなよ」と言い放った。純粋に宥希のことが気に入っているだけだと。明里には理解できない。大輔は子供好きな性格には見えない。それに、宥希は潤の子供だ。大輔は一体どんな心境で、憎き二宮潤の息子をこれほどまでに可愛が
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第289話

そして何より、母特有の柔らかな輝きと慈愛に満ちている。全身から輝きを放っているかのような美しさだ。すれ違う人々の視線が、吸い寄せられるように彼女を追う。胡桃が思わず手を伸ばして彼女を抱きしめる。「アキ、お帰りなさい!」それから明里の後ろに立つ大輔と、彼に抱かれている宥希が目に入った。「ゆうちっち〜!」胡桃が手を差し出す。「くるみに会いたかった?」長旅で少しぐったりしていた宥希が、手を伸ばして胡桃の首に抱きつき、甘えた声で「くるみ」と呼ぶ。胡桃は彼を抱き上げると、何もかも放り出して、背を向けて歩き出し、あやし始めた。大輔が明里のカートを押しのけ、彼女が背負っているリュックにも手を伸ばす。「自分でできるから……」明里が断ろうとする間もなく、大輔は強引に荷物を奪い取った。帰国前、明里は胡桃に手頃な物件を探してもらうよう頼んでいた。今は不動産価格の相場も手頃で、この三年間で稼いだ資金には十分な余裕がある。頭金を払ってローンを組めば、十分手が届く。大輔は彼女が家を買うと知って、「俺が買ってやる」と言い出したが、明里が受け取るはずがない。大輔が「ゆうちっちへの贈り物だ」と食い下がっても、明里は頷かなかった。結局、大輔の会社の社員割引を利用して購入することで落ち着いた。家具家電付きで即入居可、入居前のクリーニングや諸々の手続きは、大輔が全て手配してくれた。明里が選んだのは、70平米の2LDK。彼女と子供が住むには十分すぎる広さだ。明里が今日帰国するので、まず荷物を新居に置き、部屋を見学してから、外で食事をすることになった。宥希は飛行機では元気がなかったが、今はすっかり元気を取り戻している。家を見学する時はキャッキャと走り回り、レストランに着いてもじっとしていられず、個室に入ったのに外の池の魚を見に行きたがった。この店は純和風の造りで、庭には太鼓橋と小川があり、錦鯉が優雅に泳いでいる。宥希は海外育ちで、こうした和の雰囲気に触れるのは初めてだ。目をキラキラさせてキョロキョロし、目を丸くして珍しがっている。大輔が彼を抱いて外へ連れ出した。「樹が向かってるわ」胡桃がスマホを置く。「また遅刻よ。あの男ったら」明里が笑う。「もう何年も経ったんだから、そろそろちゃんとした関係にしてあげたら?」胡
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第290話

「どうしたの?」胡桃が血相を変える。「大輔、あの子に何したのよ!」明里が焦って聞く。「今どこなの!?」椅子を蹴るようにして立ち上がり、外へ飛び出す。胡桃も後に続き、樹も当然座っていられない。三人は弾かれたように個室を飛び出した。大輔は自分の不運を呪っていた。元々宥希を抱いて魚を眺めていたのだが、彼が急にトイレに行きたいと言い出した。大輔が彼を抱いてトイレへ行き、用を足させてやった後、自分も催してきた。宥希を自分の目が届く場所に立たせ、小便器に向かった。わずか数歩の距離だ。ところがベルトを締めて顔を上げると、宥希の姿が消えていたのだ。大輔が慌てて外へ走り出す。廊下に出ると宥希が泣いているのが見えた。ちょうどその時、明里から着信があった。宥希は最初大人しく待っていたのだが、大きな瞳でキョロキョロしているうちに、ふとスカートの裾が目に入った。ママのスカートに見えたのだ。じっとしていられなくなり、短い足を動かして後を追った。廊下の角を曲がったところで、誰かにぶつかった。彼は頭を打ち、反動で尻餅をついた。驚きと痛みで、火がついたように泣き出した。いたいよぉー!大輔はパニックになりながら、宥希を抱き上げようとしつつ電話にも出ようとして、うっかり通話を切ってしまった。いっそスマホをポケットにねじ込み、宥希を抱きしめてあやす。「よしよし、泣かないで。どこ打った?見せてみろ!ゆうちっちは男の子だろ。これくらい平気だよな!」宥希がしゃくり上げながら、徐々に泣き止んでいく。「ゆうちっち、だいじょうぶ……」大輔は彼に怪我がないことを確認し、ようやく顔を上げてぶつかった相手を見た。一目見て、思わず舌打ちしたくなった。勳だ。潤の特別秘書であり、彼の手足となって動く、懐刀だ。潤の代理を務めることも多い。彼がいる場所には、ほぼ間違いなく潤もいる。大輔はとっさに小さな子の顔を自分の肩に押し付けて隠し、眉をひそめて勳を睨んだ。「遠藤社長?!」潤の右腕として、勳は大輔の顔を知らないはずがない。ただ、まさか大輔が子供連れだとは、夢にも思わなかった。先ほど、微かに大輔が子供と親しげに話すのを聞いた気がする。大輔が結婚したとは聞いていないが、隠し子でもいたのか。勳は驚きを隠し、急いで
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