All Chapters of プライド崩壊の夜~元妻、二人目の妊娠~: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話

二人は楽しげに、勝手に決めつけて盛り上がっていた。六時半、静寂を破って、病室のドアがノックされた。胡桃が笑みを浮かべてドアを開けに行く。「きっと樹ね。今日は見直したわ。結構早く来て……」ところが言葉は途中で途切れた。ドアを開けると、そこにいたのは潤だった。潤は昨日と同じ重箱を手に、胡桃を見下ろしている。その眼差しには、すがるような色が混じっていた。「朝食を届けに来た。それから……彼女と少し話をさせてほしい。話したらすぐ帰るから」胡桃は彼の無駄にいい顔を見て、正直、一瞬心が揺らいだ。悔しいけれど、潤のルックスは本当に反則級だ。樹よりも数段、男としての格が上だ。胡桃は危うく絆されそうになったが、すぐに正気に戻り、首を横に振った。「駄目!アキはあなたを見ると気分が悪くなるの」視線を落とす。「これ、昨日の残り?」「違う」潤が慌てて否定する。「今朝、作りたてだ。少し食べてくれ」胡桃は結局根負けして、重箱を受け取った。「食事は預かるけど、やっぱり中には入れないわ。アキの病気が完治したら、その時正々堂々と会いに行けばいいじゃない」その時、明里が潤に会うかどうかは、アキ自身が決めることだ。潤は重箱を渡し、低い声で言った。「分かった。じゃあ、彼女をよろしく頼む。今日はどうだ?まだ熱は?」「もう下がったわ」胡桃が答える。「朝、看護師が来て、明日には退院できるって言ってた」「それは良かった」潤は、自分が明里を病院に連れてきたのに、会うことすら許されない現状を思うと複雑だった。もちろん力尽くで押し入ることもできる。だが、その先に待っている結末は、考えたくもない。明里とやり直したいなら、彼女に敬意と配慮を行動で示すしかない。だから無理に粘ることはせず、胡桃にいくつか細かな頼み事をして去っていった。病室に戻ると、胡桃が重箱を開けた。中の料理はどれも食べるのが惜しいほど美しく、湯気が食欲をそそる。「ふと思ったんだけど、潤って男も悪くないかもね」胡桃が独り言のように言う。「性格はさておき、スタイルは最高峰よ。三年も一緒にいて、変に手垢がついてないしね」明里は胡桃ほど明け透けではない。こういう際どい話題には、どうしても頬が赤くなる。慌てて話題を変えた。「何が入ってるの?お腹空いた」「色々あるわよ。全部
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第272話

胡桃が腕を組んで立ちはだかる。「アキを迎えに?どこへ?ていうか、あなた誰?」胡桃の剣幕を無視し、潤は明里に目を向けた。「彼女はまだ病み上がりだ、退院しても誰かのケアが必要だろう。だから家に連れて帰る」胡桃が一蹴する。「二宮社長にご心配いただかなくて結構よ。なにしろ二宮社長はご多忙でしょ、世話なんてしてる暇、ないんじゃない?安心して、アキのことは私が万全に手配するから」明里がドアまで歩み寄り、潤に告げた。「気持ちは受け取るけど、結構よ」潤が彼女を見つめる。「アキ、一緒に帰ろう。完全に治ったら、どこへ行こうと構わない。好きにしていい」「もう治ったわ」明里が冷たく返す。「本当に、手を煩わせなくていいの」「手を煩わせるなんて……」明里が彼の言葉を遮る。「あなたとは帰らない。遠慮してるわけじゃない。本当に、迷惑なの」「本人が帰らないって言ってるのに、聞こえないの?それとも理解力ゼロ?こんな強要するなんて最低」胡桃が横から援護射撃をする。「少しはアキの気持ちを尊重できないわけ?」「尊重する。でも……俺も彼女の世話をしたいんだ」「本当に要らないわ」明里が拒絶する。「帰って。仕事でお忙しいでしょう。これから……離婚の手続き以外では、連絡しないで」「アキ!」潤が焦燥感を露わにする。まだ言いたいことが山ほどあるのに。挽回したいのに……「おい!耳ついてんのかよ。アキが何て言ったか、聞こえないふりか?」大輔が大股で歩いてきた。「男なら潔く引き下がれよ!こうやってアキに未練がましくつきまとって、男らしくないぞ!」胡桃が彼を胡乱な目で見る。「あなた、どうして来たの?」大輔が眉を上げる。「退院祝いだろ!迎えに来たんだよ!」この数日、彼も足繁く通い、時には潤と鉢合わせすることもあった。ただ二人とも、明里の心を開くという点ではどちらも成果はなかった。明里は誰にもなびかない。今、退院となって、またしても二人が押し掛けてきた。胡桃が眉をひそめる。「あなたたち二人、本当にしつこいわね!コバエみたいに湧いてきて、鬱陶しいのよ!でも残念、アキはあなたたちとは行かない。私と行くのよ」結局、明里は胡桃と連れ立って病室を出た。胡桃は病み上がりの彼女を大学の寮に戻すのが心配で、そのまま自分のマンションへ連れて帰ることにしたのだ。
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第273話

「たまに」なんてレベルではない。完全に確信犯だ。潤のやつとは犬猿の仲だが、二人がSNSで相互フォローしているというのも、おかしな話だが。そう、さっきの投稿は、ただ一人に見せつけるためアップされたものだ。しかも、潤なら必ずその真意を読み取る。写真自体は何の変哲もない料理だが、添えられた一言が【友人の退院祝い】だからだ。今日退院した友人といえば、他でもない明里しかいない。一方、潤がどうやって明里に連絡を取ろうか、どうやって話す糸口を見つけようかと思案している矢先、スマホに大輔の投稿が通知された。互いに敵対しているからこそ、それゆえに互いの思考回路を誰よりも理解している。大輔の「見ろ、俺は彼女の側にいるぞ」という幼稚な顕示欲を、潤は瞬時に見抜いた。この点において、思考回路は完全に一致していた。以前の潤なら、怒りに任せて直接乗り込み、明里を強引に連れ帰っていただろう。だが今の彼には、それができない。あの一件で、嫌というほど思い知らされたのかもしれない。あるいは、何かが突然、彼の脳裏に焼き付いたのかもしれない。もし自分が変わらなければ、明里と共に生きる機会は、永遠に失われるのだと。時に、愛することも愛されることも、一種の才能であり能力だ。何十年生きようとも、人を愛する術を知らぬままの者もいる。何か決定的な経験をして初めて、何かのスイッチが入ったように、情熱が燃え上がることもある。潤自身も、自分に何が起きたのか正確には分からない。ただ今は、何をするにしても無意識に「明里はどう思うか」を考えるようになっていた。それはまるで本能的に、危機を察知して過敏になっている状態に近い。明里自身が危険なわけではない。だが、もし彼女が去ってしまえば、潤にとっては心身ともに、再起不能なほどの深手を負うことになる。その痛みで死にたくなるかもしれないし、二度と立ち直れないかもしれない。だから潜在意識レベルで、警鐘が鳴り響いているのだ。これ以上鈍感でいれば、本当に妻を失うぞ、と。大輔はSNSでの当てつけを終えると、その後は至って紳士的に振る舞い、悪口も皮肉も封印した。ただひたすら取り箸を使い、せっせと明里に料理を取り分けていた。注文の際、ちょっとした小競り合いがあった。樹が一気にいくつも料理を注文
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第274話

その後の食事は、終始和やかな雰囲気で進んだ。何しろ明里の退院という、喜ばしい祝いの席だ。そして明里は、念願の豚の角煮にようやくありつけた。角煮だけでなく、他の料理も美味で、久しぶりのまともな食事に、舌も胃袋も歓喜した。食事を終え、胡桃が明里を連れて帰ることになった。最終的に四人は六品の料理とスープを頼み、ほぼ完食した。テーブルの上の空になった皿を見て、なぜだか分からないが、大輔は妙な達成感と誇らしさを感じた。そこで、また写真を撮ってSNSに投稿した。今度のキャプションは【完食。ごちそうさん】だ。この投稿がどれだけ多くの知人たちの目を丸くさせたことか。あの遠藤大輔が、改心したのか?「完食」なんて言葉を知っていたとは。明日は雪だな。明里たちを見送った後、樹と大輔は駐車場へ向かった。道すがら、樹が彼を胡乱な目で見て言った。「お前、なんか変だぞ」大輔が睨み返す。「その台詞、ガキの頃から百万回は聞いたな」確かに、大輔は子供の頃から手の焼ける問題児だった。普通の男の子の悪戯には限度があるが、彼の場合は規格外だ。親が「どこかで取り違えたんじゃないか」と嘆くほどのやんちゃぶりだった。樹は彼と幼馴染だが、彼が特定の誰かの前でこれほど意識的に「良い子」を演じるのを見たことがない。「村田さんが悪いとは言わないが」樹が慎重に言葉を選ぶ。「お前、まともな恋愛経験ゼロだし、女の子との正しい接し方も知らない。村田さんみたいな人に惹かれるのは無理もないが……」「待て!」大輔が彼を突き飛ばす勢いで遮る。「誰がアキを好きだって言った?」「バカでも分かるぞ!」樹が眉をひそめる。「俺に対して、何をとぼけてるんだ?」「とぼけてない」大輔が否定する。「好きじゃない。ただ……友達として気が合うだけだ。お前も知ってるだろ、子供の頃から俺の周りに群がる女は全員、家柄や金目当ての女ばかりだった。媚びへつらって、おべっか使って。珍しくそういう下心のない奴に出会えて、しかも波長が合うんだよ」「最初、村田さんに近づいた時、良からぬ下心があったのは知ってるぞ。でも今は……」「余計な詮索すんな。分かってるよ。どうあれ、彼女を女として見ることはない」大輔が断言する。「分かってるならいいけど」樹が安堵の息を吐く。「百歩譲って、人妻な
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第275話

潤ははじめ、明里がこの二日間胡桃の家に身を寄せているとは知らなかった。まず大学へ探しに行ったが、千秋は明里がまだ戻っていないと答えた。次に慎吾に電話をかけた。慎吾は最初驚いた様子だったが、明里のことを訊かれると、拍子抜けするほどあっさりと答えた。明里は実家である村田家にも帰っていないという。潤が慎吾から情報を引き出した後、電話を切る直前に釘を刺した。「お前はもう大人だ。彼女を心配させるような真似は慎め」慎吾が萎縮した声で答える。「分かりました……」潤が電話を切る。以前なら、他の手でも使って明里の居場所を即座に特定させていただろう。だが今は、様々な葛藤が、彼を躊躇させた。それでも焦燥感に駆られ、結局は居ても立ってもいられず、やはり調査させた。そうして、明里が胡桃のマンションにいることを突き止めたのだ。ドアを開けて潤の姿を認めると、明里は一瞬凍りつき、それから訊いた。「どうして私がここにいると知ってるの?」「話したいことがある」潤は弁解する。「電話しても出てくれないし、どこにいるかも分からなくて、仕方なく……監視したいわけじゃないんだ。ただ本当に、話したいことがあって」「何?」明里はドアの内側に立ち、片手でドア枠を掴んで道を塞いだまま、無表情だ。潤の必死の説明にも、何一つ感情を示さない。以前なら、彼女は勝手に調べたことを怒っただろう。だが今は、怒りすら湧かないほど無関心なのだ。潤は胸が締め付けられるような感覚を覚えながら、彼女を見下ろした。「中に……入れてくれないか。それか、どこか場所を変えて、座って話そう」「必要ないわ」明里が冷たく拒絶する。「言いたいことがあるなら、ここで言って」「アキ……」「潤!」明里の声に微かな怒りが滲む。「言ったでしょ?そう呼ばないでって!」潤が彼女をじっと見つめる。他の人間は呼べるのに、自分だけは禁じられる。大輔のような男とさえ、一緒に食事ができるというのに。自分には、話す機会すら与えられないのか。「どうして赤の他人は呼べて、俺は駄目なんだ?」潤の声に、隠しきれない不満と嫉妬が滲む。「お前は遠藤と食事ができるのに、俺には……たった三十分も、俺にはくれないのか?」「だって彼は私の友達だもの」明里の声は、恐ろしいほど静かだった。「でもあなたは…
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第276話

「それは、子供のため?」明里のあまりに澄んだ眼差しに射抜かれ、潤は一瞬言葉を失った。彼女の問いに込められた皮肉を理解したのだ。首を横に振る。「違う……子供のためだけじゃない。俺たちの結婚を、取り戻したいんだ。アキ、俺は気の利いた愛の言葉は言えないかもしれないが、お前は……お前は俺が初めて心から愛した女性で、唯一の……」言い終わらないうちに、鼻で笑う音がした。潤は信じられない思いで明里を見た。先ほどの嘲笑と皮肉に満ちた声が、あの明里から発せられたとは信じられなかった。「潤、まさかここまでとんだ偽善者ね」明里が氷のような声で言う。「離婚を回避するためなら、そこまで必死になれるのね」そう吐き捨てるなり、明里は突如手を伸ばし、彼を押し退けた。潤は完全に虚を突かれた。その隙に、明里がバタンと音を立ててドアを閉めた。潤は何が起きたか一瞬理解できず、気づけばドアの外に締め出されていた。我に返り、手を上げてドアを叩く。「アキ、まだ話は終わってない!陽菜のことや、これまでの出来事について、全部説明させてくれ!」ドア越しに陽菜の名前が聞こえ、明里は強烈な吐き気が込み上げた。妊娠してからつわりは軽かったのに、今は胃の中身をすべて吐き戻したい気分だった。ドアの外の男を無視してゲストルームに逃げ込み、寝室のドアも閉ざした。これでようやく静寂が戻った。……胡桃は会社で午後いっぱい忙殺されていたが、五時過ぎに樹から電話が入った。明里の看病中、樹が真面目にデリバリー役を務めたことで、胡桃の中で、彼の株は急上昇していた。だから最近、彼からの電話には出るようにしていたのだ。「何?」胡桃は書類にサインしながら応対した。「今夜、食事でもどうだ?」樹が誘う。「絶品の薬膳料理の店を見つけたんだ。村田さんが退院したばかりだし、体にいいもの食べようか?」胡桃だけを誘っても撃沈するのは目に見えている。明里をダシに使えば、あわよくば本命も連れ出そうという下心だ。ところが胡桃はつれなく答える。「毎日外食なんてしてられないわ。看病で缶詰だったから、外食続きでもう胃がもたれてるの」樹がすぐに反省モードに入る。「あの時、家の家政婦に弁当を作らせるべきだった……」「やめて!」胡桃が彼の言葉を遮る。「そんな真似したら、即刻捨て
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第277話

ところが、自宅マンションの前に着くと、ドアの前に立つ潤の姿があった。「二宮社長、こんなところで会うなんて」胡桃の声には隠しようもない皮肉が滲む。「来るなら連絡くらいくれたらいいのに。お茶の一杯も出さないけど」潤の顔色は優れず、胡桃の敵意に満ちた挨拶も気にする余裕がないようだ。「頼む、少し時間をくれ」明里がチャンスをくれない以上、その親友である胡桃と話すのも一つの手かもしれない。「私たちの間に話すことなんてないと思うけど」胡桃が冷たくあしらう。「どいてちょうだい。家に帰って料理しなきゃならないの」「少しだけでいいから」潤が食い下がる。「君だって、本心ではアキに離婚してほしくないだろう?」「それは大きな間違いね」胡桃が即答する。「むしろさっさと別れさせてあげたいわ。それから、アキがあだ名で呼ぶなって言ったのに、あなたって人はどうして学習しないのかしら?」「君たちが呼べるのに、どうして俺だけ駄目なんだ?」「それはあなたが『特別』だからよ」胡桃が嘲笑うように言う。「アキは私たちが好きだから、あだ名呼びを許してくれるの。あなたに関しては……察しなさいよ」特別、つまり特別に嫌われているということだ。潤は押し黙った。胡桃が追い討ちをかける。「どいて。家の前を塞がないで」彼女の住むこの高級マンションはワンフロア一戸という贅沢な造りなので、近隣に迷惑をかける心配はない。だから潤がここに立ち尽くしていても、誰の目にも触れないのだ。「じゃあ少しだけ言って帰る。頼む……彼女に伝えてくれ」潤が懇願する。「俺と陽菜の間には何もない。陽菜を妹として見ていて、一度も一線を越えたことはない。アキと結婚してから、俺の心にいるのは彼女だけだ……」潤にとって、このような愛を囁くような真似は初めてで、啓太のように流暢にはいかない。しかも相手は胡桃で、肝心の明里ではない。一呼吸置いて、また続ける。「以前の件は、おそらく誤解があったんだ。もちろん、俺に至らない点があったのは認める。一つずつアキに説明させてほしい。どうか、話を聞いてくれるよう、口添えしてくれ。頼む」胡桃が冷ややかに微笑む。「浮気を自ら認める男なんて、都市伝説レベルの話ね。浮気しても、墓場まで持っていくつもりで隠すものでしょ?そんな口先だけの言葉で、信じろと?」「陽菜を
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第278話

明里が首を横に振る。「会わない。ねえ、食材買ってきたの?」「秘書に買いに行かせたのよ」胡桃が紙袋を提げてキッチンへ向かう。「肉じゃがを作るわね」明里も胡桃の後ろをついていく。「秘書さんにそんな雑用させちゃ駄目よ。電話してくれれば、私が下のスーパーで買ってきたのに」「行かせるわけないでしょ」胡桃が言う。「大事な体なんだから、何かあったら大変でしょ。秘書には高い年俸払ってるんだから、食材の買い出しくらいさせて何が悪いの?」明里が笑って手を伸ばす。「玉ねぎちょうだい、洗うから」「いいから」胡桃が彼女をキッチンの外へ押し出す。「そこに座って話し相手になってくれれば十分よ」明里は大人しく椅子に腰掛けた。胡桃が野菜を整理しながら話し出す。「潤から伝言を預かったわ。浮気はしてないって。陽菜とは何もなかったって。それから近いうちに時間を作って、陽菜と直接会って話したいって」振り返って明里を見る。「信じる?」明里が背もたれに体を預ける。「もうどうでもいいわ。どうせ離婚するんだから」「もし……本当に誤解だったらどうする?」明里が静かに答える。「最初に彼と結婚したのは、好きだったからよ。今は、もう好きじゃない。感情がないのに、この結婚を続ける意味はないわ」胡桃が深く頷く。「それもそうね。だからあのクソ男が浮気してたかどうかなんて、どうでもいい話ってことね」二人の間に数秒の沈黙が流れる。胡桃が包丁でまな板を二度叩いた。「でもやっぱり、無性に腹が立つわ!」明里がぷっと吹き出した。胡桃が荒ぶる。「あのクソ男!地獄に落ちればいいのに!昔の私だったら、完膚なきまでに叩き潰してやったのに!」「もういいわよ」明里が宥めるように笑う。「私の胡桃は美人で気立てのいいお嬢様だから、あんな人とレベルを合わせて張り合ったりしないわ」「分かってるわよ」胡桃が乱暴に野菜を切り刻みながら言う。「とにかく、これから彼とは徹底的に距離を置くのよ」明里はこの話題を切り上げたかった。「胡桃、明日大学に戻るわ」海外プロジェクトの選考も始まる。これ以上遅れを取るわけにはいかない。胡桃が手を止める。「もう二日くらい泊まっていけないの?」明里が首を横に振る。「色々準備しなきゃいけないし」それにアルバイトのデータ整理も仕上げて、納品しなければならな
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第279話

二人は食事を終え、部屋で一時間ヨガをして体を解した後、それぞれシャワーを浴びて休むことにした。胡桃がしばらくスマホを操作してから、何気なく明里に言った。「ちょっと出てくるわ」明里が不思議そうに訊ねる。「こんな遅くに、どこへ?」胡桃も隠さずに答えた。「樹が来てるの。下にいるわ」「じゃあ早く行ってあげて」明里はほどなく深い眠りに落ち、胡桃がいつ戻ってきたのかも知らなかった。翌朝、胡桃が、具だくさんの味噌汁と卵焼きを作ってくれた。お腹を満たし、明里を大学まで車で送る。明里が病気になってから、もう一週間近く経つ。同じゼミ生たちは彼女を待ちわびていた。千秋が彼女の腕に抱きついて離れない。「明里さん、いない間、高田先生がどんなに厳しかったか知ってる!?」明里は優等生、いや天才の域だ。先生が出す難解な課題も、彼女がいれば皆が救われる。碧も優秀だが、誰も彼に質問する勇気がないのだ。明里は性格が良く優しくて、解説も丁寧だから、皆に好かれている。碧も歩いてきて、ポケットに手を突っ込んだまま彼女を見た。「治った?」明里が微笑む。「ええ」碧が資料の束を差し出す。「プロジェクトの基礎データだ」明里がすぐに受け取る。「ありがとう」この資料は、今一番欲しかったデータだ。午後、明里は整理したデータを全て化学工場の責任者に送った。責任者からすぐに電話があり、明里にまだ時間があるか、アルバイトを続けてくれないかと頼まれた。だが明里はこれからしばらく多忙になるため、丁重に断りを入れ、来月なら時間が作れるかもしれないと伝えた。それからは、目が回るような忙しさだった。明里の生活は、大学と寮を往復するだけの日々になった。海外との共同プロジェクトは、競争率が極めて高い。国内の大学にも優秀な学生が大勢いて、誰もがその椅子を狙っている。明里がこのプロジェクトのメンバーに選ばれ、海外へ行く切符を手にするのは、そう簡単なことではない。当初、明里は潤が押しかけてくるのではないかと懸念していたが、大学に戻ってからの数日間は、拍子抜けするほど静かだった。明里は胸をなでおろした。その頃、潤は海外へ飛んでいた。海外の供給拠点でトラブルが発生し、現地トラブルの対応に追われていたため、潤が自ら出向いて処理に当たっていたので
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第280話

明里は子供の頃から成績優秀だった。学校の課題が簡単すぎたこともあるが、何より両親のしつけが厳しかったからだ。彼女は幼い頃から典型的な「いい子」で、親の言いつけを守る、手のかからない子供だった。賭け事のような世界とは無縁だった。慎吾が賭博に溺れ、しかもあれほどの大金を賭けるなんて、明里には到底、理解できなかった。金もないのに、嘘を重ねて借金までして賭ける。そんな人間がいるなんて、信じたくなかった。とにかく明里には理解不能だった。怒りで指先が震える。しばらく深呼吸をして気持ちを落ち着けてから、ようやくスマホを取り出して慎吾に電話をかけた。しかし、発信ボタンを押そうとした瞬間、思い直して切った。何度も何度も、慎吾はもう二度と賭けないと誓った。だが最後には、毎回誓ったそばから約束を破る。その繰り返しだ。彼にいくら言葉を尽くしても無駄だ。明里は実家に帰る決意をした。千秋たちに伝言を頼み、研究室に断りを入れて、車を走らせて村田家へ向かった。事前の連絡はしていない。玄関の前に立ち、ドアをノックする。ドアを開けたのは母の玲奈だった。明里は一目で、玲奈の目が赤く腫れていることに気づいた。泣いていたのだ。「お母さん、どうしたの?」「アキ?」玲奈が目を丸くする。「どうして急に帰ってきたの?」明里が中に入って靴を脱ぐと、父の哲也の様子もおかしいことに気づいた。「お父さん、お母さん、一体どうしたの?」明里は重ねて訊いた。玲奈が耐えきれず、顔を覆って泣き崩れた。「もう、どうしたらいいのよ!」嫌な予感が胸をよぎる。「お母さん、何があったの?」「慎吾が……慎吾が、家を売ってしまったのよ!」玲奈が号泣する。「どうしてあんなことができるの!」明里の心臓が凍りついた。哲也が傍らで怒鳴りつける。「泣くな!いつまでめそめそ泣いてるんだ!もうこうなっちまったのに、泣いてどうする!」「家を売って……ギャンブルに使ったの?」明里の声も震えている。「でも待って、家は慎吾のものじゃないでしょ!どうやって売れるの?」明里の指摘に、玲奈の泣き声がピタリと止まった。明里が哲也を見ると、哲也は彼女の視線から逃げるように顔を背けた。二人は何も言わなかったが、明里は瞬時に全てを悟った。以前、慎吾が家を買いたいと言い
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