冷戦3年目の離婚宣言。なのに彼が跪いた。 のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

100 チャプター

第81話

二度、三度とかけ直して、ようやく伊吹が出た。だが、返ってきた声は冷たかった。「よほどのことじゃなかったら、ただじゃおかない」温子の胸が、すっと冷えた。こんなときまで、どこかで期待していた自分が馬鹿みたいだった。温子は何も言わずに通話を切り、今度は海舟へ電話をかけた。「お兄様、一人、調べていただきたい人がいるんです」「誰を?温子、まだ起きているなら、こっちへおいで。今夜はホテルで会議があって、会議室を使っているんだ。落ち着いて話せる」温子は小さく息をついた。「ありがとうございます。今から伺います」クラウディ・コーヴの人間が入れ替わってから、屋敷の者たちは、温子の動きを何かにつけて伊吹へ知らせるようになっていた。夜十時。温子がクラウディ・コーヴを出て数分もしないうちに、その知らせは伊吹のもとへ届いた。伊吹の目が、暗く沈んだ。その目つきから、最後に残っていた温度まで消えていく。一本電話をかけると、すぐに温子の居場所が送られてきた。続けて、相手が低い声で告げる。「社長、今夜は海舟様も同じホテルにいらっしゃいます」伊吹はスマホを握りしめた。指先に力が入り、今にも砕いてしまいそうだった。背もたれに体を預ける。その顔は、夜の底のように暗かった。そのころ、温子はホテルの会議室に着いていた。会議室は一階ロビーからそう離れておらず、照明も明るい。外には人の出入りもあった。海舟はまだ会議中だった。温子に気づくと、横の席を軽く指し、先に座っているよう目で示した。温子も邪魔をするわけにはいかず、黙って席に着いた。三十分後。時刻はもう十一時を回っていた。会議を終えた海舟が、まっすぐ温子を見た。「それで、誰を調べたい?」温子は少しだけ不思議に思った。電話で済ませられそうな話なのに、どうしてわざわざここまで呼んだのだろう。「川島麻衣です。この配信に出ている人です」温子はスマホで配信画面を開いた。麻衣の配信には、すでに四万人近い視聴者が集まっていた。今夜はずっと投げ銭も飛び交っている。おそらく、一千万円分ほどにはなっているはずだった。海舟は秘書に電話を入れた。それから、温子へ穏やかに言った。「二十分ほど待てるかな」「はい。ありがとうございます、お兄様」温
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第82話

「温子、その人に何かされたのか。必要なら、俺が動くよ」温子は首を振り、バッグを握りしめた。「大丈夫です、お兄様。ありがとうございます」海舟は手を伸ばし、温子の頭をやさしく撫でた。「帰りなさい。困ったことがあったら、いつでも電話しておいで」海舟は、昔から温子にやさしかった。以前の温子は、そんな海舟に心から感謝していた。けれど最近は、何度か会うたびに、どこか妙な違和感を覚えるようになっていた。うまく言葉にはできない。ただ、何かが引っかかる。ホテルの入口を出ると、柱のそばで煙草を吸っている伊吹がいた。指先に煙草を挟み、視線だけで温子を上から下まで眺める。「話は終わったのか」機嫌が悪いのは、見れば分かった。伊吹は苛立たしげに灰を落とした。温子はうつむいたまま、外へ出ようとした。けれど伊吹は、影のようについてくる。「こんな時間に、こんな場所まで男に会いに来る。おかしいとは思わないのか」温子は足を止めた。わざと難癖をつけているのだと分かった。「あなたは梓穂に会いに行くでしょ。だったら、私がお兄様に会って悪い理由なんてない」伊吹は鼻で笑った。吸いかけの煙草を、そばの灰皿に投げ入れる。次の瞬間、温子の肩を押さえ、柱に追い詰めた。「お前と梓穂を同じにするな」温子の顔から、すっと血の気が引いた。まつげがかすかに震える。「同じにはなれないよ。だから、私が誰に会おうと、あなたに口を出される筋合いもない」伊吹は温子の顔を見た。その目の奥に、ほんの一瞬だけ、自分自身を嫌悪するような色がよぎる。「俺が好きでお前に口を出してると思うのか。まだ離婚していないんだ。これ以上、くだらない写真をばらまかれたら面倒だろう」ぱん、と乾いた音が響いた。温子が手を上げ、伊吹の頬を打っていた。目のふちが赤く染まる。クラウドトップ・サウンドの写真を流したのは、温子ではない。本当に少しでも温子を気にかけているのなら、写真を流した人間を調べるべきだった。それなのに伊吹は、被害者である温子を責めに来た。その瞬間、温子の中で何かがすとんと落ちた。口元に、冷めた笑みが浮かぶ。「写真を流した人間が、梓穂と関係しているんでしょ。梓穂を責めたくないから、私に当たりに来たんじゃないの」伊吹
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第83話

温子は操り人形のように、伊吹に連れられて車へ乗せられた。あまりにも頭が真っ白で、伊吹が何を言っているのかさえ耳に入らなかった。車に乗るなり、伊吹は温子を奥の広いシートへ押し倒した。温子が何の反応も示さないのを見ると、伊吹は身をかがめて確かめた。誰かに触れられた痕跡がないと分かって、ようやく小さく息をついた。温子の涙はまだ止まらなかった。足を上げて伊吹を蹴ろうとする。けれど伊吹は温子を抱き上げ、その体勢のまま逃がさなかった。「放して!放してよ……」伊吹はわずかに顔を上げた。整いすぎた顔の奥に、深く押し殺したような喜びがにじんでいた。温子の心は、もうとっくに傷だらけだった。伊吹は額を温子の肩に押しつけ、喉を鳴らした。「誰かを好きになるなら、俺に気づかれないようにしろ。うまく隠せ。そうすれば俺は、自分に嘘をついて、何も知らないふりをしていられる」声はひどく掠れていた。伊吹は温子をきつく抱きしめる。「温子……」温子は、自分の体がこのまま砕けてしまいそうだった。不思議だった。どうして、伊吹はまだ自分を愛しているように感じるのだろう。とても、とても愛しているように。それなのに、伊吹のすることはいつも自分を傷つける。「温子」伊吹は何度も温子の名を呼んだ。片手で温子の頬に触れ、軽くつまむ。温子の体は、嘘をつけなかった。この体は、伊吹が与えてきた熱も、刺激も、忘れてはいなかった。伊吹は首を伸ばして口づけようとした。温子が顔をそむけると、そのまま首筋に唇を落とす。こういうとき、伊吹は温子が拒む場所にこだわらない。むしろ、なだめるように逃げ道を変えながら、温子のいろいろな表情を引き出すのを楽しんでいた。温子はまつげを伏せた。伊吹の目の奥に、きらきらとした光が宿っているのが見えた。やがて車が、かすかに揺れ始めた。終わったあと、伊吹は温子の髪に、慈しむように口づけた。「俺はお前と離婚しない」温子はおかしくなって、ただ目を閉じた。自分のこの体が、心底憎かった。伊吹は前の席へ移り、車をクラウディ・コーヴへ走らせた。温子は、自分がいつ眠ってしまったのかも分からなかった。翌朝、温子は早くに目を覚ました。灰原グループへ出勤するため、タクシーを呼
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第84話

瑞希からの返事は、すぐに来た。【温子は、ずっと私のいちばんの親友だよ】その一文を見て、胸の奥が少し痛んだ。この数年、温子はずっとクラウディ・コーヴに閉じこもっていた。そのせいで、大切な友人をひどく傷つけてきたのだと思った。温子は椅子の背にもたれた。配信画面では、麻衣がまだ嫌味を言い続けている。一晩中配信していたせいか、さすがに疲れたのだろう。しばらくして、ようやく配信は終わった。麻衣は朝食を済ませると、すぐに悦加へ電話をかけた。「悦加さん、私の配信、見てくれました?今、あの女、めちゃくちゃ叩かれてますよ」その媚びた声を聞いただけで、悦加は吐き気がした。ずっと前から、麻衣は何かと機嫌を取るようなメッセージを送ってきていた。大学時代に瑞希の学位を潰していなければ、悦加はこんな女を相手にもしなかっただろう。「見たわ。まだ足りない。もっとやりなさい。あの隠し子が完全に潰れるところを見たいの」電話の向こうにいるのに、麻衣は腰を低くしているのが分かるような声で言った。「分かってます、分かってます。ご飯を食べたら、また配信を始めますから」悦加は電話を切り、一階へ下りた。顔には不機嫌さがにじんでいる。今の継母は、林麗子(はやし れいこ)という。父がずいぶん前から外に囲っていた女だった。当時、この女はかなり野心があった。自分の娘に、わざと悦加を意識したような名前までつけた。けれど結局、息子を産むことはできなかった。そのうえ林家の長男である聡史があまりにも優秀だったため、ようやく大人しくなったのだ。悦加は見下すような顔でソファに腰を下ろした。「あんたの娘、配信者なんだって?」その言葉が終わる前に、麗子は慌てて前へ出てきた。媚びるように笑う。「悦加、今回のことであなたが不快な思いをしたのは分かってるわ。瑞希には、ちゃんと謝りに来るよう言ってあるから」言い終わるより先に、悦加は手を上げた。乾いた音が響く。麗子の頬が、目に見えて腫れていった。それでも麗子は、その場に立ったまま、やり返そうとはしなかった。「林麗子、気持ち悪い真似しないで。あの女にわざとそんな名前をつけたことくらい、分かってるのよ。あんたが何を考えていたかなんて、全部お見通し」「悦加、嫌なら改名
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第85話

「お母さん!」瑞希は目を閉じた。「名前は変えるって言ったでしょ。ここで騒がないで」昼休み、瑞希はただ温子に手作りの小物を届けに来ただけだった。朝のメッセージをきっかけに、何年も止まっていた二人の友情が、また少し動き出したようで嬉しかったのだ。まさか麗子にあとをつけられているとは、思ってもいなかった。この数年で、麗子はすっかり身勝手な人間になっていた。冷たく笑い、瑞希を見た。「瑞希、私があんたをここまで育てたのは、口答えさせるためだったの?この指を見なさい。これは、あんたの治療費のためになくした指よ。あのとき、あんたは高熱で死にかけていた。あと十万円さえあれば助かるって言われた。私、この指がどうしてなくなったか、何度も話したでしょう?」その指を見せられるたびに、瑞希は喉を締めつけられたようになった。言葉が出なくなる。麗子の目に、得意げな色がかすかによぎった。それから、まるで情けをかけてやるというような顔をする。「もういいわ。二人で謝りに行くだけじゃない。大したことじゃないでしょう。ここからなら二時間もあれば着くわ。遠くないんだから、今すぐ出なさい」温子はおかしくなった。麗子の顔に浮かぶ打算を見て、深く息を吸う。「おばさん、帰ってください」麗子は聞き間違えたのかと思った。目を見開き、それから笑い出す。「分かってるの?灰原伊吹がここにいたって、私のことはおばさまって呼ぶのよ」その言葉が終わるより早く、伊吹の声が響いた。「そうか?そんな親戚がいた覚えはないな」麗子が振り向く。スーツ姿の伊吹が、少し離れた角の前に立っていた。麗子の顔色が一瞬で変わる。「伊吹くん……」伊吹は軽く笑った。その目には、はっきりとした侮りが浮かんでいる。「家の年長者がそう呼ぶならまだしも、お前は何なんだ?」あまりにも遠慮のない言い方だった。麗子は一瞬、返す言葉を失った。気まずそうに瑞希の腕を引こうとする。けれど温子が、瑞希の前に立った。「おばさんがどうやって悦加に取り入ろうと、私には関係ない。でも、瑞希に名前を変えさせたいなら、それでいい。名前だけじゃなく、苗字も変える。瑞希だって、もともと林なんて苗字を名乗りたくなかったんだから」麗子は怒りで胸が詰まったような顔
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第86話

温子は、伊吹と梓穂が並んで立つのを見ていた。梓穂の目には、勝ち誇ったような色が浮かんでいる。それだけでは足りないのか、わざとらしく伊吹のそばへ身を寄せた。「伊吹、行きましょう」伊吹の視線が、一度だけ温子に向いた。それから小さくうなずき、梓穂と歩き出そうとする。同じような場面は、これまで何度も見てきた。それでも昨夜、熱に浮かされたように口にした「離婚しない」という言葉が、温子の中にほんの少しだけ迷いを残していたのかもしれない。気づけば、声が出ていた。「どこへ行くの。私も一緒じゃだめ?」梓穂の目に、かすかな驚きが走った。以前なら、伊吹がどこへ行こうと、温子を連れて行くことはなかった。ここ数年は家に戻ることさえ少なく、温子のほうも、置いていかれることに慣れていたはずだった。それなのに、今さら自分からそう言い出すなんて。いい流れではない。梓穂の目に、すぐ笑みが戻った。片手を伸ばし、伊吹の腕に絡ませる。「温子さんは来ないほうがいいわ。家で伊吹の帰りを待っていて」温子は梓穂を見なかった。伊吹だけを見た。「私も行く」伊吹の目が、一瞬で暗く沈んだ。何かを迷っているようにも見えた。けれど次の瞬間には、視線をそらしていた。「先に帰れ」たったそれだけで、温子の足は止まった。昨夜、胸の奥にかすかに戻りかけたものが、その瞬間、跡形もなく消えた。また自分から惨めになりにいったのだと思った。梓穂のことになると、伊吹はいつも迷わずそちらを選ぶ。二人はすぐに去っていった。温子はその場に立ったまま、麗子の嘲る声を聞いた。「本当に大事にされているのかと思ったら、ただ梓穂さんを待っていただけだったのね」伊吹がいなくなった途端、麗子は急に強気になった。手を上げ、温子を叩こうとする。けれどその前に、温子の足が動いた。麗子の腹に、まともに蹴りが入る。麗子は腹を押さえ、顔を真っ白にした。「あんた……」瑞希は反射的に手を伸ばし、麗子を支えようとした。そのとき、温子が言った。「瑞希、覚えてる?婚約披露の席で、私が薬を盛ったって認めたとき、あなたがどんな気持ちだったか」信じていた相手に裏切られたような痛み。どうしてそんなことをしたのだと、怒りたくなる気持ち。
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第87話

温子はまつげを伏せた。「前にクラウディ・コーヴにいたとき、聡史さんが少しだけ漏らしたの。瑞希、一億円をお母さんに渡したとして、そのあと何があっても、もう情に流されないって言い切れる?言い切れるなら、渡していいと思う」瑞希の脇に下ろした手が、ゆっくりと握りしめられた。深く息を吸う。その目は、少しずつ静かになっていった。「言い切れる。今すぐ振り込む。それから、自分で名前を変えに行く。ねえ、私、どんな名前にしたらいいと思う?」温子は手を伸ばし、瑞希の肩を軽く叩いた。「自分で決めればいいよ。川島麻衣のことは私が片づける。この数日は配信を休んで。今はみんな頭に血がのぼってるから、あなたが出ていったら、全部あなたに向かう」「温子、もしかして……」「うん。前に歌っていたアカウントを、もう一度使う」昔、温子が歌を投稿していたアカウントの名前は、「人間型ナイチンゲール」だった。当時は別のSNSにもアカウントを持っていた。配信用のファンアカウントも、SNSのフォロワーも、どちらも一千万人を超えていた。あの二年間、ショート動画を開けば、どこかで必ず温子の歌が流れていると言っていいほどだった。今、温子が配信を始めれば、待っていた人たちはすぐに戻ってくるだろう。けれど、温子はもう歌えなかった。心の問題だった。歌おうとするだけで、誰かに喉をつかまれたようになって、声が出なくなる。瑞希は胸が熱くなった。あのアカウントが戻ってくるとなれば、間違いなく大きな騒ぎになる。この数年、芸能界には才能のある歌手が何人も出てきた。それでも、そのたびにネットでは「人間型ナイチンゲール」と比べられた。そして決まって、こう言われる。今の歌手たちも確かにうまい。誰もが絶賛するような歌声だ。けれど、あの頃の「人間型ナイチンゲール」には届かない。「人間型ナイチンゲール」が姿を消してから、なりすましが現れたことも一度や二度ではなかった。けれど、歌えばすぐにばれた。温子の声は、ファンがよく言っていた通り、天使に祝福されたような声だった。ひとたび歌えば、悩みも痛みも、少しだけ遠のいていく。遠い山あいから聞こえてくる鹿の声のように、澄んでいて、どこまでも清らかだった。あの頃、温子の歌に救われた人は大勢いた。瑞希は温
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第88話

その一言で、配信はさらに盛り上がった。普通の人にとって、豪門のお嬢様の暮らしはあまりにも遠いものだった。まして悦加は、以前このアカウントをよく動かしていた頃から、本当に桁違いに裕福だった。帝都のような街に、豪華な別荘を持っている。部屋ひとつを埋め尽くすほどのエルメスのバッグまである。それを見て、どれだけ多くの人が羨望の目を向けただろう。おかしな話だが、今の世の中では、派手な暮らしを見せるだけで簡単にフォロワーが増える。金持ちに群がる人間の心理など、誰にも分からない。それでもあの頃、悦加は一晩で百万人以上フォロワーを増やしたことさえあった。その後、本人が飽きたのか、長いあいだこのアカウントにはログインしていなかった。配信内で最高額のギフトは一つで二百万円。悦加はさらに十個投げた。一気に二千六百万円分が投げ込まれ、麻衣の配信はそのまま熱度ランキングの一位に押し上げられた。コメント欄は、ほとんど狂乱状態だった。【やば、この人ガチの金持ちじゃん。プロフィール見に行ったけど、あの別荘の豪華さ、目がつぶれるレベル】【お嬢様のペット枠、空いてませんか?】【お呼びとあらば、即参上!】【お嬢様、美人で優しいとか最高。しばらく出てこなかったのに、久々に現れたと思ったらこういうことに声を上げるなんて。林瑞希って配信で相当稼いでるんでしょ?早くこういう人を配信停止にして、若い子の価値観をおかしくしないでほしい】悦加は、その持ち上げられる空気を楽しんでいた。本当は、そんなものを必要としているわけではない。それでも、人から褒めそやされて気分がよくなるのは、人として自然なことだった。まして悦加にとって、二千万円少々など大した金ではない。悦加は冷たく笑い、温子にメッセージを送った。【温子、あんたのいちばんの親友って、この隠し子なんでしょう?見ていなさい。この隠し子を、あんたと同じ嫌われ者にしてあげるから】温子はずっと配信を見ていた。すでに、面白がったネットユーザーたちが悦加の素性を掘り始めている。この二日間、麻衣は配信で自分の大学時代のことをかなり詳しく話していた。そのうえ悦加の苗字まで口にしたため、ネットユーザーはすぐに相手を特定した。さらに、瑞希が以前叩かれていた件まで掘り出されていく。
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第89話

今の賀希は、温子の顔を見るだけで、拳銃を抜かないだけまだまし、という状態だった。あの界隈で、温子をよく思っている者はいない。だから温子は、余計なことをせず、家でおとなしくしているのが一番だった。梓穂は目を赤くし、翠の手を握っていた。「お姉ちゃん、みんな待ってるの。早く目を覚まして」けれど翠は、青白い顔でベッドに横たわったままだった。目を閉じたまま、もう三年以上が経っている。賀希はこみ上げるものを抑えきれず、伊吹の襟元をつかんで廊下へ引きずり出した。「お前、いつになったらあの女と離婚するんだよ!」昔、二人はよくつるんでいた。けれど伊吹が結婚してからは、同じ場に顔を出すこともめっきり減った。皆がこうして集まるのは、毎年、翠の誕生日くらいだった。伊吹は襟をつかまれたまま、薄い唇に冷えた笑みを浮かべた。「もうすぐだ」「二年前にも同じことを聞いた。そのときもお前は、もうすぐだって言った。一年前もそうだ。何なんだよ。あんな性悪女が好きなのか?」「賀希」伊吹の声が、低くなった。「あいつのことを、口を開くたび性悪女だの何だの呼ばれるのは気分が悪い。どうであれ、今はまだ俺の妻だ」二人とも、ただ立っているだけで周囲の空気を張り詰めさせるものがあった。廊下を通りかかった医師たちまで、自然と足音を落とす。誰も口を挟もうとはしなかった。賀希は伊吹の襟から手を離し、自分のスーツを整えた。その目は、深く暗かった。「お前が何を考えていようと知ったことか。あの女が離婚したら、翠が味わったものを、全部あの女に返してやる」そう言い残し、賀希は病室へ戻っていった。あの界隈で知らない者はいない。賀希は翠を愛していた。あの事故さえなければ、二人はとっくに結婚していたはずだった。伊吹は廊下に立ったまま、病室へは戻らなかった。ポケットから煙草を取り出し、火をつける。聡史が出てくると、何も言わずにその煙草を取り上げた。火を消し、そばのごみ箱へ捨てる。それから壁の禁煙マークを指さした。伊吹は小さく笑い、肩をすくめた。二人とも、それ以上は何も言わなかった。幼なじみというわけではない。それでも伊吹が灰原家に戻ってきてから、二人は妙に馬が合った。そこに浩司も加わり、いつの間にか、よ
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第90話

梓穂を家まで送り届けると、伊吹は自ら車を降り、彼女を玄関先まで送った。梓穂は数歩進んだあと、ゆっくりと戻ってきた。そして、伊吹の腰に腕を回す。「伊吹。あなたと温子さんの十数年が、そう簡単に断ち切れないものだって分かってる。でも、今の彼女はあなたに面倒を持ち込むばかりでしょう。賀希もあれほど嫌っているし、灰原家の人たちだって、誰も彼女を好きじゃない。そろそろ決めたほうがいいと思うの」自分が待っているとは、一言も言わなかった。どの言葉も、ただ伊吹のためを思っているように聞こえた。伊吹は手を上げ、梓穂の背中にそっと触れた。その一瞬が写真に撮られ、ほどなくして温子のスマホへ送られてきた。もちろん、悦加の仕業だった。温子は、写真の中で抱き合う二人を見つめた。深く息を吸う。これまで、うやむやにしてきたことはあまりにも多かった。けれど今回は、黙って踏みにじられるつもりはなかった。長いあいだログインしていなかったインスタのアカウントを開く。指先が何度か震えた。それでも、温子はログインした。今、瑞希の名前はまだトレンドの上位にあった。けれど、おそらくすぐに下げられる。聡史のような人間が、林家のことをここまで人目にさらしたままにしておくはずがない。温子のインスタには、一千万人を超えるフォロワーがいた。最後の投稿は、三年以上前で止まっている。それでもコメント数は、すでに百万人近くに達していた。コメント欄を開くと、上のほうはファンたちの泣き顔の絵文字で埋まっていた。【ナイチンゲールちゃん、いつ帰ってくるの?】【本当に……ずっと会いたかった】【どうか、元気でいてください】帝都の上流の人間たちがどれだけ温子を見下し、どれだけ貶めようとしても。それでも、どこかで静かに温子を想い続けてくれている人たちがいた。温子はしばらく、乱れた鼓動を落ち着かせた。それから、数年ぶりに投稿をした。【瑞希は私の友人です。大学時代の件について、以下、時系列で説明します】この二日間、温子がひとりで作っていた資料だった。以前、瑞希が麻衣のことを話してくれたとき、二人のやり取りのスクリーンショットも送ってくれていた。けれど当時、世間はただ噂話に熱狂するばかりで、真実に目を向ける人などいなかった。
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