Todos los capítulos de 余命僅かな私、彼の「忘れられぬ人」の身代わりになる: Capítulo 801 - Capítulo 810

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第801話

慎の表情は、どこか陰りを帯びていた。眼下に広がる混乱を見下ろしながら、紬がまだ見つかっていないという事実に、胸の奥が重く沈み込んでいた。己の命を狙う者が潜んでいることは、すでに明白だった。これからはより一層、慎重に動かなければならない。前方の操作台に向かう理斗へ、慎は静かに問いかけた。「清水さんが来るとは思わなかった」理斗は操作の手を止めずに答えた。「笑美に頼まれたんです。てっきり一緒にいると思っていました」その言葉が、鉛のように慎の胸に重く落ちた。つまり――紬の行方は、まだ分からない。「……まだ見つかっていない」慎は伏し目がちに、薬指の結婚指輪を見つめた。「西と南は探しました。温井さんの痕跡は今のところ何も。長谷川代表はどちらから?」このエリアは、広いともいえないが狭くもない。しかも今は混乱の最中にあり、身動きの取れない人々があちこちに散らばっている。人を探すには、あまりにも条件が悪すぎた。慎は眉根を寄せ、しばらく考え込んだ。「では、お互いに逆方向から探してきたことになるね」理斗は方位を確認しながら続けた。「温井さんと一緒にいたのは現地の関係者たちで、同僚ばかりです。チームで避難していたはずなんですが……一人なら難しくても、チームなら本部に連絡の一つくらい入れられるはず。それが全員、今も沈黙したままで」慎の目が、すっと細くなった。「チームで動いていれば、誰かしら報告を上げているはずだ。それが誰一人として何も言ってこないとなると、単純な話ではなくなる」紬一人だけなら、何かのトラブルに巻き込まれた可能性が高い。だが、これだけ大勢が同時に音信不通となれば、話はまったく別になってくる。これだけの人数だ。探せば必ずどこかに痕跡が残っているはずだ。それでも見つからないなら――慎の瞳に、静かな危険の色が宿った。まさか……「もしかして……彼女たちはもう、ここにはいないんじゃないか」理斗は黙って考えを巡らせた。三十分ほど前、彼のもとにも連絡が来ていた。政府がすでに捜索に入っているが、そちらからもまだ何も届いていない。そうなれば、慎の指摘する可能性も、十分にあり得る。慎はポケットから携帯を取り出し、紬へ発信を試みながら告げた。「手間をかけるが、先に安全な場所へ移動してくれ」新たな策が浮かび
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第802話

紬は静かに振り返った。暗がりに立っていたのは、悠真だった。意味ありげな表情で少し離れたところに立ち、値踏みするように紬を見つめている。「慎からまだ何の連絡もないのに、眠れるわけないでしょう」正面から答えるのを避け、あくまで自然に装って当たり障りのない言葉を返した。悠真は片手をポケットに突っ込んだまま、形のいい目元に微かな笑みを滲ませているようでもあり、そうでないようにも見えた。「まさか、僕を信用できなくて逃げようとしてるんじゃないかと」明確な悪意はないはずなのに、その言葉が冷たい蛇のようにじわりと背筋を這い上がる。紬は悠真の目を真っすぐに見返した。「こんな夜更けに、異国の地で、どこへ行けというの?」「それもそうだね。今は少し外も混乱しているし」悠真は悪びれもせず、軽く肩をすくめた。その隙に紬は携帯をそっと上着のポケットへ滑り込ませ、何気ない素振りで歩き出した。「同僚たちは……今、無事なの?」「問題ないよ。明日には帰国の手配をするつもりだから」悠真はまるで天気の話でもするように、あっけらかんと答えた。しかし紬の中では、悠真への強烈な警戒心が限界まで高まっていた。かつてはあの屈託のない笑顔と自由奔放な人柄を、それなりに好ましいと思っていた時期もあった。しかし今は違う。これだけのことが続いて、紬が肌で感じるのは――望月悠真という人間の危うさが、想像をはるかに超えているかもしれないという真実だった。平然とした足取りで母屋へと歩みを進めながら、紬は決して内面の動揺を悟らせなかった。悠真もまた、自然な足取りで隣に並んで歩く。別に意識していたわけでもないのに、こうして静かに隣を歩いていると、悠真は、彼女の存在を悪くないと感じていた。玄関口まで来たところで、紬はようやく立ち止まり、振り返った。「いつまでここに留まるつもりなの?」「仕事次第だね」悠真は眉を上げ、どこか楽しげな響きで続けた。「ただ、今はあまり安全な状況とは言えないし。明日、一緒に帰国しないか?」紬の瞳が、すっと陰りを見せた。「分かっているはずよ。夫からまだ何の連絡もない今、私一人だけが帰るわけにはいかない」――夫。その単語が耳に入った瞬間、悠真の口元に浮かんでいた微笑が、ほんのわずかに温度を失った。以前は気にも留めていな
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第803話

紬は、完全に不意を突かれた。その瞬間、目を大きく見開いた。信じたくない。信じるはずがない――それでも、その残酷な言葉が胸を貫いた瞬間、心臓をきつく締め上げられたように息が詰まった。「あなた……!それはどういう意味なの……っ!」普段は感情を表に出さない紬の悲痛な声が、鋭く空気を切り裂いた。目の前の男を見つめる彼女の瞳から、作り物の柔和さが完全に剥がれ落ちた。残ったのは、触れれば指が切れそうなほどに冷ややかな眼差しだけだった。その強烈な敵意に満ちた目で見られて、悠真はひどく滑稽だとさえ感じた。彼女は、それほどまでに自分を憎んでいるのか。たった一言言っただけで、これほどまでに。悠真はじりりと一歩踏み出し、夜の闇の中でその小さな表情の変化を見つめた。突きつけられた現実に対する苦しみまで見届けたいとでもいうように、一語一語、刻み込むように告げた。「驚く必要はない。これは紛れもない事実だから。そうでなければ――あえて君をここに匿っておく理由が、僕にあると思うか?」紬の固く握りしめた小さな拳が、小刻みに震えていた。それでも悠真を射抜く目だけは、凍りついたように冷酷なままだった。悠真はその視線を真っ向から受け止めながら、もう一度、紬の瞳の奥を覗き込んだ。「いいか? 彼は死んだんだ。もうこの世にはいないのさ。そして君は、前を向かなければならない」なぜだろうか。その言葉を口にするとき、悠真は笑っていた。かつて彼女が見たものと何一つ変わらない、眩しいほどの明るい笑顔で。なのに、その内に秘めた狂気は、何もかもが決定的に違っていた。紬はこのとき初めて、慎がかつて悠真をそう評した理由が腑に落ちた。年は若くとも、その精神の冷たさも、他人の弱点を見抜く鋭い眼力も、底なしの残酷さも、腹の底の底知れなさも。すべてが常人の想像をはるかに超えている。彼は、己の狂気を何一つ表には出さないのだと。紬はふっと薄く笑った。底知れぬ軽蔑と嘲りを込めて。「……それほどまでに、彼が怖かったのね。いなくなってほしかったの?」悠真には、それが己の痛いところを的確に突いてきた言葉だと分かった。だが、もう構わなかった。どうせあの状況で慎が生き延びている可能性など皆無に等しい。自分自身の因縁も、香凛の恨みも、これでようやく清算されるのだ。「……やっぱり、
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第804話

毅然と言い放ったものの――紬の胸の内は、恐怖で凍りついていた。ただでさえ危険な場所なのだ。そこにクルフの追手まで加わったとなれば、慎が生き延びている可能性は、いったいどれほど残されているというのか。恐怖が波のように押し寄せ、心臓が激しく早鐘を打つ。その一拍ごとに、鋭い痛みが走った。認めない。認めるわけにはいかない!悠真はゆっくりと身を起こし、立ち上がって冷然と紬を見下ろした。「縁がなかったなら、なかったということだ。なぜ無理に続けようとするのか。そろそろ現実を見なよ。男という生き物は、本質は変わらない。一度裏切れば二度裏切る。それがどんな人間であれ」紬がすぐには受け入れないことなど、悠真には分かっていた。だが、構わない。予想外の奇跡でも起きない限り、結果はもう決まっているのだ。紬はそれ以上、聞く気になれなかった。踵を返し、外の車の方へと歩き出す。自分で探しに行く。慎が無事でいることを、自分の目で確かめなければ……!その迷いのない後ろ姿を目にして、悠真の口元からようやく笑みが消えた。ポケットの中で指を軽く動かしてから、表情を消し、大股で追いつくと――紬の意向などお構いなしに、片腕でその腰を抱え上げた。紬の足が宙に浮く。必死にもがいて抵抗したが、悠真はわずかに眉をひそめるだけで意に介さなかった。そのまま紬を抱え込み、強引にヴィラへと連れ戻す。紬は怒りで我を忘れていた。両手で彼の襟を乱暴に引っ張りながら叫ぶ。「放して!私に触れないで!」今夜はあまりにも感情を乱されすぎた。悠真と冷静に渡り合う余裕など、今の紬にはもう欠片も残っていなかった。今すぐここから出たかった。悠真が何を企んでいるかなど、もはやどうでもよかった。悠真は紬を寝室まで運び、それ以上の真似はせずベッドの端に下ろすと、ただ静かに彼女を見下ろした。「そんな目で見なくてもいいでしょう。航路の申請はした。明後日には専用機で帰国できる。もしかしたら――」悠真は小首を傾げ、紬の目を見つめ返した。「長谷川家が訃報を出す前に、帰国が間に合うかもしれないね」どれほど軽い口調を装っても、その響きには残酷さが滲んでいた。信じてなどいなくても、その言葉は、確かに紬の胸を刺した。「いったい、何がしたいのっ!?」悠真はゆっくりと目
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第805話

悠真が部屋を出ていった。紬は少しずつ、表情と冷静さを取り戻していった。目を伏せ、両手をぎゅっと握りしめる。思考を、もう一度整えるのだ。これはすべて悠真が口走ったことだ。証拠など何一つない。こんな形で連れ帰られるわけにはいかない。ましてや、訳も分からないまま慎を置いていくなど、あり得ない。扉の外から、鍵の閉まる音が響いた。足音が遠ざかったことを確かめてから、紬はポケットの奥深くに隠していた携帯をそっと取り出した。電源は入っていた。画面の乱れ以外は、今のところ故障はなさそうだ。窓際へと足音を殺して近づき、電波を拾おうとする。かろうじて一本――しかし、頼りなく点滅を繰り返している。焦りが胸に募った。ここで時間を浪費している余裕はない。あとはこの携帯に、すべてを賭けるしかなかった。……一方、悠真は階上へと上がっていた。胸の中には、うまく言葉にできない苛立ちが渦巻いている。グラスに酒を注いだが、口に運ぶ前に手が止まった。携帯が鳴ったのだ。画面に表示された番号を確認し――悠真は静かに電話に出た。「望月さん。クルフの連中が……失敗したようです」グラスを持つ指に、ぐっと力が入った。悠真の目に険しさが宿る。意外だった。あれほど完璧に追い詰めたのに、まだ生きているというのか。前後から挟み撃ちにしたはずだ。どうやって抜け出した。だが、部下はさらに続けた。「それともう一つ、望月さん。興味深いことが分かりました。ずっと長谷川慎の動向を追っていたんですが、海外への渡航が多い。立場上おかしくはないのですが……この数ヶ月で最も頻繁に足を運んでいた場所が、ニューヨークなんです」「どういうことだ」「長谷川慎はニューヨークに、ある施設を持っているようです。体外受精や胚移植を専門とするクリニックです」悠真の動きが、完全に止まった。その表情から、すっと温度が消えた。……深夜近く。理斗が部下を引き連れ、拠点へと戻ってきた。笑美はずっと眠れずにいた。機体の音を聞きつけると、毛布を羽織ったまま外へ飛び出した。駐機している機体を目にして、胸の奥でわずかに何かが緩む。危険な場所へ理斗を送り込んだのは、自分だ。それが正しかったのか、今でも正直分からない。理斗の命だって、同じよう
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第806話

理斗も慎と同じ見方だった。内部の情報を確認しながら言った。「本国側がすでに現地当局と交渉を始めています。通報が早かったので、じきに動きがあるはずです」外交ルートが動けば、現地も全力で捜索に協力する。慎はうなずいた。望んでいた展開だ。国内への連絡を最優先にしたのも、時間を稼ぐためだった。携帯を一瞥してから続けた。「ここには他の隊員もいる。衛星で位置を特定し、ドローンと組み合わせて広域を探したい。幸い、この場所にはドローンの操縦ができる人間が揃っている」その指示に、全員が即座に動いた。紬の安否は最優先事項だ。しかもその立場は特殊で、上からの注目も高い。夜を徹して根回しが進み、必要なあらゆる許可が下りた。そして三時間後――監視モニターを見つめていた慎は、ついに映像の中に紬たちの車列を捉えた。安全区域を離れていたことが、確認できた。次の瞬間、その眉が鋭く寄った。画面の中に、クルフの車列が映っていたのだ。見た瞬間、胸の奥がきつく締まった。クルフ側が自分の顔を知っているなら、紬の顔だって分かる。もし紬がクルフに捕まっていたとしたら……「違う!紬たちを連れて行ったのは、別の人たちだよ!」笑美が興奮気味に画面の隅を指さした。別の一団が現れていた。クルフ側と何事か話し合い、数分もしないうちに交渉がまとまったらしい。見たところ、互いに顔見知りのようだった。しかしその先を追おうとしたところで、無情にも信号が途絶えた。映像は、そこで終わっていた。これ以上は追えない。ただ、紬がその場を離れたことは確認できた。それでも今も連絡がないのは、やはりおかしい。慎は目を伏せ、深く考え込んだ。今確かなことは一つ――紬は生きている。だが彼女を連れ去った人間は、まだ何も言ってこない。何かを待っているのだとしたら、それは何だ。思考を巡らせていた、そのとき、慎の携帯が鳴った。紬からの連絡か、と咄嗟に思った。だが画面に表示されたのは、見覚えのある番号だった。以前にも、やり取りがあった番号。それを見た瞬間、慎の目が冷たく凍りついた。立ち上がり、外へ出ながら電話に出る。「望月社長――紬を連れ去ったのはお前か」鋭すぎるほどだった。一言目から、核心を突いた。寸分の狂いもなく。
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第807話

その瞬間、携帯を握る手に、思わず力が入った。瞳に冷ややかな光を宿したまま、慎は口元に薄く嘲笑を滲ませた。「……ふっ。望月社長は、本当に抜け目がない」その凄みは、電話越しの悠真にも十分に伝わっていた。だが、もうカードはすべて表に出したのだ。これだけの切り札を手の中に持っている以上、使わない手はない。「長谷川代表なら、理解してもらえると思うよ。商売というのは結果がすべてで、過程など問われない。それに、長谷川代表は僕の先輩でもある」正直に言えば、その情報を掴んだとき、悠真は驚いた。驚いただけではない。得体の知れない怒りさえ覚えた。なぜ自分がそれほどまでに怒ったのか、うまく説明はできない。本来なら自分には一切関係のない話のはずだ。それでも、かつてあの命をどうやって葬り去ろうとしたかを思い返し、さらにその命が生き延びて、紬と慎の間に決して消えない絆をつくっているという事実を想うと、言葉にならない怒りが波のように押し寄せてきた。もちろん、悠真は表面上の冷静さを保った。しかし、すぐに思い直した。慎がどれほど必死になって守り抜こうとしている子どもであろうと、裏を返せば強力な「人質」になり得る、と。今、慎は紬の失踪でかかりきりのはずだ。ニューヨークにまで目を向ける余裕などあるまい。そちらにはすでに手の者を送った。遅くとも明日には動きがある。慎がそれに間に合うような手を打てるとは思えない。交渉するなら、まさに今だ。欲しいものは全部取る。「とりあえず、よく考えてみてください。あなたが欲しいのは利益か?それとも紬さんと……お子さんなのか?」悠真に焦りはなかった。客観的に見て、今は自分が圧倒的に優位だ。慎は今や、まな板の上の鯉も同然だ。あれほどまでに周到に子どもを守ろうとした男だ。紬と子どもを、彼が何よりも大切にしていることは明白だった。かつてはあれほど香凛に対して冷淡だった男が、今はこれほど深く人を愛している。悠真は、声に出さずに笑った。慎は目を伏せ、土埃に汚れた自身の靴先を見つめた。その目の奥は、底知れず暗かった。「渡した後に、約束を守るという保証は?」悠真にはその意図が手に取るように分かった。イギリスの権益を素直に渡しても、子どもと紬に手を出すのではないかと疑っているのだ。「心配しすぎだよ。欲しいも
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第808話

慎は何も答えず、無言のまま椅子に腰を下ろした。そして衛星の位置情報の画面をじっと見つめ続けた。その瞳は、静かに冷え切っていた。「行かない」「でも……」笑美が戸惑いながら言いかけると、慎はそれ以上何も説明しようとしなかった。……夜が白み始める頃、悠真は車でヴィラに戻った。気がつけば、その足は無意識に紬の部屋の前へと向かっていた。扉の前でしばらく立ち止まり、考え込んだ。慎があの状況で生き延びていたのは、確かに計算外だった。だが――紬には、その事実を教えるつもりはない。時間を確認した。あの電話での交渉から、すでに四時間近くが経過している。紬の部屋の扉を見つめてから、廊下の突き当たりへと歩き、一本の電話を入れた。「長谷川慎は、そちらの拠点を離れたか?」「はい。搭乗を確認した、と部下から報告がありました」悠真は満足して電話を切った。慎さえ自分の思惑通りに動いてくれれば、あとは描いた筋書き通りに進む。与えられる時間は、最大で二日。紬については……悠真は扉をノックした。中からの返答はなかった。それでも数秒だけ待ってから、鍵を開けて室内へ入った。やはり、と思った。紬はベッドの端に座り込んだまま、何かを深く考え込んでいた。一睡もしていないのか、顔は蒼白だった。慎の「死」を、まだ受け止めきれずにいるのだろう。悠真の目の奥に、名状し難い複雑な感情がよぎった。紬の前に立った。「国内の仕事は、辞めてほしい。まず電話を一本入れて、無事だと知らせてくれれば、向こうもこれ以上大事にせずに済む」紬はちらりと冷ややかな視線を上げた。「それは――私があなたに囚われていることが、国内に知られたら困るからでしょう」悠真は否定しなかった。もちろん、それも理由の一つだ。そして、もう一つ。「組織を辞めたら、僕と一緒にドイツへ行こう」紬は、ふっと自嘲するように笑った。昨夜は帰国すると言っていたのに、今日はドイツ?「私があなたと、どういう関係だというのかしら。望月さん、少し自分を買いかぶりすぎではない?」想像以上に、鋭い刃を秘めた言葉だった。それは昔から知っていた。紬は決して、見た目通りに柔和なだけの人間ではない。刺すときは、容赦なく深く刺してくる。今の悠真には、それでも構わ
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第809話

子どもの存在が明るみに出るとは、夢にも思っていなかった。まだ一度もその顔を見ていない、愛しい子どもが危険にさらされるかもしれない――そう想像した瞬間、紬の胸の奥が、えぐられるように激しく痛んだ。この先の人生で、もう二度と授かることはない、ただ一人の大切な子ども。全身全霊をかけて守り抜きたい、掌の中の珠だ。万が一にも、間違いがあってはならない。悠真のこの悪魔のような一手は、残酷なほど的確に、紬の心の最も脆い部分を踏みにじっていた。悠真は、紬の強固な意志がわずかに揺らいだことを見て取った。そのまだ見ぬ子どもをこれほどまでに大切にする彼女の姿が、そのまま慎への深い愛情を映し出しているようで――悠真の胸の中に、静かな、しかし確かな不快感が沈殿していく。他の誰かを心に抱き続けている女を、好きになったことなど一度もない。だが……紬だけは、例外にできる。今は、それだけははっきりと自覚していた。紬に対するこの執着にも似た気持ちは、彼女の心に慎という別の人間が居座っていることへの不満を、すでに大きく上回っている。「納得してくれたなら良かった。遅くとも明日にはここを出発する。少し準備をしておいて」悠真は紬に引っ張られて乱れた襟元を整えると、踵を返した。紬は振り返りもしなかった。ただ窓の外の景色を、虚ろに見つめていた。頭が割れるように痛い。これだけの絶望が、一度に押し寄せてきたのだ。慎の安否さえ知る術がない。じっとしていることなどできなかったのに、悠真は卑劣にも子どもを盾に取った。紬は深く、長く息を吸い込んだ。強引に、自分自身の感情を落ち着かせる。今はただひたすら、慎の無事を祈ることしかできなかった。これだけの出来事を乗り越えてきたのだ。こんな理不尽な形で終わらせるわけにはいかない。しばらく頭の中で混乱が渦巻いた後、紬は枕の下から隠しておいた携帯を取り出し、諦めずに何度も電波を探し続けた。扉の外で、かすかな足音がした。すぐに携帯を枕の下へと押し込む。気づけば、もう昼になっていた。外国人の家政婦が、昼食を運んできた。見る気にもなれなかった。食欲など微塵もなく、言葉も出てこない。家政婦は英語で告げた。「望月様が、外の空気を吸いに出ても構わないとおっしゃっています」紬は何も答えなかっ
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第810話

馬鹿げている。よりによって、一番肝心なこのときに。あの子どもは、この交渉における最大の要だった。それに、電話で子どもを交渉のテーブルに乗せたとき、慎は明らかに動揺していた。今すぐ飛んできて自分の首を絞めたいとでも言いたげな、その切迫した反応。それはつまり、子どもが確かにあそこにいるはずで――その瞬間、悠真の目つきが鋭く変わった。今になってやっと、かすかに感じていた違和感がすべて繋がったのだ。慎は――演じていたのか?自分を騙していた?慎は、あえて時間を稼ごうとしていたのだ。電話のやり取りの中で、悠真がこの街の近くに潜んでいると気づいていたから。悠真の顔色が、暗く沈んだ。ならば、部下が「慎は飛行機に乗った」と報告してきたのも、すべては煙幕か。悠真は通話を強引に切り、すぐに別の番号を呼び出した。「すぐに機体を用意しろ。今すぐここを発つ」少し離れた植え込みの陰で、紬はその会話を一言も聞き逃していなかった。鼓動が、急激に跳ね上がる。子どもがいない――悠真の部下は、あの子を見つけられなかった。つまり子どもは無事なのだ。悠真の汚い手は、届いていない。その事実を完全に理解した瞬間、全身の血が沸き立つような熱いものが込み上げた。悠真が振り返ろうとする気配を察し、紬はすばやくその場を離れ、足音を殺して自室へ戻った。頭の中が高速で回転し続けている――今の自分にできる最善の一手を考える。飛行機の準備には、どうしても時間がかかる。まだ、間に合う。四十分ほどが過ぎた頃、扉が開いて悠真が入ってきた。その顔は、すでにいつも通りの作り物の柔和さを取り戻している。「予定が変わった。今日出発する。行くよ」何の説明もなかった。当然だ。言えるわけがない。ここで紬に国内へ電話をさせ、そのままドイツへ着いてしまえば、事実を知られてももうどうにもならないのだから。紬は何も知らないふりを貫いた。静かにうなずいて立ち上がり、携帯を音もなく上着のポケットへ滑り込ませる。外に出ると、広い芝生の上に一機のヘリコプターが停まっていた。ローターが轟音を立てて唸り、周囲に強風を巻き起こしていた。紬は、わざと歩みを遅らせていた。悠真は彼女をちらりと一瞥してから、その華奢な手首を掴み、機体の方へと強引に引っ張っ
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