芹沢美緒の一件から数日。 ラウンジの夜は、いつもより騒がしかった。 けれど、沙耶の胸の中には、不思議な静けさがあった。 あの夜――橘が彼女を庇い、美緒に向けた言葉が、今も胸に焼き付いている。 “彼女を侮辱するなら、二度と俺の前に現れるな” その声に、心が震えた。 誰かが自分を“守る”なんて、そんな経験は一度もなかった。 でも、橘に守られた瞬間、心の奥で何かが確かに目を覚ました。 ――もう、誰かの影に隠れて生きるのはやめよう。 そんな思いが、静かに、しかし確かに燃え始めていた。 翌日。 店のロッカールームで、沙耶は化粧を直していた。 隣には、いつものように亜美がいる。 「沙耶さん、この前の件、大丈夫? あんな女、ほんとムカつくよね」 「うん、大丈夫。ありがとう」 「でもさ、沙耶さん、最近なんか違う。目が強くなったっていうか……なんか、芯ができた感じ」 鏡越しに亜美の顔を見ながら、沙耶はふっと笑った。 「……かもしれないね」 亜美は首をかしげた。 「なんかあった?」 「ううん。ただね、思ったの。私、このまま夜だけの世界で終わりたくないなって」 ── 「夜だけの世界?」 「うん。私、前は研究開発の仕事をしてたの。化学系のメーカーで、新素材の開発とか。でも直樹が“女が研究職なんて生意気だ”って言って、無理やり辞めさせたの」 亜美の目が見開かれた。 「え……沙耶さん、そんなすごい仕事してたの!?」 「もう過去の話。でも、やっぱり私、好きだったんだ。研究も、ものづくりも。誰かに否定されても、あのとき感じてた“夢中”を取り戻したい」 その声には迷いがなかった。 “逃げるため”じゃなく、“もう一度立ち上がるため”の言葉。 亜美は、ゆっくりと笑った。 「……沙耶さん、めっちゃかっこいい」 「ふふ、ありがとう。でも、怖くないわけじゃないよ」 「…それでもやるんでしょ?」 「うん」 沙耶の微笑みは、かつてのように無理に作ったものではなかった。 そこには、確かな意思があった。 数週間後。 橘は本社の重役会議室にいた。 父・橘巌の冷たい視線が、息子を貫いている。 「芹沢家との縁談を断ったと聞いたが、本当か」 「はい」 「あの家との関係を切
Last Updated : 2025-10-05 Read more