風は、少し冷たかった。北へ歩くほど、灰は細かくなって、靴の縁でやさしく舞い上がった。音はほとんど吸われて、足音も、ひと息も、風がすぐさらっていく。「……誰も、いないね」ミナが歩幅を小さくする。「風が喋りすぎて、みんな聞き役になってる」アレンは笑わないで言って、鼻で匂いを確かめた。リオが肩をすくめる。「ずるいな。風ばっかり」ディアスは前を見たまま、短く息を吐く。「風の声、昔も……嫌いじゃなかった」乾いた丘をひとつ越えると、回っていた。灰の野の真ん中で、風車がひとつだけ。羽根は欠けて、柱はわずかに傾いでいる。それでも、音がやさしい。からん、からん、と、眠気みたいな響き。「人の匂い……する」ミナの指が、アレンの袖を探す。「するね。火じゃない、布と草の匂い」小さな小屋。窓は片方だけ生きていて、風を半分通していた。***中は、灰が薄く敷いてあった。干した草の束。古い陶器。それから、耳を澄ませて座っている老婆がひとり。背は丸いけれど、目は眠っていない。「失礼します」アレンが声を置く。返事は来ない。老婆は、窓のほうを見たまま、唇だけを動かした。「……もうすぐ、三つめ」「……三つめ?」ミナの首が、小さく傾く。「風の声よ」老婆が笑う。皺がやさしい。「ひとつは泣いて、ひとつは眠って……三つめは、思い出す」指先で、灰をひとつまみ。老婆はそれを窓へ放る。灰は風に乗って、太陽に触れて、金にひかって――すぐ、ほどけた。アレンの鼻が、かすかに揺れる。「……この辺りでも、風は金になるんだ」「風はね」老婆は目を細める。「昔から記憶を食べるの。だから匂いがあるうちは、世界は忘れない」リオが息を呑んで、「じゃあ、忘れられた匂いは?」「誰かが、もう一度嗅ぐのよ」言葉は強くなく、でも落ちないで届いた。アレンは黙って、灰袋を出す。布の口が小さくひらく。老婆は一目で、うなずいた。「その灰は、火の話をしてる。……まだ消えてないね」棚の奥から、浅い鍋。老婆が差し出す。「風を、飲んでいきなさい」鍋の中には、水でも湯でもなく、香草がひとつ浮かんでいた。アレンは鍋を抱え、そっと口を近づける。吸って、吐く。「……やさしい音がする」「笑うと、形が変わるのよ」老婆が目尻を下げた。「だから、聴くときは、息を合わせるの」ミナ
Last Updated : 2025-10-21 Read more