追放された料理人、異世界で伝説の味を創る

追放された料理人、異世界で伝説の味を創る

last updateLast Updated : 2025-11-07
By:  吟色Ongoing
Language: Japanese
goodnovel4goodnovel
Not enough ratings
18Chapters
194views
Read
Add to library

Share:  

Report
Overview
Catalog
SCAN CODE TO READ ON APP

王国随一の料理人アレン・フォルテは、王宮の晩餐会で“毒殺の濡れ衣”を着せられ、信頼も地位も奪われる。 「料理は命を分けるものだ」――その信念を胸に、追放の魔法陣に呑まれた彼が目を覚ましたのは、荒れ果てた異世界の大地だった。 飢えた子供たち、壊れた街、そして食のない世界。 アレンは包丁を握り直し、炎と味覚の魔法で再び立ち上がる。 「最初の一皿は、笑顔のために作ろう」 料理が奇跡を呼ぶ、異世界再生グルメファンタジー。

View More

Chapter 1

追放の宴

香りが、音より先に広がった。

火竜の脂が熱にほどけ、甘く焦げる匂いが石畳の床を滑っていく。

銅鍋の縁が細く歌い、包丁の刃がまな板に触れて止まる。

掌に吸い付く木柄の重みが、今夜の出来を告げていた。

アレンは火口を半歩ずらし、炎を低く撫でつける。

肉の表面が微かに泣き、密やかな水蒸気が立ちのぼる。

粗挽きの胡椒が星のように弾け、琥珀のソースが艶を増す。

「呼吸を合わせろ」

彼は若手たちの手元を見ずに言う。

「料理は命を分けるものだ。――誰のために作るかを、間違えるな」

震えていた手が、少しだけ静まった。

温めた皿が白く息を吐き、塩は言葉より少なく、火は祈りより正確に。

最後の裏返し。格子の焼き目が美しく重なる。

白い裾が視界の端で止まる。

振り向くと、入り口に王女セレナがいた。

淡い金の髪をまとめ、控えめに笑っている。

「邪魔、してしまったかしら」

「いいえ」

アレンは火から視線を外さず、口角だけで応えた。

「姫様の『楽しみ』が、厨房を整えます」

セレナは近づき、指先で皿の縁をそっと確かめる。

温かさに目を細め、息を弾ませた。

「今日の香り、好き。……皆も、きっと」

その笑顔は、真昼の光に似ていた。

胸の奥で固くなっていた何かがほどける。

アレンは頷き、火竜のローストを仕上げる。

ソースを一筋。香草は一枚だけ。余白は、食べる者の息のために。

「出す」

合図に若手が駆けた。

銀の蓋が重なり、音のない行進が王の間へ吸い込まれていく。

扉が閉まれば、厨房はふたたび静かな海になった。

アレンは手拭いで指を拭い、深く息を吸う。

火竜の熱が鼻腔に残る。

この夜は、長くなる――そんな予感があった。

王の間から微かな拍手が届く。

杯が触れ合う高い音。

楽人の弦が、ゆるやかに響く。

若手はほっと肩を落とし、誰かが小さく「やった」と呟いた。

アレンは首を振る。

「まだだ。最後の最後まで油断するな」

自分に言い聞かせるように。

――空気が変わった。

扉の向こうで、音楽が一瞬だけ弾きを忘れる。

次の瞬間、杯が床に打ちつけられる鈍い音が、廊下を伝ってきた。

「……?」

若手の一人が顔を上げる。

叫び声。椅子が引き倒され、足音が重なる。

扉が開く前に、アレンはもう動いていた。

非常用の薬箱、活性炭、薄めた果実酒、冷水。

「運べ。氷もだ」

「は、はい!」

声が裏返った青年が走る。

扉が激しく開き、衛兵が飛び込んできた。

その後ろで、貴族派の筆頭――ガルバが、わざとらしく鼻を押さえる。

「毒だ」

その一言は、香りよりも早く広がった。

「王弟殿下が倒れた。吐瀉の臭い、顔色、脈――」

ガルバは指先で空を切り、ゆっくりとアレンを指差す。

「この料理人が、毒を仕込んだ!」

若手たちの呼吸が止まり、鍋の音だけが場違いに続く。

アレンは薬箱をそっと置いた。掌が汗ばんでいる。

震えたのは指ではない。胸の奥の、別の場所だ。

それでも、口に出た声は静かだった。

「俺が作った料理で、人が死ぬはずがない」

ガルバが口角を上げる。

「では、証を見せてもらおうか」

衛兵が厨房へ踏み込み、次々に蓋を外す。

スパイスの小瓶が持ち上げられ、布袋が裂かれ、粉が白い息のように舞った。

「待て、触るな」

アレンは一歩踏み出し、すぐに止まる。

王女の侍女が扉の向こうでうろたえていた。

セレナの姿が見えない。

若手の一人がアレンと目を合わせかけ――逸らした。

その一瞬で、背中の汗が冷える。

届くはずのないざわめきが胸に降り積もった。

「ほら、ここに」

ガルバが小瓶を掲げる。

黒い粉末が、光を吸い込むように沈んでいた。

「厨房に、禁断の“苦涙草”。――致死量の一歩手前。良い匙加減だ」

「それは俺の棚ではない」

「この場に在ることが、充分だ」

ガルバは肩をすくめ、衛兵に顎をしゃくる。

「王の前へ」

王の間は、熱を失っていた。

冷えた空気の中心で、王弟が担架に横たわっている。

王は顔色を固くし、セレナは父の袖を握っていた。

彼女の目が、アレンを見て揺れる。

信じる、という言葉が、唇の形だけで伝わる。

「アレン・フォルテ」

王の声は、長剣の鞘のように重い。

「そなたの厨房から、禁薬が見つかった」

「存じません」

「供饌の中に、毒が混じっていた」

「俺の料理ではありません」

「では、誰が」

「……厨房に、俺以外の手が入った」

ざわめき。

ガルバの目が細く笑う。

「自らの無謬を誇るのは、職人の悪癖だ」

「誇りではありません。確認です」

アレンは担架に近づき、許しを請うように一礼してから、王弟の口元の香りを嗅いだ。

果実酒。だが、厨房で仕上げた酒ではない。

似ているが、違う。樽香が古い。

杯――差し替えられている可能性が高い。

「陛下。杯の確認を」

王の目がわずかに動く。

侍従が慌ただしく杯を集め始めた。

ガルバの頬が、ひと筋だけひきつる。

それでも退かない。

「だとしても、厨房から禁薬が出た事実は消えん」

「事実ならば」

アレンは手を下げ、指先の震えを火にくべるように沈める。

「俺は包丁を置こう。だが、でっち上げなら――」

言葉は最後まで届かなかった。

扉が開き、衛兵が跳ねるように入ってくる。

「陛下! 広場に人が集まっています。噂が……『王弟が毒殺』『料理長が手を染めた』と」

空気が、決壊した水のように崩れた。

王はゆっくりと立ち上がる。

「……広場へ出る。民に示さねばならぬ」

夜の広場は、人の熱で揺れていた。

松明の火が、噂の形にちぎれては舞う。

アレンは囲まれ、手首に冷たい拘束具をかけられる。

足元の石が湿っている。

雨は降っていないのに、どこかで水音がした。

壇上に王が立つ。

「アレン・フォルテ、汝をこの王国より永久追放とする」

その言葉は、刃ではなく、重石のように胸に落ちた。

群衆がうねり、歓声と罵声が混じる。

セレナが駆け寄ろうとして衛兵に止められ、声を張る。

「父上、彼は――彼はそんなことを!」

涙が喉で震え、言葉がほどける。

アレンは彼女を見た。

泣くな、という言葉が、自然と舌に載る。

「泣くな、姫様」

彼は笑った。

笑えると気づくまでに、一拍の間があった。

「料理は……どんな世界でも作れる」

魔法陣が展開する。

古い石が光に満ち、足元が薄く浮く。

ガルバの口元が光の縁で歪み、群衆の顔が遠のく。

アレンは深く息を吸い、胸の中心に残った熱に名を与えた。

――味覚よ、導け。

光が弾け、世界がひっくり返る。

静寂が鼓膜の内側まで流れ込み、次に、風の匂いがした。

荒れた大地。星のない空。

砂粒が靴の縁で鳴り、冷たい夜気が頬を撫でる。

遠くで、腹の虫が鳴く音がした。

子供の、それも複数の腹の音。

アレンは振り向く。

崩れかけた石垣の向こう、痩せた影が寄り添っている。

目が合うと、影はびくりと肩をすくめた。

アレンは袖をまくった。

掌に、王宮の厨房とは違う土のざらつきが戻る。

肺に入る空気が、腹の底で温かい火種に触れる。

「……最初の一皿は、笑顔のために作ろう」

足もとで乾いた枝が折れた。

次の瞬間、誰の手も借りずに、小さな赤い火が点る。

焚き火の芯に、見たことのない薄い文字がゆらめいた。

炎の欠片が浮かび、舌の奥で何かが目を覚ます。

塩を思い、甘みを思い、誰かの笑顔を思う。

その順番で、世界が少しだけ色を取り戻した。

Expand
Next Chapter
Download

Latest chapter

More Chapters
No Comments
18 Chapters
追放の宴
香りが、音より先に広がった。火竜の脂が熱にほどけ、甘く焦げる匂いが石畳の床を滑っていく。銅鍋の縁が細く歌い、包丁の刃がまな板に触れて止まる。掌に吸い付く木柄の重みが、今夜の出来を告げていた。アレンは火口を半歩ずらし、炎を低く撫でつける。肉の表面が微かに泣き、密やかな水蒸気が立ちのぼる。粗挽きの胡椒が星のように弾け、琥珀のソースが艶を増す。「呼吸を合わせろ」彼は若手たちの手元を見ずに言う。「料理は命を分けるものだ。――誰のために作るかを、間違えるな」震えていた手が、少しだけ静まった。温めた皿が白く息を吐き、塩は言葉より少なく、火は祈りより正確に。最後の裏返し。格子の焼き目が美しく重なる。白い裾が視界の端で止まる。振り向くと、入り口に王女セレナがいた。淡い金の髪をまとめ、控えめに笑っている。「邪魔、してしまったかしら」「いいえ」アレンは火から視線を外さず、口角だけで応えた。「姫様の『楽しみ』が、厨房を整えます」セレナは近づき、指先で皿の縁をそっと確かめる。温かさに目を細め、息を弾ませた。「今日の香り、好き。……皆も、きっと」その笑顔は、真昼の光に似ていた。胸の奥で固くなっていた何かがほどける。アレンは頷き、火竜のローストを仕上げる。ソースを一筋。香草は一枚だけ。余白は、食べる者の息のために。「出す」合図に若手が駆けた。銀の蓋が重なり、音のない行進が王の間へ吸い込まれていく。扉が閉まれば、厨房はふたたび静かな海になった。アレンは手拭いで指を拭い、深く息を吸う。火竜の熱が鼻腔に残る。この夜は、長くなる――そんな予感があった。王の間から微かな拍手が届く。杯が触れ合う高い音。楽人の弦が、ゆるやかに響く。若手はほっと肩を落とし、誰かが小さく「やった」と呟いた。アレンは首を振る。「まだだ。最後の最後まで油断するな」自分に言い聞かせるように。――空気が変わった。扉の向こうで、音楽が一瞬だけ弾きを忘れる。次の瞬間、杯が床に打ちつけられる鈍い音が、廊下を伝ってきた。「……?」若手の一人が顔を上げる。叫び声。椅子が引き倒され、足音が重なる。扉が開く前に、アレンはもう動いていた。非常用の薬箱、活性炭、薄めた果実酒、冷水。「運べ。氷もだ」「は、はい!」声が裏返った青年が走る。扉が激しく開き
last updateLast Updated : 2025-10-10
Read more
炎のはじまり
風に、味があった。星のない空から降りてくる夜気は、舌先でほどけて――塩と鉄と……少し、血の匂い。アレンは鼻で吸い、ゆっくりと吐く。肺の奥に沈んだ熱が、小さく返事をした。転移の眩しさはもう消え、荒れた大地の黒が視界を満たす。崩れた石垣、ひび割れた水瓶、干からびた草。世界は音を忘れたように静かだった。「誰か、いるか」石垣の影がびくりと揺れた。痩せた少年が妹の肩を抱き寄せる。少年は十歳ほど、骨ばった手に小さな棍棒。少女は七つか、両膝を抱えて、目だけが大きい。「近づくな」少年が唇を強く結ぶ。「食い物はない。ぼくらのだ。あげない」アレンは両手を見せた。包丁も鎧もない、火傷の薄い痕だけを持つ手。「奪いに来たんじゃない。……作りに来た」「作る?」「腹が鳴ってる音が聞こえたからな」彼は笑う。自分の笑いが、まだこの世界で錆びていないと知って、少しだけ安心した。「俺はアレン。料理人だ」少年は逡巡し、棍棒を下ろす。「ぼくはリオ。こっちはミナ」ミナが小さく会釈して、すぐ膝に顔を埋めた。近づけば、空腹の匂いと、乾いた土の匂い。それから――遠い場所で燃えた煙の、薄い名残。「この辺りに火は?」「昼に、ちょっとだけ。枝が湿ってて……すぐ消えた」リオが指さした地面には、灰にもなりきれない黒い塊が円を描いている。アレンはしゃがみ込み、指で灰を撫でた。指先に、粉ではない“線の抵抗”がかすかに触れる。――灰の中から、細い文字が立ち上がった。火の息のように淡い線で、舌の形を真似るように、揺らめく。「……なるほど」彼の胸の中心に、王城の厨房では一度も聞いたことのない音が鳴った。味が、形になる。線と面で、風向きと熱の道を描く。“味覚の魔法”。名を与えた瞬間に、世界の輪郭が少しだけ濃くなる。アレンは立ち上がる。「食べられそうなものを探そう。……毒草でも構わない」「毒は、死ぬ」リオの声が震える。「死ぬほどの量を、そのまま食べればな」彼はにやりと目だけで笑い、視線でミナの小さな手を確かめる。「でも、熱を通し方を変え、苦味の芯をずらせば――」彼は足元の草むらに膝をつき、葉を千切って指で揉む。鼻腔を通る香りが、灰の上の光の線と重なり、“ここを焼け”“ここは蒸せ”“ここは捨てろ”と、静かに示してくれる。楕円の葉、紫の斑点――こ
last updateLast Updated : 2025-10-10
Read more
毒草の村
朝。焚き火は灰になり、白い息だけが立っていた。アレンは灰を指で弾く。灰は軽く、薄い文字をひとつだけ残した。「行こう」リオが頷き、ミナは小さな手で裾を握る。霧の道。並木は痩せ、畑は色を失っている。村の入口には、歪んだ札がぶら下がっていた。――毒草注意。「……いい匂いがしないな」アレンが小声で言う。「当たり前だよ。ここ、もう何も食べられないんだ」リオの声は低い。ミナがうつむく。通りかかった老婆が舌打ちした。「また流民か。うちには分けるもんなんてないよ」「ぼくたち、村の子だよ。戻っただけだ」リオが言い返す。老婆は目を逸らした。「戻って何をする。食べ物は毒、畑は枯れ、鍋は鳴かない。……ここは“何も食べられない村”なんだよ」言葉は霧より冷たかった。村の中心に、ひび割れた井戸。人の気配はあるが、誰も立ち止まらない。視線だけが刺さる。「村長に会わせてくれ」アレンが言う。「行こう。ぼくが案内する」リオが前を歩いた。粗末な小屋。扉の向こうに、どっしりとした背中。「誰だ」「リオです。……それと、アレン」「他所者か」低い声が唸る。アレンは静かに頭を下げた。「アレン。料理人だ。村の食を見せてほしい」「帰れ」即答。村長の額には深い皺。目は火を信じない目だ。「毒草を煮て死んだ奴を、何人も見た。鍋は墓じゃねえ。……他所者の出る幕じゃない」「アレンは、ぼくらを助けてくれた!」リオが一歩出る。小屋の外に人が集まり、ざわめきが膨らむ。「草を食わせたって?」「狂ってる」「毒を使う魔物使いだ!」ミナがアレンの袖を握る。指が震えていた。アレンはその手に軽く触れ、袖をまくる。「……見せた方が早いか」「やめろ!」「触るな!」「匂いが移る!」叫びが重なるその中で、アレンは路傍の草を摘んだ。紫の斑点。楕円の葉。村人が顔をしかめる。彼は葉を揉み、指先に滲む汁を嗅いだ。灰の地面に、淡い線がふっと現れる。火の息のような細い文字が、彼の指の動きに寄り添った。「見たか。魔の文字だ!」「違う」アレンは否定を短く置く。「苦味の芯をずらし、熱を通す。……味の通訳を信じろ」「信じられるか!」村長の拳が震える。ミナが、おそるおそる口を開いた。「……あの時も、これで……おいしかった」小さな声が、小屋の空気に小石を落とす。沈
last updateLast Updated : 2025-10-11
Read more
灰の畑
朝の空気は薄い蜜のように澄んで、村にやわらかな匂いが戻っていた。昨日、焚き火が残していった言葉――「食べて、生きろ。」が、まだ灰の奥で温かい。「行こう」アレンが立ち上がる。リオは緊張で喉を鳴らし、ミナは袖をそっとつまんだ。霧の向こうに、畑が広がる。土は灰色、葉は紫がかり、茎は黒ずみ、根は硬い。風の匂いは、腐敗と薬草の中間。どこかで助けを求めている匂いだった。村長が来た。背中は相変わらず大きい。「ここはもう十年、実りを拒んでいる」「土ごと毒が回った。……どうする気だ、料理人」アレンはしゃがみ、土をつまんで舌に触れさせる。「味がする」ざわめきが起きる。「味だと? 土がか?」「苦い。けれど、“生きてる”苦さだ」リオが眉を上げる。「生きてる?」「うん。まだ間に合うって匂いだ」ミナが畝を見つめる。「……助けてって、言ってるの?」「そう聞こえる」アレンは畑の一角を選んで、灰を掌でほどく。指の間からこぼれる灰は、朝日に透けて、細い文字に変わった。昨日の焚き火が残した“生きた記憶”だ。「また火を使うのか」「焼けば土が死ぬ!」村人たちの声。アレンは短く首を振る。「火は殺すためじゃない。味を返すためにある」細枝を寄せ、灰の中心に息をひとつ。赤い核が生まれ、低い火が灯る。灰の文字がふわりと立ち上がり、風に乗って畝を走る。細い線は根の下にもぐり、金色にゆらめいた。「……土が光ってる」ミナが息を飲む。リオは地面に手を置いた。「あったかい。……土が、呼吸してる」村長が腕を組み、目を細める。「……魔か、奇跡か」「どちらでもいい。食べられれば、それでいい」アレンの声は、火の音と同じ高さだった。「何をするの?」リオが問う。「苦味の芯をずらす。水は浅く、風は低く。灰で輪郭をつける」アレンは灰を薄く撒き、古い井戸の水をひしゃくで掬って霧のように散らした。「水をかけるの?」ミナが首をかしげる。「かけるんじゃない。香りを通す。水は“運ぶ舌”だ」風が一度だけ方向を変え、畝に沿ってやわらかく吹いた。灰の線が、その風に乗って土の奥へすべり込む。どこかで小さな音がした。――ぱち、という、芽の内側だけで鳴る音。「いま、鳴ったよね?」リオが顔を上げる。「うん。起きた音だ」アレンは土を掌で軽く押して、手のひらの温度を確かめる。
last updateLast Updated : 2025-10-12
Read more
灰の街
焚き火は丸くなり、灰のふちに細い光が残っていた。外套の男は一礼だけして名を告げる。「王都は、“灰の奇跡”を確認したいそうだ。私は供饌庁付きの使い、ディアス」低い声。硬い目。けれど息づかいは乱れていない。訓練された兵のそれだ。「王都が動いたってことか」「また税か」「今度は神を奪いに来た」村の輪がざわめく。恐れと怒りと、見えない期待が混じる。ミナが袖を引く。「……行くの?」「行くさ」アレンは焚き火を見て答えた。「誰かが火の意味を伝えなきゃな」村長が大きな手を肩に置く。「気をつけろ。王都の目は“味”を知らん」「なら、教えればいい。焦らず、ゆっくりとな」ディアスは村人たちをひととおり見渡し、短く告げた。「夜明けに発つ。同行は三名までだ」「俺と、リオと、ミナ」「わたしも行くの?」ミナが目を丸くする。「途中で引き返してもいい。匂いを確かめるだけでも、意味はある」火は最後に小さく息を吐き、灰の文字をひとつ描いて消えた。――行ってこい。***王都へ向かう街道は驚くほど真っ直ぐだった。整えられた石の道。鼻をくすぐるのは、灰ではなく、鉄と油の匂い。時おり、遠くから鐘が鳴る。風はまっすぐ鳴らない。建物に切られて、角のある音になる。「この匂い、苦手」ミナが鼻を押さえる。「食べものの匂いがしない」リオが言う。アレンはうなずく。「ここは火はあるが、香りが死んでる」ディアスが横目で笑った。「奇跡は都合のいい言葉だ。利用できるうちは、信仰になる。利用できなくなれば、迷惑だ」「腹は、言葉じゃ満たせない」「だが、言葉で人は動く。……王都は、そういう場所だ」門前には長い列。兵士、商人、祈祷衣をまとった者、痩せた子ども。列の中からささやきが漏れる。「灰の聖人だ……!」「触れたら治るって……」「王が呼んだらしい」アレンは顔を上げ、風の匂いを嗅いだ。油、鉄、熱。そこに、かすかに――焦げかけた甘さ。どこかで誰かが、ぎりぎりの火を使っている。城壁の向こうへ通される。灰の街。煙突が並び、白と黒の煙が空を縫う。車輪が軋み、蒸気が唸り、鐘が重ねて鳴る。すべてが動いているのに、どこにも「食べるための匂い」がない。「ようこそ王都へ。供饌庁は中央広場の先だ」ディアスが歩を速める。広場に入ると、巨大な建物が口を開けていた。丸い屋根。壁面には
last updateLast Updated : 2025-10-13
Read more
王の饗宴
鐘の音は、石の廊をやわらかく撫でて進んだ。導かれる先は王宮。白ではなく、わずかに灰を含んだ白――火のあとに残る色で塗られた城だった。玉座の間はひろく、窓の向こうには煙の空。王は背を向け、黒衣に銀の刺繍。後ろには供饌長アルマン。脇にディアスが沈黙して立つ。床は磨かれ、香炉の香は薄く、音だけが静かに続いている。王がゆっくりと振り返った。若い顔。だが瞳の光は遠い。「毒を味わえる者がいると聞いた」声は澄んでいた。「食卓の平穏は、痛みを知らぬ舌では保てぬ」卓には見事な皿が並ぶ。色は美しいのに、香りがひとつもない。王は顎で示す。「これが王都の味だ。秩序の味。お前はどう思う?」アレンは息をひとつ吸い、短く答えた。「……死んでる」王の口元がわずかに動く。「正直だな。“死”を味わう舌こそ、国を保つ」アルマンが杖で床を軽く打つ。「陛下、彼は異端です。火を神から奪う者」「いい」王は指をひと振りした。「試してやろう。灰の聖人が本物かどうか」銀の蓋が音もなく上がる。広がったのは――何もない香り。白い肉片、透明な液体、完璧な静寂。王が言う。「これを食えるか? 王都では、これを“純粋なる供饌”と呼ぶ」アレンが指で摘む。冷たさが骨の方へ滲み、感覚が細くなる。彼は肉片を鼻先に寄せ、目を細めた。「香りがないのに、匂う。これは――毒の匂いだ」アルマンが笑う。「信仰を疑う者の舌は、毒しか感じまい」アレンは穏やかに首を振った。「毒を恐れるのは、生きてる証拠だ。毒も味も、違いは“誰のために作られたか”だけだ」懐から、布袋。村の焚き火の灰を、掌に少し。王の目が細くなる。「……それは、神域の灰ではないな?」「神じゃない。火の残り香だ。生きた証拠だ」アレンは白い皿へ、灰をひとつまみ。静寂の中、極小の呼吸音みたいな香りが立ち上がる。焦げかけた穀物、幼いころの台所、遠い夕方。リオとミナが同時に息をのむ。腕を組んでいたディアスが、初めて口を開いた。「……この香り、覚えてる。戦場の飯だ。生き延びるための、あの匂いだ」王は席を立ち、皿の前へ来る。「この皿、毒があるのか?」アレンは目を見て答えた。「香りは、生きる証拠。死んでないものに毒は要らない」王は躊躇わず、ひと口。瞼が短く震え、息が漏れる。「……甘い。だが、痛みがある。これが“生きて
last updateLast Updated : 2025-10-14
Read more
灰の信徒
朝。王都はしんとしていた。かまどは冷たく、工房の煙突も黙ったまま。けれど風の底に、昨日の焚き火の名残がほんの少しだけ混じっている。甘いような、土のような、思い出の匂いだ。「……火、ないね」水汲みの少女がつぶやく。「灰の聖人さまが、また火を返してくれるって」「香りを嗅いだら、お腹が鳴ったよ」人々は小声で笑って、それから不安そうに空を見上げた。通りの角では黒衣の僧が香炉を割っていた。「焚き火を禁ずる。香りは魂を腐らす。灰も封ぜよ」淡々とした声が、石畳に吸いこまれていく。その横で若い兵が立っていた。ディアスだ。「……王の命が、信仰を呼んだか」彼は小さく息を吐いた。「腹が鳴るより先に、言葉が騒ぐな」***庁舎の小部屋。窓の外から歌が聞こえる。「灰の息で、種は芽吹く」「香りよ、戻れ」どこか幼い、けれど真剣な節回しだ。ミナが窓辺に立つ。「歌、いっぱいだね」「うん。お礼を言いたいのか、祈りたいのか……どっちもかな」リオが肩をすくめた。アレンは机の上で灰を指先にのせる。「拝まれても、腹はふくらまないんだけどね」戸が軽く鳴り、ディアスが入ってきた。「王都がざわついてる。“灰の信徒”だ。お前を拝む連中が出た」「困ったな」アレンは笑った。「俺は台所が似合うのに」「似合うかどうかで決まらないのが、都だ」ディアスは窓の外を見た。「信仰は動く。お前の火が、神になりかけてる」「神にする気はないよ。火は食べるためのものだし」アレンがそう言ったとき、黒い影が扉口に立った。灰断会の司祭だった。痩せて、冷たい目をしている。「“香り”は堕落の入口だ」司祭の声は濁っていないが、温度がなかった。「火を封じ、灰を封じよ。王も民も、火の言葉を聞く資格はない」ミナが一歩下がる。リオは無言で立ったまま。アレンは席を立ち、声の高さを下げた。「香りは封じられないよ。風が運ぶ。息がある限り、誰のものでもない」「異端だ」司祭は首を振る。「おまえは“火の罠”を広める者」ディアスが間に入った。「ここで争えば、火より早く腐る。庁舎の中で刃を抜くな」司祭はアレンを長く見てから、背を向けた。「神はおまえの香りを嫌う。次は、風を止める」靴音だけが廊下に残った。ミナがそっと袖を引く。「風、止まるの?」「止まらないよ」アレンは微笑む。「止まらないから、困る人
last updateLast Updated : 2025-10-15
Read more
風を喰らう街
朝の色が、ほんの少しだけ金に寄っていた。石畳は冷たく、屋根の影は長い。けれど通りの端で、小さな湯気が震えている。お湯がひとつ、またひとつ。音だけ先に戻ってきたみたいに、かすかに鳴いていた。「……音が戻ったね」リオが背伸びする。「うん。あったかい音」ミナは指をそっと湯気へ。熱に驚いて、くすっと笑った。アレンは露店の鍋をのぞき込み、指で湯気の縁を切った。「まだ、泣いてるみたいな音だね。……でも、それで、いい」露店の人が不器用に灰を摘み、塩の代わりに指先で祈るみたいに振る。ふわっと立つ匂いは薄い。けれど、器の受け渡しで笑い声がころんだ。「うま……いのかな」「たぶん、うん……ね」笑いは途中でほどけ、湯気といっしょに空へ逃げていく。通りの向こう、鎧の人影が足を止めた。ディアスだ。人混みを眺め、肩の力をゆっくり抜く。「……火、怖がらなくなってる」「余裕が、なくなってるだけかも」アレンは目だけで笑った。「それでも?」「それでも、悪くない」パン屋の古い戸口から、粉の匂いがほんのり。誰かが扉に背を預けて、空を吸い込む。王都の朝は、まだ灰いろ。けれど、鍋の音が少しずつ並んでいった。***裏通りは風がよく通る。灰断会の黒衣は角の祠で立ち尽くし、目だけが硬い。けれど監視の輪は薄い。路地の真ん中で、子どもたちが頬をふくらませ、風を舌のうえへ運ぶまねをしていた。「ほら、甘いって」「……ほんとに?」ミナはたまらず笑って、同じように口を開く。リオが一歩だけ止まって、アレンの袖をそっと引いた。「ねぇ、あれ……」「うん。すごい。……風の味、忘れかけてた」角を曲がったところで、ディアスが囲まれていた。「王の兵さん、火はもう……」「また消えるのは、やだ」言葉が肩と肩にぶつかって、足元へ落ちる。ディアスは口を開きかけ、目を伏せ、息をひとつ整えた。「……」アレンが人垣の端に立ち、手をひらり。「見張るよりさ、分けたほうが……たぶん、続く」言い切らずに置いた言葉に、誰かの肩がふっと下がる。視線が合って、それぞれ別の方へほどけていった。もう一つ角。石段の上、黒衣の司祭が声を高くしている。「香りに惑うな。灰は罪の痕。火は罰。目を閉じよ、舌を閉じよ」言葉は固い。風に当たって、角を曲がるたび尖っていく。リオが小声で。「……怖くないの?」
last updateLast Updated : 2025-10-17
Read more
灯の手
朝の色が、少しだけ金に寄っていた。石畳は冷たく、屋根の影は長い。けれど通りの端で、小さな湯気がふるえている。湯がひとつ、またひとつ。音だけが先に戻ってきたみたいに、かすかに鳴いた。「……人、多いね」リオが背伸びする。「うん。あったかい音」ミナは指をそっと湯気へ。熱に驚いて、くすっと笑った。庁舎の軒下に、簡易の台所を出した。鍋は低く鳴き、灰は薄く光り、井戸水は息を整えるみたいに落ちる。覗き込む顔は、昨日より迷いが少ない。皿の縁を持つ手が、するりと前へ出る。「昨日より、いい匂い」「……味がする」列のあちこちで、声がほどけていく。アレンは木の柄に手を添え、鍋の底をひと撫で。湯気の縁を指で切った。「まだ、泣いてるみたいな音だね。……でも、それで、いい」ミナが首をかしげる。「音、泣いてるの?」「うん。お腹が思い出してるところ。泣いて、それから笑う」老人が皿を差し出す。指は節だらけだが、掌は温かい。「手ってね」アレンは小さく笑った。「それだけで調味料みたいなもんだよ」ミナは自分の掌を見て、息を吹きかける。「あったかい……」ディアスが人の流れの向こうで足を止めた。肩の力が、ゆっくり落ちる。「……火、怖がらなくなってる」「余裕が、なくなってるだけかも」アレンは目だけで笑う。「それでも?」「それでも、悪くない」パン屋の古い戸口が軋み、粉の匂いが路地に滲む。誰かが扉に背を預け、空をひと口吸った。鍋の音が並び始め、朝は灰色のまま、少し温度を上げた。***昼前、広場に子どもが集まってきた。ミナが目をきらりとさせる。「ねぇ、灰、ちょっとだけ」「うん。指先だけね」アレンが頷く。灰と水を混ぜる。粥よりも薄く、風よりも濃く。ミナが掌をぽんと浸して、白い壁にぺたり。灰色の手が、そこに浮かんだ。「見て、火の跡の形!」笑い声がはねる。リオは苦笑いしながらも、掌を差し出した。ぺたり。ぺたり。ぺたり。小さな掌、大きな掌、皺の深い掌。白い壁に、灰の手が増えていく。「いい壁だね」アレンが目を細める。「火の壁!」と誰かが言い、すぐに照れて口をつぐむ。「……灯のほうが、いいかな」ミナが呟く。「うん。灯の手」リオが笑う。列の後ろから、背の曲がった老婆が近づく。壁を見上げ、掌を服で拭き、ゆっくり押し当てた。「昔、戦のあとも
last updateLast Updated : 2025-10-18
Read more
灰の路
朝は、まだ灰の色をしていた。けれど、どこかに薄い金が混ざっている。湯気の残りが屋根の角でほどけ、焼けた粉の匂いが、まだ眠い通りを撫でていった。庁舎の前。壁の「灯の手」には朝露がついて、冷たいはずなのに、見た目が温かい。ミナが指先でそっと触れて、小さく息を飲む。「……乾いたのに、あったかいね」「灰って、優しいな」アレンは壁から目を離さない。「冷め方が、ゆっくりだから」リオが周りを見る。「街、静かだね」「やっと眠れたんだろう」ディアスが肩の力を落とした。「今日は、いい匂いだけ残ってる」誰も急がない。誰も泣かない。四人は同じ方向を見て、同じくらい息を整えている。アレンが灰袋を軽く叩いた。口の隙間から灰が一筋こぼれ、風がそれを拾って空へ。「あ、逃げた」ミナが目で追う。「風のほうが、腹すかせてる」アレンが微笑った。リオは笑いかけて、言葉を飲み込む。代わりに、壁のいちばん小さな手を一度撫でた。「――行こうか」誰かが言い、誰も返事をしないまま、歩き出した。***門の影を抜けると、北へまっすぐの道。草はまだまばらで、地面は乾いて白い。靴の縁があたるたび、薄い粉みたいな灰がふわりと立った。「ねぇ……これ、道というより」リオが足もとを見る。「灰のじゅうたん、みたい」「道って、そういうもんだよ」アレンは歩幅を変えない。「誰かの火の跡」ミナが小さく繰り返す。「火の跡……」「焼けて、冷めて、残る」アレンは言い切らない。「それを、歩く」風は、昨日より若い。頬に触れては、すぐ前に回り込む。しばらくして、小さな丘の陰に腰をおろした。水袋の口をあけると、風が中身を撫で回して、ひんやりする。アレンは旅の鍋を出した。鉄ではなく、薄い土の器。灰を指さきでひとかけ、器の底に散らす。水を、指で一滴ずつ落とす。火はない。湯気もほとんど上がらない。それでも匂いは、そっと立った。リオが目を細める。「……戻ってきた」「旅の匂いだよ」アレンは器の上で息を合わせた。ミナが首をかしげる。「同じ匂いなのに……街と、ちがう」「風の腹が、ちがうからね」アレンが笑う。「食べやすい方向に、押してくれる」器を回し飲みするみたいに、匂いを順番に吸う。喉は潤わないのに、胸の奥がほどけていく。そのとき、ディアスがふいに視線を遠くへ投げた。丘の縁、空と土の継ぎ目。黒い糸みたいな影
last updateLast Updated : 2025-10-20
Read more
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status