Semua Bab 追放された料理人、異世界で伝説の味を創る: Bab 1 - Bab 10

18 Bab

追放の宴

香りが、音より先に広がった。火竜の脂が熱にほどけ、甘く焦げる匂いが石畳の床を滑っていく。銅鍋の縁が細く歌い、包丁の刃がまな板に触れて止まる。掌に吸い付く木柄の重みが、今夜の出来を告げていた。アレンは火口を半歩ずらし、炎を低く撫でつける。肉の表面が微かに泣き、密やかな水蒸気が立ちのぼる。粗挽きの胡椒が星のように弾け、琥珀のソースが艶を増す。「呼吸を合わせろ」彼は若手たちの手元を見ずに言う。「料理は命を分けるものだ。――誰のために作るかを、間違えるな」震えていた手が、少しだけ静まった。温めた皿が白く息を吐き、塩は言葉より少なく、火は祈りより正確に。最後の裏返し。格子の焼き目が美しく重なる。白い裾が視界の端で止まる。振り向くと、入り口に王女セレナがいた。淡い金の髪をまとめ、控えめに笑っている。「邪魔、してしまったかしら」「いいえ」アレンは火から視線を外さず、口角だけで応えた。「姫様の『楽しみ』が、厨房を整えます」セレナは近づき、指先で皿の縁をそっと確かめる。温かさに目を細め、息を弾ませた。「今日の香り、好き。……皆も、きっと」その笑顔は、真昼の光に似ていた。胸の奥で固くなっていた何かがほどける。アレンは頷き、火竜のローストを仕上げる。ソースを一筋。香草は一枚だけ。余白は、食べる者の息のために。「出す」合図に若手が駆けた。銀の蓋が重なり、音のない行進が王の間へ吸い込まれていく。扉が閉まれば、厨房はふたたび静かな海になった。アレンは手拭いで指を拭い、深く息を吸う。火竜の熱が鼻腔に残る。この夜は、長くなる――そんな予感があった。王の間から微かな拍手が届く。杯が触れ合う高い音。楽人の弦が、ゆるやかに響く。若手はほっと肩を落とし、誰かが小さく「やった」と呟いた。アレンは首を振る。「まだだ。最後の最後まで油断するな」自分に言い聞かせるように。――空気が変わった。扉の向こうで、音楽が一瞬だけ弾きを忘れる。次の瞬間、杯が床に打ちつけられる鈍い音が、廊下を伝ってきた。「……?」若手の一人が顔を上げる。叫び声。椅子が引き倒され、足音が重なる。扉が開く前に、アレンはもう動いていた。非常用の薬箱、活性炭、薄めた果実酒、冷水。「運べ。氷もだ」「は、はい!」声が裏返った青年が走る。扉が激しく開き
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-10
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炎のはじまり

風に、味があった。星のない空から降りてくる夜気は、舌先でほどけて――塩と鉄と……少し、血の匂い。アレンは鼻で吸い、ゆっくりと吐く。肺の奥に沈んだ熱が、小さく返事をした。転移の眩しさはもう消え、荒れた大地の黒が視界を満たす。崩れた石垣、ひび割れた水瓶、干からびた草。世界は音を忘れたように静かだった。「誰か、いるか」石垣の影がびくりと揺れた。痩せた少年が妹の肩を抱き寄せる。少年は十歳ほど、骨ばった手に小さな棍棒。少女は七つか、両膝を抱えて、目だけが大きい。「近づくな」少年が唇を強く結ぶ。「食い物はない。ぼくらのだ。あげない」アレンは両手を見せた。包丁も鎧もない、火傷の薄い痕だけを持つ手。「奪いに来たんじゃない。……作りに来た」「作る?」「腹が鳴ってる音が聞こえたからな」彼は笑う。自分の笑いが、まだこの世界で錆びていないと知って、少しだけ安心した。「俺はアレン。料理人だ」少年は逡巡し、棍棒を下ろす。「ぼくはリオ。こっちはミナ」ミナが小さく会釈して、すぐ膝に顔を埋めた。近づけば、空腹の匂いと、乾いた土の匂い。それから――遠い場所で燃えた煙の、薄い名残。「この辺りに火は?」「昼に、ちょっとだけ。枝が湿ってて……すぐ消えた」リオが指さした地面には、灰にもなりきれない黒い塊が円を描いている。アレンはしゃがみ込み、指で灰を撫でた。指先に、粉ではない“線の抵抗”がかすかに触れる。――灰の中から、細い文字が立ち上がった。火の息のように淡い線で、舌の形を真似るように、揺らめく。「……なるほど」彼の胸の中心に、王城の厨房では一度も聞いたことのない音が鳴った。味が、形になる。線と面で、風向きと熱の道を描く。“味覚の魔法”。名を与えた瞬間に、世界の輪郭が少しだけ濃くなる。アレンは立ち上がる。「食べられそうなものを探そう。……毒草でも構わない」「毒は、死ぬ」リオの声が震える。「死ぬほどの量を、そのまま食べればな」彼はにやりと目だけで笑い、視線でミナの小さな手を確かめる。「でも、熱を通し方を変え、苦味の芯をずらせば――」彼は足元の草むらに膝をつき、葉を千切って指で揉む。鼻腔を通る香りが、灰の上の光の線と重なり、“ここを焼け”“ここは蒸せ”“ここは捨てろ”と、静かに示してくれる。楕円の葉、紫の斑点――こ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-10
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毒草の村

朝。焚き火は灰になり、白い息だけが立っていた。アレンは灰を指で弾く。灰は軽く、薄い文字をひとつだけ残した。「行こう」リオが頷き、ミナは小さな手で裾を握る。霧の道。並木は痩せ、畑は色を失っている。村の入口には、歪んだ札がぶら下がっていた。――毒草注意。「……いい匂いがしないな」アレンが小声で言う。「当たり前だよ。ここ、もう何も食べられないんだ」リオの声は低い。ミナがうつむく。通りかかった老婆が舌打ちした。「また流民か。うちには分けるもんなんてないよ」「ぼくたち、村の子だよ。戻っただけだ」リオが言い返す。老婆は目を逸らした。「戻って何をする。食べ物は毒、畑は枯れ、鍋は鳴かない。……ここは“何も食べられない村”なんだよ」言葉は霧より冷たかった。村の中心に、ひび割れた井戸。人の気配はあるが、誰も立ち止まらない。視線だけが刺さる。「村長に会わせてくれ」アレンが言う。「行こう。ぼくが案内する」リオが前を歩いた。粗末な小屋。扉の向こうに、どっしりとした背中。「誰だ」「リオです。……それと、アレン」「他所者か」低い声が唸る。アレンは静かに頭を下げた。「アレン。料理人だ。村の食を見せてほしい」「帰れ」即答。村長の額には深い皺。目は火を信じない目だ。「毒草を煮て死んだ奴を、何人も見た。鍋は墓じゃねえ。……他所者の出る幕じゃない」「アレンは、ぼくらを助けてくれた!」リオが一歩出る。小屋の外に人が集まり、ざわめきが膨らむ。「草を食わせたって?」「狂ってる」「毒を使う魔物使いだ!」ミナがアレンの袖を握る。指が震えていた。アレンはその手に軽く触れ、袖をまくる。「……見せた方が早いか」「やめろ!」「触るな!」「匂いが移る!」叫びが重なるその中で、アレンは路傍の草を摘んだ。紫の斑点。楕円の葉。村人が顔をしかめる。彼は葉を揉み、指先に滲む汁を嗅いだ。灰の地面に、淡い線がふっと現れる。火の息のような細い文字が、彼の指の動きに寄り添った。「見たか。魔の文字だ!」「違う」アレンは否定を短く置く。「苦味の芯をずらし、熱を通す。……味の通訳を信じろ」「信じられるか!」村長の拳が震える。ミナが、おそるおそる口を開いた。「……あの時も、これで……おいしかった」小さな声が、小屋の空気に小石を落とす。沈
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-11
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灰の畑

朝の空気は薄い蜜のように澄んで、村にやわらかな匂いが戻っていた。昨日、焚き火が残していった言葉――「食べて、生きろ。」が、まだ灰の奥で温かい。「行こう」アレンが立ち上がる。リオは緊張で喉を鳴らし、ミナは袖をそっとつまんだ。霧の向こうに、畑が広がる。土は灰色、葉は紫がかり、茎は黒ずみ、根は硬い。風の匂いは、腐敗と薬草の中間。どこかで助けを求めている匂いだった。村長が来た。背中は相変わらず大きい。「ここはもう十年、実りを拒んでいる」「土ごと毒が回った。……どうする気だ、料理人」アレンはしゃがみ、土をつまんで舌に触れさせる。「味がする」ざわめきが起きる。「味だと? 土がか?」「苦い。けれど、“生きてる”苦さだ」リオが眉を上げる。「生きてる?」「うん。まだ間に合うって匂いだ」ミナが畝を見つめる。「……助けてって、言ってるの?」「そう聞こえる」アレンは畑の一角を選んで、灰を掌でほどく。指の間からこぼれる灰は、朝日に透けて、細い文字に変わった。昨日の焚き火が残した“生きた記憶”だ。「また火を使うのか」「焼けば土が死ぬ!」村人たちの声。アレンは短く首を振る。「火は殺すためじゃない。味を返すためにある」細枝を寄せ、灰の中心に息をひとつ。赤い核が生まれ、低い火が灯る。灰の文字がふわりと立ち上がり、風に乗って畝を走る。細い線は根の下にもぐり、金色にゆらめいた。「……土が光ってる」ミナが息を飲む。リオは地面に手を置いた。「あったかい。……土が、呼吸してる」村長が腕を組み、目を細める。「……魔か、奇跡か」「どちらでもいい。食べられれば、それでいい」アレンの声は、火の音と同じ高さだった。「何をするの?」リオが問う。「苦味の芯をずらす。水は浅く、風は低く。灰で輪郭をつける」アレンは灰を薄く撒き、古い井戸の水をひしゃくで掬って霧のように散らした。「水をかけるの?」ミナが首をかしげる。「かけるんじゃない。香りを通す。水は“運ぶ舌”だ」風が一度だけ方向を変え、畝に沿ってやわらかく吹いた。灰の線が、その風に乗って土の奥へすべり込む。どこかで小さな音がした。――ぱち、という、芽の内側だけで鳴る音。「いま、鳴ったよね?」リオが顔を上げる。「うん。起きた音だ」アレンは土を掌で軽く押して、手のひらの温度を確かめる。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-12
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灰の街

焚き火は丸くなり、灰のふちに細い光が残っていた。外套の男は一礼だけして名を告げる。「王都は、“灰の奇跡”を確認したいそうだ。私は供饌庁付きの使い、ディアス」低い声。硬い目。けれど息づかいは乱れていない。訓練された兵のそれだ。「王都が動いたってことか」「また税か」「今度は神を奪いに来た」村の輪がざわめく。恐れと怒りと、見えない期待が混じる。ミナが袖を引く。「……行くの?」「行くさ」アレンは焚き火を見て答えた。「誰かが火の意味を伝えなきゃな」村長が大きな手を肩に置く。「気をつけろ。王都の目は“味”を知らん」「なら、教えればいい。焦らず、ゆっくりとな」ディアスは村人たちをひととおり見渡し、短く告げた。「夜明けに発つ。同行は三名までだ」「俺と、リオと、ミナ」「わたしも行くの?」ミナが目を丸くする。「途中で引き返してもいい。匂いを確かめるだけでも、意味はある」火は最後に小さく息を吐き、灰の文字をひとつ描いて消えた。――行ってこい。***王都へ向かう街道は驚くほど真っ直ぐだった。整えられた石の道。鼻をくすぐるのは、灰ではなく、鉄と油の匂い。時おり、遠くから鐘が鳴る。風はまっすぐ鳴らない。建物に切られて、角のある音になる。「この匂い、苦手」ミナが鼻を押さえる。「食べものの匂いがしない」リオが言う。アレンはうなずく。「ここは火はあるが、香りが死んでる」ディアスが横目で笑った。「奇跡は都合のいい言葉だ。利用できるうちは、信仰になる。利用できなくなれば、迷惑だ」「腹は、言葉じゃ満たせない」「だが、言葉で人は動く。……王都は、そういう場所だ」門前には長い列。兵士、商人、祈祷衣をまとった者、痩せた子ども。列の中からささやきが漏れる。「灰の聖人だ……!」「触れたら治るって……」「王が呼んだらしい」アレンは顔を上げ、風の匂いを嗅いだ。油、鉄、熱。そこに、かすかに――焦げかけた甘さ。どこかで誰かが、ぎりぎりの火を使っている。城壁の向こうへ通される。灰の街。煙突が並び、白と黒の煙が空を縫う。車輪が軋み、蒸気が唸り、鐘が重ねて鳴る。すべてが動いているのに、どこにも「食べるための匂い」がない。「ようこそ王都へ。供饌庁は中央広場の先だ」ディアスが歩を速める。広場に入ると、巨大な建物が口を開けていた。丸い屋根。壁面には
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-13
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王の饗宴

鐘の音は、石の廊をやわらかく撫でて進んだ。導かれる先は王宮。白ではなく、わずかに灰を含んだ白――火のあとに残る色で塗られた城だった。玉座の間はひろく、窓の向こうには煙の空。王は背を向け、黒衣に銀の刺繍。後ろには供饌長アルマン。脇にディアスが沈黙して立つ。床は磨かれ、香炉の香は薄く、音だけが静かに続いている。王がゆっくりと振り返った。若い顔。だが瞳の光は遠い。「毒を味わえる者がいると聞いた」声は澄んでいた。「食卓の平穏は、痛みを知らぬ舌では保てぬ」卓には見事な皿が並ぶ。色は美しいのに、香りがひとつもない。王は顎で示す。「これが王都の味だ。秩序の味。お前はどう思う?」アレンは息をひとつ吸い、短く答えた。「……死んでる」王の口元がわずかに動く。「正直だな。“死”を味わう舌こそ、国を保つ」アルマンが杖で床を軽く打つ。「陛下、彼は異端です。火を神から奪う者」「いい」王は指をひと振りした。「試してやろう。灰の聖人が本物かどうか」銀の蓋が音もなく上がる。広がったのは――何もない香り。白い肉片、透明な液体、完璧な静寂。王が言う。「これを食えるか? 王都では、これを“純粋なる供饌”と呼ぶ」アレンが指で摘む。冷たさが骨の方へ滲み、感覚が細くなる。彼は肉片を鼻先に寄せ、目を細めた。「香りがないのに、匂う。これは――毒の匂いだ」アルマンが笑う。「信仰を疑う者の舌は、毒しか感じまい」アレンは穏やかに首を振った。「毒を恐れるのは、生きてる証拠だ。毒も味も、違いは“誰のために作られたか”だけだ」懐から、布袋。村の焚き火の灰を、掌に少し。王の目が細くなる。「……それは、神域の灰ではないな?」「神じゃない。火の残り香だ。生きた証拠だ」アレンは白い皿へ、灰をひとつまみ。静寂の中、極小の呼吸音みたいな香りが立ち上がる。焦げかけた穀物、幼いころの台所、遠い夕方。リオとミナが同時に息をのむ。腕を組んでいたディアスが、初めて口を開いた。「……この香り、覚えてる。戦場の飯だ。生き延びるための、あの匂いだ」王は席を立ち、皿の前へ来る。「この皿、毒があるのか?」アレンは目を見て答えた。「香りは、生きる証拠。死んでないものに毒は要らない」王は躊躇わず、ひと口。瞼が短く震え、息が漏れる。「……甘い。だが、痛みがある。これが“生きて
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-14
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灰の信徒

朝。王都はしんとしていた。かまどは冷たく、工房の煙突も黙ったまま。けれど風の底に、昨日の焚き火の名残がほんの少しだけ混じっている。甘いような、土のような、思い出の匂いだ。「……火、ないね」水汲みの少女がつぶやく。「灰の聖人さまが、また火を返してくれるって」「香りを嗅いだら、お腹が鳴ったよ」人々は小声で笑って、それから不安そうに空を見上げた。通りの角では黒衣の僧が香炉を割っていた。「焚き火を禁ずる。香りは魂を腐らす。灰も封ぜよ」淡々とした声が、石畳に吸いこまれていく。その横で若い兵が立っていた。ディアスだ。「……王の命が、信仰を呼んだか」彼は小さく息を吐いた。「腹が鳴るより先に、言葉が騒ぐな」***庁舎の小部屋。窓の外から歌が聞こえる。「灰の息で、種は芽吹く」「香りよ、戻れ」どこか幼い、けれど真剣な節回しだ。ミナが窓辺に立つ。「歌、いっぱいだね」「うん。お礼を言いたいのか、祈りたいのか……どっちもかな」リオが肩をすくめた。アレンは机の上で灰を指先にのせる。「拝まれても、腹はふくらまないんだけどね」戸が軽く鳴り、ディアスが入ってきた。「王都がざわついてる。“灰の信徒”だ。お前を拝む連中が出た」「困ったな」アレンは笑った。「俺は台所が似合うのに」「似合うかどうかで決まらないのが、都だ」ディアスは窓の外を見た。「信仰は動く。お前の火が、神になりかけてる」「神にする気はないよ。火は食べるためのものだし」アレンがそう言ったとき、黒い影が扉口に立った。灰断会の司祭だった。痩せて、冷たい目をしている。「“香り”は堕落の入口だ」司祭の声は濁っていないが、温度がなかった。「火を封じ、灰を封じよ。王も民も、火の言葉を聞く資格はない」ミナが一歩下がる。リオは無言で立ったまま。アレンは席を立ち、声の高さを下げた。「香りは封じられないよ。風が運ぶ。息がある限り、誰のものでもない」「異端だ」司祭は首を振る。「おまえは“火の罠”を広める者」ディアスが間に入った。「ここで争えば、火より早く腐る。庁舎の中で刃を抜くな」司祭はアレンを長く見てから、背を向けた。「神はおまえの香りを嫌う。次は、風を止める」靴音だけが廊下に残った。ミナがそっと袖を引く。「風、止まるの?」「止まらないよ」アレンは微笑む。「止まらないから、困る人
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-15
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風を喰らう街

朝の色が、ほんの少しだけ金に寄っていた。石畳は冷たく、屋根の影は長い。けれど通りの端で、小さな湯気が震えている。お湯がひとつ、またひとつ。音だけ先に戻ってきたみたいに、かすかに鳴いていた。「……音が戻ったね」リオが背伸びする。「うん。あったかい音」ミナは指をそっと湯気へ。熱に驚いて、くすっと笑った。アレンは露店の鍋をのぞき込み、指で湯気の縁を切った。「まだ、泣いてるみたいな音だね。……でも、それで、いい」露店の人が不器用に灰を摘み、塩の代わりに指先で祈るみたいに振る。ふわっと立つ匂いは薄い。けれど、器の受け渡しで笑い声がころんだ。「うま……いのかな」「たぶん、うん……ね」笑いは途中でほどけ、湯気といっしょに空へ逃げていく。通りの向こう、鎧の人影が足を止めた。ディアスだ。人混みを眺め、肩の力をゆっくり抜く。「……火、怖がらなくなってる」「余裕が、なくなってるだけかも」アレンは目だけで笑った。「それでも?」「それでも、悪くない」パン屋の古い戸口から、粉の匂いがほんのり。誰かが扉に背を預けて、空を吸い込む。王都の朝は、まだ灰いろ。けれど、鍋の音が少しずつ並んでいった。***裏通りは風がよく通る。灰断会の黒衣は角の祠で立ち尽くし、目だけが硬い。けれど監視の輪は薄い。路地の真ん中で、子どもたちが頬をふくらませ、風を舌のうえへ運ぶまねをしていた。「ほら、甘いって」「……ほんとに?」ミナはたまらず笑って、同じように口を開く。リオが一歩だけ止まって、アレンの袖をそっと引いた。「ねぇ、あれ……」「うん。すごい。……風の味、忘れかけてた」角を曲がったところで、ディアスが囲まれていた。「王の兵さん、火はもう……」「また消えるのは、やだ」言葉が肩と肩にぶつかって、足元へ落ちる。ディアスは口を開きかけ、目を伏せ、息をひとつ整えた。「……」アレンが人垣の端に立ち、手をひらり。「見張るよりさ、分けたほうが……たぶん、続く」言い切らずに置いた言葉に、誰かの肩がふっと下がる。視線が合って、それぞれ別の方へほどけていった。もう一つ角。石段の上、黒衣の司祭が声を高くしている。「香りに惑うな。灰は罪の痕。火は罰。目を閉じよ、舌を閉じよ」言葉は固い。風に当たって、角を曲がるたび尖っていく。リオが小声で。「……怖くないの?」
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-17
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灯の手

朝の色が、少しだけ金に寄っていた。石畳は冷たく、屋根の影は長い。けれど通りの端で、小さな湯気がふるえている。湯がひとつ、またひとつ。音だけが先に戻ってきたみたいに、かすかに鳴いた。「……人、多いね」リオが背伸びする。「うん。あったかい音」ミナは指をそっと湯気へ。熱に驚いて、くすっと笑った。庁舎の軒下に、簡易の台所を出した。鍋は低く鳴き、灰は薄く光り、井戸水は息を整えるみたいに落ちる。覗き込む顔は、昨日より迷いが少ない。皿の縁を持つ手が、するりと前へ出る。「昨日より、いい匂い」「……味がする」列のあちこちで、声がほどけていく。アレンは木の柄に手を添え、鍋の底をひと撫で。湯気の縁を指で切った。「まだ、泣いてるみたいな音だね。……でも、それで、いい」ミナが首をかしげる。「音、泣いてるの?」「うん。お腹が思い出してるところ。泣いて、それから笑う」老人が皿を差し出す。指は節だらけだが、掌は温かい。「手ってね」アレンは小さく笑った。「それだけで調味料みたいなもんだよ」ミナは自分の掌を見て、息を吹きかける。「あったかい……」ディアスが人の流れの向こうで足を止めた。肩の力が、ゆっくり落ちる。「……火、怖がらなくなってる」「余裕が、なくなってるだけかも」アレンは目だけで笑う。「それでも?」「それでも、悪くない」パン屋の古い戸口が軋み、粉の匂いが路地に滲む。誰かが扉に背を預け、空をひと口吸った。鍋の音が並び始め、朝は灰色のまま、少し温度を上げた。***昼前、広場に子どもが集まってきた。ミナが目をきらりとさせる。「ねぇ、灰、ちょっとだけ」「うん。指先だけね」アレンが頷く。灰と水を混ぜる。粥よりも薄く、風よりも濃く。ミナが掌をぽんと浸して、白い壁にぺたり。灰色の手が、そこに浮かんだ。「見て、火の跡の形!」笑い声がはねる。リオは苦笑いしながらも、掌を差し出した。ぺたり。ぺたり。ぺたり。小さな掌、大きな掌、皺の深い掌。白い壁に、灰の手が増えていく。「いい壁だね」アレンが目を細める。「火の壁!」と誰かが言い、すぐに照れて口をつぐむ。「……灯のほうが、いいかな」ミナが呟く。「うん。灯の手」リオが笑う。列の後ろから、背の曲がった老婆が近づく。壁を見上げ、掌を服で拭き、ゆっくり押し当てた。「昔、戦のあとも
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-18
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灰の路

朝は、まだ灰の色をしていた。けれど、どこかに薄い金が混ざっている。湯気の残りが屋根の角でほどけ、焼けた粉の匂いが、まだ眠い通りを撫でていった。庁舎の前。壁の「灯の手」には朝露がついて、冷たいはずなのに、見た目が温かい。ミナが指先でそっと触れて、小さく息を飲む。「……乾いたのに、あったかいね」「灰って、優しいな」アレンは壁から目を離さない。「冷め方が、ゆっくりだから」リオが周りを見る。「街、静かだね」「やっと眠れたんだろう」ディアスが肩の力を落とした。「今日は、いい匂いだけ残ってる」誰も急がない。誰も泣かない。四人は同じ方向を見て、同じくらい息を整えている。アレンが灰袋を軽く叩いた。口の隙間から灰が一筋こぼれ、風がそれを拾って空へ。「あ、逃げた」ミナが目で追う。「風のほうが、腹すかせてる」アレンが微笑った。リオは笑いかけて、言葉を飲み込む。代わりに、壁のいちばん小さな手を一度撫でた。「――行こうか」誰かが言い、誰も返事をしないまま、歩き出した。***門の影を抜けると、北へまっすぐの道。草はまだまばらで、地面は乾いて白い。靴の縁があたるたび、薄い粉みたいな灰がふわりと立った。「ねぇ……これ、道というより」リオが足もとを見る。「灰のじゅうたん、みたい」「道って、そういうもんだよ」アレンは歩幅を変えない。「誰かの火の跡」ミナが小さく繰り返す。「火の跡……」「焼けて、冷めて、残る」アレンは言い切らない。「それを、歩く」風は、昨日より若い。頬に触れては、すぐ前に回り込む。しばらくして、小さな丘の陰に腰をおろした。水袋の口をあけると、風が中身を撫で回して、ひんやりする。アレンは旅の鍋を出した。鉄ではなく、薄い土の器。灰を指さきでひとかけ、器の底に散らす。水を、指で一滴ずつ落とす。火はない。湯気もほとんど上がらない。それでも匂いは、そっと立った。リオが目を細める。「……戻ってきた」「旅の匂いだよ」アレンは器の上で息を合わせた。ミナが首をかしげる。「同じ匂いなのに……街と、ちがう」「風の腹が、ちがうからね」アレンが笑う。「食べやすい方向に、押してくれる」器を回し飲みするみたいに、匂いを順番に吸う。喉は潤わないのに、胸の奥がほどけていく。そのとき、ディアスがふいに視線を遠くへ投げた。丘の縁、空と土の継ぎ目。黒い糸みたいな影
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-20
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