香りが、音より先に広がった。火竜の脂が熱にほどけ、甘く焦げる匂いが石畳の床を滑っていく。銅鍋の縁が細く歌い、包丁の刃がまな板に触れて止まる。掌に吸い付く木柄の重みが、今夜の出来を告げていた。アレンは火口を半歩ずらし、炎を低く撫でつける。肉の表面が微かに泣き、密やかな水蒸気が立ちのぼる。粗挽きの胡椒が星のように弾け、琥珀のソースが艶を増す。「呼吸を合わせろ」彼は若手たちの手元を見ずに言う。「料理は命を分けるものだ。――誰のために作るかを、間違えるな」震えていた手が、少しだけ静まった。温めた皿が白く息を吐き、塩は言葉より少なく、火は祈りより正確に。最後の裏返し。格子の焼き目が美しく重なる。白い裾が視界の端で止まる。振り向くと、入り口に王女セレナがいた。淡い金の髪をまとめ、控えめに笑っている。「邪魔、してしまったかしら」「いいえ」アレンは火から視線を外さず、口角だけで応えた。「姫様の『楽しみ』が、厨房を整えます」セレナは近づき、指先で皿の縁をそっと確かめる。温かさに目を細め、息を弾ませた。「今日の香り、好き。……皆も、きっと」その笑顔は、真昼の光に似ていた。胸の奥で固くなっていた何かがほどける。アレンは頷き、火竜のローストを仕上げる。ソースを一筋。香草は一枚だけ。余白は、食べる者の息のために。「出す」合図に若手が駆けた。銀の蓋が重なり、音のない行進が王の間へ吸い込まれていく。扉が閉まれば、厨房はふたたび静かな海になった。アレンは手拭いで指を拭い、深く息を吸う。火竜の熱が鼻腔に残る。この夜は、長くなる――そんな予感があった。王の間から微かな拍手が届く。杯が触れ合う高い音。楽人の弦が、ゆるやかに響く。若手はほっと肩を落とし、誰かが小さく「やった」と呟いた。アレンは首を振る。「まだだ。最後の最後まで油断するな」自分に言い聞かせるように。――空気が変わった。扉の向こうで、音楽が一瞬だけ弾きを忘れる。次の瞬間、杯が床に打ちつけられる鈍い音が、廊下を伝ってきた。「……?」若手の一人が顔を上げる。叫び声。椅子が引き倒され、足音が重なる。扉が開く前に、アレンはもう動いていた。非常用の薬箱、活性炭、薄めた果実酒、冷水。「運べ。氷もだ」「は、はい!」声が裏返った青年が走る。扉が激しく開き
Last Updated : 2025-10-10 Read more