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第3話(11)

 千尋に促されるまま舌を絡め合っているうちに、車内に微かに濡れた音が響く。急に羞恥を覚えてうろたえた和彦が唇を離すと、千尋が低く囁いた。 「ほら、先生やっぱり、興奮してる」  なんとも答えようがなくて和彦は、千尋の頬を軽くつねり上げる。 「……お前、他に相手を見つけろよ。家のことを知らせずに済む遊びの相手ぐらい、不自由しないだろ」 「純粋に遊ぶだけの仲間ならいるけどさ、こういうことをするのは、先生だけ。俺って意外に硬派なんだよ」  硬派な人間は、父親と〈オンナ〉を共有して楽しんだりはしないだろう。そう指摘したかったのだが、最近の和彦は、たとえ千尋相手でも、思ったことをそのまま口にできなくなっていた。自分の発言が、どんな形で返ってくるかわかったものではないからだ。  千尋が意味ありげな流し目を寄越してくる。 「先生、さっさと自分に飽きてくれと思ってるだろ。そうしたら、ぽいっと自分を捨ててくれるだろうって」  咄嗟に和彦が見たのは、三田村だった。共同所有を宣言されたあと三田村に投げかけた質問を、賢吾や千尋に報告されたと思ったのだ。しかし、そうではなかった。 「さっき先生が見せた暗い顔で、誰でもそれぐらい察しがつくよ。円満に組から遠ざかるには、俺やオヤジから、顔も見たくないって放り出されるぐらいしかないからね」 「……レストランでお前が話してくれたことを聞いたら、円満にフェードアウトするなんて無理な気がしてきた」 「まあね。先生は、利用価値がありすぎるんだよ。だからこそ、長嶺組の身内であり続けることが、結局先生のためなんだ。何かあれば、組の人間が必死で先生を守ってくれる。オヤジや俺のオンナだからというんじゃなくて、先生がもうすでに、身内を助けてくれたからだ」  身内と言われてすぐにはわからなかったが、千尋が自分の腹を指さしたので、それでピンときた。腹を撃たれた組員の手術を、和彦が手がけたことを言っているのだ。 「ああ……。助けたというか、助けさせられたという感じだけどな」 「だけど、撃たれた組員は、もう動き回れるようになった。先生が助けたからだ」  和彦が黙り込むと、千尋もそれ以上は話しかけてはこなかった。子供のような
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-10-27
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第3話(12)

**** 車通りが少なかったせいもあり、気をつかった三田村が車の速度を落としてくれる。和彦はウィンドーを半分ほど下ろし、少し前まで自分が勤めていたクリニックのビルを見上げる。  自分の意思でここを通ることはないだろうと思っていたが、どんどんヤクザの事情やルールに搦め捕られていくうちに、ふいに、普通の生活を送っていた頃の思い出に浸りたくなった。取り乱さない自分は冷静だと自賛すらしていたが、自覚がないまま、精神的にはかなりの負担を感じていたようだ。 「……信じられるか? ちょっと前まで、ぼくはここのクリニックに勤めていたんだ。三十歳にして、それなりにいい収入を得て、いい同僚もいて、やり甲斐のある手術を任されて美容外科医としてのキャリアを積み上げてた。それが今じゃ――」  言葉にできないもどかしさが込み上げてくるが、表に出すことはできなかった。和彦の反応すべてを、三田村の口から賢吾に告げられることを恐れたのだ。 「ヤクザに……しかも組長に逆らったら、やっぱり重石をつけられて海に沈められるのが定番なのか? それとも、酸で指紋を消されて埋められるのか、手間を惜しまないなら、バラバラかな。なんにしても、まともな死体が残らないような消され方をするんだろうな」  一方的に話してから、万が一を考えた和彦はウィンドーを上げる。勤務時間中だが、クリニックの関係者に見つかる事態は避けたかった。  三田村が静かに車のスピードを上げたので、次に進む道の指示を出す。シートの反対側に移動した和彦がまたウィンドーを下ろすと、ちょうど馴染みだったカフェの前を通るところだった。千尋がバイトをしていた店だ。  天気がいいこともあり、テラスは満席でにぎわっている。ウェイターたちが慌ただしく行き来しており、和彦は簡単に、そこにかつての千尋の姿を重ねることができた。 「……千尋は、ものすごく目立ってたんだ。きれいな顔をしているうえにスタイルもいいし、何より人懐こかった。特にぼくに対して。どこから見てもモテそうなくせに、ぼくがカフェに行くと、テーブルの担当じゃなくても、嬉しそうにやってきてた。そんな千尋とつき合っているときは楽しかった。たまには年下もいい、とのん気に
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第3話(13)

 和彦が前髪を掻き上げたそのとき、ここまでずっと黙っていた三田村がやっと口を開いた。 「医者の先生にこんなことを言うのはなんだが……、これから病院に行かないか」  意味がわからず眉をひそめると、三田村は前を見据えたまま続けた。 「ここのところ疲れているようだから、病院で薬を処方してもらったほうがいいんじゃないかと思ったんだ。安定剤とか……」 「安定剤を飲んだところで、現状がどうにかなるわけでもないだろ」  ふっと笑った和彦は、実は三田村が何を言おうとしているのか、ようやく察した。三田村の目には、和彦の状態が不安定に映っているのだ。 「組長の忠実な犬としては、精神状態が不安定な〈オンナ〉は、危なっかしくて組長の側に置けないと言いたいのか」 「解釈は先生の自由だ。ただ、今みたいな暗い顔をしているのが、いいとは思えない」 「ヤクザのオンナなんてさせられて、おっとり笑っていろとでも?」 「――初めて組長と会ったとき、笑っただろ、先生。あの状況で笑った人間に対して、俺は素直に感嘆した。見た目に反してタフだと思った」  三田村なりに、心配してくれているらしい。和彦を一人の人間として気遣っているのか、組長のオンナとしての価値が損なわれることを気にかけているのかまではわからないが、ただ、無茶を言わないという点では、三田村といるのは楽だった。 「ぼくは医者だ。本当にキていると思ったら、自分で病院に行く。友人が心療内科医をしているから、親身になってくれるだろ」 「……ただ眠りたいというなら、そういう薬は簡単に手に入るから言ってくれ」 「変な麻薬でも混ざってそうだから、いらない」  和彦が即答すると、バックミラーに映る三田村の目元がふっと一瞬だけ和らぐ。 「そうだ。それでいつもの先生だ」  和彦は顔をしかめてから、シートにしっかりと座り直す。  三田村の律儀さや誠実さは、ヤクザという人種を見直してしまいそうで、畏怖とは違う怖さがあった。**** つけっぱなしのテレビから聞こえてくるニュースを、広すぎるベッドの上でうつ伏せになりながら、ぼ
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第3話(14)

「――すぐに出かける準備をしろ、先生。十分だけ待ってやる」 「なんなんだ、いきなり……。今日はぼくは、外に出る気分じゃない」 「出たくないなら、引きずり出すだけだ。お姫様抱っこして連れ出してやろうか?」  抗うのは諦めた。インターホンを切った和彦は、ふらつく足取りで洗面所に行く。  適当に選んだスーツを着込んでなんとかエントランスに降りると、扉の向こうに立っているのは三田村だった。 「……なんなんだ、一体……」  促されて歩きながら、和彦は小さく口中で毒づく。 「詳しいことは組長に聞いてくれ」  素早く周囲に鋭い視線を向けた三田村が、車止めの横に停めた車の後部座席を開ける。賢吾が悠然と腰掛けており、軽く手招きされたので、仕方なく和彦は車に乗り込んだ。 「珍しく不機嫌そうだな、先生」  おもしろがるような口調で賢吾に言われ、思わず横目で睨みつける。 「あんたたちと知り合って、ぼくが上機嫌だったことなんて一度もないぞ」 「不機嫌でも、減らず口の冴えは相変わらずだ」  短く声を洩らして笑う賢吾を、多少気味悪く感じながら和彦は眺める。不意打ちの来訪を受けて何も感じないほど、頭は鈍くなっていなかった。 「――……それで、今日は何をするんだ」 「こちらが思っているより、事態が早く進んでいるようだからな。手を打っておくことにした」  それでなくても不機嫌な和彦は、賢吾の言い回しに苛立ち、眉をひそめる。 「意味がわからない」 「わからないように言ったんだ」  こちらを見た賢吾が、唇に憎たらしい笑みを浮かべる。 「こっちの事情だ。先生は、ただ俺の言う通りにすればいい」 「……行き先は?」 「うちの組事務所の一つだ。俺は臆病だからな、毎日あちこちの事務所を転々とする。そうすれば、どこかのバカが綿密に襲撃の計画を立てようが、かち合う確率が減る。俺のやり方を嘲笑う奴もいるが、俺は、度胸と慎重さは分けて考えている」  臆病だと言っているのは本人だけで、身を潜めているのが、とてつもなく獰猛で残酷な気性を持つ大蛇だというのを、他の人間はわかっているのではないか。少
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第3話(15)

「体調には気をつけろ。医者の不養生というしな」 「飼った早々に壊れられても困る、か」 「そう憎まれ口を叩くな。俺なりに、先生を大事にするための環境を整えているつもりだ。今日、事務所に連れていくのも、そのためだ。何事も形式と儀式は大事だからな。対外的な意味でも」  また、気になる言い回しだ。  急に車を降りて帰りたい心境になったが、肩に回された腕はがっちりと和彦を押さえ込んでおり、身動きもままならない。正直、賢吾に肩を抱かれるのは好きではなかった。自分の所有物だと示されているようで気に障る。こんなことにこだわるのも、ここ数日の気分の浮沈の激しさのせいかもしれない。  車がある駐車場に入ると、エンジンを切るまでの間に、何人かの人間が駆け足で車の周囲に集まってくる。賢吾を出迎えるためのもので、目にするのは初めてではないのだが、やはり緊張する。賢吾と一緒にいると、必然的に和彦も恭しい待遇を受けることになり、気詰まりして仕方ない。  気が重くなるのを感じながら、賢吾に促されるまま車を降りた和彦は、周囲を組員たちに守られながら事務所に向かう。  事務所が入っているきれいな雑居ビルには、ほとんど看板は出ていなかった。ヤクザの事務所が入っているようなビルに、まともなテナントが入るとも思えない。  エレベーターに乗り込んだところで、和彦は隣に立つ賢吾を見る。組員たちに囲まれるたびに思い出すのが、賢吾と初めて会ったときのことだ。拘束され、目隠しをされて辱められたときの光景は、いまだに夢に見る。  もう、あんなことはしないと賢吾は言うが、ヤクザの約束ほど信用ならないものはないと教えてくれたのもまた、賢吾だ。  その賢吾とともに和彦が通されたのは、フロアの奥の応接室だった。すでに先客の姿があり、賢吾の姿を見るなり立ち上がり、深々と頭を下げた。一連の動作はビジネスマン然としており、こんな場所でなければ、ごくごく普通の商談の光景のようだ。  頭を上げた男が、縁なし眼鏡の中央を押し上げ、レンズ越しの眼差しをこちらに向けてくる。動作だけでなく、顔立ちはおろか全体の雰囲気も、やはりビジネスマンのように見えた。言い換えるなら、こんな場所にいるのが非常に不似合いだということだ。
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第3話(16)

「待たせたな」  賢吾が口を開き、和彦は促されるまま並んでソファに腰掛ける。それを待って男も座り直し、傍らのアタッシェケースに手をかけた。それを見て、クリニックの手続きに関することだろうかと予想する。しかし、そうではなかった。  男は封筒を取り出して賢吾に手渡してから、和彦には、名刺入れから取り出した名刺を差し出してきた。 「――総和会での事務処理全般に当たっている藤倉です。今後、何かと佐伯先生とお会いする機会もあると思いますので、よろしくお願いします」  藤倉と名乗った男がまた深々と頭を下げたので、つられて和彦も頭を下げたが、すぐに意識はもらった名刺へと向く。  何かの植物の葉らしきものに、『総』という字が囲まれている代紋と、総和会という名が確かに記されていた。男の肩書きは正式には、文書室筆頭というらしい。 「『総』の字を囲むのは、十一枚の葉です。ただし、一番上にある葉だけは、形が大きいことにお気づきですか? あとの十枚の葉の大きさは同じ。総和会とは、そういう組織です。そして現在のところ、一番大きな葉を持つのは、こちらの長嶺組です」  慣れた口調での藤倉の説明に相槌を打つことも忘れ、和彦は賢吾を見る。賢吾は封筒から取り出した書類に万年筆で何か書き込んでいた。さらに、傍らに立った組員から別の書類を受け取る。  すぐにその書類は、和彦の前に万年筆とともに置かれた。『加入書』と記された文字を見て、和彦はあることを察した。 「まさか、これ……」 「お前が、本当にうちの身内になるための書類だ。本来は盃も取り交わすところだが、お前はそういうのとは違うからな。ただ、形式は必要だ。正式な身内としてお前を迎えるためにな」  どこか冷然とした声で話しながら、賢吾がさらにもう一枚の書類を置いた。 「こちらは、総和会の加入書。順番を間違えるな。先に、長嶺組の書類に名前を書き込め。うちの組に身を預けたうえで、総和会と結縁ができるんだ。お前の立場を保証するのは、長嶺組組長の俺だ。これで、組と総和会でのお前の存在に、誰も文句はつけられない。お前に何かあるときは、うちにケンカを売るのと同義になる」  賢吾の説明を聞いても、心強いとか、感謝するという
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第3話(17)

 エレベーターホールに向かおうとしたが、追いつかれることを危惧し、非常階段を使って一階に降りる。雑居ビルを出た和彦は足早に通りを歩き始めたが、大通りに出る前に、背後から近づいてくる足音に気づいた。 「先生っ」  呼びかけてくる声は三田村のものだった。こういうときでも、和彦の面倒を見るのは三田村になっているらしい。  和彦は頑なに振り返らないどころか、歩調も緩めない。それでもかまわないとばかりに、三田村がものすごい勢いで前に回り込み、両腕を広げた。 「先生、どこに行く気だ」  無表情で問いかけてきた三田村だが、さすがに息がわずかに乱れている。和彦は睨みつけてから、三田村の腕を躱して行こうとする。 「先生っ」  鋭い声を発した三田村に腕を掴まれた。和彦は掴まれていないほうの手を振り上げ、三田村の頬を平手で容赦なく打ち据えた。通りを行き交う人が、何事かといった様子をこちらを見てから、慌てて目を逸らして通りすぎる。 「……ぼくは、ヤクザにはならない」 「あれは、そういう書類じゃない。ただ先生の立場を確かなものにするために――」 「何も知らない人間からしたら、ぼくもあんたたちも、一括りにされる。他人からしたら、事情なんて知ったことじゃない。……ぼくは、被害者だ。あんな猛獣みたいな男に脅されて、協力させられて、オンナ呼ばわりされて。これまでだって男とは寝ていたが、尊厳を踏みにじられるようなことはされなかったし、させなかった。なのに、あの男は……」  和彦はもう一度、三田村の頬を打つ。 「今度はヤクザにしようとしているっ」  肩を上下させ、興奮のあまり涙を滲ませる和彦を、三田村はじっと見つめてくる。そして、ぽつりと言った。 「――あんたは、〈ヤクザに脅されている被害者〉という立場を失うのが嫌なのか?」  淡々とした三田村の言葉は、鋭く和彦の心を抉った。この瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われたのは、これ以上ないほど図星を指されたからだ。  和彦は必死に三田村の手を振り解こうとするが、腕どころか、肩まで掴んできた三田村の力は、骨がどうにかなりそうなほど強い。 「離せっ」 「先生、大声を出すな。
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第3話(18)

 引っ張り込まれたのは、まだ開店準備をしているカラオケボックス店だった。驚いたように若い従業員が目を見開き、相手が三田村だとわかると、大げさなほど勢いよく頭を下げた。 「お疲れ様ですっ」 「部屋の一つを貸してくれ。話がしたいんだ」  従業員が、手首を掴まれ、肩を押さえられている和彦を見て、すべてを理解したように頷く。 「一番奥の部屋を使ってください。もう掃除が終わってますから」  大股で歩く三田村の迫力に圧されて、促されるまま部屋に足を踏み入れた和彦は、狭いうえに、きれいとは言いがたい部屋を見回す。このときになってようやく三田村の手から解放され、思わず自分の手首に視線を落とす。掴まれていた部分がしっかり跡になっていた。 「……悪かった。力加減がわからなかった」  和彦の手元を覗き込み、三田村が言う。間近で目が合った途端に、外で言われた言葉を思い出し、和彦は三田村を睨みつけた。 「これだけははっきりさせろ。――ぼくは、被害者か加害者か?」 「加害者ではないな」  三田村の言い方にカッとして手を振り上げたが、すかさず手首を掴まれた。 「人を殴り慣れてない先生が俺をいくら殴ったところで、手を痛めるだけだ」  手を振り払った和彦は、感情のない三田村の顔を見るのが嫌で背を向ける。汚れた壁を見据えながら、震える声で言った。 「ぼくは……、ヤクザは嫌いだ」 「普通の人間はそうだろう。だけど、あんたは今、そのヤクザの庇護を受けている」 「望んだわけじゃない。押し付けられたんだっ」 「だが、受け入れた。組長と千尋さんのオンナとして、体を開いている。感じているから、その立場を喜んでいるとは、俺も思ってないがな。ただ、割り切って受け入れることが、先生なりの処世術だと思っていたのは確かだ」  和彦は、三田村を殴れない代わりに、壁を拳で殴りつける。 「……ぼくも、そう思っていた。抜け出す勇気も覚悟も持てないなら、このヌルイ状況にしばらく身を置くのもいいってな。だけどそれはあくまで、普通の人間が、一歩だけ一線を踏み越えた感覚だった。ヤクザの世界に全身まで浸かる気はない」  話しながら和彦は、何回も壁を
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第3話(19)

「……本当は、今の生活を刺激的だと思い始めている自分が嫌だ。怖くて汚い世界だとわかっているのに。毎日何度も、そんな自分を嫌悪して落ち込む」 「悪かった……。先生が何もかもが平気なわけじゃないと、気づくべきだった。そうしたら、もっと気遣ってやれたかもしれない」  和彦がちらりと笑みをこぼすと、まるで見ていたようなタイミングで体の向きを変えられ、二人は向き合う。 「あの組長が、きめ細かい気配りなんてできるとは思えないけどな」 「だが、先生のことは考えている。だからこそ組長は、あんなものを用意した。堕ち始めた人間の拠り所は、力だ。先生はヤクザの力なんて嫌がるだろうが、この世界に足を踏み入れたら、長嶺組の力が一番確実に先生を守ってくれる。だから、嫌がるのを承知で、これみよがしにあんなことをした。先生に、現実を見せるために。嫌でももう、目を背けることは許されない」 「――堕ち始めた、か」  自嘲気味に和彦が洩らすと、初めて三田村が狼狽した素振りを見せ、肩に手をかけてきた。 「あっ、いや……、堕ちるというのは、俺たちのような人間のことで、別に先生がそうだというわけじゃ――」 「まあ、普通の人間からしたら、ぼくもあんたも、同じ種類の人間だろうな。組に飼われていて、そこから抜け出そうとしない。反社会的な組織や人間の下での生活を心地いいと感じ始めたら、堕ち始めているという証拠だ」  和彦は苦い笑みをこぼし、ようやくある事実を認める。自分はもう、ヤクザに何かを強いられている〈被害者〉ではない。とっくに〈共犯者〉なのだ。 「先生……」 「もう少しだけ時間をくれ。気持ちを整理している」  そう言いながら和彦は、三田村の肩に額を押し当てる。押し退けられるかと思ったが、意外にも、肩にかかった三田村の手が背に回された。和彦は胸が詰まったが、何も言えなくなる前にこれだけは確認しておいた。 「……別にやましい気持ちはないが、この部屋、監視カメラがついているんだよな」 「ガキが薬をキメるのに使っているような場所に、そんないいものがついているわけないだろ」  言い終わると同時に、三田村は和彦が欲しがっているものがわかっているかのように、逞しい両腕が体
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第3話(20)

 何も要求せず、ただ抱き締めてくれる腕の強さが心地よかった。和彦は顔を上げると、相変わらず感情をどこかに置き忘れたような無表情の三田村を見つめる。無表情ながら、今日はわずかに感情が透けて見えそうな気もして、和彦は間近に顔を寄せる。 「……人を慰めながら、弱みを探ってるんだろ。ヤクザのやり口はわかってるんだ」 「わかっているなら油断するな、先生。あんたは口は悪いが、根本的なところで、優しくて、甘い人間だ。だから、ヤクザなんかにつけ込まれる」  もっともな言葉に思わず苦笑を洩らした和彦は、指先を三田村のあごの傷跡に這わせてから、てのひらを三田村の頬に押し当て、撫でる。すると、三田村の大きな手が、子供をあやすように和彦の背をさすってきた。  和彦は、両腕を三田村の首に回してしがみつき、耳元で囁いた。 「もっと強く抱き締めてくれ」 「――先生の望み通りに」  三田村のこの言い方が、やはり好きだった。淡々とした口調とは裏腹に、強く熱い抱擁を与えてくれる律儀さも。**** 結局この日、和彦は加入書に署名はしなかった。  事務所に戻るよう、三田村に言われたが、頑として和彦は動かなかったのだ。  無理強いするようなら、三田村曰く、『ガキがクスリをキメるのに使っているような』部屋に篭城するつもりだったが、それは未遂に終わった。  店員が気を利かせて運んでくれたジンジャーエールを飲んでいると、乱暴にドアが開けられ、危うく和彦は口に含んだものを噴き出しそうになる。 「――大丈夫か、先生」  顔を背けて激しく咳き込む和彦の背が、強くさすられる。今日知ったばかりの三田村の手の感触ではなかった。かけられた声も、ハスキーな声ではない。ゾッとするほど忌々しく、魅力的なバリトンだ。  本能的な恐怖で身をすくませながらも、苦しさで滲んだ涙を拭って顔を上げると、傍らに賢吾が立っていた。口元に浮かんでいる薄い笑みを見て一瞬怯みかけた和彦だが、普段の条件反射から、睨みつけてしまう。 「殴りたいなら殴れ。だけど、自分からは絶対、あんなものに署名しないからな」  賢吾は鼻で笑って
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