All Chapters of 淡き想いと波と共に: Chapter 1 - Chapter 10

21 Chapters

第1話

「今回の出張は、もう一緒に行きたくない」 江川彦辰(えがわ ひこたつ)がそう言ったのは、夕食の席でのことだった。 口調はあまりにも穏やかで、誰も異変に気づかなかった。 江川凛(えがわ りん)の今回の出張は、ちょうど五月五日。 結婚記念日でもなく、誰かの誕生日でもない。 ただの子どもの日だ。 三日前、彦辰は偶然、凛のスマートフォンの中にあったひとつの音声を聞いてしまった。 幼い子どもの声で、甘えた口調でこう言っていた。 「ママ、子どもの日、A市に行って熱帯魚を見たい!」 そのとき、彦辰はしばらく呆然としていた。 凛と十年愛し合い、結婚して六年。 誰もが「奥さんは旦那さんのことを心の底から愛している」と言っていた。 出張のときも、彦辰と離れないように必ず一緒に連れて行くほどだった。 彦辰自身も、そう信じていた。 あの幼い声を聞くまでは—— あの子たちの声は、どう聞いても四、五歳くらい。 つまり、彦辰達が結婚して間もないころ、凛は別の男の子どもを産んでいたことになる。 この五年間、彼女は一方で「愛する夫の妻」として振る舞い、もう一方で「二人の子の母親」として生きていたのだ。 彦辰は、自分が愚かだったのか、それとも彼女の演技が上手すぎたのか分からなくなった。 五年ものあいだ、まったく気づかなかった。 凛は彦辰の茶碗に、彦辰の大好物であるタケノコを一枚そっと入れ、やさしく尋ねてきた。 「いつも出張は一緒に行くって言ってたのに、どうして急に行きたくなくなったの?」 「いや、別に。ただ……A市はちょっと遠いし、長時間のフライトはちょっと気が進まないから」 義母がすぐに口をはさんだ。 「彦辰が行きたくないなら行かなくていいわよ。家でゆっくり休みなさい」 彦辰は淡々とうなずいた。 そして茶碗の中のタケノコを箸で取り出し、そのままゴミ箱に放り込んだ。 凛は彦辰の様子がおかしいと感じたのか、何か言いたそうな様子だったが、義母が彼女の腕を軽く叩き、首を横に振って制止した。 凛は意味を察し、うなずいた。 「わかったわ。じゃあ、あなたは家でゆっくり休んでて。出張が終わったらすぐ帰ってくるから」 食事のあと、彦辰はなんだか息が詰まるような気分で、庭を散歩した。 戻ってくると
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第2話

彦辰は電話を切ると、もう少し花園に留まってから部屋に戻った。部屋に入ると、ちょうど凛が慌ただしく階段を降り、出かけようとしているところで、手には彦辰のジャケットを持っていた。彦辰を見ると、凛は急いで駆け寄り、そのジャケットを彦辰の肩に掛けた。「どうしてそんなに長く外にいたの?夏とはいえ、夜になると風が少し冷たいでしょう」彦辰は微かに笑った。「大丈夫、寒くない」「でも風邪ひかないようにね」その言葉に、彦辰は足を少し止めた。ふと、初めて凛に出会った頃を思い出した。大学一年生のとき、彦辰はアルバイトで一日中冷たい風に吹かれていた。そこへ通りかかった凛が、さっと自分のマフラーを渡してくれた。断ろうとした彦辰に、凛はただ一言、「風邪ひかないようにね」とだけ言った。その後、彦辰は彼女のマフラーを丁寧に洗って返した。こうして少しずつ、恋に落ちていった。後に凛も認めた。「実はずっと前から好きだったの。ずっとあなたのことを見守っていたのよ」あの日、凛は彦辰が寒さで震えているのを見て、心が痛み、思わず声をかけたのだ。それから自然に二人は付き合い始め、凛は彦辰に尽くし、誰もが「凛は理想の妻だ」と言った。結婚後も、彼女の親友ですらこう言った。「彼女の心の中ではあなたが一番で、彼女自身はその次なんだよ」と。当時、彦辰は凛の親友が言うただの冗談だと思っていた。しかしある旅行中の地震で、凛は落下してくるコンクリートの塊から自分の体を張って彦辰を守った。三日三晩、命がけだった。救助隊が彦辰達二人を助け出したとき、彦辰は無事だったが、凛は疲れ果て、背中には血と傷が残っていた。彼女は倒れる直前、彦辰の顔に優しく触れて言った。「あなたが無事でよかった、これで安心した」その瞬間、彦辰は心に決めた。「絶対に彼女と一緒に、一生を共にする」と。しかし、今となっては彼女は、もうそのかつての誓いを忘れてしまっている。凛は彦辰の腕に手を絡め、部屋に戻ると、ソファに座らせて片膝をついて手を握りながら言った。「彦辰、なんだか元気なさそうね?」彦辰は首を横に振った。「別に」「嘘よ。何かあったんでしょう? 話してくれる?」彦辰は視線を落とし、彼女の心配そうで焦った瞳を見つめ、胸に鋭い痛みを感じた
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第3話

「大丈夫。江川さんと一緒に見るから。そんなカタログをあちこち持って行く面倒をかけなくてもいいし」そう言いながら、男は子どもたちの手を引いて中へ入ってきた。そしてにこやかに彦辰に向かって言った。「江川さんは、構わないよね?」男が入ってくるのを見て、店員は慌てて止めようとしたが、結局はできなかった。ただ呆然と見守るしかなく、そのまま男は凛の隣に腰を下ろした。年上の子は男の子で、目を輝かせて叫んだ。「ママ!」年下の女の子もすぐに気づき、勢いよく凛の胸に飛び込んだ。「ママ!みーちゃん、ママに会いたかったの〜!」凛は眉をぎゅっと寄せ、女の子から身を引こうとした。だが、小さく柔らかい体を前に、結局は突き放すことができず、ただその子の父親に向かって怒鳴った。「見知らぬ他人にママ呼ばわりなんて御宅はどういう躾をしてるの」男はまったく怒ることもなく、むしろ口元に笑みを浮かべていた。彼はゆっくりと女の子を凛の腕から引き離し、穏やかに言った。「みーちゃん、人違いだ。この人はママじゃない」女の子はしゃくり上げながら泣いた。「違うもん、ママだもん!みーちゃん、知ってるもん!」「この人は、ママにそっくりな『お姉さん』だ。よく見て、そこのお兄さん。あの人がこのお姉さんの旦那さんだよ」女の子は凛を見て、次に彦辰を見た。それでもまだ、納得がいかないようだった。男の子のほうが少し勇気があり、凛の前に近づいて、真剣な顔で尋ねた。「本当に僕のママじゃないの?」「わたし……」凛は言葉を失った。子どもたちを見つめたまま、長い沈黙のあとでも、否定の言葉をどうしても口にできないようだ。「あーちゃん、そんな失礼なこと言うべきじゃない」男は息子を引き戻し、微笑みながら謝った。「すまない。子どもたちは母親に甘やかされてて、少しわがままで」あーちゃん、みーちゃん。そうか、この二人が凛の婚外子たちか。三人が入ってきた瞬間から、彦辰はどこか見覚えのある顔だと思っていた。特に男の子のほうは、眉や目元が凛に六、七割は似ている。女の子のほうは、むしろ父親にそっくりだった。はじめはまだ信じきれなかった。まさか外の誰かが彼女を騙して、その結果、彼女に子どもができたのではないか——そう思いたかっ
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第4話

男の人は笑みを浮かべながら立ち上がった。「江川さんが先だから、江川さんから選んで。僕は外で待つから」そう言って、彼は優しく声をかけた。「あーちゃん、みーちゃん、行こう。外で待とう」長男はまだ凛を見つめたまま、何か納得できないような表情を浮かべていた。幼い娘は涙でいっぱいの瞳をしながら、何度も何度も振り返っていた。最後には、父親の腕に抱かれながら連れて行かれた。VIPルームの中には、死んだような静けさが広がった。さっきまであれほど愛想よく話していた店員たちでさえ、今は息を潜めて、一言も発せなかった。そして彦辰がその沈黙を破った。「何でみんな黙ってるんだ?俺のことそんなに怖いか?」店長は気まずそうに笑って答えた。「い、いえいえ!ただ、このデザインも旦那様のお気に召さないのではと……」「気に入った。じゃあ、これにしよう。サイズを測るためのリングゲージ、あるかな?」「ございます!今お持ちします!」店員たちは慌ただしく部屋を出て行った。VIPルームには、彦辰と凛、二人だけが残された。針が落ちても聞こえるほどの静けさだった。——ヴーッ。凛のスマートフォンが震えた。彼女は動かなかった。しばらくして、今度は着信音が鳴り響いた。彦辰は退屈でカタログをめくりながら言った。「どうして出ないんだ?会社の用事かもしれないだろ。大事な仕事を逃したら困るんじゃないのか」凛は数秒ためらったあと、立ち上がりながら言った。「外で少し電話に出てくるから。すぐに戻るわね」「うん」彼女は足早に部屋を出て行った。——その直後。彦辰のスマートフォンが鳴った。それは知らない番号からのメッセージだった。【江川さん、地下駐車場へ。君が知りたいこと、すべて見れるよ】エレベーターを使わず、無言のまま、階段を降りて地下へ向かった。遠くから、女性の怒鳴り声が響いてきた。「……何度言ったら分かるの?彦辰の前に、二度と姿を見せないでって言ったでしょ!」そして男の声が続く。どうしようもなく、かすかな哀しみを滲ませながら。「分かってるよ。でも、子どもたちは分からないんだ。ただ『ママに会いたい』って、それだけなんだ。特にみーちゃんだよ、喉が枯れるまで泣いてるんだ。……そんな声、僕は父親
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第5話

再びこの六年間住んだ家に戻った彦辰は、まるで別世界に迷い込んだような感覚に陥った。しかし、彼には深く悲しみに浸る暇はない。翔が手配してくれた海での事故は半月後に迫っており、やるべきことが山ほどあるからだ。まずは、出発の航空券だ。江川彦辰の名前でチケットを購入すれば、凛にすぐバレてしまう。彼は自分の身分証と戸籍謄本を手に家を出た。リビングを通り過ぎると、義母がスマホを弄っていた。ちらりと視線を向けると、画面の中に映っていたのは。きっと彬人の息子と娘のため、子どもの日のプレゼントを選んでいるのだろう。彼が通り過ぎると、義母はすぐにスマホの画面を閉じた。「彦辰、出かけるの?」彦辰は軽く頷く。「ちょっと用事があって」「じゃあ、凛が戻るまで待って、一緒に行ったらどう?」「大丈夫、彼女は他のことで忙しいから、邪魔したくないんだ」この時間、彼女はきっと子どもたちと幸せなひとときを過ごしているのだろう。さらに子どもたちの父親がいて、四人が本当の家族を形作っている。彼はタクシーで戸籍課に向かい、書類を差し出した。「すみません、名前を変更したいのですが」担当者は一人で来た彦辰を見て、優しく言った。「しっかりお考えになって決断されましたか?名前を変えると、銀行口座や電話、学歴証明書など、すべて変更が必要になります。手間がかかりますし、それに本来の名前も素敵に見えますよ」「ちゃんと考えました。お願いします」彦辰の態度が固いのを見て、担当者は仕方なく頷いた。「では、こちらの用紙にご記入ください」指示通り記入していき、【新しい名前】の欄で一瞬止まった。少し考えた後、一文字ずつ丁寧に書き込む。『栖原遥之(すはら はるゆき)』遥之——遠く離れるという意味だ。これから先は凛と、二人の思い出すべてから完全に離れるのだ。名前を変えた後、すぐにパスポートを申請し、I国行きのチケットを購入した。【購入成功】と画面に出るのを見て、思わずほっと息を吐いた。ついに、終わらせられるのだ。縁を切ることも、案外難しくない。家に戻ると、室内から凛の怒声が聞こえてきた。「見つからないなら探し続けなさい!もし彦辰に何かあったら、あなたたちに責任を取ってもらうから!」屋敷内は恐ろしいほど静まり
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第6話

「翔が公園でボートを漕ごうって誘ってきたんだ。俺、水が怖いから行きたくないって言ったら、あいつ、わざわざ救援船まで手配してくれたんだよ」凛は笑みを浮かべた。「公園でボートなんて、何が楽しいの?今度は私があなたをヨットに乗せて、海に連れて行ってあげるわ」彦辰はいつものように淡々と「うん」とだけ答えた。——もう、「今度」なんてない。彼らが十年かけて築いた絆は、今年の結婚記念日で終わりを迎える。「疲れた。もう寝る」「一緒に……」「いい。最近よく眠れないからさ、一人でゲストルームで寝たいんだ」彦辰の背中が遠ざかっていくのを見つめながら、凛の胸に、言いようのない不安が込み上げてきた。ここ数日の彦辰は、どこかおかしい。まるで何もかもに興味を失ってしまったみたいに、冷たくなっている——凛に対してもだ。もしかして、今日、あの子たちが突然現れたことで、何かに気づいたのだろうか?凛は電話をかけた。すると、すぐに相手が出た。「凛……」「彬人、呼び方に気をつけて」電話の向こうで男が小さくため息をつき、言い直した。「江川社長」「今後は外では気をつけて。あんたと子どもたちのことは、まだ公にできないんだから」「この五年間、ずっと隠れて暮らしてきた。僕だって、晒すつもりなんてなかったさ」「だったら、どうして今日、子どもたちを連れて彦辰の前に現れたの?あの人に会わせるなって言ったはずよ。子どもたちにも!」「違うんだ、僕じゃない。子どもたちがどうしても『ママに会いたい』って泣いていたんだ。凛、君が僕のことをどう思おうと構わない。でも、有辰と美波は君の実の子だ。母親の愛情がなければ、子どもたちは——」子どもの話になると、凛は何も言えなくなる。「もう一度言うわ。彦辰にあなたたち三人の存在を絶対に知られないように。……他のことなら、できるだけ叶えてあげるから」「わかった」彬人は沈んだ声で尋ねた。「でも……少しは僕にも会ってくれないか?ここ何年も、名もなく、影のように生きてきた。子どもたちだけじゃない、僕だって苦しいんだ」「時間ができたら、考えるわ」凛はため息をつき、言葉を添えた。「子どもたちの荷物、ちゃんと準備しておいて。A市は風が強いから、風邪をひかせないように」「わかってる。もう全部準備し
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第7話

五月五日——凛は、去っていった。彼女はあらかじめ彦辰に言っていた。「今回はとても忙しくなるから、連絡があまりできないかもしれないわ」と。しかし、彼女に関する知らせは、むしろいつもより多かった。すべて、彬人から送られてきたものだ。写真も、動画もだ。凛があの男の息子を連れてダイビングをしている映像。あの男の娘を抱きかかえながら花火を見上げている写真。子どもたちを寝かしつける姿。ご飯を食べさせている姿。【彼女は本当にいい母親だ。子どもの食事も服も全部、自分で世話してる。僕の出る幕なんてないんだ】【子どもたちはママと一緒で、どれだけ幸せか。君は、あの子たちにまた「母親のいない日々」を過ごさせたいのか?】【そうだ、凛は子どもたちに約束したよ。今度はA市だけじゃなく、島を一周する旅行に連れて行くって】【凛が僕に買ってくれた新しい指輪だ、どうだ?】添付された写真には、あいつの左手が写っていた。その薬指に輝くのは、彦辰がかつて宝飾店で選んだ、あの男性用リングだった。スマホをスクロールし、さっきの写真——凛が子どもにご飯を食べさせている——を見つけた。彼女の右手の薬指には、彦辰との結婚指輪ではなく、彬人とおそろいの女性用リングが光っていた。そのとき、電話が鳴った。発信者は凛だ。「彦辰、今ちょうど会議が終わったの。すぐに電話したのよ。家は大丈夫?」スマホの画面に並ぶ写真を見つめたまま、静かに答えた。「大丈夫」「こっちはまだ仕事が片付かなくて、少し帰るのが遅くなりそう」——島を回る旅行、だろう。短く「うん」とだけ返した。「でもね、結婚記念日、忘れてないの!必ず帰って一緒に過ごすから。言ったでしょ?一緒に海に出て月を見ようって。あなたのプレゼントも、そのとき自分の手で開けて」その時、電話の向こうから幼い声が聞こえた。「ママ〜」凛はすぐに電話を遮った。「彦辰、ごめん、今ちょっと忙しいの。ちゃんとご飯食べて、体に気をつけて。帰ったら話そう」プツッ——プー、プー、プー。通話が途切れる。彼女は切った。だが、彦辰は少しも心配していなかった。どうせその後の出来事は、あの男が親切に知らせてくれるから。案の定、数分後には新しい動画が届いた。「ママ、僕のお誕生日
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第8話

「彦辰?彦辰、聞いてる?」電話の向こうからは、荒れ狂う海風の音だけが聞こえ、彦辰の声はすっかりかき消されていた。凛はかけ直そうとしたが、その前に別の電話が入ってきた。電話の向こうで、彬人の声が切羽詰まっていた。「凛!早く病院に来て!子どもたちが大変だ!」凛は一瞬、言葉を失った。「子どもたちなら、タクシーで家に帰るように言っておいたじゃない。何があったの?」「来て見ればわかる!」電話の向こうでは、子どもたちの泣き声と、ほかの雑音が入り混じっていた。凛は歯を食いしばり、駐車場へ向かいながら再び彦辰に電話をかけた。しかし何度かけても、機械的な声が繰り返すだけだった。「おかけになった電話は電源が入っていないか、電波の届かない場所にあります。ピー と言う発信音の後、お名前とご用件をお願いします」「彦辰、メッセージを聞いたらすぐに電話して。心配してるの」焦燥でかすれた声で言い残すと、もう一度録音ボタンを押した。「彦辰、会社でちょっとトラブルがあったの。先に会社へ戻ってから、あなたのところへ行くわ」彦辰は大人だ。けれど、子どもたちはまだ幼い。放っておくことなんて、できるはずがなかった。凛はアクセルを踏み込み、病院へと車を走らせた。胸の奥で鼓動が荒れ狂い、遅れたら二度と子どもたちに会えないのではという不安が頭を支配する。病院のロビーに駆け込むと、エレベーターはすべて上昇中だった。凛は迷わず非常階段を駆け上がった。胸が激しく上下し、最悪の光景ばかりが脳裏をよぎる。病室の扉を開けた瞬間、ようやくほっとした。長く息を吐き、片手で壁を支えながら、もう片方の手をだらりと下げた。目の前に広がった光景に、言葉を失った。この時、彬人は笑顔で、二人の子どもとベッドの上でゲームをしていたのだ。さっきの電話で言っていた「交通事故」「輸血が必要」——そのどれもが嘘のようだった。小さな個室には、三人の笑い声が満ちていた。子どもたちが無事なのはもちろん喜ばしい。けれど彦辰の顔が脳裏に浮かぶと、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。凛はドアをノックし、かすれた声で言った。「彬人、ちょっと出てきて」彬人は驚いたように顔を上げ、うれしそうに言った。「凛、やっと来たね。子どもたち、ずっと君
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第9話

彬人はますます不満げだったが、それでも一歩引いて言った。「わかってる、君はあいつと一緒にいたいんだろう?なら無理に引き止めたりはしない。ただ、子どもたちの様子を見て、母親が心配しているってことを伝えてくれれば十分だ。僕のことは……そんな贅沢は望まないから」「まあ、来たんだし。彦辰はきっと今私に怒ってるだろうし……気持ちが落ち着いたら、何かお土産でも持って行って償うことにするわ」凛は眉間を揉みほぐしながら、自分なりの落とし所を探した。彼のそばにいられないことは、すでに彦辰の前で口にしてしまった。後悔して月を一緒に見たいと思っても、もう間に合わない。それなら子どもたちと過ごすほうがいい。この五年間、彼女はずっと用心深く、彦辰に気づかれないよう細心の注意を払ってきた。そろそろ肩の力を抜くときだ。彬人はその隙に彼女の肩を抱き、病室へと歩みながら耳元で囁いた。「二人とも、ママに会いたくてしょうがなかったようだ。僕一人で二人を見るのは大変だったけど、君がいてくれると随分助かる。子どもたちもママに甘えられる……」その言葉を聞いた凛は、張り詰めていた表情が少し和らいだ。彬人が話し終わる前に、二人の子どもは争うようにして凛のそばに駆け寄った。疲れ切った眉間のしわは一瞬で消え、子どもたちの前では優しい母親の顔に戻った。「あーちゃん、みーちゃん、パパの言うことをちゃんと聞いた?」「もちろんだよ」有辰は、以前彬人に教わった通りに答えながら尋ねた。「ママ、幼稚園行かなくてもいい?パパは、病気が治ったらまた行くって言ってたけど」妹の美波も、甘えた声で続ける。「私もお兄ちゃんも、ママと遊びたいの!」凛は二人の無邪気な顔と母親を求める目を見つめ、思わず心が揺れた。彼女が愛しているのはもちろん彦辰であり、命をかけても惜しくない存在だ。だが、彼との結婚生活はどこも悪いところはなかったが、むしろ刺激に欠ける。彬人は顔立ちは特別整ってはいないが、度胸があり、遊び心がある。しかも、彼は彼女の幼馴染だ。毎日一緒に過ごしているので、何かをするのも自然で都合が良かった。凛はため息をつき、子どもたちの頭を優しく撫でて慰めた。「よしよし、ママが戻ってきたでしょ?元気になったら、ママがいっぱい遊ばせてあげる。ただ、幼稚園はちゃんと行
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第10話

彼女はもうひとつの家のことを頭の隅から追い払い、優しい母親の顔に切り替えると、子どもたちに優しく尋ねた。「ママは約束するわ。この数日はずっとそばにいる。ねえ、欲しいものはある?」有辰と美波は、彬人から教わった「作戦」がうまくいったのを悟ると、すぐさま左右から凛の脚にしがみつき、甘えるようにせがんだ。「ママ、遊園地に連れてって!」凛は困ったように目を伏せた。「まだ風邪が治ってないよね。ぶり返したら大変だから、治ってからね」彼女は知り合いに見られるのを恐れて、子どもたちを人の多い場所へ連れて行くことは滅多になかった。すると、有辰が彼女のズボンをぎゅっと握りしめて、寂しそうに言った。「わかった。ママはもっと大事な用事があるんだもんね」美波の目には今にも涙があふれそうだ。「ママ、お願い……パパと一緒に遊園地に行こうよ。ほかのお友だちはみんな、遊園地で家族の写真を撮ってるの」子どもたちの言葉は、凛の胸の奥に刺さる。彼女の心は一瞬で崩れ落ち、拒む言葉などもう出てこない。もしできることなら——彼女だって、子どもたちを「私生児」と呼ばれる境遇に置きたくはない。実の母親に会うのもこそこそと隠れて。そんな生き方をさせたくはない。だが、彦辰をこれ以上裏切ることはできない。それが現実だった。子どもたちへの罪悪感が再び心を覆い、彼女はついに折れた。「……わかった。ママがパパと一緒に連れて行ってあげる。でも約束よ。いい子にして、走り回っちゃだめよ」子どもたちの泣き声に乗じて、自分も「同席」を許された彬人の顔には、抑えきれない喜色が浮かんだ。四人は一緒に病院を出て、凛がハンドルを握り、遊園地へと車を走らせた。園内に入るとさらに道中は笑い声と歓声に包まれた。誰が見ても、本当の家族だった。最初こそ凛は彬人との距離を保とうと意識していたが、子どもたちがあまりに楽しそうにしているのを見るうちに、次第にその警戒も薄れていく。海賊船のアトラクションを降りた瞬間、列に並んでいた若者たちの一行とすれ違った。他の人は気にせず道を譲ったが、凛だけがその場で凍りついた。彼女はとっさに顔を背け、遠くを見て、足を止め、後方に下がる。誰かに隠れるように。友人たちと一緒に来ていた翔は最初、この家族連れに注意を払っていなかっ
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