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第7話

Author: ゴブリン
五月五日——凛は、去っていった。

彼女はあらかじめ彦辰に言っていた。

「今回はとても忙しくなるから、連絡があまりできないかもしれないわ」と。

しかし、彼女に関する知らせは、むしろいつもより多かった。

すべて、彬人から送られてきたものだ。

写真も、動画もだ。

凛があの男の息子を連れてダイビングをしている映像。

あの男の娘を抱きかかえながら花火を見上げている写真。

子どもたちを寝かしつける姿。

ご飯を食べさせている姿。

【彼女は本当にいい母親だ。子どもの食事も服も全部、自分で世話してる。僕の出る幕なんてないんだ】

【子どもたちはママと一緒で、どれだけ幸せか。君は、あの子たちにまた「母親のいない日々」を過ごさせたいのか?】

【そうだ、凛は子どもたちに約束したよ。今度はA市だけじゃなく、島を一周する旅行に連れて行くって】

【凛が僕に買ってくれた新しい指輪だ、どうだ?】

添付された写真には、あいつの左手が写っていた。

その薬指に輝くのは、彦辰がかつて宝飾店で選んだ、あの男性用リングだった。

スマホをスクロールし、さっきの写真——凛が子どもにご飯を食べさせている——を見つけた。

彼女の右手の薬指には、彦辰との結婚指輪ではなく、彬人とおそろいの女性用リングが光っていた。

そのとき、電話が鳴った。

発信者は凛だ。

「彦辰、今ちょうど会議が終わったの。すぐに電話したのよ。家は大丈夫?」

スマホの画面に並ぶ写真を見つめたまま、静かに答えた。

「大丈夫」

「こっちはまだ仕事が片付かなくて、少し帰るのが遅くなりそう」

——島を回る旅行、だろう。

短く「うん」とだけ返した。

「でもね、結婚記念日、忘れてないの!必ず帰って一緒に過ごすから。言ったでしょ?一緒に海に出て月を見ようって。あなたのプレゼントも、そのとき自分の手で開けて」

その時、電話の向こうから幼い声が聞こえた。

「ママ〜」

凛はすぐに電話を遮った。

「彦辰、ごめん、今ちょっと忙しいの。ちゃんとご飯食べて、体に気をつけて。帰ったら話そう」

プツッ——プー、プー、プー。

通話が途切れる。

彼女は切った。

だが、彦辰は少しも心配していなかった。

どうせその後の出来事は、あの男が親切に知らせてくれるから。

案の定、数分後には新しい動画が届いた。

「ママ、僕のお誕生日の願いはね、妹がもう一人ほしいの!」

「いもうとー!いもうとー!」と桐原の娘が手を叩いて叫ぶ。

凛は笑みを浮かべ、子どもたちを見つめて言った。

「じゃあ、ママ、頑張らなきゃ」

そして、彼女はあいつの方を見た。

カメラは、彼女の目尻の柔らかい笑みを映し出す。

「ねえ、パパ、あなたもそう思うでしょ?」

あの男がくすくすと笑った。

「僕も、一緒に頑張らなきゃ」

四人の笑い声が重なり、映像は幸せそうに揺れていた。

彦辰は、もう考えないことにした。

彬人の身体が回復したのかどうかなんて、どうでもよかった。

自然妊娠でも、体外受精でも——彼らが親であるという事実は変わらない。

スマホを閉じ、凛からもらった贈り物や、かつての手紙をすべて持って屋上へ向かった。

それに火をつけ、燃やした。

十年分の思い出は多すぎだ。

夜通し燃やして、ようやくすべて灰になった。

まるで天も味方してくれるかのように、夜明け前、H市に大雨が降った。

残った灰は、すべて流され、跡形もなく消えた。

そのあと——彦辰は倒れた。

一晩中冷たい風にさらされ、雨にも打たれ、高熱を出したのだ。

意識が遠のく中、かすかに使用人たちの声が聞こえた。

「旦那様、こんなに熱が高いなんて……江川社長に電話したほうがいいんじゃ?」

「そうだ、江川社長は旦那様のこと、あんなに大事にしてたんだから、きっと心配する」

「電話するんじゃないよ!」

鋭い声が響いた。——義母だった。

「凛はいま子どもたちと遊んでいるわ。誰も邪魔しないで!」

「でも旦那様の病気が重いですし、もし何かあったら……江川社長が帰ってきた時、どう説明したらいいんでしょうか?」

「あの男が死んだらちょうどいいわ。そうすれば、私の二人の孫を堂々と家に呼び戻せるじゃないの」

彦辰はもう声を出せなかった。

ただ、一筋の涙が、頬を伝って落ちた。

——十五日後。

熱は少し下がったが、彼の体はまだ虚ろだ。

翔がやってきて、心配そうに尋ねた。

「海に出るなんて、リスクが高すぎる。救助船は用意したけど……今の状態で本当に大丈夫か?」

彦辰は歯を食いしばり、低く答える。

「運転してくれ」

翔が車を走らせ、海辺へ向かった。

岸には、一艘のヨットが停まっていた。

夜が訪れ、空には細い月が浮かんでいる。

「指定の地点に着いたら、ヨットの船体を破って沈め。落水したらすぐに救助船が出るよう手配する」

彦辰はうなずいた。

「わかった」

海風が強く、足元が揺れる。

翔は不安げに言う。

「やっぱり別の方法を考えよう? 今のお前を見てると……」

「今日で終わりにする。

彼女から完全に離れたいんだ。もう半月も待った、これ以上は無理だ」

ヨットのエンジンが唸り、海の奥へと進み始める。

そのとき、電話が鳴った。

画面には——凛の名前。

彦辰はそれに出た。

「なんだ?」

「彦辰!ごめんなさい、帰るのが遅くなっちゃった。今、飛行機を降りたばかりで。あなた、今どこにいるの?」

「俺はね」空を見上げて、そこには細い月が浮かんでいた。

「ヨットの上で、月を見てる」

「今一人?待ってて、すぐ港に——」

「もういい……凛、さようならだ」

そう言って、彦辰は手にしていたスマホを高く投げた。

スマホは、音もなく海へと沈んでいった——
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