Semua Bab 禁区の残穢: Bab 21 - Bab 30

55 Bab

第二十一話:廻 慧①

 観月のアパートを出たのは、陽光がアスファルトを白く焼き尽くす、正午少し前のことだった。溶けかけた濃い影の輪郭が、陽炎のように揺らめいている。燈の日記を収めたリュックのストラップが、汗ばんだ肩の皮膚にじっとりと食い込む。それは単なる物理的な重さではなかった。ページに染み込んだ彼の罪悪感が、湿った汚泥のように静の背中に張り付き、思考の健全な部分を少しずつ腐らせていく。胃の底では、消化しきれない鉛の塊が冷たく居座り続けていた。◇ 大学へ向かう足を止めたのは、錆びた鉄の校門が見えてきた時だった。 背後から、足音がする。 自分のものではない。観月のような、気配そのものを消し去るような歩みではない。かといって、燈の弾むような軽やかさとも違う。 カツン、……カツン、……。 アスファルトを規則正しく穿つ、硬質な音。逃げ場がないことを宣告するかのように、一切の感情を排した冷たいリズムが、じりじりと距離を詰めてくる。 振り返る。心臓のあたりが、嫌な音を立てて軋んだ。 そこに立っていたのは、見覚えのない女だった。三十代前半だろうか。陽光を弾くことなく、すべてを吸い込んでしまうような黒いショートボブ。その髪は、彼女の鋭い三白眼を不気味なほどに際立たせていた。体にぴったりと張り付いた黒いパンツスーツは、まるで第二の皮膚のように隙がない。首から下げられたICレコーダーが、鈍い光を放っている。 その全身から発せられる「気配」は、観月の放つ爬虫類めいた冷たさとは異質だった。乾いた香水の匂いの奥に、目的のためならあらゆるものを焼き尽くす、熱を持った冷酷さが渦巻いている。獲物を値踏みする視線が、静の頭のてっぺんから爪先までを、無遠慮に検分していく。皮膚と肉の間を、冷たい虫が這い回るような感覚があった。「氷鉋静さん、ですね」 女の声は、その見た目と同じく、一切の響きを含んでいなかった。事実を確認するためだけに存在する、乾ききった音。 静は答えなかった。ただ、眼鏡の奥で揺れる視界のまま、相手を見つめ返す。この女から流れ込んでくる感情の澱みは、純粋な悪意で
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-09
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第二十二話:廻 慧②

「朱鷺くんのことで、もう一人、重要な人物がいますよね」 慧の言葉が、じりじりと鳴く蝉の声を切り裂いた。静は喉の奥で、乾いた空気を嚥下する。その名前を、この女の口から聞きたくなかった。「観月斎。大学院の先輩だとか。郷土史研究会、でしたっけ。ほとんど活動実態のない、彼の私的なサークル」 慧の口調は、まるで世界から正しい音を奪い、歪んだ金属音だけを響かせるようだった。事実だけを冷たく積み重ね、逃げ場のない檻を組み立てていく。その「正しさ」が、静の剥き出しの神経をやすりで削るように逆撫でした。違う。何もかも、根本的に間違っている。だが、どこから説明すればいい? 霧の話をするか。影の話をするか。その途端、自分は狂人として「保護」されるのだろう。「あの人には近づかない方がいい。大学内でも、彼の周りではよくない噂が絶えない」「……噂、ですか」「ええ。彼に心酔した学生が、いつの間にか大学に来なくなる。朱鷺くんが初めてじゃない。もちろん、警察が動くような騒ぎにはならない。皆、自主的に辞めていった、という形になっているから。実に巧妙だわ」 慧は、確信に満ちた目で静を射抜く。彼女の世界では、すべてのピースが完璧に組み上がっていた。観月斎というカリスマ的なカルトの主宰者。朱鷺燈という、それに誑かされた犠牲者。何一つ超常的な要素を必要としない、完璧で、陳腐な「事件」の構図。「あなたは、彼に何を吹き込まれたんですか? 朱鷺くんは、特別な儀式のためにどこかへ行った、とか。修行をしている、とか」 声に、あからさまな嘲りが滲む。慧の「正論」が、粘着質な澱みとなって静に流れ込んでくる。それは、自分の信じる正義のためならば、他人の心を土足で踏み荒らすことも厭わない、独善の悪臭だった。胃の底の鉛が、熱を帯びて食道を這い上がってくる。静は唇を強く噛み締めた。「違う……あなたは、何も分かってない」「分かりたいから、こうして話を聞いているんです」 慧は、わずかに声のトーンを和らげた。同情するような、保護しようとするような、巧妙に仕組まれた罠。「氷鉋さん、あなたは被害者だ。観月に騙されている。目を覚まし
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-10
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第二十三話:影が遅れる

 観月 斎と別れた後、氷鉋 静は、まるで汚泥の中を泳ぎ切ったかのような、全身を重く引きずる疲労を感じていた。地下書庫で浴びた濃密な「澱み」は、服を通り越し、皮膚の裏側にまで染みついている。鼻腔の奥には、今もあの湿った土とカビの匂いが、幻影のようにこびりついていた。 燈の日記に綴られていた、生々しい「咎」。それを「愚かなサンプル」と断じた斎の、体温を感じさせない声。二つの現実が、静の思考の中で混じり合い、じくじくと神経を灼いていた。 次の講義棟へ向かうため、人通りのない渡り廊下を歩く。コンクリート打ちっ放しの壁と、外光を取り入れるための一面ガラス窓が続く、無機質な空間だ。コツ、コツ、と自分の革靴の踵が打つ音だけが、やけに大きく響いている。 空は咎凪市特有の、湿気を含んだ低い雲に覆われ、廊下は昼間だというのに薄暗い。 ふと、静はガラス窓に映る自分の姿に目を留めた。 彩度の低いオリーブ色の古着。青白い肌。アンティークシルバーの丸眼鏡の奥で、疲弊を隠せないでいる瞳。見慣れた、色のない自分だ。 その姿から目をそらし、再び一歩、踏み出そうとした、瞬間。 ガラスの中の「氷鉋静」が、動かなかった。 いや、正確には――現実の静が右足を踏み出した、そのコンマ数秒後、まるで躊躇うかのように、ガラスの中の自分が「遅れて」右足を踏み出した。 喉の奥が、乾いた音を立てて引き攣る。踏み出した足が、まるで床に新しく流し込まれたコンクリートに囚われたかのように、その場で凍り付いた。 違う。 見間違いだ。 地下書庫の「残穢」に触れたせいで、感覚が狂っているだけだ。 静は、全身の血が逆流するような悪寒を振り払うように、首を振った。そして、確かめるために、もう一度、恐る恐るとガラス窓の前で左足を上げてみる。 ガラスの中の静も、同時に左足を上げた。 右手を振る。ガラスの中の自分も、同時に右手を振る。 ……正常だ。 強張った肩から、安堵ともつかない、冷たい息が漏れた。「……疲れてる」 誰に言うでもなく呟き
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-11
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第二十四話:歪む音

 鏡での一件以来、氷鉋 静は、自分の五感が信じられなくなっていた。 視覚はすでに「ズレ」ている。あの夜、自室の鏡に映った自分は、〇・五秒遅れて手を振り返した。現実と虚像の同期が、決定的に破壊された。 ならば、他の感覚は。聴覚は、嗅覚は、肌の感触は、まだ「こちら側」に繋ぎ止められているのだろうか。 恐怖から逃れたい一心で、静は友人・宇津木 深琴(うつぎ みこと)を大学近くのカフェに呼び出していた。 彼女の「普通」の空気に触れれば、この狂った感覚が正常に戻るかもしれない。深琴の、太陽の下にあるような屈託のなさが、今は唯一の救いだった。 窓際の席。午後の柔らかな光が、テーブルに置かれた二つのコーヒーカップから淡い湯気を立ち上らせている。店内には、豆を焙煎する香ばしい匂いと、スチームミルクの焦げた甘い香りが混じり合い、穏やかなボサノバの旋律が流れている。 食器の触れ合う乾いた音。学生たちの、単位や恋愛についての無害な雑談。 静は、硬い木製の椅子の背もたれに、恐る恐る体重を預けた。伝わってくる硬質な感触。テーブル越しに置かれた深琴の、パステルイエローのニットの柔らかな質感。 日常だ。 これこそが、静が切望していた「澱み」のない世界のはずだった。指先で触れたカップの熱だけが、自分がまだここに存在しているという、か細い証拠だった。「静ちゃん、本当に大丈夫? すごい顔色だよ。昨日、眠れなかったんでしょ」 深琴が、心から心配そうに眉を寄せて覗き込んでくる。その温かい声が、ささくれ立った静の神経をわずかに解した。「ううん、大丈夫。ちょっと、考え事してて……」 静がそう答えようとした、まさにその瞬間。 世界が、水に浸かった。 ブォン、と耳の奥で何かが膨張するような圧迫感と共に、あらゆる音がその輪郭を失う。 深琴の声が。「――かんが、え、ごとぉ……?」 まるで、再生速度を間違えた古いカセットテープのように、彼女の声が低く、間延びした。一音一音が重い水を含み、ぶくぶくと泡を立てながら静の鼓膜に叩きつけら
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-12
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第二十五話:斎の「蔵」①

 カフェの雑踏からどうやって逃げ出したのか、記憶がひどく曖昧だった。耳の奥で、歪んだノイズに混じって「みつけて」という燈の声が何度も反響する。世界が水中に沈んだようにぐにゃりと歪み、視界に入るすべて(通行人の顔、信号の光、ビルの輪郭)が意味のない模様のように溶け合っていく。立っているのか座っているのかさえ覚束ない。 震える指先がスマートフォンの冷たさに触れ、通話履歴の一番上にある名前を無意識にタップしたことだけは、かろうじて覚えていた。◇ 斎は、大学の最寄り駅前で待っていた。 季節感のない薄手の黒いチェスターコートを羽織った姿は、行き交う人々の喧しすぎるほどの喧騒から、そこだけが真空のように切り取られたように、不自然なほど静かだった。 彼は、血の気の失せた静の顔と、焦点の定まらない視線を見ても、その爬虫類を思わせる瞳の温度を一切変えない。「……限界か」 その一言だけを待っていたかのように、張り詰めていた何かが切れ、静の膝から力が抜けた。アスファルトに叩きつけられる寸前、冷たい指先が強く腕を掴む。斎の体温の低さだけが、今、唯一触れられる現実だった。 斎は無言でタクシーを拾い、抵抗する力もない静を後部座席に押し込むと、運転手に短く行き先を告げた。「忌丘(いみがおか)まで」 咎凪市(とがなぎし)の郊外。静が住むアパートや大学とは反対方向に位置する、丘陵地帯の古い総称。 車が古い坂道を登るにつれて、窓の外の景色が馴染みのある市街地から、鬱蒼とした木々が目立つ寂れた風景へと変わっていく。それと同期するように、静が感じ取る「澱み」の質が明らかに変わっていく。 大学の講義室で感じる他人の悪意や、地下書庫に満ちていた湿った土とカビの匂いに混じった燈の「残穢」は、まだ個人の感情に根差した、粘ついた残留物だった。 だが、忌丘と呼ばれるこの土地に近づくにつれ、空気そのものが物理的な重さを持って肌に圧し掛かってくる。窓を閉め切っているはずの車内にまで、外気がじわりと染み込んでくるようだ。呼吸が浅くなり、指先から急速に熱が奪われていく。 
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-13
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第二十六話:斎の「蔵」②

 屋敷の中は、外観以上に「澱み」が凝縮されていた。 外の光がほとんど届かない長い板張りの廊下は、歩くたびに床板が鈍く軋む。空気は氷水のように冷え切っており、静が吐く息は白く濁った。肌にまとわりつく湿気は、地下書庫のそれとは異質だった。カビや土の匂いではなく、もっと古い、何十年も開けられることのなかった箪笥の奥底のような、乾いた埃(ほこり)の匂い。 そして、その埃の匂いに混じって、静の鼻腔を鋭く刺す香りがあった。(線香……?) それも、葬儀で一度に大量に焚かれるような、むせ返るほど濃密な線香の香りだ。この屋敷には、常に死者の気配が満ちている。 静は、一歩進むごとに、見えない壁に押し返されるような強烈な圧力を感じていた。頭蓋骨の内側を鈍器で何度も殴られているような痛みが走り、視界が白く点滅する。「観月、先輩……私、もう……」「我慢しろ。ここで吐いても、誰も掃除はしない」 斎は静の腕を掴んだまま、一切の躊躇なく暗い廊下の奥へと進んでいく。彼はこの圧力を「日常」として呼吸している。この澱みを「空気」として吸い込んでいる。 その事実が、静には怪異そのものよりも恐ろしかった。 屋敷の最も奥まった場所。中庭に面しているはずなのに、木々が生い茂りすぎて陽光が一切差し込まない、突き当たりの空間。 そこに、それはあった。 屋敷の壁にめり込むようにして建つ、異様に白い土蔵。 窓は一つもなく、分厚い漆喰(しっくい)で塗り固められた壁は、周囲の古びた木造家屋とは不釣り合いなほど、病的な白さを保っている。唯一の入り口である重厚な観音開きの扉だけが、錆びた鉄色をしていた。「『忌み蔵(いみぐら)』だ」 斎が呟く。「表向きは古文書庫だが、その実態は……お前なら、扉越しでも分かるだろう」 分かる。分かりたくなくても、分かってしまう。 扉の向こう側で、何かが蠢いている。 それは生き物ではな
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-14
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第二十七話:ジャーナリストの追求

 忌み蔵から解放されても、あの場所に満ちていた「澱み」は、湿った外套のように肌にまとわりついて離れない。埃と、古い線香が腐ったような甘い匂いが、まだ鼻腔の奥にこびりついている。 自分の姿を映さず、無数の「黒い影」だけを蠢かせていた鏡。あの光景が網膜に焼き付いて、目の前の現実が、一枚薄い膜を隔てた向こう側にあるように感じられた。 観月家の屋敷林を抜けると、十一月の冷たい夜気が肌を刺した。高い黒塀に沿って公道へ続く石畳を下りる。遠くの街灯がぼんやりと路面を照らす中、斎は私の数歩先を、いつもと変わらない姿勢で歩いていた。黒いチェスターコートの裾が、彼の体温の低さを象徴するように静かに揺れている。「……あの、観月先輩」 声が、ひどく掠れた。私は無意識に左手の親指の爪を噛んでいた。蔵に入る前よりも、確実に「汚染」されている。「あの鏡は、いったい」「観月家に集められた『呪物』の一つだ。お守りや魔除けと呼ばれるものが、その実、最も強い『穢れ』の集積地であることはよくある。あれは、持ち主の『影』を食い破って取り替える鏡だ」 淡々とした説明は、私の恐怖を和らげるどころか、それが「日常」であるかのように突き放す。「君の感受性が、鏡に封じられていた『影』の残滓と共鳴した。それだけのことだ。君の影が食われたわけじゃない」「……」 食われてはいない。だが、あの鏡は確かに私という存在を「認識」した。 思考がまとまらない。こめかみの奥が鈍く痛む。一刻も早く、この重苦しい空気から逃れて、一人になりたかった。◇ 屋敷の敷地から、ようやく外の公道へ出ようとした、その時だった。 生垣の影から、まるで待ち伏せていたかのように一つの人影が滑り出て、私たちの前に立ちはだかった。 黒いパンツスーツ。切り揃えられたショートボブ。相手を値踏みするような、鋭い三白眼。「――廻、慧」 斎が、初めて感情らしいもの――冷たい苛立ちを声に滲ませて、その名を呟いた。 ジャーナリストの
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-15
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第二十八話:深琴の「業」

 ジャーナリストの女が突きつけた「狂人」という烙印は、観月 斎の「ノイズだ」という一言で遮断された。 だが、遮断されただけで、消えたわけではない。 廻 慧(めぐり けい)の「正義」は、私を社会的に抹殺しようとする、冷たく合理的な現実の脅威だ。観月 斎(みづき いつき)の「合理」は、私を便利な道具(センサー)として利用する、怪異よりもなお底知れない非人間的な深淵だ。 怪異と現実。その両方から、分厚い壁で挟まれ、圧し潰されそうだった。私の居場所はどこにもない。 爪を噛む。自室のベッドの端。冷えたフローリングに触れた足先が、感覚を失っていく。強く噛みすぎた親指の皮膚が裂け、微かな鉄の味が滲んだ。痛みが、今の私がまだここにいるという唯一のか細い証明だった。 逃げたい。 息が詰まる。あの忌み蔵の、腐った線香と埃が混じり合った「澱み」の匂いが、まだ肺にこびりついている。燈が消えた、あのどうしようもない喪失感が、胃の腑に冷たい鉛となって沈んでいる。 ――深琴ちゃん。 その名前が、暗い水底から見上げた、最後の救命ボートのように浮かんだ。宇津木 深琴(うつぎ みこと)。いつも着ているパステルカラーの柔らかなニット、ふわりとしたパーマ、穏やかな笑顔。彼女こそが、私の知る「日常」そのものだった。 彼女の体温に触れれば、彼女の「普通」という清浄な空気に触れれば、まだ、戻れるかもしれない。この泥濘から、足を抜くことができるかもしれない。◇ 翌日、私は講義室の喧騒の中に、その姿を探した。ざわめき、ノートをめくる乾いた音、白すぎる蛍光灯の光。楽しそうに笑い合うグループの声が、まるで水中で聞いているかのように、意味のないノイズとなって鼓膜を叩く。それら全てが、昨日までの世界とはまるで違う、薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように感じられる。 彼女の姿を見つけた瞬間、安堵よりも先に、鋭い針のような罪悪感が私を襲った。 近づいてはいけない、と全身の細胞が警鐘を鳴らす。 今の私は、「澱み」に汚染されている。観月邸のあの蔵の、濃密な「穢れ」を浴びすぎた。この得体の知れない恐怖を、彼
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-16
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第二十九話:カゲオクリのルール

 宇津木深琴からの拒絶は、静にとって日常への最後の扉が閉ざされた音だった。「ごめん、私、あなたのこと……もうわからない」 その言葉をはなった際の、怯えと哀れみと、ほんの少しの嫌悪が混じった深琴の瞳が、瞼の裏に焼き付いている。もはや、静が「普通」の世界に戻れる可能性は、完全に断たれた。 友人という防波堤を失った静の「感受性」は、剥き出しの神経のように、大学に満ちる他人の些細な悪意や欺瞞を拾い上げ、そのたびに鋭い痛みとなって跳ね返った。 行き場は、もはや一つしかなかった。 旧館の階段を上がる。一歩ごとに、足首に冷たい泥がまとわりつくような重さを感じる。傾斜地に建てられたこの建物は、それ自体が「境界線」にまたがっているのだと、斎は言った。 郷土史研究会の分厚い木製のドアは、まるで古い棺が開くような軋んだ音を立てた。 埃と、カビと、そしてインクの古びた匂い。息を吸い込むと、肺がじっとりと重くなるような、ぞっとするほど濃密な「澱み」が渦巻いている。古い紙と思考が幾世代にもわたって堆積した、独特の気配だった。 観月斎は、部屋の中央に置かれた長テーブルで待っていた。まるで、静がここに来る時間を正確に知っていたかのように。「……深琴ちゃんに、避けられた」 弱々しくこぼれた静の言葉は、埃っぽい空気に吸い込まれて消えた。斎は陶器のような無表情を崩さず、ただ事実を肯定するように小さく頷いた。「だろうな。君は『あちら側』に触れすぎた。健常者は、本能的に『感染源』を避ける」「感染源……」 その非情な単語に、静の胃が冷たく縮こまる。「だが、都合がいい」 斎はテーブルに置かれた、黒い漆塗りの箱を示した。そこから滑るように取り出されたのは、分厚い和綴じの古文書だった。昨日、観月家の「忌み蔵」で見たものとはまた別の、さらに古く、禍々しい気配を放つ一冊だ。表紙には何も書かれていない。ただ、染みのように浮き出た黒い斑点が、まるで生きた皮膚病のように、じっとりと湿っているように見えた。「君の『感受性』が、あれに汚染され始めたおかげで、これを蔵から持ち出す『口実』ができた」 斎の長い指が、脆くなった和紙のページをめくる。乾いた、不快な摩擦音。「君が知りたがっていた、朱鷺 燈が実行した儀式だ。『咎捨(とがすて)』の、より古い……原型とでも言うべきものだ」 斎が指し示した
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-17
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第三十話:蒼龍寺の警告①

 アスファルトを蹴る最後の力が足りず、膝から砕けるように崩れ落ちる。強かに打ち付けたコンクリートの冷たさと硬さが、薄い布地越しにじわりと痛みを伝えてくる。 背後、開け放たれたアパートの自室の暗闇で、あの赤ん坊のようであり、老婆のようでもある甲高い笑い声が、まだ反響している。墓地の底から湧き上がるような、湿った土とカビの匂いが、開いたままの扉から濁流のように廊下へ溢れ出していた。 指が、自分の意志とは無関係に痙攣し、コートのポケットを探る。スマートフォンの冷たく硬い感触だけが、かろうじて正気への繋がりだった。画面ロックの解除が、指先の震えで三度失敗する。四度目。通話履歴の最上段。観月 斎。 耳に押し当てたデバイスから、無機質な呼び出し音が流れる。コール、一回。二回。(早く、早く、早く) 呼吸ができない。喉が狭窄し、酸素が肺に入ってこない。あの影が、暗闇で蠢いた影が、足首にまとわりついた感触が、まだ皮膚の上に残っている。『……何だ』 鼓膜に突き刺さったのは、一切の感情を排した、体温の欠如した斎の声だった。「あ……っ、ひ、」 声にならない。助けて、という言葉が、喘鳴となって喉に引っかかる。「かげ、が、……アパート、に、へや、で」 笑ってる。その単語を口にした瞬間、胃の腑に溜まった恐怖が汚物のように逆流し、酸っぱい胃液が喉を焼いた。『……息を吸え。状況を』「わかってる! あははって、土の、匂い、が!」 そこまで叫び、堰を切ったように嗚咽が漏れた。もう駄目だ。あれは、燈を連れて行ったものだ。そして今、私を捕まえに来た。ルールを理解したから? 燈の残穢に触れたから? どちらでもいい。あれは私を「見つけた」。 電話の向こうで、斎が小さく、まるで面倒な計算を終えたかのように息を吐く気配がした。苛立ちとも諦観ともつかない、いつもの冷たい呼気。『今どこだ』「ろ、うか……。アパ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-11-18
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