静は、その席を見つめた。 声は歪んでいなかった。寝起きに電話へ出た時のような、少し低い燈の声だった。食器の音も音楽も変わらず続いている。その中を、彼の声だけが、席と席の間を縫うように届いていた。 ガタン、と音がして、自分が椅子から立ち上がりかけていることに気づいた。 「え……?」 「静ちゃん!? どうしたの、急に立ち上がって!」 深琴が、レジへ向かいかけた足を止めている。 違う。 深琴には聞こえていない。 「誰か、呼んだ?」 静が尋ねると、深琴はレジの前で振り返った。 「私?」 静は首を振った。それ以上は、説明できなかった。 外へ出ると、ガラスに店内が映った。空だったはずの椅子の背に、黒い線が一本伸びている。人の腕に見えたが、車が通り、反射が動くと消えた。 「駅まで、一緒に行こうか」 深琴が訊いた。 「大丈夫。迎えに来てもらうから」 静は携帯を出した。斎の番号を選びながら、深琴へもう一度礼を言った。彼女はまだためらっていたが、通話がつながったのを見て、困ったら連絡して、と言った。 その声の背後で、燈がもう一度呼んだ。 『しずく』 静は返事をせず、自分の名を斎へ告げた。 斎は、大学の最寄り駅前で待っていた。 季節感のない薄手の黒いチェスターコートを羽織った姿は、行き交う人々の喧騒の中で、不自然なほど静かだった。黒いコートの裾だけが動かず、人波が近づいては脇へ逸れていく。その周囲にだけ、音の届かない薄い隙間があるように見えた。 静はその姿へ近づき、最後の数歩で膝から力が抜けた。斎が肘を支えた。指先の冷たさより、腕を持ち上げる力がはっきり伝わった。 「座れるか」 駅前のベンチに腰を下ろし、静は息を整えた。隣へ置かれた鞄から、パンの包みがはみ出していた。斎はそれを見たが、何も言わなかった。 昨夜の動画を見せた。斎の手の中では、画面は何も変わらなかった。 「今のところ、像を使って君へ触れている。窓や鏡そのものが、影になったわけじゃない」 斎は端末を返した。分かったようには頷けなかったが、静は受け取った。自分の目が正常だと保証されたわけでも、何もないと言われたわけでもない。 「俺の家に、外からの干渉を抑える部屋がある。そこで確かめたい」 静は頷いた。タクシーを拾った斎が先に行き先を
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