Semua Bab 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~: Bab 21 - Bab 30

56 Bab

第21話 忌丘へ

 静は、その席を見つめた。  声は歪んでいなかった。寝起きに電話へ出た時のような、少し低い燈の声だった。食器の音も音楽も変わらず続いている。その中を、彼の声だけが、席と席の間を縫うように届いていた。  ガタン、と音がして、自分が椅子から立ち上がりかけていることに気づいた。 「え……?」 「静ちゃん!? どうしたの、急に立ち上がって!」  深琴が、レジへ向かいかけた足を止めている。  違う。  深琴には聞こえていない。 「誰か、呼んだ?」  静が尋ねると、深琴はレジの前で振り返った。 「私?」  静は首を振った。それ以上は、説明できなかった。  外へ出ると、ガラスに店内が映った。空だったはずの椅子の背に、黒い線が一本伸びている。人の腕に見えたが、車が通り、反射が動くと消えた。 「駅まで、一緒に行こうか」  深琴が訊いた。 「大丈夫。迎えに来てもらうから」  静は携帯を出した。斎の番号を選びながら、深琴へもう一度礼を言った。彼女はまだためらっていたが、通話がつながったのを見て、困ったら連絡して、と言った。  その声の背後で、燈がもう一度呼んだ。 『しずく』  静は返事をせず、自分の名を斎へ告げた。  斎は、大学の最寄り駅前で待っていた。  季節感のない薄手の黒いチェスターコートを羽織った姿は、行き交う人々の喧騒の中で、不自然なほど静かだった。黒いコートの裾だけが動かず、人波が近づいては脇へ逸れていく。その周囲にだけ、音の届かない薄い隙間があるように見えた。  静はその姿へ近づき、最後の数歩で膝から力が抜けた。斎が肘を支えた。指先の冷たさより、腕を持ち上げる力がはっきり伝わった。 「座れるか」  駅前のベンチに腰を下ろし、静は息を整えた。隣へ置かれた鞄から、パンの包みがはみ出していた。斎はそれを見たが、何も言わなかった。  昨夜の動画を見せた。斎の手の中では、画面は何も変わらなかった。 「今のところ、像を使って君へ触れている。窓や鏡そのものが、影になったわけじゃない」  斎は端末を返した。分かったようには頷けなかったが、静は受け取った。自分の目が正常だと保証されたわけでも、何もないと言われたわけでもない。 「俺の家に、外からの干渉を抑える部屋がある。そこで確かめたい」  静は頷いた。タクシーを拾った斎が先に行き先を
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第22話 切れない境目

 タクシーが止まったのは、丘陵の中腹、真新しい住宅地から意図的に切り離されたような一角だった。  視界を遮る高い黒塀がどこまでも続き、その上から鬱蒼とした屋敷林が覆いかぶさっている。まだ陽が高い時間だというのに、その区画だけが周囲の光を吸い込んだように濃い影に沈んでいた。  門の前で車を降りると、屋敷の奥から乾いた匂いがした。斎は静を待たせず、母屋の玄関へ向かった。  庭の向こうに白い土蔵がある。漆喰の壁は、周りの木造の建物から浮いて見えた。窓がなく、扉の周囲だけが妙に黒い。そちらを見ると、静の歯の奥が微かに疼いた。 「蔵へは近づかなくていい」  斎が言った。 「土地から引き離せないものを、あそこへ封じてある。休む場所は別だ」  長い板張りの廊下は、歩くたびに床板が鈍く軋む。空気は氷水のように冷え切っており、靴を脱いだ足から熱が逃げた。肌にまとわりつく湿気は、地下書庫のそれとは異質だった。カビや土の匂いではなく、もっと古い、何十年も開けられることのなかった箪笥の奥底のような、乾いた埃(ほこり)の匂い。  通されたのは、中庭と反対側にある六畳の部屋だった。障子を閉めると、庭の匂いが薄くなった。四隅の柱に紙が貼ってある。床には何も置かれていない。  静は座布団へ膝をつき、初めて肩を落とした。自分がどれほど力を入れて歩いていたのか、脱いだ靴の中に残る足の形まで思い浮かぶようだった。  斎は湯を置き、一度部屋を出た。戻ってきた時、小さな包みを持っていた。  布の中から、手鏡が現れた。  黒い木枠に、短い柄がついている。鏡面は銀色というより、曇った鉛のようだった。縁に細い刻みがあり、指を滑らせれば切れそうに見えた。 「鏡へ触れるな。映るだけでいい」  静は膝へ両手を置いた。斎が鏡の角度を変えると、畳の上に、自分の顔が小さく見えた。その脇に、もう一つ黒い輪郭がある。 「……これが、燈ですか」 「燈に由来する残穢だ。本人がそこに入っていると決めるな」  斎は灯りの向きを変え、静の左手を上げさせた。鏡に映る手の端に、細い糸のようなものがついていた。 「何が触れているか、分かるか」  静は目を細めた。指先では何も感じない。けれど鏡を見ていると、知らない人間の焦りに似たものが、爪の付け根から伝わってきた。 「私が怖いのと、別に……急いでいる、感じ
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第23話 知っていた人

 静は湯呑みを持った。冷めかけていたが、掌にはまだ温かかった。  湯呑みの底に、葉の欠片が沈んでいた。茶ではなく湯のはずなのに、と思ってよく見ると、器の釉薬に小さな斑点があった。静は器を回した。斑点は動かず、その上を薄い湯の膜が滑った。 「これも、分けるんですか」  静が言うと、斎が眉を寄せた。 「私の怖さと、燈から来るものを。いつも、見分けなきゃいけないんですか」  斎は鏡を膝へ下ろした。 「いつも正しくできるとは思わない方がいい」  静の指が、湯呑みの縁で止まった。 「ただ、違うかもしれないと考える余地を残せ。苦しい時ほど、最初に浮かんだ説明へ全部を合わせたくなる」  燈が苦しいから、自分も苦しい。そう言えば、この冷たさには、知っている人の名前がつく。  湯呑みを持つ指は、鏡へ目を戻す前から震えていた。燈の痛みだと言い切れば、この震えを自分の怖さとして見ずに済む。逆に自分のせいだと決めてしまえば、どこから来るか分からないものを探さなくてよくなる。静は器を両手で支えた。温かいのに、指はまだ止まらなかった。  静は斑点から目を上げた。 「分からない時は、止めていいんですね」  斎は頷いた。  その頷きを忘れたくなくて、静は鏡へ目を戻す前に、もう一度斎の顔を見た。恐ろしいものを見ると、まず自分の怖がり方を疑ってしまう。今日だけで変われるとは思わなかった。膝へ置いた手はまだ強張っていたが、次に痛んだ時には、止めてほしいと言えるようにしておきたかった。  その後、二人は手順を確かめた。自分の名前を言う。今いる場所を見る。ほかから来た感覚を、自分の記憶として受け取らない。足を引く時は、灰で示された乾いた境目を越える。言葉にすると簡単なのに、鏡へ目を戻すとどれも難しくなった。 「燈が呼んでも、返事をしないんですか」 「君が聞いた声だけでは、誰が呼んでいるかは分からない」  静は頷けなかった。斎も頷かせようとはしなかった。  もう一度鏡を見た。自分の足首を掴んでいる指は、静が動く前から力を込めていた。◇ 観月家を出る頃には、空が暗くなっていた。  門までの石畳を、静は自分の足で歩いた。斎は半歩後ろにいた。転びそうになると手が出るが、歩けている間は触れない。保護室を出た途端に遠くの気配が戻ったものの、カフェでの音のずれは収まっていた。
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第24話 筆圧だけが残る

 斎が黙った。その間に静は顔を上げた。門の灯りが慧の髪を照らし、足元へ細い影を落としていた。 「知っていたんですか」  静が尋ねると、斎は初めてこちらを見た。 「手順を写した紙を持ち帰った。次に来た時、影へ記憶を移す方を試したのかと訊いた」 「何て、答えたんですか。燈は」 「冗談だ、と」  静は、食べかけのチーズケーキを思い出した。ただの昔話だって、と燈は笑った。その顔を、斎も見たのだろうか。 「それで、済ませたんですか」 「済ませてはいない。沼へ行くなとは言った」  慧が息を吸った。 「言えば終わりですか。信じていない相手に、危ないとだけ言って、危ないものへの入口を残したままで?」  その言葉に、静は反発できなかった。地下へ入る時には説明があった。それ以前の燈には、どこまで伝わっていたのか。  斎は門の脇へ移り、通行する車を避けた。逃げるのかと思ったが、鞄から閲覧記録を出した。 「最後に来た日付はここにある。その後、来ていない。俺も追わなかった」  静は紙を見た。燈の名が、研究会で見た時より薄かった。 「なぜ?」  慧が訊いた。 「自分でやめられると思っていた」  斎の指が、綴りの端を押さえた。その押さえ方に、鏡を伏せた時と同じ僅かな強張りがあった。  門の向こうで、砂利を踏む音がした。家の人が様子を見に来たらしく、薄い光の中に影が止まった。斎が片手を上げると、それは静かに奥へ戻っていった。  静はそのやりとりを見ていた。斎には、言葉を交わさずに通じる相手がいる。ここで何をしている人なのかを知り、彼が夜に帰らなければ気にする人が。燈にも、そういう場所があったはずだった。 「燈は、また来ると思っていたんですか」  静が尋ねると、斎は答えるまでに少し間を置いた。 「そう思っていた」 「来なかった時には」  彼の視線が、手元の紙へ落ちた。 「別のやり方を探すのをやめたのだと、都合よく考えた」  慧が何かを書き留める音がした。静はその音に、わずかに身を固くした。今の答えが、どんな文章の中へ置かれるのか想像できたからだった。けれど、書かないでほしいとは言わなかった。自分が読んだ日記にも、返事をしなかったことや、引き返したことが残っている。  誰かの言葉を信じなかったことは、そのままでは記録に残りにくい。信じなかった側が
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第25話 思い出してほしくて

 水曜日の講義の前、静は深琴を探した。  昨夜は少し眠れた。洗面台の鏡にタオルを掛け、灯りをつけたまま、斎に言われた通り自分の名前を口にした。名前を言えば眠れるということではなかったが、怖がっているのが自分だということだけは確かめられた。  深琴は友人と話していた。静を見つけると、軽く手を上げた。その普通の動作に、かえって声をかけにくくなった。  昨日、店を出る時の顔を覚えている。心配してくれた相手へ、また同じ困惑を返そうとしているのかもしれない。  深琴は淡い色のニットを着ていた。袖口が少し長く、話す時に指先だけが覗く。向かいの友人が何かを見せると、彼女は顔を寄せ、肩を震わせて笑った。  いつもなら、その隣へ行けた。  椅子を引けば、何の話か教えてもらえた。知らない話なら、ただ聞いていればよかった。自分が笑わなくても、笑えない理由まで尋ねられることはなかった。  静は指を開いた。爪を掌へ食い込ませていたことに、今さら気づいた。  深琴のそばへ行けば元に戻れる、と考えている自分がいた。あの明るい声を聞けば、昨夜の門前で見た文字の欠落も、鏡に映った自分の足も、悪い夢の方へ押しやれるかもしれない。けれど深琴は、静の怖さを消すためにそこへ座っているのではなかった。  分かっていても、近づきたかった。  鞄の持ち手を握り直す。その革の冷たさまで、昨日と同じだった。  それでも静は、席へ近づいた。 「昨日は、ありがとう。パンも」 「食べられた?」 「半分だけ。残りは、朝に」  深琴は少し安心したように笑った。静は、その笑みが消える前に話し終えたかった。 「ひとつだけ、聞いてもいい?」  深琴の指が、机に広げた筆箱の上で止まった。 「……うん」  静は名前から始めなかった。 「先々週の金曜日、お昼に三人で座ったでしょう。チーズケーキを、ほとんど残してた人がいて。深琴ちゃんが、ちゃんと食べてねって言った」  深琴は目を伏せた。思い出そうとしているのが、静にも分かった。唇を一度結び、それから小さく開いた。 「ああ……あの、フォークでずっと崩してた」  静は息を吸った。 「そう。燈」 「ともる……」  深琴は呟いた。確かめるように、机の上へ視線を走らせる。 「右側、だったよね。窓の方に……え、誰が?」  今まで浮かんでいたものが
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第26話 消える順番

 その言葉に、静は何も返せなかった。  深琴が教室を出ていく。追えば、まだ間に合う。名前を呼び、さっきのことを謝ることもできる。けれど、謝った後にまた同じことを尋ねない自信がなかった。  静は椅子へ座り直した。  机に広げた紙の上では、燈の名前がまだ読めた。その横に、自分で描いた四角いテーブルがある。三つの小さな丸は、誰が座った場所か分かるように書いたものだった。  一つずつ指で触れた。燈。深琴。自分。  三人で過ごした時間が、今は自分の指一本にしか支えられていなかった。◇ 研究会へ向かう階段で、静は立ち止まった。  深琴の腕を掴んだ手を、まだうまく握れなかった。相手が怖がっていると知りながら、手を放すのが一瞬遅れた。思い出してほしいという願いが、自分の指をどれほど強くしていたのか、その時は分からなかった。  斎は部屋にいた。静の姿を見ると、何も訊かずに机の端を空けた。燈の日記が、薄い紙を一枚挟んで開かれていた。 「深琴ちゃんが、一度、思い出したんです」  静は鞄を下ろし、カフェテリアの話をした。ケーキを崩す仕草だけが戻り、すぐにそれを口にしたことまで忘れたこと。腕を掴み、振り払われたことも話した。 「私が触ったから、何か、移ったんでしょうか」  斎は首を横に振った。 「今の話に、彼女が残穢へ直接触れたという兆候はない。君に触れたからといって、それだけで繋がるわけじゃない。人を怖がらせたこととは、分けて考えろ」  その言葉は、冷たかった。静は目を伏せた。怪異のせいなら許されると思ったわけではない。けれど、怪異とは別に自分がしたことを残されるのは、苦しかった。  斎は机に三枚の紙を置いた。閲覧記録、燈の投稿を印刷したもの、静から聞き取った日付の一覧。 「順番があるらしい」  彼は一番古い日付を指した。 「初めは、気にかけなくなる。欠席しても、誰も探さない。次に、名前を聞いても顔が出てこなくなる。今は、記録の方も欠け始めている」  静はサークルの男たちを思い出した。名前は知っていた。だが、その名前が欠けたことで生まれるはずの寂しさは、どこにもなかった。 「思い出せたのは、戻りかけたからじゃ、ないんですか」 「全部なくなったわけではないところへ、君の話が触れた。今の段階では、そう考えるしかない」  斎は断定しなかった。静は、で
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第27話 そこは俺の

 静は机へ手をついた。木の冷たさが掌の汗を吸った。怒鳴れば覚えてもらえるわけではない。相手の声には、手元の文字をうまく読めないことへの焦りが混じっていた。  電話を置くと、斎が新しい紙を寄せた。静は今起きたことを書いた。書いている間、数字も、名前も残った。書くのをやめた途端に消えるようなことはなかった。 「新しく残すことは、できるんですね」 「今、この話をした記録だ。それで前の記録が戻るわけじゃない。この字も、いつまで残るかは分からない」  静はペンを握ったまま、紙を見つめた。元の穴を塞ぐことはできない。それでも、穴があると書きつける余地は残されている。その頼りなさに、今は手を掛けるしかなかった。  斎は別の紙へ移った。儀礼の図が二つ並んでいる。人形を差し出す小さな人間と、自分の影を沼に重ねる人間。 「朱鷺は、金曜の夜にここまで行ったと考えられる。肉体が見えなくなったのはその時だ。今、失われているのは、こちらに残った結びつきだ」 「どこかに、体が残っている可能性は」  斎は答えるまでに少し間を置いた。 「少なくとも、俺の知る例では戻っていない。救えると言って君を連れていくことはできない」  部屋の隅で、窓枠が鳴った。  静は日記の上へ手を置きかけ、直前で引いた。今読んでいるものさえ、じきに失われる。それを止めるために何ができるのか、自分にはまだ分からない。 「私は、どうして覚えているんでしょう」 「君は、残った感覚から何度も辿り直している。あの場所へ触れたことで、かえって忘れにくくなったところもあるだろう。ただ、それが君を守っているとは限らない」  斎は静の足元を見た。 「俺は資料を照合して名前を保っているが、本人の顔は曖昧になってきた。廻も、手元の記録がなくなれば同じだ。君も、いつまでも全部を覚えていられると思うな」  静は、右の眉を下げる顔を思い浮かべた。まだ見える。けれど笑い声を重ねようとすると、昨日、カフェで聞いた声が先に浮かんだ。 「このまま繋がっていれば、君の方も引かれる。足首で重なったところを分けなければならない」  静は日記を閉じた。  忘れないことと、繋がったままでいることは、同じではない。そう説明されても、片方を手放す時に両方落としてしまうようで怖かった。  その時、窓に映る自分の肩の後ろで、もう一つの輪郭
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第28話 扉の外へ

 静の唇が動いた。  名を呼び返す寸前、保護室で鏡を伏せる手を思い出した。  誰の声かは、分からない。  静は歯ブラシを洗面台に置いた。音を立てないつもりだったのに、硬い音がした。その瞬間、本棚の下から黒いものが伸びた。  足の甲へ、冷たさが乗った。  痛みではなかった。足を上げようとしても、重みが残る。濡れた布を巻かれたように、動くたび、向こうからも引かれた。  静は右手をドア枠へ伸ばした。出口が見えている。二歩で届く。そこへ行くために、どうやって足を動かしていたかを思い出せなかった。  名前。  鏡の前で、口にしたこと。 「氷鉋……静」  声が出ると、足の裏に床の硬さが戻った。今いる場所を見る。自分の玄関。靴が二足。茶色のスニーカーの爪先が、敷居へ向いている。  静は前へ体重を移した。左足は動かなかったが、右足は出た。ドアを押し開け、外の灯りが床に落ちたところへ、踵を引きずった。  何かが、床を爪で掻いた。  外へ出たところで、最後の一歩を踏み出す力が尽きた。  廊下のコンクリートへ、膝を打ちつけた。痛みが、今度ははっきりした。静は這うように扉から離れ、壁へ背中をつけた。  開いた隙間から、土の匂いが漏れている。笑い声がした。燈のものではない。赤ん坊の泣き声を引き延ばし、途中だけ笑いに変えたような声だった。  指が、自分の意志とは無関係に痙攣し、コートのポケットを探る。スマートフォンの冷たく硬い感触だけが、かろうじて正気への繋がりだった。画面ロックの解除が、指先の震えで三度失敗する。四度目。通話履歴の最上段。観月斎。  耳に押し当てた端末から、無機質な呼び出し音が流れる。コール、一回。二回。  (早く、早く、早く)  呼吸ができない。喉が狭窄し、酸素が肺に入ってこない。あの影が、暗闇で蠢いた影が、足首にまとわりついた感触が、まだ皮膚の上に残っている。 『……何だ』  鼓膜に突き刺さったのは、一切の感情を排した、体温の欠如した斎の声だった。 「あ……っ、ひ、」  声にならない。助けて、という言葉が、喘鳴となって喉に引っかかる。 「かげ、が、……アパート、に、へや、で」 『今どこだ』 「外、です。廊下……」 『扉から離れろ。階段へ出られるか』  静は足を見た。黒いものはもう見えない。冷たさは残っている。頷いてか
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第29話 蒼龍寺

「私が、連れてきたんですか」 「繋がった場所から漏れている。あの部屋で呼ばれたから始まったわけじゃない」  静は後部座席へ座った。斎が鞄を横へ置き、足首を見せるように言った。靴下の上には何もついていないのに、彼の表情が少しだけ硬くなった。 「家の保護室だけでは、間に合わないかもしれない。先に、外への繋がりを弱める」  車は忌丘とは違う方へ進んだ。  窓に頬を近づけると、外気に冷やされた硝子が気持ちよかった。静は左腕を鞄の上に載せた。映った腕は、まだ膝の上にあった。  少し遅れて、窓の中でも腕が上がった。  今度は、その動きを斎もバックミラー越しに見ていた。  やがて車は、高い寺壁が続く一角で速度を落とした。街灯の光が届かない、ひときわ濃い闇の中に、まるで冥府の入り口のように、古びた山門が口を開けている。 『蒼龍寺』  かろうじて読める、年季の入った扁額が掲げられていた。  車を降りると、線香の香りが押し寄せた。  白檀と丁子、その奥に薬草を焦がしたような匂いがある。静は咳を堪えた。土の匂いが薄れるのはありがたいはずなのに、肺の中に別の硬いものが詰まるようだった。 「蒼龍寺。観月家とは、やり方が違う」  斎が短く言った。電話を入れてあったらしく、本堂の脇に人が待っていた。  闇に溶け込む黒い作務衣。綺麗に剃り上げられた青白い頭が、本堂から漏れるわずかな光を鈍く反射している。  年の頃は二十代後半だろうか。背筋が、一本の鉄のように真っ直ぐに通っている。その男は、近づいてくる二人を、一切の感情を読み取らせない能面のような顔で、ただじっと見つめていた。  椥宗司(なぎそうじ)と名乗った男は、静へ一度頭を下げた。それから斎を見る。その時だけ、顔に硬いものが浮かんだ。 「何をさせた」 「残穢に接した。今は外へ漏れ始めている」 「だから最初に封じるべきだと言った」  二人の間に、静の知らない時間があった。何度も同じ言葉を交わし、そのたびに同じところへ戻ってきたような響きだった。  斎は静の方へ体をずらした。 「氷鉋さんだ。今夜は結界の内側で、接続の広がりを止めたい」  宗司は足元を見た。石畳の継ぎ目に、湿った黒さが広がっていた。靴から落ちた泥ではない。静が立っている場所を中心に、影が低いところを選んで沁みていく。 「左へ」  宗
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第30話 残された熱

「離せ」  斎の声がした。  宗司は数珠を引いた。だが残った痛みは弱まらず、静は息を吸い損ねた。腕を押さえようとすると、斎に止められた。 「触るな」  彼は傷のない側の肘を支え、宗司へ水を、と言った。その声に、初めて苛立ちがはっきり混じった。  宗司は数珠を置き、奥へ引いた。戻ってきた時には表情が変わっていた。静の腕を見て、眉間に細い線が寄った。 「影だけでは、なかったか」  静はその声を聞き、顔を上げた。 「私の腕です」  言ってから、震えが来た。当たり前のことを言わなければならないのが怖かった。自分の内側の何かを取り除くために、自分まで同じものとして扱われてしまう。  宗司は静を見た。 「……そうです。続けません」  斎は袖が傷へ触れないよう布を折った。宗司が何か説明しようとすると、静は首を振った。 「もう、今日はしないでください」  声は小さかったが、二人に届いた。宗司は頷き、数珠を箱へ戻した。◇ 痛みが少し落ち着くまで、静は結界の内側で休んだ。  足元の黒さは弱まっていた。何も効かなかったのではない。それがいっそう複雑だった。傷つけられたことと、今ここで一息つけることを、どちらもなかったことにはできない。  宗司が運んできた水の入れ物に、天井の灯りが映っていた。  静は、その白い形を眺めた。手が触れるたび細かく震え、やがて元の丸へ戻る。火傷した場所を自分の目で確かめるのは怖かったが、水面なら見ていられた。  畳の目に、小さな黒い粒が挟まっていた。  さっき影から落ちたのか、初めからあった埃なのか、区別できなかった。靴を脱いで上がったはずなのに、ここまで何かを持ち込んでいる気がした。静は足を寄せようとして、腕の痛みに動きを止めた。  何も触らずにいられる体ではない。  座れば畳へ重さが掛かり、息をすれば空気が入る。誰かに支えてもらわなければ立てない時もある。繋がらないように生きることを突き詰めれば、自分をどこにも置けなくなってしまう。  水面の震えが、ようやく止まった。  斎が入れ物を支えていた。静の目がそこへ向いていることに気づくと、持てるかと短く尋ねた。静は右手を添えた。  今は、その手を借りた。  斎は廊下で宗司と話していた。静へ聞こえる声で、同じ方法は使えない、と言った。 「表へ出た部分は遮れた。
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