Semua Bab 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~: Bab 31 - Bab 40

56 Bab

第31話 書かなかった続報

 咎凪市内のビジネスホテルの一室は、乾燥しきっていた。壁紙は長年の喫煙者たちが吐き出したヤニで薄黄色に変色し、消臭スプレーの人工的なシトラスの香りと、染み付いた古い煙草の臭いが混ざり合って、鼻の奥をツンと刺激する。  廻慧は、安物のパイプベッドに腰掛け、膝の上でノートパソコンのキーボードを叩いていた。プラスチックの硬質な打鍵音だけが、深夜の狭い室内にリズムを刻んでいる。画面から発せられるブルーライトが、彼女の充血した眼球を容赦なく刺していたが、瞬きをする時間すら惜しかった。  画面に表示されているのは、この街の古地図と、登記簿、そしてネットの深層から掘り起こした古い掲示板の書き込みのログだ。  時計は零時を回っていた。水曜日が終わり、木曜日になっていた。  咎凪へ来てから、まとまった睡眠を取れていない。慧は缶コーヒーを口へ運び、冷めた液体の苦さに眉を寄せた。三〇五号室の机は狭く、置き方を変えるたび、資料のどれかが床へ滑りそうになった。  観月家と蒼龍寺。その二つの名が、古い記録に繰り返し現れる。  土地の儀礼を管理してきた家と、それに異を唱えてきた寺。どちらの周辺にも、人がいなくなった話がある。ただ、そのことだけで二者を結ぶ一本の線を引いてよいのか、昨夜までは迷わずに済んでいた問いが、今は残った。  門の前で見た紙から、インクが消えていた。  慧は持ち帰った写真を開いた。斎の指と、紙の表面が写っている。署名の最後だけが空白だった。画像を拡大しても、加工の痕跡は見つからない。その道の専門家に見てもらわずに、仕掛けがないとは言い切れない。だが、あるとも言えない。  レコーダーを再生した。 『自分でやめられると思っていた』  斎の声。その前に、静の『それで、済ませたんですか』という声が入っている。慧は順番を戻し、二人の沈黙まで聞いた。  机の左に置いた紙が目に入った。  昨日まで、そこには失踪した学生の名前があった。今は、学部と学年だけが残っている。コピー機の不調だとしても、自分がそこへ青いペンで書き足した文字まで薄くなる理由にはならない。  慧は新しい紙を取り、朱鷺燈、と書いた。筆先が止まる。字は書ける。では、自分はこの人物について何を知っているのか。髪の色、所属、最後の投稿。全部、手元の資料にあることだった。  氷鉋静は、その男の笑い方を
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第32話 母親の声

 今の取材資料へ戻ろうとして、慧は指を止めた。  静を救うのだと考えていた。あの怯えた顔を、事情の分からない学生のものとして扱えば、斎を追う話は簡単になる。彼女が反論するたび、さらに騙されているのだと考えればよかった。  だが、録音の中で静は、慧に言われたことを肯定していなかった。  慧は新しい文書を開いた。確かめたことだけを書いた。燈と斎には面識があった。斎は危険な儀礼の資料を読ませた。燈は行方不明である。名前の一部が、保存した記録から欠けている。  最後の一文だけ、書いてから消したくなった。  消さずに、その下へ『原因不明』と書いた。  ふと、部屋の空気が重くなった気がした。  換気扇の回る音が、一瞬だけ低く歪んだように聞こえる。  慧は手を止め、顔を上げた。  窓の外は、乳白色の霧に覆われていて何も見えない。街灯の光が霧の中で滲み、まるで溶け出した黄身のようにぼんやりと浮かんでいる。  慧は通気口を見た。フィルターが詰まっているのかもしれない。  足元に置いた鞄から、土の匂いがした。  金曜日の昼、旧館の廊下から階段を下りた。扉の留め金は壊れていて、押すだけで開いた。その先の書庫で、壁際のシミを調べた。乾いた土に見えたので、指で端を崩し、紙へ包んだ。それを鞄の内ポケットに残したままだった。氷鉋静が泥を見て何か言いかけたのを、今になって思い出した。  慧は紙包みを取り出そうとし、手を止めた。  机の上へ置いた指の影が、もう鞄の方へ伸びていた。  自分の指は、まだ動いていない。  慧は机の灯りを動かした。  指の影は普通の長さへ戻った。もう一度手を浮かせ、上下させる。影はついてくる。今度は遅れなかった。  目の疲れ、とメモに書こうとした。途中でやめ、見えたことだけを書いた。 『零時四十七分。手を動かす前に、指の影が動いたように見えた』  時計を確認した、その隙に、机の灯りが消えた。  電球の切れる小さな音がした。慧は息を呑み、壁のスイッチへ手を伸ばしたが、立ち上がる時に鞄へ足を取られた。パソコンの青い明かりの中で、床の黒さが、持ち上がった。  カーペットの繊維の隙間に染み込むのではなく、まるで水銀のように表面張力を持って盛り上がる黒い液体。  それは、慧の影だった場所から溢れ出し、不定形の輪郭を蠢かせながら、じりじりと
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第33話 録音されない声

 本当に、あの人なのか。  そう尋ねれば、何と答えるだろう。慧は知りたかった。だが、足首にはまだ、引き戻される感覚がある。  携帯のライトをつけた。床へ向けると、影の縁が崩れた。慧はその隙に壁際へ寄り、浴室と入口の灯りをつけた。  カチリ、と音がして、背後のドアの隙間から、安っぽい蛍光灯の明かりが漏れ出した。  その光が室内を照らした瞬間。  足元で蠢いていた「うずくまる女の影」は、霧散するように消え失せた。  後に残ったのは、倒れた椅子と、散乱した資料。  そして、静寂。  慧は荒い息を吐きながら、部屋の中を見回した。  影はない。怪しい投影機も見当たらない。  ただ、床のカーペットの一箇所――さっきまで影が蠢いていた場所だけが、なぜか濡れたように黒ずんでおり、そこから微かにドブ川のような臭いが立ち上っていた。  慧はドアを開けた。廊下は明るく、突き当たりで製氷機の音がした。誰かが笑う声も聞こえる。ホテルの、いつもの夜だった。  そこへ片足を出してから、机のレコーダーを思い出した。  録音は続いている。さっき影が動いた時、机に置いたまま押したのだった。慧は戻り、携帯の灯りを床から逸らさずに鞄へ資料を入れた。土の紙包みには触れず、鞄ごと持った。  ドアを出る前に、散った紙を一枚拾った。五年前の草稿だった。慧は折らずにファイルへ挟んだ。  ロビーには、夜勤の従業員がいた。具合が悪そうだと言われ、部屋の灯りが切れ、変な匂いがする、と伝えた。怪しい人影を見たとも言ったが、母親の声のことは口にできなかった。  従業員が内線で連絡を入れる間、慧はソファへ腰を下ろした。足首を見た。皮膚には跡がない。冷たさだけは指で押しても分かった。  レコーダーをパソコンへつなぎ、さっきの音を確かめた。椅子の倒れる音、自分の荒い息、浴室のスイッチ。その間に、女の声はなかった。  ただ、再生する時だけ、聞こえた。 『あの子を、返して』  慧はイヤホンを外した。  音声の波形は平らだった。その区間に声は記録されていない。複製したファイルを再生しても、同じ場所で聞こえる。今、画面を通して、自分に何かが届いている。  部屋を確かめに行った従業員が戻ってきた。  灯りは切れていた。床にも染みがある。配管のことかもしれないので、詳しくは朝になってから調べると言
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第34話 戻せない人

 明るくなってから、静は眠った。  夜の間は、戸の向こうに斎の足音があった。近づき、離れ、ときどき止まる。鏡を向けられる気配で目を開くと、斎はもう伏せていた。問いかけても、まだ休め、としか言わなかった。  左腕の痛みは、眠りの浅いところにまでついてきた。何度も袖を引こうとして、そのたびに目が覚める。だが、深く眠った最後の一時間だけは、誰の声も聞かなかった。  起きると、座卓に粥が置いてあった。  湯気はもう出ていなかった。ひと口食べると、腹の中へ温かさが落ちた。昨日から、食べることをほとんど忘れていた。  斎が入ってきたのは、昼を過ぎてからだった。 「廻から連絡が来ていた」  静は枕元の携帯を見た。画面には短い文章が並んでいた。影、声、ホテル。その一つずつに、自分が昨日口にした言葉の重さがあった。  斎には朝のうちに同じ文を転送し、彼から慧へ連絡を入れてもらったのだった。そのやり取りを、今ようやくはっきり思い出した。 「一人にして、大丈夫なんですか」 「今は人のいる場所にいる。夕方、会う。自分の目で確かめたいことがあるそうだ」  静は返信しようとしたが、何を言えばいいのか分からなかった。自分も同じです、と打ち、消した。同じかどうかは、まだ聞いていない。  その時、畳の上で、影が立った。  静は座っている。左腕を胸へ寄せ、膝を揃えていた。それなのに、障子を透かす午後の光の中で、黒い輪郭だけが、まっすぐ起き上がった。  静の背後で、ゆらゆらと陽炎のように揺らめきながら、まるで見えない糸で天井から吊るされた人形のように、不自然に直立している。  その頭部は、静の方を見下ろすように傾いでいる。 「……ひッ」  静は短く悲鳴を上げ、自分の影から逃れるように這って後ずさった。  だが、影は物理法則を無視して彼女の足元に「縫い付けられ」たまま、その歪な形状を変えようとしない。  斎は静の前へ座り、影を背で隠した。 「こっちを見ろ。名前は」 「氷鉋、静」  言うと、影の重さが少し下がった。斎は灯りをつけ、障子との間に屏風を置いた。黒い輪郭は畳に薄く伸び、見慣れた形へ戻った。 「ここなら、安全じゃなかったんですか」 「外から来るものは抑えられる。君の影に残った接続までは切れない」  静は粥の椀を見た。食べかけだった。それを置いて逃げ出
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第35話 自分で決める

 静は間取りの紙へ目を落とした。前に入った場所には、自分で歩いた距離がある。その先には何もない。知らない暗がりへ行くのが怖い。そこに燈がいないと分かることは、もっと怖かった。  それでも、声がするたびに返事をし、体を差し出し続けることが、友人にできることだとは思えなくなっていた。  座卓の端に、朝使った箸袋が残っていた。家の人が出してくれたものだった。途中まで裂かれた白い紙を見ていると、ここで夜になるまで座っていれば、また食事を運んでもらえるのだろうと思った。  その次の朝も来るような気がした。  左の足首が、畳から少し浮いた。  静は右足へ力を込め、体を戻した。斎の手が灯りへ伸び、足元の黒さが横へずれた。昨夜も、この人が灯りを変える気配で何度か目を開けた。目を閉じている間に、また次の朝へ運んでもらう。その先にも同じ朝が続くと思いたかった。 「行かないで待つなら、ここにいられるんですか」 「いられる。君を外へ出すつもりはない」  斎は答えた。 「だが、今より進んだ時、同じように引き止められるとは言えない」  静は頷き、肩から力を抜いた。帰れと言われるのを、どこかで待っていた。斎は間取りを広げたまま、椀を下げようともしなかった。静は座布団の端へ寄せていた膝を戻した。すぐ立たなくていい。紙の手前に描かれた区画から、奥へ続く鉛筆の線を、ゆっくりと目で辿った。  箸袋を畳み、椀の脇へ置いた。  静は椀を取り直し、冷めた粥を最後まで食べた。斎は黙って待っていた。 「行きます」  空になった椀を置き、静は言った。 「でも、私を何かの役に使うなら、先に言ってください。分からないまま、あとから決まっていたことにしないで」  斎は小さく頷いた。 「君が分けられない間は、鏡は使えない。俺がしたい時に、勝手には切れない」  鏡へ伸ばしかけた静の手が、途中で止まった。指先には昨夜、数珠に触れた瞬間の熱が蘇っていた。斎は急かさなかった。静は自分で手を下ろし、鏡を包む布の端だけを摘んだ。まだ、その冷たい面に触れるつもりはなかった。  出発の準備は、思っていたより静かだった。  斎は道具を畳の上へ並べた。手鏡、灰を入れた布袋、二本の懐中電灯、予備の電池。特別な刃物も、怪物を倒すための武器もなかった。  手鏡の木枠には、小さな欠けがあった。静がそこを見てい
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第36話 三人の足音

 大学の校門に、慧が立っていた。  観月家の門前で見たスーツとは違い、動きやすそうな上着を着ている。目の下は暗く、右足へ体重をかけるのを避けていた。静を見つけると、何か言いかけて止めた。  先に斎が、どこへ触れたのかを尋ねた。  慧は旧館でのことを話した。廊下の階段を下り、壊れた留め金の扉を通ったこと。手前の書架にあった乾いたシミを指で崩したこと、紙へ包み、鞄へ入れたこと。その包みは、斎の指示で触れずに別の袋へ入れてあった。  斎は袋を開けず、足元の影を照らした。  黒い線が、慧の靴から少し離れたところまで続いていた。光の向きを変えても、それだけは動かなかった。 「もう、包みだけ捨てても意味はない」  慧は頷いた。何かを反論するように唇が動き、結局、閉じられた。  静は昨夜の録音について訊いた。慧は端末を見せたが、再生はしなかった。波形のない部分を指す手が、小さく震えていた。 「名前も、消えています。あなたが話した人の名が。だから、今は書いて、確かめています」  慧は手帳を開いた。『朱鷺燈』『氷鉋静』『観月斎』。その下に、自分の名前もあった。  斎は校門の灯りの下へ移り、三人へ同じ光が当たる位置を選んだ。 「地上で待つか、中へ来るかを決めてくれ。ただ、接続したまま一人にはしない。外へ残るなら、椥に預ける」 「中で、何をするんですか」  慧が訊いた。斎は鏡の役割と制限を話した。静が聞いた条件を、今度は慧へ一つずつ伝えた。分けられなければ切れない。戻れると保証してくれる道具でもない。慧の指は、手帳の同じ行で止まっていた。  慧は最後まで聞いて、手帳を閉じた。 「私は記録を持ちます。あなたたちが何をするかも、何が起きたかも、見た範囲を」 「記録が残らないかもしれない」 「それも含めて、です」  即答ではなかった。その間が、静には以前と違って聞こえた。  斎が先頭、静が中央、慧が後ろになった。灯りは斎と慧が持つ。止まる時は声をかけ、互いの名前を呼ぶ。戻る合図を出したら、確かめたいものがあっても、その場を離れる。慧はカメラのストラップを短くし、鞄を背中へ回した。  静も携帯をしまった。連絡が取れなくなる前に、深琴へ短い文を送ろうと思ったが、何と書けばいいのか分からなかった。今さら無事を心配させることはしたくない。迷い、昨日はごめんね、
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第37話 写真の空白

「向こうです」  静が言うと、斎は頷いた。感じたことを伝えると、誰かの動作が変わる。そのことには、怖さもあった。自分の感覚を間違えれば、この二人も別の方へ連れていく。 「ほかには」  斎が訊いた。 「……今は、分かりません」  分からない、と言うと、足元の重みが少し確かになった。  内扉には「立入禁止」の札が下がっていた。周りの紙は湿気で黒くなり、剥がれた端が、呼吸するように浮いている。斎は留め金を確かめ、古い札の一枚を外した。  慧がその指を撮影した。 「入口までの連絡は、ここが最後になるかもしれない」  斎は携帯を確かめ、宗司へ短い報告を入れた。静も画面を見た。深琴から返事は来ていなかった。電源を切らずにポケットへ戻す。返事を待つ日常を、薄い機械ごと持って下りるような気がした。  しまう前に見た時計は、午後六時四十分を示していた。静はその数字を、宗司へ届く最後の報告と一緒に覚えておこうとした。地上では、まだ夕食の支度をしている人がいる時間だった。  扉が開いた。  向こうにも書架があった。ただ、床が緩く傾き、奥へ行くほど棚の脚が暗がりに沈んでいた。天井を照らしても、途中で光が薄くなる。広いのか、近くに何かがあって遠くを隠しているのか、静には分からなかった。  手前の書庫には、腐っていても紙の匂いがあった。奥から来る空気には、それがなかった。湿った土と鉄の間に、甘いような、舌の根を痺れさせる匂いが沈んでいる。息を浅くすれば済むと思っていたのに、吸うより先に口の中へ溜まった。  静は舌を上顎へ押しつけた。  唾を飲む音が、自分の頭の中でひどく大きく響いた。隣で慧も喉を動かしている。斎だけが平気なのではなかった。灯りを持つ肩は上がり、息を吐くたび、コートの胸がわずかに沈んだ。  扉の縁に、剥がされた札の跡があった。四角い部分だけ錆の色が違う。そこを長い間覆っていた紙の角を、静は目で辿った。紙がなくなっても、四角い色の違いだけが扉に貼りついていた。  静は、階上で見た閲覧記録を思い出した。文字のなくなった窪み。そこへ名前を戻して読もうとする、自分の目の動き。暗がりの中でも同じことをしてはいけない気がした。何も見えないところへ、知っている人の顔を置いてしまえば、そこにいると信じたくなる。  斎が留め金を上げ、扉が勝手に閉じない位置で止め
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第38話 出口を忘れる

 斎が止まると、静も止まった。  慧は二歩後ろにいた。光を床へ向け、自分の靴を見ている。歩いて、と斎に言われ、半歩進んだ。靴底が濡れた床を踏むのが見えた。音はなかった。 「あなたの足音ですか」  静が訊くと、慧は頷いた。その動きさえ、少し遠くから届くように見えた。  斎は人数を確かめ、名前を呼んだ。二人が返事をするまで進まなかった。慧の声は聞こえた。ただ、靴が床に触れる音だけがなくなっていた。  棚の隙間から、低い響きがした。  声に似ている。言葉として聞こうとすると、息を吐く音に戻る。静はその方を見ず、斎の持つ灯りの輪を追った。追っているつもりで、いつの間にか書架の間へ顔を向けていた。 「何か、呼んでいるみたいです」 「誰の声に聞こえる」  静は答えを探した。知っている声ではない。だが、もう少し近づけば知っている人になるような気がした。  そう伝えると、斎はそちらから離れた。 「分からないものは、分からないままにしておけ」  それは簡単な指示ではなかった。姿が見えないから探す。声が届かないから近づく。人を探してきた静には、その一歩を止めることが難しかった。  慧が手帳へ何かを書きつけた。その紙を擦る音は、まだ聞こえていた。◇ 三つ目の曲がり角で、帰り道を確かめた。  斎が灯りを戻す。さっき置いた灰がある。その先に通路が見える。入口まで戻るなら、まずここを右へ折れる。静はそう思った。  次に、違う、と感じた。  ここを曲がった覚えがなかった。通路は同じように見えるのに、その道が入口へ続いているという確かさだけが抜けている。 「観月さん、ここ……」 「止まれ」  斎も紙を出していた。地下の間取り。静は見慣れた入口の字を探した。二つの線が向かい合う場所に、何かが書かれている。それが何という字なのか分からない。  斎は紙をこちらへ向けた。 「読めるか」  静は首を振った。そこに字があった、としか答えられなかった。慧が横から覗き、ゆっくり首を傾げた。 「外に、出るところ……ですよね」  意味は出てくる。名前が出てこない。  三人は紙を見つめた。戻る場所の呼び方さえ、ここでは少しずつ剥がれていく。静は柱に触れかけ、慌てて手を引いた。確かなものへ触りたいという衝動を、この場所は待っているのかもしれなかった。  斎は間取りを
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第39話 名前を言えない

 斎へ向き直り、もう一度奥を見たいと告げた。  それからも、数歩進んでは止まった。三人の名を呼び、灰を置き直し、返事を待つ。慧が曲がった回数を書き足す間に、静は壁へ触れずに休める場所を探した。ポケットの時計を確かめた時には、十時を過ぎていた。歩いた距離からは、とても数えられない時間だった。  進むと、足元の泥が深くなった。靴底が沈み、上げる時に遅れて剥がれる音がする。冷たいはずなのに、左の足首だけが温かくなり始めていた。  斎が静の歩幅を見て、止まった。 「引かれているか」  静は頷いた。前へ行きたいという自分の気持ちと、足首から引かれる力が、同じ方向を向いている。それをどこで分ければいいのか分からなかった。 「いま、思い出せることを言え。朱鷺と関係のないことでいい」  静は口を開いた。朝、粥を食べた。左腕に傷がある。深琴に謝る文を送った。一つずつ言う間、斎は黙って聞いた。  最後に、静は燈の笑い顔を思い出した。  右の眉が少し下がる。缶を持つ手がある。その仕草は残っている。  声を重ねようとした。  出てこなかった。  何度も耳元で聞いてきたはずなのに、笑う時の声の高さだけが、分からない。カフェで呼んだ声なら思い出せる。助けを求める声も、今なら聞こえそうだった。 「笑う声が……」  斎に伝える途中で、静は言葉を止めた。  覚えているものの中へ、後から聞いたものが混じっている。そのことが、名前を忘れるよりも怖かった。  書架の列が途切れた。  その先に、岸のような段差があった。コンクリートの縁が崩れ、下の土が覗いている。灯りを向けても、黒い水の終わりは見えなかった。  水面に、小さな波がある。  どちらへ流れているのか分からない。波のひとつが縁へ届くと、静の足首に同じ間隔で力が加わった。水を見ているのではなく、内側から自分を引いているものを見せられているようだった。  斎は乾いたところを選び、灰を置いた。線は途中で濡れ、黒く崩れた。もう少し後ろへ引き直す。二度目の線は、しばらく白いままだった。  慧の足音は戻らなかった。だが、その人がそこにいることを、静は呼吸で確かめられた。短く吸い、長く吐こうとしている。時折、その順番が乱れた。 「廻さん、少し止まりませんか」  慧は首を振りかけ、それから頷いた。鞄を床へ下ろそうとして
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第40話 泥の向こうに

「名前だけでいい。他の話は、今はしなくていい」  斎が告げると、慧は目を閉じかけ、また開いた。 「廻……慧。取材で、来た。ホテルの、三階……三〇五号室」  声を出すたび、呼吸が整った。自分の情報を、落ちた紙のように拾っている。静は握っていた手を緩めた。慧が握り返したので、離さずにいた。  慧は鞄の留め具に触れた。指が何度か滑り、ようやく内側のポケットが開く。名刺を一枚抜き出し、灯りの下へ持ってきた。  印刷された文字は残っていた。  廻慧。その下に、肩書きと電話番号がある。静は、月曜日に渡された名刺と同じものだと分かった。あの時は、差し出された紙を受け取ることで、相手の望む話をしなければならなくなるような気がした。  今、慧はその紙を、自分自身へ差し出すように持っていた。 「これ、私のです」  確かめる声だった。  静は頷いた。頷くだけでは足りない気がして、大学の門のそばで同じものをもらったと伝えた。黒い鞄を持っていたこと。録音していいかと訊かれたこと。自分が話すのをやめた後、追ってこなかったこと。  慧は目を閉じずに聞いた。  話しているうちに、静は握っている手が温かくなり始めたのに気づいた。安心したからではない。二人とも汗をかいていた。怖さは少しも去っていないのに、繋いだ掌の間だけに、生ぬるい熱がこもっていた。  慧が名刺をしまおうとし、途中でやめた。手帳の表紙へ挟み、名前が見えるように少しだけ外へ出した。  しばらくしてから、慧は短く礼を言った。  救えたのだと思いかけた。だが足元には、まだ細い線が残っている。今、引き上げたのは体だけだった。  灯りの先で、水面が低く動いた。  波紋の重なるところだけが白くなり、その白さが消えると、どこまで水があるのかも見えなくなる。静は、岸の近くに細い根のようなものを見つけた。土から出て、途中で千切れている。濡れた先だけが、何かに引かれるように揺れていた。  燈は、このどこへ立ったのだろう。  日記の最後の頁を書いた手で、ここへ来るまでに何へ触れたのだろう。駅の手すりか、旧館の扉か。どこかで躊躇い、誰かからの連絡を待つ時間はあったのだろうか。  静はポケットの上から携帯電話へ触れた。  あの夜に送った言葉を、今、もう一度読むことはできなかった。画面を開く余裕がないからだけではない。そ
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