ガタッ。 静寂という水面に石を投じたように、唐突な音が書庫の空気を揺らした。「……だ、誰?」 慧が鋭く問いかけ、カメラのレンズを向ける。斎も素早く懐中電灯を振った。白い光の束が闇を切り裂き、埃にまみれた書架の列を照らし出す。 そこには誰もいなかった。ただ積み上げられた古文書の山が崩れ、数冊が床の泥水の中に落ちていただけだ。「……本が落ちただけじゃない」 慧が安堵の息を漏らす。だが、声は微かに震えていた。 自然に本が落ちるだろうか? 風もない、振動もないこの地下室で。見えない手がわざと突き落としたとしか思えない。「ネズミよ。古い建物にはつきものでしょ」 自分に言い聞かせるように早口でまくし立てる慧。言葉を肯定するように、崩れた本の隙間から何かがササッと黒い影となって走り去るのが見えた。「ほら、やっぱり!」 慧は勝ち誇ったように言った。 だが、静は見逃さなかった。その「黒い影」がネズミのような小動物ではなく、床の泥そのものが盛り上がり、生き物のような形をとって這いずっていったことを。そして逃げ込んだ先――書架と書架の間の暗闇に、無数の「目」のような白い光が一瞬だけ瞬いたことを。 囲まれてる。 静は息を呑んだ。ここにあるのは、ただの本や棚ではない。この空間そのものが巨大な胃袋なのだ。私たちは自らその消化液の中へと進んでいる。「進むぞ」 斎は落ちた本に目もくれず、さらに奥へと歩き出した。「待ってよ! まだ何かいるかもしれないじゃない!」 慧が抗議するが、斎は無視して進む。静も慌てて後を追った。ここに一人で残されることの恐怖は、前へ進む恐怖を上回っていた。 書庫の奥へ進むにつれ、空気はさらに重く、粘り気を増していく。懐中電灯の光が届く範囲が目に見えて狭くなっていた。 霧だ。地上を覆っていたあの白い霧が浸透しているのではない。地下の泥から立ち上る瘴気が、濃密なガスとなって空間を満たしているのだ。「……ねえ、ちょっと」 慧の声が、今度は悲鳴に近い響きを帯びていた。「出口、遠すぎない? 私たち、入ってからまだ数分しか経ってないわよね?」
Huling Na-update : 2025-11-29 Magbasa pa