泥の上に立つものが、顔を上げた。 燈の髪の色はなかった。黒い表面が、濡れたまま形を変えている。それでも、少し猫背の立ち方も、パーカーのフードが背で潰れているところも、知っていた。 『しずく』 声がした。 口が動くより先だった。静は一歩出かけ、足裏へ力を入れた。灰の線が爪先にある。越えれば、次の一歩を自分で選べるか分からない。 『これ、やるよ』 右手が差し出された。 缶コーヒーを渡す時の仕草だった。あの日、頬へ押し当てられた冷たさが蘇る。思い出したくても声の高さが戻らなかったのに、今、ここでは声まで聞こえた。 静は泣きそうになった。 忘れかけていたものを返してくれる。それだけで、あれが何であるかを確かめることなど、どうでもよくなりかけた。 だが、手の向きが違った。 燈は、先に冷たい缶を頬へつけた。静が身をすくめてから、自分で持てる向きに直してくれた。目の前の手は、頬に触れる形のまま、こちらの手を待っている。 『これ、やるよ』 同じ声がした。同じ指が、少し曲がった。 静は顔を見た。口の端が上がる。右の眉は動かなかった。 「……燈」 名を口にすると、足首の冷たさが強くなった。目の前のものへ引かれたのではない。足元に残っていたものが、静の脚の後ろへ縮むように寄った。 怖がっている。 そう感じた瞬間、静は目を上げた。燈に由来する感覚なら、どうして、燈の姿を怖がるのだろう。 斎が半歩前へ出た。静を隠さず、触れようとすれば止められる位置に立つ。 「今、何が違った」 静は手の向きと、眉のことを話した。声にすると、懐かしさが少しほどけた。 「向こうは、君の知っている姿へ触れられる。その姿があることと、本人が戻ったことは別だ」 分かっている、と言いたかった。だが、そう言えばもう二度と望んではいけなくなる気がした。 目の前のものは、静が黙ると黙った。 燈なら、黙っている理由を待てる人だった。具合が悪い時に話さなくていいのは、その沈黙に急かすものがなかったからだ。今ここにある沈黙は違った。同じ言葉を繰り返すため、息を吸う前のところで止まっているようだった。 静は唇を噛んだ。 本物らしいところを探せば、いくらでも探せた。肩の傾き。指の長さ。フードの片側だけが高くなっている癖。見慣れたものの組み合
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