Semua Bab 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~: Bab 41 - Bab 50

56 Bab

第41話 借りられた姿

 泥の上に立つものが、顔を上げた。  燈の髪の色はなかった。黒い表面が、濡れたまま形を変えている。それでも、少し猫背の立ち方も、パーカーのフードが背で潰れているところも、知っていた。 『しずく』  声がした。  口が動くより先だった。静は一歩出かけ、足裏へ力を入れた。灰の線が爪先にある。越えれば、次の一歩を自分で選べるか分からない。 『これ、やるよ』  右手が差し出された。  缶コーヒーを渡す時の仕草だった。あの日、頬へ押し当てられた冷たさが蘇る。思い出したくても声の高さが戻らなかったのに、今、ここでは声まで聞こえた。  静は泣きそうになった。  忘れかけていたものを返してくれる。それだけで、あれが何であるかを確かめることなど、どうでもよくなりかけた。  だが、手の向きが違った。  燈は、先に冷たい缶を頬へつけた。静が身をすくめてから、自分で持てる向きに直してくれた。目の前の手は、頬に触れる形のまま、こちらの手を待っている。 『これ、やるよ』  同じ声がした。同じ指が、少し曲がった。  静は顔を見た。口の端が上がる。右の眉は動かなかった。 「……燈」  名を口にすると、足首の冷たさが強くなった。目の前のものへ引かれたのではない。足元に残っていたものが、静の脚の後ろへ縮むように寄った。  怖がっている。  そう感じた瞬間、静は目を上げた。燈に由来する感覚なら、どうして、燈の姿を怖がるのだろう。  斎が半歩前へ出た。静を隠さず、触れようとすれば止められる位置に立つ。 「今、何が違った」  静は手の向きと、眉のことを話した。声にすると、懐かしさが少しほどけた。 「向こうは、君の知っている姿へ触れられる。その姿があることと、本人が戻ったことは別だ」  分かっている、と言いたかった。だが、そう言えばもう二度と望んではいけなくなる気がした。  目の前のものは、静が黙ると黙った。  燈なら、黙っている理由を待てる人だった。具合が悪い時に話さなくていいのは、その沈黙に急かすものがなかったからだ。今ここにある沈黙は違った。同じ言葉を繰り返すため、息を吸う前のところで止まっているようだった。  静は唇を噛んだ。  本物らしいところを探せば、いくらでも探せた。肩の傾き。指の長さ。フードの片側だけが高くなっている癖。見慣れたものの組み合
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第42話 引き戻す手

「廻さん、そこにいるのは、その人じゃないかもしれません」  慧の肩が動いた。静の声は届いたようだった。だが、目は戻らない。 『返して』  再び声がした。今度は、静の耳元でも、同じ声が聞こえた。  足元の重みが、逃げるように静の脚へ巻きついた。引き上げたいと願っていたものと、人を引き込もうとするものが、同じ黒さの中にある。  静は、斎へ頷いた。 「分けたいです。あれと、燈の残ったものを」  斎は鏡を持った。だが、その前に慧の体が傾いた。  慧の靴が、灰を跨いだ。  本人が跨ごうとしたのではなかった。膝の力が抜け、爪先だけが前へ滑った。その動きが、床の傾きと重なった。  静は右手を伸ばした。  届いたのは上着の袖だけだった。指先で布を掴み、引く。慧の体は止まらず、静まで前へよろめいた。左腕の傷へ、内側から引き裂くような痛みが走った。 「離すな。だが、一緒に出るな」  斎は慧の後ろへ回った。静が袖を掴んでいる側と反対の肩を支える。慧は二人を見ていなかった。泥の顔へ向かって、何かを繰り返していた。 「違う、私は、あの子を……」  そこまで言って、息が詰まった。  泥の声は途切れない。返して、と言う。同じ速さ、同じ抑揚。言葉を返せば話し合いになるのではないかと、静でさえ感じてしまった。だが、返事を受け取るための間がなかった。 「廻さん。今、どこにいますか」  静が呼びかけた。  慧の唇が止まった。目はまだ前を向いている。 「さっきの、手帳。名前、書いていましたよね」  慧の鞄が泥へ触れかけた。静は持ち上げようとして、やめた。体を支える手を放せば、荷物も本人も失う。  斎が慧の手首から灯りを外し、静へ渡した。 「足元を。黒い線の、端だけ照らせ」  静は左腕を胸へ寄せ、手首を曲げないように灯りを支えた。右手は慧の袖を掴んだまま、指示されたところへ光を向けた。慧の影は、まだ本人の足元に残っていた。その先から伸びる細い線が、灯りの下で僅かにほどけた。  斎は乾いた部分へ灰を置いた。幅は靴一足分もない。静はそこから光を逸らさず、慧の名を呼んだ。 「廻慧さん」  返事はなかった。 「ここは、旧館の地下です。私と観月さんがいます」  慧の目が、初めて静の方へ動いた。 「……知って、いたの」  かすれた声だった。 「何をですか」
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第43話 切る側の痛み

「話は、あとで聞きます。今は、足を」  静は言った。  慧は首を振った。否定したのではなく、何かを振りほどこうとする動きだった。泥の声へ目が戻りかけた。 『あの子を、返して』 「……分からない」  慧が言った。  それまでより小さな声だった。何も説明しない、ただ途方に暮れた声だった。 「何が起きたか、分からないのに、決めた。だから……」  告白をしたことで泥が退くことはなかった。線はさらに強く張り、慧の爪先が持ち上がる。  斎が低く声を出した。 「今だ。足を曲げろ」  慧は自分で膝を曲げた。  静は握った手を引き、斎は腰を支えた。三人分の力が同じ方へ働いた時、黒い線が一度だけ薄くなった。慧の靴が灰を越え、こちらの床へ戻った。  そのまま三人とも膝をついた。静は左手を床へつかず、右肘で体を支えた。慧は息を吸おうとしてむせ、何度も唾を吐いた。口の中に泥が入っているようだったが、出てきたのは透明な唾だけだった。  斎は鏡を慧の足元へ向けた。細い、離れかけた端が映っている。斎が柄を動かすと、木を裂くような小さな音がした。  鏡面の縁に、ごく細い亀裂ができた。斎が持ち直すと、その指の付け根に赤い点が浮いた。  慧は身を震わせた。 「切れたんですか」  静が訊くと、斎は頷いた。ただし、すぐには安心するな、と続けた。ここにいる限り、また触れられる。慧は聞いているようだったが、返事をする力はなかった。  静はようやく慧の手を放した。  指を開くと、掌には布を握り締めていた時の皺が残っていた。深琴の腕を掴んだ時のことが浮かんだ。あの時も、指は同じように固まっていた。深琴は振り払った。今、慧の手は静の袖にまだ触れている。掌の皺を見ていると、二人の腕の細さが、違う重さで戻ってきた。  慧はゆっくり顔を上げた。 「私、何をすれば……」  斎は静の左手から灯りを受け取り、慧へ返した。 「今は照らしてくれ。俺が鏡を持つ間、足元を見ていてほしい」  慧は両手で持った。震えは止まらなかった。それでも、光の輪は床から逸れなかった。 「氷鉋さん」  呼ばれて、静は顔を向けた。慧はカメラの画面を示した。さっき撮った写真の、静の顔があった場所を見せている。  空白が、首の方へ広がっていた。  静は頷き、目の前の暗がりへ向き直った。  燈の形をした
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第44話 消えた輪郭

 斎はその動きを見て、立ち上がった。 「次は、君の方を確かめる。これより前へは出るな」  彼が鏡を向けた。静はその小さな面を覗き込んだ。  足首に絡む指が見えた。自分の足と同じ濃さをしている。その先は、泥の方へ細く続いていた。終点までは見えない。鏡を傾けると、静の輪郭まで一緒に傾いた。 「あの時と、同じ……」 「近づいた分、繋がっている向きは分かる。だが、まだ重なっている」  斎が静を見る。 「他人から来ていると、分かるところはあるか」  静は目を閉じかけ、開いたままにした。保護室で練習した通り、自分が立っている床を見る。左腕の痛み。口の渇き。履き慣れた靴の内側で、爪先を曲げる。  その下から、別の感覚が来た。  指に、硬いものを握っている。  今、静の手は空いている。それなのに、掌へ振動が伝わった。ブレーキを握り込む抵抗。曲がりきれないと気づいた時の、腹の底だけが置いていかれる感覚。  音がした。  金曜日の霧の中で聞いた、あの音だった。  今度は、途切れなかった。  黒い道が目の前に広がった。灯りが横へ流れ、肩から何かが離れた。誰かの体温が背中から消えた。そこで静は、前へ倒れそうになった。  斎が名を呼んだ。  答えようとして、別の言葉が出た。 「俺は……」  静は口を押さえた。  自分の声だった。燈のように聞こえたのではない。静自身の口が、その一人称を選んでいた。  泥の姿が、また近づいた。 『見ないで』  今度の声には、静を誘う甘さがなかった。顔を背ける人の、切迫した響きだった。  静は喉の奥へ上がってきたものを飲み込んだ。  見ないで済むなら、そうしてあげたかった。日記を閉じた時と同じように、少し待つことならできる。けれど今、目を逸らせば、この痛みがどこから来たのかまで分からなくなる。 「……見たよ」  静は言った。 「日記、読んだ。黙って、ごめん」  足首が強く絞られた。胸にも同じ圧迫が来た。  許して、という声は聞こえなかった。静の中にだけ、その続きを言いたがるものがあった。もういいよ。知っているから。全部知っても離れないから。  だが、本当に全部知ったのだろうか。  病院の前で引き返した足がある。父親の声を聞き、黙った口がある。静が触れたのは、その断片だけだった。それでも今、燈が一人で受
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第45話 開かなかった扉

 泥の中へ沈む感覚は、意外なほど静かだった。  冷たいとも、苦しいとも思わなかった。足を取られていたはずなのに、膝の下に何があるのかも分からない。水へ落ちた時のような衝撃はなく、ただ、耳の奥で鳴っていた誰かの声が遠ざかっていった。  最後まで残ったのは、心臓の音だった。  どくん、どくん。  胸の内側を叩くたび、見知らぬ廊下が少しずつ明るくなる。磨かれた床。壁際の長椅子。閉じた扉の上にある、小さな札。そこに書かれた文字を読もうとすると、景色は輪郭を失い、指先に硬いハンドルの感触だけが戻った。  自分はここへ来たことがない。  そう思ったはずだった。  けれど、扉が開かなかったことにほっとしている。誰にも見つからずに引き返せる。その安堵が、吐き気のするほど確かなものとして、胸の奥にあった。  会いに来たのだから、来なかった人間とは違う。明日なら入れる。今日は、たまたま具合が悪そうだったから。  口にした覚えのない言い訳が、静の喉を通って流れていく。  そのたびに足元の泥が温かくなった。  許されたのだと思った。誰に、と考える隙間もなく、もう苦しまなくてよいのだという感覚だけが染み込んでくる。頬を撫でるぬるい風は、冬の夕暮れのどこにもあるはずのないものだった。  廊下の端に、燈が座っていた。  オレンジ色の髪。深く落ちた肩。両膝の間に顔を埋め、パーカーの袖から出た指を、何度も握ったり開いたりしている。 「燈」  声が届くと、指の動きが止まった。  顔は上がらない。  静は歩み寄り、隣に膝をついた。床があるような気がした。濡れてもいないし、足跡も残らない。ただ、膝をついた場所の下で、何かがゆっくりと押し返してくる。 「もう、ひとりじゃないよ」  肩に手を置いた。  薄い布越しに骨の硬さが伝わった。その感触だけで、泣きたくなった。大学の廊下で何度も並んで歩いた、あの体だった。人の話を聞きながら、先に歩き出してしまう肩。その少し後ろを追いかけていた自分の歩幅まで、思い出せる気がした。 「一緒に帰ろう」  返事の代わりに、小さな息が漏れた。  笑ったのかもしれなかった。泣いたのかもしれなかった。  静には分からない。  分からないまま、背中へ腕を回した。  自分が燈について知っていたことは、あまりにも少なかった。甘いものを選ぶ
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第46話 私の名前は

 肩に触れた手が、ずぶりと沈んだ。  驚いて離そうとしたが、燈の服と自分の指の境目が見えなかった。親指を動かすと、彼の肩の下で何かが動く。自分のものだった爪の白さが、黒い布の内側で細く光った。  痛い。  どこが痛むのか、もう分からなかった。  病室の扉が目の前にあった。廊下に立っているのは自分だ。そのはずなのに、いつの間にか講義室の机に肘をついている。隣で誰かが缶を開けた。炭酸ではない、短く乾いた音。そこへ金属が潰れる音が重なって、机の木目が濡れた路面へ変わった。 「大丈夫」  誰に言ったのか、声に出してから分からなくなった。  燈は少しも軽くならない。抱き締めている腕だけが、際限なく遠くなる。そこへ流れ込むものを受け止めようとするたび、静の中にあった別のものが押し出されていく。  家へ帰る道。  朝、カーテンを開ける順番。  自分を呼ぶ、深琴の声。  ひとつずつ失われるのではなかった。見知らぬ感情の下へ沈み、どこに置いたのか分からなくなっていく。探そうと伸ばした手が、また別の痛みに触れる。その痛みを置いていくことが、ひどく残酷なことに思えた。 「ここにいれば、もう……」  燈の声がした。  近すぎて、耳から聞こえたのか、喉の内側から生まれたのか分からない。  ここにいれば、置いていかれない。  ここにいれば、忘れない。  言葉の続きを、静は自分で補っていた。  背中へ回した腕を強くした。ほんの少しだけ、燈の顔が上がる。目の位置に暗い窪みがあり、その下に、自分と同じ形の唇があった。  何かがおかしい。  そう思っても、抱き締めた腕をほどくことができなかった。離せば、全部間違いになる気がした。ここまで来たことも、怪我をした人たちのことも。助けると言った自分だけが帰ってしまうなら、最初から何もしない方がよかったのではないか。  胸の奥で、ひとつ鼓動が抜けた。 「一緒にいよう」  口が勝手に動いた。  それが約束なのか、願いなのかも分からなかった。  燈の名前は言える。目の前にいる人の名前は、あれほど苦労して守ってきたから、今でも言える。  では、それを呼んでいるのは誰なのだろう。  静は自分の名前を探した。  燈に何度も呼ばれた。深琴にも、母親にも。ついさっき、地下の冷たい空気の中でも、誰かが叫んでいた。  最
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第47話 冷たい缶

 慧はライトを持ち直した。  光の端が床の灰を外れる。慌てて戻すと、沈みかけていた白い筋が、再び闇の中へ浮かんだ。足元だけは見失ってはいけない。自分にも、まだできることがあった。 「氷鉋さん。聞こえますか」  返事はない。  慧はもう一度呼ぼうとし、息を吸い損ねた。門の前で質問を重ねた時、静もこんなふうに唇を開きかけていた。何を知っていて、何を怖がっているのかも聞かず、記事へ繋がる返事を待っていた自分の声だけが、今さら耳に戻った。  謝れば戻ってくるとは思えなかった。  戻ってきてから、言わなければならないことだった。 「さっき、私の手を掴んでくれたでしょう」  ライトを持つ指が震えた。 「冷たかった。すごく、冷たかったです。でも、離さなかった」  静の肩らしきものが、小さく動いた。 「その手を、戻してください」  慧は自分の右手を伸ばした。今度は、黒い表面には触れない距離で止めた。  斎が顔を上げる。 「静。君の方を残せ」  その声も掠れていた。 「何が自分のものか、ひとつでいい。手を離す前に、確かめろ」◇ 左腕が痛かった。  肘の下から手首へ、熱を持った細い線が走っている。さっきまでは、体中のどこにでもある痛みのひとつだった。それが今、布の巻かれた自分の腕の中で、はっきりと脈を打っていた。  これは、寺で数珠に触れられた時の傷だ。  白い明かりの下で洗われた。冷たい液が沁みて、歯を食いしばった。手当てをしてくれた人の袖口に、小さな青い染みがあった。  燈は、その部屋にはいなかった。  胸の中に、わずかな隙間ができた。  そこへ、冷えた缶の感触が落ちてきた。  頬に押し当てられ、それから掌へ渡された缶。差し出したのは燈で、受け取ったのは自分だった。彼は温かいものを買ったつもりで、表示を見間違えていた。静が冷たいと言うと、右の眉を少し下げて、替えてこようかと笑った。自販機へ戻りかける彼を、静は引き止めた。  それを見て笑ったのは、自分だった。  二人は、同じ顔をしていたわけではない。  同じ場所に立っていたわけでもない。  三人でケーキの皿を囲んだ日もそうだった。深琴が紙パックのストローを刺し、燈がケーキの角を崩し、静は冷めかけたスープへ手を伸ばした。それぞれの前に、違うものが残っていた。  静は、背中に回
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第48話 二つの輪郭

「私は……」  唇を動かす。  誰かに教えてもらった答えを繰り返すのではなく、自分が帰る場所を探した。 「氷鉋、静」  胸が痛んだ。  その痛みを、自分のものとして受け止めた。  深琴へ謝る時のことを思った。  あの腕を掴んだのは自分だった。怪異が指を閉じたのではない。怖がらせたまま離れてきたことを、まだきちんと謝れていない。  戻れば、まだ言える。胸へ押しつけられた重さに逆らい、静は唇を開いた。声を出すための隙間だけでも、自分の側へ取り戻したかった。  深琴、と唇を動かした。最後の音が、自分のものではない息に攫われかけた。静は顎を引き、もう一度、声にした。  左腕の痛みを、もう一度確かめた。  慧を引き戻した時の重さが、肩へ蘇った。その下には、振り払われた深琴の腕の硬さも残っていた。同じ手だった。助けた方だけを選んで帰ることはできない。静は黒い布に埋もれた指を探し、一本ずつ、自分の方へ曲げた。  その全部を持って帰る。  燈の人生まで、この手の中へ移そうとはしない。  静は、重なっていた呼吸のうち、苦しくても速い方を選んだ。自分の胸を、自分で動かした。 「私は、帰る」  燈の袖から、指が抜けた。  二つの輪郭の間に、紙一枚ほどの暗がりが生まれた。そこへ指を差し込んで、もう一度抱き寄せたいと思った。  静は、手を止めた。  遠くで、鏡がわずかに光った。  空気が冷たかった。  肺へ入った途端、激しく咳き込んだ。喉の奥に泥が詰まっている気がしたが、口元を拭った手には何もついていない。目の前にあった廊下も、座り込んだ燈の姿も消えていた。  地下の、湿った石の匂いがした。  足はまだ動かせなかった。  靴の底には床の硬さがある。その上を、自分ではないものが覆っている。どこからが自分で、どこからがそれなのか、目で見ただけでは分からなかった。けれど、さっきまでひとつに聞こえていた息が、今は二つに分かれていた。  自分の息は、速い。  もうひとつは、その半拍後をついてくる。 「名前を」  斎が言った。  静は顔を上げた。彼の目を見ようとして、うまく焦点が合わなかった。静の眼鏡は片方が白く曇り、こめかみには濡れた髪が貼りついていた。 「氷鉋静、です」 「今、切っていいか」  差し出された鏡の中に、自分の靴があった。
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第49話 手を下ろす

 斎の手首が沈んだ。  静は思わず、鏡を支えようとした。だが、その手を出せば、自分の影まで前へ動く。伸ばしかけた指を胸元へ戻し、服の布を掴んだ。今、動かずにいることも、相手へ任せることだった。  静の口から、長い息が漏れた。  耳元では、別の息が同じ長さを真似た。最後だけ合わなかった。静が吸い直しても、向こうはまだ吐き続けている。二人分の時間が、ほんのわずかにずれた。  鏡の面に白い線が通った。  自分の靴の縁だった。静はその汚れた縫い目を見つめた。玄関で、自分で紐を結んだ靴。あの時、斎の手を待たせたことを覚えている。急ぐ必要のないところで、待ってもらえたことを。  今度は静が、待った。  鏡の縁が、わずかに下がった。  ぷつり、と音がした。  実際に聞こえたのかは分からなかった。ただ、長く張り詰めていたものが切れ、膝が急に軽くなった。  前へ倒れた。  慧が右腕を掴んだ。二人分の重さで、靴底が床を擦る。左腕をつく寸前に斎の肩が入り、静の体はそのまま、灰の筋の内側へ引き戻された。 「下がるぞ」  斎の言葉が途中で途切れた。  鏡に、新しい亀裂が走っていた。斜めに、端から端まで。持ち手を握った指の間から血が落ち、床に小さな丸をつくった。  彼は慧を見た。  見たまま、眉を寄せた。 「廻慧です」  慧が先に言った。 「あなたの右側にいます。静さんは、左です」  斎は一度だけ頷いた。すぐに返事はしなかった。  静は、自分の右手を胸の前へ持ってきた。指を開く。閉じる。遅れて同じ動きをするものは、そこにはなかった。  足元の影は、ライトの向きに従って伸びている。  その先に、黒いものが残っていた。  静の影とは繋がっていない。靴一足分ほど離れたところで、床の凹みに沿って薄く広がっていた。そこだけ、水面のように小さく波打っている。  何もかも終わったのではない。  地下の冷たさも、息苦しさも、まだ同じ場所にある。 「立てるか」  斎に尋ねられ、静は頷いた。  立とうとすると、膝が笑った。慧の手を借りてどうにか体を起こす。左腕の傷が、熱を持って疼いた。  その痛みがあることに、ほっとしてしまった。  三人が一歩退いた時、床の黒さが、ほんの少し形を変えた。  そこに肩が見えた気がした。 「しずく」  一度だけ、声が
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第50話 四人目の足音

 慧が先に灯りを向ける。床に残された灰の筋は、途中で何度か途切れていた。その先を探すたびに、一人が照らし、一人が足元を確かめ、残る一人が後ろを見た。  静には、後ろを見るのが一番難しかった。  暗がりの中にオレンジ色を探してしまう。見つけたくないのに、もう一度だけ、と思ってしまう。  だから振り返る時は、まず床を見た。  自分の靴。斎の靴。慧の靴。  三人分あることを数えた。  書架の間を抜ける時、慧の鞄が突き出た金具へ引っ掛かった。  布の裂けるような音に、三人とも動きを止めた。慧は鞄を引こうとしたが、斎が、動かすな、と言った。静の背筋が強張る。さっきまでなら、その言葉の後には、足首から何かが這い上がってきた。  今、引っ掛かっているのは、ただの金具だった。  斎がライトを持ち、静は右手で鞄の端を持ち上げた。布を少し戻し、尖った先から外す。小さな穴が開いていた。その穴を慧は一瞬見つめ、ありがとう、と言った。  静は頷いた。  怖いことの全部が、怪異なのではなかった。物を引っ掛ければ止まる。足を踏み外せば転ぶ。それだけのことへ戻れたはずなのに、体はまだ、次の一歩の理由を疑っている。  歩き出すと、今度は慧の足音が聞こえた。  静は振り返った。慧も気づいたらしく、靴を一度、床へ置き直した。湿った底が剥がれる音がした。綺麗な音ではなかった。それでも、慧はほんの少しだけ息を吐き、もう一歩、同じ音をさせた。  帰り道では、慧が懐中電灯の電池を替えた。予備を包んでいた紙を広げる手が震え、斎の灯りの下で何度も向きを確かめた。その間、静はしゃがまずに待った。膝を折れば、もう一度立つ力まで失いそうだった。  内側の扉へ戻った時、斎が足を止めた。  壁に掌をつき、扉を見上げている。取っ手はすぐそこにあった。それでも彼は、どちらへ動かせばいいのか思い出せないように、指を途中で止めた。  慧が、入る前に撮った写真を出した。  画像の端に、斎の手が写っていた。顔は暗く潰れていたが、留め金の向きは見えた。 「上げてから、手前です」  斎が言われた通りに動かす。  錆びた金具が、嫌な音を立てた。  隙間から、少し乾いた空気が流れてきた。静はそれだけで、膝から力が抜けそうになった。  前室の床にあった人型は、輪郭を失っていた。  汚れがなくなったわ
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