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Lahat ng Kabanata ng 禁区の残穢: Kabanata 41 - Kabanata 50

55 Kabanata

第四十一話:地下への扉③

 ガタッ。 静寂という水面に石を投じたように、唐突な音が書庫の空気を揺らした。「……だ、誰?」 慧が鋭く問いかけ、カメラのレンズを向ける。斎も素早く懐中電灯を振った。白い光の束が闇を切り裂き、埃にまみれた書架の列を照らし出す。 そこには誰もいなかった。ただ積み上げられた古文書の山が崩れ、数冊が床の泥水の中に落ちていただけだ。「……本が落ちただけじゃない」 慧が安堵の息を漏らす。だが、声は微かに震えていた。 自然に本が落ちるだろうか? 風もない、振動もないこの地下室で。見えない手がわざと突き落としたとしか思えない。「ネズミよ。古い建物にはつきものでしょ」 自分に言い聞かせるように早口でまくし立てる慧。言葉を肯定するように、崩れた本の隙間から何かがササッと黒い影となって走り去るのが見えた。「ほら、やっぱり!」 慧は勝ち誇ったように言った。 だが、静は見逃さなかった。その「黒い影」がネズミのような小動物ではなく、床の泥そのものが盛り上がり、生き物のような形をとって這いずっていったことを。そして逃げ込んだ先――書架と書架の間の暗闇に、無数の「目」のような白い光が一瞬だけ瞬いたことを。 囲まれてる。 静は息を呑んだ。ここにあるのは、ただの本や棚ではない。この空間そのものが巨大な胃袋なのだ。私たちは自らその消化液の中へと進んでいる。「進むぞ」 斎は落ちた本に目もくれず、さらに奥へと歩き出した。「待ってよ! まだ何かいるかもしれないじゃない!」 慧が抗議するが、斎は無視して進む。静も慌てて後を追った。ここに一人で残されることの恐怖は、前へ進む恐怖を上回っていた。 書庫の奥へ進むにつれ、空気はさらに重く、粘り気を増していく。懐中電灯の光が届く範囲が目に見えて狭くなっていた。 霧だ。地上を覆っていたあの白い霧が浸透しているのではない。地下の泥から立ち上る瘴気が、濃密なガスとなって空間を満たしているのだ。「……ねえ、ちょっと」 慧の声が、今度は悲鳴に近い響きを帯びていた。「出口、遠すぎない? 私たち、入ってからまだ数分しか経ってないわよね?」 
last updateHuling Na-update : 2025-11-29
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第四十二話:ウツロ様①

 闇に質量がある。そう錯覚するほど、空気が重く、肌にまとわりついてくる。 懐中電灯の光束は、数メートル先で濃密な黒に吸い込まれて消えていた。無機質な書架の列はいつの間にか途切れ、天井のコンクリート梁も闇に溶けている。 あるのは、どこまでも続く黒い泥の海と、腐臭が澱む巨大な空洞だけ。「……ねえ、行き止まりじゃないの? もう随分歩いたわよ」 背後で、荒い息遣いが響く。ハンカチで口元を覆った廻慧(めぐり けい)の声はくぐもり、焦燥で震えていた。 ヒールが泥に足を取られるたび、ジュッ、ジュルッ、という粘着質な水音が静寂を汚す。それでも彼女は、カメラを構える手を下ろさない。ファインダーを覗く行為だけが、彼女に残された理性の砦なのだろう。「道などない」 先頭を行く観月斎(みづき いつき)が、振り返りもせずに吐き捨てた。 黒いコートの裾はすでに泥にまみれ、重く垂れ下がっている。「ここは『虚(うつろ)』の消化器官だ。物理的な距離感は捨てろ。……“核”に近づけば、向こうから迎えに来る」「迎えって……なによ、それ」 慧が毒づくのと同時に、足元でピチャリと大きな音がした。 静は足を止め、視線を落とす。 スニーカーがくるぶしまで泥水に浸かっていた。だが、違和感の正体は水位ではない。 温かい。 地下の冷気とは裏腹に、足首に触れる泥水だけが、生き物の体液のように生温かいのだ。 そして、その温もりの中で、静の左足首に巻き付いている燈の「影」が、ドクン、ドクンと脈打ち始めた。 怯えではない。 母胎に帰る胎児の安らぎか、あるいは餌を前にした獣の興奮か。力強い脈動が、静の動脈と共鳴する。『……く、……くく』 泥の底から、泡が弾けるような微かな声。 静は息を呑み、周囲を見回す。誰もいない。ただ、黒い泥が広がっているだけだ。 気のせいだ。そう思おうとした瞬間、足首の影が、グイッと
last updateHuling Na-update : 2025-11-30
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第四十三話:ウツロ様②

 ズズッ……ズズッ……。  歩を進めるたび、音が変わっていく。粘り気のある水音が、次第に弾力のある肉を踏む音へ。  空気の密度も変わった。  腐敗臭に混じって、どこか甘ったるい、熟しすぎた果実のような匂いが漂い始める。耳鳴りのような「唸り声」が、はっきりとした「呼吸音」に変わっていく。  スゥ……ッ、……ハァ……ッ。  ゴボッ、……ジュルリ……。  巨大な何かが、息をし、唾液を啜っている音。  音源は、すぐ目の前の闇の中にあった。 「……着いた」  斎が足を止め、懐中電灯を消した。静もそれに倣う。  光が消えると、完全な闇が訪れるはずだった。  だが、違った。 「……あ……」  静の唇から、吐息が漏れた。  薄ぼんやりとした燐光(りんこう)によって、全貌が浮かび上がっていた。  書庫の最奥部。  コンクリートの床は完全に崩落し、直径数十メートルはあろうかという巨大なすり鉢状の「窪み」が形成されていた。  かつての「虚の沼」。その本当の姿。  窪みを満たしているのは、水ではない。  黒く、粘り気のある、生きた泥(・ ・ ・)だった。  表面は無数の腐った青白い発光バクテリアに覆われ、脈動に合わせて明滅している。  その巨大な泥の塊は、心臓のように、あるいは巨大な肺のように、ゆっくりと、規則正しく波打っていた。  ドクン。  ……ドクン。  波打つたびに、表面からボコッ、ボコッと気泡が弾ける。そこから黒い煙のような瘴気が立ち上り、霧となって天井へ吸い込まれていく。  地上を覆っていた霧の正体。  人々の正気を奪う「澱み」の源泉。 「うそ……なに、あれ……」  慧が呻き、その場にへたり込んだ。  手から滑り落ちたカメラが、カツンと音を立てる。だが、彼女は拾おうともしなかった。  目の前の光景は、どんなトリックでも、科学的根拠でも説明がつかない。  圧倒的な質量の「悪意」が、物理的な形を持ってそこに鎮座している。  窪みの中心部。  泥が最も激
last updateHuling Na-update : 2025-12-01
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第四十四話:ウツロ様③

『……し、……ず……く……』 泥の巨像から、声がした。 口はない。泥が擦れ合う、湿った摩擦音が、偶然「言葉」のように聞こえただけかもしれない。 それでも、その響きに含まれる懐かしさと、絶対的な絶望感が、静の胸を貫いた。「燈!!」 叫んでいた。 恐怖は消し飛んでいた。ただ、彼に触れたい、彼をこの泥地獄から引き上げたいという一心で、斎の制止を振り切って駆け出した。「待て! 触れるな!」 斎の手をすり抜ける。 足首の影が歓喜するように暴れ回り、身体を泥の方へと加速させる。 あと数メートル。 泥の縁ギリギリのところで、泥人形――燈の影が、ゆっくりと右手を差し出した。 かつてカフェで「これやるよ」と缶コーヒーをくれた時と同じ、無造作で優しい仕草。 ただ、その腕は真っ黒な汚泥でできており、指先からはポタポタと黒い雫が垂れている。 静もまた、手を伸ばした。 その冷たい泥の手に触れようとして。 バシャッ!! 横合いから、強烈な閃光が走った。 慧だ。 彼女は這うようにして縁まで近づき、至近距離で「被写体」に向けてシャッターを切っていたのだ。「撮った……! ロボットね、中に機械が入ってるんでしょ!?」 慧の狂乱した叫び声。 フラッシュの残像の中、泥人形の「顔」が変貌する。 のっぺらぼうの泥の表面に、無数の「人間の目」が浮かび上がったのだ。 燈の目ではない。 老人の目、子供の目、女の目。 泥に喰われた何百もの死者の目が、びっしりと浮き上がり、一斉に、ギョロリと慧の方を向いた。「――ヒッ」 慧の喉が引き攣る。 泥人形が、差し出していた手を、ゆっくりと、しかし機械のような正確さで、慧の方へと向け直した。『……み、つ、け、た……』
last updateHuling Na-update : 2025-12-02
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第四十五話:慧の「咎」①

「さよなら、燈」 腐敗した地下の空気に溶けるよりも早く、泥の縁から一歩を踏み出した。「燈!!」 裂帛の気合と共に伸ばした手は、黒い泥の巨像には届かない。 目の前で繰り広げられているのは捕食ですらない。もっと冒涜的な「融合」の儀式だった。 泥人形――かつて朱鷺燈の形をしていた「ウツロ様」の端末が、廻慧という極上の「餌」を飲み込むべく、不定形の身体を脈動させ膨張していく。「いやぁぁぁぁッ! 離して! 離しなさいよォッ!」 慧の絶叫が地下空洞の天井に反響し、幾重にも重なった不協和音となって降り注ぐ。 半ば空中に浮いた身体は、泥人形の胸部から伸びた無数の触手によって、蜘蛛の巣に絡め取られた蝶のように拘束されていた。「静さん! 警察! 警察を呼んで! これ、殺人よ! トリックを使った殺人!」 締め上げられた喉から、ヒューヒューと空気を漏らしながらも、慧は叫ぶことを止めない。 瞳孔は開ききり、白目には毛細血管が浮き出ている。恐怖で顔面は蒼白になり、脂汗で髪が額に張り付く。それでも口をついて出るのは「トリック」「殺人」という、彼女の理解できる世界の言葉だけ。 認めるわけにはいかないのだ。認めてしまえば、築き上げてきた「正義」と「論理」の城が音を立てて崩れ去る。 だが、現実は無慈悲に理性を侵食する。 泥人形の表面に浮かび上がった無数の「目」。老若男女、数百人分の死者の眼球が一斉にギョロリと動き、至近距離で慧を見つめた。 瞳に憐れみも怒りもない。あるのは純粋な「食欲」と、頑なな自我をへし折ることへの嗜虐的な悦びだけ。『……いた……い……』 泥の中から呻き声が漏れた。 燈の声ではない。もっと湿った、女の声。 慧の動きが痙攣したように止まる。記憶の蓋が、内側から激しく叩かれたからだ。『あの子を……返して……』 脳裏に焼き付いた映像が明滅する。数年前に取材した、閉鎖的な村の拘置所。鉄格子の向こうで髪を振り乱し、虚ろな目で虚空を睨む母親の姿。 記事によって「児童虐待の犯人」と断罪され、全てを奪われた女。自ら舌を噛み切って死んだ彼女の最期の呪詛が、地下の汚泥の中から鮮明に
last updateHuling Na-update : 2025-12-03
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第四十六話:慧の「咎」②

 足が重い。 地下書庫の泥はただの土砂ではなく、無数の「後悔」が澱み、凝縮された粘着質な呪詛の塊だった。一歩踏み出すたびに、足首に絡みついた燈の影が悲鳴を上げ、泥の底から伸びる見えない無数の手が靴底を掴んで引きずり込もうとする。「う、ぅ……っ」 息ができない。腐敗した土と鉄錆の臭いが肺を焼き、視界が明滅する。それでも泥飛沫を上げながら走った。 目の前では、慧が泥の繭に半分以上飲み込まれている。 黒い泥が腰までを覆い、さらに触手のように胸元へと這い上がっていた。顔からはジャーナリストとしての傲慢な覇気は消え失せ、幼児退行したような虚ろな瞳で、虚空に浮かぶ「母親の幻影」を見つめ続けている。『……ひとごろし……』 変形した母親の顔が、耳元で囁く。「ごめんなさい……ごめんなさい……私が悪かったの……許して……」 譫言のように繰り返される謝罪。言葉が漏れるたびに口から黒いヘドロのような液体が吐き出され、身体が内側から泥へと変質していく。 彼女の「咎」がウツロ様の消化酵素となって、彼女自身を溶かしているのだ。「氷鉋! 女に構うな! 泥人形の『足元』を狙え!」 背後から斎の鋭い声が飛ぶ。「あいつは今、女を消化するために隙だらけだ。その隙に、お前の足首の『影』を本体の影に重ねるんだ!」 斎は懐中電灯の光束を泥人形の足元、泥の海から隆起している根元の部分に一点集中させていた。 歯を食いしばり、慧への視線を無理やり引き剥がす。 見捨てたくない。でも、今は燈を――この怪異の核を止めることが、全員を救う唯一の道だと信じるしかなかった。 ズブッ、と深い泥に足を取られ、泥人形の足元に滑り込む。 腐った肉と排泄物を煮詰めたような濃厚な死臭が鼻腔を突き刺す。「燈……!」 叫びと共に、左足を泥人形の巨大な「影」の中へと踏み込ませた。 瞬間。 ドクンッ!! 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が、足裏から脳天までを貫いた。「あ……が……ッ!?」 視界が弾ける。 物理的な世界が消失し、代わりに燈の記憶と感情の奔流が、濁流となって脳内になだれ込んでく
last updateHuling Na-update : 2025-12-04
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第四十七話:慧の「咎」③

 それは自滅に等しい行為だった。自分自身が次の「ウツロ様」になるかもしれない、狂気の選択。 でも、それしか思いつかなかった。 ふらりと立ち上がる。「おい、氷鉋! 何をする気だ!」 斎の制止を無視して、泥人形に向かって両手を広げた。 泥まみれの眼鏡の奥で、瞳が暗い炎のように燃え上がる。「こっちだよ、ウツロ様」 震える声で、しかしはっきりと告げた。「慧さんの味なんて、薄くて美味しくないでしょ? ……こっちの方が、ずっと濃いよ」 自らの心の奥底にある「澱み」の蓋を開ける。 祖母の葬式で感じた人間の醜さへの嫌悪。友人たちに見捨てられた絶望。 そして何より、親友である燈を救えなかったという、焼けるような自責の念。 それらを全て、足元の影に注ぎ込んだ。 影が、爆発的に膨張する。 ドクン、ドクン、ドクン! 泥人形の動きがピタリと止まった。慧に伸びていた触手が空中で凍りつく。無数の目が一斉に慧から外れ、こちらを向いた。 泥の中から、ごくり、と巨大な嚥下音が響く。 標的が変わった。 ウツロ様は、より新鮮で、より深く、より甘美な絶望の匂いを嗅ぎつけたのだ。 泥人形が慧を放り出すようにして、ゆっくりと巨体を向け直した。 ドサッ、という鈍い音がして、慧の身体が泥水の中に無様に叩きつけられる。 拘束していた黒い触手は、まるで興味を失ったかのように急速に萎み、本体へと吸収されていった。「かはっ……、げほっ……!」 泥まみれになった慧が四つん這いで激しく咳き込む。首筋には焼け爛れたような黒い手形が首輪のようにこびりついているが、生きている。だが、その瞳からは理性の光が完全に消え失せていた。「あ……あぁ……」 ガタガタと震えながら、後ずさりすることさえ忘れ、目の前で変貌を遂げる泥の巨像を見上げている。 ウツロ様となった泥人形は、今や慧など目に入っていない。 全身に無数に浮かんだ死者の目玉が、ただ一点、氷鉋静だけを凝視していた。 ゴゴゴゴゴ……。 地下空洞全体が、巨大な胃袋が収縮するかのように低く唸る。
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第四十八話:慧の「咎」④

 鼻腔を突く腐敗臭も、耳障りな死者の嘲笑も、包まれた瞬間に遮断され、代わりに鼓膜を打つのは、ドクン、ドクンという巨大な心臓の拍動のような音だけ。(ああ、ここは……) 暗闇の中で目を開ける。 重い泥がまぶたを圧迫するが、不思議と痛みはない。 そこは温かかった。 まるで羊水の中にいるような、あるいは腐りかけた果実の種になったような、甘く、とろけるような浮遊感。 身体の輪郭が溶けていく。指先が、髪の毛が、皮膚が、泥の粒子と混ざり合い、境界線を失っていく。『……しずく……』 脳裏に声が響く。ノイズ混じりの、けれど懐かしい声。 意識の奥底で、誰かが膝を抱えて座っていた。 オレンジ色の髪。派手なパーカー。 朱鷺燈だった。 泥の暗闇の中で震えながら顔を伏せている。その背中には、黒いコールタールのような「罪」がべっとりと張り付き、身体を少しずつ侵食していた。「燈」 心の中で呼びかける。 燈が顔を上げる。その顔は涙でぐしゃぐしゃで、恐怖に歪んでいた。『……ごめん、なさい……俺、逃げたかっただけなんだ……』『あいつのこと、忘れたかっただけなんだ……』「うん、知ってる」 泥の中を泳ぐようにして彼に近づき、震える肩を抱きしめた。 冷たい。魂は凍えきっていた。「痛かったね。怖かったね」『……しずく……?』「もういいよ。私が来たから。私が、全部知ってるから」 抱きしめた瞬間、燈の背中に張り付いていた黒い「咎」がじゅわりと溶け出し、腕へと伝ってきた。 焼けるような激痛。吐き気。絶望感。 友人を裏切ったという自己嫌悪が、精神を直接蝕む。 けれど、腕を離さない。 この痛みが、燈が一人で抱えてきた重さなのだとしたら、耐えられる。(大丈夫。私なら、壊れない) 自らの「感受性」を全開にする。 他人の悪意を受け止め、流し、耐え続けてきた器は、この泥沼の中でも、かろうじて自我を保っていた。          ◇ 地上――地下書庫の空洞では、異様な光景が広がっていた。 静
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第四十九話:観月の「処理」①

 鼓膜を劈く死者の嘲笑も、鼻孔を犯す腐敗臭も、この黒い繭の内側までは届かない。 あるのは羊水に似た粘度と、ドクン、ドクンと波打つ巨大な心臓の拍動だけ。 溶けていく。 指先が、髪が、皮膚が、砂糖菓子のように崩れ落ち、黒い泥へと還元されていく。個体としての輪郭が消失する感覚。そこに痛みはない。むしろ、張り詰めていた神経が一本一本焼き切れていくような、背徳的な安らぎがあった。『……しずく……』 脳髄に直接、声が響く。 朱鷺燈の声であり、同時に私自身の声でもある。泥の中で意識が混濁し、境界が曖昧になっていく。 他人の記憶が、奔流となって流れ込んでくる。 真夏のアスファルトの照り返し。舌に残るコンビニコーヒーの苦味。そしてあの日――バイクの後部座席で友人が血を流していた時の、咽せ返るような鉄錆の臭いと、冷え切った戦慄。「俺は悪くない」「誰も見ていない」。 卑小な自己保身と、それを塗り潰すほどの巨大な罪悪感。(ああ、燈。ずっと、こんなに痛かったんだ) 泥の中で、彼の形をした「影」を抱きしめる。 影は黒いタールのように腕にまとわりつき、感受性という回路を通して苦痛を共有してくる。私の心にあった「救えなかった後悔」と、彼の「逃げたかった弱さ」。二つの咎が混じり合い、化学反応を起こして熱を帯びる。『……いっしょに、いよう……』『……もう、かえらなくていい……』 無数の死者たちの囁きが、燈の声に重なる。 ここは心地いい。誰も私を「異常」だと指差さない。深琴ちゃんのように怯えない。廻さんのように否定しない。ただ泥になって、何もかも忘れてしまえばいい。 意識が、甘い腐敗の底へと沈んでいく。 だが、その微睡みを無粋に断ち切るように、遥か頭上の「外側」から硬質な音が響いた。 カツ、カツ。 革靴が湿った地面を踏みしめる、冷徹なリズム。「…&hellip
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第五十話:観月の「処理」②

 地下書庫の高い天井に、女の悲鳴が不協和音となって降り注ぐ。 泥の触手が太ももまで這い上がり、高価なスーツの生地を腐食させながら肉に食い込む。焼けるような痛みに、慧は半狂乱で泥を掻きむしった。「いやぁぁッ! 入ってくる……! 泥が、体の中に……!」 皮膚の毛穴という毛穴から、おぞましい「他人の記憶」が侵入してくる。 何十年も前にここで死んだ者の後悔、痛み、怨嗟。それらが汚水となって血管を巡り、自我を内側から汚染していく。 だが、観月斎は止まらない。 慧の絶叫を、単なる環境音の一部として処理し、思考を研ぎ澄ませる。 優先順位は明確だった。 第一に、「ウツロ様」の核である朱鷺燈の影を切り離すこと。 第二に、そのために必要な「隙」を見極めること。 廻慧の命は、そのリストのどこにも記述されていない。「……悪くない」 手鏡の曇った表面を親指で拭いながら、独り言ちる。 視線の先には、脈動する巨大な泥の繭。 中には氷鉋静がいる。彼女は自らの強い感受性を触媒にして、ウツロ様の意識を内側に引きつけている。 そして背後では、廻慧が「雑魚」の影たちに襲われ、新鮮な恐怖と絶望を撒き散らしている。「あの女の『咎』……独善的な正義と、無自覚な加害性。それは腐った肉のように強烈な臭いを発する。……奴らにとっては、抗いがたい撒き餌だ」 計算は冷徹だった。 静が「本体」を抑え込み、慧が「周囲」を引きつける。この二重の囮によって、斎自身への攻撃は最小限に抑えられ、本体への接近が可能になる。「み、観月……ぅ……!」 背後から、空気を絞り出すような喘ぎ声。 慧の首に泥の手が巻き付いたのだ。 視線が、斎の背中に突き刺さる。助けて、という懇願と、なぜ助けないのかという激しい憎悪。 斎は一瞬だけ足を止め、肩越しに慧を一瞥した。 そ
last updateHuling Na-update : 2025-12-08
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