ざらついた空気が、肺を満たす。 ひな壇に立つ老教授の単調な声が、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってくる。初秋の午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだ。 氷鉋静は、背中を丸めて、机の木目の一点をただ見つめていた。黒く染めていない髪が、肩のラインで無気力に切り揃えられている。長く伸ばした前髪が、その表情を隠すための重いカーテンの役目を果たしていた。度の弱い丸眼鏡は、他人と視線を合わせないための盾。そのレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めていた。 頭が痛い。こめかみの内側で、鈍い痛みが心臓の鼓動に合わせて脈打っている。胃の腑のあたりが、冷たい水で満たされたように重苦しい。それは、いつものことだった。人が密集する閉鎖された空間では、必ずこの感覚に襲われる。 原因は分かっている。 空気中に溶け込んでいる、無数の「澱み」。他人の感情の沈殿物。それは静にとって、比喩ではない。粘り気のある、黒いインクのようなそれは、目には見えないが、確かにそこにある。肌にまとわりつき、呼吸と共に体内に侵入し、神経を直接逆撫でする。 三列前の席、必死にノートを取る女子学生の背中から立ち上る、焦げ付くような嫉妬の匂い。後方の席でスマートフォンを弄る男子学生たちの集団から発せられる、ぬるま湯のような退屈と、教授に対する侮蔑の気配。それらが混じり合い、講義室の空気をヘドロのように攪拌している。 吐き気がした。喉の奥が、酸っぱいもので塞がれる。 静は無意識に左手の親指を口元へ運び、爪の縁を小さく噛んだ。かり、と乾いた音が、自分だけの世界で鳴る。規則正しい痛みだけが、他人の感情の濁流から意識を引き離してくれる唯一の錨だった。この感覚がなければ、自分という輪郭が溶けて、他人の悪意の海に沈んでしまいそうだった。「……普通、とは何なのだろう」 声にはならない声が、乾いた唇から漏れる。 誰もが、この汚染された空気の中で平然と呼吸をしている。笑い、欠伸をし、眠り、あるいは誰かを妬んでいる。彼らにとって、それは当たり前の日常の一部なのだろう。この澱みを感じないこと、それが「普通」なのだとしたら、自分は明らかに異常者だ。 早く、終わっ
Last Updated : 2025-10-26 Read more