禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~

禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~

last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-14
Oleh:  花柳響Tamat
Bahasa: Japanese
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影を喰われると、存在が消える。大切な人の記憶からさえも。 他人の感情に苦しむ大学生・静にとって、友人の燈のそばだけが、息のできる場所だった。 その背中に、黒い腕を見るまでは。 燈が姿を消した後、周囲は彼のことを忘れ始める。名前も、記録も、二人で過ごした時間さえも。 彼を捜す静が出会ったのは、冷酷な退魔師・観月斎。だが、禁じられた儀礼の痕跡を追ううちに、静自身の影にも異変が起こり始める。 忘れれば、彼は本当にいなくなる。 それでも、彼の声に応えてはいけない。

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Bab 1

第1話 背中の影

 大学の講義室で、氷鉋静(ひがのしずく)は、人の感情まで吸い込まないように息を浅くしていた。誰のものとも分からない苛立ちや焦りが、ざらついた空気に混じり、肺を満たしていく。

 静は、背中を丸め、机の木目の一点へ目を落とした。肩のあたりで切り揃えた黒髪が、頬に触れる。長く伸ばした前髪を払おうとして、手を膝へ戻した。顔の前に垂れた重いカーテンの隙間から、教壇だけを見ていればよかった。度の弱い丸眼鏡を押し上げる。視線を遮るには薄すぎるレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めた。

 教壇に立つ老教授の単調な声は、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってきた。十一月初めの木曜日。午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだった。

 こめかみの内側で、鈍い痛みが鼓動に合わせて脈打っていた。人が密集する閉鎖された空間では、いつもこうなる。

 空気に溶け込んだ、無数の澱み。他人の感情の沈殿物を、静はひそかにそう呼んでいた。目で見えるわけではない。それでも、粘り気のあるものが呼吸とともに入り込み、神経を逆撫でしていくのが分かる。

 三列前でノートを取っている学生の背には、焦げつくような気配があった。焦りなのか、怒りなのかまでは分からなかった。後ろの席からは、生ぬるいものが流れてきた。笑い声に悪意があると感じて身を縮めた後で、誰かが忘れ物を届けてくれたこともある。その親切を疑いたくはないのに、体の方が先に怯えてしまう。

 ようやくチャイムが鳴っても、静は席を立たなかった。椅子を引く音が重なり、閉じられたノートが風を起こす。人の波が過ぎ去るまで待ち、それから鞄を持った。

 誰もいなくなった講義室で、数分間。ようやく立ち上がると、足が僅かに震えていた。壁際に沿うようにして廊下へ出て、中庭に面した渡り廊下を目指す。ガラス窓の外、午後の陽光を浴びた芝生の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。

 外気に触れた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。肺の奥にこびりついていたヘドロのような空気が、ようやく洗い流されていく。頭痛はまだ残っているが、胃の不快感は少しだけ和らいだ。

「しずく!」

 背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。けれど、その声の持ち主を認識した瞬間、強張っていた全身の筋肉が、意思とは関係なく弛緩した。

 振り向くと、友人の朱鷺燈(ときともる)が立っていた。

 オレンジブラウンに染め抜かれた髪が、西日に透けて燃えるように輝いている。大きなロゴの入ったパーカーに、緩いシルエットのカーゴパンツ。左耳で揺れるいくつものピアスが、彼が歩くたびに、ちり、と微かな金属音を立てた。

 静とは何もかもが正反対の、光と音の塊のような男。

「なんだよ、また死にそうな顔して。教授の話、そんなに退屈だった?」

 悪戯っぽく笑いながら、燈が隣に並ぶ。すると、廊下に残っていたざわめきが、ふっと遠くなった。声そのものは聞こえているのに、その裏から押し寄せてくるものがない。

 燈に顔を覗き込まれ、静は視線を落とした。

「……別に」

「別に、じゃねーだろ。顔、真っ青だぞ」

 燈はそう言うと、自販機で買ったらしい缶コーヒーを静の頬に押し当てた。静が身をすくめると、缶を立て直し、持ちやすい向きで差し出してくれた。ひやり、とした感触に、また肩が震える。

「ほら、これやるよ。糖分足りてねーんじゃねえの」

「……ありがとう」

 かさついた声で礼を言うと、燈は「おう」と短く応え、自分の分の缶コーヒーのプルタブを開けた。カシュ、という軽快な音が鼓膜を心地よく揺らす。

 静は缶を両手で包んだ。「冷たい」と零すと、燈は自分の缶の表示を見て「あ」と言った。十一月に冷たい方を買ってくるのが燈らしかった。右の眉をわずかに下げ、「温かい方のつもりだった。替えてこようか」と笑う。自販機の方へ戻りかける彼を、静も笑って引き止めた。

 昔から、彼といる時は幾分楽だった。黙っていても、何か話せと求めない。具合が悪いと知れば、理由を詮索する前に窓を開けてくれる。そういう人だった。けれど、この三週間ほどの静けさは、それまでの安心とは違っていた。彼が二、三歩離れるだけで、空気のざらつきが戻ってくる。

 その静けさがどこから来るのか、静は一度も確かめていなかった。

 その顔を見ているうちに、尋ねかけていたことが引っ込んだ。最近、何か変わったのか。どうしてこんなに静かなのか。彼自身にも説明できないことだったら、気味悪がらせるだけだ。

「この後、暇? 駅前のカフェ、新しいパフェ出たらしいんだけど」

「……うん」

「よし、決まりな!」

 燈は静の返事を聞くと、先に歩き出した。新しいメニューの話をしている。その言葉の半分ほどしか耳に入らないまま、静は後ろをついていった。

 さっきまで、この男の隣へ戻ることだけを願っていた。

 彼のそばでなら、息ができる。肺の奥まで空気を吸い込めることが、今はただ、ありがたかった。

 燈が、渡り廊下の角を曲がった。

 燈の背中に、もう一人、誰かがいた。

 西日が二人を追い越した。大きなロゴのあるパーカーに、細い腕のような黒いものが重なっている。腕は燈の脇をすり抜け、静の方へ垂れていた。

 気配だけではなかった。黒い輪郭が、たしかに目に映っていた。

 燈は前を向いて歩いている。それなのに、背中の黒い腕だけが、静との距離を測るように伸びてきた。

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第1話 背中の影
 大学の講義室で、氷鉋静(ひがのしずく)は、人の感情まで吸い込まないように息を浅くしていた。誰のものとも分からない苛立ちや焦りが、ざらついた空気に混じり、肺を満たしていく。  静は、背中を丸め、机の木目の一点へ目を落とした。肩のあたりで切り揃えた黒髪が、頬に触れる。長く伸ばした前髪を払おうとして、手を膝へ戻した。顔の前に垂れた重いカーテンの隙間から、教壇だけを見ていればよかった。度の弱い丸眼鏡を押し上げる。視線を遮るには薄すぎるレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めた。  教壇に立つ老教授の単調な声は、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってきた。十一月初めの木曜日。午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだった。  こめかみの内側で、鈍い痛みが鼓動に合わせて脈打っていた。人が密集する閉鎖された空間では、いつもこうなる。  空気に溶け込んだ、無数の澱み。他人の感情の沈殿物を、静はひそかにそう呼んでいた。目で見えるわけではない。それでも、粘り気のあるものが呼吸とともに入り込み、神経を逆撫でしていくのが分かる。  三列前でノートを取っている学生の背には、焦げつくような気配があった。焦りなのか、怒りなのかまでは分からなかった。後ろの席からは、生ぬるいものが流れてきた。笑い声に悪意があると感じて身を縮めた後で、誰かが忘れ物を届けてくれたこともある。その親切を疑いたくはないのに、体の方が先に怯えてしまう。  ようやくチャイムが鳴っても、静は席を立たなかった。椅子を引く音が重なり、閉じられたノートが風を起こす。人の波が過ぎ去るまで待ち、それから鞄を持った。  誰もいなくなった講義室で、数分間。ようやく立ち上がると、足が僅かに震えていた。壁際に沿うようにして廊下へ出て、中庭に面した渡り廊下を目指す。ガラス窓の外、午後の陽光を浴びた芝生の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。  外気に触れた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。肺の奥にこびりついていたヘドロのような空気が、ようやく洗い流されていく。頭痛はまだ残っているが、胃の不快感は少しだけ和らいだ。 「しずく!」  背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。けれど、その声の持ち主を認識した瞬間、
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第2話 遅れてくるもの
 瞬きをすると、黒い腕は消えた。 「しずく? どうかしたか?」  燈が振り返る。少し下がった右の眉も、左耳で揺れる安全ピンのピアスも、いつもと変わらない。静の手には、彼がくれたばかりの缶コーヒーがあった。冷たさだけが、まだ指に馴染まなかった。 「顔、真っ青だぞ。座る?」  こちらへ戻ってきた燈の肩越しに、静は床を見た。西日に押し延ばされた影が一本、靴の下から斜めに伸びている。さっきの腕はどこにもない。 「……ううん。大丈夫」  大丈夫、と口にした途端、親指の痛みに気がついた。缶を持つ手に力を入れすぎて、ささくれたところに爪が食い込んでいた。  燈は少し考えるように静を見ていたが、それ以上は聞かなかった。今度は追い越さず、隣を歩く。その気遣いがありがたかった。ありがたいのに、彼の背中をもう一度見ることができない。  出口のガラス戸が開く。通り抜ける風は冷たく、二人の間にしばらく留まった。  燈が一歩踏み出した。  床に残った影だけが、ほんの僅か、遅れた。◇ 金曜日の朝、カーテンを開けると、向かいの建物がなかった。  白いものが、窓のすぐ外まで来ていた。硝子に額を近づけて、静はようやくいつもの非常階段の輪郭を見つけた。錆びた踊り場が、昨日より遠い場所にあるように見える。  その朝、咎凪市(とがなぎし)は乳白色の息を吐いていた。  咎凪市は、霧の多い街だった。地形のせいだと聞いたことがある。だが静には、その説明だけで片づかない朝があった。窓を閉じているのに、濡れた土の匂いがする。車が通れば聞こえるはずの音が、途中で途切れる。  今朝は、その匂いがした。  それは、湿った腐葉土の匂いだ。黴の胞子と、掘り起こされたばかりの古い土が混じり合ったような、生命の循環から取り残された死の匂い。人々はこれを「盆地特有の天気」と片付けるが、静の神経は、その奥に何かがあると訴えていた。これは空気が運んでくる匂いではない。土地そのものが、皮膚呼吸のように吐き出している「澱み」の気配だ。  古くから、この土地の霧は「黄泉路の帳」と呼ばれていると、祖母から聞かされたことがある。現世と常世の境界を曖昧にする、忌むべきものなのだという。本当に別の世との境があるのか、静には分からない。それでも、その言葉の意味を、肌で理解できる気がした。視界が奪われるからではない。霧
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第3話 影を踏まないで
 静は肩をすくめて振り返った。車はない。霧に沈んだ停止線の上に、銀杏の葉が一枚落ちているだけだった。信号の音は遠くで鳴っている。青に変わるまで立ち尽くしても、事故の気配はどこにも生まれなかった。  幻聴だったのかもしれない。そう思おうとすると、鼻の奥に土の匂いが戻ってきた。靴の裏に何かついていないか、確かめずにはいられなかった。  大学の正門が見えてきたところで、霧の壁から不意に人影が滲み出した。心臓が喉元まで跳ね上がる。だが、その輪郭が色を得るにつれて、安堵が恐怖を上書きしていった。最初に視界に飛び込んできたのは、この白の世界で唯一彩度を許されたような、オレンジブラウンの髪だった。 「よお、しずく。遅かったじゃん」  朱鷺燈が、ポケットに手を突っ込んだまま立っていた。彼がそこにいるだけで、濃霧が作り出した非日常の風景に、無理やり日常のラベルが貼り付けられる。まとわりつくような土の匂いが、少しだけ薄れた気がした。 「……待っててくれたの」 「んー、まあな。こんな日に一人だと、どっかに連れてかれそうだろ」  笑った燈の唇は、少しかさついていた。昨日、背中に見たものを尋ねるには、彼の声はあまりに普段通りだった。 「昨日、何かあった?」  静が尋ねると、燈はポケットの中で手を動かした。 「何かって?」 「帰る時。背中のところに、黒いものが見えたから」  彼の目が、一度だけ静の肩の向こうへ動いた。 「影だろ。あそこ、夕方は変に伸びるじゃん」 「燈の後ろで、それだけがこっちへ……」 「パーカーの紐じゃねえの」  燈は胸のところから紐の先を引き出し、軽く振った。先端の細い金具が、鈍く光った。静が見たのは背中だった。その言葉を続けようとした時、燈はもう紐を放していた。 「おまえも、あんま寝てねえだろ」  責める口調ではなかった。静が寝不足であることも、間違いではない。だからこそ、その答えが自分の質問を通り過ぎたことを、うまく言えなかった。  燈は静の歩く側を空け、正門の柱から離れた。いつもの気遣いだった。たった一つの仕草で、追及することがひどく恩知らずに思えてしまう。  静は、まだ何も納得していないまま、彼の隣へ入った。  二人で並んで、霧に包まれたキャンパスを歩く。人の姿はまばらで、足音が白い静寂に吸い込まれていく。 「しかし、すげえ
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第4話 ウツロ様
 ざわめきが、ぬるま湯のように思考を鈍らせる。  昼のカフェテリアで、静は窓際の席に座っていた。霧は薄くなったが、ガラスの向こうにある旧館の屋根はまだ白く霞んでいる。盆の上のスープは、表面に薄い膜を張り始めていた。 「しずく、いた! 探したぜ」  顔を上げると、朱鷺燈が盆を片手に立っていた。オレンジブラウンに染め上げた髪が、カフェテリアの気怠い照明を吸って鮮やかに光る。安全ピンのピアスが揺れ、派手なロゴの入ったパーカーが、周囲のくすんだ風景から浮き上がっていた。彼がそこにいるだけで、澱んだ空気がわずかに晴れるような錯覚を覚える。静にとって、燈の存在はそういうものだった。彼のそばにある光が、人々の間から押し寄せるものを薄めてくれるようだった。苦しさが遠のくと、その理由まで問い返すことはできなかった。 「……燈」 「ここ、いい?」  燈は向かいの椅子を引いた。盆の上にはアメリカンコーヒーとチーズケーキがある。もう一つ、畳まれたコピー用紙が、皿に隠れるように置かれていた。 「またそんな暗い顔して。世界終わんの?」 「別に。通常運転」 「通常運転がそれってのが問題なんだよなー」  言いながら、燈はケーキの角を崩した。そこへ宇津木深琴(うつぎみこと)が来て、二人の隣へ鞄を置いた。 「今日、購買の方、すごく混んでた。あ、燈くん、また残すつもり?」 「今日は食うって」 「この前も言ってたよ」  深琴が笑って紙パックのストローを刺す。燈は一口分をすくって見せたが、話すうちに皿へ戻してしまった。深琴は呆れたように目を細め、静も少し笑った。  三人の間にある皿は、誰も急いで片づけようとしなかった。そんな時間が、静は好きだった。  深琴は次の演習があると言って、先に席を立った。「ちゃんと食べてね」と燈に念を押し、静には小さく手を振る。その姿が人の間に隠れるのを待っていたように、燈が身を乗り出した。 「なあ、しずく。面白い話、聞きたくない?」 「……また、変なサイトでも見たの」 「サイトじゃねえよ。もっと信憑性のあるソース。郷土史研究会の先輩から聞いたんだ。観月斎(みづきいつき)さんっていう、大学院の人。旧館の屋根裏にいる」  静は窓の向こうの旧館へ目をやった。屋根裏の窓はここから見えない。燈はそちらを見ず、皿の下の紙を指で押し込んだ。 「この街の
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第5話 返事のない夜
「やめて、燈」  彼の指が止まった。 「そんな話、聞きたくない。……気持ち悪い」  言ってから、静は言葉を選び損ねたと思った。儀式のことを言ったのに、燈の顔から何かが引いていった。静は紙へ視線を落とし、そこに人形のような細い線があるのを見た。 「そんなに簡単な話じゃ、ないんじゃないの」 「まあな。先輩にも、触るなとは言われたけど」  彼は紙を二つに折り、ポケットへ押し込んだ。 「おいおい、大げさだな、しずくは。ただの昔話だって。この大学の連中が好きそうな、ありがちなオカルト話の一つだよ」  彼はそう言って笑い、今度こそチーズケーキをフォークで刺して口に放り込んだ。しかし、その咀嚼の動きはどこかぎこちなく、味わっているようには見えなかった。ただ、この気まずい空気を霧散させるための、義務的な作業に過ぎない。 「……本当?」  静は、彼の目をじっと見つめた。自分の声が、自分でも驚くほどか細く震えていることに気づく。 「本当に、ただの作り話だと、思ってるの?」  燈はフォークを置いた。食器の触れ合う音の中で、その小さな音だけが、静の近くに残った。 「……もし、本当だったら、どうする?」  その声は、囁きに近かった。 「もし、本当に、自分の影に全部押し付けて、忘れられるとしたら……それって、すげえことだと思わないか?」  返す言葉が見つからなかった。忘れたいと思ったことなら、静にもある。講義室にいる時の苦しさも、知らない人間の気配に怯える自分自身も、何もかもどこかへ置いてこられたらと思う。その願いに触れる言葉を、燈は選んでいた。  けれど、静が頷くのを待つ目は、いつもの彼のものではないように見えた。 「何かあったなら、聞くから」  遅れて出た言葉を、燈は笑って受け流した。 「しずくには、関係ない話だよ」  そう言われると、聞き返せなかった。  燈はコーヒーを飲み、ほとんど残っているケーキを見下ろした。それから、思いついたような軽さで言った。 「俺さ、ちょっとやってみようと思うんだ」  静が椅子を引くより早く、彼は盆を持って立っていた。名前を呼ぶと、一度だけこちらを見た。右の眉は下がらなかった。 「私も、その先輩に話を聞く。一緒に行こう」  静は立ち上がって言った。燈は人の流れの向こうで片手を上げた。 「また今度な」  待
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第6話 来ない月曜日
 (またサボりか)  最初は、そう思った。いつもの気まぐれ。二日酔いか、寝坊か、あるいは新しく見つけた面白い遊びに夢中になっているのか。静は、そう必死に自分に言い聞かせながら、気だるげにノートの隅に意味のない図形を描き続けた。スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。指先が、わずかに震えていた。 『講義、来ないの』  短いメッセージを送る。すぐに既読がつくはずだった。いつもなら、数秒後には『ごめん寝坊した』とか『腹痛い(仮)』といった、ふざけたスタンプが返ってくる。だが、待てど暮らせど、画面の左側に浮かぶ「既読」の二文字は現れない。送信されたメッセージは、まるで返事のない深海に投げ込まれた石のように、何の反応も返さず沈黙している。  講義が終わり、昼休みになった。中庭のベンチで、もう一度電話をかける。呼び出し音が五回、十回と続き、やがて自動音声に切り替わった。静は名乗りかけてやめた。メッセージは、もう画面にいくつも並んでいる。  売店へ寄ると、新しい菓子が棚に並んでいた。金曜日に燈が話していたものだった。静は袋をひとつ取り、いつもの癖でもうひとつへ手を伸ばしてから、指を止めた。会った時に渡せばいい。それだけの理由で二つ買うことが、何かを見ないようにする行為に思えた。  結局、ひとつだけ買った。レジの人が、温めますかと尋ねた。温めなくていい商品だと気づいて言い直し、静も曖昧に笑った。そんな間違いが訂正され、何事もなく次の人の会計が始まる。自分の隣に一人いないことも、どこかで同じように言い直せるのではないかと思った。  昼食の代わりに食べようとして、袋が開かなかった。切り込みを探す指が、何度も同じ場所を滑った。  食堂で燈のサークル仲間を見つけ、連絡がないか尋ねた。男は「来てないね」と答え、食券の列を気にした。 「金曜から?」  聞き返してはくれた。静が頷くと、彼は少し眉を寄せたが、その表情はすぐにほどけた。 「旅行じゃないの。あいつなら」  燈なら。自分も、そう思おうとした。だが、それを他人の声で聞くと、かえって寒くなった。  帰り道、静は一人で霧の中を歩いた。前を行く人が自販機の脇で立ち止まり、体をかがめる。燈に似た色のパーカーだった。顔が見えるまで見つめ、別人だと分かって目を伏せた。  人違いのたびに、まだ探している自分に気づく
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第7話 二〇三号室
 燈のアパートは、大学から歩いて十五分ほどの、古い住宅街にあった。午後になっても霧は残り、家々の軒先から水滴の落ちる音がした。  アパートは、二階建ての、どこにでもあるような安普請の建物だった。錆びた鉄の階段が、建物の側面にへばりついている。壁の薄いベージュ色は、長年の雨風で汚れ、所々が黒くまだらに変色していた。まるで、建物の皮膚に浮き出た痣のようだ。静は、その異様な染みに、理由のない嫌悪感を覚えた。  燈の部屋は、二階の角部屋、二〇三号室。静は、軋む鉄の階段を一歩一歩、踏みしめるように登った。自分の足音が、霧に吸われて鈍く響く。二階の廊下は、昼間だというのに薄暗く、湿ったコンクリートの匂いがした。突き当たりの、二〇三号室のドアの前で、静は立ち止まる。ドアには、彼がふざけて貼ったのであろう、趣味の悪いキャラクターのステッカーが斜めに貼り付けられていた。その色彩だけが、この寂れた風景の中で、場違いなほどに明るかった。  静は、深呼吸を一つした。冷たく湿った空気が、肺の隅々まで染み渡る。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。ドアを開ければ、彼は寝ぼけ眼で「なんだよ、しずくかよ」と、いつものように笑うに違いない。これは、自分の過敏な感受性が見せている、ただの悪い夢なのだ。  震える指先で、インターホンに触れようとして――その指が、寸前で止まった。  ドアの前に、何かが落ちている。  それは、乾いた泥の塊のようだった。誰かの靴の裏についていたものが、ここで落ちたのだろうか。だが、その形は、ただの泥の塊ではなかった。歪な、まるで子供が描いたような、小さな、小さな人間の――「手」の形をしていた。  静は、泥を踏まないよう爪先をずらした。五本あるように見えた突起のうち、一つは欠けていた。何度見てもただの泥なのに、冷たさだけが靴の底から伝わってくる。  静は、まるで縫い付けられたかのようにその場から動けなかった。時間にして数秒。しかし、彼女の体感では永遠にも等しい時間だった。やがて、彼女は呪縛から解かれたように、はっと息を吸い込み、震える指でインターホンを押した。  ピンポーン、と間の抜けたチャイム音が、薄暗い廊下に響き渡る。静は、ドアの内側から聞こえるであろう、どんな微かな物音にも耳を澄ませた。スリッパの足音。衣擦れの音。「はい」という、気怠そうな声。しかし、返ってき
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第8話 白くなった名前
 指を離しても、感覚は消えなかった。鍵はかかったままだった。ドアの内側にどんな部屋があるのか、今の静には確かめる術がない。  階段を下りる時、片手で手すりを強く握った。こちらの錆のざらつきには、人が出入りする古い建物の匂いがあった。二〇三号室のノブだけが、建物から切り離されていた。◇ 家へ帰ると、静はしばらく玄関に座っていた。靴を脱ぐのも怖かった。片方ずつ裏を見て、泥がついていないことを確かめる。それでも、あの冷たさは右の指に残っていた。  どれくらいの時間が経っただろうか。窓の外が、濃い藍色から完全な黒へと沈んでいく。静の中で、恐怖と、それを必死に打ち消そうとする理性が、激しくせめぎ合っていた。  (おかしい。全部、おかしい)  あの感覚は、気のせいだ。疲れているからだ。過敏になった感覚が、ただの偶然を、恐ろしい何かの兆しへ結びつけているだけだ。燈は、どこかへ旅行にでも行っているのかもしれない。携帯をなくしたか、充電が切れているだけかもしれない。そうだ。そうでなければならない。  (警察に、行こう)  その考えは、暗闇の中で見つけた、か細い蜘蛛の糸のようだった。警察。それは「日常」や「常識」を司る、最も強固なシステムの象徴だ。彼らに話せば、きっと、この非現実的な恐怖を笑い飛ばしてくれるだろう。友人が数日連絡取れないだけで大袈裟な、と。そうやって、この狂い始めた世界を、元の正しい軌道に戻してくれるはずだ。  静はスマートフォンを充電し、燈の住所を書いた紙を持って外へ出た。誰かにあの扉を開けてほしかった。部屋で寝ているだけだと分かれば、自分が大袈裟だったことになってもよかった。  最寄りの駅前にある交番は、夜の闇の中に、無機質な蛍光灯の光を放っていた。そのあまりに「普通」の光景に、静はわずかに安堵を覚える。ガラスの引き戸を開けると、人の良さそうな年配の警察官と、あくびを噛み殺している若い警察官の二人がいた。 「どうしました?」  年配の警官が、穏やかな声で尋ねる。静は、乾いた唇を必死に動かした。 「あの……友人と、連絡が取れなくて」  最後に会ったのは金曜日の昼だった。夜から電話がつながらない。水曜日の今日、部屋を訪ねたが返事がなかった。順番を整えて話すと、年配の警察官は手元に書き留め、燈の住所を確認した。 「その前に、何か気になる話はし
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第9話 覚えているはずの人
 金曜日になった。  燈と最後に話した日から、一週間が経っていた。交番にも大学にも連絡を入れたが、無事だと分かる返事は得られていない。大学の担当者は、静が口にした名を二度、聞き返した。  世界は何も変わらずに回っている。講義は始まり、学生たちは単位と就職活動、あるいは刹那的な恋愛の話に興じている。その日常の風景が、今はひどく歪んで見えた。一枚の薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように、現実感が希薄だった。  燈がいなくなっただけ。たった一人、朱鷺燈という人間が消えただけだ。  なのに、なぜだろう。まるで世界そのものに巨大な穴が空いてしまったかのような、この途方もない喪失感は。  いや、違う。  本当に恐ろしいのは、その「穴」に誰一人として気づいていないという事実だった。  昼休み。ざわめきで飽和した文学部の中庭で、静は意を決して燈が所属していたバスケットボールサークルの中心人物に声をかけた。派手な色のスウェットを着た、快活そうな男たち。燈は、こういう世界の住人だった。 「あの……すみません」  静のか細い声は、彼らの大きな笑い声にかき消されそうになる。一人がようやく気づき、訝しげな視線を向けてきた。 「……なに?」 「朱鷺くんのことなんですけど……最近、見かけましたか?」  その名を口にした瞬間、空気が僅かに揺らぐのを静は感じた。違う。揺らいだのは空気ではない。目の前の男たちの、その表情の奥にある「何か」だ。 「とき?」  片方が眉をひそめて鸚鵡返しに問う。その声の響きには、知人の名前を聞いた時の自然な反応が欠けていた。まるで初めて聞く外国の地名のように、音の表面をただ舌でなぞっただけ。そんな無機質な響きだった。 「朱鷺燈くん。社会学部の。サークル、一緒でしたよね?」 「ああ……」  もう一人が億劫そうに頷く。記憶の引き出しを無理やりこじ開けるような、ぎこちない仕草だった。 「いたな、そんな奴。そういや最近見ないな。どしたの、あいつ」 「一週間、連絡が取れなくて……何か聞いてませんか?」 「さあ? 知らね。あいつ結構自由人じゃん。どっか行ってんじゃねえの」  会話はそれだけだった。男たちは興味を失ったように、すぐに仲間内の馬鹿話に戻っていく。その背中を見つめながら、静は自分の指先が氷のように冷えていくのを感じていた。  静は
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第10話 屋根裏の扉
 次の講義には、ほとんど遅れかけて入った。深琴の隣が空いていたが、静は後ろの席を選んだ。終わってから話そう。そう決め、前に見える柔らかな髪を、一時間、目で追っていた。  講義の終わりを告げるチャイムが遠くで鳴った。学生たちが一斉に立ち上がり、教室がにわかに活気づく。その喧騒の中で静は動けずにいた。深琴に話しかけるのが、怖かった。彼女の口から、あの男子学生たちと同じ色のない言葉を聞いてしまったら。  その時、不意に肩を叩かれた。 「静ちゃん? どうかしたの、顔色悪いよ」  振り向くと、深琴が心配そうに静の顔を覗き込んでいた。ふわりとしたパーマのかかった髪。パステルカラーの優しい色合いのニット。彼女の周囲だけ、空気が柔らかく澄んでいるように錯覚する。  静は親指を手の中へ握り込んだ。 「……深琴ちゃん」 「うん?」 「燈のことなんだけど」  深琴は静の顔を見たまま、返事をしなかった。名前を聞き取れなかったのかと思い、静はもう一度言った。 「朱鷺燈。先週、一緒にお昼、食べたでしょう」  深琴の唇が、何かを探すように動く。静はそれを見つめた。頷いてくれさえすれば、それだけでよかった。 「……とき、ともる?」  深琴は知らない名前を覚える時のように、一音ずつ繰り返した。  そして、申し訳なさそうに微笑んだ。 「誰だっけ、それ……?」  深琴は、その後も静の名前を呼んでいた。  立ち上がる時に鞄を落とし、拾ってもらったことは覚えている。「大丈夫?」と聞かれ、静は頷いた。頷く以外の動作をすれば、その場で何かが崩れてしまいそうだった。  廊下へ出ると、背後で学生たちが笑った。静に向けられた声ではない。それが分かっていても、足は人の少ない方へ向かっていた。  渡り廊下で立ち止まり、窓の外を見る。霧の薄れたキャンパスの端に、旧館の屋根が見えた。 『郷土史研究会の先輩から聞いたんだ』  燈の声が、そこで初めて言葉に戻った。  静はスマートフォンを出した。最後の写真を拡大し、旧館の窓と見比べる。三日月のように塗装が剥がれた窓枠。画像の左端に見える、傾いた掲示板。中へ入らなければ、同じ場所かどうかは分からない。  それでも、行く先ができた。  旧館の壁に触れると、煉瓦の冷たさが手袋のない指へ沁みた。文学部旧館。蔦の絡まる煉瓦造りの建物は、昼間だ
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