禁区の残穢

禁区の残穢

last updateLast Updated : 2025-12-11
By:  花柳響Updated just now
Language: Japanese
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他人の悪意が「澱み」として見え、日常に疲弊する女子大生、氷鉋静(ひがの しずく)。彼女の唯一の安息だった友人・燈(ともる)が、「咎(つみ)を喰う神様」の噂を追って忽然と姿を消した。 燈の記憶は周囲から急速に薄れ、静の日常は街を覆う濃霧と、自らの「影」が蠢く怪異に侵食されていく。 謎多き先輩・観月斎(みづき いつき)と共に、静はこの土地に根差す禁忌の真相へと足を踏み入れるが……。人々の罪悪感を糧とする土着神の恐怖を描く、心霊民俗ホラー。

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Chapter 1

第一話:澱み①

 ざらついた空気が、肺を満たす。

 ひな壇に立つ老教授の単調な声が、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってくる。初秋の午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだ。

 氷鉋ひがのしずくは、背中を丸めて、机の木目の一点をただ見つめていた。黒く染めていない髪が、肩のラインで無気力に切り揃えられている。長く伸ばした前髪が、その表情を隠すための重いカーテンの役目を果たしていた。度の弱い丸眼鏡は、他人と視線を合わせないための盾。そのレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めていた。

 頭が痛い。こめかみの内側で、鈍い痛みが心臓の鼓動に合わせて脈打っている。胃の腑のあたりが、冷たい水で満たされたように重苦しい。それは、いつものことだった。人が密集する閉鎖された空間では、必ずこの感覚に襲われる。

 原因は分かっている。

 空気中に溶け込んでいる、無数の「よどみ」。他人の感情の沈殿物。それは静にとって、比喩ではない。粘り気のある、黒いインクのようなそれは、目には見えないが、確かにそこにある。肌にまとわりつき、呼吸と共に体内に侵入し、神経を直接逆撫でする。

 三列前の席、必死にノートを取る女子学生の背中から立ち上る、焦げ付くような嫉妬の匂い。後方の席でスマートフォンを弄る男子学生たちの集団から発せられる、ぬるま湯のような退屈と、教授に対する侮蔑の気配。それらが混じり合い、講義室の空気をヘドロのように攪拌している。

 吐き気がした。喉の奥が、酸っぱいもので塞がれる。

 静は無意識に左手の親指を口元へ運び、爪の縁を小さく噛んだ。かり、と乾いた音が、自分だけの世界で鳴る。規則正しい痛みだけが、他人の感情の濁流から意識を引き離してくれる唯一の錨だった。この感覚がなければ、自分という輪郭が溶けて、他人の悪意の海に沈んでしまいそうだった。

「……普通、とは何なのだろう」

 声にはならない声が、乾いた唇から漏れる。

 誰もが、この汚染された空気の中で平然と呼吸をしている。笑い、欠伸をし、眠り、あるいは誰かを妬んでいる。彼らにとって、それは当たり前の日常の一部なのだろう。この澱みを感じないこと、それが「普通」なのだとしたら、自分は明らかに異常者だ。

 早く、終わってほしい。

 ただそれだけを願いながら、静は再び机の木目に意識を集中させた。爪を噛む力が、わずかに強まる。

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第一話:澱み①
 ざらついた空気が、肺を満たす。 ひな壇に立つ老教授の単調な声が、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってくる。初秋の午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだ。 氷鉋静は、背中を丸めて、机の木目の一点をただ見つめていた。黒く染めていない髪が、肩のラインで無気力に切り揃えられている。長く伸ばした前髪が、その表情を隠すための重いカーテンの役目を果たしていた。度の弱い丸眼鏡は、他人と視線を合わせないための盾。そのレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めていた。 頭が痛い。こめかみの内側で、鈍い痛みが心臓の鼓動に合わせて脈打っている。胃の腑のあたりが、冷たい水で満たされたように重苦しい。それは、いつものことだった。人が密集する閉鎖された空間では、必ずこの感覚に襲われる。 原因は分かっている。 空気中に溶け込んでいる、無数の「澱み」。他人の感情の沈殿物。それは静にとって、比喩ではない。粘り気のある、黒いインクのようなそれは、目には見えないが、確かにそこにある。肌にまとわりつき、呼吸と共に体内に侵入し、神経を直接逆撫でする。 三列前の席、必死にノートを取る女子学生の背中から立ち上る、焦げ付くような嫉妬の匂い。後方の席でスマートフォンを弄る男子学生たちの集団から発せられる、ぬるま湯のような退屈と、教授に対する侮蔑の気配。それらが混じり合い、講義室の空気をヘドロのように攪拌している。 吐き気がした。喉の奥が、酸っぱいもので塞がれる。 静は無意識に左手の親指を口元へ運び、爪の縁を小さく噛んだ。かり、と乾いた音が、自分だけの世界で鳴る。規則正しい痛みだけが、他人の感情の濁流から意識を引き離してくれる唯一の錨だった。この感覚がなければ、自分という輪郭が溶けて、他人の悪意の海に沈んでしまいそうだった。「……普通、とは何なのだろう」 声にはならない声が、乾いた唇から漏れる。 誰もが、この汚染された空気の中で平然と呼吸をしている。笑い、欠伸をし、眠り、あるいは誰かを妬んでいる。彼らにとって、それは当たり前の日常の一部なのだろう。この澱みを感じないこと、それが「普通」なのだとしたら、自分は明らかに異常者だ。 早く、終わっ
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第二話:澱み②
 ようやく解放を告げるチャイムが鳴り響いた時、静はほとんど虚脱していた。我先にと席を立つ学生たちの作る人の波が、新たな「澱み」の渦を巻き起こす。苛立ち、安堵、空腹、性欲。生々しい感情の奔流が、最後の気力を奪い去っていく。静は、その濁流が過ぎ去るのを、息を殺して待った。 誰もいなくなった講義室で、数分間。ようやく立ち上がると、足が僅かに震えていた。壁際に沿うようにして廊下へ出て、中庭に面した渡り廊下を目指す。ガラス窓の外、午後の陽光を浴びた芝生の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。 外気に触れた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。肺の奥にこびりついていたヘドロのような空気が、ようやく洗い流されていく。頭痛はまだ残っているが、胃の不快感は少しだけ和らいだ。「しずく!」 背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。けれど、その声の持ち主を認識した瞬間、強張っていた全身の筋肉が、意思とは関係なく弛緩した。 振り向くと、朱鷺燈が立っていた。 オレンジブラウンに染め抜かれた髪が、西日に透けて燃えるように輝いている。大きなロゴの入ったパーカーに、緩いシルエットのカーゴパンツ。左耳で揺れるいくつものピアスが、彼が歩くたびに、ちり、と微かな金属音を立てた。 静とは何もかもが正反対の、光と音の塊のような男。「なんだよ、また死にそうな顔して。教授の話、そんなに退屈だった?」 悪戯っぽく笑いながら、燈は静の隣に並んだ。不思議だった。彼が隣に来た途端、周囲の学生たちのざわめきや、彼らが発する感情の「澱み」が、すっと遠のいていく。まるで、燈の存在が強力なフィルターのように、静の世界を守る透明な壁を作ってくれるかのようだった。彼の周りの空気だけが、澄んでいる。 こめかみを締め付けていた万力のような痛みが、和らいでいく。「……別に」「別に、じゃねーだろ。顔、真っ青だぞ」 燈はそう言うと、自販機で買ったらしい缶コーヒーを静の頬に押し当てた。ひやり、とした感触に、また肩が震える。「ほら、これやるよ。糖分足りてねーんじゃねえの」「……ありがとう」 かさついた声で礼を言うと、燈は「おう」と短く応え、自分の分の缶コーヒーのプルタブを開けた。カシュ、という軽快な音が鼓膜を心地よく揺らす。 彼の屈託のない笑顔。その前では、他人の悪意も、世界の澱
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第三話:澱み③
 燈の背中は、静にとって世界の中心だった。 彼が前を歩き、静がその後ろを数歩ぶんだけ離れてついていく。その付かず離れずの距離が、今の静には何よりも安全なテリトリーに思えた。彼の少し広い肩幅、ワックスで無造作に立てた髪の束が歩くたびに揺れる様、ストリート系のパーカーがつくる緩やかな輪郭。そのすべてが、静を四六時中苛む無数の「澱み」から彼女を守る、唯一の防波堤だった。 彼が楽しげに話すカフェの新しいメニューのことや、昨日見た深夜アニメの馬鹿げた展開について、静は半分も聞いていなかったかもしれない。ただ、彼の声の響き、その屈託のない明るい音色が、常にささくれ立っている神経を、薄くて柔らかい膜で包んでくれるのを感じていた。頭の中で絶えず鳴り響いている、他人の悪意のノイズが、彼と一緒にいる時だけは、遠い世界の出来事のように薄れていく。このまま、時間が止まってしまえばいい。そう、本気で願った。 渡り廊下を抜け、校舎の出口へ向かう。血のようなオレンジ色を帯びた西日が、床のワックスに反射して視界を焼く。その角を曲がった、瞬間だった。 一歩先を歩いていた燈の身体が、一瞬だけ、強い光の中に黒いシルエットとして浮かび上がる。 静の呼吸が、凍りついた。 違う。 燈の背中に、彼ではない「何か」が、ぴったりと張り付いている。 それは影ではなかった。影ならば、彼の足元に、アスファルトの色より少しだけ濃く落ちているはずだ。静が見たのは、もっと立体的で、冒涜的な黒。まるで、人間の形をした「虚無」が、インクの染みのように燈の背中に重なっている。陽炎のように輪郭がぐらりと揺らめき、その手足は燈自身のものより僅かに長く、病的に細い。まるで、燈を背後から抱きしめて所有権を主張するかのように、その黒い人影は存在していた。光を喰らい、熱を吸い取り、存在そのものを否定するような、絶対的な「無」の塊。 一秒にも満たない幻覚。 静が強く瞬きをすると、それはもう跡形もなく消えていた。そこにいるのは、いつも通りの朱鷺燈だ。彼は何も気づかずに、不思議そうな顔で振り返る。「しずく? どうかしたか?」 声が出なかった。喉の奥が、乾いた砂で擦られるようにひりつき、声帯が鉛のように固まっている。さっきまで和らいでいたはずの頭痛が、こめかみの内側に灼けた鉄の杭を打ち込まれたかのように、一際激しく再発した。胃の
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第四話:咎凪の霧①
 その朝、咎凪市は乳白色の息を吐いていた。 静がアパートの窓を開けると、粘り気のある冷気が奔流のように流れ込んできて、肌を粟立たせる。外の世界は、完全に「白」に塗り潰されていた。隣の建物の輪郭も、電線の黒い線も、すべてが曖昧なグラデーションの中に溶け落ちている。季節外れの、濃すぎる朝霧。この街では、珍しくもない光景だった。 だが静にとって、この霧は単なる気象現象ではなかった。「……土の匂い」 乾いた唇から、吐息と共に言葉が漏れる。 それは、湿った腐葉土の匂いだ。黴の胞子と、掘り起こされたばかりの古い土が混じり合ったような、生命の循環から取り残された死の匂い。人々はこれを「盆地特有の天気」と片付けるが、静の神経は、その奥にある本質を正確に感じ取っていた。これは空気が運んでくる匂いではない。土地そのものが、皮膚呼吸のように吐き出している「澱み」の気配だ。 古くから、この土地の霧は「黄泉路の帳」と呼ばれていると、祖母から聞かされたことがある。現世と常世の境界を曖昧にする、忌むべきもの。その言葉の意味を、静は肌で理解していた。視界が奪われるからではない。霧に満たされた世界では、あらゆるものの輪郭が、存在の確かさが、揺らいでしまうからだ。 大学へ向かう道は、異界への入り口と化していた。 数メートル先でさえ、白く煙っている。街灯の光はぼんやりと滲み、まるで水底から見上げる月のように頼りない。いつもは賑やかなはずの駅前通りも、今日に限っては、しんと静まり返っていた。車のヘッドライトが、霧の壁の向こうで不意に点灯しては、音もなく通り過ぎていく。人の話し声も、足音も、分厚い綿に吸い取られたように遠い。 自分の足音だけが、湿ったアスファルトの上でやけに大きく響いた。 霧の奥から、何かが現れる。それは人であり、自転車であり、時には犬を連れた老人だ。しかし、彼らが白い闇から姿を現すその瞬間、静の心臓はいつも氷の塊に握り潰されるような感覚に襲われた。あれは本当に、いつも通りの日常の一部だろうか。霧という帳の向こう側からやってきた、別の「何か」ではないのか。 そんな妄想に囚われながら歩いていると、不意に、すぐ背後で甲高いブレーキ音が鳴った。びくりと振り返るが、そこには誰もいな
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第五話:咎凪の霧②
 大学の正門が見えてきたところで、霧の壁から不意に人影が滲み出した。心臓が喉元まで跳ね上がる。だが、その輪郭が色を得るにつれて、安堵が恐怖を上書きしていった。最初に視界に飛び込んできたのは、この白の世界で唯一彩度を許されたような、オレンジブラウンの髪だった。「よお、しずく。遅かったじゃん」 朱鷺燈が、ポケットに手を突っ込んだまま立っていた。彼がそこにいるだけで、濃霧が作り出した非日常の風景に、無理やり日常のラベルが貼り付けられる。まとわりつくような土の匂いが、少しだけ薄れた気がした。「……待っててくれたの」「んー、まあな。こんな日に一人だと、どっかに連れてかれそうだろ」 燈はそう言って笑った。けれど、その笑みはいつもの太陽のような明るさとは違い、どこか湿っている。霧が彼の輪郭だけでなく、その快活ささえも僅かに侵食しているようだった。 二人で並んで、霧に包まれたキャンパスを歩く。人の姿はまばらで、足音が白い静寂に吸い込まれていく。「しかし、すげえ霧だな」 燈が、面白そうに周囲を見回しながら言った。「この霧、何かを隠すのにちょうどいいよな」 その言葉は、静の背骨を冷たい指でなぞるような感触を残した。冗談めかした口調。だが、静の耳には、それが単なる冗談には聞こえなかった。昨日見た、彼の背中に張り付いていた黒い人影の幻覚が、脳裏を掠める。隠す。何を? あるいは、誰を?「……不吉なこと言わないで」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。「はは、わりいわりい。でもさ、マジで何も見えねえ。自分の影すら、すげえ薄いし」 燈が、自分の足元に目を落とす。確かに、霧が光を乱反射させているせいで、地面に落ちる影はほとんど見えなかった。まるで、最初から存在しないかのように。 その時、燈がぴたりと足を止めた。 静もつられて立ち止まる。彼の横顔から、表情が抜け落ちていた。いつもの人懐っこい笑顔も、悪戯っぽい光も消え、能面のように平坦になっている。視線は、何もないはずの地面の一点に縫い付けられていた。 霧が、二人の周りで音もなく渦を巻く。「なあ、しずく」 彼の声は、ひどく低く、抑揚がなかった。「最近、影を踏まれるのが怖いんだ」 それは、神経質に研ぎ澄まされた刃物のような呟きだった。静は、返事もできず、ただ彼の横顔を見
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第六話:影喰の噂①
 ざわめきが、ぬるま湯のように思考を鈍らせる。 大学のカフェテリアは、昼のピークを過ぎてもなお、無数の声と食器の触れ合う音、そして様々な人間の感情の匂いで飽和していた。氷鉋静は、テーブルの隅で背中を丸め、色の抜けたチャコールグレーのパーカーのフードを深く被っていた。気休めに過ぎないとわかっていても、そうせずにはいられない。他人の視線が、声が、その裏側にある粘ついた本音が、彼女の皮膚を直接撫でるようで、全身の肌が粟立つのを止められなかった。 誰もが、無害な笑顔の仮面を貼り付けている。友人の成績を妬む声。恋人の無神経さを詰る声。講義への退屈と、未来への漠然とした、しかし自己本位な不安。それら一つ一つが、静にとっては明確な形と色を持つ「澱み」として見えた。それは物理的な汚れのように空間に浮遊し、呼吸のたびに肺腑を汚していく。胃の奥がじりじりと灼けるような不快感に、静はアンティークシルバーの丸眼鏡のブリッジを押し上げ、テーブルの木目をただ見つめた。爪を噛む癖が、また顔を出す。親指の先に歯を立てた瞬間、不意に、澱みを切り裂くような明るい声が鼓膜を打った。「しずく、いた! 探したぜ」 顔を上げると、朱鷺燈が盆を片手に立っていた。オレンジブラウンに染め上げた髪が、カフェテリアの気怠い照明を吸って鮮やかに光る。安全ピンのピアスが揺れ、派手なロゴの入ったパーカーが、周囲のくすんだ風景から浮き上がっていた。彼がそこにいるだけで、澱んだ空気がわずかに晴れるような錯覚を覚える。静にとって、燈の存在はそういうものだった。彼の内側から発せられる光は、他人の悪意の影を薄めてくれる。「……燈」「隣、いい?」 静が頷くより先に、燈は向かいの席にどかりと腰を下ろした。アメリカンコーヒーと、ほとんど手をつけていないチーズケーキが盆の上に乗っている。彼は甘いものが好きだが、それ以上に、誰かと話すためのおもちゃとしてそれを買う癖があった。「またそんな暗い顔して。世界終わんの?」 からかうような口調。だが、静はその裏にある心配の色を正確に感じ取る。だからこそ、彼女は燈の前でだけ、少しだけ心の壁を低くできるのだ。「別に。通常運転」「通常運転がそれってのが問題なんだよなー」 燈はプラスチックのフォークでチーズケーキの角を無意味に突き
last updateLast Updated : 2025-10-27
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第七話:影喰の噂②
 燈は、静の反応を面白がるように口の端を吊り上げた。だが、その瞳の奥に宿る光は、単なる好奇心とは異質な、もっと粘り気のある何かに変質しているように見えた。静は、彼の背後に一瞬だけ見えた、あの黒い人影の幻覚を思い出していた。あれは、彼の内側に巣食う「何か」の予兆だったのかもしれない。「ビビってんの、しずく? まあ、名前からしてヤバいもんな」 彼はわざと軽い口調で言い、フォークでケーキを一口分すくい取った。しかし、それを口に運ぶことなく、再び皿の上に戻す。食欲など、とうに失せているようだった。「そのウツロ様ってのが、この咎凪市の、いわば土着神みたいなもんなんだと。でも、神社とかがあるわけじゃない。実体がないんだ。空っぽ。だから『虚』様」 その説明は、カフェテリアの雑音に紛れて掻き消えてしまいそうなほど静かだったが、静の耳には呪いの言葉のようにこびりついた。実体がない。それは、どこにでもいるということだ。この澱んだ空気の中にも、霧の中にも、人の心の隙間にも。「でな、そのウツロ様を信仰してた連中が、昔やってた儀式がある。それが――『カゲオクリ』」 影送り。その言葉の不吉な響きに、静は喉の奥が乾ききるのを感じた。心臓が、嫌なリズムで脈打ち始める。「人間、誰だってあるだろ。ミスったこととか、誰にも言えない秘密とか、忘れてえ記憶とか……そういう『咎』がさ」 燈の視線が、ふいと静から外れ、窓の外の灰色の空に向けられる。その横顔に、一瞬、彼のものではない深い疲労と苦悩の色がよぎったのを、静は見逃さなかった。彼の纏う光が、翳っていく。「その『咎』を、自分の影に移すんだと。強く、強く念じるんだ。あの時の罪悪感を、この後ろめたさを、全部、俺の影にくれてやる、ってな」 それは、遊びや噂話にしては、あまりにも具体的で、生々しい手順だった。まるで、誰かの切実な願いが、長い年月を経て儀式という形にまで練り上げられたかのような。静の脳裏に、湿った土の匂いと、暗い沼のイメージが勝手に浮かび上がった。「そうして自分の『咎』を全部吸わせた影を、『ウツロ様』に捧げる。……つまり、喰ってもらうんだ」「……喰ってもらう?」 掠れた声で問い返すのが精一杯だった。「ああ。影を喰われ
last updateLast Updated : 2025-10-27
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第八話:影喰の噂③
 静の切実な声に、燈は一瞬、虚を突かれたように目を瞬かせた。そして、次の瞬間にはもう、いつもの人懐っこい笑顔に戻っていた。だが、その切り替わりのあまりの速さが、逆に不気味な印象を与える。まるで、スイッチを切り替えるように、表情の仮面を付け替えたかのようだった。「おいおい、大げさだな、しずくは。ただの昔話だって。この大学の連中が好きそうな、ありがちなオカルト話の一つだよ」 彼はそう言って笑い、今度こそチーズケーキをフォークで刺して口に放り込んだ。しかし、その咀嚼の動きはどこかぎこちなく、味わっているようには見えなかった。ただ、この気まずい空気を霧散させるための、義務的な作業に過ぎない。「……本当?」 静は、彼の目をじっと見つめた。自分の声が、自分でも驚くほどか細く震えていることに気づく。「本当に、ただの作り話だと、思ってるの?」 燈の動きが、ぴたりと止まった。彼の喉が、ごくりと鳴る。カフェテリアの喧騒が、また嘘のように遠ざかっていく。静と燈、二人の間のテーブルだけが、真空のスポットライトに照らされているかのようだ。 やがて燈は、フォークを皿の上に、ことり、と置いた。その乾いた音が、やけに大きく響く。「……もし、本当だったら、どうする?」 その声は、囁きに近かった。「もし、本当に、自分の影に全部押し付けて、忘れられるとしたら……それって、すげえことだと思わないか?」 その言葉は、静の心の最も柔らかな部分を、冷たい刃物で抉るようだった。彼の「光」に安らぎを感じていたのは、彼が「影」を知らない人間だと思い込んでいたからだ。だが違った。彼は誰よりも深く、濃い影を、その眩しい光の裏側に隠し持っていた。そして今、その影が彼の魂を喰い尽くそうとしている。 静は何も言えなかった。どんな言葉も、彼の絶望の深さには届かないと悟ってしまったからだ。否定すれば、彼はますます頑なになるだろう。肯定すれば、彼の背中を押すことになる。 沈黙を肯定と受け取ったのか、燈はふっと息を漏らし、再びあの屈託のない笑顔を顔中に貼り付けた。完璧な、しかしだからこそ恐ろしい、能面のような笑顔だった。「俺さ、ちょっとやってみようと思うんだ」 その声は、信じられないほど明るく、弾んでいた。まるで、明日ど
last updateLast Updated : 2025-10-27
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第九話:失踪①
月曜日の講義に、朱鷺燈は来なかった。 静は、講義室の決まった席で、彼の空けた隣の席を時折盗み見ていた。それは単なる空席ではなかった。ぽっかりと口を開けた、黒い穴。世界の彩度を吸い込んでいくような、絶対的な虚無。いつもなら、開始のチャイムが鳴り終わった頃に、わざとらしい足音を立てて彼が入ってくるはずだった。気怠い教授の声が反響する広い講義室で、彼の存在だけが、静にとって唯一、澱んだ空気から身を守るための結界だった。しかし、その結界は今日、何の予兆もなく失われ、他人の悪意や無関心といった「澱み」が、濃さを増してじっとりと肌にまとわりついてくる。(またサボりか) 最初は、そう思った。いつもの気まぐれ。二日酔いか、寝坊か、あるいは新しく見つけた面白い遊びに夢中になっているのか。静は、そう必死に自分に言い聞かせながら、気だるげにノートの隅に意味のない図形を描き続けた。スマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。指先が、わずかに震えていた。『講義、来ないの』 短いメッセージを送る。すぐに既読がつくはずだった。いつもなら、数秒後には『ごめん寝坊した』とか『腹痛い(仮)』といった、ふざけたスタンプが返ってくる。だが、待てど暮らせど、画面の左側に浮かぶ「既読」の二文字は現れない。送信されたメッセージは、まるで返事のない深海に投げ込まれた石のように、何の反応も返さず沈黙している。 講義が終わる。昼休みになる。午後の講義が始まる。時間が、灰色の水に落とした黒い塗料のように、静かに、しかし確実に日常の輪郭を侵食していく。静は、もう一度だけ燈に電話をかけてみた。コール音が、鼓膜の奥で無機質に、そして拷問のように繰り返される。五回、十回、十五回。胃の腑がゆっくりと凍っていく。留守番電話に切り替わる気配すらない。ただ、延々と呼び出し音が続くだけ。まるで、電波の届かない、世界の果てに向かって呼びかけているかのような、絶望的な不通。その合成音の向こう側にあるのは、完全な「無」だった。 その日の終わり、静は一人で咎凪市の霧の中を歩いていた。湿った土の匂いがする、境界を曖昧にする冷たい霧。いつもは忌々しいだけのこの霧が、今日に限っては、燈がどこかに隠れてしまったこの世界の輪郭そのもののように感じら
last updateLast Updated : 2025-10-28
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第十話:失踪②
火曜日が過ぎた。 燈の席は、昨日と同じように空いていた。静からのメッセージは未読のままで、まるでインターネットの広大な海の底に沈んでしまったかのようだった。講義室のざわめきの中で、静は自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえるのを感じていた。ドクン、ドクン、と、不安の拍動が耳の奥で鳴り響く。昨日まで「空白」だった隣の席は、今日、明確な「喪失」の形を取り始めていた。 水曜日。朝から咎凪市は深い霧に包まれていた。視界を白く塗り潰す霧は、音さえも吸い込んでしまう。静は大学を休んだ。理由は、体調不良ということにしておいたが、本当は怖かったのだ。燈のいない、あの講義室の空虚さに耐える自信がなかった。 自室のベッドの上で、静は何度も燈のSNSアカウントを開いた。最後の更新は、四日前の金曜日。静とカフェテリアで話した、あの日だ。『これから面白いことしてくる』。そんな一文と、薄暗いどこかの廊下で撮られたブレた写真が投稿されているだけだった。その投稿に、いつもならすぐに群がるはずの友人たちからのコメントは一つもついていない。まるで、その投稿自体が誰にも見えていないかのように。 静かな恐怖だった。爆発的な事件ではない。誰かが悲鳴を上げるわけでもない。ただ、水がティッシュペーパーに染み込んでいくように、じわじわと、朱鷺燈という人間の存在が、日常から滲んで消えていく。その過程を、自分だけが観測している。その事実が、静の正気を少しずつ削り取っていった。 午後になり、静はベッドから這い出た。もう、待ってはいられない。いてもたってもいられず、彼女はアースカラーのくたびれたパーカーを羽織り、アパートの部屋を飛び出した。 燈のアパートは、大学から歩いて十五分ほどの、古い住宅街の一角にあった。霧はさらに深くなっている。街灯が、ぼんやりとした光の暈を白濁した空気の中に作っているだけだ。道行く人の姿もない。世界に自分一人だけが取り残されたような錯覚。静は、自分の吐く息が白く染まって霧に溶けていくのを、どこか他人事のように眺めていた。 アパートは、二階建ての、どこにでもあるような安普請の建物だった。錆びた鉄の階段が、建物の側面にへばりついている。壁の薄いベージュ色は、長年の雨風で汚れ、所々が黒くま
last updateLast Updated : 2025-10-29
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