LOGIN他人の悪意が「澱み」として見え、日常に疲弊する女子大生、氷鉋静(ひがの しずく)。彼女の唯一の安息だった友人・燈(ともる)が、「咎(つみ)を喰う神様」の噂を追って忽然と姿を消した。 燈の記憶は周囲から急速に薄れ、静の日常は街を覆う濃霧と、自らの「影」が蠢く怪異に侵食されていく。 謎多き先輩・観月斎(みづき いつき)と共に、静はこの土地に根差す禁忌の真相へと足を踏み入れるが……。人々の罪悪感を糧とする土着神の恐怖を描く、心霊民俗ホラー。
View Moreざらついた空気が、肺を満たす。
ひな壇に立つ老教授の単調な声が、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってくる。初秋の午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだ。
頭が痛い。こめかみの内側で、鈍い痛みが心臓の鼓動に合わせて脈打っている。胃の腑のあたりが、冷たい水で満たされたように重苦しい。それは、いつものことだった。人が密集する閉鎖された空間では、必ずこの感覚に襲われる。
原因は分かっている。
空気中に溶け込んでいる、無数の「
三列前の席、必死にノートを取る女子学生の背中から立ち上る、焦げ付くような嫉妬の匂い。後方の席でスマートフォンを弄る男子学生たちの集団から発せられる、ぬるま湯のような退屈と、教授に対する侮蔑の気配。それらが混じり合い、講義室の空気をヘドロのように攪拌している。
吐き気がした。喉の奥が、酸っぱいもので塞がれる。
静は無意識に左手の親指を口元へ運び、爪の縁を小さく噛んだ。かり、と乾いた音が、自分だけの世界で鳴る。規則正しい痛みだけが、他人の感情の濁流から意識を引き離してくれる唯一の錨だった。この感覚がなければ、自分という輪郭が溶けて、他人の悪意の海に沈んでしまいそうだった。
「……普通、とは何なのだろう」
声にはならない声が、乾いた唇から漏れる。
誰もが、この汚染された空気の中で平然と呼吸をしている。笑い、欠伸をし、眠り、あるいは誰かを妬んでいる。彼らにとって、それは当たり前の日常の一部なのだろう。この澱みを感じないこと、それが「普通」なのだとしたら、自分は明らかに異常者だ。
早く、終わってほしい。
ただそれだけを願いながら、静は再び机の木目に意識を集中させた。爪を噛む力が、わずかに強まる。
どのようにしてアパートまで帰り着いたのか、記憶は曖昧だった。 早朝の街は暴力的なまでに日常を取り戻している。新聞配達のバイクの音、部活の朝練に向かうジャージ姿の学生たち、ごみを出す主婦の姿。泥まみれで幽鬼のようにふらつく静を、彼らは怪訝そうに見るか、あるいは関わり合いになるまいと視線を逸らして通り過ぎていく。 その反応がありがたかった。もし誰かに「大丈夫ですか」と声をかけられたら、その場で叫び出してしまっていたかもしれない。 世界は正常に機能している。昨夜、地下であれほどの怪異が起き、一人の人間が泥に飲まれて消滅し、もう一人が精神を破壊されたというのに。地上は何食わぬ顔で、新しい朝を迎えている。あまりの無関心さが薄ら寒く、吐き気がするほど空々しい。 アパートの部屋に入り、鍵をかける。ガチャリと鳴った金属音が、世界と自分を隔てる最後の結界のように響いた。 玄関のたたきに座り込み、泥だらけのスニーカーを脱ぐ。靴紐の間まで入り込んだ黒い泥は、乾いてボロボロと崩れ落ちた。ただの土ではない。数千人の死者の怨念と、燈の「咎」が凝縮された残骸だ。 「……汚い」 呟くと、涙が溢れてきた。 汚い。自分が汚い。友人を殺して、自分だけがのうのうと生き残って帰ってきた、薄汚れた身体が憎い。 服を脱ぎ捨て、浴室へ向かう。シャワーをひねると冷たい水が出たが、構わずに頭から浴びた。排水口へ流れていく水は墨汁のように黒い。 髪にこびりついた泥を爪で掻き出す。皮膚に染みついた腐敗臭を落とそうと、スポンジで肌が赤くなるまで擦る。けれど、匂いは落ちない。鼻の奥の粘膜に、地下書庫の湿ったカビの臭いが焼き付いてしまっている。 「落ちて……落ちてよ……ッ」 嗚咽しながら、身体を傷つける勢いで洗い続けた。 鏡を見るのが怖かった。曇った鏡の向こうに、また「蠢く影」が見えるんじゃないか。背後に燈の亡霊が立っているんじゃないか。 恐る恐る顔を上げる。 鏡の中には、濡れた髪を張り付かせ、充血した目でこちらを見つめる青白い顔の女が一人映っているだけだった。 影は遅れない。歪みもしない。 ただの、疲れ切った、抜け殻のよ
地上への扉が開いた瞬間、網膜を焼いたのは暴力的なまでに清浄な朝の光だった。 地下書庫の重厚な鉄扉の向こう側には、昨夜の世界を塗り潰していた異界の霧はない。ただ白々とした冬の夜明けが広がっているだけだ。肺に流れ込んできた空気は氷の針を含んだように冷たく、無味無臭だった。 さっきまで鼻腔を犯していた湿った土と腐敗の臭い、何千もの死者が吐き出す怨嗟の熱気。それらが嘘のように遮断され、あまりの落差に視界がぐらりと揺れる。「……出たぞ」 頭上から降ってきた声には、少しの乱れも温度もなかった。 足がコンクリートの地面を踏んでいる。泥ではない。吸い付くような粘り気も、這い上がってくる触手もない、ただの固い地面だ。膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。「あ……、はぁ……」 呼吸をするたびに、肺の奥から泥の味がした。身体は地上に戻ったが、内側はまだ暗い泥の中に半分浸かっている感覚が抜けない。 自分の手を見る。爪の隙間、指の皺の間に、黒く乾いた泥がこびりついている。単なる汚れではない。あの場所で触れた「咎」の残滓のように見えて、慌てて手をこすり合わせる。落ちない。皮膚の下にまで染み込んでしまったかのように、黒い染みは消えなかった。「……う、……うぅ……」 隣で、うめく塊があった。 慧だ。地面に投げ出されたまま、胎児のように背を丸めて震えている。泥と脂汗で固まった髪。汚れ、破れたブランド物のスーツ。かつて鋭い眼光を放っていた瞳は焦点を結ばず、どこか遠くの虚空を彷徨っていた。「……トリック……全部、トリック……」 譫言のように繰り返される言葉は、もう意味を成していない。首筋には、泥人形に掴まれたどす黒い手形が火傷の痕のようにくっきりと残っていた。彼女が直面した現実の証拠だ。だが、彼女の精神は受容を拒絶し、結果として砕け散ってしまったのだろう。 かける言葉は見つからなかった
ドォォォォォン!! 繭が内部から爆発するように膨張し、泥の一部が弾け飛ぶ。 その裂け目から、二つの影がもつれ合うのが見えた。 一つは、必死に何かにしがみつく、小さな影。静。 もう一つは、それを飲み込もうとする、巨大で不定形な影。燈であり、ウツロ様であるもの。「今だ」 瞳孔が開く。 この瞬間、二つの影の輪郭が明確に分かれた。 躊躇なく、掲げていた手鏡を振り下ろすように構え、鏡面を繭の裂け目に差し向ける。「――穿て!!」 咆哮。 鏡面から、目に見えない衝撃波が放たれた。 光線でも物理的な力でもない。「認識」の強制書き換え。鏡に映ったものを「実体」として固定し、そこにあるものを「虚像」として弾き飛ばす、因果の逆転。 ガシャアァァァァァッ!! 地下空間全体が、巨大な鏡が割れたような轟音に包まれた。 空間に亀裂が走り、泥の繭が真っ二つに裂ける。「ぎゃあぁぁぁぁぁッ!!」 繭の中から、この世のものとは思えない断末魔が響いた。 静の声であり、燈の声であり、そして泥に沈みかけていた慧の悲鳴とも重なる。 斎の放った一撃は、静と燈の結合部を正確に断ち切っただけではない。その余波が周囲の空間ごと衝撃を与え、慧に群がっていた影たちさえも吹き飛ばしたのだ。「……チッ、余計なものを」 顔をしかめる。 慧を助けるつもりはなかった。だが、鏡の出力が高すぎたせいで、結果的に周囲の雑魚を一掃してしまった。 吹き飛ばされた影たちが霧散し、泥の中から慧の体がボロ屑のように放り出される。「ごほっ、ごほっ……!」 泥の上に転がり、激しく咳き込む慧。 全身泥まみれで、髪も服も皮膚も溶けかかっている。だが、生きている。 虚ろな目で、裂けた繭の方を見上げた。 そこには、泥の中から這い出そうとする静の姿があった。 そしてその背後――切り離された巨大な「燈の影」が、苦痛にのたうち回りながら、形を保てずに崩壊しようと
地下書庫の高い天井に、女の悲鳴が不協和音となって降り注ぐ。 泥の触手が太ももまで這い上がり、高価なスーツの生地を腐食させながら肉に食い込む。焼けるような痛みに、慧は半狂乱で泥を掻きむしった。「いやぁぁッ! 入ってくる……! 泥が、体の中に……!」 皮膚の毛穴という毛穴から、おぞましい「他人の記憶」が侵入してくる。 何十年も前にここで死んだ者の後悔、痛み、怨嗟。それらが汚水となって血管を巡り、自我を内側から汚染していく。 だが、観月斎は止まらない。 慧の絶叫を、単なる環境音の一部として処理し、思考を研ぎ澄ませる。 優先順位は明確だった。 第一に、「ウツロ様」の核である朱鷺燈の影を切り離すこと。 第二に、そのために必要な「隙」を見極めること。 廻慧の命は、そのリストのどこにも記述されていない。「……悪くない」 手鏡の曇った表面を親指で拭いながら、独り言ちる。 視線の先には、脈動する巨大な泥の繭。 中には氷鉋静がいる。彼女は自らの強い感受性を触媒にして、ウツロ様の意識を内側に引きつけている。 そして背後では、廻慧が「雑魚」の影たちに襲われ、新鮮な恐怖と絶望を撒き散らしている。「あの女の『咎』……独善的な正義と、無自覚な加害性。それは腐った肉のように強烈な臭いを発する。……奴らにとっては、抗いがたい撒き餌だ」 計算は冷徹だった。 静が「本体」を抑え込み、慧が「周囲」を引きつける。この二重の囮によって、斎自身への攻撃は最小限に抑えられ、本体への接近が可能になる。「み、観月……ぅ……!」 背後から、空気を絞り出すような喘ぎ声。 慧の首に泥の手が巻き付いたのだ。 視線が、斎の背中に突き刺さる。助けて、という懇願と、なぜ助けないのかという激しい憎悪。 斎は一瞬だけ足を止め、肩越しに慧を一瞥した。 そ