Masuk影を喰われると、存在が消える。大切な人の記憶からさえも。 他人の感情に苦しむ大学生・静にとって、友人の燈のそばだけが、息のできる場所だった。 その背中に、黒い腕を見るまでは。 燈が姿を消した後、周囲は彼のことを忘れ始める。名前も、記録も、二人で過ごした時間さえも。 彼を捜す静が出会ったのは、冷酷な退魔師・観月斎。だが、禁じられた儀礼の痕跡を追ううちに、静自身の影にも異変が起こり始める。 忘れれば、彼は本当にいなくなる。 それでも、彼の声に応えてはいけない。
Lihat lebih banyak大学の講義室で、氷鉋静(ひがのしずく)は、人の感情まで吸い込まないように息を浅くしていた。誰のものとも分からない苛立ちや焦りが、ざらついた空気に混じり、肺を満たしていく。
静は、背中を丸め、机の木目の一点へ目を落とした。肩のあたりで切り揃えた黒髪が、頬に触れる。長く伸ばした前髪を払おうとして、手を膝へ戻した。顔の前に垂れた重いカーテンの隙間から、教壇だけを見ていればよかった。度の弱い丸眼鏡を押し上げる。視線を遮るには薄すぎるレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めた。 教壇に立つ老教授の単調な声は、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってきた。十一月初めの木曜日。午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだった。 こめかみの内側で、鈍い痛みが鼓動に合わせて脈打っていた。人が密集する閉鎖された空間では、いつもこうなる。 空気に溶け込んだ、無数の澱み。他人の感情の沈殿物を、静はひそかにそう呼んでいた。目で見えるわけではない。それでも、粘り気のあるものが呼吸とともに入り込み、神経を逆撫でしていくのが分かる。 三列前でノートを取っている学生の背には、焦げつくような気配があった。焦りなのか、怒りなのかまでは分からなかった。後ろの席からは、生ぬるいものが流れてきた。笑い声に悪意があると感じて身を縮めた後で、誰かが忘れ物を届けてくれたこともある。その親切を疑いたくはないのに、体の方が先に怯えてしまう。 ようやくチャイムが鳴っても、静は席を立たなかった。椅子を引く音が重なり、閉じられたノートが風を起こす。人の波が過ぎ去るまで待ち、それから鞄を持った。 誰もいなくなった講義室で、数分間。ようやく立ち上がると、足が僅かに震えていた。壁際に沿うようにして廊下へ出て、中庭に面した渡り廊下を目指す。ガラス窓の外、午後の陽光を浴びた芝生の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。 外気に触れた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。肺の奥にこびりついていたヘドロのような空気が、ようやく洗い流されていく。頭痛はまだ残っているが、胃の不快感は少しだけ和らいだ。 「しずく!」 背後からかけられた声に、びくりと肩が跳ねる。けれど、その声の持ち主を認識した瞬間、強張っていた全身の筋肉が、意思とは関係なく弛緩した。 振り向くと、友人の朱鷺燈(ときともる)が立っていた。 オレンジブラウンに染め抜かれた髪が、西日に透けて燃えるように輝いている。大きなロゴの入ったパーカーに、緩いシルエットのカーゴパンツ。左耳で揺れるいくつものピアスが、彼が歩くたびに、ちり、と微かな金属音を立てた。 静とは何もかもが正反対の、光と音の塊のような男。 「なんだよ、また死にそうな顔して。教授の話、そんなに退屈だった?」 悪戯っぽく笑いながら、燈が隣に並ぶ。すると、廊下に残っていたざわめきが、ふっと遠くなった。声そのものは聞こえているのに、その裏から押し寄せてくるものがない。 燈に顔を覗き込まれ、静は視線を落とした。 「……別に」 「別に、じゃねーだろ。顔、真っ青だぞ」 燈はそう言うと、自販機で買ったらしい缶コーヒーを静の頬に押し当てた。静が身をすくめると、缶を立て直し、持ちやすい向きで差し出してくれた。ひやり、とした感触に、また肩が震える。 「ほら、これやるよ。糖分足りてねーんじゃねえの」 「……ありがとう」 かさついた声で礼を言うと、燈は「おう」と短く応え、自分の分の缶コーヒーのプルタブを開けた。カシュ、という軽快な音が鼓膜を心地よく揺らす。 静は缶を両手で包んだ。「冷たい」と零すと、燈は自分の缶の表示を見て「あ」と言った。十一月に冷たい方を買ってくるのが燈らしかった。右の眉をわずかに下げ、「温かい方のつもりだった。替えてこようか」と笑う。自販機の方へ戻りかける彼を、静も笑って引き止めた。 昔から、彼といる時は幾分楽だった。黙っていても、何か話せと求めない。具合が悪いと知れば、理由を詮索する前に窓を開けてくれる。そういう人だった。けれど、この三週間ほどの静けさは、それまでの安心とは違っていた。彼が二、三歩離れるだけで、空気のざらつきが戻ってくる。 その静けさがどこから来るのか、静は一度も確かめていなかった。 その顔を見ているうちに、尋ねかけていたことが引っ込んだ。最近、何か変わったのか。どうしてこんなに静かなのか。彼自身にも説明できないことだったら、気味悪がらせるだけだ。 「この後、暇? 駅前のカフェ、新しいパフェ出たらしいんだけど」 「……うん」 「よし、決まりな!」 燈は静の返事を聞くと、先に歩き出した。新しいメニューの話をしている。その言葉の半分ほどしか耳に入らないまま、静は後ろをついていった。 さっきまで、この男の隣へ戻ることだけを願っていた。 彼のそばでなら、息ができる。肺の奥まで空気を吸い込めることが、今はただ、ありがたかった。 燈が、渡り廊下の角を曲がった。 燈の背中に、もう一人、誰かがいた。 西日が二人を追い越した。大きなロゴのあるパーカーに、細い腕のような黒いものが重なっている。腕は燈の脇をすり抜け、静の方へ垂れていた。 気配だけではなかった。黒い輪郭が、たしかに目に映っていた。 燈は前を向いて歩いている。それなのに、背中の黒い腕だけが、静との距離を測るように伸びてきた。時計は、午前二時三分を示していた。 喉が、狭くなった。 オレンジ色の髪が、小さな丸い画像の中に見えた。以前使われていたものに似ている。似ている、としか言えなかった。顔の向きも、背景の色も、見つめようとすると曖昧になる。 燈からの連絡を、あれほど待っていた。 待ち続けた指が、今も画面の方へ動こうとしていた。 静はベッドから足を下ろした。 床が冷たい。 靴下越しに、板の継ぎ目が分かった。 画面に触れると、通知が開いた。 『み つ け た』 それだけだった。 上へ動かしても、以前の会話は現れなかった。貸したDVDの話も、講義の時間も、静が最後に送った問いかけもない。名前の部分を押してみたが、連絡先を確かめるための表示へは進まなかった。 ただ、そこに燈の名前があった。 誰が送ったのかを知るためのものではなく、静に見せるために貼りつけたような名前だった。 息が速くなる。 帰ってきたのだと思いたい自分がいた。助けられなかったのではなく、少し遅れて、ようやく声が届いたのだと。 その思いに触れた途端、右手の指先が冷えた。 地下で聞いた声も、自分の名前を知っていた。 静は返事の欄に触れなかった。 机の明かりをつける。 部屋の隅が浮かび上がり、椅子の脚から濃い影が伸びた。静の足元にも影があった。立ち上がると、それは同じ速さで動いた。 足首を引くものはない。 あの時切られた場所に、何かが繋がっている感触もない。 それでも、画面の黒い余白へ映った自分の顔が、ほんの少し遅れてこちらを向いたように見えた。 静はスマートフォンを落としそうになった。 両手で握り込みかけ、左腕の痛みに息を呑む。その痛みで、どうにか指を開いた。 電話を机へ置いた。 画面を上にしたまま、距離を取った。 布袋から覗いた鍵が、明かりを反射していた。静はそれを握り締めようとして、やめた。鍵は扉を開けるためのものだ。持っているだけで、部屋を守ってくれるものではない。 連絡先から、斎の番号を選んだ。 通知に表示された名前ではなく、自分で確かめて登録した相手へ。 呼び出し音が鳴った。 一回ごとに、暗がりが深くなるような気がした。 三回目の途中で、音が切れた。 「どうした」 掠れた声だった。
「頼まれたら、必ず行かなきゃいけないんですか」 「断っていい」 「途中でも?」 「戻れるうちならな。戻れなくなる条件が分かっている時は、先に伝える」 静はすぐに頷かなかった。 分かっていない時がある。それを、分かっているように言わない人でいてほしかった。 「分からないなら、分からないって言ってください。危ないことも、先に。私に見せてから、そういうものだったって説明しないでください」 斎は静を見た。 「分かった」 「何をするか、私にも決めさせてください。触るかどうかも、行くかどうかも」 彼は頷いた。 静は膝の上の缶を握り直した。 「授業もあります。友達と、普通にご飯を食べたい日もあります」 口にすると、それがひどく小さな望みのように聞こえた。 けれど、その小さなものを諦めたところから、自分の輪郭が削れていく気がした。 「知らないまま、使われるのは嫌です」 斎は鍵を置く場所を探すように、ベンチの間を見た。 それから、自分の掌を開いたままにした。 静はその鍵を、自分で取った。 金属は、冷たかった。 燈を取り戻せる鍵ではない。失った時間の埋め合わせにもならない。それでも、次に分からないものへ触れる時、訊ける相手と、読むことのできる記録がある。 掌を閉じると、鍵の歯が少しだけ皮膚に食い込んだ。 遠くで、講義の終わりを知らせる音が鳴った。 静は携帯電話を出し、深琴から届いていたメッセージを開いた。帰りにパン屋へ寄るかと訊かれていた。 『行く。少し待ってて』 そう打ってから、温くなりかけたコーヒーを飲んだ。◇ 鍵は、机の上へ置いた。 学生証の入ったケースの隣だった。どちらも明日持って出るつもりだったが、同じ輪にはつけなかった。少し迷ってから、鍵だけを小さな布の袋へ入れた。 夜になると、窓ガラスは部屋の中を映した。 静はカーテンを閉めた。 今日のノートを開く。講義の途中で書き損ねたところがあった。次の時間までに深琴へ訊こうと思い、余白に小さな印をつけた。 机の端には、燈のことを書いた別のノートがある。 今日は、ひとつだけ書き足した。 『笑う時、右の眉が先に動く。いつもだったかは、分からない』 書いてから、しばらく眺めた。 いつもだった、と断言できないのが寂しかった
静は頷き、鞄の持ち手を自分の側へ引いた。 机の上へ、小さな紙袋が置かれた。 「食べられそうだったら。前に、好きって言ってたから」 パンだった。 袋の内側に、まだ少し曇りが残っていた。深琴がここへ来る前に買ったのだと分かった。 「ありがとう」 静は袋へ触れた。 二人の間に、短い沈黙が落ちた。 言わなければいけないことがある。けれど、言った後に深琴がどんな顔をするのか、見るのが怖かった。 燈へ何も言えなかった金曜日と、同じ後悔へまとめたくなった。自分はいつも間違えるのだと決めてしまえば、どちらにも向き合わずに済む。けれど今、深琴は隣にいる。机の端へ置かれた手を見て、静は、地下から帰ったら言おうとした言葉を探した。 「この前、腕、強く掴んでごめん」 深琴の視線が、静の手へ落ちた。 「うん。びっくりした」 その言葉に、静は俯いた。 「覚えてって、無理に言って、ごめん」 深琴はすぐには答えなかった。机の縁を指先で撫で、それから、静の方へ顔を向けた。 「私、あの人のこと、やっぱり思い出せない」 静は頷いた。 「でも、静がいない間、心配だった。それは覚えてるから」 喉の奥が熱くなった。 静は何か言おうとして、一度口を閉じた。思い出せないことを責める言葉は、もう出なかった。出ない代わりに、簡単に大丈夫とも言えなかった。 「また、一緒に食べてもいい?」 紙袋を見て言うと、深琴は小さく笑った。 「今はだめ。もう始まる」 教壇から、出席を取る声がした。 静は自分の名前が呼ばれるのを待った。 返事は、ちゃんと届いた。 昼休み、慧から連絡があった。 しばらく仕事を減らし、体調を見ながら記録を整理するという。五年前の記事についても、当時の資料をもう一度読み直しているらしい。 『分からない部分を、都合のいい説明で繋がないようにします。観月さんに確認したいことは、まだあります』 静はその一文を二度読んだ。 疑問がなくなったわけではないことに、少し安心した。地下から帰ってきた人たちが、皆、同じことだけを信じるようになったのではなかった。 『私のことを書く時は、先に読ませてください』 そう返した。 しばらくして、『約束します』と届いた。◇ 午後の講義の後、静は校舎裏のベンチへ向かった
静はしばらく、それを膝の上に置いていた。 返さなければ、と何度も思っていた。次に会う日に鞄へ入れようとして、忘れたこともあった。その時には、次がなくなるなんて考えもしなかった。 借りたものだけが、返す場所を失って残っている。 静はケースを閉じ、棚の見えるところへ置いた。 日記は、テーブルで開いた。 紙の色も、角の折れも変わっていなかった。筆圧の強い部分を撫でると、裏側まで凹んでいる。けれど、名前が書かれていた場所には、意味の取れない線が残っていた。文章の途中にも、読み返すたびに目が滑る箇所がある。 事故という言葉は読めた。 行かなかった、とも。 その前後から、一人の人間へたどり着く道だけが、抜き取られたようだった。 その事故で足を傷めた人の顔を、静は知らない。 泥から離れた今も、その人は、静の知らない場所で、その人自身の時間を生きている。 静には、その人の言葉を知ることができなかった。許すとも、許さないとも言えなかった。自分の胸に流れてきた痛みだけで、その人の人生まで分かったつもりにはなれなかった。 静はページの上へ手を置いた。 ここを最初に読んだ夜、知らない燈がいることを恐れた。今は、知っていると思っていた燈まで、この紙から遠ざかっていくのが怖かった。 新しいノートを出した。 最初のページに、今日の日付を書いた。その下へ、朱鷺燈、と書いた。 インクは紙に染み込み、乾いた。 消えないかどうか、しばらく待った。 消えなかった。明日も読めるかどうかは、まだ分からない。 静は次の行に、冷たいコーヒーのことを書いた。右の眉のこと。深琴と三人で食べたケーキのこと。自分が見たものと、後から日記で読んだものを、同じ文章にしないように気をつけた。 地下で聞いた言葉を書く時、ペンが止まった。 『ありがと、と聞こえた気がする。燈の声だったかどうかは、分からない』 そこまで書いた。 その後へ、許された、と続けることはできなかった。 涙が落ちた。 紙が小さく膨らんだ。慌てて拭こうとして、まだ乾いていなかった句点を擦ってしまった。 汚れたままにした。 綺麗な記録にはできなかった。綺麗にすれば、そこからまた何かが抜けてしまう気がした。 携帯電話に、母からのメッセージが残っていた。
ざわめきが、ぬるま湯のように思考を鈍らせる。 大学のカフェテリアは、昼のピークを過ぎてもなお、無数の声と食器の触れ合う音、そして様々な人間の感情の匂いで飽和していた。氷鉋静は、テーブルの隅で背中を丸め、色の抜けたチャコールグレーのパーカーのフードを深く被っていた。気休めに過ぎないとわかっていても、そうせずにはいられない。他人の視線が、声が、その裏側にある粘ついた本音が、彼女の皮膚を直接撫でるようで、全身の肌が粟立つのを止められなかった。 誰もが、無害な笑顔の仮面を貼り付けている。友人の成績を妬む声。恋人の無神経さを詰る声。講義への退屈と、未来への漠然とした、しか
燈は、静の反応を面白がるように口の端を吊り上げた。だが、その瞳の奥に宿る光は、単なる好奇心とは異質な、もっと粘り気のある何かに変質しているように見えた。静は、彼の背後に一瞬だけ見えた、あの黒い人影の幻覚を思い出していた。あれは、彼の内側に巣食う「何か」の予兆だったのかもしれない。「ビビってんの、しずく? まあ、名前からしてヤバいもんな」 彼はわざと軽い口調で言い、フォークでケーキを一口分すくい取った。しかし、それを口に運ぶことなく、再び皿の上に戻す。食欲など、とうに失せているようだった。「そのウツロ様ってのが、この咎凪市の、いわば|土着神《どちゃく
ようやく解放を告げるチャイムが鳴り響いた時、静はほとんど虚脱していた。我先にと席を立つ学生たちの作る人の波が、新たな「澱み」の渦を巻き起こす。苛立ち、安堵、空腹、性欲。生々しい感情の奔流が、最後の気力を奪い去っていく。静は、その濁流が過ぎ去るのを、息を殺して待った。 誰もいなくなった講義室で、数分間。ようやく立ち上がると、足が僅かに震えていた。壁際に沿うようにして廊下へ出て、中庭に面した渡り廊下を目指す。ガラス窓の外、午後の陽光を浴びた芝生の緑が、目に痛いほど鮮やかだった。 外気に触れた瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩む。肺の奥にこびりついていたヘドロのような空気が、よう
ざらついた空気が、肺を満たす。 ひな壇に立つ老教授の単調な声が、広い講義室の壁に吸い込まれては、乾いた埃の匂いを連れて戻ってくる。初秋の午後の日差しが、高い窓から差し込んでいるはずなのに、この部屋の空気はいつも澱んで冷たい。まるで、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のようだ。 氷鉋静は、背中を丸めて、机の木目の一点をただ見つめていた。黒く染めていない髪が、肩のラインで無気力に切り揃えられている。長く伸ばした前髪が、その表情を隠すための重いカーテンの役目を果たしていた。度の弱い丸眼鏡は、他人と視線を合わせないための盾。そのレンズの奥で、静はゆっくりと息を詰めて