Semua Bab 禁区の残穢 ~影を喰われると存在が消える世界で、私は冷酷な退魔師に拾われた~: Bab 11 - Bab 20

56 Bab

第11話 もう戻らない

 中に広がっていたのは、光と影がまだらに混じり合う異質な空間だった。屋根裏部屋特有の傾斜した天井。唯一の明かりは、壁際の丸窓から差し込む午後の光だけ。その光さえも、床から天井まで無秩序に積み上げられた夥しい量の本や資料の山に阻まれ、部屋の奥までは届いていない。  古い紙が酸化した甘く乾いた匂い。その奥に、壁へ沁み込んだ湿気がある。机までの狭い通路だけが空けられ、床に平積みされた本の脇には、紙片で包んだ欠片や、小さな木箱が並んでいた。  その部屋の中心に、一人の男がいた。  窓からの光を背に、古びた木製の机に向かい、分厚い和綴じの本を広げている。  色素の薄い焦茶色の長髪を、首筋の位置で革紐で無造作に一つに束ねている。静が扉を開けた物音にも、彼は一切反応を示さない。その背中は、まるで周囲の書物の山と同化した石像のように微動だにしなかった。  男は紙の一箇所に定規を当て、傍らの帳面へ何かを書き写していた。静が入っても手を止めない。その間だけ、こちらから何か言わなくてよいのが、奇妙にありがたかった。  生きた人間のそばに立っている時の、ざらつく不快感が薄い。ただ、燈のそばにいる時とは違っていた。暖かい部屋へ入ったのではなく、底の見えない井戸の縁に立たされたようだった。  不意に、男が顔を上げた。  何の予兆もなかった。ただ、古文書をめくる指が止まり、静かにこちらを振り向いただけ。数本の後れ毛が、その表情にかかっている。  目が、合った。  陶器のように白い肌に縁取られた、感情の起伏を一切映さない瞳。どこか爬虫類を思わせる、静謐で温度のない瞳だった。その視線に射抜かれた瞬間、静の全身の皮膚が、薄い氷の膜で覆われたかのように強張る。 「……何か用か」  静かな、抑揚のない声だった。 「……ここが、郷土史研究会ですか」 「扉にそう書いてある」  男は帳面を閉じた。表紙には『観月斎』と書かれていた。その姓を、静は覚えていた。燈がカフェテリアで口にした、郷土史研究会の先輩の名だった。聞いていた名と、目の前の男が、ようやく結びついた。 「観月さん、ですか」 「そうだ。名前は」 「氷鉋、静です」  聞き返され、名字と名前をもう一度言った。男は手近な紙へ『氷鉋静』と書き、合っているかとこちらへ向けた。静が頷くと、それを机の端に置いた。 「何を探して
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第12話 影に渡したもの

 斎は綴りを閉じずに、椅子を一脚空けた。 「座れ。立ったまま倒れられると困る」  資料の重みを抱えた座面が空くまで、静は待った。それから浅く腰を下ろした。  斎が机の奥から、黒いファイルを引き寄せた。静は動けなかった。それが、まるで意思を持つ生き物のように、この部屋の淀んだ空気を吸い、吐き出しているように感じられたからだ。斎は無言のままファイルを開き、中から黄ばんだ紙を数枚、重ねたまま取り出す。一枚は、手書きの古い地図だった。 「咎凪市、旧市街地絵図。大正初期のものだ」  斎の低い声が、埃っぽい空気を震わせる。広げられた地図の中央、ちょうどこの大学が建っているあたりが、墨で塗り潰したように黒く、歪に描かれていた。 「ここが……?」 「かつて、『虚(うつろ)の沼』と呼ばれていた場所だ」  虚の沼。その言葉の響きが、耳の奥で不快な粘り気を持ってこびりつく。斎は地図の横に、別の資料を置いた。古い文献の複写らしく、虫食いの跡まで生々しい。紙面には崩した筆文字が連なり、行間にも細かな書き込みがあった。  文字の脇に、小さな図があった。人間が膝をつき、紙を切り抜いたような人形(ひとがた)を、黒く塗られた水際へ差し出している。 「咎捨(とがすて)、という。この土地に伝わる、咎を捨てるための儀礼だ。この図では、人の形に切った紙を使う」  斎は続きの一行を指した。 「己が咎、忘れたき記憶を人形に移し、虚の沼に沈めるべし」  燈が話したものと違った。静は紙へ顔を近づけた。細い手足を持ったものは、たしかに人間より小さく描かれている。 「燈は、自分の影に押しつけるって」 「それが、もっと古い方のやり方だ。紙の人形に託す代わりに、自分の影を使う。カゲオクリと呼ばれている」  人形を使う図の下に、別の筆跡で注意書きがあった。斎の指が、そこから動かなくなった。 「人形の代わりに、己の影を差し出してはならない」  紙の端は、何度も指で押さえられたように黒ずんでいた。ここを読んだ人が、燈のほかにもいたのだ。 「影を取られたら、どうなるんですか」  斎は別の帳面を開いた。日付の後に、行方知れず、という文字がある。その先は滲み、ところどころを別紙に写して綴じてあった。 「人の影には、その人をこちらに繋いでいるものが重なる。咎だけを渡すつもりでも、それを切り分けて
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第13話 沼の上の書庫

 その言い方に、静は顔を上げた。資料へ向けられていた目が、今は自分へ向いている。  斎は地下の間取りを出した。 「生きた人間の感情とは別に、過ぎた感情が物や場所に残ることがある。残穢(ざんえ)と呼んでいる。直接触れれば、その残穢と君の間に、繋がりができる危険がある。手を離しても切れるとは限らない。床にも、壁にも、手をつけるな。俺より先へは行かないこと。異常を感じたらその場で止まる」 「行けば、燈が何をしたか、分かりますか」 「手掛かりにはなる。ただし、行っても何も確かめられない可能性はある」  静は間取りを見た。赤い線で囲われた区画の先に、塗り潰された部分がある。今日はそこへは入らないと斎は言った。  帰れば、燈を知らない人たちの間に戻ることになる。その怖さに押されて決めるのではないかと、静は自分に問い直した。それでも、目の前の記録だけを見て帰ることはできなかった。 「連れていってください」  斎は自分の番号を書いた紙を渡し、静からの着信をその場で確かめた。それから机上の地図へ、間取りの紙を重ねた。  黒い沼の真上に、旧館の輪郭が重なった。  今、椅子を置いている場所の下だった。  屋根裏を出ると、階段の窓が明るかった。静は手すりに触れかけ、先ほどの注意を思い出して手を引いた。まだ地下ではない。それでも、物に触れるという行為が、急に別の意味を持ってしまった。  一階へ下り、表の扉から外へ出る。斎は建物の裏手へ回った。蔦の絡まる煉瓦の壁を左に見ながら歩くと、地面の低くなったところに、苔むした石段が口を開けていた。 「写真に写っていた階段は、ここへ繋がるんですか」 「同じ書庫の手前へ出る。あちらの扉は留め金が壊れていた。いつからかは分からない。昼過ぎに見つけて、塞いだ」  静は足を止めた。燈が送った写真の、その先へ誰でも下りられたのかもしれない。斎は振り返り、今は外の扉からしか出入りできない、と言った。  斎は先に石段を降りていった。その先に、錆で赤黒く染まった古びた鉄製の扉があった。地下書庫、と掠れた文字が刻まれている。扉に近づくにつれて土の匂いと湿気はさらに濃密になり、静の呼吸を浅くさせた。ここだ。ここが発生源なのだと、全身の細胞が恐怖に収縮し、警鐘を鳴らしていた。  錆びた扉の前で、斎は手袋をはめた。静へも一組渡し、内側をこちらへ
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第14話 影の先だけが残る

 水滴の音が、書架の間を移っていた。どこから落ちているのか、見上げても分からない。静は斎の靴が踏んだ場所を選んで歩いた。資料で見た通り、最初の書架の角が折れ、そこだけ塗装が剥がれている。  斎は床へ細く灰を引いた。濡れていないところを選び、曲がり角に二本ずつ短い線を置く。戻る時の目印だと言った。 「これがあれば、安全なんですか」 「線を越えてくるものを、少し遅らせる。濡れれば、それも効かない」  一度引いた線の端が、水を含んで暗くなった。斎はそれを避け、乾いた方へ線を継ぎ足した。ここには、置いたままにしておける境界がないのだと、静は思った。  二つ目の書架の向こうに、内扉が見えた。黒く変色した帯が幾重にも貼られている。斎はそちらへは進まず、その手前で止まった。 「氷鉋さん」  斎が静かに名前を呼んだ。彼の視線は、自分の足元、書架と壁が作る薄暗い隅に向けられている。 「これを見ろ」  静は、恐る恐るその視線を追った。水が溜まった床の、その隅。そこに、「それ」はあった。  歪んだ「人間の影」の形だった。  誰かがそこに倒れ込み、その人型の部分だけが泥で縁取られたかのように。あるいは、泥そのものが集まって、苦悶に満ちた人の形を成したかのように。手足はありえない方向に捻じ曲がり、頭の部分は天を仰いで無音の叫びを上げている。それはあまりにも生々しい、絶望の痕跡だった。  乾いている。周囲の床は濡れているのに、その人型のシミだけが、全ての水分を奪われたように乾ききっていた。表面には細い亀裂が走り、縁の土は薄く反り返っている。  ひび割れた土の輪郭に、細い手足があった。どの関節がどちらを向いているのか見ているうち、足を止めた時の燈の顔が浮かんだ。 『最近、影を踏まれるのが怖いんだ』  記憶した言葉なのか、今聞こえた声なのか、区別がつかなかった。口の中に冷たい金属の味がした。静は目を逸らそうとして、輪郭の端にあるものを見た。靴の爪先に似ている。燈がいつも履いていた、踵のすり減った靴に。 「燈……?」  足が半歩、前へ出た。  その途端、シミの端が持ち上がった。泥が動いたのではない。裸電球の下で、静の足元から伸びていた影が、床にない段差へ触れたように折れたのだった。  靴底へ、何かが吸いついた。 「動くな」  斎の声で、静はようやく息をした。
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第15話 隠されたノート

 午後十時を過ぎていた。  斎の黒いコートが、アパートの鉄製階段を上がっていく。二日前に一人で来た時より、階段の軋む音が大きかった。静は一段ずつ足を置き、地下で掴まれたように冷えた足首を気にしないようにした。  あの後、屋根裏で休まされた。斎は灯りの位置を変えながら静の影を見て、今すぐ引かれる状態ではないが、地下の残穢との接続が残ったかもしれない、と言った。静が燈の名を聞いた瞬間、足が前へ出たことも、紙へ書き留めていた。 「止めるのが遅かった」  それだけを言い、日記や書き置きの心当たりを尋ねた。儀式の前後が分かれば、静に触れたものの由来も追えるという。  静は、自分の家には帰りたくなかった。だから同行を望んだのだと、二〇三号室の前に立ってから気づいた。今ここへ来れば燈に会えると、思っていたわけではない。 「どうやって、入るんですか」  斎は答える代わりに、鍵穴の前へかがんだ。 「管理人に連絡できませんでした。大学にも、警察にも話してあります」 「待っている間にも、残っているものは減る」  その言葉で何でも許されるわけではない、と静は思った。声にする前に小さな金属音がし、斎がこちらを見た。 「君はここで待っていてもいい」  それなら自分だけは踏み込まなかったことになる。だが、燈のことを知らないこの人に、部屋の全部を任せることができるだろうか。  静は首を横に振った。  カチリ、という乾いた音が、静寂を破った。誰かが帰ってきた時と同じ、あまりにも小さな音だった。静は扉の内側で足音がするのを待ち、待っている自分に気づいて唇を噛んだ。 「入るぞ」  斎はドアを静かに押し開け、先に体を滑り込ませた。壁際を探る手が、スイッチのところで止まる。  蛍光灯が二度瞬き、白い光が部屋へ満ちた。  服がある。机がある。壁には、以前と同じポスターが貼ってあった。シンクに残った生ごみの酸っぱい匂いさえした。ドア越しに感じた不在は、何もかもが消えたということではなかった。  物だけが、持ち主を待つのをやめていた。  静は、腐敗した空気を吸い込まないよう、息を詰めて室内に足を踏み入れた。  空気が、死んでいた。  窓は閉じられ、寝具は乱れたままだった。畳んでいないタオルの縁が、ベッドの下に落ちている。静はそれを拾いかけて手を止めた。戻ってきた燈が、置
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第16話 眠れるようになった日

 取り出すと、掌に角が当たった。その小さな硬さに、急に罪悪感が湧いた。燈が隠したものを、彼のいないところで開こうとしている。知らないままでは進めないからといって、見てよいものになるのだろうか。 「君が読む必要はない」  斎は言った。静はノートを机へ置いたが、渡さなかった。 「私が、見つけたので」  理由にはなっていなかった。斎は何も言わず、蛍光灯の影にならない位置へ移った。  最初の頁には、免許を取ったことが書いてあった。欲しい服の値段、観た映画の題名。静も知っている、どうでもいい愚痴が続く。日記というより、思いついた時だけ開く帳面だったらしい。何頁も空白が挟まっていた。  筆跡は、燈のものだった。  教科書の余白に勝手に描かれた絵の脇に、同じ字があった。静は指を近づけ、紙に触れる前に止めた。笑えることが書いてあるのに、笑い方が思い出せない。  頁をめくると、一行だけ、強く書かれた文字があった。 『あいつは、まだ俺を許していないだろうか』  紙を押さえた静の指が、そこから動かなくなった。  次の頁に、三年前の日付が書かれていた。記録した日ではなく、覚えている日のことらしかった。 『あの日のことだけ、何回書いても順番が戻らない』  静は椅子に座った。斎は隣から読み始めたが、声に出さなかった。シンクの水滴が、間を置いて落ちている。  燈は高校生の時、免許を持たないままバイクを運転していた。後ろには友人を乗せていた。知っている道だった。曲がれると思った。そう書いてあった。  真夜中のアスファルトの匂い。オイルの焦げる悪臭。カーブを曲がりきれなかった時の、タイヤが滑る甲高い悲鳴。そして、金属と骨が砕ける、濡れて鈍い、嫌な音。  静は顔を上げた。  部屋にあるのは蛍光灯の音と、水の匂いだけだった。金曜日の朝に聞いたブレーキ音が、文字を読んだ途端、耳の内側で鳴り直したのだった。あれが実際の事故の音なのか、今、頭の中で作ったものなのか、分からなかった。 『俺は擦りむいたくらいだった。あいつは足が動かない。医者に言われたと、母さんが言った』  燈は、友人の母親から直接聞いていなかった。そのことに静は気づき、次の行を読むのが遅くなった。 『親父がもう話をつけたから、おまえは何も言わなくていいと言った。あいつ一人で走ってたことになってる。違うと言
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第17話 記録を持つ女

 静は日付を確かめた。燈のそばが異様なほど静かになった時期と、重なっていた。 「……最近、一緒にいると楽だったんです」  斎が顔を上げた。 「前から、燈といると安心できました。でも、それだけじゃなくて。他の人が近くにいても、気配が薄くなる。燈が離れると、また戻ってくるんです」  斎は少し考え、閲覧記録を出した。持ってきていた薄い綴りの、三番目の日付をノートに並べる。 「影に抱えさせたものが、周りの澱みまで引いたのかもしれない。近くにいる君には、それが静けさとして伝わった」 「じゃあ、私が楽だったのは……」  言葉が続かなかった。知らずに利用していた、という言葉だけが浮かんだ。だが斎は頷かなかった。 「君が彼にやらせたわけじゃない」  斎はそう言うと、二つの日付を並べ直した。静はノートの端を押さえていた。頼んだことは、一度もない。けれど、燈が隣へ来るたび肩から力を抜き、もう少しここにいてほしいと願った朝があった。机の上の紙は静かなまま、その時の息の楽さだけが胸へ戻ってきた。  最後の頁へ進む。日付は、先週の金曜日だった。 『ごめん』 『ごめん、ごめん、ごめんなさい』 『もう、疲れた』 『あいつの顔が、夢に出るんだ。笑って、俺を見てる。足がないのに、立って、俺を見てる』 『ウツロ様。カゲオクリ』 『観月さんの言ってた通りなら、俺のこの黒いのも、食べてくれるんだろ』 『これで消える』 『やっと楽になれる』  静はその中の『観月さん』を指した。 「これを、燈は、こういう意味に受け取ったんです」  斎は目を逸らさなかった。静を見ているのではなく、燈の字を見ていた。 「忘れたいものだけを選べるとは言っていない」 「それは、言ってないというだけです」  自分の声が強くなったことに、静は遅れて気づいた。斎は綴りを閉じた。 「そうだな」  しばらくしてから、それだけ言った。  ノートには、存在ごと消えたいとは書いていなかった。燈がどこまで知って、何を望んだのか、ここにある字だけでは決められない。けれど、病院の入口から引き返した日と、沼へ向かった日が、この薄い紙の束の中で繋がっていた。 『楽になれる』  静はその行を、もう一度読んだ。  下の紙にまで、筆圧の溝が残っていた。◇ 週末の二日間、静は長く眠った。  目が覚める
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第18話 窓の向こうの私

 聞かれることは予想していた。それでも、静の指は名刺の角を折りかけた。 「観月斎。大学院の先輩だとか。郷土史研究会、でしたっけ。ほとんど活動実態のない、彼の私的なサークル」 「失踪前、朱鷺くんはあそこへ出入りしていた。その後、あなたが出入りを始めた。心配するなという方が難しいでしょう」 「観月さんは、調べてくれています」 「何を、どんな方法で?」  静は答えかけてやめた。地下の話を、この道端でできるとは思えなかった。足首の冷たさを言葉にしたところで、相手の疑いが深くなるだけかもしれない。  だが斎が何もしていないわけではない。それを説明できないことに、静は苛立った。 「あなたには、何が分かっているんですか」  自分でも意外なほど固い声が出た。慧は封筒から別の紙を出した。昔の新聞記事の切り抜き、退学した学生を探すための短いメモ。名前はあるが、写真はなかった。 「少なくとも、今回だけのことではありません。それに彼は、質問へ答えない。資料を見せる相手を選び、その理由も明らかにしない」  静は、それを否定できなかった。  慧はICレコーダーを掌に載せた。 「記録してもいいですか」  静は一度頷いた。ただし詳しく話すとは言っていない。そのつもりで黙っていると、慧は録音を始めた。 「朱鷺燈くんと、最後に会ったのはいつですか」 「……先々週の、金曜日です」 「その時、観月から教わったことを試すと?」 「観月さんが、勧めたとは言っていません」  慧の眉がわずかに動いた。 「それを確かめたいんです。あなたが彼を庇う必要はない」  庇っているのだろうか。静には、その問いにも答えが出なかった。斎を信じると決めた覚えはない。自分が見たものを、なかったことにしたくないだけだった。 「今日は、もう話せません」  慧はレコーダーを止めた。静が半歩退くと、追ってはこなかった。代わりに、連絡先はそこです、と名刺を指した。  静は名刺を見下ろした。燈の名前を持っている人との繋がりを、ここで手放すのは怖かった。斎を疑うこの人の声を聞いている間は、反発してばかりだったのに。 「分かったことがあったら、連絡をもらえますか」  慧は頷いた。  静は自分の番号を伝え、その場で短い確認のメッセージを受け取った。画面に表示された『廻慧です』という文字は、奇妙なくら
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第19話 止めた画面

 静は鞄から携帯を出し、斎へ短い文を送った。窓の自分が遅れて動いた気がする、と書いた。「気がする」を消しかけ、指を止めた。もう一度振り返った時には、ガラスの中も同じ速さで動いていた。その一度目だけを、うまく言葉にできなかった。  返事はしばらく来なかった。  残りの講義へ向かう間、静は廊下の窓から顔を背けて歩いた。見なければ済むものなら、これまでだって、そうしてきたはずだった。  講義が終わり、重い体を引きずって大学を出る。すでに日は傾きかけており、咎凪市特有の、湿った空気がまとわりついてくる。まだ霧は出ていないが、遠くの丘陵は白く霞み始めていた。  駅からの帰り道。アスファルトに伸びる自分の影が、やけに濃く、長く感じられる。  まるで、自分の意志とは無関係に、地面に縫い付けられた黒い布のようだ。  足の先に伸びる黒いものは、電柱の影へ重なり、また離れた。離れた時に、端が一度よれた気がした。静は走り出しそうになるのを堪えた。走れば、その分だけ遅れるものとの距離が広がるように思えた。  アパートの鍵を開け、室内の灯りをつけた。いつものベッド、小さなローテーブル、本棚。どの物も昨日と同じところにある。それを一つずつ見て、静は鞄を下ろした。  斎から電話が来た。窓だけか、足元にも変化があるかと訊かれた。両方、と答えると、名を呼ぶ声や、体を引く力はないかと重ねて尋ねられた。今はない。そう答えてから、静は足首を見た。冷たさはあるが、靴を脱ぐことはできた。斎は翌日、手鏡で確かめると言った。今夜は灯りを消さず、勝手に鏡の中へ手を伸ばさないこと。声が聞こえたり、足が動かしにくくなったりしたら、朝を待たずに連絡すること。静はその二つを紙へ書いた。 「今は、何かいるんですか。私の中に」 「見るまでは、どこまで入ったか分からない」  声が途切れた後、静は端末をしばらく耳に当てていた。見えないものを見てくれる人にも、分からないことがある。  ひどく喉が渇いていた。皮膚と肉の間を、乾いた砂が擦れるような感覚。  静は、顔を洗ってこの嫌な感覚を洗い流そうと、ユニットバスの狭い空間へ足を踏み入れた。  プラスチックの冷たい床。  そして、正面には、曇り止め加工の施された、正方形の洗面台の鏡があった。  鏡に映る自分の顔は、渡り廊下で見た時よりもさらに血の気が失せ、
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第20話 誰もいない席

 火曜日の昼、深琴から連絡があった。 『昨日、声かけようと思ったんだけど、もう帰ってたみたいだから。今日、少し会える?』  静は画面をしばらく見つめた。金曜日に燈のことを尋ねて以来、まともに話していなかった。会いたいと返すと、大学の近くのカフェを指定された。夕方には斎のところへ行く約束がある。それまでの時間なら、と静は答えた。  窓際の席。テーブルに置かれた二つのコーヒーカップから、淡い湯気が立ち上っている。午後の柔らかな光が、その向こうに透けていた。店内には、豆を焙煎する香ばしい匂いと、温めたミルクの甘い香りが混じり合い、穏やかなボサノバの旋律が流れている。  食器の触れ合う乾いた音。学生たちの、単位や恋愛についての無害な雑談。  静は、硬い木製の椅子の背もたれに、恐る恐る体重を預けた。伝わってくる硬質な感触。テーブル越しに置かれた深琴の、パステルイエローのニットの柔らかな質感。  カップの熱が、指の腹に伝わった。熱いものは熱い。その小さなことを確かめるため、静はなかなか取っ手へ持ち替えられなかった。 「静ちゃん、本当に大丈夫? あんまり眠れてないんじゃない?」  深琴は鞄から小さな包みを出した。購買のパンだった。昼を食べていないだろうと思って、と言いながら、テーブルの真ん中へ置いた。  静は礼を言った。無理に笑うと、深琴の表情も少し和らいだ。  それだけでよかった。今日は燈の話をせずに、授業のことでも話して帰ればいい。それなら、以前と同じ二人でいられる。 「この前は、ごめんね」  静が言うと、深琴は首を振った。 「謝ることじゃないよ。ただ、何をしたらいいか分からなくて」  いつもなら、その気遣いの裏を探して怯えていたかもしれない。今は、分からないと言ってくれることが、ありがたかった。  深琴は講義で配られた紙を出し、来週の提出日へ丸をつけた。静が聞き逃しているかもしれないと思ったらしい。丸の線は少し歪み、終わりだけ重なって濃くなった。 「これ、一緒にやる?」  静は紙を見た。課題の内容より、来週という言葉が遠かった。そこまで自分が同じ席へ通っている姿を、うまく思い描けない。  それでも、深琴は何気なく訊いていた。特別な励ましではない。自分も一人では面倒だから、と笑い、紙を二人の真ん中へずらした。 「……うん」  答えると、
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