Главная / ホラー / 禁区の残穢 / Глава 11 - Глава 20

Все главы 禁区の残穢: Глава 11 - Глава 20

55

第十一話:失踪③

 静の呼吸が、一瞬止まった。 心臓が、氷水の中で鷲掴みにされたかのように痛みを上げて収縮する。なんだ、あれは。脳が、目の前の物体を理解することを拒絶する。ただの泥の塊だ。子供の悪戯か、鳥が運んできたのか。ありふれた、取るに足らない偶然。そう必死に自分に言い聞かせようとするが、彼女の過敏な五感が、その物体から放たれる微弱な「澱み」を正確に捉えていた。それは、生きた人間が発する澱みとは異質の、もっと冷たく、もっと古い、底なしの感情の残滓だった。 静は、まるで縫い付けられたかのようにその場から動けなかった。時間にして数秒。しかし、彼女の体感では永遠にも等しい時間だった。やがて、彼女は呪縛から解かれたように、はっと息を吸い込み、震える指でインターホンを押した。 ピンポーン、と間の抜けたチャイム音が、薄暗い廊下に響き渡る。静は、ドアの内側から聞こえるであろう、どんな微かな物音にも耳を澄ませた。スリッパの足音。衣擦れの音。「はい」という、気怠そうな声。しかし、返ってきたのは、完全な沈黙だけだった。霧が音を吸い込むように、チャイムの響きは、何の反響も残さずに虚空へと消えていった。 もう一度、押す。もっと強く。指先に爪が食い込むほどの力で。 ピンポーン。ピンポーン。 沈黙。「……燈!」 静は、ドアに張り付くようにして叫んだ。「いるんでしょ! 開けてよ!」 返事はない。「ふざけてないで、出てきて! 心配したんだから!」 声が、虚しく震える。静は、衝動的にドアを拳で叩き始めた。 ドンドン! ドンドン!「燈! ともる!」 硬い鉄のドアが、鈍い音を立てるだけ。自分の叩く音と、荒い呼吸音だけが、この世界で唯一の音だった。涙が、視界を滲ませる。違う。何かが、おかしい。これは、いつもの彼の気まぐれではない。もっと根源的な、取り返しのつかない何かが、このドアの向こうで、あるいは、もう既に――。 静の手が、止まった。
last updateПоследнее обновление : 2025-10-30
Читайте больше

第十二話:失踪④

 その後のことを、静はよく覚えていない。 気がつくと、彼女は自宅のアパートの部屋で、ベッドの隅にうずくまっていた。どうやって帰ってきたのか、記憶が抜け落ちている。ただ、あのドアノブに触れた瞬間の、魂ごと削り取られるような絶対的な「喪失」の感覚だけが、右手の皮膚に焼き付いたまま離れなかった。部屋の電気もつけず、ただ暗闇の中で、自分の荒い呼吸音を聞いていた。 どれくらいの時間が経っただろうか。窓の外が、濃い藍色から完全な黒へと沈んでいく。静の中で、恐怖と、それを必死に打ち消そうとする理性が、激しくせめぎ合っていた。(おかしい。全部、おかしい) あの感覚は、気のせいだ。疲れているからだ。感受性が、ただの偶然を、何か意味のある恐怖体験に誤変換しているだけだ。燈は、どこかへ旅行にでも行っているのかもしれない。携帯をなくしたか、充電が切れているだけかもしれない。そうだ。そうでなければならない。(警察に、行こう) その考えは、暗闇の中で見つけた、か細い蜘蛛の糸のようだった。警察。それは「日常」や「常識」を司る、最も強固なシステムの象徴だ。彼らに話せば、きっと、この非現実的な恐怖を笑い飛ばしてくれるだろう。友人が数日連絡取れないだけで大袈裟な、と。そうやって、この狂い始めた世界を、元の正しい軌道に戻してくれるはずだ。 静は、ほとんど衝動的に立ち上がると、ふらつく足取りでアパートを飛び出した。 最寄りの駅前にある交番は、夜の闇の中に、無機質な蛍光灯の光を放っていた。そのあまりに「普通」の光景に、静はわずかに安堵を覚える。ガラスの引き戸を開けると、人の良さそうな年配の警察官と、あくびを噛み殺している若い警察官の二人がいた。「どうしました?」 年配の警官が、穏やかな声で尋ねる。静は、乾いた唇を必死に動かした。「あの……友人と、連絡が取れなくて」 そこから、静は必死に説明した。大学の友人であること。月曜日から、ぱったりと連絡が途絶えたこと。アパートを訪ねても、応答がなかったこと。しかし、話せば話すほど、自分の言葉が空虚に響くのを感じて
last updateПоследнее обновление : 2025-10-31
Читайте больше

第十三話:忘却の輪郭①

 一週間が経った。 朱鷺燈が消えてから、七度、陽が昇り、そして沈んだ。最初の二、三日は彼の気まぐれだと思っていた。連絡もなくふらりと旅に出て、忘れた頃に「悪い!」と頭を掻きながら戻ってくる。そういう男だった。周囲の人間はその無軌道さに呆れながらも、最後には許してしまう。太陽のような引力。燈にはそれがあった。 だが、静の胸には初めから鉛色の澱みが沈殿していた。燈のアパートのドアノブに触れた瞬間の、あの皮膚感覚。生命の気配が抜け落ちた空っぽの箱に触れたかのような、絶対的な不在の感触。あれは気のせいなどではない。彼はもう、どこにもいない。その確信だけが日ごとに濃度を増していく。 警察に届け出ても、まともに取り合ってはもらえなかった。成人男性の、それも一週間に満たない失踪。家出か、事件か。判断するには早すぎる。そっけない対応は予想通りだったが、静の焦燥をより一層深く抉った。 世界は何も変わらずに回っている。講義は始まり、学生たちは単位と就職活動、あるいは刹那的な恋愛の話に興じている。その日常の風景が、今はひどく歪んで見えた。一枚の薄い膜を隔てた向こう側の出来事のように、現実感が希薄だった。 燈がいなくなっただけ。たった一人、朱鷺燈という人間が消えただけだ。 なのに、なぜだろう。まるで世界そのものに巨大な穴が空いてしまったかのような、この途方もない喪失感は。 いや、違う。 本当に恐ろしいのは、その「穴」に誰一人として気づいていないという事実だった。◇ 昼休み。ざわめきで飽和した文学部の中庭で、静は意を決して燈が所属していたバスケットボールサークルの中心人物に声をかけた。派手な色のスウェットを着た、快活そうな男たち。燈は、こういう世界の住人だった。「あの……すみません」 静のか細い声は、彼らの大きな笑い声にかき消されそうになる。一人がようやく気づき、訝しげな視線を向けてきた。「……なに?」「朱鷺くんのことなんですけど……最近、見かけましたか?」 燈、と口にした瞬間、空気が僅かに揺らぐのを静は感じた。違う。揺らいだのは空気ではない。目の前
last updateПоследнее обновление : 2025-11-01
Читайте больше

第十四話:忘却の輪郭②

 講義室の硬い椅子に座っても、教授の言葉は何の意味も結ばずに右の耳から左の耳へと通り過ぎていく。静は自分の内側で何かが軋む音を聞いていた。世界のすべてが共謀して、たった一つの嘘を「真実」だと思い込ませようとしている。朱鷺燈なんて人間は、たいして重要ではなかったのだ、と。 それは静が幼い頃から感じてきた「澱み」とは質の違う、もっと冷たく知性的な悪意に満ちた感覚だった。人の心に潜む悪意や欺瞞は、ぬるま湯のように不快で時に吐き気を催させる生温かいものだ。だが、今、世界を覆っているこの「何か」は違う。それはまるで巨大な何者かが、静かに、丁寧に、歴史の一部分を修正液で塗り潰していく作業を眺めているような感覚だった。几帳面で、一切の感情を排した、無慈悲な修正作業。 左手の親指の爪を噛む。ささくれた皮膚が切れ、鈍い痛みが走った。その小さな痛みが、かろうじて自分の意識をこの場に繋ぎ止めている。俯いた長い前髪の奥で、静は必死に思考を巡らせた。 思い出せ。燈がいた証拠を。 彼が貸してくれたままの、趣味の悪いホラー映画のDVD。彼のバイクの後ろに乗って感じた、夏の夜の生温い風。彼が笑うと少しだけ下がる右の眉。彼がよく口にしていた、くだらないジョーク。 記憶は、鮮明にここにある。この頭蓋骨の内側で、脈打っている。 だとしたら、狂っているのはどちらだ? 私か、世界か? 自分の感受性を呪い、狂気ではないかと怯えてきたこれまでの人生が、今、最悪の形で現実になろうとしていた。他人の悪意を感じ取るだけのうちはまだよかった。それはあくまで「他人」の問題だったから。だが今は違う。自分の記憶そのものが、世界の側から「間違いだ」と断罪されている。この孤独は、今まで味わったどの恐怖よりも深く、冷たい。 最後の砦は、宇津木深琴。燈との共通の友人。 彼女だけは、違うはずだ。温厚で、他人の痛みに寄り添える彼女ならば。いつも「静ちゃん、無理しないでね」と、心からの気遣いを見せてくれる彼女ならば。静にとって深琴の存在は「普通」の日常への唯一の窓口だった。彼女が「普通」でいてくれる限り、自分もまだこちらの世界に繋ぎとめてもらえる。そんな、一方的で身勝手な信頼。
last updateПоследнее обновление : 2025-11-02
Читайте больше

第十五話:観月 斎

 どこへ行けばいいのか、わからなかった。 講義室を飛び出した静は、意味もなく、目的もなく、ただ人のいない方へと足を動かし続けた。肺が焼けつくように痛み、浅い呼吸を繰り返す。深琴に拒絶された瞬間の、あの穏やかな顔が脳裏に焼き付いて離れない。世界が自分だけを置き去りにして、全く違う法則で動き始めてしまった。その途方もない孤独感が、じわじわと正気を削り取っていく。◇ 足がもつれ、古びた校舎の壁に手をついてようやく立ち止まった。文学部旧館。蔦の絡まる煉瓦造りの建物は、昼間だというのに周囲から切り離されたように薄暗く、しんとしている。静はこの建物を覆う独特の空気が昔から苦手だった。湿った土と、埃の匂い。そして、それらとは比較にならない古い何かの気配。まるで建材の一つ一つに、長い年月の間に蓄積された人間の感情の染みが、黒くこびりついているかのようだ。 その時、不意に記憶の断片が脳をよぎった。『郷土史研究会、旧館の屋根裏にあんだよね。マジで物の怪屋敷』 いつだったか、燈が楽しそうに話していた言葉。彼はオカルトや都市伝説が好きで、この大学に伝わる怪談話などを集めているのだと笑っていた。 郷土史研究会。 藁にもすがる、という言葉が頭に浮かんだ。もう、まともな思考はできない。友人たちの記憶から燈の存在は消えかけている。警察も動かない。ならば彼が最後に興味を抱いていた「場所」に、何か手がかりが残されているかもしれない。たとえ、そこにどんなおぞましい「澱み」が渦巻いていたとしても、もう引き返す選択肢はなかった。 軋む階段を、一歩ずつ上る。上階へ行くほど空気が濃密になっていくのを感じた。カビの胞子が粘膜にまとわりつくような不快感。三階まで上り、突き当たりの薄暗い廊下の先に、さらに上へと続く梯子のような急な階段があった。時計塔の裏にある、屋根裏部屋。 埃にまみれた手すりを頼りに最後の数段を上りきると、重厚な木製の扉が目の前にあった。古びた真鍮のプレートに、「郷土史研究会」と彫られている。 静は数度、ためらった。扉の向こうから、圧倒的な気配が漏れ出している。それは静が今まで感じてきた、生きた人間の悪意から発せられる「
last updateПоследнее обновление : 2025-11-03
Читайте больше

第十六話:郷土史研究会①

第七話 ルールを、破った。 観月斎――彼はそう名乗った――の薄い唇からその言葉が紡がれた瞬間、静の鼓膜の内側で、何かが低く軋む音がした。言葉の意味を理解するより早く、身体の芯が危険信号を発している。彼の声には体温も感情もない。ただ、そこに存在する事実を無機質な鉄板に刻み込むような、絶対的な冷たさだけがあった。「……何を、言っているんですか」 絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。喉の奥が乾いた砂でひりつく。目の前の男は答えず、ただ静の顔をじっと見つめていた。一切の感情を映さない、爬虫類の瞳。その静かな眼差しが、静の内側にある誰にも触れさせたことのない柔らかな場所を、冷たい指でゆっくりと、確かめるように撫でていく。それは暴力的な侵犯だった。不快感と、それに逆らうように粟立つ肌の慄えが、腹の底から這い上がってくる。「燈は、いなくなっただけです。気まぐれなんです、昔から。ふらっとどこかへ行って、忘れた頃に帰ってくるような……」 誰に言い聞かせているのか。言葉を重ねるほど、その薄っぺらな虚構が指の間から零れ落ちていく。燈のアパートのドアノブに触れた瞬間の、肌を刺すような喪失感。彼が「もうここにはいない」と告げていた決定的な気配が、胃の腑を氷の塊で満たしていく。「あなたは燈の何を知ってるんですか。勝手なこと、言わないでください」 けれど、反発する言葉に力はない。この屋根裏部屋を満たす、古文書とカビと埃が混じり合った濃密な匂いが、静の抵抗から意味を奪い、ただの喘ぎにも似た音に変えてしまう。斎はそんな静を意にも介さず、ゆっくりと部屋の奥へ歩を進めた。床に積み上げられた本の山を慣れた様子で避け、その長い指が、黒い革の表紙が擦り切れた一冊のファイルの上で止まる。「彼が何を調べていたか、知りたくないか」 問いかけではなかった。知りたいだろう、と決めつける、有無を言わさぬ静かな断定だった。◇ 静は動けなかった。その黒いファイルが、まるで意思を持つ生き物のように、この部屋の淀ん
last updateПоследнее обновление : 2025-11-04
Читайте больше

第十七話:郷土史研究会②

 可能だ、ということを。 その言葉は、静の思考を完全に麻痺させた。目の前の黄ばんだ紙に書かれた儀式が、急に現実の輪郭を帯びてくる。「最近、影を踏まれるのが怖いんだ」。燈のあの強張った笑顔は、その深淵を覗き込んでしまった者の、恐怖の発露だったのだ。「違う……」 か細い声が漏れる。「燈は、そんな……そんなこと、するはずが、ない……」 しかし、言葉に力はなかった。静自身が、心のどこかで分かっていたからだ。燈が陽気な振る舞いの下に隠していた、深く暗い「何か」。講義室で見た、彼に重なる黒い人影。それは、彼の「咎」が、この土地の「穢れ」に引き寄せられていた兆候だったのかもしれない。「するはずがない、か」 斎は、静の否定をせせら笑うでもなく、ただ淡々と事実を積み上げる。「人間は、自分が背負いきれないほどの『咎』を感じた時、どんな非合理なものにでも手を伸ばす。神、悪魔、あるいは土地に忘れ去られた古い儀式。朱鷺 燈は、何かを『捨てたかった』。この沼に」 彼の言葉は、一本の冷たい針のように、静の胸の奥深くにある不安を正確に突き刺す。斎は、燈に会ったこともない。それなのに、まるで燈の魂の芯を、その爬虫類のような瞳で見通しているかのようだ。「どうして……あなたにそんなことが……」「分かるさ。この部屋にいると、よく分かる」 斎はゆっくりと、部屋全体を、まるで空気の味を確かめるように見渡した。「ここには、君のような人間がよく来た。土地の気配に敏感な者、何かに呼ばれる者、狂っていく者……その記録が、この部屋には澱のように溜まっている」 その言葉を聞いた瞬間、静は理解した。この部屋の息苦しさの正体を。ただの埃やカビの匂いではない。ここには、禁忌に触れた者たちの、恐怖と絶望の記憶が染み付いているのだ。壁も、床も、本の山も、全てが静に向かって、声にならない声で何かを訴えかけている。吐き気が、胃の底からせり上がっ
last updateПоследнее обновление : 2025-11-05
Читайте больше

第十八話:残穢

 郷土史研究会の扉を開けた瞬間、生ぬるい午後の空気が澱んだ匂いを押し流した。遠くから聞こえるサークルの掛け声や、学生たちの思考のない甲高い笑い声。そのあまりに無防備な日常の音が、今は現実感を失い、鼓膜の表面を滑っていくだけだった。ついさっきまで自分がいたはずの世界が、手の届かない向こ​​う側の景色に変わってしまった。「行くぞ」 観月斎は返事を待たずに歩き出す。黒いコートの背中を、静は意思のない人形のように追いかけた。両足に鉛が注がれたように重く、一歩ごとに地面の奥深くへ沈んでいく。まるで、この地面に別れを告げているかのように。斎に告げられた言葉が、頭蓋の内側で冷たい鐘のように反響し続けていた。『禁忌に「呼ばれた」んだ。君と同じようにな』 狂っているのは自分だけではなかった。この土地そのものが、静と同じ「異常」を抱えている。それは安堵ではなく、絶望的な共感だった。逃げ場など、どこにもないのだという最終宣告。 斎は、普段学生たちが避ける、木々が鬱蒼と生い茂り昼でも薄暗い小道を選んで進む。ざわ、と風が木々の葉を揺らす音が、誰かの囁き声に聞こえた。目指すのは、キャンパスの最も古い区画に打ち捨てられた文学部旧館。蔦が赤煉瓦の壁に渇いた血管のように張り付き、その蔓はひび割れに根を食い込ませている。縦に長いアーチ状の窓は、太陽を忘れた頭蓋骨の眼窩のように、黒々とした虚無を湛えていた。 旧館の敷地に足を踏み入れた途端、静の身体に明確な拒絶反応が現れる。空気が変わった。まるで腐敗したかのように粘性を増し、肌にまとわりつく。湿り気を帯びて重く、肺を満たすごとに内側から冷えていく。そして、匂い。湿った土と、腐葉土が発酵する甘ったるい匂いが、腐臭と混じり合って鼻腔の奥にこびりつく。霧の日にだけ感じていた、あの匂いだ。「……っ」 胃の腑が不快に蠢き、酸っぱいものが喉元までせり上がってくる。こめかみの奥で、鈍い楔が骨を軋ませながら、ゆっくりと打ち込まれていく。「気分が悪いか」 前を歩いていた斎が、足を止めて振り返った。その瞳は、静の体調を気遣うものではない。未知の生物の反応を確かめるような、冷徹な光を宿
last updateПоследнее обновление : 2025-11-06
Читайте больше

第十九話:燈の「咎」①

 地下書庫の床に焼き付いていた、あの歪んだ影の染み。それが、瞼の裏で何度も醜く再生されては、静の呼吸を浅くする。乾いた泥で描かれた人の形をしたそれは、単なる汚れではなかった。魂が引き剥がされた痕跡。観月斎が「残穢」と呼んだ、おぞましい傷跡だった。あの澱みきった場所で燈が禁忌の儀式を行ったことは、もはや疑いようがなかった。だが、なぜ。静の問いに、斎は「彼の『咎』を、その源泉を知る必要があります」と、体温のない声で答えただけだった。彼をそこまで追い詰めた絶望の正体は、彼が最後まで暮らしていたあの部屋に残されているはずだ、と。その言葉が、二人をこの場所へ導いた。 観月斎の黒いチェスターコートが、街灯の頼りない光を吸い込んでは、さらに濃い闇を吐き出していた。午後十時過ぎ。吐く息の白さだけが、自分がまだこの世の物理法則に従っている証明だった。それ以外のすべてが、現実感を失いかけている。「行くぞ」 感情の起伏を一切含まない声が、静の鼓膜を針で突くように打った。目の前には、見慣れたはずのアパートの鉄製階段が、冥府への入り口のように黒々と口を開けていた。朱鷺燈が住んでいた場所。前回、一人で訪れた時の、あの肌にまとわりつく不在の感覚が、内臓を直接掴んで捩じ上げるように蘇る。「……どうやって、入るんですか」 かろうじて絞り出した声は、喉の奥が砂で擦れるように乾いて掠れていた。警察は取り合わない。大家も関与を拒んだ。ここはもう誰にとっても、ただの「空き室」だ。その中で起きている異常を、この土地に巣食う穢れを認識しているのは、世界で自分たちだけだった。「『どうやって』、か」斎は静の方を一度も見ず、まるで無知な子供に世界の法則を説くかのように、淡々と言った。「鍵を開けるに決まっている。もちろん、正規の手段ではないがな」
last updateПоследнее обновление : 2025-11-07
Читайте больше

第二十話:燈の「咎」②

 斎は、静の反応を気にも留めず、無感情にページをめくっていく。彼の静かな声が、部屋の死んだ空気を震わせた。それは朗読ではない。検死官が所見を読み上げるような、事実だけを抽出する作業だった。「三年前……高校生の時だな。彼は無免許で、友人を後ろに乗せてバイクを運転していた」 その言葉の一つ一つが、ガラスの破片となって静の鼓膜に突き刺さる。斎が読み上げる内容と、日記のページから溢れ出してくる黒い感情の奔流が、静の頭の中で混じり合い、悍ましい情景を強制的に再生していく。 真夜中のアスファルトの匂い。オイルの焦げる悪臭。カーブを曲がりきれなかった時の、タイヤが滑る甲高い悲鳴。そして、金属と骨が砕ける、濡れて鈍い、嫌な音。「事故を起こした。彼は軽傷。しかし、後ろに乗っていた友人は……」斎は一瞬だけ言葉を切り、日記のある一点を指でなぞった。「脊髄を損傷。下半身は、もう二度と動かない」 息を吸おうとしたのに、喉が痙攣して音にならなかった。代わりに、ひ、と引き攣ったような空気が漏れただけだった。そういうことか。燈が時折見せた、あの笑顔の裏に張り付いていた、能面のような無表情の正体。彼の底なしの明るさは、この底なしの暗闇から目を逸らすための、必死の足掻きだったのだ。「問題はここからだ」斎の声は、さらに温度を失っていく。「彼の父親が、地方議員か何かだったらしい。権力を使って警察に圧力をかけた。事故の記録は改竄され、表向きは『友人が一人で起こした自損事故』として処理された。彼は、その場にいなかったことにされたようだな」 怪異よりもずっと生々しい、人間の業の醜悪さが、部屋の隅々にまで満ちていく。シンクから漂う腐敗臭が、この隠蔽された過去そのものから発せられているようだった。自分だけが助かり、罰せられることもなく、日常を続ける。友人の未来を奪っておきながら、自分は大学に通い、友人と笑う。その一つ一つが、どれほどの「咎」として彼の中に積もっていったのだろう。 静が感じ取っていた燈の「澱み」。それは、彼が隠し持っていた、この巨大な罪悪感そのものだった。彼はずっと、この腐臭を放つ「咎」を体内に抱えながら、平気なふ
last updateПоследнее обновление : 2025-11-08
Читайте больше
Предыдущий
123456
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status