静の呼吸が、一瞬止まった。 心臓が、氷水の中で鷲掴みにされたかのように痛みを上げて収縮する。なんだ、あれは。脳が、目の前の物体を理解することを拒絶する。ただの泥の塊だ。子供の悪戯か、鳥が運んできたのか。ありふれた、取るに足らない偶然。そう必死に自分に言い聞かせようとするが、彼女の過敏な五感が、その物体から放たれる微弱な「澱み」を正確に捉えていた。それは、生きた人間が発する澱みとは異質の、もっと冷たく、もっと古い、底なしの感情の残滓だった。 静は、まるで縫い付けられたかのようにその場から動けなかった。時間にして数秒。しかし、彼女の体感では永遠にも等しい時間だった。やがて、彼女は呪縛から解かれたように、はっと息を吸い込み、震える指でインターホンを押した。 ピンポーン、と間の抜けたチャイム音が、薄暗い廊下に響き渡る。静は、ドアの内側から聞こえるであろう、どんな微かな物音にも耳を澄ませた。スリッパの足音。衣擦れの音。「はい」という、気怠そうな声。しかし、返ってきたのは、完全な沈黙だけだった。霧が音を吸い込むように、チャイムの響きは、何の反響も残さずに虚空へと消えていった。 もう一度、押す。もっと強く。指先に爪が食い込むほどの力で。 ピンポーン。ピンポーン。 沈黙。「……燈!」 静は、ドアに張り付くようにして叫んだ。「いるんでしょ! 開けてよ!」 返事はない。「ふざけてないで、出てきて! 心配したんだから!」 声が、虚しく震える。静は、衝動的にドアを拳で叩き始めた。 ドンドン! ドンドン!「燈! ともる!」 硬い鉄のドアが、鈍い音を立てるだけ。自分の叩く音と、荒い呼吸音だけが、この世界で唯一の音だった。涙が、視界を滲ませる。違う。何かが、おかしい。これは、いつもの彼の気まぐれではない。もっと根源的な、取り返しのつかない何かが、このドアの向こうで、あるいは、もう既に――。 静の手が、止まった。
Последнее обновление : 2025-10-30 Читайте больше