All Chapters of 亡き先代の番に囚われたΩ宰相は、息子である若きα摂政に夜を暴かれる: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 噛み痕の夜明け

 ──翌日、午後。 式典の準備が進む帝都ラティナス・帝国文化院は、喧噪と緊張に包まれていた。  装飾された高天井の広間には、警備兵たちが警戒に立つ中で、騎士団や技術局の設営班が式典壇上の調整を急いでいた。 その一角。  黒の礼装に身を包んだカイ=アレクシオンが姿を現すと、ざわついていた空気がわずかに張りつめる。 昨日まで謹慎を受け、王宮の幽閉区画に閉じ込められていたカイは、今や皇帝の命により「皇配候補」として復帰を果たした。 ――だが、彼自身はまだ、その立場を完全に飲み込めていなかった。  ユリウスとの婚約も、セイランとの断絶も。  すべてが、現実のようで夢の中のようだった。「カイ閣下、控室はこちらです」  設営を統括していた文官が、最終確認のための控室へと彼を案内した。 簡素な木の扉を前に、文官が説明する。 「壇上裏の控室には、閣下ともうお一方、最終確認を任されております」  その言葉に、カイはわずかに眉をひそめた。(……誰だ?) 無言のまま扉を押し開けると、室内の気配に呼吸が止まる。 そこにいたのは、他でもない──  セイラン=ミラヴィスだった。 ──二人きりだった。 互いに、一瞬だけ言葉を失ったまま、静寂が流れた。  だが、カイが歩を進めると、セイランはすぐに表情を整え、椅子を勧める。「ご苦労だったな。……突然の婚約発表、驚いたことだろう」 セイランの声は、あくまで公務の顔だった。  控えめな口調、姿勢も姿も乱れなく、ただの宰相として目の前に立っている。 カイもそれに倣い、無言のまま書類を受け取る。  まるで何もなかったかのように、式典の流れや配置確認について確認が続けられた。 ──本当に、何もなかったように。  あの夜のことも。  拳をぶつけたことも。  「好きだった」と叫んだ声すらも。 だが、それは続かなかった。 ふと、セイランの手元から資料束が滑り落ちた。  厚手の紙が数枚、床に舞い、ふたりの間に散らばった。「ああ、すまない」 セイランがしゃがみ込み、それを拾い集めようとかがんだ――そのときだった。 黒衣の襟元がわずかにゆるみ、下から白磁のような肌が露わになる。  その、うなじのすぐ下。  紅く、鋭く、二点で刻まれた──双牙の痕。 カイの呼吸が止まった。 それは、|番《つがい
last updateLast Updated : 2025-11-08
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第12話 祝祭前の静寂、英雄たちの夜

 皇帝ユリウス=ルクレアと皇配カイ=アレクシオンの結婚から、およそ一年が過ぎた。そして明日――帝国統一戦線の勝利から二十年という節目を祝う、帝都平定記念祝典が執り行われる予定だった。 帝都ラティナスは、その祝祭を前に、準備と熱気に満ちていた。  各地から賓客が集まり、街の至る所に帝国旗が翻る。  英雄たちの名を称え、新たな時代の礎を誓う、盛大な祭典── だが、その華やかさの裏で、帝国という国家は、いまだ揺らぎの中にあった。 「帝国統一戦線」と呼ばれた一連の戦役を率いたのは、現皇帝ユリウス=ルクレアの父、ヴァリス=ルクレア。  彼は理想を掲げ、混乱続く大陸をひとつにまとめあげようとした人物だった。  アレクシス=アレクシオンやセイラン=ミラヴィスといった英雄たちを従え、戦火の最前線に立ち続けた王。  だが──その統一が成される寸前、ヴァリスは病に倒れ、帰らぬ人となった。 以後、帝国は形式上は一つに統一されたものの、各地に旧勢力は色濃く残り、  王の死を境に生まれた「空白」は、いまなお政の根幹を軋ませ続けている。 若き皇帝ユリウスは、偉大な父の遺志を継ごうと努力している。  だが、その手には、いまだ国家のすべてを掌握できてはいない。  腐敗した貴族派、弱体化した元老院、そして隠然たる旧家の影──  帝国は平和の名の下に、緩やかに沈んでいくかのようだった。 ――そんな折に開かれる、祝賀の式典である。 式典前夜、迎賓館では、かつて帝国統一戦線を生き抜いた英雄たちが一堂に会していた。 ガイル=ランデル。ゼノ=クラヴィス。そして、ロエン侯――ロエン=ファルカス。  貴族の華やかな装いとは異なり、英雄たちは皆、簡素な軍礼服に身を包んでいる。 その場に、宰相セイランもいた。ただ一人、杯を持ち、少し離れたテラスの方に立っていた。煌めく夜景と帝都の灯が彼の横顔を照らす。「おい、セイラン!」 突然、背後から豪快な音が鳴り響いた。バシン、と音を立てて肩を叩かれ、セイランの身体が一瞬たわんだ。「……ガイル、お前は」 振り返ったその肩には、すでにガイル=ブランデルのぶ厚い手がどかんと置かれていた。かつて「突撃猟犬」と呼ばれたほどの武闘派で、帝国軍大将の一人として前線を駆け抜けた歴戦の将。  セイランとは年齢も近く、若い頃から戦場を共にした無
last updateLast Updated : 2025-11-09
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第13話 時の止まる夜に

 英雄たちの笑い声が、金のシャンデリアの下に柔らかく響いている。  その光景を、少し離れた廊下の奥から見つめる三つの影があった。 皇帝ユリウス=ルクレアと、その傍らに立つ皇配カイ=アレクシオン。  そして、カイに抱かれて眠る、まだ幼いリュカ。 ガイルに背中を叩かれたセイランが、ふっと笑う。  酒を片手に、旧友たちと肩を並べ、わずかに目元を緩めたその横顔は――  カイにとって、見慣れないものだった。「……あの人の、あんな顔。初めて見たな」 ぽつりと呟いた声には、驚きと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。 ――そうだ。  自分にとって、セイランはいつだって完成された大人だった。  感情を見せず、冷静で、どこまでも理知的で。  皇帝を支え、帝国を導く鋼の宰相。 その人が、仲間と笑っている。  声を上げて、肩を叩かれ、ふと目を細める――そんな、温度のある姿。(……こんな表情を、あの人がするんだ) 今さらのように気づいた。  自分は、彼のすべてを知っていたわけじゃない。  ただ遠くから、その背を見ていただけだったのだと。  囁くような声だった。  どこか、憧れに似た熱が、言葉の端ににじんでいる。 その隣で、ユリウスが少し呆れたように笑う。「……また始まった」 軽く言いながらも、口調にはどこか優しさがあった。  セイランに向けるカイのまなざしの熱に、気づかないはずがない。  ユリウスはそれを咎めることなく、カイの腕でそっと眠るリュカに触れながら言った。「……本当に、あの人は特別なんだな。君にとっても」 カイは返事をしなかった。  ただ、視線を逸らさず、セイランの背中をじっと見つめ続けていた。「……でも、わかるよ。帝国統一戦線で生まれた絆。あれは、僕たちにはないものだ」「そうだな」 カイは静かに答えた。  羨望とも、悔しさともつかない感情が、胸の奥に残る。  血を流して、命を張って国を創った者たちと、自分たちは違う。  守られて生きてきた者と、命を捧げてきた者の違い。 セイラン、ガイル、ゼノ、そしてロエン。  あの輪の中に自分たちが加わることは、きっと永遠にない。 ふと、隣に立つユリウスが、小さく笑った。「……僕も、同じだよ」 思わず、カイは彼の横顔を見た。  いつも柔らかく、平和の象徴として振る舞
last updateLast Updated : 2025-11-10
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第14話 沈黙の帝都、始まりの夜

 宴席のざわめきから少し離れた先。 迎賓館のバルコニーは、夜風に吹かれてひっそりと静まり返っていた。 月明かりが石畳を淡く照らし、遠くに広がる帝都の灯が、まるで宝石のように瞬いている。 その端に、ひとり立つ影があった。 宰相セイラン。 その姿はまるで、この帝国そのもののように、凛として、背を向けていた。「……寒くないんですか」 背後からかけられた声に、セイランはゆっくりと振り返る。 カイ=アレクシオン。 皇配となった青年が、月の輪郭を背に静かに立っていた。「……お前こそ、式典の主役がこんなところでいいのか。……ユリウスとリュカは?」「体調が悪くて、先に帰りました。疲れたみたいで」「体調不良?」 セイランは、しばらく黙った。 わずかに眉間が寄り、ほんの一瞬、視線が揺れる。 その小さな変化を、カイは見逃さなかった。(……やっぱり、気にしてる) 先王が若くして病死したことは、帝国の誰もが知っている。 けれど、その始まりがどんなだったかを覚えている者は、きっと少ない。 セイランだけが、その兆しを、あの頃の不安を、今も忘れていないのだ。 カイは、ほんのわずかに息を呑んだ。「……大丈夫、ですよね?」 問いかけというより、願いに近い声だった。 セイランはふと、わずかに口元を緩めた。「……当然だ」 その微笑みに、曇りはなかった。 けれど、それはあまりにも――静かすぎた。(この人は、いつも、俺を守ろうとして言葉を飲み込む)(俺は、いつもそれに気が付いてなかった……) 二人は並んで、夜の帝都を見下ろしていた。 遠くでは、まだ祝宴のざわめきが続いている。 けれど、ここには――声も笑いも届かない。「……あんな顔、するんですね」 カイがぽつりと呟いた。「何のことだ」「さっきの、ガイルさんたちと話してるとき。子供みたいな顔して笑ってました」 その声は、どこかくすぐったそうで、でも優しくて。「ずっと守る側の顔しか知らなかったから、驚きました」 セイランはほんの一瞬、目を細めた。 それから、夜の風に吹かれるように、ゆっくり言う。「ああ。あいつらと話すと、あの頃に戻った気がするな」ほんの少し笑った横顔に、微かな光が滲む。「王のもとに、才のある者たちが自然と集まってきた。誰に命じられたわけでもない。惹かれたんだ。……
last updateLast Updated : 2025-11-11
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第15話 灰の宰相、夜に堕つ

 祝典当日、帝都ラティナス。 広場は国旗と歓声で満ちていた。 晴天のはずなのに、空気のどこかに微かな重さがある。 王宮前の石造りの演壇には、装飾を施した祭壇と白布の敷かれた階段。 その中心に、皇帝ユリウスが登壇し、その傍らにリュカを抱いた皇配カイが立つ。 セイランは、そのすぐ下、階段裏手に設けられた警備指揮台にいた。 ロエルと最終確認を交わし、警備導線に問題がないことを確認したばかりだった。「導線はすべて確認済みです。地下導路の扉も封鎖完了」「……ご苦労だったな」 ロエルは静かに一礼し、列に戻る。 その背に、ふと違和感のようなものが走った。 昨日、ゼノがふと言った言葉が、脳裏にうっすら蘇る。「……ロエル侯の動きが、最近少し妙です」 そのときは取り合わなかった。 だが今、わずかに目を逸らしたような仕草、袖口に残る黒い煤、 そして列へ戻る前に交わした短い視線――誰かへの微細な合図のような。 セイランは眉をひそめた。 だが、振り払うように首を振る。(今は式典に集中を) ユリウスが話し出す。 柔らかい声。だが確かな意志。「――この国を築いてくださった、先人たちに感謝を。そして、今日ここに集ったすべての人々に。皆がいてこそ、この帝国は続いていく。私たちはまだ未熟かもしれない。けれど、だからこそ、皆と共に歩いていきたいのです」 言葉は穏やかだった。 だが、その響きには不思議な力があった。 セイランは、それを確かに感じていた。(この子は……間違いなく、この国を継ぐべき器だ) リュカを抱いたカイの姿も、群衆の祝福に包まれている。 その光景に、セイランはふっと息を吐いた。 胸の奥に、かすかな安堵が満ちてくる。(選択は、間違っていなかった) あの時、もしカイに抱かれていたとしたら――きっと、こうして未来を見られはしなかった。 それでよかった、と今は思える。 その瞬間。 世界がぐらりと軋んだ。 足元の石畳が不自然に震えた。風でも地響きでもない。 地の底から何かが蠢き、ねじれ、軋み、歪んでいくような――そんな異様な圧。 次の瞬間、空気が爆ぜた。 ――ドオン。 腹の底を叩くような鈍い音。 遅れて、耳をつんざく轟きが押し寄せた。 音ではなく、衝撃が肌を打つ。 演壇直下。 観覧席の階段下に設置された導路から、白
last updateLast Updated : 2025-11-12
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第16話 血の共犯者

 帝都中央議事堂。 爆破事件から三日後の早朝。 まだ煙の残る街を背に、皇帝ユリウスと宰相セイランは議場の中央に立っていた。 帝国中央軍参謀本部・首席参謀ゼノ、南方防衛州軍政官・軍務卿ガイル、そして主要貴族・議員ら二十余名が列席している。 本来なら、ガイルは南方防衛州に戻っているはずだった。 帝国の国境を守る軍管区を預かる戦時総督。 だが、今回の襲撃事件を受け、彼は自ら進言した。「陛下の命が狙われるような時代に、俺がのんびり国境で魚釣ってる場合かってんだ」 武骨な口調で、そう言って帝都に留まったのだ。 その言葉に、貴族の何人かは顔をしかめたが、セイランは何も言わなかった。 その姿勢には忠義よりも、どこか嵐の中心を見届けようとする男の静かな覚悟があった。 壁には戒厳を示す黒の帝旗が掲げられ、 空気は、まるで戦時のように張り詰めていた。 セイランは壇上の報告書を開き、静かに読み上げた。「爆破事件の首謀者は、ロエル侯および旧貴族派一党と断定。よって、帝国は本日をもって彼らを国家反逆罪として処断する。領地没収、資産凍結、当主ならびに関係者の拘束を命ずる。」 ざわめきが起こる。 その中心にいたのは、白銀の髭をたくわえた老貴族――ユーベル侯。 帝国でも随一の権勢を誇り、地方有力貴族を束ねる男だった。「宰相閣下、それでは……帝国が割れますぞ! 一族全てを断つなど、あまりに――!」 声を荒げた侯の言葉を、セイランは無表情のまま受け止めた。 その瞳に、冷たい光が宿る。「ならば、割れた部分を切り落とせばよい。」 その一言で、議場は凍りついた。 誰もが次の瞬間、息を止めたように沈黙する。 ユリウスがゆっくりと立ち上がる。 宰相の言葉を覆すことはなかった。「……帝国は、血を流しても守るべきものがある。これは私の名の下に行う国家命令だ。反対する者は、私の敵と見なす。」 静寂。 そして、印章が押される音が響いた。 政令には、粛清のほかにも―― 徴発制度の強化、治安維持法の再制定、皇帝および宰相権限の拡大が明記されていた。 地方軍はすべて中央の指揮下に置かれ、異論を唱えた議員には国家妨害の罪が適用される。 ユーベル侯はなおも立ち上がりかけた。 その瞬間、列の後方から、ガイルが一歩前に出た。 金属の拍音が床に響き、場が静まる。 
last updateLast Updated : 2025-11-13
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第17話 落ちていく夜に、名を呼ぶ熱

 喉が焼けつくように熱い。  呼吸をするたび、肺が軋んだ。  頭が割れるように重く、目を開けても世界が滲んでいる。 セイランは寝台の上でわずかに身じろぎし、掛け布を引き寄せた。  肌が汗で湿り、寝巻がまとわりついて気だるい。  けれど、それ以上に――全身を這うこの感覚は、身体の内側から来るものだった。(……熱があるな) あの夜の熱が、身体にそのまま残ったように思える。  罪か、快楽か、それとも……ただの風邪か。  答えを出す気力もなく、セイランは枕元に控えていた侍従へ目だけを向ける。「……今日の執務は、すべて取りやめろ。代理にはゼノを立てるように。……重要な案件は、明日まで保留だ」 声は掠れていたが、命令の語尾には確かな力がこもっていた。  侍従はわずかに瞠目し、すぐさま深く頭を下げる。「……畏まりました。すぐに手配いたします、閣下」 足音が遠ざかる。扉が閉じられる。 セイランは再び、目を閉じた。  瞼の裏に、赤が灯る。  血の赤。痕の赤。罪の記憶が、じわじわと意識を浸してくる。(また……落ちていく) 逃げ場のない意識が、眠りの底へと引きずり込まれていく。  首筋がじんと疼き、微かな熱を帯びる。  セイランはその感覚に抗わず、ただ身を任せた。 次の瞬間、夢の中で――  ロエンの声が響いた。「それが、お前の正義か」 最初に現れたのは、あの男だった。 ロエン。  かつて忠義に殉じ、今は血の記録に名を刻まれた、裏切りの象徴。  けれど夢の中のロエンは、血にまみれて立っていた。  額から流れる赤が目の奥に沁みて、声だけが異様に澄んで響く。「それが、お前の正義か、セイラン」 「民を守るために、子をも処すか」 「貴族派の粛清……いや、ただの選別だ」 背後に立つ影が増えていく。  処刑された貴族たち。嘆きの声。  名前すら知らない平民の少年、血を啜るような視線。 セイランは一言も発せられなかった。  喉が詰まり、ただ、手に返り血がこびりついている感覚だけが残った。  ロエンが近づく。その顔はもはや皮肉でも怒りでもなく――深い哀しみに濡れていた。「……お前は、誰のために、その手を汚した?」 闇が迫る。 ――場面が変わる。 今度は光の中だった。 庭。芝生。陽射し。  どこか見覚えのある邸宅のテラ
last updateLast Updated : 2025-11-14
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第18話 触れられない痕に、名前だけが残った夜

 薄暗い部屋。閉ざされたカーテンの隙間から、細い陽の筋が差し込む。  その光の中で、セイランは熱に焼かれるように浅く呼吸を繰り返していた。  汗が玉のように額を濡らし、喉元には紅が差し、全身が火照っている。 それでも彼は、何かにすがるように、静かにそこにいた。  だが―― 最も目を引いたのは、首筋だった。 寝台の端、はだけた襟元から覗く白い肌。 そこに、はっきりと紅い痕があった。……番の痕。(……アレクシス、か) とうに諦めたはずだった。 過去の亡霊に、奪われた心。それでも、胸の奥がきりきりと痛んだ。 嫉妬など、もう感じないと思っていたのに。 心臓を鷲掴みにされるような感覚。 その痕に、触れることもできず、ただ見下ろしている自分が情けなかった。(……来るんじゃなかった) 胸の奥で、誰にも言えない声が零れる。けれど、扉を閉じて背を向けるには、もう遅すぎた。「や……めろ……」 「……カイには、近づくな……」 その声に、足が止まった。 寝台のセイランが、うなされていた。 眉間を歪め、喉を震わせ、誰かを庇うように呻く。「……ロエン……子供が、いる……っ」 「……処すな、まだ早い……俺が、俺がやる……っ」 その声は、恐ろしいほどに脆く、苦しかった。宰相ではなく、セイランという一人の人間の、 誰にも見せたことのない内側が、そこにあった。 ――式典のあと、セイランは人が変わったように見えた。  粛清の指示、冷たい言葉、鋭い視線。あまりに理知的で、あまりに徹底していて、正直……怖かった。 でも、本当はわかっていたはずだ。 あれが仮面で、痛みを押し殺す手段だったこと。それに気づきながら、見て見ぬふりをしていたのは自分の方だ。「……ごめん」  誰にも聞こえない声で、カイはそう呟いた。 カイは、そっと部屋に戻った。  洗面器に氷水を張り、布巾を浸して硬く絞る。 寝台に膝をつき、額の汗を丁寧に拭い、冷たい布をそっと当てた。セイランの肌がびくりと震えたが、目を開くことはなく、ただ熱に浮かされて浅く呼吸していた。 この男が、こんなふうに弱ることがあるなんて―― 誰が想像できただろうか。  静かに、喉を震わせる。「……父上、セイラン……」 心の中で、語りかける。 あなたに、踏み込むことはできない。俺には、ユリウスがい
last updateLast Updated : 2025-11-15
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第19話 ゆっくりと崩れはじめる静かな均衡は──

 結婚式から、三年が過ぎた。 皇帝ユリウス=ルクレアと皇配カイ=アレクシオンは、帝都ラティナスにて穏やかな日々を過ごしている。 帝国の中枢にあって、彼らは国家の象徴としてだけでなく、一組の家族としても在り続けていた。 ふたりの間には、リュカというひとりの子がいる。愛情深く育てられており、帝都の内輪では星の御子とも囁かれていた。 その一方、政の裏側では、旧貴族派や神殿派の反発と混乱が続いていた。 宰相セイラン=ミラヴィスは、腐敗した貴族勢力の粛清を進め、帝国の秩序を保っている。だがその苛烈さゆえ、彼は反帝政派からは「帝国の魔物」とも揶揄され、敵も多い。 それでも、誰かがその役を担わねばならない。 国家は、理想だけでは動かない。*** 帝国宮殿・東の塔。 朝陽が差し込む小さな食堂に、パンをちぎる音が穏やかに響く。 白い皿の上に、焦げ目のついたパンと葡萄のジャム。 その膝の上に、ぐずりながらもぱくついている小さな子ども。 黒髪で、どことなくカイに似た眉と、ユリウス譲りの淡い碧眼。「なあ、パパ。パパと──ゆりうす、どっちがえらいの?」 その問いに、カイとユリウスが同時に吹き出した。「……そりゃ、お前な……」「僕だよ?」 声がかぶる。 ふたりは目を見合わせて、また笑った。「けど、朝から子どもの世話してんのは俺だろ」「だから、僕は皇帝として偉いってことでいいね」「こら。飯こぼすな、ほら、拭け。お前も皇帝もどっちも汚すな」 にぎやかな笑い声が、静かな部屋に満ちていく。 朝の光が、薬指の指輪をきらりと照らす。 番の証。夫婦の、家族の、そして国家の絆。 けれどユリウスは、ふとスプーンを置き、テーブルに片肘をついた。「……あれ、少し眩しいな……」 そう呟き、額に手をやる。 カイが目を細めた。「……また熱、上がってる?」 ユリウスは苦笑を浮かべるだけで、肯定も否定もしなかった。 そして、小さな声でぽつりと漏らした。「……父上も……こんなふうに、よく熱を出してたらしい」 カイの手が止まる。「……え?」「前の皇帝も、僕と同じぐらいの年で……原因もはっきりしないまま、静かに倒れたんだって。母が、たまに思い出したように話してた」 その声音は、どこか遠く、少しだけ震えていた。 ──またか、と。 またこの血筋
last updateLast Updated : 2025-11-16
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第20話 静かに崩れ始める帝国の心臓

 帝国は新体制のもと、かつてない繁栄を見せていた── 表向きは。 だがその裏では、宰相セイラン=ミラヴィスによる粛清が進行していた。 旧貴族派と呼ばれる一族たちは、次々に失脚・投獄され、帝国に巣食う腐敗として断罪されていた。 民衆は喝采し、かつてこの地に帝政をひいた二十四年前の帝国統一戦争の英雄たちは拍手を送った。 セイランもその英雄の一人であり、帝都に残った数少ない生き残りだった。 あの戦で、アレクシスと出会い、共に帝国の礎を築いたのだ。 ──だが、その影では、皇帝ユリウスの体調が、ゆるやかに帝国に影を落とし始めていた。 表向きは変わらず政務をこなし、笑顔を絶やさぬ若き皇帝。 だが、時折見せる疲労の色、続く微熱、ふとした眩暈―― 側近たちの間には、徐々に不安が広がっていた。 「過労による一時的な衰弱」と侍医は繰り返したが、帝国の記憶は忘れてはいない。 先代皇帝もまた、同じ年頃に、原因不明の病で倒れたのだ。*** 朝の光が射し込む皇宮の居間。 窓辺の絨毯で、子どもがひとり、小さな木製の兵士を並べて遊んでいる。 その背を背後から見守りながら、カイは食後の紅茶をすすっていた。 テーブルの向かいでは、ユリウスが書類をめくっている。堅い紙の音が、何度も部屋の空気を切る。 陽が傾き始めた執務室で、カイは机に散らばる報告書を一瞥しながら言った。「……ついにユーベル侯も粛清か」 ユリウスは手を止めずに頷く。「おかげでだいぶ風通しは良くなった」 カイは目を落とした。 正義の名を冠して、血が流れていることは事実だ。 だが、その結果も、また明白だった。「……確かに。セイランが動き始めてから、改革案は通るし、軍も素直になった。若い官僚たちも声を上げ始めた。汚職も腐敗も減った。……まともに働く政治ってやつだ」 ユリウスは苦笑した。 カイがふと言った。「急ぎ過ぎてる気はするけどな。まるで何かに取り憑かれてるみたいだ」 ユリウスの声がふと、掠れる。 手元の書類に視線を落としたまま、そっと呟くように言った。「……焦ってるのかも。僕の健康状態がよくないから。……僕が元気でいられるうちに、帝国を安定させたいんだろう。……この子のために」 その言葉に、カイはふと顔を上げる。 テーブル越しのユリウスの頬が、いつもより少し痩けて見えた。
last updateLast Updated : 2025-11-17
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