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21話

※暴力/脅迫/加害表現を含みます。私の全身を舐め回すように見ていた〝笑い犬〟の視線が、あるところで止まった。「──この髪、邪魔ですね。〝人形〟は、こんなに長くはなかった。いっそのこと、切ってしまいましょう」ナイフの刃が、私の襟足にあてられた。ビクリと、身体が電流に打たれたように反応する。「い、嫌だっ……! やめろっ……!」私はナイフを奪おうと手を伸ばした。怪我することなど、一瞬たりとも頭に浮かばなかった。ただ、守りたかった。あの日、〝王様〟がここに優しく触れた──その記憶を。「檻に戻れ! 〝笑い犬〟!」突然、隣の部屋からドンッと壁を叩く音が響いた。びくりと〝笑い犬〟の身体が痙攣し、信じられないものを見るかのように向かいの壁を凝視する。「この声……まさか、〝王様〟……!? いや、そんなはずはない……貴方はあの治療で気を失って、二、三日は目を覚まさないって〝先生〟が……」「そりゃ、残念だったな。お前の〝先生〟も、たまには間違うってことさ」かすれたせせら笑いに、〝笑い犬〟の顔が赤く染まる。だが、〝王様〟が苦しげに咳き込むと、彼はほっと息をついた。「なんだ、やっぱり〝先生〟は正しかったようですね。驚かせないでください。気丈に振る舞っても無駄ですよ? 声が震えていますから」「黙れ、〝笑い犬〟。無駄吠えしていないで、そろそろ自分の犬小屋に戻ったらどうだ?」途切れ途切れではあったが、〝王様〟の声は自信と軽蔑に満ちていた。 「まさか、興奮しすぎて忘れたってわけじゃないよな? それなら教えてやろうか。お前の部屋は──」「言うなっ……!」〝笑い犬〟がギクリとして、下に横たわる私の方を見た。「ふん。どうした? 〝笑い犬〟──いや、〇三番。お前の病室は俺の隣、〇三号室だろ?」「……〇三番?」私は〝笑い犬〟を見上げた。相手の顔はみるみるうちに赤くなり、身体が小刻みに震え出す。「それ以上、言うなっ……! この人に!」「なぜだ? いつかわかることだろう?」〝王様〟の声は冷ややかだった。「お前が、人を痛めつけるのも、痛めつけられるのも大好きな、性的異常者だってことがな」キーンと耳鳴りがするほどの静寂の中、〝王様〟の声だけが響く。「お堅そうなフリをしたって無駄だ。『外』でさんざんイタズラをして、更生不可能の性犯罪者としてここに移送され
last updateLast Updated : 2025-12-18
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22話

  「そいつに、触るな」〝王様〟の低く静かな一声。 その瞬間、ナイフを私に押し当てていた〝笑い犬〟の手がわずかに揺らぐ。「なっ、命令するなっ……貴方の言うことを聞く道理はない!」 「そう思うか? だが、これは命令だ」〝王様〟の声が一段と冷え込む。「俺は知っているんだぞ。昨日、そいつの房の鍵を開けておいたのは、お前だろう?」〝笑い犬〟がはっと息を飲む。 その沈黙を縫うように、〝王様〟の声が続いた。「一体、そいつに何をするつもりだったんだ?」〝王様〟の声は一瞬だけ揺らぎ、ほんの間を置いてから、元の冷えた調子へと戻った。「目隠しや、手錠なんか持って。〝先生〟殿にお預けでもくらって、我慢できなくなったのか?」〝笑い犬〟は、グッと口をつぐんだ。 ナイフの先が震え、私の肌を小刻みにかすめていく。 その間にも、〝王様〟の淡々とした声が響き渡っていた。「だが、それが〝先生〟にバレたらどうなる? お前は看護士の任を解かれ、患者に逆戻りだ」一拍置いて、〝王様〟は続ける。「そうしたら——〝人形〟。お前の、敬愛するご主人様のそばに、もう、いられなくなるぞ」王様の声が響くたび、ナイフの先がさらに震え、私の肌に、かすかな痛みが走る。 念を押すような低い声が、壁の向こうから落ちてきた。「……それでも、いいのか?」 「……くっ」笑い犬〟の顔に、動揺が走った。 決めかねるように、私と向かいの壁とをちらちら見比べる。そこへ、〝王様〟がさらに追い打ちをかけた。「それが嫌なら、さっさと小屋に帰るんだな。ワン公。もう一度言ってやろうか? お前の部屋は俺の隣──〇三号室だ」 「……〝王、様〟っ……!」怒りに震えながら、〝笑い犬〟はギッと壁を睨みつけた。 だがナイフを持つ手には、もはや何の力も残っていなかった。「どうした〝笑い犬〟? ハウ
last updateLast Updated : 2025-12-19
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23話

  どちらも、信じてはいけないのだ。 これは、すべて〝王様〟の罠なのだから。そうわかっているはずなのに、なぜか彼を信じてしまいそうになる。 信じたいと思ってしまう。この感情は、一体どこから来るものなのか──。私はその答えを探すように、壁に指を這わせた。すぐ向こうに〝王様〟がいる。 そう思った瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。昼間のあの絶叫を聞いた私にとって、彼が無事でここにいることは、まるで奇跡のようだった。(ほんと、何なんだ……)苦笑いが、こみ上げてくる。 あんなことをされたというのに、〝王様〟があの責め苦に耐え、戻ってきてくれたことに、私は──安堵していた。「……ありがとう、〝王様〟……」心の中で思っていた言葉が、ポロリと口からこぼれてしまった。「は?」 〝王様〟がガタリと腰を上げたのがわかった。「お前……何を言っているんだ? 俺がお前に何をしたのか覚えていないのか?」 「でも、さっき……助けてくれただろう?」 「……あのな」〝王様〟が呆れたように大きく息を吐く。「助けられたら、何をされてもチャラになるのか」壁の向こうから聞こえるその声音は、あきれ返ったというより、呆然としているようだった。 しかめっ面をしているだろう顔が、手に取るように浮かぶ。「ぼおっとするのも大概にしろよ。お前は前からそうだった。異常に頭はいいくせに、変なところで抜けてるんだよ」くどくどと言い募る〝王様〟の声に、思わずぷっと吹き出してしまった。 すぐに、むっとした声が返ってくる。「おい、笑いごとじゃないぞ。冗談抜きで言ってるんだ。お前は緊張感がなさすぎる」その語調は、いつになく真剣だった。「今の〝笑い犬〟の件でも、よくわかっただろ? ここにいる誰のことも、信じちゃいけない。もちろん、俺のこともだ」 「……どうして?」問いか
last updateLast Updated : 2025-12-20
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24話

  そう言ったきり、隣の部屋からは物音一つ聞こえてこなかった。寝てしまったのかと思い、私は壁を小さく叩いた。「どうした?」少し間を置いて、優しく静かな声が返ってくる。これまで以上に穏やかな声に、目の奥から何かがこみ上げてきそうになる。「泣くな」〝王様〟が言った。私は慌てて手の甲で目元を拭う。「泣いて、ない……私は、泣き方を知らないんだ」「あぁ、そうだったな。〝人形〟も、確かそう言っていた」しばしの静寂のあと、〝王様〟は妙に確信めいた声で続けた。「でも大丈夫だ。お前も、いつか泣ける日が来る。そのときは思いっきり泣け。今までの分まで」言い終えてから、〝王様〟は小さく笑った。「……馬鹿だな、俺は。泣くなって言ったり、泣けって言ったり。これじゃ、まるで〝さかさま〟だな」低い笑い声を聞いていたら、私はどうしても聞かずにはいられなかった。「〝人形〟は貴方に優しかった……?」しばしの沈黙のあと、〝王様〟はぽつりぽつりと語り出した。「そうだな。けど最初に会ったときは……俺も他の連中と同じで、なんて冷たい奴だと思ったよ」彼はゆっくりと言葉をつなぐ。「でも、それは間違いだった。あいつの腕は……温かかった。俺は、あの温もりがあったから……今もこうして、なんとか正気を保っていられるんだ」当時を懐かしんでいるのか、〝王様〟の声は遠くかすんでいた。その声音に、不思議と昨日感じたような苛立ちも焦燥感も覚えなかった。逆に、〝人形〟に感謝したくなるほどだった。この先の見えない閉鎖病棟で、どこか寂しげな〝王様〟の心を救ったのが〝人形〟だったなんて。冷酷だと言われていた彼が。──〝人形〟は、どんな人だったのだろう
last updateLast Updated : 2025-12-21
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25話

  診察室のドアを開ける。 中は暗く、〝先生〟の姿もなかった。当然だ。 今日は週に一度の、『外』の学会に出かける日。 さっき、広間の窓から彼が病院を出て行くのを確認したばかりだ。普段通りなら、夜までは戻らないだろう。物音を立てぬよう注意しながら、〝先生〟のデスクに近づく。 一つ一つ、引き出しを開けて、中を確認していく。欲しいのはカルテだった。私と〝王様〟の。 それを見れば、何か思い出せるかもしれない。自分が何者なのか、なぜここにいるのか。 ——そして〝王様〟のことも。「……あった!」デスクの上にある書類立ての中から、見覚えのあるファイルを見つけた。 診察の時、〝先生〟が記入していたものだ。 表紙には『NO.01』と記されている。緊張に息を詰め、一呼吸おいてから、ファイルを開く。 中には、数字や英字が羅列されたカルテと、二枚の写真が挟まれていた。一枚は少年、もう一枚は青年が写っている。 似た面立ちから察するに、同一人物なのだろう。どちらも、口元ひとつ動いておらず、冷めきった表情をしている。 カメラを見ていながらも、まるで心をどこかに置き忘れたかのような、虚ろな目。(もしかして、これが……私?)初めて見るはずの自分の顔なのに、それ以上の興味は湧かなかった。 『NO.01』のファイルを閉じ、その場にそっと置いた。〝王様〟のカルテも探す。 だが、どこにも、見当たらなかった。デスク、棚、引き出し。 ありとあらゆるところを探す。 けれど、〝王様〟──どころか、他の患者のファイルすら存在しない。(どうゆうことだ……?)不可解な胸騒ぎが拭えず、私は診察室の中を改めて見回した。目に飛び込んできたのは、デスクの背後──特別な治療室へと続く一枚の扉だった。(……もしかした
last updateLast Updated : 2025-12-23
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26話

  「〝先生〟、これは一体──」 「それは、君の患者のものだよ」〝先生〟は、私の手元のカルテを指さしながら、あっさりと言った。「……私の? まさか。彼らの主治医は、貴方で──」 「違う。僕の患者は、君一人だよ」きっぱりと断言すると、〝先生〟はくるくると指先を回しながら、楽しげな様子で私に向き直った。「簡単に言えば、こういうことさ。僕の患者は君。そして君の患者は、この閉鎖病棟にいる全員。つまり、君は僕の患者にして、彼らの主治医でもあったわけだ」耳に入ってくる言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。 喉がひどく乾いていて、唾を飲み込む音だけがやけに大きく聞こえる。「……私が、医者……?」 「正確に言えば、僕の助手だ。君の頭脳は、患者として眠らせるには惜しかった。だから僕が君を助手として育て上げ、研究に協力してもらっていたのさ」〝先生〟の声は穏やかで、どこか誇らしげですらあった。「君は、快く従ってくれた。なんせこの研究が進めば、君の病気の治療にも役立つからね」 「……私の病気に? 一体、その研究って……」言葉が詰まる。 〝先生〟はあとを継ぐように、静かに口を開いた。「その前に、君の過去について話しておこうか」まるで絵本でも読み聞かせるような調子で言う。「僕が研修医としてここに来た頃——君と出会ったのは、君が十代前半の少年の時だった。当時すでに君は、この病院で最も長く入院している患者だった」私は、黙って〝先生〟の話を聞いていた。 現実感が砂のようにこぼれ落ちていく。「それも当然だ。君がここに来たのは、わずか三歳の時。生まれつき感情というものを持たなかった君を、君の両親は恐れた」まるで過去の映像を透かし見るかのように、〝先生〟の目が細まる。「そして君をここに預けた。いや、捨てたと言った方が正しいだろうね。その後、彼らは姿を消し、二度と戻ってこなかったから」〝先生〟は少しだけ首を
last updateLast Updated : 2025-12-25
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27話

  足元から悪寒がせり上がってくる。 〝さかさま〟や〝笑い犬〟に言われてきた言葉たちが、ぐるぐると竜巻のように頭を襲った。「君は、実験を次々と進めていった。まるでロボットのように正確に、冷酷とも言える大胆さで」〝先生〟の言葉に吸い込まれるように、私はただ彼を見つめ返すことしかできなかった。「君には感情がない。それが、この研究には都合がよかった。なぜなら、人の精神を壊すには、良心など邪魔なだけだからね」 「精神を、壊す……?」その言葉に、胸の奥がぐらりと揺れた。 無意識に、私は一歩、後ろへ下がっていた。「〝先生〟……貴方の研究って、一体……」ようやく、と言わんばかりに〝先生〟が微笑んだ。「魂の研究だよ」その言葉は、冷たい治療室に不気味な反響を残した。 チカチカと蛍光灯の人工的な光が、応えるように点滅する。「僕はね、幼い頃からずっと不思議で仕方なかったんだ。〝心〟って、一体どこにあるんだろう、とね」〝先生〟の声は、どこまでも穏やかで、聞く者の心を落ち着かせる。 だが、その口から紡がれる言葉は、不穏な影を孕んでいた。「人は〝心〟と言えば胸を指す。でも、そこにあるのはただの臓器──血液を送るポンプ、心臓だ。なら本当の〝心〟はどこにある? 答えは簡単だよ。脳さ」そう言って、〝先生〟は自分のこめかみを指さす。「脳で起こる電気信号こそが、感情の正体だ。愛、憎しみ、悲しみ、快楽、感動……そのすべては、ただの化学反応に過ぎない」トントンと、こめかみを指で打つ音がかすかに響く。「人は〝精神〟と聞くと美しく神秘的な何かを想像するが、実際には心もまた、生理的な現象にすぎないんだ」言葉の端々に、冷徹な確信がにじんでいた。「だから当然、肉体が死ねば、心も消えてなくなる。それが科学の答えさ。──だけど、君と出会って、僕は変わったんだ」それまで淡々としていた 〝先生〟の口調が、突然、恋人に囁くような甘いものに
last updateLast Updated : 2025-12-27
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28話

  無意識に私は、足を引いた。 〝先生〟の声が、冷たい部屋の中で、ぐわんぐわんと反響する。「僕は君のことを、もっと知りたい。君は、魂の謎に最も近いところにいる存在だ。脳機能に異常がないにもかかわらず、感情が乏しい君は、魂に何らかの異常を抱えていると言える」そう言って、〝先生〟は胸の前で両手を広げた。「つまり、その異常を解き明かせば、おのずと魂の輪郭も浮かび上がってくるはずだ」熱っぽい〝先生〟の視線が、次第に狂気を帯びていき、蛍光灯の下でギラギラと光った。「最初はね、君の心を解き明かそうとしたんだ。どんな状況に追い込めば、何を与えれば、君は心を動かすのか。そして、あらゆる刺激を与えてみた。君は文句ひとつ言わず、すべてに従ってくれた」私は、はっと自分の手首へと視線をやった。 そこに走った幾筋の傷跡。(……私は、何をされてきたんだ?)その間にも、〝先生〟の話は続く。「でも結局……失敗だった。君の感情は、どんな刺激にも一ミリたりとも揺れなかった」〝先生〟は悔しそうに瞼を伏せ、わずかな間を置いてから、ふっとそれを上げた。「だから僕は考えた。君を通して〝魂〟を探るためには──まずは、君以外の存在を実験対象にするしかないと」その言葉に、私はパッと視線をあげた。「それが、この病院だったというわけだよ」〝先生〟は、ゆっくりと辺りを見回した。「君が手伝ってくれた論文のおかげで、僕はこの分野の第一人者となり、そしてこの病院を買った。ここを、僕の〝魂の研究〟のための一大実験場にするためにね」 「……一大実験場……」先ほどから、馬鹿みたいに〝先生〟の言葉を繰り返すことしかできなかった。「あぁ。刑務所、病院、家庭──どこにも居場所のなかった〝異常者〟たちを、この閉鎖病棟に集めて、君と同じように、彼らにも実験をしたんだよ」ぐっと低くなった声が、私の耳の中にこだまする。「どこまで追い込めば心が動くのか。そして──
last updateLast Updated : 2025-12-28
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29話

  〝笑い犬〟は、無表情のまま〝先生〟の背後に立ち、影のようにぴたりと寄り添う。「彼は、僕の忠実な部下でね。——いや、一番忠実なのは、〝ご主人様〟である君に対してかな」 〝笑い犬〟と〝先生〟に視線を向けながら、私は額をつたって流れる冷たい汗を感じた。「ご主人様って……」答えたのは〝先生〟だった。「君は、彼にとっての絶対者だった。痛みと快楽、恐怖と崇拝──君が与えるあらゆる刺激は、彼にとっては至上の喜びだったんだ」〝先生〟の語り口が、わずかに嘲弄を帯びる。「カルテにも書いてあるけど、〝笑い犬〟は重度の異常性欲者だ。サディズム、マゾヒズム、果てはネクロフィリアにまで及ぶ倒錯の持ち主でね」〝先生〟は、口にするのも憚られるかのように言った。「レイプ、墓荒らし、あらゆる犯罪で警察に目をつけられていた彼を、更生できずに手を焼いた警察が、最後に行きついたのが……この病院さ」思わず後ずさる私を見て、〝先生〟は楽しげに肩をすくめた。「彼は、ここに来るや否や君に夢中になった。君から受ける〝実験〟にすっかり虜になって──いや、正確には、君自身の虜になっていったのさ。美しく、非道、それでいて無垢な君の事を、次第に目で追いかけるようになっていった」ちらりと後ろの〝笑い犬〟を見やってから、〝先生〟はにこやかに——しかし、より不穏に続けた。「だから僕は、彼の観察を通して君の変化に気づくことができた。そう、君がある人物にだけ、心を動かしたあの時に──」 「……あの時……?」問い返す声が、かすれた。 自分の声が、まるで針のように喉をひりつかせる。〝先生〟は、静かに頷く。「そう。どんな刺激にも反応しなかった〝人形〟だった君が──ただ一人にだけ、関心を抱いた」〝先生〟は手術台に近づき、指先で冷たい縁を撫でながら囁くように言った。「もうわかっているだろう? 〝王様〟さ」その名を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと絞られた。
last updateLast Updated : 2025-12-30
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30話

  〝先生〟が、後ろに向かって顎をしゃくる。「〝笑い犬〟。彼を保護棟に連れていってくれ」 「はい」〝笑い犬〟が 〝先生〟を追い越し、私に近づいてくる。 その手には、銀色の手錠が握られていた。私は反射的に後ろへ下がる。 背中がデスクにぶつかり、衝撃で一枚の写真がすべり落ちた。今よりもずっと健康的で精悍な顔立ちの〝王様〟。 その瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。──逃げろ。 頭の奥に、彼の声が木霊する。「……ッ」私は咄嗟に身を低くし、勢いよく駆け出した。 〝笑い犬〟の手をすり抜け、〝先生〟の脇を抜けて、出口へと手を伸ばす。──あと少し、あと少しだ!「どこへ行くんです?」後ろからグンと腕を掴まれた。 瞬間、強い力で引き戻され、両手を後ろ手にねじられる。「まさか逃げられると思ったんですか?」嘲笑を含んだ〝笑い犬〟の吐息が、耳元に生ぬるくかかる。 ギリギリと、筋が引きちぎれそうなほど強く拘束され、喉からか細い悲鳴が漏れた。「……ッ!」 「抵抗してもいいですよ。私がこのあと保護室で可愛がってあげます。今まで貴方にやられた分、たっぷりとね」暗い笑い声に、ぞくりと背中の産毛が逆立つ。「そこまでにしなさい、〝笑い犬〟」ずっと傍観していた〝先生〟が、ようやく口を開いた。 その声音には、あくまで穏やかな調子が含まれている。「保護房には〝王様〟もいる。今日は、彼と二人っきりにしてあげなさい」一瞬、彼の目が私を捉える。 その瞳には、労りとも哀れみともつかぬ感情が浮かんでいた。「彼らは一度、心を通わせた者同士だ。最後に、つもる話もあるだろう?」あくまでも冷静な〝先生〟の声音が、余計に私の不安をかき立てた。「あぁ、そうだ」〝先生〟がわざとらしく、思い出したように口を開いた。
last updateLast Updated : 2026-01-01
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