白い檻

白い檻

last updateLast Updated : 2025-11-02
By:  Everain / 郁雨Updated just now
Language: Japanese
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——目を覚ますと、そこは閉鎖病棟だった。 自殺未遂で昏睡状態に陥っていた私は、すべての記憶を失っていた。 周りには、奇妙で不穏な者たちばかり。 曖昧なことしか語らない主治医の〝先生〟。 無表情な看護師の〝笑い犬〟。 そして、最も危険とされる隣の病室の男——〝王様〟。 彼は暴力と錯乱を繰り返す狂人のはずなのに。 「会いたかった」 そう言って優しく触れてくる彼に、記憶を失った私の心は揺さぶられる。 私は、なぜ死を選んだのか。 この歪んだ世界で、誰を信じればいいのか。 そして、〝王様〟は一体——何者なのか。 閉ざされた白い檻の中で、記憶と愛、そして狂気が交錯する。 記憶喪失BLサスペンス。

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Chapter 1

1話

白。白。白。白。白。

目を開けると、何もかもが白かった。

天井、壁、ベッド。高窓から差し込む光さえも、ぼんやりと白い。

私はベッドから体を起こした。それだけで一苦労だった。

手足は鉛のように重く、数分かかってようやく上体を起こせた。

辺りを見回す。

八、九畳ほどの部屋には、ベッドと机、小さな棚が置いてあるだけだった。

どれも簡素な造りで、一様に白い。

ただ一つ、出入り口に嵌めこまれた鉄格子だけが、錆びて黒々としていた。

(……ここは、どこだ?)

もっとよく見ようと、そろりと足を出す。

「……ッ!」

思った以上に力が入らず、そのままベッドから転げ落ちてしまった。

「あいつだっ! あいつだっ!」

突然、向かいの壁の向こうから、ドンドンと壁を叩く音が響いた。

それに重なるように、男の叫び声が上がる。

「会わせてくれっ! あいつにっ! お願いだっ!」

激しくなる音と声に、どうしていいかわからない。

私は向かいの壁を見つめたまま、ひたすら息を殺していた。

「〇二番! 静かにしないか!」

パタパタと足音がどこからか近づきはじめ、それにつれて男の声がさらに大きくなった。

「お願いだっ! あいつに、会わせてくれっ! 時間がないんだっ!」

「静かにしろと言っている! また保護房ほごぼう送りにされたいのか!」

「それでもいい! 会いたいんだ、あいつに——ああぁぁ!」

絶叫が迸る。

まるで神経をぐような声に、私はたまらず耳をふさぐ。

その時、ふと視線を感じた。

顔を上げると、鉄格子の向こうに白衣を着た男が立っていた。

「気分は、どうかな?」

周囲の騒音などまるで気にしていない、ゆったりとした声。

灰色の髪。穏やかで深い目。

一瞬、老人のようにも見えたが、実際は若いのかもしれない。

そう思えるほど、子供のように滑らかな肌をしていた。

「あぁ、落ちてしまったんだね」

床にへたり込んだ私を見て、白衣の男が小さく笑った。

「怪我はあとで見てあげよう。——鍵を」

後ろで控えていた看護士の男が、すかさず鍵束を取り出した。

ガラガラという音とともに鉄格子が開き、二人の男が中に入ってくる。

「さて、ちょっと見せてもらおうかな」

白衣の男が、ベッド脇の丸イスに腰を下ろす。

看護士が私の背後に回り、まるで猫の子を抱き上げるように、ベッドに戻した。

すかさず白衣の男は、私の脈をとり、心音を調べ、最後に問いかけてくる。

「君は、ここがどこだかわかるかな?」

私はふるふると首を振った。

「じゃぁ、自分が誰かは……?」

少し考えてみたが、何も思い出せなかった。

再び首を振る私を見て、男は独り言のように呟く。

「そうか……やっぱり、記憶をなくしてしまったようだな……」

「記憶……?」

訝しげな顔を向けると、相手はにこりと微笑んだ。

「申し送れたね。私は、君の主治医。どうか〝先生〟と呼んでくれ。他の患者やスタッフたちも、そう呼んでいる」

「……〝先生〟?」

「そう、よく出来たね」

まるで子供を褒めるかのような言い方だった。

「何か質問があるという顔だね。言ってごらん」

私は躊躇いながらも口を開いた。

「……ここは一体、どこですか?」

「精神病院の閉鎖病棟だよ」

〝先生〟はふと、遠くを見やった。

「もう何年になるかな、君がここに来て。君は極度の離人りじん症で、長年ここに入院している患者なんだ。覚えているかい?」

考えるまでもなかった。

「……まったく」

「そうか。どうやら完全に忘れてしまっているようだね。仕方がない。あんなことがあったんだから……」

「あんなこと……?」

〝先生〟は、痛ましそうに眉を寄せた。

「いずれわかってしまうことだろうから、今のうちに言っておこう。君は二ヶ月前、この病室で自殺未遂を起こしたんだ」

一拍おいて、〝先生〟は言葉を続けた。

「どうやってかはわからないが、保管庫にあった睡眠薬を持ち出してね。幸いにも一命はとりとめたんだが、その代償として──君は二ヶ月間、昏々と眠り続けた」

〝先生〟の声が、静かに落ちる。

「そして目覚めた今、すべての記憶を失っていた。たぶん、薬の副作用だろう。たまにあることなんだ」

〝先生〟は、何でもないことのように言った。

おそらく、私を安心させるためだろう。

しかし、これで混乱するなというほうが無理がある。

目が覚めると、そこは精神病院の閉鎖病棟。

自分は長期の入院患者で、しかも自殺未遂まで起こしていた──なんて。

(……ダメだ。何も思い出せない)

どうやら私は本当に、記憶をなくしてしまったらしい。

その時、静かになっていた隣の部屋から、再び叫び声が聞こえてきた。

「お願いだっ! 声だけでもいい、聞かせてくれっ!」

私は思わず〝先生〟を窺う。

相手は慣れているのか、まったく動じた様子がない。

「あの声のことは気にしないでくれ。隣の房ぼうの患者は、少し……情緒が不安定でね。いつも、ああやって意味不明なことを叫ぶんだ」

「意味不明? 誰かを探しているみたいだけど……」

「実在しない人物さ。彼は妄想と現実の区別がつかなくなっていてね。自分の頭の中で創り出した、ありもしない人を、ああやって探し続けているんだ」

(ありもしない人……?)

私は、向かいの壁を見た。

そこから聞こえてくる男の声はあまりにも痛切で、とても想像上の存在を呼ぶものとは思えなかった。

「——ちょっと失礼」

〝先生〟は席を立つと、鉄格子の外に向かって声をかけた。

「君たち。〇二番を保護房に連れていってくれ。このままでは、耳が壊れそうだ」

「わかりました。今回は何日くらい?」

「二日……いや、一日でいい。頼むね」

耳を澄ませていると、隣の鉄格子が開く音が聞こえた。

ついで、ジャラリと鎖を引きずる音。たぶん足枷か何かだろう。

「ふ、はははははっ……!」

静寂を破るように、廊下から男の哄笑が届いた。

先ほどの悲痛な絶叫とはまるで違う、心底おかしいとでもいうような声。

狂っているとしか言いようのない、人をどこまでも落ち着かなくさせる笑い声だ。

「静かにしろっ! 黙って歩くんだっ!」

壁を大きく叩く音が響いたが、それでも男は笑い続けた。

やがてその声は、重たい扉に吸い込まれるようにして消えていった。

「あの人は……どこへ?」

私は詰めていた息を、ようやく吐き出した。

「彼が、気になるかい?」

〝先生〟の瞳は、何かを探ろうとしているかのように静かだった。

「いや、そういう訳じゃ……」

小さく首を振ると、〝先生〟はふっと頬を緩める。

「あの患者は、保護房に行ったんだ。あそこは、病状の落ち着かない患者が行く部屋でね。周囲の喧噪から離れ、静かに神経を休めるには最適だ」

〝先生〟はそこで一拍置くと、さらりと言った。

「〝王様〟は、日頃から問題行動が多くて、頻繁に行ってもらっている」

「……〝王様〟?」

「あぁ、そうか」

〝先生〟は、今気づいたというように頷いた。

「この病院では、患者はすべて部屋の番号で呼ばれることになっている。外の情報に煩わされず、治療だけに専念できるようにという配慮だ。今の男は〇二番、そして君は〇一番」

〝先生〟は、私を指さした。

「でも、番号だけじゃ味気ないからね。ここにいる者には皆、あだ名——通り名のようなものがつけられている。患者もスタッフもね。私は〝先生〟。そして、この看護士は〝笑い犬〟」

〝先生〟は、後ろに控えている看護士を横目で見た。

〝笑い犬〟と呼ばれるその男は、無表情のまま小さく頭を下げる。

なぜそんな名がついたのか、わからないほどに、にこりともしない男だった。

だが、〝先生〟の後ろに付き従うその姿は、確かに主人に忠誠を尽くす犬を思わせた。

「そして、君は〝人形〟」

〝先生〟が再び、私を指さす。

「〝人形〟……?」

「そう。かつての君は、極度の感情鈍麻——離人症の症状が強くてね。何をしても笑わず、騒がず、驚きもせず、泣きもせず。部屋ではじっと座っているだけで、誰にも何にも興味を示さなかった。そんな君を見て、誰となくそう呼び始めたんだ」

〝先生〟は、少しだけ声を和らげて付け加える。

「まぁ、君の顔立ちが人形のように綺麗だった、という意味もあるけどね」

「綺麗……?」

自分の顔にそっと手を当てた。

私は一体、どんな顔をしているのだろう。

部屋には鏡ひとつなく、確かめようがない。

だがそれ以前に、自分の容姿に興味が湧かなかった。

綺麗でも醜くても、どちらでもいい。

感情がないというのは、こういうことかと、初めて実感した。

「私の病気は、重かったんですか……?」

カルテに目を通していた〝先生〟が、顔を上げた。

「昔はね。でも今見る限り、前よりは回復しているようだよ。多少はぼんやりしているが、受け答えもしっかりしているし、自分で動くこともできる」

ちらりと〝先生〟が、私の足元に視線を落とす。

先ほど落ちたときにできた青紫の痣が、足首を彩っていた。

「その怪我は、あとで〝笑い犬〟に手当てしてもらいなさい」

〝先生〟は一拍置いて、表情をやわらげる。

「さて……どうやら君は、自殺を試みる前よりも、明らかに離人症の症状が軽くなってきている。たぶん記憶を失ったことで、極度のストレス状態から解放されたのだろう」

少し間をおいて、穏やかに続けた。

「このままの状態を維持できれば、すぐにでも退院──『外』に出ることができる」

「え、『外』に……?」

——『外』。

その言葉を聞いた瞬間、胸がどくんと跳ねた。

懐かしいような、憧れにも似たような気持ち。

理由はわからないのに、たまらなく惹かれる言葉だった。

「君は、『外』には出たいかな?」

こくりと頷くと、〝先生〟はわずかに間を置いてから、勿体ぶるように口を開いた。

「ならば、僕の話をよく聞きなさい」

〝先生〟は、ちらりとカルテに視線を送った。

「今回、君は記憶をなくしたことで、はからずも離人症の症状に改善が見られた。だが、再び記憶が戻れば、以前と同じ状態に逆戻りする可能性がある」

〝先生〟は、慎重に言葉を選びながら続けた。

「そこでだ。これから君には、記憶をコントロールする治療を受けてもらう。正確には、記憶を完全になくすための治療だ」

「記憶を……完全に? そんなことが出来るんですか?」

「できる。うちの院が独自に開発した技術でね。まだ学術的には認められていないが、非常に高い信頼性がある。もし記憶を完全に封じ込めることができれば——」

深く沈んだのち、その声は朗らかさを取り戻す。

「君は、まったく新しい人生を始めることができる。もちろん、『外』にも出られる」

〝先生〟の目が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

「どうだい。やってみる気はあるか?」

答えは、考えなくとも決まっていた。

「やります。やらせて下さい」

「そうか、よかった」

〝先生〟はホッと息を吐き、猫背ぎみの背筋を伸ばした。

「では今後、僕の指示には必ず従ってもらうよ。——どんなことであろうとね」

そう言って、〝先生〟の口元がわずかに緩んだ。

「ただし、治療以外は好きな場所で、好きに過ごしていい。病院内なら、どこへ行ってくれても構わない。色々と巡ってみるといいよ。一応、ここは君が長年過ごした場所だからね」

〝先生〟の口調が、わずかに探るようなものに変わる。

「もし歩き回っても、何も思い出さなければ、治療はすでに半分成功していると言ってもいいだろう。そうすれば『外』に出られる日も近づく。それと——」

〝先生〟の視線が、鉄格子の外へ向けられた。

「ここには他の患者もいる。彼らは一風変わっていてね。会ってはいけないとは言わないが、あまり刺激はしてやらないでくれ。何かあったら大変だから」

〝先生〟は、後ろの看護師にちらりと視線を向けた。

「念のために、〝笑い犬〟を護衛につけよう。彼は最近まで、〇三番のところにいたが、そちらの症状も落ち着いてきたところだ。いい看護師だから、色々と面倒を看てもらうといい」

そう言って、〝先生〟は椅子を引いて立ち上がった。

「さて、今日はここまでだ。さっそく〝笑い犬〟に、院内を案内してもらうといい。……そうそう、言い忘れていたけれど——」

声のトーンが、急に冷たく引き締まる。

「くれぐれも、変な気は起こさないように」

その言葉の裏にあるものは明白だった。

彼は警戒している。私が再び、自殺を試みるのではないかと。

〝笑い犬〟をつけるのも、護衛ではなく——監視の意味合いが強いのだろう。

(……でも、何でもいい。『外』に出られるのなら)

昔の自分が、なぜ死を選ぼうとしたのかはわからない。

だが、今の私が願うことはただ一つ——。

『外』に出たい。

生まれる前から願い続けてきたかのような、抗いがたい希求。

この願いを叶えるためだったら、〝先生〟の言うことは何でも聞く。

「はい、〝先生〟。貴方の言うとおりにします」

そう言うと、〝先生〟は満面の笑みを浮かべる。

「よし、いい子だ」

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白。白。白。白。白。目を開けると、何もかもが白かった。天井、壁、ベッド。高窓から差し込む光さえも、ぼんやりと白い。私はベッドから体を起こした。それだけで一苦労だった。手足は鉛のように重く、数分かかってようやく上体を起こせた。辺りを見回す。八、九畳ほどの部屋には、ベッドと机、小さな棚が置いてあるだけだった。どれも簡素な造りで、一様に白い。ただ一つ、出入り口に嵌めこまれた鉄格子だけが、錆びて黒々としていた。(……ここは、どこだ?)もっとよく見ようと、そろりと足を出す。「……ッ!」思った以上に力が入らず、そのままベッドから転げ落ちてしまった。「あいつだっ! あいつだっ!」突然、向かいの壁の向こうから、ドンドンと壁を叩く音が響いた。それに重なるように、男の叫び声が上がる。「会わせてくれっ! あいつにっ! お願いだっ!」激しくなる音と声に、どうしていいかわからない。私は向かいの壁を見つめたまま、ひたすら息を殺していた。「〇二番! 静かにしないか!」パタパタと足音がどこからか近づきはじめ、それにつれて男の声がさらに大きくなった。「お願いだっ! あいつに、会わせてくれっ! 時間がないんだっ!」「静かにしろと言っている! また保護房送りにされたいのか!」「それでもいい! 会いたいんだ、あいつに——ああぁぁ!」絶叫が迸る。まるで神経を削ぐような声に、私はたまらず耳をふさぐ。その時、ふと視線を感じた。顔を上げると、鉄格子の向こうに白衣を着た男が立っていた。「気分は、どうかな?」周囲の騒音などまるで気にしていない、ゆったりとした声。灰色の髪。穏やかで深い目。一瞬、老人のようにも見えたが、実際は若いのかもしれない。そう思えるほど、子供のように滑らかな肌をしていた。「あぁ、落ちてしまったんだね」床にへたり込んだ私を見て、白衣の男が小さく笑った。「怪我はあとで見てあげよう。——鍵を」後ろで控えていた看護士の男が、すかさず鍵束を取り出した。ガラガラという音とともに鉄格子が開き、二人の男が中に入ってくる。「さて、ちょっと見せてもらおうかな」白衣の男が、ベッド脇の丸イスに腰を下ろす。看護士が私の背後に回り、まるで猫の子を抱き上げるように、ベッドに戻した。すかさず白衣の男は、私の脈をとり、心音を調
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