LOGIN——目を覚ますと、そこは閉鎖病棟だった。 自殺未遂で昏睡状態に陥っていた私は、すべての記憶を失っていた。 周りには、奇妙で不穏な者たちばかり。 曖昧なことしか語らない主治医の〝先生〟。 無表情な看護師の〝笑い犬〟。 そして、最も危険とされる隣の病室の男——〝王様〟。 彼は暴力と錯乱を繰り返す狂人のはずなのに。 「会いたかった」 そう言って優しく触れてくる彼に、記憶を失った私の心は揺さぶられる。 私は、なぜ死を選んだのか。 この歪んだ世界で、誰を信じればいいのか。 そして、〝王様〟は一体——何者なのか。 閉ざされた白い檻の中で、記憶と愛、そして狂気が交錯する。 記憶喪失BLサスペンス。
View More白。白。白。白。白。
目を開けると、何もかもが白かった。
天井、壁、ベッド。高窓から差し込む光さえも、ぼんやりと白い。私はベッドから体を起こした。それだけで一苦労だった。
手足は鉛のように重く、数分かかってようやく上体を起こせた。辺りを見回す。
八、九畳ほどの部屋には、ベッドと机、小さな棚が置いてあるだけだった。
どれも簡素な造りで、一様に白い。ただ一つ、出入り口に嵌めこまれた鉄格子だけが、錆びて黒々としていた。
(……ここは、どこだ?)
もっとよく見ようと、そろりと足を出す。
「……ッ!」
思った以上に力が入らず、そのままベッドから転げ落ちてしまった。
「あいつだっ! あいつだっ!」
突然、向かいの壁の向こうから、ドンドンと壁を叩く音が響いた。
それに重なるように、男の叫び声が上がる。「会わせてくれっ! あいつにっ! お願いだっ!」
激しくなる音と声に、どうしていいかわからない。
私は向かいの壁を見つめたまま、ひたすら息を殺していた。「〇二番! 静かにしないか!」
パタパタと足音がどこからか近づきはじめ、それにつれて男の声がさらに大きくなった。
「お願いだっ! あいつに、会わせてくれっ! 時間がないんだっ!」
「静かにしろと言っている! また絶叫が迸る。
まるで神経をその時、ふと視線を感じた。
顔を上げると、鉄格子の向こうに白衣を着た男が立っていた。「気分は、どうかな?」
周囲の騒音などまるで気にしていない、ゆったりとした声。
灰色の髪。穏やかで深い目。
一瞬、老人のようにも見えたが、実際は若いのかもしれない。 そう思えるほど、子供のように滑らかな肌をしていた。「あぁ、落ちてしまったんだね」
床にへたり込んだ私を見て、白衣の男が小さく笑った。
「怪我はあとで見てあげよう。——鍵を」
後ろで控えていた看護士の男が、すかさず鍵束を取り出した。
ガラガラという音とともに鉄格子が開き、二人の男が中に入ってくる。「さて、ちょっと見せてもらおうかな」
白衣の男が、ベッド脇の丸イスに腰を下ろす。
看護士が私の背後に回り、まるで猫の子を抱き上げるように、ベッドに戻した。すかさず白衣の男は、私の脈をとり、心音を調べ、最後に問いかけてくる。
「君は、ここがどこだかわかるかな?」
私はふるふると首を振った。
「じゃぁ、自分が誰かは……?」
少し考えてみたが、何も思い出せなかった。
再び首を振る私を見て、男は独り言のように呟く。「そうか……やっぱり、記憶をなくしてしまったようだな……」
「記憶……?」訝しげな顔を向けると、相手はにこりと微笑んだ。
「申し送れたね。私は、君の主治医。どうか〝先生〟と呼んでくれ。他の患者やスタッフたちも、そう呼んでいる」
「……〝先生〟?」 「そう、よく出来たね」まるで子供を褒めるかのような言い方だった。
「何か質問があるという顔だね。言ってごらん」
私は躊躇いながらも口を開いた。
「……ここは一体、どこですか?」
「精神病院の閉鎖病棟だよ」〝先生〟はふと、遠くを見やった。
「もう何年になるかな、君がここに来て。君は極度の
考えるまでもなかった。
「……まったく」
「そうか。どうやら完全に忘れてしまっているようだね。仕方がない。あんなことがあったんだから……」 「あんなこと……?」〝先生〟は、痛ましそうに眉を寄せた。
「いずれわかってしまうことだろうから、今のうちに言っておこう。君は二ヶ月前、この病室で自殺未遂を起こしたんだ」
一拍おいて、〝先生〟は言葉を続けた。
「どうやってかはわからないが、保管庫にあった睡眠薬を持ち出してね。幸いにも一命はとりとめたんだが、その代償として──君は二ヶ月間、昏々と眠り続けた」
〝先生〟の声が、静かに落ちる。
「そして目覚めた今、すべての記憶を失っていた。たぶん、薬の副作用だろう。たまにあることなんだ」
〝先生〟は、何でもないことのように言った。
おそらく、私を安心させるためだろう。しかし、これで混乱するなというほうが無理がある。
目が覚めると、そこは精神病院の閉鎖病棟。
自分は長期の入院患者で、しかも自殺未遂まで起こしていた──なんて。(……ダメだ。何も思い出せない)
どうやら私は本当に、記憶をなくしてしまったらしい。
その時、静かになっていた隣の部屋から、再び叫び声が聞こえてきた。
「お願いだっ! 声だけでもいい、聞かせてくれっ!」
私は思わず〝先生〟を窺う。
相手は慣れているのか、まったく動じた様子がない。「あの声のことは気にしないでくれ。隣の房
(ありもしない人……?)
私は、向かいの壁を見た。
そこから聞こえてくる男の声はあまりにも痛切で、とても想像上の存在を呼ぶものとは思えなかった。「——ちょっと失礼」
〝先生〟は席を立つと、鉄格子の外に向かって声をかけた。
「君たち。〇二番を保護房に連れていってくれ。このままでは、耳が壊れそうだ」
「わかりました。今回は何日くらい?」 「二日……いや、一日でいい。頼むね」耳を澄ませていると、隣の鉄格子が開く音が聞こえた。
ついで、ジャラリと鎖を引きずる音。たぶん足枷か何かだろう。「ふ、はははははっ……!」
静寂を破るように、廊下から男の哄笑が届いた。
先ほどの悲痛な絶叫とはまるで違う、心底おかしいとでもいうような声。
狂っているとしか言いようのない、人をどこまでも落ち着かなくさせる笑い声だ。「静かにしろっ! 黙って歩くんだっ!」
壁を大きく叩く音が響いたが、それでも男は笑い続けた。
やがてその声は、重たい扉に吸い込まれるようにして消えていった。「あの人は……どこへ?」
私は詰めていた息を、ようやく吐き出した。
「彼が、気になるかい?」
〝先生〟の瞳は、何かを探ろうとしているかのように静かだった。
「いや、そういう訳じゃ……」
小さく首を振ると、〝先生〟はふっと頬を緩める。
「あの患者は、保護房に行ったんだ。あそこは、病状の落ち着かない患者が行く部屋でね。周囲の喧噪から離れ、静かに神経を休めるには最適だ」
〝先生〟はそこで一拍置くと、さらりと言った。
「〝王様〟は、日頃から問題行動が多くて、頻繁に行ってもらっている」
「……〝王様〟?」 「あぁ、そうか」〝先生〟は、今気づいたというように頷いた。
「この病院では、患者はすべて部屋の番号で呼ばれることになっている。外の情報に煩わされず、治療だけに専念できるようにという配慮だ。今の男は〇二番、そして君は〇一番」
〝先生〟は、私を指さした。
「でも、番号だけじゃ味気ないからね。ここにいる者には皆、あだ名——通り名のようなものがつけられている。患者もスタッフもね。私は〝先生〟。そして、この看護士は〝笑い犬〟」
〝先生〟は、後ろに控えている看護士を横目で見た。
〝笑い犬〟と呼ばれるその男は、無表情のまま小さく頭を下げる。
なぜそんな名がついたのか、わからないほどに、にこりともしない男だった。だが、〝先生〟の後ろに付き従うその姿は、確かに主人に忠誠を尽くす犬を思わせた。
「そして、君は〝人形〟」
〝先生〟が再び、私を指さす。
「〝人形〟……?」
「そう。かつての君は、極度の感情鈍麻——離人症の症状が強くてね。何をしても笑わず、騒がず、驚きもせず、泣きもせず。部屋ではじっと座っているだけで、誰にも何にも興味を示さなかった。そんな君を見て、誰となくそう呼び始めたんだ」〝先生〟は、少しだけ声を和らげて付け加える。
「まぁ、君の顔立ちが人形のように綺麗だった、という意味もあるけどね」
「綺麗……?」自分の顔にそっと手を当てた。
私は一体、どんな顔をしているのだろう。
部屋には鏡ひとつなく、確かめようがない。だがそれ以前に、自分の容姿に興味が湧かなかった。
綺麗でも醜くても、どちらでもいい。感情がないというのは、こういうことかと、初めて実感した。
「私の病気は、重かったんですか……?」
カルテに目を通していた〝先生〟が、顔を上げた。
「昔はね。でも今見る限り、前よりは回復しているようだよ。多少はぼんやりしているが、受け答えもしっかりしているし、自分で動くこともできる」
ちらりと〝先生〟が、私の足元に視線を落とす。
先ほど落ちたときにできた青紫の痣が、足首を彩っていた。「その怪我は、あとで〝笑い犬〟に手当てしてもらいなさい」
〝先生〟は一拍置いて、表情をやわらげる。
「さて……どうやら君は、自殺を試みる前よりも、明らかに離人症の症状が軽くなってきている。たぶん記憶を失ったことで、極度のストレス状態から解放されたのだろう」
少し間をおいて、穏やかに続けた。
「このままの状態を維持できれば、すぐにでも退院──『外』に出ることができる」
「え、『外』に……?」——『外』。
その言葉を聞いた瞬間、胸がどくんと跳ねた。懐かしいような、憧れにも似たような気持ち。
理由はわからないのに、たまらなく惹かれる言葉だった。「君は、『外』には出たいかな?」
こくりと頷くと、〝先生〟はわずかに間を置いてから、勿体ぶるように口を開いた。
「ならば、僕の話をよく聞きなさい」
〝先生〟は、ちらりとカルテに視線を送った。
「今回、君は記憶をなくしたことで、はからずも離人症の症状に改善が見られた。だが、再び記憶が戻れば、以前と同じ状態に逆戻りする可能性がある」
〝先生〟は、慎重に言葉を選びながら続けた。
「そこでだ。これから君には、記憶をコントロールする治療を受けてもらう。正確には、記憶を完全になくすための治療だ」
「記憶を……完全に? そんなことが出来るんですか?」 「できる。うちの院が独自に開発した技術でね。まだ学術的には認められていないが、非常に高い信頼性がある。もし記憶を完全に封じ込めることができれば——」深く沈んだのち、その声は朗らかさを取り戻す。
「君は、まったく新しい人生を始めることができる。もちろん、『外』にも出られる」
〝先生〟の目が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「どうだい。やってみる気はあるか?」
答えは、考えなくとも決まっていた。
「やります。やらせて下さい」
「そうか、よかった」〝先生〟はホッと息を吐き、猫背ぎみの背筋を伸ばした。
「では今後、僕の指示には必ず従ってもらうよ。——どんなことであろうとね」
そう言って、〝先生〟の口元がわずかに緩んだ。
「ただし、治療以外は好きな場所で、好きに過ごしていい。病院内なら、どこへ行ってくれても構わない。色々と巡ってみるといいよ。一応、ここは君が長年過ごした場所だからね」
〝先生〟の口調が、わずかに探るようなものに変わる。
「もし歩き回っても、何も思い出さなければ、治療はすでに半分成功していると言ってもいいだろう。そうすれば『外』に出られる日も近づく。それと——」
〝先生〟の視線が、鉄格子の外へ向けられた。
「ここには他の患者もいる。彼らは一風変わっていてね。会ってはいけないとは言わないが、あまり刺激はしてやらないでくれ。何かあったら大変だから」
〝先生〟は、後ろの看護師にちらりと視線を向けた。
「念のために、〝笑い犬〟を護衛につけよう。彼は最近まで、〇三番のところにいたが、そちらの症状も落ち着いてきたところだ。いい看護師だから、色々と面倒を看てもらうといい」
そう言って、〝先生〟は椅子を引いて立ち上がった。
「さて、今日はここまでだ。さっそく〝笑い犬〟に、院内を案内してもらうといい。……そうそう、言い忘れていたけれど——」
声のトーンが、急に冷たく引き締まる。
「くれぐれも、変な気は起こさないように」
その言葉の裏にあるものは明白だった。
彼は警戒している。私が再び、自殺を試みるのではないかと。
〝笑い犬〟をつけるのも、護衛ではなく——監視の意味合いが強いのだろう。(……でも、何でもいい。『外』に出られるのなら)
昔の自分が、なぜ死を選ぼうとしたのかはわからない。
だが、今の私が願うことはただ一つ——。『外』に出たい。
生まれる前から願い続けてきたかのような、抗いがたい希求。
この願いを叶えるためだったら、〝先生〟の言うことは何でも聞く。「はい、〝先生〟。貴方の言うとおりにします」
そう言うと、〝先生〟は満面の笑みを浮かべる。
「よし、いい子だ」
保護棟は、コンクリート造りの建物の中に小部屋が三、四室並んでいるだけの、質素な空間だった。天井から吊るされた裸電球が、殺風景な部屋を冷たく照らし出している。「中へ」〝笑い犬〟が、小部屋の一つを指差した。 入れ、という意味らしい。 私は従うふりをしながらも、目の端で周囲を素早く確認した。「心配せずとも、〝王様〟はすぐ近くにいますよ──さぁ」後ろからドンと肩を押される。 私はよろけるように中へ入り、すぐに背後でガチャンとドアが閉まった。慌てて振り返り、拳でドアを叩く。「〝笑い犬〟! 〝王様〟はっ!? 〝王様〟はどこにいるんだっ!?」はめ殺しの小さな覗き窓が開き、そこから〝笑い犬〟の薄ら笑いが覗いた。「昔とは、まるで正反対ですね。貴方が〝人形〟で、私がただの患者だった時とは」その声音には、遠い昔を振り返るような響きがあった。「その頃、貴方は〝先生〟の助手として、類まれな手腕を発揮していた。一方で変わらず、〝先生〟の研究対象でもあった」覗き窓にかけられた〝笑い犬〟の指が、ぎゅっと握られる。「覚えていないでしょうが、最初の実験が失敗した後も、〝先生〟は貴方への実験を細々と続けていたんです。私は偶然にも、その一部始終を目撃してしまった」語尾に、うっとりとした熱が混じる。「確かその時は『痛み』に関する実験だったかな。どんな痛みを与えれば、貴方の心が動くか。〝先生〟は診察室で、いろいろと試していました。……その腕の傷も、その時に出来たものです」 「え……これは自分でつけたものじゃ……」私は、自分の腕に目を落とした。 そこには深いものから浅いものまで、さまざまな傷痕が刻まれている。「えぇ。でも、中には〝先生〟がつけたものもありますよ。丁寧に手当てもされていたので、痕にはなっていないと思いますが」そう言ったあと、彼は陶酔したように深いため息をつく。「……あの時の、貴方の顔。苦痛で歪んでいて、とても美しかった。それを見た瞬間、私は気づ
私の頭の中で、〝先生〟の声が反響する。「ただ一つ、頭の良い君にも計算できなかったことがあった。それは──剥き出しになった〝王様〟の心を見て、君自身が彼に引きつけられてしまったことだ」ふっと、〝先生〟は子どもを見る父親のような微笑みを浮かべる。「でもね。僕は良かったと思っているよ。〝王様〟に感謝したいくらいだ。何をしても動かなかった〝人形〟の心を、彼は動かしてくれた。」コツコツと〝先生〟がモルタルの床を歩く音が近づいてくる。「おかげでようやく、僕は本命の研究を進めることができる。君の心の研究がね。〝王様〟のおかげで開き始めた君の心を、これからは僕がこじあけてあげよう」〝先生〟は私の前に立つと、指先で私の前髪をそっとかき分けた。そのまま、額に優しくキスを落とす。「さぁ〝人形〟。〝王様〟のところに行っておいで」驚愕に目を見開く私の瞳をのぞき込むように〝先生〟は言った。「僕は君と違って、心ある人間だ。今夜一晩は、君たちを二人きりにしてあげよう。最後の夜を、共に過ごすといい。その代わり、明日になったら──」間近にある〝先生〟の目が、緩やかな弧を描いた。「二人とも、お互いのことは忘れる。君は〝人形〟に戻り、〝王様〟は廃人になる。……これですべて一件落着だ」ようやく面倒なことが処理できると言わんばかりに〝先生〟はため息をつき、後ろの〝笑い犬〟に頷いてみせた。「連れていきなさい」「はい」やってきた〝笑い犬〟が、私の手をグンと引く。ガチャリと冷たい手錠が両手首にかけられた。私はされるがまま、大人しく従った。抵抗など、出来なかった。そんな力、もうどこにも残っていなかった。身体の中は空っぽで、さっきまで聞かされていた〝先生〟の言葉が、亡霊の囁きのようにひゅうひゅうと吹き抜けていく。(私が〝王様〟を……みんなを、ここに閉じ込めたのだ……)そのまま私は〝笑い
淡々とした〝先生〟の声が、まるで暗い波のように、胸の中へじわじわと迫ってくる。「激情を感じる心そのものがなければ、彼はもう怒りに囚われることなく、穏やかに過ごせる。それが、本人にとっても一番の幸せなんだ」ふっと大きくため息を吐き、〝先生〟は自らのこめかみを押さえた。「今の彼を見てごらん。疲弊し、絶望しきっている。荒れ狂う自分の心と戦うことに。今はただ、君を守るためにギリギリのラインを保っているようだけど、それがいつまで続くかわからない」彼は、ついっと視線を上げた。 その瞳には、慈悲ともいえる色が宿っている。「だから、君から言ってあげるんだ。もう、楽になっていいんだと。君が〝王様〟を解放してあげなさい、その身に荒れ狂う狂気から」私には、何も言い返すことができなかった。 昨日の〝王様〟の様子を見れば、〝先生〟の話も、あながち嘘だとは言い切れない。〝王様〟は気づいていたのだ。 遠からず、自らが狂気の嵐に飲み込まれてしまうことに。だから、逃げない。 あんなにも私には『逃げろ』と言っておきながら。(……もしかしたら、〝王様〟もそれを望んでいるのだろうか?)〝先生〟が与えてくれる何もない、真っ白な平穏を。──いや、違う。強い否定が、身体の奥底からせり上がってきた。昨日、暗い病室の中で、〝王様〟は言ったのだ。 自分自身を見失うなと。今なら、わかる。 きっとあれは、自分にも言い聞かせていた言葉だったのだ。私は、ギッと 〝先生〟を睨み付けた。「お願いだっ! 治療を中止してくれっ……! こんなの、あまりにも酷すぎるっ……!」 「酷すぎる? 君が言うのかい?」心外だと言わんばかりに 、〝先生〟は両手を肩の高さで広げた。「言っておくけど、ここに〝王様〟を連れてきたのは誰だ? 彼が服用していた薬を作ったのは? 電気治療を始めたのは? 一体、誰だと思う?」〝先生〟のひとさし指が、告発するようにこちらを指し示
〝先生〟が、後ろに向かって顎をしゃくる。「〝笑い犬〟。彼を保護棟に連れていってくれ」 「はい」〝笑い犬〟が 〝先生〟を追い越し、私に近づいてくる。 その手には、銀色の手錠が握られていた。私は反射的に後ろへ下がる。 背中がデスクにぶつかり、衝撃で一枚の写真がすべり落ちた。今よりもずっと健康的で精悍な顔立ちの〝王様〟。 その瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。──逃げろ。 頭の奥に、彼の声が木霊する。「……ッ」私は咄嗟に身を低くし、勢いよく駆け出した。 〝笑い犬〟の手をすり抜け、〝先生〟の脇を抜けて、出口へと手を伸ばす。──あと少し、あと少しだ!「どこへ行くんです?」後ろからグンと腕を掴まれた。 瞬間、強い力で引き戻され、両手を後ろ手にねじられる。「まさか逃げられると思ったんですか?」嘲笑を含んだ〝笑い犬〟の吐息が、耳元に生ぬるくかかる。 ギリギリと、筋が引きちぎれそうなほど強く拘束され、喉からか細い悲鳴が漏れた。「……ッ!」 「抵抗してもいいですよ。私がこのあと保護室で可愛がってあげます。今まで貴方にやられた分、たっぷりとね」暗い笑い声に、ぞくりと背中の産毛が逆立つ。「そこまでにしなさい、〝笑い犬〟」ずっと傍観していた〝先生〟が、ようやく口を開いた。 その声音には、あくまで穏やかな調子が含まれている。「保護房には〝王様〟もいる。今日は、彼と二人っきりにしてあげなさい」一瞬、彼の目が私を捉える。 その瞳には、労りとも哀れみともつかぬ感情が浮かんでいた。「彼らは一度、心を通わせた者同士だ。最後に、つもる話もあるだろう?」あくまでも冷静な〝先生〟の声音が、余計に私の不安をかき立てた。「あぁ、そうだ」〝先生〟がわざとらしく、思い出したように口を開いた。