白い檻

白い檻

last updateLast Updated : 2025-12-23
By:  Everain / 郁雨Updated just now
Language: Japanese
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——目を覚ますと、そこは閉鎖病棟だった。 自殺未遂で昏睡状態に陥っていた私は、すべての記憶を失っていた。 周りには、奇妙で不穏な者たちばかり。 曖昧なことしか語らない主治医の〝先生〟。 無表情な看護師の〝笑い犬〟。 そして、最も危険とされる隣の病室の男——〝王様〟。 彼は暴力と錯乱を繰り返す狂人のはずなのに。 「会いたかった」 そう言って優しく触れてくる彼に、記憶を失った私の心は揺さぶられる。 私は、なぜ死を選んだのか。 この歪んだ世界で、誰を信じればいいのか。 そして、〝王様〟は一体——何者なのか。 閉ざされた白い檻の中で、記憶と愛、そして狂気が交錯する。 記憶喪失BLサスペンス。

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Chapter 1

1話

白。白。白。白。白。

目を開けると、何もかもが白かった。

天井、壁、ベッド。高窓から差し込む光さえも、ぼんやりと白い。

私はベッドから体を起こした。それだけで一苦労だった。

手足は鉛のように重く、数分かかってようやく上体を起こせた。

辺りを見回す。

八、九畳ほどの部屋には、ベッドと机、小さな棚が置いてあるだけだった。

どれも簡素な造りで、一様に白い。

ただ一つ、出入り口に嵌めこまれた鉄格子だけが、錆びて黒々としていた。

(……ここは、どこだ?)

もっとよく見ようと、そろりと足を出す。

「……ッ!」

思った以上に力が入らず、そのままベッドから転げ落ちてしまった。

「あいつだっ! あいつだっ!」

突然、向かいの壁の向こうから、ドンドンと壁を叩く音が響いた。

それに重なるように、男の叫び声が上がる。

「会わせてくれっ! あいつにっ! お願いだっ!」

激しくなる音と声に、どうしていいかわからない。

私は向かいの壁を見つめたまま、ひたすら息を殺していた。

「〇二番! 静かにしないか!」

パタパタと足音がどこからか近づきはじめ、それにつれて男の声がさらに大きくなった。

「お願いだっ! あいつに、会わせてくれっ! 時間がないんだっ!」

「静かにしろと言っている! また保護房ほごぼう送りにされたいのか!」

「それでもいい! 会いたいんだ、あいつに——ああぁぁ!」

絶叫が迸る。

まるで神経をぐような声に、私はたまらず耳をふさぐ。

その時、ふと視線を感じた。

顔を上げると、鉄格子の向こうに白衣を着た男が立っていた。

「気分は、どうかな?」

周囲の騒音などまるで気にしていない、ゆったりとした声。

灰色の髪。穏やかで深い目。

一瞬、老人のようにも見えたが、実際は若いのかもしれない。

そう思えるほど、子供のように滑らかな肌をしていた。

「あぁ、落ちてしまったんだね」

床にへたり込んだ私を見て、白衣の男が小さく笑った。

「怪我はあとで見てあげよう。——鍵を」

後ろで控えていた看護士の男が、すかさず鍵束を取り出した。

ガラガラという音とともに鉄格子が開き、二人の男が中に入ってくる。

「さて、ちょっと見せてもらおうかな」

白衣の男が、ベッド脇の丸イスに腰を下ろす。

看護士が私の背後に回り、まるで猫の子を抱き上げるように、ベッドに戻した。

すかさず白衣の男は、私の脈をとり、心音を調べ、最後に問いかけてくる。

「君は、ここがどこだかわかるかな?」

私はふるふると首を振った。

「じゃぁ、自分が誰かは……?」

少し考えてみたが、何も思い出せなかった。

再び首を振る私を見て、男は独り言のように呟く。

「そうか……やっぱり、記憶をなくしてしまったようだな……」

「記憶……?」

訝しげな顔を向けると、相手はにこりと微笑んだ。

「申し送れたね。私は、君の主治医。どうか〝先生〟と呼んでくれ。他の患者やスタッフたちも、そう呼んでいる」

「……〝先生〟?」

「そう、よく出来たね」

まるで子供を褒めるかのような言い方だった。

「何か質問があるという顔だね。言ってごらん」

私は躊躇いながらも口を開いた。

「……ここは一体、どこですか?」

「精神病院の閉鎖病棟だよ」

〝先生〟はふと、遠くを見やった。

「もう何年になるかな、君がここに来て。君は極度の離人りじん症で、長年ここに入院している患者なんだ。覚えているかい?」

考えるまでもなかった。

「……まったく」

「そうか。どうやら完全に忘れてしまっているようだね。仕方がない。あんなことがあったんだから……」

「あんなこと……?」

〝先生〟は、痛ましそうに眉を寄せた。

「いずれわかってしまうことだろうから、今のうちに言っておこう。君は二ヶ月前、この病室で自殺未遂を起こしたんだ」

一拍おいて、〝先生〟は言葉を続けた。

「どうやってかはわからないが、保管庫にあった睡眠薬を持ち出してね。幸いにも一命はとりとめたんだが、その代償として──君は二ヶ月間、昏々と眠り続けた」

〝先生〟の声が、静かに落ちる。

「そして目覚めた今、すべての記憶を失っていた。たぶん、薬の副作用だろう。たまにあることなんだ」

〝先生〟は、何でもないことのように言った。

おそらく、私を安心させるためだろう。

しかし、これで混乱するなというほうが無理がある。

目が覚めると、そこは精神病院の閉鎖病棟。

自分は長期の入院患者で、しかも自殺未遂まで起こしていた──なんて。

(……ダメだ。何も思い出せない)

どうやら私は本当に、記憶をなくしてしまったらしい。

その時、静かになっていた隣の部屋から、再び叫び声が聞こえてきた。

「お願いだっ! 声だけでもいい、聞かせてくれっ!」

私は思わず〝先生〟を窺う。

相手は慣れているのか、まったく動じた様子がない。

「あの声のことは気にしないでくれ。隣の房ぼうの患者は、少し……情緒が不安定でね。いつも、ああやって意味不明なことを叫ぶんだ」

「意味不明? 誰かを探しているみたいだけど……」

「実在しない人物さ。彼は妄想と現実の区別がつかなくなっていてね。自分の頭の中で創り出した、ありもしない人を、ああやって探し続けているんだ」

(ありもしない人……?)

私は、向かいの壁を見た。

そこから聞こえてくる男の声はあまりにも痛切で、とても想像上の存在を呼ぶものとは思えなかった。

「——ちょっと失礼」

〝先生〟は席を立つと、鉄格子の外に向かって声をかけた。

「君たち。〇二番を保護房に連れていってくれ。このままでは、耳が壊れそうだ」

「わかりました。今回は何日くらい?」

「二日……いや、一日でいい。頼むね」

耳を澄ませていると、隣の鉄格子が開く音が聞こえた。

ついで、ジャラリと鎖を引きずる音。たぶん足枷か何かだろう。

「ふ、はははははっ……!」

静寂を破るように、廊下から男の哄笑が届いた。

先ほどの悲痛な絶叫とはまるで違う、心底おかしいとでもいうような声。

狂っているとしか言いようのない、人をどこまでも落ち着かなくさせる笑い声だ。

「静かにしろっ! 黙って歩くんだっ!」

壁を大きく叩く音が響いたが、それでも男は笑い続けた。

やがてその声は、重たい扉に吸い込まれるようにして消えていった。

「あの人は……どこへ?」

私は詰めていた息を、ようやく吐き出した。

「彼が、気になるかい?」

〝先生〟の瞳は、何かを探ろうとしているかのように静かだった。

「いや、そういう訳じゃ……」

小さく首を振ると、〝先生〟はふっと頬を緩める。

「あの患者は、保護房に行ったんだ。あそこは、病状の落ち着かない患者が行く部屋でね。周囲の喧噪から離れ、静かに神経を休めるには最適だ」

〝先生〟はそこで一拍置くと、さらりと言った。

「〝王様〟は、日頃から問題行動が多くて、頻繁に行ってもらっている」

「……〝王様〟?」

「あぁ、そうか」

〝先生〟は、今気づいたというように頷いた。

「この病院では、患者はすべて部屋の番号で呼ばれることになっている。外の情報に煩わされず、治療だけに専念できるようにという配慮だ。今の男は〇二番、そして君は〇一番」

〝先生〟は、私を指さした。

「でも、番号だけじゃ味気ないからね。ここにいる者には皆、あだ名——通り名のようなものがつけられている。患者もスタッフもね。私は〝先生〟。そして、この看護士は〝笑い犬〟」

〝先生〟は、後ろに控えている看護士を横目で見た。

〝笑い犬〟と呼ばれるその男は、無表情のまま小さく頭を下げる。

なぜそんな名がついたのか、わからないほどに、にこりともしない男だった。

だが、〝先生〟の後ろに付き従うその姿は、確かに主人に忠誠を尽くす犬を思わせた。

「そして、君は〝人形〟」

〝先生〟が再び、私を指さす。

「〝人形〟……?」

「そう。かつての君は、極度の感情鈍麻——離人症の症状が強くてね。何をしても笑わず、騒がず、驚きもせず、泣きもせず。部屋ではじっと座っているだけで、誰にも何にも興味を示さなかった。そんな君を見て、誰となくそう呼び始めたんだ」

〝先生〟は、少しだけ声を和らげて付け加える。

「まぁ、君の顔立ちが人形のように綺麗だった、という意味もあるけどね」

「綺麗……?」

自分の顔にそっと手を当てた。

私は一体、どんな顔をしているのだろう。

部屋には鏡ひとつなく、確かめようがない。

だがそれ以前に、自分の容姿に興味が湧かなかった。

綺麗でも醜くても、どちらでもいい。

感情がないというのは、こういうことかと、初めて実感した。

「私の病気は、重かったんですか……?」

カルテに目を通していた〝先生〟が、顔を上げた。

「昔はね。でも今見る限り、前よりは回復しているようだよ。多少はぼんやりしているが、受け答えもしっかりしているし、自分で動くこともできる」

ちらりと〝先生〟が、私の足元に視線を落とす。

先ほど落ちたときにできた青紫の痣が、足首を彩っていた。

「その怪我は、あとで〝笑い犬〟に手当てしてもらいなさい」

〝先生〟は一拍置いて、表情をやわらげる。

「さて……どうやら君は、自殺を試みる前よりも、明らかに離人症の症状が軽くなってきている。たぶん記憶を失ったことで、極度のストレス状態から解放されたのだろう」

少し間をおいて、穏やかに続けた。

「このままの状態を維持できれば、すぐにでも退院──『外』に出ることができる」

「え、『外』に……?」

——『外』。

その言葉を聞いた瞬間、胸がどくんと跳ねた。

懐かしいような、憧れにも似たような気持ち。

理由はわからないのに、たまらなく惹かれる言葉だった。

「君は、『外』には出たいかな?」

こくりと頷くと、〝先生〟はわずかに間を置いてから、勿体ぶるように口を開いた。

「ならば、僕の話をよく聞きなさい」

〝先生〟は、ちらりとカルテに視線を送った。

「今回、君は記憶をなくしたことで、はからずも離人症の症状に改善が見られた。だが、再び記憶が戻れば、以前と同じ状態に逆戻りする可能性がある」

〝先生〟は、慎重に言葉を選びながら続けた。

「そこでだ。これから君には、記憶をコントロールする治療を受けてもらう。正確には、記憶を完全になくすための治療だ」

「記憶を……完全に? そんなことが出来るんですか?」

「できる。うちの院が独自に開発した技術でね。まだ学術的には認められていないが、非常に高い信頼性がある。もし記憶を完全に封じ込めることができれば——」

深く沈んだのち、その声は朗らかさを取り戻す。

「君は、まったく新しい人生を始めることができる。もちろん、『外』にも出られる」

〝先生〟の目が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

「どうだい。やってみる気はあるか?」

答えは、考えなくとも決まっていた。

「やります。やらせて下さい」

「そうか、よかった」

〝先生〟はホッと息を吐き、猫背ぎみの背筋を伸ばした。

「では今後、僕の指示には必ず従ってもらうよ。——どんなことであろうとね」

そう言って、〝先生〟の口元がわずかに緩んだ。

「ただし、治療以外は好きな場所で、好きに過ごしていい。病院内なら、どこへ行ってくれても構わない。色々と巡ってみるといいよ。一応、ここは君が長年過ごした場所だからね」

〝先生〟の口調が、わずかに探るようなものに変わる。

「もし歩き回っても、何も思い出さなければ、治療はすでに半分成功していると言ってもいいだろう。そうすれば『外』に出られる日も近づく。それと——」

〝先生〟の視線が、鉄格子の外へ向けられた。

「ここには他の患者もいる。彼らは一風変わっていてね。会ってはいけないとは言わないが、あまり刺激はしてやらないでくれ。何かあったら大変だから」

〝先生〟は、後ろの看護師にちらりと視線を向けた。

「念のために、〝笑い犬〟を護衛につけよう。彼は最近まで、〇三番のところにいたが、そちらの症状も落ち着いてきたところだ。いい看護師だから、色々と面倒を看てもらうといい」

そう言って、〝先生〟は椅子を引いて立ち上がった。

「さて、今日はここまでだ。さっそく〝笑い犬〟に、院内を案内してもらうといい。……そうそう、言い忘れていたけれど——」

声のトーンが、急に冷たく引き締まる。

「くれぐれも、変な気は起こさないように」

その言葉の裏にあるものは明白だった。

彼は警戒している。私が再び、自殺を試みるのではないかと。

〝笑い犬〟をつけるのも、護衛ではなく——監視の意味合いが強いのだろう。

(……でも、何でもいい。『外』に出られるのなら)

昔の自分が、なぜ死を選ぼうとしたのかはわからない。

だが、今の私が願うことはただ一つ——。

『外』に出たい。

生まれる前から願い続けてきたかのような、抗いがたい希求。

この願いを叶えるためだったら、〝先生〟の言うことは何でも聞く。

「はい、〝先生〟。貴方の言うとおりにします」

そう言うと、〝先生〟は満面の笑みを浮かべる。

「よし、いい子だ」

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last updateLast Updated : 2025-11-02
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2話
「髪はどうしますか?」シャツに手を通していた時、手伝ってくれていた〝笑い犬〟が尋ねてきた。「髪? あぁ——」二ヶ月間、眠り続けていたせいで、私の髪は肩のあたりまで伸びていた。「どうしたらいいのだろう?」「そうですね。明日は理容師が来る日です。必要であれば手配しておきますが」「そう。じゃぁ、お願いしようかな」「かしこまりました」馬鹿みたいに丁寧な口調だった。これでは患者と看護士というより、まるで主人と付き人だ。短く刈り込まれた髪。寸分の乱れもない制服。勤勉そのものの顔つき。彼はきっと、どの患者に対しても同じように接しているのだろう。誰にでも、平等に、機械的に。「どうかな、変ではない?」着替えを終えた私は、〝笑い犬〟に尋ねた。開襟シャツにネルのズボン。これは、患者全員に支給されている服だ。きっと以前の私もこれを着ていたのだろう——そのはずなのに、どこか居心地の悪さを感じた。「えぇ、お似合いです。貴方は、何を着ても綺麗だ」〝笑い犬〟が、熱っぽい吐息をもらす。思いがけない反応に戸惑っていると——「……ッ!」冷たいものが、手首に触れた。見ると、〝笑い犬〟が私の手首に手錠をかけていた。「すみません。外に出る時は、こうするのが規則なので」それを言われては反論できない。私は黙って、もう片方の手首にかかる手錠を見つめた。その時——ふいに見てしまった。手錠の鍵がかかる瞬間、〝笑い犬〟の口元が一瞬、ひくりと引き攣ったのを。(……気のせいか)出かける準備を続ける〝笑い犬〟の瞳には、もはや感情の片鱗すら残っていなかった。私は、今見たことを忘れることにして、用意された車椅子に乗り込む。寝たきりだった私の体は、もはや自力で動けないほどに衰えていた。リハビリは午後から始まるらしく、それまでは車椅子で院内を回るしかない。〝笑い犬〟に車椅子を押してもらい、病室の外へ出る。モルタル張りの廊下の両側には、いくつもの房が並んでいた。どれも似たような造りで、必ず鉄格子が嵌められている。廊下の先には、厳重な金属製の二重扉がそびえていた。〝笑い犬〟が立ち止まり、いくつか説明を始めた。「この閉鎖病棟には、全部で六つの病室があります。貴方がいるのは、出入り口から見て一番奥の左側、〇一号室。右手奥が〇五号室です」「へぇ。じゃあ、〇
last updateLast Updated : 2025-11-10
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3話
 ※この話には暴力表現を含みます。苦手な方はご注意ください。 「〝王様〟のご帰還だァ~!」騒がしい声とともに目が覚めた。何事かと鉄格子越しに廊下を覗くと、斜め向かいの部屋で〝さかさま〟が鉄格子を揺らし、ボスを迎える猿のようにはしゃいでいた。ちょうど、二重扉から一人の男が入ってくる。両脇を看護士に抱えられ、ぐったりと引きずられるように歩いている。彼が足を進めるたび、手足の金属枷がジャラジャラと乾いた音を立てた。「ヒャッホウゥッ~! 〝王様〟! 〝王様〟!」男が〇六号室の前を通りすぎると、〝さかさま〟が興奮気味に雄叫びを上げた。だが、相手はそれに反応することもなく、項垂れたままだった。私は思わず身を乗り出し、廊下を歩いてくる男の顔を確かめようとした。「貴方は下がっていて下さい」いつの間に来ていたのか、〝笑い犬〟が鉄格子の前に立ちはだかる。だがその目は、数メートル先にいる男に鋭く向けられたままだった。ジャラジャラと金属の鳴る音が、独房に響く。そのとき、私の視線に気づいたのか、男が伏せていた顔をハッと上げた。あっ、と私は声を上げそうになる。〝王様〟は、何もかもが黒かった。髪も、瞳も──いや、まとう空気そのものまでが、鋼のように黒々としている。荒れた容貌が、いっそうその印象を強めていた。長く伸びた黒髪。くっきりと浮かぶ隈。精悍な顔はこけ、かえって鋭さを増している。頬にはいくつもの打撲の痕。大きくはだけたネルシャツの胸元からは、しなやかな筋肉と、火傷のような痕がのぞいていた。「お前は……」私を見る〝王様〟の瞳が、みるみるうちに見開かれる。疲れ切った顔には似つかわしくない、驚くほど強い眼差しだった。その奥で、強靱な意志の炎がバチバチと火花を散らして燃えている。「何をしている。早く歩け」
last updateLast Updated : 2025-11-14
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4話
 ※ご注意ください※ このエピソードには暴力描写、精神疾患に関する言及などが含まれます。 「え……閉じ込められるって……?」顔を上げると、息がかかりそうなほど間近に、〝王様〟の顔があった。 目が合った瞬間、険しかった彼の表情が、ふと和らぐ。「……髪、ずいぶん伸びたんだな」〝王様〟の手が、私の髪を一房すくい上げ、慈しむような手つきで撫でる。 私を見下ろす彼の瞳は穏やかで、同時にどこか痛々しく、寂しげでもあった。きゅっと、心臓が握り締められたように狭くなる。(どうして、この人は……こんな目で私を見るんだろう?)「貴方は──」手を伸ばしかけた、その瞬間。「……ッ!?」〝王様〟の身体がビクリと痙攣し、そのまま床に崩れ落ちた。「まったく手間かけさせやがって」〝王様〟の後ろに立っていたのは、先ほど殴られた看護士たちだった。 彼らは無言で、手に持った警棒を〝王様〟の背にもう一度押し当てる。「がっ……!? あああぁぁ……!」〝王様〟の身体が大きく跳ね上がり、やがて動かなくなった。「十万ボルトでも一発じゃ効かねぇなんて、やっぱ化け物だな。ったく、戻って早々、保護房に逆戻りとは」ぶつぶつ言いながら、看護士たちは〝王様〟の手足を持ち上げ、引きずるように部屋を出ていった。二重扉が閉まる音が響く中、私はその場で呆然と立ち尽くすしかなかった。 ※ 「顔色が悪いね? どうしたんだい?」デスクに向かっていた〝先生〟が、ちらりと顔を上げた。〝先生〟の診察室は木目を基調とした、こぢんまりした空間だった。 入ってすぐ左手にデスクとカルテ棚があり、奥にはパーティションで仕切られた簡素なベッドがあるだけ。閉鎖病棟の患者たちは、定期的にここで〝先生〟の診察を受ける決まりになっていた。「いえ…
last updateLast Updated : 2025-11-18
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5話
 ※ご注意ください※ このエピソードには自殺に関する言及などが含まれます。 「囚人……?」 「ああ」〝先生〟は静かに息をつき、遠くを見るような目で語り始めた。「数年前、とある小さな村で殺人事件が起きた。村でもっとも由緒ある一族が皆殺しにされ、屋敷に火が放たれたんだ」そこで一度、言葉を切る。 淡々としているのに、その語りには不思議な重さがあった。「その現場で、燃えさかる館を前に笑っていた男──それが〝王様〟なんだよ」大きなため息とともに、〝先生〟は肩をすくめた。「彼は錯乱状態での犯行とされ、刑務所ではなくこの病院に送られることになった。スタッフに手荒なことを許しているのも、その経緯があるからさ」〝先生〟は警棒を振るジェスチャーをした。「これで、わかったろう? 〝王様〟がどれほど危険な人物か。……もし殺されたくなければ、彼には近づかない方がいい。いいね?」頷くまでもなかった。 先ほどの件で、〝王様〟がどれだけ危険か身をもって知った。 さらに今の話を聞いたあとでは、近づく気にもなれない。……ただ、一つだけ。 どうしても気になることがあった。「〝人形〟──以前の私は、〝王様〟と知り合いだったんですか?」「どうして、そう思うんだい?」 「……〝王様〟が〝人形〟のことを、よく知っているようだったから……」〝先生〟の眉が、ピクリと神経質に動く。 だがすぐに、いつもの柔らかな表情に戻った。「どうやら君も、〝王様〟の魅力に魅せられてしまったようだね」〝先生〟は、どこか同情するように目を細めた。「まぁ、無理もない。世間を震撼させるような犯罪を起こす人間には、そういうタイプが多い」指が一つ、また一つと折り曲げられていく。「容姿が整い、頭が切れ、話術も巧みで、雰囲気もある。だから他人を簡単に虜にし、信用させてしまうんだ」〝先生〟の声の調子が
last updateLast Updated : 2025-11-18
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6話
 カタリ、と椅子が鳴り、仕切りの間から〝先生〟が静かに現れた。 白衣のポケットに手をいれたまま、複雑な表情を浮かべている。「君が自殺を図ったのに、大きな理由はなかったと思うよ。感情のない〝人形〟にとって、それはただの気まぐれだったのかもしれない」〝先生〟の目が、じっと私を見下ろす。「その証拠に、薬の量も致死量には届いていなかったし、手首の傷も深くはない。見れば、わかるだろう?」 「じゃぁ……やっぱり、この傷は……私が自分で?」 「深く考える必要はない。さあ、力を抜いて」〝先生〟がトンと肩を押し、私をベッドの上に倒した。 清潔なシーツからは、消毒液のきつい匂いがたちのぼっていた。「少し冷たいけど、我慢して」 「……ッ」ドロリとした冷たい感触が、肌を滑る。ハッとして見ると、〝先生〟が、私の胸やこめかみにジェルを塗っていた。 続いて、コードのついたパッチを重ねる。「これから脳波と心拍を測る。その後、IQテストも受けてもらうよ」 「IQ……?」 「そう」とだけ言い、〝先生〟は静かな目で私を見下ろした。「〝人形〟だった頃の君は、僕の言うことなら何でも聞いた。『服を脱いで』と言えばためらいもなく、全部」〝先生〟の瞳の奥に、一瞬だけ影がさした。「それなのに、いつから君は恥じらいを覚えたのかな? いや、誰に教えられたのかな?」意味深な言葉を残したまま、〝先生〟は仕切りの向こうに消えてしまった。静寂の中、カルテを記すペンの音と、機械の駆動音だけが淡々と響く。私は目を閉じて、ただそれらの音だけを聞いていた。 ※ その後の数日間は、穏やかに過ぎていった。 私はリハビリのために庭を歩いたり、広間で本を読んだりして過ごした。院内には、患者が思い思いのままに過ごせるプレイルームのような部屋があり、それは「広間」と呼ばれていた。「あれぇ~何で〝人形〟がいるワ
last updateLast Updated : 2025-11-20
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7話
  「アレって、まさかアレ!?」〝さかさま〟がバンと勢いよく卓に手をつき、身を乗り出した。 いくつかの牌が、盤上でぴょんと跳ね上がる。「本当かよッ!? 〝王様〟はそれで平気なワケ!? 俺ヤだよッ。〝王様〟がまたアレにかけられるのなんて!」 「ふん。相変わらず、お前さんは〝王様〟びいきじゃのぅ」ばらけてしまった牌を〝長老〟がイライラしながら戻した。「当たり前だっつーの! だって〝王様〟は、ここでは一番まともなヤツだし!」 「阿呆か。〝狂人の王〟と名付けたのは、一体どこのどいつじゃ? 相変わらず、さかさまな口をしおって。イカレておるのか」 「はぁ? そんなの全員だろう?」〝さかさま〟が一同を見回すと、その場はしーんと静まり返った。「──っと、リーチじゃ」全員の隙を突いて、〝長老〟が点棒を置く。 「あっ、ずりぃ」と〝さかさま〟が身を乗り出す。「じゃぁ、俺、ポン! ポン!」 「おいおい、勢いで鳴くな。そんなんじゃから、いつも揃わないんじゃ」ブツブツと小言を言う〝長老〟の向かいで、私はそろそろと手を上げた。「……えぇっと、私も鳴きたいんだけど……」全員の視線が、一斉に私が開いた牌に向いた。「これは何て鳴きかな? よくわからなくて……」 「「それは鳴きじゃない! ツモだっ!」」〝さかさま〟と、〝長老〟が同時に叫んだ。「ツモ?」 「ええいっ、アガリのことじゃ!」〝長老〟は吼えると、私の自牌を見てぐぬぬと唸った。「断ヤオ、一盃口、ドラドラ……」 「……それは、どれくらいのもの?」 「簡単に言えば──」〝長老〟は、クッと悔しそうに声をひそめた。「現時点で、お前さんが一位だ」言うなり、〝長老〟が頭を抱える。「まったく油断したっ! 初めてじゃというから、手加減してやっていたのに!」 残り少な
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8話
  〝笑い犬〟はわずかに躊躇するような気配を見せてから、頷く。「そうですね。昔のあなたは感情が乏しかったせいで、他人の気持ちに鈍感でした。普通の人なら良心が咎めて言えないようなことも、平気で口にしてしまう。そういうところがありました」 「……つまり、かなり嫌な奴だったということだね」自嘲の笑みが漏れる。今日は楽しく──とまではいかなくとも、それなりに和やかに過ごせたつもりだったのに。 まさか〝さかさま〟も〝長老〟も、内心ではそうではなかったなんて……。怖いな、と思った。 ここの患者たちは、表に見せる顔と裏に持つ顔がまるで違う。 むやみに彼らを信用すべきではないのかもしれない。不安が顔に出ていたのだろうか。 〝笑い犬〟がわずかに口端を緩めた。「ご心配なく。それはあくまで昔の話。今の貴方であれば、きっと彼らも受け入れてくれます。このまま記憶が戻らなければ──いえ、消してしまえさえすれば」 「……ずっと気になっていたんだけど、そんなに上手くいくものなのかな? 記憶を消すって」 「可能です。〝先生〟であれば。彼は、この分野の最高権威ですから」その声音には、どこか高揚した響きが混じっていた。「明日から、さっそく記憶をコントロールする治療が始まります。ご心配なく。〝先生〟の言うとおりにしていれば、すべてうまくいきます」〝笑い犬〟はそう言い切ると、「おやすみなさい」と残して棟を後にした。  ※  消灯時間を過ぎても、中々眠れなかった。 ぐるぐると様々な思考が頭を巡り、かえって目が冴えてしまう。ベッドからのっそりと体を起こす。 高窓からさす月の淡い光の中、ジッと耳を澄ました。深夜。 患者たちは誰もが眠りにつき、閉鎖病棟の中は静寂に包まれていた。隣の部屋からも物音はない。 あの日以来、〝王様〟は一度も保護房から戻ってきていないよ
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9話
  ギシリ、と金属が鳴った。私が格子に手をかけた瞬間、思わず音を立ててしまったのだ。〝眠り男〟は廊下の中央でピタリと動きを止める。そして、くるりとこちらを向き、じっと私を見下ろしてきた。——いや、見てはいない。〝眠り男〟の目は、きつく閉じられている。しかしなぜか、心の奥まで見透かされているような気分になった。「夢は現、現は夢。生は死、死は生。破壊は救済、救済は破壊……」淡々とした〝眠り男〟の声が、静まり返った廊下に響く。他の房の患者たちが起き出す気配はなかった。熟睡しているのか、それとも彼らにとっては、これも見慣れた夜の風景なのか。暗闇の中に静かに立つ〝眠り男〟は、〝笑い犬〟が言っていたような木訥な印象とはかけ離れ、まるで予言者のような、浮世離れした雰囲気をまとっていた。「常人は狂人。主人は奴隷。王様は愚者。人形は──」「ちょっと待って。王様は、何だって……?」言ってから、後悔した。夢遊病の人間は、体は起きていても脳は眠っている状態。質問に答えられるはずがないのだ。「王様は、愚者。まれにみる愚者……」予想外にも、〝眠り男〟は答えた。驚きつつも、さらに問いかけてみる。「王様って、もしかして〇二号室の〝王様〟のこと?」こくり、と彼が頷く。私はさらに一歩近づき、鉄格子をぎゅっと握りしめた。冷たい鉄に触れているというのに、掌にはじっとりと汗がにじんでくる。「教えて欲しいんだ。〝王様〟は、一体何者なんだ?」〝眠り男〟はじっと私を見据えたあと、ゆっくりと口を開いた。「……〝王様〟は、愚者。まれに見る愚者。彼は、たった一人のために、すべてを捨てようとしている」「一人&h
last updateLast Updated : 2025-11-25
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10話
 信じられない思いで、鉄格子を見つめる。(もしかして、さっき〝眠り男〟が……?)向かいの部屋を見ると、〝眠り男〟はベッドに横たわり、すやすやと寝息をたてていた。きっと朝になれば、自分が徘徊していたことすら覚えていないだろう。(……どうしよう?)開いた鉄格子の前に立ち尽くす。ふいに、ある衝動がむくりと胸の奥から湧き上がってきた。──〝王様〟と話がしてみたい。会って、直接聞いてみたい。逃げろというのは、何なのか。なぜ、逃げなければならないのか。記憶を取り戻せとは、一体どういう意味なのか。聞きたいことは山ほどあった。同時に、不安もあった。もし本当に、全てが〝王様〟の妄想だったとしたら——?(……それでもいい)この胸に巣食う、もやもやしたものが晴れるのなら。私はあたりを確かめ、鉄格子を開いた。そして、物音を立てぬよう細心の注意を払いながら、そっと——一歩を踏み出した。閉鎖病棟の出入り口は一つ。廊下の突き当たりにある、鉄製の二重扉だけだ。だが、その外には常に警備スタッフが控えている。(ここは使えない。となると──)私は反対側に目を向けた。〇一号室のすぐ脇の壁には、非常用扉が設けられていた。これは昨年、地方の精神病院で起きた痛ましい事故を受けて設置されたものだ。非常用のため、鍵はかかっていない。その事故では、精神病院が火災に見舞われ、閉鎖病室に閉じ込められた多くの患者が焼死したという。──どうして、そんなことを自分が知っているのだろう。一瞬、疑問に思ったが、今は悩んでいる余裕などない。早くしなければ、誰かに気づかれるかもしれない。私はそろそろと非常扉に近づき、ドアを開けた。
last updateLast Updated : 2025-11-27
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