All Chapters of わたくしは何も存じません: Chapter 1 - Chapter 10

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02.人々の怒りは王城へ向かう

 特別な祝祭日ではない、ごく平凡なある日。正午の鐘が鳴る。教会の鐘が鳴るのは、一日に三回だけ。朝の仕事始め、昼の休憩、夕方の帰宅を促すとき。決められた時間に鳴る鐘は、人々の生活になくてはならない音だった。 からんからん、軽やかないつもの音が鳴った直後……人々は唐突に思い出す。よみがえった記憶は、あの日の惨劇だ。殺されたロイスナー公爵家の人々、女神アルティナによる断罪、王家の横暴さ……砕け散った血塗れの処刑台。一気に脳へ流された記憶は、自らが持っていた過去のもの。 ここは現在ではなく、記憶から続く未来だ。女神アルティナが巻き戻したのは世界の時間、やり直しを命じる声は怒りに満ちていた。巻き戻ったのではなく、これは延長であり……ここで間違えた者は救済されない。信仰心の強いアードラー王国の民にとって、恐ろしい事実だった。「っ、そんな……」「女神さまのお慈悲を」 祈りに手を組む大人をよそに、一人の少年が叫んだ。「貴族が勝手にやったのに、巻き添えかよ!」 事実であっても、誰も口にしなかった言葉だ。王侯貴族への暴言は不敬罪が適用され、一家揃って断罪されることもある。その危険性より、言葉に潜む事実が胸に突き刺さった。そうだ、悪いのは王族で、王太子だった。なのに、俺たちは巻き添えになるのか? 国の頂点に立つ王族は賢く強く正しい。その概念が崩れていく。あちこちで不満や懸念の声が上がった。女神アルティナを最上位とする教会は、扉を開いて信者を受け入れる。人々は女神への信仰を掲げ、救いを求めて群がった。 動いたのは平民だけではない。お茶会に集う夫人や令嬢が青ざめて茶器を落とし、混乱して泣き喚く。王城で仕事をしていた文官が手を止め、ペンを置いて駆けだした。書類を払いのけて叫んだ文官もいる。訓練中だった騎士は剣を取り落とした。 これから起きる出来事、未来を知ることは女神の恩恵である。自分だけが覚えていたなら、恩恵と考えてもいいだろう。しかし、ほかの皆も覚えていたら? 互いに顔を見て、ぎこちなく目を逸らした。 女神が断罪する前、公爵夫妻の首が落ちるとき……喝采したのは誰だ? まだ幼いと表現できる小公爵や令嬢の死を喜んだのは、自分だ。まるで酒に酔ったように、雰囲気に呑まれた民衆は処刑を楽しんだ。まるで観劇するかのように。 ざらりと嫌な感情が胸に広がる。女神は、公爵令嬢を『天
last updateLast Updated : 2025-11-11
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03.怖い夢でも見たの?

 ロイスナー公爵として、王家に仕えてきた。アードラー王国は地の利に恵まれていた。北に山脈、南に海、東側に大きな川が流れる。高低差のない平地が広がり、その大地は肥沃だった。東、北、西に国境を接する国々が四つ。どの国とも友好関係を築いている。 北の山脈を背負い、東からの大きな街道を管理するのが、ロイスナー公爵家だった。麦を育てる平地が少なく、領地の半分が山である。一般的に豊かになる要素が少なく見えるが、北と東の三か国と接していた。街道を整備し、西側との中継地の利点を生かす。 麦が育たない山裾は、放牧を推奨した。ヤギ、牛、馬、羊……様々な家畜に解放され、チーズや燻製肉などの輸出量は近隣国で最大規模だ。荒れた領地を自ら望んで開拓した初代から、試行錯誤と苦労の連続だった。翌年の予算に頭を悩ますことのない生活を享受し始めたのは、先代からだ。 貴族としての体面を保つため、ロイスナー公爵家の財政を支えたのは軍人だ。アードラー王国の軍人のほとんどは、ロイスナー公爵領出身だった。屈強な男達が戦いや護衛の任に就き、出稼ぎのような形で領地を支援する。王家への忠誠は当然だと思ってきた。「俺が間違っていたようだ」 父ヨーゼフの苦しそうな呟きに、十二歳になったばかりのガブリエルは首を傾げた。誕生日にもらったリボンを選んだら、両親がいつもと違う行動に出た。不安そうに両親を見上げる。「このリボンは、だめですか?」 きょとんとした娘の様子に、ロイスナー公爵夫妻は顔を見合わせた。「覚えて、いないの? リル」 問われた意味がわからないガブリエルは、右に倒した首を左へ傾けた。何の話かしら? そんな表情に、問うた母ミヒャエラは「なんでもないわ」と取り繕った。 この子は何も覚えていない。だったら、息子ラファエルは? 立ち上がったのはヨーゼフだった。急いでラファエルの部屋に向かう。広い公爵家の廊下で、子供の泣き声が聞こえた。半ば走るようにして扉を開ける。「ラエル、無事か」「おと、ぅさま!」 しゃくり上げながら、走って来る。まだ十歳とはいえ、その勢いは激しかった。思い出した記憶が、重すぎたのだろう。頬を伝う涙を父のシャツに押し付け、ラファエルは怖いと泣く。抱きしめて背中をぽんぽんと叩いた。落ち着くのを待って、ガブリエルの部屋へ戻る。「ラエル、聞いてくれ。リルは覚えていないようだから、話
last updateLast Updated : 2025-11-11
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04.領地への脱出が最優先だ

 ガブリエルは困惑していた。お父様もお母様も、弟のラファエルまで一緒になって「もう王城へいかなくていい」と口にする。そんなことをしたら、叱られてしまうわ。「誰にもお前を傷つけさせない。頼むから聞き分けてくれ、リル」 親しい人だけが呼ぶ愛称が、耳に優しい。たとえ声を荒らげて叱られたとしても、両親の愛情を疑うことはなかった。困惑しながらも、ガブリエルは承諾する。王家から連絡があっても、勝手に王城へ行かないこと。屋敷を出るときは報告すること。 しばらくは危険だから、屋敷から出ないことも言い含められた。すぐにでも領地へ戻る準備をする、父の言葉にガブリエルの気持ちは浮き立った。領地なら叔父様達もいる。従兄弟達とも遊べるわ。何より、王城で王太子殿下に会わなくて済む! 素晴らしいことに思えた。ロイスナー公爵家の領地は国の端だから、追いかけてこないでしょう。嬉しくなったガブリエルの表情が明るくなる。そんな娘の様子に、ヨーゼフは眉根を寄せた。 やはり、という気持ちが強い。王城でつらい思いをしていたのだろう。おそらく『前回』も同じだったはず。政略結婚の意味を理解するガブリエルは、我慢していた。つらい思いを口に出せず、呑み込んで……四年後に我々は裏切られる。「領地へ行く準備をしなさい。二人とも、荷物は二箱までだ。それ以外の荷物は後で運ばせる」 いつもより厳しい声に、ガブリエルが首を傾げた。二箱? 明らかに少ない量だが、最低限の着替えだけ詰めればいい。それ以上の荷物は馬車の速度を遅らせる。今は王城から離れることが先決だった。距離を取り、何かあってもすぐに手が出せない状況を作る必要がある。 ヨーゼフの目配せを受け、ミヒャエラがぽんと手を叩いた。ガブリエルとラファエルの注意を引き、笑顔を作って二人を焚きつける。「勉強道具はいらないわ。着替えや身の回りの物を優先してね。どちらが先にできるか、競争よ」「競争? 負けないわよ」「ぼ、僕だって」 覚えていないガブリエルは、控えていた侍女バネッサの手を取って衣装室へ向かう。ラファエルも自室へ駆け戻った。二人が荷物を作る間に、出かける準備を整えなくては。ミヒャエラは侍女達に指示し、装飾品から包ませた。 高価な飾り物や絵画はすべて地下室へ運ばせる。王家が攻め込んでくる危惧があるからだ。地下ならば、上の屋敷を焼
last updateLast Updated : 2025-11-11
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05.無理を承知で頼む

 半日で荷物を積んで、馬車は走り出した。ガブリエルはいつもより揺れる馬車に、首を傾げる。道が荒れているのかも。数日前に雨が降ったから、そのせいだわ。様々な知識を吸収させられたガブリエルは、同じ年齢の子より聡い。 元からの賢さに加え、未来の王妃たるべく教育された水準が高すぎた。正直、愚かな王太子の尻拭い役なのでは? と公爵夫妻は懸念していた。 遠ざかる屋敷を見ながら、ミヒャエラはほっと息を吐きだす。家族だけの馬車は、長期移動用だった。長細い馬車は寝台に似た作りで、腰掛けがない。代わりに低い肘置きのような円柱クッションが用意されていた。「僕、この馬車は好き!」 ラファエルがはしゃいだ声をあげるので、嬉しくなったガブリエルも隣に寝転ぶ。王城では「お行儀が悪い」と叱られる行いも、父と母は笑顔で見守っていた。並んで窓から景色を楽しむ。住み慣れた屋敷が遠くなるのは寂しいけれど、王城が小さくなるのは嬉しかった。 後ろに続くのは、付き従う侍女達を乗せた馬車だ。さらに外出用の荷馬車が続く。領地との往復も多い貴族だが、数日の道のりは野営もある。テントから調理道具まで、荷物を運ぶ必要があった。 幌馬車では足が遅いうえ、見た目が悪い。寝台タイプの馬車に似せた外見で、荷を運ぶ馬車を仕立てるのが伯爵家以上の常識だった。野営の際は荷を下ろすため、雨の場合は護衛の騎士や御者が休む場所にも使える。 ロイスナー公爵家の紋章を付けた一団は、貴族とは思えぬ速さで街道を走り抜けた。ロイスナー領の端まで、通常三日の距離がある。半分に短縮するつもりで走らせる御者は、馬の疲労を見て休憩を判断した。 すでに日が暮れ始めた馬車の中で、幼い姉弟は眠っている。起こそうか迷い、ミヒャエラはそのままにした。馬の疲労が激しく、途中で交代する必要がある。街道沿いにいくつか、馬を預ける中継地が用意されていた。昼過ぎに一度馬を交換しているため、このまま野営に入るのも検討される。「あなた……」「先に進みたいが、皆は限界だろう」 乗り心地が改善された長距離用の馬車ならともかく、後ろに続く馬車は一般的な作りだ。当然、街道の揺れが直接伝わるので疲れる。加えて、荷馬車のほうは御者の交代ができなかった。 事前の準備ができず、最低限の人員と装備で出てきた以上、あまり無理は出来ない。ヨーゼフの判断で、街道脇の集落で野営の準
last updateLast Updated : 2025-11-11
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06.父親を殺して王位を簒奪した事実

 国王グスタフは、昼の鐘と同時に立ち上がった。大量の記憶が流れてくる。信じがたい状況が走馬灯のように流れた。 体調には気を配ってきたし、体力もある。そう自負していたし、主治医も太鼓判を押す健康状態だった。それが突然倒れ、手足は動かず言葉もおぼつかなくなる。何が起きたのかわからぬまま、外からの情報に頼った。 毒を盛られた可能性がある。神妙な顔で告げた主治医は翌日から来なくなった。後で知ったが、息子ニクラウスが解雇していたらしい。代わりに入った医師は、ただ無言でベッドサイドに座り半刻ほどで出ていくだけ。治療どころか、診察の脈を取ることもしなかった。 グスタフが倒れて二年もすると、臣下も寄り付かなくなった。外部の話をする宰相は引退したと聞かされる。徐々に人が消え、シーツなどを交換する侍従すら減っていった。清潔だったシーツは饐えた臭いを放ち、体は痒さと痛みに覆われる。医師は一か月に一度、扉を開けて顔を見て閉めた。室内に入ることすらない。 その頃には、状況を理解していた。息子に謀られたのだと。 妻が早逝したため、我が子はニクラウスしかいない。能力の足りない王子を支えるため、ロイスナー公爵家の有能な令嬢を婚約者とした。不満そうなニクラウスを叱り、ガブリエルを婚約者として大切にするよう言い聞かせる。家柄、財力、才能……すべてを備えたガブリエルが王妃になれば、民も納得するだろう。 王政であっても、愚かな王に民も貴族も従わない。どうしてもさぼること、楽なことに向かう息子を情けなく思った。先だった妻に申し訳が立たないと、必死で導こうとする。それが息子にとって迷惑なのは承知の上だった。 結局、アレは力尽くで邪魔な父王を排除したのだ。その記憶が一気にグスタフを満たした。 最後の記憶は、無表情のニクラウスに胸を刺されて終わる。にやりと黒い笑みを浮かべた黒髪の女を連れていた。黒い瞳は闇のように深く、恐ろしいほど暗かった。 殺されたのは、病に伏して二年後くらいだろうか。それまで生かした意味は不明だ。だが、一つだけ確かなことがある。自分が死んだ後の治世に、何も期待できないこと。グスタフは王であり、国の頂点だった。民を潤し、貴族を動かし、国を豊かにすることが役目だ。「他家から養子をとるしかあるまい」 ぼそりと呟き、立ち上がった椅子に崩れ落ちる。そこでようやく、グスタ
last updateLast Updated : 2025-11-11
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07.やり直しになるならやらなかった

 まずい、まずい、まずい。こんなこと想定していなかった。ニクラウスは混乱の中にあった。 リリーが来てから、俺には欲が出た。父上の古臭い説教は腹立たしいし、好きな女と結婚したい。王位も早く継いで、自由に振る舞いたかった。それらを叶える方法として、リリーは『聖女』という概念を持ち込む。異世界から来た彼女は、前の世界で『聖女』だったと口にした。 人々を癒す至高の存在で、女神に選ばれると。アードラー王国は、女神信仰の国だ。王族に次いで権力を持つのが教会だった。もし、リリーが女神に送り込まれた『聖女』なら……その女を妻として王妃の座に据えるのが正しい。俺の権威は一気に高まり、誰も文句は言えないだろう。 王になれば頂点だ。勉強しろと注意されることもなく、うるさい宰相や騎士団長を首にすることも可能になった。貴族も民も俺の前にひれ伏す。 ニクラウスはそう考えた。叱られて再教育、最悪の展開でも幽閉ぐらいだろう。王族とは、それだけで価値がある。ニクラウスの考えは、ある意味正しかった。 夢見た状況を引き寄せるため、ニクラウスは汚い手を躊躇なく使った。『前回』のニクラウスは、父王に毒を飲ませている。急ぎすぎて、手に入れた毒薬を半分も飲ませた。健康だった王が突然倒れたことに、いぶかしむ声が上がる。リリーにも「疑われるわ」と言われ、そこからは少量ずつ飲ませた。 じわじわと弱る父親の姿に、ニクラウスはひそかな喜びを覚えた。あんなに偉そうに俺へ意見していたくせに、俺のさじ加減一つで命が潰える。細くなった蠟燭の火も同然だ。吹き消す前に、絶望を味わわせてやろうと思った。ニクラウスの精神は、ある意味崩壊していたのだろう。 王位継承権を持つロイスナー公爵も、ニクラウスにとって目障りだった。 王になる資格は俺だけでいい。公爵夫人は、ガブリエルを大切にしろと煩い。挙句、弟とやらも俺を睨みつけやがった。気に入らない。ガブリエルは言うに及ばず、勉強や鍛錬を休むなと顔を合わせるたびに口にした。家族全員、処刑してやる。 単純なニクラウスを操るリリーが罪状を考えた。後押しされて、王太子は崩壊へ向かう。処刑の命令を出した。証拠など必要ない。いまの王族は俺と父上だけで、父上は口を利けないのだ。 命令に逆らう騎士団長に罪を着せて投獄し、あれこれ指図する宰相を首にした。リリーが見つけてきた男を騎士団長に据
last updateLast Updated : 2025-11-11
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08.動き出した歯車は赤く軋む

 騎士団長バーレ伯爵は、鍛錬中だった。昼の鐘が鳴ると同時に、頭痛に見舞われる。刃を潰した訓練用の剣を杖代わりに、ずるずると体勢を崩した。だが膝をつく直前で持ち堪える。「……なんだ? この記憶は……」 広場で兄が殺された。義姉や甥、最後に姪も。全員の首が、見たこともない器具で落とされた。地位を追われ、兄への進言も届かない。身に覚えのない横領の罪を着せられ、次は俺の番だったはず。 叫ぼうとした喉は潰され、ひゅーひゅーと掠れた音を絞り出すのがやっとだ。両肩は骨が砕かれ、脹脛を切られた。満身創痍の身に、落雷の光が届く。眩しく輝かしい……そこで記憶は途絶えた。いや、誰かの声を聞いた気がする。 奇跡は一度だけ、と。 白黒だったバーレ伯爵の記憶が、徐々に色を取り戻した。鮮血の赤、嘲笑う王太子の緑の瞳、不吉な聖女の黒い微笑み……。思い出した記憶が鮮明になるにつれ、怒りで視界が赤く染まっていく。 ぐっと膝に力を入れれば、足は応える。立ち上がって、手足を確認した。肩は無事で、騎士団が鍛錬をする広場に立っている。己の状態を確認するため、バーレ伯爵は短く声を発した。「あ、ああ」 喉も無事だ。「っ、騎士団長!」 涙ぐんだ副官の焦げ茶の髪に、ぽんと手を置いた。あれらは夢ではない。だが、ここも現実だ。混乱したバーレ伯爵に、部下の騎士達が駆け寄った。口々に無事を喜び、女神のやり直しの話をする。拾った情報で、バーレ伯爵は事情を理解した。 女神アルティナ様の恩寵か。膝をついて祈りを捧げるバーレ伯爵の姿に、騎士達は剣を置いて同様に祈りの手を組んだ。やり直せることへの感謝、止められなかった不甲斐なさを詫び、二度と同じ失態をしないと誓う。「王太子ニクラウスを捕まえろ。『前回』であろうと罪は罪だ!」「「女神様のご加護を」」 主君に勝利を、と叫ぶ声が違う言葉を叫ぶ。不敬ではない。王太子より女神を選んだのだ。走る騎士の先頭で、バーレ伯爵は王城内へ踏み込んだ。許可を取る必要はない、誰かに詫びる理由がない。女神への反逆者を捕らえることは、女神への信仰の証でもあった。 侍従や侍女は道を空け、誰もが涙ぐんだ目元を隠そうとしない。無言で指さす先が、王太子のいる場所だろう。疑うことなく、騎士団は王城を走った。居住区域は奥にある、その一角を目指して進むのみ。途中で合流した近衛騎士
last updateLast Updated : 2025-11-11
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09.簡単に終わらせるな!

「貴様のせいだ!」 怨嗟と黒い感情が滲む声が、大きく響いた。リリーは痛みに倒れ、その勢いで剣が抜ける。蝶番が悲鳴を上げた扉が倒れる。転がった彼女を殺そうと、ニクラウスが剣を持ち直した。逆手に掴み、突き刺そうとする。その所作は『前回』父親の遺体を損壊したときと、よく似ていた。「い、いやぁ」「死ね!」 赤い血に濡れた手で、何かを掴もうとするリリー。後ろから止めを刺そうとするニクラウス。修羅場に飛び込んだのは、騎士団長のバーレ伯爵だった。状況を見て取り、ニクラウスの手にある剣を弾く。キンと甲高い音がして、刃が折れた。 折れた剣先が落ちて、うつ伏せで逃げようとするリリーの脹脛を叩いた。刃を潰していたため、切り裂くほどの鋭さはない。重さで骨折でもしたのか、肌は青黒く変色した。「ぎゃぁ、あぅあ゛」 聞き苦しい叫びに、騎士達の顔が歪む。同情する色は誰にもなかった。ただ嫌悪感を得ただけだ。近衛騎士が、王太子ニクラウスを殴って引き倒す。その間に折れた剣は回収された。床に落ちた剣先も、他の騎士が蹴飛ばして遠ざける。「なんだ、貴様ら! 離せっ!」 暴れるニクラウスを二人の騎士が拘束する。手足を縛って転がし、顔を三発蹴飛ばした。手を使うほど、人扱いする気はない。野良犬以下の扱いが妥当と判断した結果だった。触れるだけで、悍ましい何かが感染しそうな嫌悪を感じる。彼らの心情がそのまま出ていた。 今までも地位をひけらかし、近衛騎士に迷惑をかけてきた。仕事だからと我慢しても、悔しさや怒りは消えない。蓄積した悪感情を叩きつける近衛騎士達に、バーレ伯爵は淡々と告げた。「殺すな、簡単に終わらせる気はない」「承知いたしました」 一礼する騎士に「まあ、手や足が滑ることはあるさ」と口角を持ち上げる。作られた笑みは、多少の報復は許すと匂わせていた。叫ぶ声が煩いと猿轡をされたニクラウスは、じたばたとのたうち回る。その背を足蹴にし、足や腕を蹴飛ばす。 殺さなければいい。力加減は彼らの得意分野だった。騎士達の様子に、ニクラウスが恐怖心を覚える。ここでようやく、自分が強者の地位から転落したことを理解した。今後、何をされるか……恐怖で震える。その下肢がじわりと濡れた。高価な絹は肌に張り付き、濡れて色を変える。「うわっ、汚いな」「仕方ないだろ、獣以下のクズだ」 叩きつけられ
last updateLast Updated : 2025-11-11
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10.家族と一緒がただただ嬉しい

 ロイスナー公爵家の馬車は走る。一番後ろの荷馬車が遅れ、護衛の騎士を二人付けて速度を緩めた。彼らを残し、先を急ぐ一行の正面から騎馬の一団が現れる。他領を通り抜けている途中のため、街道の整備状態は悪かった。土埃を巻き上げる一団は、馬車のために道を空ける。 彼らの掲げる紋章を見て取った御者が、声を張り上げた。「公爵閣下、ロイスナーの騎士団です」 国境付近に位置するため、ロイスナー公爵領には騎士団が常駐していた。国ではなく公爵家に忠誠を誓う彼らは、速度を落とした馬車の手前で馬から飛び降りる。少し通り過ぎたところで、ゆっくりと馬車が止まった。「お父様、領地の騎士が来てくれたのですか?」 ガブリエルは無邪気に尋ねる。『前回』を覚えていないのは、彼女にとって幸いなのだろう。あのような凄惨な記憶があれば、心が壊れてしまう。泣きそうな顔をするラファエルは、母ミヒャエラにしがみついた。ぽんぽんと背中を叩くリズムに、深呼吸して感情を立て直す。「ああ、迎えに来たようだ」 自身にそっくりな黒髪を撫でて、公爵は馬車を下りた。その先で話し始める。ガブリエルは嬉しそうに頬を緩めた。王城へ行くようになって、あまり触れあえていなかった。髪を撫でる仕草や一緒に過ごす時間、すべてが新鮮で嬉しい。 ミヒャエラを振り返れば頷くので、ガブリエルは父の後を追って下りた。馬車に同行した王都邸の騎士が抱き上げ、下ろしてくれる。彼は従兄の一人だった。「ケヴィン兄様、ありがとうございます」 お礼を言って走った。追いついた父が、振り返って腕を差し出す。抱き着いて見上げた。娘を愛おしいと見つめる青い瞳に、嬉しくなったガブリエルも笑顔を返す。 領地の騎士の一部が目元を涙で濡らした。何かしら? 久しぶりだから懐かしいとか? 首を傾げたガブリエルの上で、ヨーゼフが首を横に振る。察した騎士達は口を噤んだ。「お迎えに上がりました。公爵閣下、お嬢様」「ご苦労」「お久しぶりです、皆さま」 綺麗にスカートの端を摘まんで挨拶する。公爵家の騎士団は、王都と領地の警護に分かれている。それ以外に、国にも貸し出されていた。国の財政が厳しく、豊かになったロイスナー公爵家を王が頼ったのだ。従兄弟という関係のヨーゼフは、王の願いを聞き入れた。 ロイスナー公爵領が潤ったのは、先々代からだ。ヨーゼフの父の代で、やっと金の工面
last updateLast Updated : 2025-11-11
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