LOGINガブリエルは困惑していた。お父様もお母様も、弟のラファエルまで一緒になって「もう王城へいかなくていい」と口にする。そんなことをしたら、叱られてしまうわ。
「誰にもお前を傷つけさせない。頼むから聞き分けてくれ、リル」
親しい人だけが呼ぶ愛称が、耳に優しい。たとえ声を
しばらくは危険だから、屋敷から出ないことも言い含められた。すぐにでも領地へ戻る準備をする、父の言葉にガブリエルの気持ちは浮き立った。領地なら叔父様達もいる。
素晴らしいことに思えた。ロイスナー公爵家の領地は国の端だから、追いかけてこないでしょう。嬉しくなったガブリエルの表情が明るくなる。そんな娘の様子に、ヨーゼフは眉根を寄せた。
やはり、という気持ちが強い。王城でつらい思いをしていたのだろう。おそらく『前回』も同じだったはず。政略結婚の意味を理解するガブリエルは、我慢していた。つらい思いを口に出せず、呑み込んで……四年後に我々は裏切られる。
「領地へ行く準備をしなさい。二人とも、荷物は二箱までだ。それ以外の荷物は後で運ばせる」
いつもより厳しい声に、ガブリエルが首を傾げた。二箱? 明らかに少ない量だが、最低限の着替えだけ詰めればいい。それ以上の荷物は馬車の速度を遅らせる。今は王城から離れることが先決だった。距離を取り、何かあってもすぐに手が出せない状況を作る必要がある。
ヨーゼフの目配せを受け、ミヒャエラがぽんと手を叩いた。ガブリエルとラファエルの注意を引き、笑顔を作って二人を焚きつける。
「勉強道具はいらないわ。着替えや身の回りの物を優先してね。どちらが先にできるか、競争よ」
「競争? 負けないわよ」
「ぼ、僕だって」
覚えていないガブリエルは、控えていた侍女バネッサの手を取って衣装室へ向かう。ラファエルも自室へ駆け戻った。二人が荷物を作る間に、出かける準備を整えなくては。ミヒャエラは侍女達に指示し、装飾品から包ませた。
高価な飾り物や絵画はすべて地下室へ運ばせる。王家が攻め込んでくる危惧があるからだ。地下ならば、上の屋敷を焼かれても残る可能性があった。ドレスなどは梱包し、後で荷馬車に運ばせる。
玄関ホールに使用人達を集め、領地へ引き揚げる説明をした。王都に家族のいる者は残ってもいい。もし家族ともども領地へ引っ越す覚悟があれば、受け入れる旨を伝えた。老齢の執事が一礼し、使用人の管理を請け負う。使用人の半数近くが涙ぐんでいた。
「奥様、私も連れて行ってくださいませ。何も未練はございません。あのような暴挙、女神様への背信、すべてに愛想が尽きました」
侍女長であるイレネが申し出た。その言葉に、ミヒャエラが目を見開く。隣に立つ夫を見上げれば、ヨーゼフも驚いた表情を隠さなかった。
「お前達は……その……」
「女神様が仰せになった言葉、お叱りのすべてを覚えております。あの日、お助けできず申し訳ございませんでした」
阻まれて近づけなかった。声の限りに叫んだが届かなかった。そんな言葉は言い訳に過ぎない。事実として、公爵家のご一家は処刑されてしまったのだから。代表して謝罪した執事ブルーノに続いて、イレネや侍女達も頭を下げた。何人か状況の掴めない者がいるようだが、記憶を共有していないのだろう。
記憶の有無の差は気になるが、まずは脱出優先だ。ヨーゼフの命令に再び頭を下げ、使用人達は大急ぎで手配を始めた。荷馬車も必要だが、まずは公爵家のご家族を領地へ送り届けること。屋敷の処分や家具の搬出はその後の手配でも構わない。
優先順位を確認し、ブルーノは大仕事に取り掛かった。
がたごとと揺れる馬車は乗り心地が悪い。荷馬車なのだから当然だが、護衛の騎士が気遣う視線を寄越した。ロイスナー公爵家王都邸の執事を務めるブルーノは、今日二回目の休憩を指示した。荷馬車には、王都邸から運び出した様々な品物が載っている。 貴金属類は主の馬車で出発した。残された荷物が、数十台の荷馬車となって連なる。その後ろに、王都を逃げてきた一団がいた。休憩のたびに、ブルーノは馬車や使用人の状況を確認しに回る。騎士の一人が同行した。故障個所や不具合があれば、申告するよう命じていく。 青空は白い雲がいくつか浮かび、それでも雨の降る様子はない。この分なら、領地に入るまで天候は持ちそうだ。あと三日もあれば、領地の端に到達するだろう。そこから先は、路面が改善される。 街道自体は国の管轄でも、実際に管理するのはそれぞれの領主だった。そのため領主の裁量次第で、路面状態が変わる。雨で轍が出来ても放置する領主もいれば、丁寧に舗装して草刈りまで行う領主もいた。その差で、進行速度が大きく変わる。 王都から公爵領までの間に、三人の領主がいた。王都に近い子爵家はきちんと整備をしており、大雨の後に小石を撒くなど対策が成されている。侯爵家と伯爵家は、街道に手を加えることはなかった。ただ領地を横切るだけの道と認識しているらしい。 この街道を整えるだけで、商人の行き来が増えて領地が潤うというのに。主人であるヨーゼフの采配を見て知るブルーノは、やれやれと首を横に振った。王都から離れるほど、道が悪くなっていく。先月の大雨の影響で、轍は深く車輪を取られて滑る状況だった。「こちらの車輪は、もう限界です」 大きな穴に落ちたのか、歪んで木が割れていた。荷馬車の車輪は木製が多く、割れると修復できずに交換となる。後ろに機材や交換用具を積んだ荷馬車がいるため、職人が大急ぎで作業に入った。休憩時間は予定より長くなるだろう。ならば食事を取らせるか。「各自、交代しながら食事を済ませてくれ。次の町は止まらずに通過する」 ブルーノの指示で、侍女がお茶の支度を始める。一般的な旅の食事は、干して乾燥させた肉や魚、野菜を煮るスープとパンのみだ。お茶を配り始めたことで、使用人達も
アードルフから事前に聞いていたこともあり、主だった使用人達は『前回』を知っていた。記憶を持つ者は全体に少なく、覚えている内容も処刑のことは抜けている。こちらでの日常が突然途切れ、女神の言葉を聞いて知った。その後、新しく戻った人生を歩み始めた感じだろうか。 状況がわからぬまでも、ケヴィンやカールも『前回』の存在は知っていた。あの時期、二人は領地にいた。公爵家と父の話を聞き、馬を駆っていたところで記憶が途切れている。おそらく間に合わないまま、途中で女神が介入したのだろう。そう結論付けた。「つまり、記憶の有無だけでなく……内容も個々に違うのか」 ヨーゼフが唸るように呟く。アードルフは、判明している事実を手帳に書き記した。いずれ、彼の手帳が役立つ日が来る。今はまだ穴だらけのパズルも、すべてのピースが埋まる日を信じるしかなかった。女神の想いや考えを、人が推し量ること自体が不遜なのだから。「まず承知しておいてもらいたい。ガブリエルだけが記憶を持たない。まだ話す時期ではないが、親である私かミヒャエラから説明するつもりだ。それまであの子の耳に入れないでくれ」「承知いたしました」 代表してアードルフが答える。『前回』に関する記憶の共有をした使用人達の幾人かが、ここで涙を零した。本邸の侍女頭アブリルもその一人だ。孫のように愛し見守るお嬢様が、罪人扱いされて処刑された。さぞ怖かっただろうと泣いたのは、つい数日前だ。アブリルには、やり直した記憶が残っていた。 罪状や処刑についての詳しい記憶はなく、屋敷の廊下を歩いていて立ち止まったところでやり直しとなった。女神の言葉は届いている。だから大事なお嬢様が恐ろしい目に遭ったことは承知していた。その記憶を持っていないことは、お嬢様への恩情なのではないか。アブリルはそう捉えた。 女神アルティナ様は、お嬢様を助けて下さった。あの愛らしい笑顔が曇らないよう、恐ろしい記憶を消したのだ。手を組んで祈りを捧げた。もう一度お嬢様に仕えることができる幸運と、公爵家の皆様が無事であることへの感謝を祈りに込める。王都邸の侍女長イレネも、隣で手を組んで祈っていた。「小公爵様は、記憶をお持ちなのですか?」
叔父や騎士団一行が「帰りたい」と叫んでいた頃、何も知らないロイスナー公爵家は穏やかな日常を取り戻していた。 王都から帰った翌日は宣言通り、お昼過ぎまでしっかりと休む予定だ。楽な寝台馬車でも、街道で揺られる移動は体力を消耗する。同行した侍女達も二日間の休暇を与えられた。王都邸から本邸へ戻れば、侍女の手は足りている。交代で休暇を取っても、支障なかった。 家令アードルフは、公爵夫人ミヒャエラから宝飾品を受け取る。二人で開いて中を確認し、頷き合って専用の部屋へ片づけられた。欠品がないか確認する作業は、信頼の上で成り立つ。万が一の紛失や盗難があった際、事前の作業一つで使用人を疑わずに済むのだ。 普段使いする装飾品は、各自の部屋へ運ばれる。ガブリエルの部屋もそのまま残されていた。王太子の婚約者に決まってから、一度も戻れなかった部屋。懐かしさに「うわぁ、久しぶりだわ。変わってない」とガブリエルの目が輝く。 数年のことなのに、高さが合わなくなった机や椅子が擽ったい。「セシリオに言って、手配してもらいましょう」 ミヒャエラの提案に、ガブリエルは素直に頷いた。新しい家具ではなく、この家具を手直ししてほしいと伝える。以前は特に思い入れのなかった机も、不思議と大切に思えた。「あなたがそうしたいなら構わないわ」 受け入れたミヒャエラに、ガブリエルは満面の笑みで応える。隣にある自室で着替えたラファエルが合流し、笑いながらベッドに飛び込んだ。到着した日の夜は、家族だけで食事をした。「ずっと、こうしたかったの」「ええ、知っていたわ。ごめんなさいね」 王太子妃教育で、毎日大変だった。年下のラファエルに合わせて、母ミヒャエラは食事を済ませてしまう。遅くに帰ってきた娘と、父ヨーゼフが食卓を囲んだ。従兄のケヴィンが同席することもあったが、家族四人が揃うことはない。 ガブリエルはそれが悲しかった。好きでもない相手、それも自分を嫌って意地悪をする人と婚約している事実も。将来そんな相手と暮らすことになる現実も。すべてが嫌でたまらない。訴えてどうにかなる問題ではないと知っていたから、我慢していただけ。
財務大臣ボルマン子爵が亡くなった。そのニュースが王都に広がり、民は暴動による死傷者ではないと知って胸を撫で下ろす。もし貴族が騒動に巻き込まれて亡くなったなら、誰かが罪を背負うことになる。家族にまで咎が及ぶ可能性もあったのだ。 慎重に行動するべきだ。民の中で、静かにその意識は共有された。「国王陛下、申し訳ないが……働いていただきたい」 いろいろ悩んだ結果、バーレ伯爵は一番簡単で確実な解決方法を選んだ。人手が足りないなら、監禁中の有能な方々に手を貸してもらえばいい。逃げる様子はないし、下手に閉じ込めると今度は暗殺される。状況が混沌としすぎて、手に負えないのが正直な感想だった。「承知した」 グスタフ王は本来、蒙昧愚鈍な王ではない。忙しさに押されて確認を怠ったが、減税や施策を次々と打ち出し、宰相とともに国を動かしてきた。暗殺犯の捜索に専念したいと言われれば、それ以外の業務を引き受ける。 本来、騎士団の仕事に国の運営は含まれないのだから。バーレ伯爵に能力が足りないのではなく、知識と能力、適性の観点から適材適所の状態に戻るだけだ。「ヤン、過去の資料を遡るぞ! 我らの施策を捻じ曲げた輩をあぶり出せ」「かしこまりました。聞きましたか? 各部署の書類を集めてください」 グスタフ王の号令で、宰相ヤンが動き出す。各大臣達も部下に命令を出した。一年ずつ遡り、どこで中抜きが始まったかを探る。それと同時に、晩餐会が行われる食堂を執務室として利用した。 財務大臣ボルマン子爵の暗殺があったのだ。全員が同じ部屋に集まり、飲食も監視し合うのが安全への鍵となる。今までの執務室は個々に与えられていたため、騎士同伴で書類や道具を取りに向かった。その間に食堂のテーブルなどの配置が変更される。 使いやすいよう長テーブルを作業用に使い、長時間の机仕事に合わせて高さを調整した。そのうえで椅子も交換される。他の部屋から運ばれたソファーは休憩用に、棚がないため書類を積むテーブルも持ち込まれた。 着々と準備が進む中、大臣達が部下と書類を伴って戻る。すぐさま確認作業に取り掛かった。監視というより護衛に兵士を
翌朝の王宮に、悲鳴が響いた。駆けつけた騎士カルロスは、開いた扉の中で血を吐いて倒れる男を見つける。その手前に立つ青ざめた侍女が、悲鳴の主だろう。その足元はびしょ濡れで、ひっくり返った洗面器やタオルが落ちていた。「失礼する!」 声を掛けて入室し、倒れた男の首に指を当てる。脈を確認するまでもなく、白い肌は硬直を始めていた。客間が並ぶこの一角は、王や宰相、大臣などの重要人物を隔離している。形は監禁だが、扉に鍵は掛けなかった。 同じ廊下に接する客間を使用することで、監視の人員を省いたのだ。騎士団副官アンテス子爵の判断だった。廊下の端と端に騎士が立てば、外からの侵入経路は窓だけだ。窓の下に二人配置することで、侵入を防いだ。監禁というより、重要人物の保護が目的だった。 カルロスは『前回』の記憶を持たない。同僚や上司から話を聞いただけだ。それでも、騎士団長であるバーレ伯爵が殺されかけた話には憤った。ロイスナー公爵家が処刑された話に涙した。王太子や聖女という女に怒りはあるが、王自身への悪感情はない。 きちんと職務を全うしたはずなのに、身支度用の水とタオルを持った侍女が入った途端の騒ぎに愕然とした。すぐに駆けつけたアンテス子爵が指揮を執り、他の部屋も確認される。「何があったんですか?」 宰相ヤンが不安げに尋ねる。騎士達は濁さず、わかっている事実だけを伝えた。死んだのはボルマン子爵で、まだ調査中だと。安全のために、王を含めた大臣達と一部屋に集まるよう伝えた。「そう、ですね。安全のために同室のほうがいいでしょう」 身支度や寝る際は仕方ないが、起きてから寝るまで。食事の間も出来るだけ同じ部屋にいるほうが、護衛も守りやすい。ヤンが他の大臣を説得し、王が滞在する一番広い客間へと移動を始めた。 この段階になって、ようやく騎士団長バーレ伯爵が到着する。早朝から王都の見回りに出ていたため、騒ぎを知ったのは門へ戻ってからだ。ついでに城門を直す算段をつけた帰りだった。「どういうことだ? ヴィリ」「財務大臣のボルマン子爵が殺害されました。まだはっきりしませんが、毒殺の可能性が高いと思われます」
寛容で民を思いやる主君が、世界にどれだけいるのか。稀有な王に仕える己の幸運に感謝したのは、ほんの数年前だった。忙しく、なかなか休暇も取れない。大量の書類に埋め尽くされた日々だった。それでもグスタフ王に不満はない。 財務大臣として必死に財政をやりくりした。民のための減税に賛成した以上、苦労は望むところだ。これで民が楽になると信じていた。誰もが必死で国に人生を捧げてきたのに、騙されていた? 誰かが民から搾取し、国に嘘をついて金を呑み込んだ。「何を信じたらいいのか……」 もうわからない。押しかけた民衆の姿に嘘はなかった。怒りと憎しみを湛えた眼差し、身支度に金をかける余裕のない切迫振り、厳しい指摘の声。どこで、いつから、何を間違えたのか。財務大臣を務めるボルマン子爵は肩を落とした。 ヤン宰相が話していた『前回』を知らない。記憶にないと表現するのが正しいだろう。ヤンが説明した話に驚き、何も言葉が見つからなかった。公明正大なロイスナー公爵が、家族も含めて処刑された? 公爵令嬢は王太子殿下の婚約者だったはず。 茫然としながら事実を確認するボルマン子爵に、外務大臣を務めるプロイ伯爵が説明を始めた。プロイ伯爵は『前回』の記憶を持っているという。女神様の断罪とやり直しを命じる声、まばゆい光、どちらもボルマン子爵には与えられなかった。「俺は選ばれなかったんだろうな……それもそうか。数字に長けていると思い込み、税を誤魔化された事実を見落としたのだから」 おそらく『前回』も同じ事件が起きたのだろう。それらの罪をロイスナー公爵家に負わせた犯人がいる。この騒動の原因となった人物……王太子殿下ではない。あの方はそれほどの知識も知恵も持たない。そこまで賢ければ、グスタフ王も悩む必要がなかったのだから。ならば、誰だ? 監禁された部屋は、客間が使用された。用意された食事を押しのけ、見つけたペンにインクを吸わせる。一緒に引き出しに用意された便箋に名前を記した。 善悪関係なく、税収に関与できる立場の者を並べる。グスタフ王から始まり、部下の文官まで。ずらりと並んだ名は数十人程度だ。さらに、強要して動かせる立場の強い者を書き連ねた。騎士団長や外務大臣など、普段は