愛への裏切りは許せない のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

25 チャプター

第1話

「あなた、三年付き合っている彼氏がいるんじゃなかった?今年は彼を親に紹介するって言ってたのに、どうして彼氏をオーダーメイドなんてするの?」小林千秋(こばやし ちあき)は手すりにもたれかかり、淡々とした声で答えた。「別れたの」電話の向こうの女性は少し驚いたようだったが、ほんの一瞬間を置いただけで、冗談めかして言った。「大丈夫、うちの会社は『オーダーメイド彼氏』業のプロだから。男なんて腐るほどいるし、タイプも選び放題。半月待てば、丁度いい感じの男たちの社員研修が上がる頃よ」千秋は顔を上げた。ドローンで描かれた巨大なバラが、今も空に咲き誇っている。しばらくして、彼女は小さく答えた。「わかった」その言葉が終わらないうちに、背後から慌ただしい足音が聞こえてきた。千秋は小声で何かを呟くと、電話を切った。彼女は振り返った。池田昴(いけだ すばる)の姿が視界に入る。あの傲慢さを帯びた顔には、焦りの色が濃く浮かんでいる。「千秋、どこに行ったの?出かける時は一言、言ってくれよ。何度も探したんだ……見つからなくて、本当に心配したんだから」昴はそう言いながら、自分の上着を脱いで千秋に羽織らせた。「今は寒いのに、上着も着ていないなんて。風邪をひいたらどうするんだ」最後のボタンを留め終えると、彼は立ち上がり、千秋の鼻先を指で軽くつついて、優しく言った。「よし、これで俺の千秋はもう寒くないな」千秋が顔を上げると、まっすぐに愛情のこもったその瞳とぶつかった。隠すことも、偽ることもないまなざし。だが、裏切りだけは紛れもなく現実なのだ。昴は再び千秋の手を取り、自分の手の中に包み込み、温めるようにそっと擦った。「そういえば、さっき何かを探してるって言ってたけど、俺も一緒に探そうか?」彼女は表情を変えず、そっと手を引き抜き、淡々と答えた。「たいしたことじゃないわ。親友の飼い犬がいなくなったので、探してるの」昴はわずかに眉をひそめた。「静江って、犬を飼ってなかったはずだろ?」千秋は顔を上げ、静かな目で昴を見つめた。「私が言ってるのは静江のことじゃないわ。それに……」一旦言葉を切ると、また聞き返した。「どうして、彼女が犬を飼ってないって知ってるの?」その言葉が出たとたん、空気がぴたりと止まった。
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第2話

個室に入ると、昴は袖をまくり上げてそのまま厨房へ向かった。しばらくして戻ってきたとき、手にはお皿を持っていた。「ホットケーキができたよ!」彼はケーキを千秋の前にそっと置き、フォークを差し出して、機嫌を取るように言った。「千秋、味見してみて。どうかな?」千秋はホットケーキを見つめ、少しぼんやりとした表情を浮かべた。香り高く、色合いもはっきりとしたそのケーキは、最初のころのように黒く焦げたりしてはいない。そう思いながら、彼女はふと口を開いた。「ねえ、人もケーキみたいに変わっていくものなのかな?」昴はどこか様子のおかしい千秋を見て、慌ててケーキをテーブルに置き、膝をついて彼女の前にしゃがみ込んだ。「千秋、何かあったの?」手がそっと握られ、千秋が顔を伏せると、心配そうな彼の瞳がまっすぐに見つめ返していた。「さっき……カップルが言い争っているのを見たの。理由は……」千秋は目を閉じ、胸の奥に渦巻く感情を必死に押し殺した。再び目を開けたとき、その瞳は澄みきっている。「男の方が浮気したの。彼は口では彼女を愛していると言いながら、陰では裏切っていた。付き合ってまだ数年しか経っていないのに、彼は周りから恋愛バカだと言われるほど彼女に夢中だったのに……それでも心変わりしたの」そう言いながら、千秋は視線を落とし、昴の顔をじっと見つめた。まるでその心の奥を見透かそうとするように。「昴、男の人ってみんな変わってしまうの?」昴のまつげがかすかに震えた。次の瞬間、彼は千秋の両手を自分の胸にそっと当て、真摯な声で言った。「違うよ、千秋。約束する。俺は絶対に心変わりしない。この先どんなことがあっても、愛するのはお前だけだ」「私だけを愛してるの?」「そうだよ、俺はお前だけを愛してる。もし俺が……」「お邪魔しまーす?」個室のドアが突然開いた。ワインレッドのキャミソールワンピースを着た女が、艶やかに笑いながら中へ入ってくる。その声が響いた瞬間、千秋は昴の体がわずかにこわばるのをはっきりと見かけた。河野静江(かわの しずえ)はまっすぐ千秋の隣に腰を下ろした。彼女が座るやいなや、昴は気まずそうに立ち上がり、軽く咳払いをした。「えっと、千秋、急に思い出したけど、まだ折り返してない電話があってさ……ちょっと外でか
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第3話

その夜、千秋はほとんど眠れなかった。階下では、少女の声に不満が滲んでいた。「お兄ちゃん、もうお昼なのに、あの女まだ起きてこないの?」「やめなさい。なんて言い方をするんだ。あの女じゃない、お義姉さんと呼びなさい」昴の顔には不機嫌な色が浮かんでいた。「橙子よ、今日はっきり言っておく。これからもそんな態度を続けるなら、もうここへは来ないでくれ」その言葉を聞くや否や、妹の池田橙子(いけだ とうこ)は怒りをあらわにして立ち上がり、昴を指差した。「昴、あなた、あの男たらしのために……」パシン——鋭い音が部屋に響いた。「もういい」昴の瞳には怒りの色が宿っていた。「橙子、俺はお前を甘やかしすぎたようだ。千秋は俺が心から愛する人だ。俺でさえ彼女に強い言葉をかけることはないのに、お前はよくもそんな口をきくな。いったい何を考えているんだ?本気で俺と兄妹の縁を切るつもり!?」周囲の空気が一気に重くなった。誰も、いつも妹を甘やかしていた昴が手を上げるとは思ってもみなかった。階段の踊り場に立つ千秋は、進むことも退くこともできずに立ち尽くしていた。最初に彼女に気づいたのは橙子だった。この状況では、千秋はもう立ち去ることもできない。橙子は打たれた右頬を押さえながら言った。「千秋、私はあんたを義姉さんなんて絶対に認めないから!」千秋は何事もなかったように階段を下りた。「うん、分かったわ」彼女は手を上げて執事を呼びつけ、自分の好物をいくつか言い渡し、できるだけ早く用意するように頼んだ。少しお腹が空いていたのだ。その落ち着き払った千秋の様子を見て、昴の胸にふと不安がよぎった。彼はそっと彼女の手を取り、慎重に尋ねた。「千秋……怒ってるのか?」千秋はふっと笑みを浮かべ、首を横に振った。「いいえ」以前の彼女なら、橙子のきつい言葉を聞けば少なからず傷つき、ましてや平然と食事などできなかっただろう。だが、それもすべて橙子という身分ゆえのことだった。今では、彼女と昴は別れることになっている。そんな今となっては、もう自分には関係のないことだ。千秋が静かであればあるほど、昴の胸のざわめきは増していった。さらに問いかけようとしたその時、使用人が突然近づいてきた。「若様……」使用人は千秋に一瞥
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第4話

外は次第に暗くなり、いつの間にか小雨が降り始めていた。千秋は窓辺に立ち、どこか物寂しげで孤独な雰囲気を漂わせていた。昴がどんなに工夫して彼女を笑わせようとしても、千秋の表情は相変わらず沈んだままだった。昴は、もしかして彼女が体調を崩しているのではと心配になり、すぐにかかりつけ医を呼び寄せた。念入りな診察の結果、特に異常はないとわかり、彼はようやく胸をなで下ろした。あれこれ考えた末、昴は原因を橙子にあると判断した。彼は表情を引き締め、使用人たちに今後橙子を屋敷に入れないよう厳しく命じた。それらを済ませたあと、昴は千秋をなだめて昼寝をさせた。ゴロゴロ――閃光と同時に、雷鳴が轟いた。千秋は驚いて飛び起き、時計に目をやり、立ち上がって階下へ向かった。階段の踊り場に差しかかったそのとき、右手の休憩スペースから響いた悲鳴に足を止めた。彼女はゆっくりと歩み寄り、ガラス越しに見えたのは、目を覆いたくなるような光景だった。昴は片手で静江の口を押さえ、もう一方の手で彼女の体をまさぐっている。「そんなに大きな声を出すな、千秋は寝てるんだ」静江は頭をのけぞらせ、昴の動きに合わせて脚を震わせながら、途切れ途切れに息を漏らした。「ん……あっ……わ、わたし……もう我慢できない……お願い、少し……優しくして……言ったでしょ、雨宿りに……来ただけなのに、あなたが……その……あっ……」昴の動きがさらに激しくなり、静江の言葉は喉の奥で途切れ、残ったのは本能的な吐息だけだった。「雨宿りか?それにしては、ずいぶん挑発的な格好だな!」静江は手を伸ばして昴の首に腕を回し、顔を上げてガラス越しに視線をやった。その瞬間、瞳孔がわずかに縮み、次いでに口角を上げて笑みを浮かべる。挑発的で、どこか嘲るような笑みだった。「じゃあ、あなたはこういうのが好きなの?気に入らないなら、次はやめておくわね」「そんなこと、許すと思うか!」「んっ……や、やめて……」千秋は爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、必死に自分を抑えて寝室へと戻った。窓を開けると、冷たい雨が風に乗って容赦なく身体に打ちつけてくる。去年も、ちょうどこんな天気だった。薄着の少女が雨宿りを口実に昴のベッドに入り込もうとしたが、彼は人を呼んでそのまま追い出させたのだった。
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第5話

千秋が顔を上げると、ミルクを手に慌ただしく歩いてくる昴の姿が目に入った。大きく動いたせいでミルクが手にこぼれたが、彼は気にも留めず、ミルクを脇に置くと、緊張した面持ちで千秋の手を掴んだ。「千秋、誰の彼氏に会おうとしてるんだ?」そう言いながら、昴は彼女のスマホを覗き込もうとした。その声が聞こえたのか、電話の相手はすでに通話を切っていた。千秋は表情を変えずに、昴の手からスマホを取り返した。「女友達よ。最近彼氏ができたって言うから、どんな人か見て意見を聞かせてって頼まれただけ」昴はしばらく千秋を見つめた。嘘の気配がまったくないのを確認すると、張り詰めた緊張がふっと解け、彼は彼女を強く抱き寄せた。その声には、かすかな震えが混じっていた。「千秋、さっきは本当に心臓が止まるかと思ったよ……お前が俺に隠れてほかの男に会ってるんじゃないかって……」千秋の視線が無意識に遠くへと逸れる。「ただ会うだけよ。どうしてそんなふうに思うの?それとも……あなたこそ私に隠して誰かと会っているの?」「絶対にない!」千秋の言葉を最後まで聞かせまいと、昴が強く抱きしめながら遮った。「千秋、お前も知ってるだろ。俺の心にはお前しかいない」少し考えてから、昴は千秋の体を自分のほうへ向け、不安そうにもう一度懇願するように言った。「千秋、愛してる。本当に、心の底からお前を愛してる。お前のいない日々なんて想像もできない。ましてお前のそばにほかの男がいるなんて……俺、きっと狂ってしまう。千秋、お願い、どうか俺を捨てないでくれ」熱を帯びた視線を受けながら、千秋はただ静かに微笑んだ。「わかったわ」その返事を聞いた昴は、何とも言えない感情に包まれ、胸の奥がひどくざわついた。違う、何かがおかしい。ここ最近の千秋の感情の揺れが、昴に言いようのない不安を抱かせていた。原因が分からず、彼はよりしっかりと彼女を見張るしかない。それから数日間、昴は一歩も離れずに千秋のそばにいた。だが、再び彼のスマホに絶え間なく電話とメッセージが届き始めたとき、画面を見ていた昴の瞳に、驚きの色が一瞬走った。眠っている千秋を一瞥し、そっと毛布を掛け直すと、昴は静かに立ち上がり部屋を出た。寝室のドアが閉まったその瞬間、千秋の瞳がゆっくりと開いた。ここ数日、昴は千
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第6話

千秋はどうやって家に戻ったのか、自分でもよく覚えていなかった。寝室に閉じこもって、夕食の時間になって使用人が尋ねに来ても、お腹すいてないとだけ答えた。真っ暗な部屋の中で、スマホの画面がふっと明るくなる。静江からのビデオ通話だ。千秋は指がこわばったまま、わずかに動かし、ついに通話ボタンを押した。画面の向こうで、スマホがどこかに置かれているようだ。映ったのは、マタニティドレスを着てソファに座る静江の姿。ほどなくして、画面の端から男のズボンが映り込み、その上に昴の傲然とした顔が現れた。執事が数人の若い女性を伴ってそばに立ち、「ご依頼の管理栄養士をお連れいたしました。どちらになさいますか」と口を開いた。昴は顔を上げ、質問しようとしたその瞬間、静江が鼻で笑うのが聞こえ、彼は眉間に深いしわを寄せた。「またどうした?」「私がとやかく言えることじゃないわ。栄養士を探せば、みんな若くてきれいな子ばかりじゃない?だったら昴さん、いっそ全員雇えばどう?」昴はさらに眉間にしわを寄せ、静江を抱き寄せながら執事に手で合図を送り、全員入れ替えるよう指示した。そして使用人たちに向かって言った。「見たか?これからこの別荘のことは、彼女が決めるんだ」千秋はスマホをぎゅっと握りしめ、言葉にできないような苦い感情が胸の奥で渦を巻いた。もしかすると、昴自身はまだ気づいていない。自分の心が、すでに別の人に惹かれていることを。彼女はぜひ昴にこの目で見てほしいと心から願った。彼のいわゆる「本心」というものは、いったい何人に分け与えられているというのかを。千秋の瞳が涙で曇った。それでも彼女は震える指を伸ばして、録画ボタンを押した。ベッドに寄りかかってそのまま床に滑り落ちると、目を閉じた瞬間、堪えていた涙が頬をつたった。もうすぐだ。もうすぐ、家に帰れる。しばらくして。録画中のビデオ通話が、玲子からの電話で中断された。彼女は、千秋が午後どうして来なかったのかを尋ねた。千秋は手で目を覆い、数秒息を整えてから、午後は用事があったので明日行くと答えた。昨日の約束を破ったこともあり、千秋は翌朝早くに家を出た。カフェの中では、冷ややかな面差しの男が窓際に静かに座っていた。黒の仕立ての良いスーツを身にまとい、端正な輪郭とともに、気品と成熟を漂わ
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第7話

その後の数日間、昴は毎日早朝に出かけ、夜遅くに帰ってきた。千秋への説明は「最近とても忙しいから」だった。では、いったい何に忙しいのか。千秋は静江から送られてきた動画や写真でその答えを見た。エプロンをつけた昴、子どもに物語を語る昴、そして静江に口づけをする昴――千秋は穏やかな表情のまま、チャットの履歴を淡々とスクロールしていた。その瞳には、感情の揺らぎが一切なかった。クリスマスイブの日、昴はようやく仕事を片づけた。池田家のしきたりでは、昼には一族が本家に集まり食事を共にすることになっている。千秋が階下に降りたとき、昴はちょうどネクタイを締めているところだった。彼女はちらりと彼を一瞥し、すぐに視線をそらした。その表情を見た昴の胸が、ふと痛んだ。笑みがこわばり、しばらく言葉が出てこなかった。千秋は彼に対して、どこか冷たくなったように見えた。その冷たさが、昴を不安にさせた。かつては甘えたり拗ねたりしながら、いつも笑顔を絶やさなかった千秋が、今はまるで別人のように、疲れた表情で距離を置いている。昴はいつものように千秋を抱きしめて慰めようとしたが、彼女はさりげなく身をかわした。「もう時間よ。出かけたほうがいいわ」そう言うと、背後の昴がどんな表情をしているかも気にせず、千秋はそのまま踵を返して去っていった。外では時おり花火の音が響く。千秋はソファに腰を下ろし、スマホの画面に映る道程が早朝からの【メリークリスマス!】というメッセージを眺めていた。あの日にLINEを交換して以来、道程はまるで本物の恋人のように振る舞い、時々連絡を寄こしては近況を報告したり、日常を共有したりしていた。そのこともあって、千秋は玲子に電話をかけ、あなたの会社の社員は本当に優秀ねと褒めた。玲子はそれを聞いても特に肯定も否定もせず、軽く笑って、千秋がそう思うなら、それでいいじゃないとだけ答えた。メッセージウィンドウに通知が表示された。【今、実家から戻ったところだ。毎年この時期は、仕事よりずっと疲れる】千秋は道程から届いたそのメッセージを見つめ、どこか違和感を覚えた。何が引っかかるのか考える間もなく、玄関から聞こえてきた声に思考を遮られる。昴が帰ってきたのだ。彼の後ろにはいつもの仲間たちがついており、千秋を見るなり口々に「千秋さん
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第8話

昴が深夜に戻ってきたとき、千秋はまだ玄関先に座っていた。彼女は固く目を閉じ、顔は異様なほど赤く染まっていた。その姿を見た昴は、心臓が止まりそうなほど驚き、慌てて千秋を抱き上げて部屋へ運び、すぐにかかりつけ医を呼び寄せた。意識が戻ると、千秋は重たいまぶたを少し持ち上げ、ゆっくりと目を開いた。そばで見守っていた使用人が、ちょうどよいタイミングで水の入ったコップを差し出し、感極まったように声をかけた。「小林さん、やっと目を覚まされましたね。このご病気で、若様は本当に気が気じゃなかったんですよ。丸一日中ずっとお傍にいて、さっき来客があってようやく席を外されたところです。すぐにお呼びしてきますね」千秋は手を軽く振った。「呼ばなくていいわ」千秋がそう言うと、使用人もそれ以上は言葉を続けられなかった。彼女はしばらく息を整え、体を支えながらゆっくりとベッドから降りた。スマホはまだ階下にある。取りに行かなければと思い、足取りもおぼつかないまま廊下へ出ると、応接室のほうからかすかな声が聞こえてきた。千秋はその声をたどって歩いていった。半分開いたドアの向こうでは、昴が脚を組み、片手をソファの肘掛けに置き、指に煙草を挟んでいた。口元には笑みを浮かべ、気軽な調子で会話を続けている。太陽はゆっくりと沈みかけていた。夜十時になっても、応接室からの話し声は途切れなかった。誰かが外で一晩過ごそうと提案したらしいが、昴はすぐにそれを断り、「千秋はまだ病み上がりだから、自分が看病しなければ」と言った。その隣にいた安生が小声で何かを言うと、昴の表情がわずかに変わり、しぶしぶ千秋のそばにいるのをやめる決心をした。彼は自分に言い聞かせた。どうせ千秋はまだ病気で眠っているのだから、自分がそばにいても何の役にも立たない。早めに戻ってくればいい、と。数人が笑いながら階下へ降りていった。昴が出かけた後、千秋はこの二年間に彼から贈られた服やアクセサリーをすべて取り出し、慈善団体に電話をかけて、引き取りの日時を約束した。夜の十一時、昴からメッセージが届いた。体調はどうか、今は外で用事があってしばらく帰れないから、大人しく休むように、と。千秋は返信しなかった。彼女は荷造りをすべて終え、二人で使っていた小物をゴミ袋に入れ、翌朝使用人に捨てるよう頼んだ。午
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第9話

個室の中。薄暗い明かりの下、空になった酒瓶がいくつもテーブルの上に散らばっていた。昴はシャツの襟元を緩め、ソファにもたれかかって気だるげな様子を見せている。その隣では、華やかな女が気を利かせて彼に酒を注いでいた。昴がグラスを受け取ると、女はそのまま彼の胸元に身を預けるように倒れ込んだ。「まあ、池田若様、すみません、ちょっとバランスを崩しちゃって」口では申し訳なさそうに言いながらも、女は立ち上がる気配を見せない。昴もそれを振り払うことなく、彼女の手が胸に触れるままにしていた。昴の黙認を感じ取ったのか、女の動きは次第に大胆になっていく。やがて彼女が目を閉じ、唇を寄せようとしたその瞬間、昴が動いた。彼は女を強く押しのけ、警告を含んだ声で言い放つ。「俺には家族がいるんだ。これ以上みっともない真似をしようなら、さっさと出て行きな!」彼は身なりを整えると、席を立って帰ろうとした。周りにいた数人の仲間がそれに気づき、昴にもう少し残るよう茶化しながら声をかけた。「昴、何を焦ってるんだ?まだこんな時間だ。もう少し遊ぼう!どうせ奥さんもこの時間は寝てるし、帰らなくても大丈夫だよ」昴は眉をひそめ、顔にはためらいの色が浮かんだ。だが、皆のしつこい誘いに押され、結局その場にとどまった。夜が明けると、昴は個室を後にした。周りが何を言っても、もうこれ以上は居られなかった。朝日が昇るにつれ、胸の奥に罪悪感が重くのしかかってくる。千秋はまだ病気が治っていない。少しは良くなったのかも分からない。彼は早く帰ってそばにいると約束していたのに、結局、家に戻ったのは翌日のことだった。彼女が目を覚ましたとき、自分がそばにいないことに気づいたら、どれほど悲しむだろうか。しかも、彼女は前の晩、自分の帰りを外で待っていたせいで風邪をひいてしまったのだ。今回は、さすがに自分が悪かったと昴は思った。苛立ちを抑えきれず、昴はハンドルを軽く叩いた。ふと視線を横にやると、助手席に置かれたタバコの箱が目に入った。それは仲間の誰かが置き忘れていったものだった。その箱を見つめながら、昴の胸にじわりと不満がこみ上げる。すべて安生たちのせいだ。もし彼らが昨日誘いに来なければ、話し込んで時間を忘れることも、無理やり外へ連れ出されることもなく、こんな時間に帰ることに
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第10話

昴はスマホを取り出した。画面にはいくつもの不在着信が表示されており、着信時間は朝の一時半だった。一時半――その時間、自分は何をしていた?仲間たちや酒席の女性たちとゲームをしていたのだ。ということは、彼女は怒っているのだろうか。自分が帰らなかったから。きっとそうだろう。そう思うと、昴の張りつめていた胸の痛みが少しだけ和らいだ。深く息を吸い込み、執事たちに下がるよう合図を送る。重い足を引きずりながら寝室に戻る。ほんの一時間ほどの間に、彼の心境はジェットコースターに乗ったように激しく揺れ動いていた。彼は小さくため息をつき、ベッドの縁に腰を下ろす。このところ、自分は千秋のことを確かに少し無視していた。この間の二人の関係を思い返すと、千秋の中にいくつかの変化があったことに、昴も薄々気づいていた。彼女の態度、仕草、そして感情までも……しかし、昴にもどうすることもできなかった。千秋と向き合うたびに、特に彼女のあの瞳を見つめると、いつも心の奥がざわつき、後ろめたさを覚えたのだ。その感情は彼を不安にさせ、罪悪感に苛まれ、逃げ出したい衝動に駆られていた。静江と関係を持ってからというもの、昴の毎日は常に不安と後悔、自責の念に揺さぶられていた。眠っていても夢の中でうなされ、飛び起きることもしばしばあった。長い間、彼は睡眠薬に頼らなければ眠れず、まるで背中に大きな山を背負っているようで、一歩進むごとに力を使い果たしてしまうような状態だった。昴は、千秋がどれほど自分を愛しているかをよく知っていたし、彼女が一切の裏切りを許さない性格であることも分かっていた。だからこそ、彼は苦しみ続けたのだ。やがて彼は気づいた。同じ空間に千秋がいなければ、心が少しだけ軽くなることに。それ以来、昴は無意識のうちに千秋を避けるようになっていった。彼は、こうすることで千秋に自分の裏切りが知られず、彼女が苦しむこともないと思っていた。外で自分の気持ちを整理できたあとなら、再び彼女を愛せる、いや、以前よりもっと深く愛せるはずだと信じていた。それが二人にとって最善の形だと考えていたのだ。しかし、昴には理解できなかった。ここまでやってきているのに、なぜ二人の関係は釣り合いが取れないのか。彼自身も、大きな重圧に押しつぶされそうだった。彼は仰向けに息を吐き出し、頭の中
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