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第4話

作者: 小雨さま
外は次第に暗くなり、いつの間にか小雨が降り始めていた。

千秋は窓辺に立ち、どこか物寂しげで孤独な雰囲気を漂わせていた。

昴がどんなに工夫して彼女を笑わせようとしても、千秋の表情は相変わらず沈んだままだった。

昴は、もしかして彼女が体調を崩しているのではと心配になり、すぐにかかりつけ医を呼び寄せた。

念入りな診察の結果、特に異常はないとわかり、彼はようやく胸をなで下ろした。

あれこれ考えた末、昴は原因を橙子にあると判断した。

彼は表情を引き締め、使用人たちに今後橙子を屋敷に入れないよう厳しく命じた。

それらを済ませたあと、昴は千秋をなだめて昼寝をさせた。

ゴロゴロ――

閃光と同時に、雷鳴が轟いた。

千秋は驚いて飛び起き、時計に目をやり、立ち上がって階下へ向かった。

階段の踊り場に差しかかったそのとき、右手の休憩スペースから響いた悲鳴に足を止めた。

彼女はゆっくりと歩み寄り、ガラス越しに見えたのは、目を覆いたくなるような光景だった。

昴は片手で静江の口を押さえ、もう一方の手で彼女の体をまさぐっている。

「そんなに大きな声を出すな、千秋は寝てるんだ」

静江は頭をのけぞらせ、昴の動きに合わせて脚を震わせながら、途切れ途切れに息を漏らした。

「ん……あっ……わ、わたし……もう我慢できない……お願い、少し……優しくして……言ったでしょ、雨宿りに……来ただけなのに、あなたが……その……あっ……」

昴の動きがさらに激しくなり、静江の言葉は喉の奥で途切れ、残ったのは本能的な吐息だけだった。

「雨宿りか?それにしては、ずいぶん挑発的な格好だな!」

静江は手を伸ばして昴の首に腕を回し、顔を上げてガラス越しに視線をやった。その瞬間、瞳孔がわずかに縮み、次いでに口角を上げて笑みを浮かべる。挑発的で、どこか嘲るような笑みだった。

「じゃあ、あなたはこういうのが好きなの?気に入らないなら、次はやめておくわね」

「そんなこと、許すと思うか!」

「んっ……や、やめて……」

千秋は爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、必死に自分を抑えて寝室へと戻った。

窓を開けると、冷たい雨が風に乗って容赦なく身体に打ちつけてくる。

去年も、ちょうどこんな天気だった。

薄着の少女が雨宿りを口実に昴のベッドに入り込もうとしたが、彼は人を呼んでそのまま追い出させたのだった。

彼は電話をかけて千秋を呼びつけ、少女に向かって言った。

「見たか?俺にはちゃんと家族がいるんだ。次にまたそんな無神経な真似をしたら、海崎市で生きていけなくなると思え」

少女を叱りつけたあと、彼は機嫌を取るように千秋の前に身を寄せた。

「千秋、安心して。俺はちゃんと男としての節度を守るよ。あの女たちは本当に何を考えてるのか分からない。くだらないことばかりして、俺はそんなの全然好きじゃないんだ」

千秋には、そのときの昴が本当に嫌いだったのか分からなかった。

しかし今では、彼が死ぬほど好きなようだ。

服はすっかり濡れ、冷たさが骨の髄まで染み込んでいく。

千秋は窓を閉め、そしてシャワーを浴びた。

それから彼女はもう外に出ず、部屋の中でただ静かに座っていた。

灯りもつけず、闇の中でじっと。昴が部屋に入ったとき、思わず息をのんだ。

廊下の明かりを頼りに、ベッドの端に座る千秋の姿が目に入った。

灯りをつけると、彼はそっと近づき、子どもをあやすように彼女の前にしゃがみ込んだ。

「どうして明かりをつけないの、千秋?雷の音に驚いたのかな。大丈夫、大丈夫だよ。

そうだ、見て。お前に見せるものがあるんだ」

昴は背後から一冊のアルバムを取り出し、ベッドの上に置いて開いた。

中には、昴と千秋の写真ばかりが並んでいる。

千秋の表情がどこかぼんやりしているのを見て、彼はそっと彼女を抱きしめ、その手を包み込みながら、一枚一枚ページをめくっていった。

「これは俺が自分の手で作ったんだ。俺とお前の生活の記録だよ。千秋、お前は俺の人生そのものなんだ。

これからは、きっと幸せにやっていけるさ」

千秋は目を伏せた。

これから先。

もう二人に先はないのだ。

ノックの音がして、執事がドアの前に立っていた。

「橙子さんがまたお見えです。こちらとしても無理にお帰りいただくわけにはいきません」

昴は千秋の髪に軽く口づけ、そっと慰めの言葉をかけてから立ち上がり、部屋を出て行った。

彼が出て間もなく、千秋の電話が鳴り響いた。「オーダーメイド彼氏」会社の白洲玲子(しらす れいこ)からだった。

「千秋、新しい彼氏が研修中なんだけど、早めに会ってみる?」

千秋が口を開こうとしたそのとき、ドアのほうから焦った声が響いた。

「彼氏って誰?」
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