愛への裏切りは許せない のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

25 チャプター

第11話

千秋の話になると、昴の瞳がわずかに陰り、すぐさま牧野に電話をかけて千秋の行き先を調べさせた。二十分後、車は静かに別荘の入り口に止まった。エンジンを切る間もなく、彼はドアを開けて大股で別荘の中へと向かった。別荘の執事は昴の姿を見つけて慌てて駆け寄り、挨拶をしながら静江の妊娠の様子を報告しようとしたが、昴の沈んだ表情を見て言葉を飲み込み、そのまま階下で足を止めた。寝室の扉がドンと音を立てて蹴り開けられ、眠っている静江は驚いて飛び起きた。ぼんやりとした目をこすりながら体を起こし、誰がこんな無礼な真似をしたのかと怒鳴ろうとした。しかし、昴の姿を目にした瞬間、静江の瞳に宿っていた怒りはたちまち喜びに変わった。靴も履かずにベッドを降り、小走りで彼のもとへ駆け寄った。「昴!」静江は昴に抱きつき、少し拗ねたように甘えた声で言った。「もう二日も会いに来てくれなかったじゃない。私たち母子のこと、忘れちゃったの?」この二日間、昴がずっと千秋と一緒にいたことを思うと、静江の胸の奥がざらついた。私のどこが千秋より劣っているのか理解できない。学生の頃から、常に気取った態度で、わざとらしく振る舞い、周囲を騙してちやほやされようとしていた。今では昴まで手玉に取って、いったいどんな魔法をかけたのか、彼をすっかり諦めることなく夢中にさせている。私の良さが、どうして彼には見えないのだろう。自分が千秋に劣っているところなんてある?ただ、千秋より二年遅れて昴に出会っただけじゃない。もし先に出会っていたら、今ごろはもう池田家に嫁いで昴の妻になっていたかもしれない。こんなふうにこそこそする必要なんてなかったのに。それに、もう妊娠しているのに、千秋はまだ昴の恋人の座に居座っている!それで私たち母子がこっそり隠れて暮らさなきゃいけないなんて、こんな理不尽なことがどうして許されるの?考えれば考えるほど胸の奥がざらついて、口にする言葉にも嫉妬の色が濃く滲んでいく。昴の顔がますます険しくなっていることにも気づかないまま……ドンッ――静江は突然、力任せに床へ突き飛ばされた。昴は見下ろすように立ち、漆黒の瞳に怒りを宿していた。「お前は何者だ?千秋と張り合うつもりか!静江、前にも警告したはずだ。おとなしくしていろって!千秋は俺が唯一愛する女だ。彼女を怒
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第12話

静江のもがきがぴたりと止まり、その夜の記憶が脳裏に鮮やかによみがえった。昴は鼻で笑い、目に軽蔑の色を浮かべた。「もしあの夜、お前が俺の酔いに乗じて、千秋の服を着てベッドに潜り込まなかったら、俺がお前に触れようと思うか?」ある夜、彼は千秋と夕食に出かけた。千秋が男性店員と二言三言話しただけなのに、帰宅後、昴は一人でゲストルームにこもり、むしゃくしゃしながら酒をあおっては、彼女が機嫌をとりに来るのを待っていた。やがて千秋は本当に彼を探しに来て、二人はそのままゲストルームで一晩を共にした。その夜の「彼女」は、いつになく情熱的だった。だが、翌朝目を覚ますと、隣に裸で横たわっていたのは静江だった。その瞬間、昴の全身から冷や汗が吹き出した。ほかの女には指一本触れたことのない自分が、ましてや千秋の親友である静江に手を出すなんて、ありえない。それなのに、なぜ彼女と一緒のベッドにいたのか、自分でもまったく理解できなかった。千秋がこのことを知ったら、どんな反応をするのか——考えるだけで恐ろしくてたまらなかった。まだ眠っている静江を見つめながら、昴の胸に怒りがむらむらと込み上げてきた。千秋の親友でありながら、よくもまあこっそりベッドに潜り込むような真似ができたものだ。この女が信じられない。怒りと恐怖が入り混じり、昴の頭は真っ白になった。最初に浮かんだのは、静江をどうにかして始末することだった。穏便な方法でも、強引な手段でも構わない。とにかく千秋に知られるわけにはいかないと思った。だが静江が目を覚ますと、涙を流しながら床にひざまずき、ずっと前から昴を慕っていたと告げた。自分をそばに置いてくれさえすれば、決して千秋には口外しないと必死に訴えたのだ。もし本当に彼女を冷たく突き放してしまえば、千秋の疑いを招くかもしれない。何かおかしいと気づかれでもしたら、すべてが水の泡になる。静江が去ったあと、昴はゲストルームで午前中いっぱい煙草を吸っていた。昼になっても、初めて千秋と一緒に食事を取らなかった。彼は考えた。静江の言うことは正しいかもしれない。もし本当に静江に何かをしていたなら、千秋に気づかれないはずがない。彼女は情に厚い人なのだから。昴は自分に言い聞かせた。昨夜のことはただの過ちだ、二度と繰り返さない。静江とももう会わない、と。
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第13話

夕焼けに照らされた公園で、一組の男女が並んで川沿いの小道をゆっくりと歩いていた。千秋は、昨日両親が道程に見せたあの熱心な態度を思い出しながら、彼の演技を褒め、どのくらい訓練を受けたのかと尋ねた。道程は一瞬立ち止まり、低く落ち着いた声で、言葉にしづらい感情を込めて答えた。「十二年」その言葉を聞いて、千秋はふと足を止め、隣で真面目な顔をした男を見つめた。そして、思わず小さく笑い声をもらした。一見冷たそうに見えるのに、冗談のセンスまでひんやりしているのだ。ここ数日の付き合いで、二人の間には少しずつ親しさが生まれてきた。千秋は彼の肩を軽く叩き、「冗談、なかなか上手ね」と褒めてから、笑みを浮かべてまた歩き出した。道程は千秋が信じていないことを分かっていたが、弁解はしなかった。ただ、その背中を名残惜しそうに、柔らかな眼差しで見つめていた。彼だけが知っていた――さっき口にした言葉が真実であることを。……その頃、昴は千秋の知らせを耳にして、わずかに目を動かした。隠しきれない喜びの色がその瞳をかすめた。静江のことなど構っていられず、彼は牧野を連れて外へ飛び出した。道中ずっと、どうやって千秋に説明すればいいのか、どう謝れば許してもらえるのかを考えていた。殴られようが罵られようが構わない。ただ、彼女が許してくれるならそれでよい。昴は時折腕時計に視線を落とし、牧野にもっとスピードを上げるよう急かした。江錦市に到着すると、昴は休む間もなく千秋の家へ向かった。車が半ばまで進んだところで、ふと相手の両親に会うのは初めてだと思いつき、慌てて牧野に指示してデパートへと寄り道させた。お土産があっという間にトランクいっぱいに積み上げられていった。千秋の家に着くと、昴は車を降り、服を整え、深呼吸を何度かしてから、ようやく玄関の扉を叩いた。コンコンコン——しばらくして、内側から扉が開いた。千秋の母親がおたまを手にしたまま、目の前に立つ昴を見て、穏やかな声で言った。「こんにちは。どなたですか?」昴は少し緊張した様子で口を開いた。「えっと……千秋さんの……お母さん、ですよね?」相手がうなずくのを確認すると、昴は慌てて挨拶をした。「あっ……あ、初めまして。千秋さんの彼氏です」そう言い終わるとすぐに、昴は自分の頬を叩きたくな
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第14話

「えっ?」まさか千秋は昨日、もう彼氏を連れて実家に帰ったって?彼以外に、彼氏なんているはずがないだろう!昴が呆然としている間に、里美はバタンと音を立ててドアを閉めた。今度は、昴がどれだけノックしても、里美は二度とドアを開けてくれなかった。彼は固く閉ざされたドアを見つめ、険しい表情を浮かべた。その様子を見た牧野がそっと近づいて言った。「若様、もしかすると小林さんのお母様が誤解されているのかもしれません。小林さんは彼氏を連れて年末に帰省するって、きっと早めにご両親に話していたはずです。ご両親はあなたのことをご存じないでしょうし、たまたま男性を見かけて勘違いされても無理はありません」牧野の言葉を聞いて、昴の強張っていた表情が少しずつ和らいでいった。確かに牧野の言う通りだ。千秋の両親はきっと誤解しているだけだ。千秋が自分に会えば、すぐにご両親に誤解を解いてくれるに違いない。もしかすると、彼女はまだ昴に腹を立てていて、その腹いせに両親をだましたのかもしれない。そもそも彼以外に、彼女の彼氏としてふさわしい人などいるはずがない。昴は牧野に先に帰ってもらった。彼自身は江錦市にしばらく滞在するつもりだった。どうせここで年を越すことだし、すぐに離れるわけにもいかない。牧野が去った後、昴は再びドアをノックし始めた。ノックしながら、千秋の名前を呼んだ。そのとき、千秋と道程が家に戻ると、目に入ったのはまさにその光景だった。千秋は昴の背後に立ち、冷ややかな声で言った。「昴、どうしてここにいるの?」「千秋、お前に会いに来たんだ……えっ、兄さん?」声を聞いた昴は驚きと喜びが入り混じった表情で振り向いた。だが、言葉の続きを言う前に、千秋の隣に立つ道程の姿を目にした。浮かべた笑みが口元で凍りつき、昴はわずかに眉をひそめた。「兄さん、どうしてここに?それに、どうして千秋と一緒にいるんだ?二人でどうして一緒に帰ってきたんだ?」次々と疑問が昴の頭の中を駆け巡り、彼は必死に答えを求めた。カチャ——ドアが開き、里美が庭の中から出てきた。昴がまだドアの前に立っているのを見て、彼女は慌てて千秋のそばへ歩み寄り、小声で昴が家の前でしていたことや話していた内容を千秋に伝えた。「まったく、彼ったら自分があなたの彼氏だって言い張ったのよ
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第15話

道程は大きく手を振り、勢いよくドアを閉めた。昴はドアの外に立ち尽くし、ゆっくりと首を振った。違う。そんなはずはない!道程が嘘をついているに違いない。「千秋!千秋、出てきてくれ!」昴は外から大声で千秋の名を呼んだ。道程と里美、そして千秋の父・小林祐樹(こばやし ゆうき)が外へ出て追い払おうとしたが、千秋がそれを止めた。この関係をきちんと終わらせることについて、彼に話すべきだと思った。何しろ、二人はまだ正式に別れを告げたわけではないのだから。ドアの外から聞こえる声を耳にしながら、彼女はそっとため息をついた。昴は一体、自分に何を求めているのだろう。USBメモリは、彼女が二人のために取っておいた最後の礼儀だった。ここまでみっともない争いにする必要はなく、彼は来るべきではなかった。「千秋、お願いだから出てきてくれないか?お前は……」昴の言葉は途中で途切れた。さっきまで固く閉ざされていたドアが、内側から開かれたのだ。「千秋?」昴の顔に笑みが浮かんだ。さっと手を伸ばして千秋を抱きしめようとしたが、彼女は素早く身をかわした。宙に取り残された手がぎこちなく止まり、昴は拳を握りしめてから、ゆっくりと下ろした。そして、苦しげに口を開く。「千秋、俺……USBメモリの中身を見たんだ。この件は、俺が悪かった。謝るよ、本当にごめん。お前を騙そうとしたわけじゃない。ただ、つい……お前を傷つけるのが嫌で、言えなかった。あの夜のことは、静江が、俺の酔いに乗じてお前の服を着て、ベッドに潜り込んだんだ。俺はお前だと思って拒めなかった。追い出そうとしたけど、彼女が、そんなことをしたら、千秋がもっと疑うって言うから……その後……俺はただ……彼女と……」その先の言葉を、昴はどうしても口にできなかった。だが、二人ともその続きをわかっていた。千秋は俯く昴を見つめた。彼女の瞳には、かすかに皮肉の色がにじんでいた。静江を自分と勘違いしたって?一度目も、二度目も、毎回そう言い訳するの?傷つけたくないと言いながら、してきたことはすべて彼女を傷つけることばかり。彼が浮気していたと知ったあの日、しかも相手が自分の親友だったとわかった瞬間、千秋の胸は誰かに強く締めつけられたように痛み、息ができなくなっていた。昴が「静江
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第16話

その話を聞いた途端、昴の体がぐらりと揺れ、顔がこわばった。無理に口元を引きつらせて笑みを作ろうとしたが、その笑顔は泣き顔よりも痛々しかった。「千秋、もう意地を張るのはやめてくれ。お前がまだ怒っているのはわかってる。殴っても、罵ってもいい。でもお願い、そんな意地悪なことを言わないで。胸が締めつけられるんだ」昴には、たった数日で千秋が他の男を好きになるなんて信じられなかった。たとえそれが芝居だとわかっていても、彼女の口からその言葉を聞くと、胸の奥に鈍い痛みが走っている。こみ上げる苦さを押し殺し、昴は顔を上げて千秋を見つめた。何か言おうとしたその瞬間、彼女の冷ややかな視線とぶつかった。「あなた、私に池田家の長男坊を巻き込んで芝居をさせる力があると思ってるの?」昴が道程への呼び方を耳にした瞬間、千秋の胸中にずっと引っかかっていた疑問が氷解した。道程がどうして自分の「オーダーメイド彼氏」になったのか、そのことは後で話せばいい。今はただ、一刻も早く昴に諦めてもらいたい。その言葉を聞いた昴の顔色は、案の定さらに険しくなった。そうか、冷血な道程があの千秋に付き合って芝居なんてするはずはあるか?胸の奥に鈍い痛みがのしかかる。やがてそれが鋭い刃のようにねじれたとき、昴は胸を押さえ、涙ぐむような眼差しを千秋に向けた。「千秋、お前は彼と一緒になっちゃいけない」そのときドアが開き、道程が上着を手に出てきた。彼は千秋の肩にそっとそれを掛け、襟元を整えてやると、柔らかな声で言った。「外に長くいたら、寒さで凍えてしまうかと思って」千秋は道程の親しげな仕草を拒むことなく、むしろ自ら彼のそばに寄り添い、軽く笑って「もうすぐ戻るわ」と言った。周りに人がいないかのように、二人はひそやかに言葉を交わした。道程の発する一言一言に、千秋が応える。道程が「手が冷たいんじゃない?」と問いかけると、千秋は自ら手を彼の手のひらに差し出して、温めてもらおうとした。千秋が「髪が少し乱れてるわ」と言うと、道程は身をかがめて頭を下げ、「直してくれる?」と頼んだ。整え終えると、道程は「先に部屋へ戻って。昴と少し話をする」と穏やかに言った。千秋が歩き出した。昴は思わず追いかけようとしたが、差し出された手に遮られるようにして行く手を阻まれた。そして耳元に、氷
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第17話

その言葉は、目に見えない平手打ちのように昴の頬を強く打ちつけ、一瞬で彼の思考を粉々に打ち砕いた。後悔と罪悪感が怒涛のように押し寄せ、彼を呑み込み、沈めていく。最も触れたくない傷口を刀の先で突き刺されたように、耐えきれないほどの痛みが胸を締め付けた。昴はもうノックをしなかった。拳を固く握りしめ、目の前の閉ざされたドアをただ見つめる。どれほどの時間が過ぎたのかも分からないまま、ようやく背を向けてその場を離れた。自分が間違っていたことも、千秋を傷つけたことも分かっている。だが、彼女を諦めることだけは考えられない。どんな手段を使ってでも、努力して取り戻し、彼女の許しを得ると心に誓った。千秋のことだけは、絶対に手放したくない。夜の闇が少しずつ濃くなっていく。千秋はバルコニーのデッキチェアに身を預け、顔を上げて月を見上げている。今日、昴に会っても心がまったく動かなかったと言えば、それは嘘になる。何しろ、三年間も心の底から愛してきた人なのだから。彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。ふわりとした毛布の端が顎に触れた瞬間、千秋は目を開け、道程の優しいまなざしと視線を交わした。道程は千秋が突然目を覚ますとは思っておらず、ましてや視線が合うとは予想もしていなかった。毛布を引いていた手がわずかに震え、呼吸のリズムも乱れた。見つめ合ったまま、千秋の方が先に空気の変化に気づき、視線をそらして道程に礼を言った。道程の顔を見て、千秋はようやく「オーダーメイド彼氏」のことを尋ねようと思い出した。道程も、もともと千秋に隠すつもりはなかった。ただ、こんなに早く聞かれるとは思っていなかっただけだ。彼は彼女の隣のデッキチェアに腰を下ろした。「話を聞いてくれるか?」「うん、聞きたい」道程の母が亡くなってから二年目、大輔は再婚して、道程より二歳年下の弟、赤ちゃんだった昴を家に迎え入れた。その後、道程はますます無口になり、心も閉ざしていった。彼の体は日に日に痩せ、祖母はその姿を見かねて、孫を自分のもとに引き取って育てることにした。祖母は彼を連れて別の街へ出かけ、気分転換をさせようとあの手この手を尽くした。それでも道程の表情は変わらず、沈んだままだった。そんなある日、まるで小さな太陽のように明るく、彼の周りを楽し気に回る少女に出会った。
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第18話

薄暗いホテルの一室。床には割れたビール瓶が散乱し、足の踏み場もない。空気には強いアルコールの匂いが立ち込めている。ベッドの端に寄りかかるようにして、昴は床に座り込み、仰向けに頭を傾けながら酒をあおっていた。アルコールで自分の感情を麻痺させようとしているのだ。何本もの酒を飲み干しても、千秋の失望と冷ややかな眼差し、そして道程の言葉が、頭の中になお鮮明に浮かび上がる。そのとき、床に置かれたスマホの画面がぱっと光った。誰からのメッセージなのかもわからない。昴は手探りでスマホを拾い上げ、ぼんやりとした意識のまま画面を開いた。しばらく目を凝らして探し、ようやく千秋とのLINEの画面を見つける。喉が詰まり、言葉が途切れ途切れに漏れた。「千秋、千秋……お前か?俺を……許してくれたよね?俺が悪かった。本当に悪かったんだ。どうか道程と別れてくれ、頼む……」彼はひとつひとつ音声メッセージを送りながら、何度も何度も千秋に謝り続けた。既読にされなくても送り続けた。返事はなかった。メッセージは虚無に吸い込まれてしまったように、何の反応もない。昴は力なく手を垂らすと、スマホは床に落ちた。パッと灯ったロック画面には、一人の男性が優しく女性を見つめ、その女性は爪先立ちで彼の頬にキスをしている写真が映し出された。それは、昴と千秋が恋人だった頃の写真だ。昴はその写真をぼんやりと見つめ、二人で過ごした幸せな日々を思い出した。目を閉じた刹那、涙が静かに彼の頬を伝い落ちた。ドンドンドン——ドアを叩く音が響いた。牧野はドアの外で辛抱強く待ち、昴の許可を得てからようやく部屋に入った。足を踏み入れた瞬間、臭い酒の匂いと灯りのない室内に驚き、思わずその場で立ち尽くした。数秒ほど息を整え、恐る恐る昴のもとへと歩み寄った。「何の用だ?」昴は手で目を覆いながら、かすれた声で聞いた。牧野は、さきほど昴の母から彼と連絡が取れないので探して欲しいと依頼があったことを、謹んで伝えた。部屋の中はあまりにも暗くて、昴の表情すら見えなかったが、彼の機嫌が良くないことは空気でわかる。牧野は言葉を選びながら、途切れ途切れに続けた。「奥様がおっしゃっていました……河野静江さんのことはもう手配済みで、あなたが認めようと認めまいと、この子は必ず……池田家に迎え入
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第19話

バルコニーから戻って、千秋はベッドの上で何度も寝返りを打ちながら、一晩中眠れずにいた。彼女はずっと道程の言葉を思い返し、翌日どんな態度で彼に向き合えばいいのか、どんな反応をすべきなのかを考え続けていた。しかし道程は、いつもと変わらぬ調子で「おはよう」と声をかけてきた。態度には少しのぎこちなさもなく、もし彼の目の下にかすかなクマがなければ、千秋は本当に彼が平然としているのだと思ってしまっただろう。千秋は深く息を吸った。彼が平然を装うのであれば、自分からあえて二人の間の微妙なバランスを壊すこともあるまい。昼食を終えた後、道程はポケットから二枚の映画チケットを取り出し、軽く笑いながら言った。「今夜、映画を観に行かない?」千秋は反射的に断ろうとしたが、道程の視線とぶつかった瞬間、その言葉を飲み込んだ。今さら断るのは、かえって不自然に思えたのだ。映画館まではさほど遠くなく、二人は散歩するような足取りで向かった。道中、笑い声が絶えなかったので、後ろに誰かがついてきていることなどまったく気づかなかった。昴は朝早くから千秋の家の近くで張り込みをしていた。仕方がない。千秋は彼のすべての連絡手段をブロックしてしまったのだ。彼が千秋に会いたければ、家の前で待つしかない。いつ彼女が出てくるのかを見張るしかなかった。朝の七時から、彼は午後三時までずっと待ち続けた。まさか道程までもが千秋についているとは思いもしなかった。二人が一緒に出てきたとき、どこへ行くのか見当もつかなかったが、映画館の前まで来てようやく、二人が映画を観に行くのだと気づいた。彼は拳をぎゅっと握りしめ、そのまま後を追って中へ入っていった。薄暗い映画館の中、道程は千秋を気づかうように支えながら、まず彼女の席を見つけた。千秋が腰を下ろすのを確かめてから、自分もその隣に座った。昴は二人のすぐ後ろの席に腰を下ろし、前にいる二人の動きをすべて目の前で見ていた。道程は腕を千秋の座席の背もたれに回し、まるで彼女を抱き寄せているように見える。彼は千秋の少し乱れた髪をそっと整え、千秋は道程の耳元に顔を寄せて、小声で物語の展開を語り合っていた。昴の拳が肘掛けを強く叩き、鈍い音が何度も響く。その音に周囲の人が不快そうな視線を向ける。千秋に気づかれるのを恐れ、昴は拳を引き戻し、歯を食いし
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第20話

池田家の別荘。使用人たちは頭を下げたまま脇に控え、息をひそめていた。すでに今日だけで、静江が怒りを爆発させるのは三度目だった。昴があの日牧野に呼び出されて出て行って以来、一度もここへ姿を見せていない。彼にメッセージを送っても、ずっと既読にならないままだった。千秋はそんなにいい女なの?彼は千秋のために、私を、そして私たちの子どもをも捨てるというのか?昴の厳しい指示で、誰も彼の居場所を静江に教えようとはしない。静江は突然立ち上がり、テーブルの上の物を勢いよく払い落とした。カップがパリンと音を立てて床に散らばった。「静江さん、どうしたの?」橙子が部屋に入ってきたとき、物を投げつけている静江の姿が目に飛び込んできた。彼女の印象では、静江はいつもおっとりとした優しい女性だった。今日は一体……静江は橙子の姿を見つけると、慌てて表情を切り替えた。目元に無理やり涙を浮かべ、哀れっぽい口調で千秋のことを訴え始めた。橙子はそれを聞くと、同じように怒りを募らせた。「静江さん、あんな女に腹を立てるのはやめておいたほうがいいよ。あの狐みたいな女が兄さんにどんな魔法をかけたのか知らないけど、向こうから出て行ったっていうのに、兄さんは江錦市までわざわざあいつに会いに行ったとは、馬鹿々々しいね」昴の行き先を聞いた瞬間、静江の目がかすかに光った。口では橙子に適当に相槌を打ちながらも、心の中ではすでに別の考えを巡らせていた。……新年が近づき、市場はいつもより一層にぎわっている。早朝、千秋と道程は里美にせかされ、年越し用品を買いに出かけることにした。二人が家を出た途端、玄関先で待っていた昴と鉢合わせた。今回は彼は何も語らず、無言で千秋の後をつけ回した。追い返そうとする千秋に、ただ庶民の市場の日常を感じたかっただけだと、彼は繰り返した。人の波が押し寄せ、昴は人混みに押されてよろめいた。池田家の若様として、こんな扱いを受けたことなど一度もなかった。しかし千秋のために、彼は眉をひそめながらも黙って耐えた。歩きながら、千秋がほんの少しでも視線が滞れば、昴はすぐさまその屋台に寄って購入した。市場を一通り回り終える頃には、大小様々な買い物袋が彼の腕の中で山をなしていた。昴はまるで子どもが褒められたくて仕方ないように、その荷物を抱えたまま千秋
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