「──朱音、目、開けて」 鏡の中にいたのは──見知らぬ「綺麗な女」だった。 肌は淡く光り、瞳は深く、睫毛がきれいに影を落とす。 髪は滑るように揺れ、Dが選んだ深紅のワンピースは、光を吸ってわずかに艶が立ち上がる気品のある赤で、身体の線を静かに拾っていた。 薄い光が布の表面をかすめるたび、まるで高価な墨をひと刷けしたみたいに深みが滲む。 メイクも服も、どこも破綻がなくて、息をのむほど完成されていた。(……誰……? 本当に、私?) 普段の私はノーメイクで、髪も後ろで適当にまとめるだけ。でも、三週間だけは違った。早起きしてスキンケアを変えて、間食をやめ、脚が震えるほどスクワットして……この日のために、別人のように変わった。「努力の成果がきちんと出てるわよ」 背中越しにDの指先が髪を整える。ふわりと、いつものあの香り──Dの手にかからなければ絶対に出ない仕上がりの匂い。「朱音。これで落ちない男は、ゲイよ」「……Dのことじゃん」「私はゲイじゃなくてバイ」 言うと、Dはゆっくりと目を細めた。 長い指で前髪を払う仕草ひとつさえ洗練されていて、成熟した大人の余裕と、中性的な美貌の危うさが同居する横顔が、かすかに笑った。 その笑みを追うように視線を落としたとき──鏡の中の自分と目が合った。 そこにいた私は、信じられないほど幸せそうに微笑んでいた。 バッグには、晴紀に渡す淡い水色の革のメモ帳。(……喜んでくれるかな)*** 今日は、晴紀の誕生日。 そして——私たちが付き合って一年になる、大事な日。 待ち合わせは、晴紀が予約したホテル・クラウンセレスティアのフレンチダイニング〈ラ・ルミエール・サンクチュアリ〉だった。 五万円の特別コース。 画面でその数字を見た瞬間、思わず息をのんだ。 写真の中の店内はあまりに美しくて── 自分なんかが本当にあんな場所に座っていいのか、不安が胸に滲んだ。(でも……晴紀は、大丈夫って笑ってくれた)(大事な日だからって) 思い返すほどに、その言葉が胸の奥をそっと温めていく。(……好きって言われて、手をつないで、キスまでして)(──これって、次に進むってこと、なんだよね?) 期待と緊張がゆっくり混ざり合う。 胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。 晴紀と初めて会ったのは、被災地のボランティアだっ
Last Updated : 2025-11-17 Read more