All Chapters of 憎しみと愛~共犯者と綺麗になった私の七年越しの復讐計画~: Chapter 1 - Chapter 10

112 Chapters

第2話 深紅のキスと、崩れた誕生日の夜

 どうしたらいいのかわからなくて、ロビーの端のソファに沈んだ。  ホテルの照明はあたたかいのに、自分の身体だけが冷えていくみたいだった。  膝の震えだけが、自分のものじゃないみたいに止まらなかった。(……帰らなきゃ……でも……動けない……) そんなときだった。  自動扉が開く音が、妙に大きく響いた。 晴紀だった。 すぐ目の前を、誰もいないみたいに、一度も振り返らず真っ直ぐ歩いていく。「……はる、き……?」  声にしたつもりなのに、喉の奥で溶けた。  彼はそのまま外へ出た。 黒い車のドアが静かに開いた。 車内の灯りに浮かんだのは、青みを帯びた深い紫の装いの女──派手さはないのに、纏う空気だけが別格で、思わず息が止まる。 脚を揃えて座り、白い指先で髪を払う仕草が、妙に洗練されていて目が離せない。  横顔だけで、どこかの世界の人とわかる。  世界の光が、その女だけを照らしていた。 「遅いわ、晴紀。……早く来て」  声の響きだけが、直接、胸の奥に落ちてくる。 指先が冷たくなる。  呼吸の仕方がわからなくなる。(なんで……目の前を……通り過ぎて……) 世界が細いトンネルみたいに歪んで、音も光も全部そこへ吸い込まれていく。  その先には──深紫の女と、晴紀しかいなかった。 晴紀が乗り込み、ドアが閉まる一瞬、車内の照明がはっきり二人の姿を照らした。 令嬢が晴紀の胸元をつかみ、強く引き寄せる。「ちょ……っ……」 押し殺したような声が聞こえた次の瞬間、唇が激しく重なった。 私とするみたいな軽いキスじゃない。  押しつけるみたいな、深いやつ。 晴紀の背中がシートに叩きつけられ、令嬢がその上に覆いかぶさるように身体を倒す。 噛み殺した息が混ざる。  服が擦れる音が、ロビーまで届く気がした。  令嬢の手が晴紀の顔を固定し、角度を変えて、何度も、何度も、貪るみたいにキスを落とす。 ガラス越しでも分かるほど「熱」があった。(……やだ……やだ……なに、これ……) 視界が揺れる。  涙が出ないのに、涙の味だけがする。 令嬢は晴紀の襟を指で引き下ろし、首筋にキスを落とした。 晴紀が小さく息を吸った。  その顔は、私と向き合っていたときより、  ずっと、ずっと……甘い。(……あ……) 呼吸を忘れたまま、ただ見ているしか
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第3話 地獄への手を、私は取った

 あの夜から、私の世界の輪郭は急に冷えた。  誰かに触れられるのも、優しくされるのも怖い。  恋なんて、もう二度とできないと思った。 朝、鏡に映るのは、Dが整えてくれた眉じゃない。  自分で描けば曲がって見える、冴えない顔だけ。(綺麗になろうとした自分が、一番バカだった) 化粧も、明るい服も捨てた。  黒と灰色ばかりを纏って、外見を放り出したら、自信も一緒に落ちていった。  人と目を合わせるのが苦しくなって、息が詰まることもあった。(誰にも期待されなくていい。誰にも見つけられなくていい) 就職したのは、都内の小さな広告代理店。  地味で忙しくて、数字だけが裏切らない世界だった。 そんなある日、上司から新規案件を任命された。 「お客様からの直々のご指名で、君が担当だ。ちゃんとやれよ」  渡された書類には、淡々とした活字が並んでいた。 〈清晴堂〉婚礼引き出物企画 式場:ホテル・クラウンセレスティア 新郎:清水晴紀 新婦:神園いずみ (晴紀が……結婚?  そして、あの夜の、ホテルで……?)「大丈夫?」 振り返ると、Dが立っていた。  フリーランスのイメージコンサルタントとして出入りしているDは、この会社とも何件か一緒に仕事をしている。  資料を見て、ほんのわずかに眉をひそめる。「最悪ね。打ち合わせ、同席するわ」*** ホテル・クラウンセレスティア。  一年前と変わっていない照明の高さも、香りも、でもそこに立つ私は、まるで別人になってしまったみたいだった。 Dの横顔を頼りに、なんとか呼吸を整える。 打ち合わせは淡々と進んだ。  晴紀の姿は——なかった。「では、ご家族との顔合わせを」 専務の声に、背筋が強張る。 披露宴フロアのロビーには、白い花と囁きが満ちていた。「……神園家と清水家よ?」 「神園家って資産、何百億とか。旧財閥の本家筋だって」 「令嬢、本物ね」 「清水家のご母堂も……今日は格が違うわ」 視線も、スタッフの動きも、二家に吸い寄せられていく。(見なければいい。仕事だけして帰ればいい) そう思った瞬間——「晴紀、こっち」 その名が耳を刺した。 純白のドレスの令嬢が、青みを帯びた薔薇色の唇で笑いながら、  タキシード姿の晴紀の腕を当然の
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第4話 七年越しの再会と、最初の刃

 七年後。  Dと私は、銀座の清晴堂――晴紀の会社の本社ビルを見上げた。 「清晴堂、もう限界ね」  Dが言う。 「老舗でも、先代が亡くなって、神園家が金を入れて……それでも立て直せなかった」 「だから、私たちに支援を求めてきた」 「ええ」 「助けるわ」  私は言った。 「――でも、それで終わりじゃない。七年前の借りは、返してもらう」  ガラス壁に映る自分を見る。  黒のスラックスに、深いボルドーのシルクブラウス。  線の甘さは消え、そこにいるのは七年前の少女とは別の、磨かれた女だった。  天野 黛――通称Dが、私をここまで連れてきた。 (――七年前より、ずっと強い)  笑みを消し、重いガラス扉へ手を添える。  今夜は、七年前の続きを奪い返す夜だった。  約束の五分前、商談室の扉を開けた。  空気が、一瞬だけ凍った。  向かいの席の男が、ゆっくり顔を上げる。  その視線が私に触れた瞬間、晴紀の目がわずかに見開かれた。  息を呑む気配。  短い沈黙。 (……今、見惚れた?)  ダークネイビーのスーツ。  寡黙な色のネクタイ。  昔と変わらない、少し影を引く横顔。  時間が七年前へ手を伸ばしてくる。  胸の奥が一瞬だけ波立ったが、私は押し殺した。  そして、晴紀の少し斜め後ろに座るもう一人へ視線を移す。  清水悠斗。  晴紀の弟。海外MBA帰りで、家族一の切れ者。  若いのに、その目だけは数字を読む人間のものだった。  神園家の金と、晴紀の曖昧さで沈みかけたこの会社を、まだ見捨てていない目。  この男をこちら側に引き込めれば、清晴堂は救える。  そして――晴紀といずみから、奪い取れる。  それが、私たちの復讐だった。 「本日はよろしくお願いします。リュエール マーケティング部の朝倉です。この案件は、部長として私が直接担当します」  名刺を差し出すと、晴紀はわずかに間を置いて受け取った。 「……部長、ですか。こちらこそ。清晴堂の……清水晴紀です」  声は落ち着いているのに、ほんの少しだけ揺れていた。  私は席に着き、資料を広げる。  数字の列を指で追いながら、淡々と説明を進めた。  
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第5話 公開処刑は、復讐の始まり

 エントランスを出ようとした瞬間、背後から声が追ってきた。 「朝倉部長、待ってください」  振り返ると、悠斗が立っていた。  感情を表に出さないはずの男が、今は焦りを隠せていなかった。 「……実は今、帝都グランドホテルチェーンから、契約を切られかけてるんです」  私は何も言わず、悠斗を見た。 「義姉が、先方の提示条件は清晴堂の格を下げるって突っぱねた。兄も止めきれなかった。このままじゃ、本当にまずい」 「朝倉部長。あなたなら、まだ覆せるはずだ。力を貸してください」  七年前の私なら、必要とされるだけで揺れたかもしれない。  でも今は違う。 「私に助けを求めるなら、条件があります」  悠斗の喉がわずかに動く。 「あの二人を見捨てて、私たちを支持できます?」 「庇って、先送りして、会社ごと沈むのを見ているつもりなら、私は手を貸しません」  悠斗の目がすっと細くなる。 「……随分、言いますね」 「事実です」 「あなたの方が、よほど経営者に向いている。  守るべきものと、切るべきものの区別がついているでしょう。  だから決めてください。あの二人の身内でいるのか、会社の側に立つのか」  短い沈黙のあと、悠斗は低く息を吐いた。 「……俺は、会社のためになることをします」 「なら、話は早いです」  ちょうどそのとき、背後の扉が開き、いずみのヒールの音が廊下に響いた。  悠斗は一瞬だけそちらを見た。  けれど、もう迷っていなかった。  清晴堂を救うなら、誰かを切るしかない。  その刃を最初に握るのは、たぶんこの男だ。  隣で、Dがふっと笑った。 「計画通り、悠斗を引き込めたわね」 「ええ。ここまでは」 *** 「その条件、要するに『もっと大衆向けに落とせ』ということでしょう? 清晴堂を、そこまで安く見られるのは心外ですわ」  帝都グランドホテルチェーン側の二人の表情が、同時に固まった。  帝都の担当常務は、手元の資料を静かに閉じた。 「――よく分かりました」  いずみはまだ微笑んでいる。 「清晴堂さまのお考えは理解いたしました。  ですが、当チェーンが今後ご一緒したいのは、格式を守るために客を選ぶお菓子ではありません」
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第6話 奪い返したはずだった

 応接室を出て、私はDと並んで廊下を歩いていた。 「――朝倉さん、ちょっとお待ちなさい」  甲高い声が背後から飛んだ。  振り返ると、いずみが立っていた。  さっきまで取り繕っていた上品さはもう薄く剥がれている。頬は上気し、呼吸も浅い。  負けを認めたくない人間の顔だった。  その後ろに晴紀。  さらに少し距離を置いて悠斗がいる。 「何でしょう」 「何でしょう、ではありませんわ」  いずみは笑おうとした。  けれどその笑みは、口元だけで引きつっていた。 「外部の方が、ずいぶん好き勝手なさるのね。  たまたま口がうまくいったからって、清晴堂のことを分かった気にならないでくださる?」  Dが私の隣で、任せるというように悪戯っぽい視線を寄越す。  私はいずみをまっすぐ見返した。 「分かった気、ではありません。  切られる理由が見えただけです」  いずみの眉が跳ねた。 「……っ、本当に不愉快ですわね」 「そうでしょうね」 「だいたい、部外者がここまで口を出す筋合いはありませんでしょう?  さっきの件だって、本来なら清晴堂の身内だけで決める話ですのよ」  私は少しだけ首を傾けた。 「身内だけで決めて、あの結果だったのでは?」  いずみの顔色が変わる。 「あなた……!」 「義姉さん」  けれど、いずみは止まらない。 「悠斗さん、あなたもよ。  なぜ外の女の肩なんか持つの?  この人、七年前に兄さんに捨てられたからって、ここぞとばかりに――」  晴紀の表情が一瞬で硬くなる。 「いずみ、やめろ」  止めるには遅すぎた。  私は黙っていずみを見ていた。  七年前、ホテルのロビーで「勘違いした子」と笑った女が、今は自分の負けを隠せなくて、とうとうそこまで落ちた。 「続けてください」  私が静かに言うと、いずみが詰まる。 「……は?」 「どうせなら、最後まで。  あなたが私をどう思っているか、今ここで全部言えばいい」 「七年前の私は、あなたに笑われて、黙って立ち尽くすしかありませんでした。  でも今は違います」  私は一歩だけ前に出る。 「今日、帝都グランドホテルチェーンに切られたのは私じゃない。  あなた
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第7.1話 最高傑作と呼ばれた夜 

 ──東京都内・中目黒。  私のマンション、深夜0時27分。 (……完璧に勝つには、まだ足りない)  ローテーブルに企画書を広げたまま考え込んでいた時、玄関の鍵がカチャ、と鳴った。 「……戻ったわよ」  黒のコートを肩にかけたDが、慣れた動作で靴を脱いで入ってきた。  いつもの余裕の笑みが──今夜はない。 「遅かったわね。会食?」 「ええ。でもそれより……大変なものを拾った」  Dは部屋に上がると、そのままソファに腰を落とし、タブレットをテーブルに置いた。 「いずみが連れてくる切り札が分かったわ」 「切り札?」 「鬼塚 剛」  その瞬間、心臓が一拍だけ止まった気がした。  息が、喉の奥で細い糸みたいに途切れた。  知らないわけがない。マーケターなら、その名に反応しない方がおかしい。 「……本気で来るの? あの鬼塚が」  自分の声が震えているのが、分かった。  10年間赤字だった大型テーマパークを18か月で黒字転換した怪物。  来場者を180万人から900万人に。  動線から感情まで全部読み切って作り変えた伝説のマーケター。 「確定。もう動いているわ」  私は無意識に、自分の腕を抱いていた。  暖房が効いているのに、肌が少しだけ冷える。 「鬼塚は顧客に憑くと言われてる」  Dの声が静かに落ちる。 「鬼塚が拾っているのは、その人自身も気づいていない欲望。  呼吸の揺れ、歩幅の乱れ、視線の逃げ先、ため息の理由──  無意識に滲んだ欲望の芯をまず見抜く。  そして、その願いを数式に落とし、本人が望んだ以上の形で組み上げてしまう」 「知ってる……嫌というほど……」  喉の奥にたまった小さな恐怖が、自分でも抑えられなかった。  ふっと息が揺れて──気づけば、口が勝手に動いていた。 「……勝てるかな、私」  言った瞬間、Dの動きが止まった。  ソファに片肘をついていた姿勢のまま、ゆっくりと顔を上げる。  いつもの余裕の笑みじゃない。  珍しく──本気の、深い真顔。 「勝つしかないでしょう」  声が低い。  甘さも茶化しもない。  ただ、真っ直ぐ。 「本気で勝ちにいくのよ。あなたも、私も。  ……鬼塚が相手だから
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第7.2話 復讐相手が、未来を一緒に作りたいと言ってきた

「俺は君に勝ってほしい。一緒に清晴堂を復活できればって……ずっと思ってた」  朝のコーヒーショップで、突然現れた晴紀は、何の前触れもなくそんなことを言った。  一瞬、何を言われたのか分からなかった。  思考が止まる。  紙カップがきしむほど、指に力が入る。 (……何、それ)  今さら。  あまりにも今さらだった。  七年前、何も言わずに私を捨てた男が。  清晴堂のために私を切ったその男が。  どうして今になって、そんな顔で、そんなことを言うの。  私は視線を落としたまま、ようやく息を吐いた。 「……そんなの、信じられると思う?」  声が少し掠れた。  悔しいくらい、平静じゃいられない。  向かいに座る晴紀は、黒のスーツの袖口をわずかに握りしめたまま、低く言った。 「それでもいい」  その声音は静かだった。  押しつけるような強さはないくせに、妙に真っ直ぐで、余計に腹が立つ。 「……勝ってほしいから、鬼塚の案を教える」  その名前が出た瞬間、胸の奥がひゅっと冷えた。  喉から手が出るほど欲しい情報だった。  たった今まで、私は鬼塚に届く案を組めずにいた。  ショート動画。パッケージ刷新。都内ポップアップ。  どれも悪くはない。今の市場にも刺さる。  それでも、鬼塚には届かない気がしていた。  この男が今、何を見ているのか。  それが分かれば、勝ち筋が見えるかもしれない。  でも。 「必要ないわ」  気づけば、そう答えていた。  晴紀の目がほんの一瞬だけ沈む。 「……そうだよな」  その顔に、胸の奥がまた鈍く痛んだ。  本当は、頼りたくなかった。  彼の助けを借りるなんて、あの夜の痛みをもう一度飲み込むようなものだ。  自分の足で立って、数字で叩き伏せたい。  それが、この七年ずっと守ってきた矜持だった。  けれど。 (……勝ちたい)  自尊心より先に、その思いが喉元までせり上がってくる。  負けたくない。  いずみのあの勝ち誇った顔なんて、二度と見たくない。  鬼塚に押し切られて、清晴堂ごと奪われるなんて、もっと嫌だった。  私は紙カップをテーブルに置き、ゆっくり晴紀を見た。 「鬼塚は、今ど
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第8話 捨てたはずの私と、捨てなかった彼。京都行きの朝に

 翌日からの京都出張に備えて、スケジュールを細かく調整していたとき──晴紀から、短い連絡が届いた。 「明日は工房の職人たちが、早い時間しか作業を見せられない。だから──同じ新幹線じゃないと間に合わないんだ。……もしよければ、同じ便で行かないか?」  指先が、画面の上でわずかに止まる。  嫌だ。できれば断りたい。  二人きりで向き合うなんて、呼吸すらうまくできなくなる。  屋上であの日、彼の言葉を聞こうとした瞬間、胸が張り裂けそうで、まともに耳を傾けることさえできなかった。  もし、あの時彼は仕方なく私を傷つけただけなら。この六年間積み重ねてきた復讐の計画が、全て水の泡になってしまう。  7年前の彼も、今の彼も、完全には読めない。計画通りに進められるか、勝算は……ゼロに近いかもしれない。  でも──  本店、工房、卸、そして大口の取引先まで回るなら、確かに一緒に動いた方が合理的だ。何より、この京都行きはただの出張ではない。まだ終わっていないことを進めるためにも、外せない一歩だった。  ため息をつき、返信した。 『了解。合わせるわ』  仕事のため。それだけのはずなのに、胸の奥が少しざわつく。まるで──この京都行きが、穏やかに終らないことを知っているかのように。 ***  二人で並んで座ると、私はすぐにPCを開いた。晴紀はスーツの袖を少し捲り、スマホでメールのチェックをしている。静かに新幹線が動き出した。 「……仕事、忙しいの?」  前を向いたまま、晴紀がぽつりと言う。 「そうね。あなたは?」 「俺も。……頑張ってるみたいだな。朱音は仕事でうまくいくって、昔から思ってたよ」  理由なんて説明しない。ただ淡々と、当たり前みたいに。  胸がかすかに痛くなった。 (……昔から?) (私がこうなったのは、あの日の裏切りがあったから)  なのに、そんな声で言われると、胸がざわつく。 「部長になったって聞いたときも驚いたけど……正直、不思議じゃなかった。」  窓の外に目をそらす。強くなった理由は、あなたのせいなのに。胸の奥が、じりじりと焼けるみたいに締めつけられていく。  窓の影の向こうで、晴紀の左手に光る指輪がふっと目に入った。胸の奥が、わずかにきゅっと締まる。耐えきれなくて、窓の外に視線を逃がした。 「……あなたはどうなの。い
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第9話 知らない晴紀を、私は初めて知った

 晴紀は、何か言いかけてやめた。  結局なにも言わなかった。  スマートフォンの画面を、意味もなく何度も点けては消す。  新幹線のアナウンスが、互いの呼吸音をかき消していた。 ***  細い路地を抜けた先に、清晴堂の「工房」はひっそり立っていた。 冬の朝の空気がしんと冷えていて、鼻先が痛い。  戸を開けると、木と砂糖が混ざった甘い匂いがふわりと流れてきた。 職人たちの動きは正確で、無駄がない。  これほど腕の立つ職人たちがいるのに、どうして清晴堂はここまで追い込まれてしまったのだろう。 「……おはようございます。今日はリュエールの朝倉さんが見学を」  晴紀が頭を下げる。 最年長と思しき職人がこちらをひと睨みした。 「忙しいんでね。東京の人に見せるほどのもんは、ないですよ」 気まずい空気が流れる中、晴紀は少し困ったように笑って言った。「親方……頼むよ。今日は、ちゃんと話を聞きに来たんだ」  相手のそっけない口調にも、まるで動じていないようだった。  昔の彼なら、きっとどこかで不機嫌さを隠せなかったはずだ。 「おい晴坊、ええからこっち来い。  型の温度、微妙に狂ってんねん。早よ見てくれ」  白髪まじりで、眉間に皺を寄せた別の職人が奥から顔を出した。「はい、すぐ行きます」 晴紀は小さく会釈し、白衣の袖をまくりながら職人たちの方へ歩いていく。  その背中は、不器用に真面目で、少しだけ懐かしく見えた。  工具のこすれる金属音が響く。 ふと横を見ると、後藤が腕を組んだまま、晴紀の背中を無言で見つめていた。「……あれでな、がんばっとるんや」 ぽつりと落ちた言葉は、さっきまでのそっけなさとは違っていた。 窓から射す冬の光が、木粉の微かな粒を照らしている。 「……あんた、東京の子なんやな」 私をじっと見た。「は、はい。マーケティング会社リュエールの──」「緊張せんでもええ。  怒鳴るんは晴坊だけや」 その言い方に、思わず瞬きをした。「……晴坊?」「あの子の、小さい頃の呼び名や。  晴紀はん、こっちでは晴坊で通っとった」 後藤は視線を工房の奥へ投げる。「ちっこい時分は、ようここ走り回っとったわ。  危なっかしいんに、職人の真似して工具触ってな。  『晴坊、落ちるで!』言うて毎日怒鳴っとった」 言葉の端々
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