All Chapters of 憎しみと愛~共犯者と綺麗になった私の七年越しの復讐計画~: Chapter 51 - Chapter 60

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第50話 ゴミ箱の中の巾着

「それ、うちでは普通やけど」 いずみは、ほんの首を傾けてそう言っただけだった。 通っていたのは、京都でも名の通った私立中学だった。 親の顔で入る子もいれば、 奨学金で必死に席を守っている子もいる。 同じ制服。 でも、世界は同じじゃない。 いずみは、それを知らなかった。 知らないまま、口にしてしまう側だった。「毎朝、迎え来はるし。 制服も、汚れたらすぐ替えが出てくるし」 教室の空気が、一瞬止まる。 言った本人は気づいていない。 自慢している意識がないからだ。「……へえ」 クラスの中心にいた女子が、笑った。 彼女は、特待に近い形で入ってきた子だった。 でも、その笑みは目まで届いていなかった。「神園さんってさ、 やっぱ世界ちゃうよね」 笑い声が起きる。 軽い。冗談みたいに。 いずみは、少しだけ困った顔をした。「え……? そんな大したことやないけど」 それが、決定打だった。(否定しながら、上にいる顔) そう受け取られたことに、いずみは気づかない。*** 変わったのは、その日からだ。 声をかけられることが減り、 輪の中から、自然と外される。 体育のあと、ロッカーを開けると、 体操服が床に落ちていて、少し濡れていた。「……あ、ごめん。踏んだかも」 謝りながら、誰も拾わない。「でも神園さんやし、 また新しいのあるんやろ?」 悪意は、笑顔に包まれていた。(……なんで?) 思い当たるのは、昨日の一言だけ。 でも―― 正論と金持ちは、いじめの最短ルートだった。*** 家に帰って、そのまま話した。 父は新聞から目を上げず、 兄は、紅茶を飲みながら言った。「どうしてほしい」 事務的な声だった。 心配でも、怒りでもない。「相手を潰してほしいのか」 いずみは、言葉に詰まる。「……そんなこと、思ってへん」 父が、静かに紙面をめくる音がした。「なら、いちいち言ってくるな」 兄は視線も向けずに続ける。「お前が浮いているだけや。 神園家の人間なら、それくらい分かるやろ」 正論だった。 どこにも、間違いはない。(……何かしてほしいわけじゃない) 胸の奥で、声にならない言葉が揺れた。(ただ、聞いてほしかった) それだけだった。 でも、そのそれだけが、 この家では一番、不要なも
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第51話 恋だと思っていたのは、私だけだったのかもしれない

 それからは、探すようになった。 朝、少し早く家を出る。 校門の前を見渡して、晴紀の姿を探す。 いなければ歩調を落とし、見つけたら同じ方向へ歩く。「……おはよう」「おう」 それだけ。 話さなくても、追い払われなければ十分だった。 放課後。 いずみは教室に残ったまま、鞄を閉じずに席に座っていた。 ――帰りの迎えは、断った。 ほんの一言で済むことなのに、電話を切るまで、指が少し震えた。 晴紀が立ち上がる。 いずみも、少し遅れて立つ。 何も言わずに、隣に並ぶ。 そのとき、晴紀は一度だけ、何か言いたそうな顔をした。 眉がわずかに動いて、口を開きかけて――やめる。「……帰るん?」 探るような声。「うん」 それだけ答える。 理由は聞かれない。 説明もしない。 並んだまま、廊下を歩いた。*** それが、毎日続いた。 教室で待って、立つタイミングを合わせて、当然のように隣に来る。 最初の頃は、晴紀は少しだけ距離を取って歩いた。 でも、何も言わない。 止めもしない。 しばらくして、 晴紀はもう、何も言わなくなった。 隣に来ても、振り向かない。 いるのが前提みたいに、そのまま歩く。 さらにしばらくしてから、ぽつりと声が落ちた。「今日、部活休みなん?」「うん」「そっか」 それだけ。 会話は短くて、意味もない。 でも、無言ではなくなった。 それからは、帰り道で、当たり前みたいにそんなやり取りが増えた。「小テスト、だるかったな」「ほんま」「英語、意味わからん」「わかる」 特別な話はしない。 でも、話す。 並ぶことも、話すことも、どちらも説明されないまま、日常になっていった。 その日、帰り道の途中で、急に雨が降った。 ぽつり、と大粒の雨が肩に落ちる。「……あ」 足を止めた瞬間、隣で布の擦れる音がした。 黒い傘が、静かに開く。「……入る?」 それだけ言って、晴紀は前を向いたまま、傘をほんの少しだけ傾けた。 ほんの数センチ。 でも、それで肩が濡れなくなる。「……ありがと」「ん」 それだけで終わった。 肩と肩が、ときどき触れる。 歩くたびに、布越しに体温が伝わってくる。 息を吸うと、ちゃんと、胸に空気が入った。(……ああ) そのとき、はっきり思った。 私は、この人の隣
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第52話 彼を完全に手に入れたと思っていた

 晴紀がボランティアに出発した日も、帰ってきた日も、いずみは何も言わなかった。 止めなかった。 ついて行こうともしなかった。 引き止める理由が、見つからなかったからだ。 代わりに立っていた言葉は、「どうせ、すぐ戻るやろ」という、根拠のない安心だった。 ただ—— 帰ってきた晴紀は、どこか違っていた。 疲れているはずなのに、目だけが妙に冴えている。 体は重そうなのに、声には前よりも張りがあった。 話す内容が、いずみの知らない名前ばかりになる。「朱音がな」「朱音、ほんまよう怒るわ」「でも、ああいうの、嫌いやない」 まるで、日常の続きを語るみたいに。 特別じゃない出来事として、その名前を挟み込む。 名前が出るたび、胸の奥が、少しずつ重くなる。(……なんで、そんな話し方するんやろ) 高校の頃も、大学に入ってからも。 晴紀は、いずみの前で、誰かの名前をこんなふうに繰り返したことはなかった。*** それでも、隣に来なくなったわけじゃない。 帰り道も、食堂も、座る位置も、変わらず一緒だった。 話しかければ返ってくる。避けられてもいない。 だから、まだだと思った。 流れは、続いている。私は、外されていない。 そう思わないと、足元が崩れそうだった。*** でも—— ある日、ぽつりと聞いた。「今度の休みも、行くん?」「うん。朱音も来る言うてた」 その名前を、あまりにも自然に言うから。 心臓が、一拍遅れた。(……あ) 気づいてしまった。 晴紀は、もう「戻る場所」として、ここに来ていない。 疲れたから戻るんじゃない。安心するためでもない。 何かを得に行っている。 いずみのいない場所で。 それでも、いずみは、それを恋だと思った。 だって、彼がいるときだけ、息ができたから。 胸が詰まらず、肩に力が入らず、自分が自分でいられた。 それが、いつからか——自分だけの特権じゃなくなっていたとしても。*** 大学四年の冬だった。 晴紀のお父さんが倒れて、ほどなく亡くなった。 葬儀は、静かだった。老舗らしく、淡々としていて、感情を外に出す人はいなかった。 晴紀も、泣かなかった。気丈に振る舞っていた。 でも、その背中だけが、急に大きくなったように見えた。 帰り際、ぽつりと笑って言った。「……店、ちょっと危ない
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第53話 空の上で語られた真実が、私を変えはじめた

 パリ行きの搭乗口へ向かう動く歩道。  ガラス越しの空は、絵の具を溶かして流したように澄んでいた。 「……晴れてよかったな」  晴紀が、ほんの少し肩の力を抜いた笑みを見せる。  雨の屋上で「もう無理かもしれない」と呟いていた背中が、ふっと脳裏をよぎった。 「本当ね。……そういえば、一行、貸してくれるところが出たって悠斗さんが」 「ああ。あれで、かろうじて一ヶ月の余裕ができた。  でも──本当の勝負はここからだ」  晴紀の視線は、搭乗口の先の青空に吸い込まれるように向かっていた。 「秋企画と、今回のパリでの勝負。  この二つが成功すれば……本当に、清晴堂は息を吹き返せる」  言葉の端に宿る弱さも震えも、そのまま本音だった。 「どん底だったのに……朱音のおかげで、ここまで来られた」 「そんな……私はただ、できることをしただけよ」 「いや、違う。朱音が晴れを呼んでくれた。  ──これ、覚えてるか?」  晴紀が背広の内ポケットから、小さな淡い水色の手帳を取り出した。  七年前に私が書いた一行。 『どうか──自分の晴れを、誰かのために使える人でありますように』  胸の奥がきゅっと熱くなる。  忘れていなかったんだ、と気づくだけで呼吸が浅くなる。 「俺は……自分の晴れを、ちゃんと使えてるのかな」 「晴紀は変わった。  前よりずっと決断できるようになったし……みんなのために動いてる」 「そうか。そう聞けると……救われるな」  その横顔が一瞬、昔より少しだけ大人びて見えた。 「それに、後を継いだのも後藤親方や職人さんのためでしょう?  本当は、ずっとそういう人だったんだと思う」  晴紀が小さく笑い、視線を落としかけ──  【まもなく、パリ行き便ご搭乗の案内を開始いたします】  アナウンスが割り込み、二人は同時に顔を上げた。 「……行こうか」 「ええ」 ***  機体が安定飛行に入ると、周囲のざわめきが遠のき、ビジネス席の区画はやけに静かになった。  窓の外は雲の海。  光だけが白く反射していて、現実から少し切り離されたような空間。  しばらく二人とも黙っていた。  沈黙だけが、胸の奥のざわつきを際立たせる。  ふいに、晴紀が小さく息を吐いた。 「こうして、また朱音と隣で飛行機に乗ってるのが……なんか不思
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第54話 崩れていくもの、残ってしまうもの

 神園家の応接間には、秋の日差しが薄く差し込んでいた。 ソファに座るいずみの膝の上で、カップの白磁が静かに光っている。 父と兄は、いずみにだけは優しい。 それは事実だ。 けれど——その優しさの向こう側で、何かが動いている気がしていた。 理由はない。 ただ、胸の奥がざわつく。 そのとき、廊下の奥から父の低い声が聞こえた。「……清晴堂は、予定どおり沈む。あとは時期だけだ」 一瞬、時間が止まった。 いずみの背中を、冷たいものがすべり落ちる。(予定どおり……?) 兄の声は淡々としていた。「向こうが立ち直らぬよう、環境を整えただけですか?」「そうだ。自然に沈むようにな。 いずみに心配をかける必要はない」 静かな笑い声。 優しい声音のまま、底だけが真っ暗だった。(私……何も知らなかった) 膝の上で握ったスマホが震える。 《希望の赤》が海外で称賛されている通知が光る。(どうして……救えるはずの場所を、家は壊そうとしているの) いずみはその場に静かに座り込んだ。 信じていたものが、音もなく剥がれ落ちていく。(もう、分からない……)*** パリ・シャルル・ド・ゴール空港。 長い入国審査を抜け、タクシーで向かった先のホテルは、石畳の広場に面したクラシックな建物だった。 フロントでチェックインを済ませた瞬間、受付の女性が眉を寄せた。「……大変申し訳ございません。 手配にミスがありまして、残っているのが一室のみでして……」 言葉を飲み込む間もなく、カードキーを受け取る。 廊下を抜け、絨毯の足音に包まれて部屋の前に立った。 ドアが閉まった瞬間、スイートの静けさが肌にまとわりついた。 高い天井、重いカーテン、真っ白なリネン──そのどれもが、二人には場違いに思えた。(え……本当に一室? 嘘でしょう) 言葉にならない声が喉でつかえた。 隣に立つ晴紀は、困ったように笑っている。 ベッドが一つ。 ソファが一つ。 避けようのない現実に、空気が張りつめた。「俺がソファで寝るよ」 晴紀があっさり言った。「社長がソファなんてダメでしょ」「別に気を遣う必要ない。慣れてるし」「慣れてるとかどうでもいいし。私がソファで寝るから」 ふたりの声が交互に落ちる。 柔らかいのに、譲らない。「朱音」「ん?」「君は昔から、一度
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第55話 静かな夜に、君の名を呼ぶ

 ――だから、あんなふうにキスされた夜を思い出したのかもしれない。 ソファで眠り込んだまま、胸の奥が熱を帯びていた。 ふと、かすかな気配が動いた。 ドアが、ごく静かに開く音。 夜中らしい沈黙と、カーテンの隙間からこぼれる街灯の明かり。 その向こうに、人影が立っているのがぼんやりと分かった。 ……晴紀だ。 ゆっくりと近づいてくる気配。 視線が、こちらに落ちてくるのが分かる。 眠っているふりをしたまま、まぶたの裏で、それだけを感じていた。(……なに) 意識の端でそう思ったはずなのに、身体が動かない。 まどろみの中に沈んだまま、世界だけが流れていく。 しばらく、何も起きなかった。 ただ、見られている気配だけが、静かにそこにあった。 そして、晴紀はそっと私の肩に腕を回した。 驚くほど優しい手つきで、抱き上げる。 息がふっと揺れた。 腕の中は、安定していて、怖くなかった。 寝室へ向かう足音が、静かすぎて現実感がない。 ベッドの柔らかさが背中に触れた瞬間、ひどく心臓が跳ねた。 晴紀は私の顔を少し見つめて―― そのまま隣に横たわり、眠ってしまった。 距離は自然に縮まり、同じシーツの中に呼吸が溶けていった。*** 晴紀は、眠れないまま、何度目かの寝返りを打った。 天井の暗さだけが、まだ夜が終わっていないことを告げている。 小さく息を吐いて、ベッドを抜け出す。 寝室のドアを開け、リビングに足を踏み入れた瞬間、視界の端に、ソファの影が映る。 ソファの上で、朱音は小さく丸まっている。 膝を軽く引き寄せて、両手を胸の前で重ねて。まるで自分を守るみたいに。 寝苦しそうだ。 眉がわずかに寄っていて、唇が少し乾いている。 時折、細い吐息が震えるように漏れる。 ……意地っ張りだな、本当に。 「ここで寝る」と言い張って、結局こうなった。 毛布をかけても、薄いブランケット一枚で我慢して。 寒いだろうに。 意地でも「大丈夫」って顔をするから。 でも、そんなところも――(……可愛い) 胸の奥がじんわり熱くなる。 ずっと、こうやって見ていたいと思ってた。 自分の弱さで逃げて、傷つけて、謝ることもできなくて。 言葉を飲み込んできた時間の積み重ねで。 何度も諦めかけたこの気持ちが、今ようやく、ようやくほどけていく気がする
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第56話 パリで静かに重なる鼓動

 夜明け前。  目が覚めた瞬間、温度で気づいた。  腕が触れている。  背中が胸板に沿っている。  ――同じベッドの中で眠っていた。 「……え?」  声に出る。囁きみたいな小ささで。 (夜中に運ばれたの……) (夢じゃなかったんだ)  タイミングを合わせるみたいに、晴紀も目を開いた。  眠そうな目で、わずかに笑う。 「起きた?」 「……なんで一緒に寝てるの」 「運んだ。ソファ、寒そうだったから」  脳が追いつかない状態で固まっていると、  晴紀は枕に顔を埋めながら言った。 「まだ時間、早いよ。もう少し寝よう」  言われても、寝られるはずがなかった。  心臓の音がうるさくて、呼吸が落ち着かない。 「……寝れてない?」  晴紀が目だけでこちらを見る。 「うん」 「そうか」  少し考えるように沈黙があったあと、柔らかい声。 「じゃあ、背中合わせで寝よう。邪魔にならないし」  布団の中で、そっと身体を反転する。  背中と背中が触れるか触れないかの距離。  呼吸が伝わりそうで伝わらない、曖昧な場所。  背中越し。  すぐそこ。  ほんの小さな声なのに、身体が反応してしまう。 「今日は……隣にいてくれて、ありがとう。  それだけで、変な話だけど、安心した」  反則のような優しさだった。  胸が熱くなるのに、返事が出てこない。 「……ゆっくり眠りましょう。明日、大事なんだから」  自分の声が、少し震えていた。  晴紀の呼吸が、少しずつ深くなる。  寝息が静かに整い始め、部屋に夜の音だけが戻ってくる──はずだった。 ***    朝方。  ふと目を開けた瞬間、世界が静まっていた。  寝返りを打ったのだろうか。  気づけば──互いに正面を向く形になっていた。  枕越しの距離が近い。  手を伸ばせば触れてしまいそうなほど。 (……え、近……)  晴紀は深く眠っていて、無防備そのものの横顔だった。  眉間の力が抜け、呼吸に合わせて胸がゆっくり上下する。  見ないようにしようとするほど、目が離れなくなる。 (だめ……だめよ、これは) (Dと過ごした時間は、心を静かに整えてくれた) (安らぎがあった。未来もあった。  そこに嘘なんてひとつもないのに) (どうして──晴紀には息が
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第57話 鏡越しの熱に、息が止まる

 朝の光がカーテンの隙間からこぼれ、スイートの室内をやわらかく満たしていた。  私は洗面台の前で、アイロンを滑らせながら、ゆっくり息を整える。  熱。  頬に残るシャワーの名残。  指先に伝わる、髪のわずかな湿り気。  たったそれだけの感覚が、今日は妙に鮮明だった。  背後のソファには、支度を終えた晴紀が腰掛けている。  コーヒーカップを手に持ったまま、飲むでもなく、置くでもなく。  脚を組み替え、また戻し、  視線だけが、どこにも落ち着かずに宙を彷徨っていた。 (……見られてる)  確信はない。  でも、気配だけが、ずっとこちらに触れている。  最後のひと巻きを整えて、鏡の中の自分を見つめる。  これは――ミレイユに会うために、Dが選んでくれた装い。  柔らかなグレージュのワンピース。  光を吸うような小さなイヤリング。  自然に見えるのに、計算された巻き髪。 (……D、やっぱりすごい)  アイロンを置き、イヤリングをつけようと顔を上げた、そのとき。  鏡越しに、晴紀と目が合った。  ほんの一瞬。  なのに、心臓が跳ねた。  慌てて視線を外す。  けれど、その動きが、逆に彼の意識を引き寄せてしまったのがわかる。  空気が、少しだけ変わった。 「……朱音」  名前を呼ばれただけで、背中が微かに熱を持つ。 「……その服」  一拍、間があった。 「……すごく、似合ってる。きれいだ」  飾らない声だった。  褒めようとして選んだ言葉というより、ふと零れた本音のような。  胸の奥が、きゅっと縮まる。 「……そういう言い方、やめて」  冗談めかして言ったつもりなのに、声が思ったより柔らかくなってしまった。  鏡の中の彼は、目を逸らさなかった。  むしろ、さっきよりも静かに、真剣に、こちらを見ていた。 (……なんで、そんな目で見るの……)  息が浅くなる。 「……ごめん」  謝られるようなことじゃないのに。  でも、その一言が、私たちの間にある「越えてはいけない線」を、はっきりさせる。 (……だめよ)  心の中でだけ、そう呟く。  イヤリングの金具が、指先で小さく鳴った。  ファスナーに手をかけたまま、動かせなくなる。  鏡の中で、彼は何も言わない。  ただ、苦しそうに、でも目を逸ら
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第58話 路地裏の天才パティシエ

 連れてこられたのは、 石畳の路地裏にひっそりと佇む、小さなパティスリーだった。 扉を開けると──静寂。 ガラス越しのショーケースは宝石のように光り、 客は一人もいない。(貸し切り……?) ミレイユはショーケースを覗き、 あるケーキを指先で軽く示した。「これを」 それは、小さな半球型のケーキだった。 表面は薄い砂糖の膜のように淡く光り、 中がどうなっているのか想像できない。 フォークを入れた瞬間── 薄膜がパリッと砕け、 内側から液体のように滑らかな二層がとろりと溶け合った。 ひと口食べる。 舌に触れた瞬間、言葉が消えた。(……なに……これ…………?) 甘さが遅れて追いかけ、 香りがふわりと広がり、 最後に苦味がきれいに締める。「……す、すご……」 晴紀が、思わず息を呑んだ。 朱音はただ黙ったまま、喉が熱くなる。 ミレイユはゆっくり微笑んだ。「そう。 ──これが、昨年の《最優秀作品》よ」 朱音の手が止まった。(……今、食べたのが?)「紹介するわ」 その瞬間、厨房の奥から一人の女性が現れた。 クレア・モンルージュ。 昨年《ルミエール・ガトー展示会》の最年少優勝者。 二十代半ば、淡い栗髪、切れ長の目。 小柄なのに、立っているだけで場を支配する静かな気迫。 白衣の袖には、砂糖の粒がきらりと光っていた。「はじめまして。 今日お出ししたのは、去年のレシピの未公開バージョンです」 声は落ち着いているのに、どこか挑む色があった。「……あの、すごすぎて……言葉が出ないです」 晴紀が素直に言うと、クレアは微笑んだ。「嬉しい。でも──本番はもっと厳しいわ」「厳しい?」「展示会は味だけじゃ勝てない。 物語、技術、構造、視覚、記憶…… すべてを一つの皿に閉じ込めなきゃいけないの」(……物語?) 朱音の胸が、ふっとざわついた。 その単語はまるで、自分の領域を射抜かれたようだった。「……うちも、同じです」 ミレイユとクレアの視線が、同時に晴紀へ向く。「路地裏の店で、職人の手と長く愛された物語があれば、 菓子は人の夢の時間になる。」 その一言に、朱音の胸がふっと跳ねた。 クレアの目がわずかに細まり、ミレイユが静かに口角を上げる。「……いいわね。手ごわいライバルになりそう。」 挑発にも
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第59話 セーヌ川のきらめきと、冷たい通知

「……展示会まで三日。朱音、今日行けるところは全部見よう」「そうね。価格帯、客層、購買導線、店の物語の見せ方……全部比べたい。 どこから行く?」 晴紀が少し驚いたように目を細め、すぐ嬉しそうに笑った。「じゃあ──一番強い相手からだな」 視線の先──パリを代表する老舗メゾンの旗が翻っている。 伝統、権威、歴史。 その重さだけで胸がひゅっと縮まる。 観光客の波をかき分け、二人でショーウィンドウに並んだ瞬間──息が止まった。 ガラス越しに並ぶのは、ケーキというより思想の断片のような作品だった。 極薄のビスキュイ、温度で香りが変化するクリーム、断面には黄金比で組まれた層。  ──美しさより先に、設計の精密さが襲ってくる。 甘さや華やかさではなく、味覚と記憶をデザインするという発想だけで戦っている。 清晴堂とはまったく違う方向なのに──揺るぎない強さがあった。(……これが、世界の基準) ショーウィンドウの光が揺れる中、晴紀は胸ポケットから淡い水色のノートを取り出した。 ──七年前、私が渡したあの色のまま。 ページを開いた彼は、静かに鉛筆を走らせる。「外層は低温、中心だけ温度を上げて……差で香りを引き出す……。 これを応用すると……」 筆先のかすかな音と、独り言に混じる熱。 その全部が、胸の奥のどこかに触れてくる。(こうなるはずだった未来が……いま、ここにあるんだ) 書き終えた晴紀がふと顔を上げ、私の視線に気づいた瞬間、照れたように目元を緩めた。 その笑顔だけで、胸がまたゆっくり跳ねた。 晴紀の声は低く、それなのに火を含んでいた。 店内を一巡し、次の店舗へ移動する道すがら、自然と並んで歩いていた。 肩が触れそうで、触れない。 だけど、近い。(この距離……落ち着かない) 観光客の波がさらに増える。 石畳の上でバランスを崩しかけたとき── 腕を掴まれた。 ぐいっ、と。 痛みはない。 けれど、朱音の心臓が暴れた。 次の瞬間、晴紀の手が腰に回る。「危ない……スリだ」 低い声が耳のそばで震えた。 腰で支えられる形になり、身体がぴたりと寄る。 人混みのざわめきの中、そこだけ別世界みたいに静かだった。(……近い。どうしよう、こんなの……) 離れようとしても、腰に回された手がそっと強くなる。「離れないで。
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