All Chapters of 憎しみと愛~共犯者と綺麗になった私の七年越しの復讐計画~: Chapter 41 - Chapter 50

51 Chapters

第41話 タクシーの中で、聞けなかった言葉が熱を残す

 ——分かっていた。 思い出してはいけない、と。 でも、身体は先に反応してしまう。 晴紀の手が、私の腰に添えられたまま離れない。 スーツ越しなのに、指の形がはっきり分かるほど、 その掌の熱が、じわりと身体の奥に滲んでくる。 支えられた腰が、 自分でも驚くほど、ふっと力を抜いてしまった。(……だめ、これ……) 胸の前には、晴紀の身体。 シャツ越しでも分かるほど、胸板が硬い。 呼吸が一度、深く上下して、 その振動が、逃げ場なく胸元に伝わってくる。 近い、と思うより先に、 彼の体温が、私の呼吸に重なった。 こんな距離で見つめられたら—— 体が、先に負ける。「……お前、寝てないだろ。限界までやりすぎだ」 声が低い。 腹の底で鳴る声で言われると、 腰を支える指の圧がさらに深くなって、 身体がつい、そっちへ寄ってしまいそうになる。「秋企画が……どうしても今日中に——」「分かってる。ずっと見てた。 だから言ってるんだよ……倒れるほどやるな、朱音」 朱音と呼ばれた瞬間、胸板の前で、呼吸だけがぶつかった。(こんな声……抗えなくなる……)「……晴紀……」 名前を呼ぶと、 彼の手が、腰からゆっくり上へ移動した。 背中のラインを確かめるように、スーツ越しに指先がそっと触れる。 その手が頬へ向かう。 触れてないのに、肌が先にざわつく。(触れられたら……もう、立てなくなる……) 指先が頬の前で止まる。 触れていないのに、そこだけ空気が張りつめた。 腰を支える掌の圧が、わずかに深くなる。 息をすれば、触れてしまいそうで、 どちらも、次の動きを選べずにいた。(キスされる……)(されたい……)(でも——今は) 目を上げると、晴紀は真っ直ぐ私を見ていた。 逃げ場を失うくらい、まっすぐで、苦しげで、どうしようもなく優しい瞳だった。 その視線を受け止めたまま、 数秒——いや、数秒以上の長さで息が止まる。(……この距離で、こんな風に見つめられたら) 胸が痛いほど高鳴って、 理性のほうが先に溶けてしまいそうだった。 限界みたいに、 静かに、ゆっくり。 晴紀が—— 先に視線をそらした。 切なそうに、苦しそうに、 自分を抑えるみたいに、ほんの一瞬だけ目を閉じて。「……くそ……」 小さく噛みしめるように
last updateLast Updated : 2025-12-30
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第42話 部屋の前で、男たちの間に火花が散る

 エントランスの前で、晴紀がふっと立ち止まり、私を見下ろした。「……部屋まで送る」「だめ……それは困る」 きっぱり言ったつもりだったのに、声が頼りなかった。「仕事相手と二人で、部屋の前までなんて……誤解される」 言い切った瞬間、視界がわずかに揺れた。(……まずい。立ってるだけで、ふらつく) 次の瞬間、晴紀の手が私の肩に触れた。 躊躇のない、でも強すぎない支え方。「無理するな。今日は送らせてくれ」「でも……」「誤解より先に、途中で倒れられる方が困る」 その声に、言い返す力が抜けていく。 気づけば、指先まで包まれていた。「……行くぞ」 短い一言。 それだけで、私は頷いてしまった。*** エレベーターの中。 手は離れないまま、言葉もない。 ただ、呼吸の音だけが近い。(……離さないんだ) 嬉しいのに、怖い。 心臓が落ち着く暇をくれない。 扉が開き、夜の廊下が静かに広がる。 一歩進むたび、握られた手の温度が、じわじわと身体に回ってくる。(晴紀が……私の部屋まで来るの、初めてだ) 角を曲がった、その瞬間。 私は思わず足を止めた。 廊下の照明の下。 私の部屋の前に、ひとり、立っている。 紙袋を手に、壁にもたれて。 まるで――待っていたみたいに。 Dだった。 一瞬、時間が止まる。 晴紀の指が、わずかに強く絡んだ。 Dの視線が、ゆっくりこちらに向く。 驚きはない。 ただ、静かに状況を受け止めている顔。「……朱音、おかえり。昨日の打ち合わせ、具合悪そうだったから心配で」 柔らかな声。 けれど、その場を把握している冷静さがある。 私は慌てて口を開いた。「ちょっと、ふらついて……。 晴紀が、たまたま支えてくれて……送ってくれたの」 Dは小さく頷き、視線だけを晴紀へ向けた。「そうなんですね。 朱音を助けてくださって、ありがとうございます。晴紀さん」 丁寧なのに、距離を測る声。 晴紀は、微動だにせず答えた。「当然です。 ――イメージコンサルタントの、天野さんですよね。 今回の企画ではお世話になっています」 名前を確認する言い方。 線を引くみたいで、胸の奥がざわついた。 Dは、ゆっくり微笑む。「ええ、天野です。 夜分にすみません。 ……こんなところでお会いするとは」 こんなとこ
last updateLast Updated : 2026-01-01
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第43話 雨に濡れた背中を、夕暮れの中で抱きしめた

 神園家撤退から二か月と二週間。  残り資金は十日分。  SNSでは〈清晴堂、死のカウントダウン開始〉という投稿が拡散されていた。  秋企画《希望の赤》は順調。  経営改革も痛みを伴いながら進んでいる。  ……でも現金がなければ、何も続かない。  本社の自動ドアが音もなく開くと、  そこへ雨に濡れたコートの男がゆっくり歩み入った。  清水晴紀。  一歩踏み出すたび、  濡れた靴底が床に小さく跡をつける。  ネクタイは結び目が緩み、バッグの持ち手を握る指は白く、肩はわずかに落ち込んでいた。  受付の社員が声をかけようとしてやめた。  その表情だけで、結果が分かってしまったからだ。 (……今日もダメだったんだ)  晴紀はそのまま、  息を落とすように社長室へ入った。 ***  社長室には先に悠斗がいた。  彼は資料を広げたまま兄の姿を見て、眉をひそめた。 「……三行まわったんじゃ?」 「四行だ。最後の一行は……  神園家の支援が戻る見込みがあるならって……」  そこまで言って、晴紀の声が途切れた。  悠斗は書類を閉じ、静かに言った。 「兄さん、まず靴を脱げ。びしょびしょだ」 「……悪い」  靴を脱いだ晴紀は、デスクに両手をつき、ただ立ち尽くした。 「悠斗……どうすればいい?」  それは兄としてではなく、ひとりの迷った経営者が絞り出した問いだった。  悠斗は淡々と、しかし決して冷酷ではない声で答える。 「経営改革は進んでいる。  秋企画もSNS指標がいい。  未来はある。問題は明日と来週だ」 「分かってる……。  分かってるけど……資金が、もう……」 「まだ手はある」 「どこだ?」  晴紀は縋るような目で弟を見る。  悠斗は息を整えて、静かに言った。 「国内はもう厳しい。  でも海外を含めれば、まだ六つ動ける先がある。  とにかく——できる手は全部尽くそう、兄さん」  その言葉に、晴紀の指が少しだけ震えた。 「……十日で、間に合うか?」 「分からない。でも、探す」  短い静寂が落ちる。  その沈黙が、逆に現実の厳しさを突きつけていた。  やがて晴紀は、深く息を吐いた。 「……風、吸ってくる」 「行ってこい。兄さんは少し休まないと倒れる」  晴紀は頷き、屋上へ向かった。
last updateLast Updated : 2026-01-02
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第44話 沈んだ赤は、しずかに光を放ち始める

(晴紀……どうか倒れないで) 祈るような気持ちでデスクに戻った瞬間、スマホが震えた。 《京都工房・後藤親方》の文字に、背筋がすっと冷える。『……朝倉さん、来てくれへんか。全部、沈んだ』(今……?)(秋の企画が……間に合わなくなる) 短い声に、切実さと諦めきれない焦りが滲んでいた。「……わかりました。すぐ行きます」*** 京都の工房は、異様なほど静かだった。 銅鍋の音も、乾燥機の低い唸りもない。働く音が一つもなかった。(……嫌な静けさ)「朝倉さん!!」 若手が駆け寄ってきた。顔色が悪い。「全部……ダメです……。《希望の赤》、ジャム層が沈んで……!」「……全部?」「今朝の百個、全滅です……!」 息が止まった。 さっき屋上で、まだ終わってないと自分に言い聞かせた、その直後なのに。 赤い影を抱えた琥珀糖が並ぶ作業台が、まるで失敗の証拠のように沈黙していた。(嘘……どうして今日……?) 視界の端が揺れる。胸の奥で、さっき灯った光が、音を立てて砕けた。 その時、後藤親方がゆっくりと近づいた。 沈んだ一粒をすくい上げ、光に透かす。「……今日は素材が悪うてな。無花果が少しゆるい。糖度はええけど、粘りが足りへん」(素材……それだけで、全部?) 喉が詰まった。 挑戦なんて言わなければ……と思った瞬間、胸が痛んだ。「見極めが甘かったのは、わしや」「親方のせいじゃ——」 言おうとした瞬間、声が震えた。「ええんや。挑戦受けた以上、背負うのは親方の役目や」 若手が唇を噛む。 私は涙をこらえたまま、テーブルの赤い沈殿を見つめる。(……違う。 私が無理を言わなければ——) 親方は温度計を握りしめた。「……やり直すぞ」「でも、発売まで三日しか……!」「無花果は明日の朝イチで届く。そこから一発勝負や。 今日は、わしと若い衆三人で、夜通しライン直すで」(夜通し……? 親方が……?) 胸が締め付けられる。 晴紀が銀行を回って折れかけていた姿、背中を抱いたあの感触が蘇る。(あの人の最後の賭けを、私が折るわけにはいかない) でも、足が動かなかった。 息が乱れ、胸の奥の小さな火が、いまにも消えそうだった。(……ごめん、今だけ……無理) 工房の蛍光灯が白々と光り、沈んだ紅葉だけが静かに沈んでいた。「……朝倉さん」
last updateLast Updated : 2026-01-03
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第45話 まだ、終わりの顔をしていなかった

 夜の空気は、冷たくて鋭かった。 工房の灯りだけが、暗い街の中で白く浮いている。 若手たちはラインの確認に散り、後藤親方は古い図面を広げて、配管と温度計の位置を確かめていた。 沈んだ紅葉は、まだテーブルの上に残っている。 失敗の証拠みたいに。 でもさっきまでとは違って見えた。 まだ、終わりの顔をしていなかった。(あきらめたくない) 胸の奥で、はっきりと言葉になった。「……明日夕方じゃ、間に合わない。 ——今から、手に入るだけ買い集めるわ」 自分の口から出た声に、迷いはなかった。 その言葉に、後藤親方の目がわずかに見開かれる。 沈みかけていた工房の空気が、ふっと揺れた。「……朝倉さん、それ……できるんか?」「やるしかない。間に合わせる」 きっぱりと返すと、 周囲の職人たちが顔を上げた。「…………マジか」と誰かが呟き、「いけるかもしれん」と別の声が重なる。 暗かった視線に、ほんの少しだけ光が戻る。 工房の空気が変わった。 目の奥に、また火が灯りはじめる。(そうだ)(終わったって決めつけるのは、いつだって外側の誰かだ)(ここで諦めるかどうかは——私たちが決める) スマホの画面には、まだ小さな♡が増え続けていた。 見知らぬ誰かの「がんばってほしい」が、 胸の奥で静かに繰り返される。 私は深く息を吸い込んだ。「仕入れ先、当たれるだけ当たる。 在庫があるところには、全部お願いするわ。 トラックが無理なら、分けてもらって私が取りに行く」 言いながら、自分の鼓動が早くなっていくのがわかった。 外では、完全に日が落ちていた。 後藤親方が、ゆっくりと頷く。「ほな、わしらはラインを整える。 どこから何箱来てもええように、準備しておくで」「お願いします」 スマホを握り直す。 もう、震えてはいなかった。(まだ終わってない)(ここからだ) 沈んだ紅葉たちが並ぶ工房の真ん中で、小さな♡と、職人たちの視線と、自分の中の火が、同じリズムで脈打っている気がした。 私は一件目の番号をタップした。 長い呼び出し音が鳴り始める。 発売は三日後——残された時間は、もうほとんどない。 だからこそ、ここからが勝負だった。 スマホを握る指先が強張る。 仕入先に電話をかけては断られ、またかける。 画面の隅では、時刻が1
last updateLast Updated : 2026-01-04
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第46話 深夜に灯る希望の火

 工房の空気は沈んでいた。  誰も声を出さない。  温度も数字も整えたはずの琥珀糖が、沈んだまま動かない。  空気そのものが、重く垂れ下がっているようだった。 (……あかん)  息が詰まりそうで、佐古は作業着の裾を握りしめ、静かに工房を抜け出した。  外は冷たい空気が満ちていた。  肺の奥までヒリヒリと刺す。  薄暮の光が、商店街のアスファルトにかすかに反射している。  街路の影が伸びていた。  壁にもたれ、佐古は深く息を吐いた。  清晴堂に入って十五年。  後藤親方に拾われ、叱られ、笑われ、鍛えられてきた年月だ。  焦がして、泣いて、それでもしがみついて、気づけば若い衆を教える側に回っていた。  清晴堂が資金難に陥った頃、いずみが援助を申し出た。  工房の仕事には一切口を出さず、必要な金だけを静かに支えた人だった。  佐古は、その誠意を忘れられなかった。  あの日は忘れられない。  子どもの誕生日に帰れなかった佐古へ、そっと金一封を渡してくれた。 『家庭があるのに、夜遅くまでありがとうね』  優しい声だった。  その一言で救われた瞬間がある。  清晴堂を守りたいという思いは、そこから生まれた。  だが、数日前。  ポケットの中で携帯が震えた夜があった。  番号は非通知。  電話の向こうにいたのは、いずみの兄だった。 『清晴堂を守るために、お願いしたいことがある』  冷たい声だ。  しかし言葉には重さがあった。 『伝統を壊したいわけではないだろう?』  その一言に、佐古はうなずきそうになった。 『朝倉朱音という人物は、清晴堂を壊すかもしれない』 『あなたなら、わかるはずだ』  清晴堂を壊すかもしれない——  その言葉だけが、胸に深く刺さった。  そして佐古は、工程にわずかな操作を加えた。  本来なら沈まない層が沈むように。  ほんの数滴で良かった。  罪悪感より使命感が勝っていた。 (わしが……手ぇ入れた)  胸が重くなる。  寒い夜風の中で、背中に汗が流れた。 (ほんまに……正しいんか?)  工房の扉の向こうから、後藤親方の声が低く響いた気がした。  佐古は顔を上げられなかった。 (わしは。  せやけど——間違ってへんはずやった)  はずだった。  だが、朱音が五箱
last updateLast Updated : 2026-01-06
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第47話 希望の赤、浮かびました

 夜明け前の工房。 機械は止まり、冷えきった静けさが満ちていた。 後藤親方は沈んだ琥珀糖を手に乗せたまま、 佐古の作業台をじっと見ていた。「……佐古。ちょっとええか」 呼ばれた声は低かったが、刺さった。 佐古は胸の奥に嫌な感覚が広がるのを感じた。「今日の試作……工程、完璧やったな?」「……はい」「温度、糖度、撹拌、時間。 全部ログと一致しとる。 そら沈むはずない」 親方は琥珀糖を光に透かし、 沈んだ層の表面を親指でかすかに触れた。「せやのに沈んだ理由……」 一拍置かれる。「佐古、お前……今日ずっと、手ぇ震えとったな」 佐古は息を呑んだ。 言葉が続く。 刺すんじゃなく、積み重ねるように。「配管の温度、上がりが遅かった場所…… あれ、佐古の担当やったやろ」 佐古の喉がきゅっと鳴った。「聞かせてくれや。 わしの知らん何かがあるんか?」 怒鳴り声ではなかった。 ただ、まっすぐだった。 耐えられなかった。 佐古は唇を噛みしめ、目を伏せた。「……わしや」 声はかすれていた。「……温度を、わざと遅らせたんや」 一瞬、空気が止まる。 後藤の目が鋭くなり、声が低く深く響いた。「なんでそんなことしたんや」「それは……」 佐古の喉の奥で言葉が砕けた。「……朱音はんが清晴堂を壊す、 そう聞かされたんや」 息がふるえた。「守らなあかん思て……信じてしもうた」「誰に」「それは、言ったらあかんと……」 その先は震えに溶けた。 親方の目が細められた。 張りつめた工房の空気が、 ぐらりと揺れるほどの怒りが見えた。 しかし次の瞬間、 その怒気は深く沈んでいった。 後藤は長く息を吐き、 沈んだ琥珀糖をそっと置いた。「佐古」 呼び方が柔らかくなる。「ほんまに朱音はんが清晴堂を壊す人や思たんか?」 佐古は唇を震わせた。「最初は……いずみさんを追い出して、清晴堂の資金まで奪う人や思た。 せやけど……あんなに一生懸命、工房のために走って……」 佐古は拳を握った。 爪が掌に食い込む。「ほななんで止めへんかった」「……怖かってん。 変わることが、壊すことに見えて…… 朱音はんの挑戦が正しいんか、わからんくて……」 後藤は目を閉じた。 一瞬だけ深い怒りが揺れ、すぐに沈んだ。「間違いは許す
last updateLast Updated : 2026-01-07
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第48話 積み上げた火薬に、火がついた日

 若手職人が、失敗した夜も、沈んだ赤の断面も、再挑戦も、  成功の瞬間まで——時系列で淡々と投稿していた。  ただの記録のはずだった。  だけどそれは、様子の違う広がり方をしていた。 「……え、何これ、再生回数、昨日の十倍……?」  若手のスマホ画面に、数字がみるみる跳ね上がる。  手元しか映っていない。  顔も、設備も、レシピも写していない。  それなのに──。 「戦ってる手だ、これ」 「こんな和菓子見たことない」 「紅葉が揺れるってどういう制作工程?」 「清晴堂って倒産危機のとこだよね?応援したい」 「お茶のお菓子は清晴堂でした。こんな挑戦してるなんて、もう一度食べたい」 (火が付いた。……仕掛けてもいないたった一枚で)  いや、違う。  火薬は、ずっと積み上げていた。  春・夏の導線、職人の挑戦のストーリー、複数媒体での発信。  でも、それだけで炎にはならなかった。  作っていない共感──あの、生の一枚が、火をつけた。 (……これは、来る)  背骨の奥がぞくりと震えた。  数字の動き方だけでわかる。これは、大きく跳ねる波だ。 (やっと……積み上げてきたものが、形になって返ってきた)  息を吸う。ゆっくりと。 (来るなら、掴む) (清晴堂ごと、次の場所まで——行く) ***  数時間後──予想は現実に変わった。  私は京都から東京へ戻る新幹線の中で、  止まらない通知をぼんやりと眺めていた。  そのとき、スマホが震えた。  画面に《鬼塚》の文字。 「……面白くなってきたな」  電話越しの声が、わずかに弾んでいた。 (さすが……こういう芽を一番早く嗅ぎ分ける人だ) 「朝倉さん、君、このバズ……  日本より海外の反応が強いぞ」 「海外……?」 「英語圏とフランス圏の立ち上がりが妙に早い。  手元で見てみろ。たぶん、コメント欄が変わってる」  言われて、私はスマホを開いた。  数秒遅れて、英語とフランス語のコメントが一気に流れ込んでくる。 “Where can I buy this? This is insane craftsmanship.” (どこで買えるの? この技術、やばい) “Où puis-je acheter ça ? La lumière dans ce suc
last updateLast Updated : 2026-01-08
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第49話 揺れる心は、パリへ向かう

「清晴堂の《希望の赤》、拝見しました。美しい……だけでは説明が足りませんね。 感情がある菓子と言うべきかしら」 モニターに映るのは、パリの朝の光を背にした三人の役員。 中央の女性──《メゾン・ド・ヴァロワ》投資部門の新規事業部長ミレイユ=ルノワールは、冷静そのものの眼差しだった。 フランス訛りの英語が静かに落ちる。 晴紀の肩が、わずかに強張った。「……ありがとうございます。まだ改良の余地はありますが、 必ず世界で売れる形に仕上げます」 言った瞬間、ミレイユの視線が動いた。 鋭い。だが、興味を隠しきれていない。「清水社長。あなたの会社の財務状態は厳しい。 一ヶ月後にはキャッシュが枯れると聞いています」 沈黙。 喉を鳴らしたのは晴紀ではなく、悠斗だった。「――事実です。 ですが、我々は撤退ではなく前進を選びます。 ヴァロワさんと共同ブランドをつくれるなら、再建計画は一気に軌道に乗る」 ミレイユは指先でレンズを押し上げ、軽く頷くと、ゆっくり私に視線を移す。「朝倉さん。 あなたの物語設計が、今回のバズを生んだと聞きました。 あなたの視点は、我々の市場で通用しますか?」 息が止まった。 だが、逃げるわけにはいかない。「……通用させます。 日本の職人技と、そこにある再起の物語は、世界共通の価値だと思っています。 その橋を渡すのが、私の仕事です」 数秒の静寂。 ミレイユの唇が、わずかに上がった。「いいでしょう。 ただし、ひとつ条件があります。 来週、パリで開催される《Salon de la Lumière》── 菓子の国際展示会で、あなたたちの《希望の赤》を生で見せてください」「……生で?」「ええ。 私たちは、数字より手を見る。 清晴堂の魂を、この目で確かめたい」 接続が切れた後もしばらく、空気は張りつめたままだった。 晴紀は深く息を吐き、震える拳をそっと机の上に置いた。「……行くしかない。 朱音、悠斗──パリで勝負だ」*** 部屋の照明は落とされ、間接灯だけが柔らかく滲んでいた。 扉を閉めると同時に、Dがこちらを向いた。「……決まったのね。パリ」 短いその一言で、すべてを把握しているのがわかった。 テーブルの上には、紙袋と資料がきちんと並べられていた。 帰る前に準備していたのだろう。几
last updateLast Updated : 2026-01-09
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第50話 ゴミ箱の中の巾着

「それ、うちでは普通やけど」 いずみは、ほんの首を傾けてそう言っただけだった。 通っていたのは、京都でも名の通った私立中学だった。 親の顔で入る子もいれば、 奨学金で必死に席を守っている子もいる。 同じ制服。 でも、世界は同じじゃない。 いずみは、それを知らなかった。 知らないまま、口にしてしまう側だった。「毎朝、迎え来はるし。 制服も、汚れたらすぐ替えが出てくるし」 教室の空気が、一瞬止まる。 言った本人は気づいていない。 自慢している意識がないからだ。「……へえ」 クラスの中心にいた女子が、笑った。 彼女は、特待に近い形で入ってきた子だった。 でも、その笑みは目まで届いていなかった。「神園さんってさ、 やっぱ世界ちゃうよね」 笑い声が起きる。 軽い。冗談みたいに。 いずみは、少しだけ困った顔をした。「え……? そんな大したことやないけど」 それが、決定打だった。(否定しながら、上にいる顔) そう受け取られたことに、いずみは気づかない。*** 変わったのは、その日からだ。 声をかけられることが減り、 輪の中から、自然と外される。 体育のあと、ロッカーを開けると、 体操服が床に落ちていて、少し濡れていた。「……あ、ごめん。踏んだかも」 謝りながら、誰も拾わない。「でも神園さんやし、 また新しいのあるんやろ?」 悪意は、笑顔に包まれていた。(……なんで?) 思い当たるのは、昨日の一言だけ。 でも―― 正論と金持ちは、いじめの最短ルートだった。*** 家に帰って、そのまま話した。 父は新聞から目を上げず、 兄は、紅茶を飲みながら言った。「どうしてほしい」 事務的な声だった。 心配でも、怒りでもない。「相手を潰してほしいのか」 いずみは、言葉に詰まる。「……そんなこと、思ってへん」 父が、静かに紙面をめくる音がした。「なら、いちいち言ってくるな」 兄は視線も向けずに続ける。「お前が浮いているだけや。 神園家の人間なら、それくらい分かるやろ」 正論だった。 どこにも、間違いはない。(……何かしてほしいわけじゃない) 胸の奥で、声にならない言葉が揺れた。(ただ、聞いてほしかった) それだけだった。 でも、そのそれだけが、 この家では一番、不要なも
last updateLast Updated : 2026-01-10
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