All Chapters of 余生、さようなら: Chapter 11 - Chapter 20

――この金庫は瑠衣が置いたものなのか？逸斗はまるで最後の命綱を掴むように、階段を駆け下りた。金庫の中には、わずか数枚の薄い書類だけが入っていた。彼は慎重にそれらを取り出す。しかし、【患者の聴力が完全回復】という文字を目にした瞬間、逸斗の全身の血液が逆流し、四肢は痛みで硬直した。報告書を握る指は、力が入りすぎて白く変色するほどだった。患者欄には、端正に【藤原瑠衣】と記されている。赤と青の規則的な二重線が、聴力が正常レベルまで回復したことを証明していた。検査日付はわずか三日前。――瑠衣は、本当に聞こえるようになったのだ。その瞬間、これまでの日々に起きたすべてのことが、津波となって逸斗を襲った。日常の些細な出来事のすべてが、彼の頭の中で無限に拡大されていく。結婚したとき、瑠衣は聴力を失ったばかりで、陽太をお腹に宿していた。結婚式では、瑠衣は幸せそうに彼の腕を絡め、生涯一緒にいることを誓った。「逸斗、私に約束して。この生涯、この世で、私だけを愛して、私と赤ちゃんを裏切らないで」あのとき彼の心も目も、すべて瑠衣に向いていた。彼はあれほど瑠衣を愛していたのに、どうして不貞などできただろうか。彼は真剣に誓った。「この白鳥逸斗は、一生涯、藤原瑠衣だけを愛する。瑠衣、絶対に裏切らないよ。キスしてくれる？」まだ不慣れな手話で、彼は瑠衣にひそひそ話をしていた。瑠衣が頬にキスを落とすと、耳元でささやいた。「逸斗、もし浮気するなら、早く教えてね。私、そっと永遠にあなたの世界から消えるから」彼はそれを冗談だと思っていた。だが、瑠衣は本当に言った通りにしたのだ。彼女は、本当に去った。本当に彼の世界から消えた。彼は、瑠衣が聞こえないと思い込み、好き放題していた。しかし、彼女はずっと聞こえていた。逸斗は想像もできない――ここ数日、彼女がどうやって耐えていたのか。朝海との親しげなやり取り、どうでもいいと思っていた返事――それらは瑠衣が去った今、すべてが刃となり、少しずつ彼の心を刻み続けている。彼の瑠衣は、絶望を溜め込み、静かに去ったのだ。逸斗は夜が明けるまで、枯れた木のように座り続けた。会社からは無数の電話がかかってきて、案件の処理を催促される。だが、瑠衣がいなければ、彼は何

「お前たち、ネックレスをすり替えたんじゃないのか！」逸斗はスタッフの襟を一気に掴み上げた。「お前の上司を呼べ！」白鳥グループの社長という人物が物を言い、オークション会社の責任者がすぐに駆けつけた。「白鳥社長、私たちには全く心当たりがありません。このネックレスは藤原様がお預けになった時からこの状態でした。当社では、お預かりするすべての商品について記録と動画を残しております」逸斗は動画を一コマずつ何度も確認した。何度見直しても、ネックレスは瑠衣が自ら手渡したものだった。鑑定結果も一貫して変わらない。逸斗は手を緩めず、オークション会社がすべての監視映像を提出するまで譲らなかった。一枚一枚の映像を拡大して確認しているうちに、ついに彼は現実を受け入れざるを得なくなった。自分が瑠衣に贈ったネックレスは、偽物だった。では、瑠衣の心の中では、二人の愛も、この偽物のネックレスのように思われているのだろうか。逸斗には想像もできなかった。瑠衣がこのネックレスが偽物だと知った瞬間、どんな気持ちだったのかを。だが、どうしてこんなことに？逸斗は朝海に電話がつながらず、直接手下を呼び、彼女を捕まえて首からネックレスを引き剥がした。ネックレスの裏にあるシリアルコードを見た瞬間、彼の胸は切り裂かれるような痛みを感じた。「松井朝海、お前どういうつもりだ！俺が瑠衣に贈った『裏切らぬ』をすり替えるなんて！」瑠衣の「裏切らぬ」は偽物だが、彼女が去ったということだけが、動かぬ事実だった。彼は朝海の腹を蹴った。朝海は痛みに呻き、瞳孔が縮み、恐怖で目が虚ろになった。彼女は逸斗が気づくとは思わなかった。知っていたら、絶対にこんなことはしなかった。「社長、社長、どうかお許しを！間違いだったんです！二つは同じものだと思っていて、一つが偽物だとは知らなかったんです！」朝海は必死に言い訳し、抱きつこうとして逸斗の怒りを鎮めようとした。逸斗は彼女の髪を掴む。二人が見つめ合う間、朝海は呼吸さえ忘れた。逸斗の瞳には、冷たさと死亡の気配が映っていた。以前は逸斗が彼女を大切にしていたのに、なぜ瑠衣が消えただけでここまで変わるのか。「松井、甘やかしすぎたか？お前は単なる家族への盾に過ぎないのに、瑠衣を挑発するとはな。もしお前

この間、逸斗は多くの人員と資金を投入したが、瑠衣の消息は一切なかった。病院からは頻繁に電話がかかり、陽太の見舞いを求められる。仕方なく、彼は陽太を真千子に預け、高額な介護スタッフを雇い、二度と邪魔されないようにした。瑠衣を探すため、逸斗は国外にまで手を広げることも厭わなかった。多くの海外勢力は元々白鳥家を警戒しており、これまで維持されてきた微妙なバランスも、逸斗の行動によって崩されつつあった。「社長、申し訳ありません……」電話の向こうから詫びる声が聞こえる。逸斗は電話を切った。これで意味することは一つ――やはり瑠衣の消息はない。「瑠衣、どうして居場所さえ教えてくれないんだ。俺が間違っていたなら、せめて話を聞いてくれないか……」逸斗は数枚の聴力検査報告書をそっと撫でた。自分の過ちを証明するこの書類さえも、今では瑠衣が残してくれた唯一の形見だった。彼は瑠衣の笑顔や声を思い浮かべる。確かに二人は愛し合っていたのに、なぜ今のように。逸斗は涙をこらえ、紙に落ちないように必死だった。字が滲めば、瑠衣の痕跡が見えなくなるかもしれない。普段は空想などしない彼だが、今はどうしても想像せずにはいられなかった。もしもう一度チャンスがあれば、朝海の誘惑には乗らず、あのようなことなど起こさせないと。その頃、病院は大混乱に陥っていた。陽太は全身に赤い発疹が出て意識が朦朧とし、救急室に運び込まれた。医師はアレルギー一覧表を手にして青ざめていた。「親として何をしているんですか？お子さんにアレルギーがあるのを知らないのですか？看護師は何度もアレルゲンを確認し、常に観察するよう指示していました。あなた方は何をしていたんですか？」莉緒と真千子は泣き出しそうで、心配していたのは陽太の容体ではなく、逸斗に責められることだった。「早く子どもの両親に連絡してください！」夜も更けてから、逸斗が外から急いで駆け込んできた。看護師は一瞬呆然とした。以前、陽太を連れてきた時の彼は意気揚々としていたのに、今は憔悴し痩せ細っていた。もし彼の顔立ちが良くなければ、看護師は別人だと思ったかもしれない。「陽太はどうした？」逸斗は真千子たちを睨みつけた。病院から頻繁に電話がなければ、彼は来なかっただろう。真千子と莉緒は互

病院の医療水準は高く、瑠衣が残してくれた情報もあったため、陽太はなんとか一命を取り留めた。この間、逸斗は陽太の世話をするか、朝海を監視するかのどちらかだった。朝海は目を覚ますと、耳が全く聞こえないことに気づき、恐怖に震えながら静まり返った世界を見つめた。わずかな物音さえも、彼女の神経を逆なでする。かつて瑠衣が味わった苦しみを、彼女は何倍にも増して体験していた。朝海が崩れ落ちて泣き叫ぶ様子を見ても、逸斗にはまだ物足りなかった。これだけで、どうして瑠衣への償いになるというのか？逸斗が現れるたび、新たな苦痛が始まった。毎回、彼の足音を感じるだけで、朝海は隅に縮こまり、絶え間なく謝罪を繰り返す。「私が悪かった……二度としません、藤原さん、挑発してごめんなさい、いじめてごめんなさい、私が本当に悪かった……」彼女の謝罪を聞くたび、逸斗の唇に冷ややかな笑みが浮かんだ。「間違った？それが何だ？百回謝ったところで、俺の瑠衣は戻って来やしない！」階上では陽太が激しく泣いていた。「ママ！」と叫びながら――瑠衣がいれば、こんな苦しみは味わわずに済んだはずだ。誰も優しくあやしてくれず、「痛いの痛いの飛んでいけ」って言葉も言ってくれる人もない。母親がいないため、服のボタンは適当に留められ、寝る前の読み聞かせも、お気に入りの小さなブタのぬいぐるみとの遊びもなくなった。ようやく、陽太は瑠衣こそが本当に自分を愛してくれていたと気づいたが、すべては手遅れだった。逸斗が優しくするのも、ただ彼が瑠衣の子だからに過ぎない。今や瑠衣がいない以上、陽太は生きさえしていればそれでよかった。病床から目覚め、がらんとした部屋を見回した陽太は、再び恐怖に襲われた。母親がいないことを理解し、誰も自分の泣き声を気にかけないと悟った。彼はただ静かにベッドから抜け出し、窓の外の星空に向かって小さく願う。「ママが戻ってきますように……ちゃんと謝るから。ママはいつも許してくれた……今回もきっと許してくれるよね？」病室の外で、逸斗は陽太の小さな姿を見つめていた。彼の瑠衣はいつも心優しく、謝れば必ず許してくれた。今回もきっと――そうだろう。わずか数日で、逸斗はさらに痩せ細った。瑠衣の問題に加え、白鳥グループも大きく揺れていた。やむな

瑠衣が自分の世界に戻ってから、もう三か月が過ぎていた。巨大な窓辺に立ち、彼女はゆっくりと背伸びをした。この三か月間、本当に心地よい日々だった。元々筋萎縮性側索硬化症を患っていた彼女は、生きるためにシステムの任務を受諾したのだ。異世界から戻った瞬間、体が徐々に修復されていくのを感じ取った。健康な体と、システムから与えられた二百億のお金、瑠衣はこれほど心から幸福を感じたことはなかった。ただ、二百億という額は彼女にとって少し扱いづらいものだった。出所が不明確なため、システムがこの資金を正当化してくれると分かっていても、心理的な負担は拭えなかった。幸い、彼女は以前からネット注文を受けて簪を制作しており、今や資金があったため、瑠衣はすぐに自身のブランドを立ち上げた。そして、異世界で得た経験を活かしたデザインのアクセサリーも大人気となった。初めての収益を上げた時、ようやく自信がついた。彼女は真っ先に手をつけたのは、孤児院の全面的な改装だった。もう年寄りだった院長は彼女に会うと、涙を浮かべて謝罪した。かつて瑠衣の治療費を集めるため、院長は老いた脚を酷使し、足が痛むほど奔走した。それでも瑠衣を救えなかったことを、ずっと自分を責め続けていたのだ。おそらく、誰かを愛するということは、常に何かが足りないと感じることなのかもしれない。瑠衣は孤児院の後輩たちを学校に通わせ、年齢や適性に応じて一部は自分の会社で働かせた。三か月の間に、十分な資金を背景に会社は順調に成長していった。「姉さん、今日仕事終わったら焼き肉食べに行かない？みんなお腹ペコペコだよ」孤児院の子どもたちは皆、瑠衣を実の姉のように慕っていた。子どもたちが門の外から小さな頭を覗かせ、期待に満ちた目で見上げる。「いいわ、お店には行かないで。後で材料を注文して、シェフを呼んで家で焼き肉パーティーをしましょう」瑠衣の言葉に、子どもたちは歓声を上げて喜んだ。楽しそうに走り去る背中を見ながら、瑠衣の唇にも自然と笑みが浮かぶ。これこそが、彼女のあるべき日常なのだ。システムが異世界に留まらないよう勧めたのも、今なら理解できた。あの世界には、冷酷な父子以外何も残っていなかったから。身の回りの整理を終え、瑠衣は早めに仕事を切り上げ、会社も休みにした。