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余生、さようなら

余生、さようなら

By:  太い子狐Completed
Language: Japanese
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「宿主、この世界からの離脱を――本当に確認しますか?」 五年間も沈黙していた機械的な声が、藤原瑠衣(ふじわら るい)の脳裏に低く響いた。 突然の声に、彼女はわずかに眉をひそめたが、その返事は揺るぎない確かさだった。 「ええ、そうしてください!」 「この異世界は、あなたのすべての痕跡を消去します。離脱まであと三日。準備を整えてください」

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Chapter 1

第1話

「宿主、この世界からの離脱を――本当に確認しますか?」

五年間も沈黙していた機械的な声が、藤原瑠衣(ふじわら るい)の脳裏に低く響いた。

突然の声に、彼女はわずかに眉をひそめたが、その返事は揺るぎない確かさだった。

「ええ、そうしてください!」

「この異世界は、あなたのすべての痕跡を消去します。離脱まであと三日。準備を整えてください」

その声が消えると同時に、長く忘れられていた世界の雑音が、ゆっくりと瑠衣の耳に流れ込んできた。

――いったい、どれほどの間、音を聞いていなかったのだろう。

聴覚を代償に自らシステムを沈黙させてから、この異世界で、瑠衣は五年を過ごした。

その五年間、白鳥逸斗(はくちょう はやと)は彼女を溺愛し続けた。

一片の曇りもない、変わらぬ愛で。

愛しい子供がいて、誰もが羨む「幸せ」が、そこにはあった。

逸斗は、まるで自身の命を慈しむように、彼女を愛した。

――あのメールを目にしなければ、の話だけど。

AIアシスタントの「あいちゃん」が通話を接続し、スマホの画面が明るく光った。瑠衣の思考は遮られる。

投影画面には、助手が素早く手話で話す姿が映っている。

「藤原社長、白鳥社長よりお伝えします。今夜の宴会のご準備を。まもなくお迎えに上がります」

今夜は白鳥家の晚餐会で、彼女はずいぶん前から用意を重ねてきた――ドレスは二階の試着室に掛けてある。

「……行かなくていいと、伝えて。今日はちょっと、気分が優れなくて。行きたくないの」

助手は硬直した。いつも進んで家族宴会に参加してきた瑠衣が、冷たく拒むなんて、彼には理解できなかった。

通話が切れて間もなく、逸斗が駆けつけてきた。

ソファに座る瑠衣の姿は、静かで、どこか寂寥を帯びた絵のようだった。逸斗は胸の奥がざわつくのを抑えきれない。

「瑠衣、どうしたの……?どうして、行きたくないんだ?」

彼は手話で問いかけ、続いて入ってきた助手が、さまざまな箱をローテーブルの上に積み上げていく。

毎日顔を合わせていても、逸斗は彼女への「特別感」を欠かしたことがない。五年間も、変わることなく優しくし続けてくれた。

けど、彼女はもう、少し疲れを覚えていた。

「……別に。ただ、疲れただけ」

「この前、誕生日に一緒にいられなかったから?本当にごめん。怒らないで瑠衣。約束する、二度と――たとえ一分たりとも、君の誕生日をないがしろにしたりしないから」

逸斗の手話は慌ただしく、瞳は深い憂いに満ちている。

後ろにいる白鳥陽太(はくちょう ようた)も、小さな手を懸命に動かした。

「そうだよ、ママ。パパを許してあげて。次にママの誕生日に帰ってこなかったら、僕がパパをやっつけるから!」

陽太は小さな拳を握り、愛らしく二度、空中へ振った。

しかし、瑠衣の耳には、はっきりと聞こえてしまった。

――「ママってわがままだなあ。朝海お姉さんだったら、こんな風にしないのに」

「そんなこと言うな。ママが本当に怒ったら、朝海お姉さんに会わせてもらえなくなるぞ」

逸斗が陽太の頭を軽くたたくと、陽太はぺろりと舌を出し、小声で呟く。「朝海お姉さんが僕のママだったらよかったのにな」

瑠衣は、動けないままその場に硬直した。

聞こえなかった頃は、父子の手話を見て、ただ微笑ましく、温もりに満ちた光景だと思っていた。

自分がこの世界で一番幸せな女性なんだ、って。

まさか――すべてが虚構だなんて。

父子ともに、心にもない言葉を平然と手話で彼女に伝える姿が、あまりにも似通っていて。

彼女は思った。

自分が聞こえないことをいいことに、この二人はいったいどれほど前から、彼女の眼前で勝手気ままに囁き合ってきたのだろう、と。
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第1話
「宿主、この世界からの離脱を――本当に確認しますか?」五年間も沈黙していた機械的な声が、藤原瑠衣(ふじわら るい)の脳裏に低く響いた。突然の声に、彼女はわずかに眉をひそめたが、その返事は揺るぎない確かさだった。「ええ、そうしてください!」「この異世界は、あなたのすべての痕跡を消去します。離脱まであと三日。準備を整えてください」その声が消えると同時に、長く忘れられていた世界の雑音が、ゆっくりと瑠衣の耳に流れ込んできた。――いったい、どれほどの間、音を聞いていなかったのだろう。聴覚を代償に自らシステムを沈黙させてから、この異世界で、瑠衣は五年を過ごした。その五年間、白鳥逸斗(はくちょう はやと)は彼女を溺愛し続けた。一片の曇りもない、変わらぬ愛で。愛しい子供がいて、誰もが羨む「幸せ」が、そこにはあった。逸斗は、まるで自身の命を慈しむように、彼女を愛した。――あのメールを目にしなければ、の話だけど。AIアシスタントの「あいちゃん」が通話を接続し、スマホの画面が明るく光った。瑠衣の思考は遮られる。投影画面には、助手が素早く手話で話す姿が映っている。「藤原社長、白鳥社長よりお伝えします。今夜の宴会のご準備を。まもなくお迎えに上がります」今夜は白鳥家の晚餐会で、彼女はずいぶん前から用意を重ねてきた――ドレスは二階の試着室に掛けてある。「……行かなくていいと、伝えて。今日はちょっと、気分が優れなくて。行きたくないの」助手は硬直した。いつも進んで家族宴会に参加してきた瑠衣が、冷たく拒むなんて、彼には理解できなかった。通話が切れて間もなく、逸斗が駆けつけてきた。ソファに座る瑠衣の姿は、静かで、どこか寂寥を帯びた絵のようだった。逸斗は胸の奥がざわつくのを抑えきれない。「瑠衣、どうしたの……?どうして、行きたくないんだ?」彼は手話で問いかけ、続いて入ってきた助手が、さまざまな箱をローテーブルの上に積み上げていく。毎日顔を合わせていても、逸斗は彼女への「特別感」を欠かしたことがない。五年間も、変わることなく優しくし続けてくれた。けど、彼女はもう、少し疲れを覚えていた。「……別に。ただ、疲れただけ」「この前、誕生日に一緒にいられなかったから?本当にごめん。怒らないで瑠衣。約束する、二度と―
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第2話
瑠衣が黙っていることに気づき、逸斗は顔を上げた。探るような彼女のまなざしとぶつかった瞬間、息を呑んだ。前回の誕生日の件で、二人は大きく揉めた。離婚届は今も引き出しの中にある。「瑠衣、本当に約束する。これからは、どんな日だって絶対に忘れない。ほら、陽太だって証人になれる」「ママ、またパパと離婚しちゃうの?僕、ママのいない子になっちゃうよ」――そうだ。彼は「ママのいない子」になる。なぜなら、彼の心の底では、最初から瑠衣についていくつもりなど、微塵もなかったから。泣きそうに顔を歪める陽太を見て、瑠衣はそっとその頬に触れた。「そんなことないよ、心配しないで。ママは少し体調が悪いだけ。だからあなたはパパと行って、ママの代わりにおじいさまにご挨拶してきてくれる?」以前、瑠衣は白鳥家に好かれようと努めた。理由はただ一つ――逸斗のためだった。今はその逸斗さえ、もう必要ない。瑠衣が「離婚はしない」と繰り返し告げると、二人はやっと機嫌よく家を出ていった。かつての瑠衣なら、必ず玄関先まで見送った。だが今回は早々に階上へ戻り、寝室の窓を開けた。すると、庭から父子の会話がはっきりと聞こえてきた。「パパ、なんでママを宴会に連れて行くの?おじいちゃん、ママ好きじゃないのに。朝海お姉さんでいいじゃん。パパだって朝海お姉さんが好きなんでしょう」「そんなこと言うな。ママが傷つくだろう。パパはママと絶対に離婚なんてしない。白鳥家の若奥様は、お前のママだけだ」逸斗の表情が曇る。彼に懐いている陽太でも、父のその顔は怖いのか、言葉を飲み込んだ。別荘の門まで来たところで、逸斗はふと振り返った。半開きの窓が目に入り、そこへ向かって手を振る。離婚騒ぎが始まってから、どこかおかしいと、逸斗はずっとそう感じている。――瑠衣の性格からして、誕生日を数分遅れただけで激しく怒り、離婚まで口にするとは思えない。それなのに何ひとつ掴めない。「パパ、何見てるの?」陽太が階上を覗くように首を伸ばしたが、瑠衣はすでに窓を閉めていた。「何でもない」胸のざわめきを押し込み、逸斗は車に乗り込む。高級車が砂塵を巻き上げて遠ざかっていくのを見送りながら、瑠衣の目は深く沈んだ。――離婚はしない。なぜなら、三日後には、自分はこの世界から消えるのだから。彼
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第3話
添付動画に映った男の肌を伝う水滴が、今にも零れ落ちそうだった。引き締まった腰には、乱暴に巻かれたタオル一枚だけ。顔が写っていなくても、瑠衣には一目でわかった――これは、逸斗の背中だ。何千回となく触れてきた、あまりにも馴染み深い輪郭。彼はシャワーを浴びている。そして、その次に起こるべきことなら、大人であれば、知らないはずがない。瑠衣は機械のように動画を繰り返し再生した。胸が痛み続け、やがて感覚が麻痺した頃、ようやく指先がスクロールを続けた。【つんぼさん、空気を読まさいよ。席を譲るのが筋でしょう】差出人は匿名、そしてウィンドウを閉じた瞬間、メールは自動的に取り消された。これは誰かが意図的に送りつけてきたもの。しかも否定しようもない事実として、これは合成ではなかった。瑠衣は呆然と座り、返信のないメッセージ画面を見つめながら、頭の中で、いくつもの可能性が渦巻く。これが競合会社の策略であれば――そう願わずにはいられなかった。だが現実は残酷だった。送り主は逸斗の助手の一人、松井朝海(まつい あさみ)だ。スマホの画面がふいに明るくなり、瑠衣の思考は現実に引き戻された。通話ボタンを押すと、画面には逸斗と陽太の二人が並び、「愛してる」の手話を揃えて見せてくる。「瑠衣、もう着いたよ。行けなくて心配してるって伝えたら、父さんも母さんも、君の体調をとても気遣ってくれた」「ママ、僕、おじいちゃんにちゃんと伝えたよ!おじいちゃん、ママに体を大事にしてって。おばあちゃんもおばさんもそう言ってた。それでね、僕プレゼントももらったんだ!」陽太は嬉しそうに、一つひとつのプレゼントを画面に向けて披露した。「うん、楽しんでね。そうだ、松井さんは一緒?お酒を飲むなら、運転はやめてね」瑠衣は優しく微笑みながら、しかしどこか探るように画面を見つめた。逸斗の顔色が、たちまち冷たくなり、手話が慌ただしく動き、焦りを込めて説明した。「瑠衣、今日は家族宴会だよ。部外者は連れてこられない。陽太には世話係がついている。終わったらすぐ帰るから」――逸斗、いつからそんなに平然と嘘をつけるようになったの?瑠衣の喉に、甘酸っぱい飴玉がつかえているようだった。飲み込めず、吐き出すこともできない。画面の向こうでは、かすかな雑音の
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第4話
「朝海お姉さんのほうがいい!朝海お姉さん、大好き!」陽太は小鳥のように甲高い声で叫び、真千子に抱き上げられ、褒められてはしゃいでいた。その三世代の仲睦まじい光景を見ていると、瑠衣は、胃のあたりが胃酸が逆流するように疼いた。命がけで産み、何よりも大切に育ててきた我が子が、彼女にこれほど露骨な嫌悪を示すなんて――信じられない思いだった。「もう、お兄さん。つんぼと何話してるの?お義姉さん、あんたと踊るの待ってるんだから」逸斗の妹――白鳥莉緒(はくちょう りお)が急に画面に割り込み、瑠衣に手話で軽く挨拶すると、急いで通話を切った。画面が暗くなると同時に、部屋中が静寂に包まれた。瑠衣はもう堪えられず、ゴミ箱を抱えて嘔吐した。生理的な涙が、込み上げる酸っぱい味とともに、抑えきれずにこぼれ落ちる。どうやら彼女の見えないところで、白鳥家も逸斗も、とっくに朝海を「認めて」いたのだ。どうしてこの男が「愛してる」と言いながら、同時に朝海を白鳥家に連れて行けるのか。瑠衣はソファに凭れ、吐ききって、ようやく体から力が抜けた。ソファの上で、スマホが明滅しながら震えていた。画面ロックを外すと、逸斗から泣きつくようなスタンプが何枚も、そして莉緒の謝罪動画まで届いていた。【瑠衣、莉緒をもう叱ったよ。義姉さんにちゃんと謝るって。怒らないでくれ。あれはただの大雑把な性格なんだ。俺が後で帰るよ……愛してる】瑠衣はそのまま画面を閉じ、返信しなかった。もう、逸斗の「帰り」を待つ気力すら残っていない。ベッドに丸まり、瑠衣はパソコンを抱えて日常業務を処理した。あと三日でここを離れる。会社の仕事もきちんと引き継がなくては。最後のメールを送り出すと、空になった受信箱に一通の匿名メールが増えていた。何気なく添付を開くと、精巧なネックレスの画像が現れた。それはブランドの限定品のネックレス――「裏切らぬ」。謎の買い手が高値で落札し、「妻に贈る」と言ったと噂された品だ。皆はその「謎の買い手」こそ逸斗だと騒ぎ立てていた。彼は妻を溺愛する男として有名だからだ。惜しい、半分だけ正しかった。買ったのは逸斗で、贈られた相手は、彼の妻ではなかった。傷つくことに慣れすぎて、もう痛みすら感じないようだった。瑠衣は無表情で指を滑らせた。
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第5話
その夜、瑠衣はほとんど眠れなかった。カウントダウン二日目。空がうっすらと明るみ始める頃、彼女は静かに身を起こした。逸斗は無意識に身じろぎし、悪夢にでも見舞われているのか、眉を深く寄せていた。瑠衣が、いつものようにそっと彼の手を握ると、逸斗の表情は次第に落ち着いていった。「瑠衣……行かないで。君がいなきゃ……俺、生きていけない」かすかな寝言を聞きながら、瑠衣はぼんやりと彼の顔を見つめた。――いなきゃ、生きていけない?逸斗、そんなに愛しているなら、どうして松井を選べたの?こみ上げる涙を飲み込み、彼の手を離して、瑠衣は静かに部屋を出た。逸斗が目を覚ましたとき、すでに九時だった。リビングからは陽太の怒鳴り声が聞こえてくる。「やっぱりつんぼはつんぼだよ、朝ご飯も作れない!なんであんなのが僕のママなの、なんで!!」――瑠衣が、朝食を作らなかった……?胃を悪くしてからというもの、瑠衣は一日たりとも欠かさず、自分のために朝食を準備してくれていた。最近の彼女の不可解な態度も相まって、逸斗は何もかもが不安で、胸のざわつきが止まらない。リビングでは――瑠衣は、表と裏を使い分ける陽太を見つめ、その瞳に深い失望を滲ませていた。さっきまで笑顔で「ママ、いつもありがとう。体に気をつけて」と手話をしていたのに、振り返れば、彼女を「つんぼ」と罵る。朝海に毒されたとしか言いようがなかった。逸斗が寝室から慌てて駆け寄ってくるまで、瑠衣はただ黙って彼を見つめ続けるしかなかった。彼女の少し赤く潤んだ目と視線が合った瞬間、逸斗は焦りの色を浮かべた。「瑠衣、何かあるなら言ってくれ。君の様子が……どうもいつもと違う」「大丈夫。それより、これ……あなたに渡したいものがあって――」瑠衣の言葉が終わらないうちに、逸斗のスマホが鳴った。電話に出た彼は、一瞬眉をひそめたものの、口調は軽く、どこか浮ついていた。「ベッドから起きたばかりで、もう俺に会いたくてたまらないのか?ご褒美をやってもいいぞ。何を差し出すか……ちゃんと考えておけよ」通話を切ると、また甘ったれるような表情で瑠衣を見つめ、手話で伝えた。「瑠衣、帰ってきたら必ず見るから。会社に急ぎの用事ができて、すぐに向かわないと」逸斗の背中を見送りながら、瑠衣の笑みには深い
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第6話
しばらくして、ようやく瑠衣はもう長く鳴っていたスマホの着信音に気づいた。聴力が戻ってから、彼女はスマホを振動から着信音に変えていた。画面に表示された「玲奈先生」の名前に、思わず電話に出た。「陽太くんのお母さんですか?お子さんがケガをして、今、市立第三病院にいます。至急来てください」玲奈先生の声は泣きそうに震えていた。――陽太がケガ?どれほど傷つけられようと、親子の絆は簡単には断ち切れない。瑠衣の胸は、瞬く間に締めつけられるような痛みに襲われた。「はい、すぐに向かいます。陽太は……どんな状態ですか?」「親子ゲーム中にケガをして、脛を骨折しています。彼は……陽太くんママ、あなた……聞こえるようになったんですか?」電話の向こうから、驚きの声が漏れた。その時、瑠衣はようやく気づいた。さっき部屋を片付けるのを逸斗にみられたくないから、彼女はAIアシスタントをオフにした。そして陽太がケガすることで彼女は緊張で、何もかもが頭から抜け落ちていて、通話を映像モードに切り替えるのを忘れていたのだ。短い沈黙の後、瑠衣は平静を装って答えた。「玲奈先生……この件、陽太のお父さんにはまだ知らせたくないです。内緒してくれませんか?」「……わかりました。早く来てください」通話を切り、瑠衣は急いで病院へ向かった。病室の前に立った瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは――朝海が逸斗に親しげに果物を食べさせている姿だった。その傍らで、陽太が楽しそうに笑っている。三人は、まるで本当の家族のように、あまりにも和やかで幸せそうだった。「陽太くんママ、いらっしゃったのですね」背後から玲奈先生が肩に触れた。その声でようやく、中の人々は瑠衣の存在に気づいた。「瑠衣、どうして来たんだ?体調が悪いから休みたいって言ってただろう?俺がいるんだから心配ないよ」逸斗のその言葉は、まるで深く思いやる夫のようだった。もし朝海との関係を知らなければ、きっと胸が熱くなっていただろう。病床の陽太は、朝海の合図でようやく形だけの挨拶をした。朝海は逸斗の隣に立ち、優しく微笑みながら瑠衣を招き入れる。――本来、ここに立つべきは自分なのに。妻は自分で、母親も自分なのに。でも、今の自分は、ただの「客」。女主人のように振る舞っているのは、朝海だ
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第7話
「瑠衣、どうした?」瑠衣のわずかな変化に気づいたのか、逸斗が不意に声をかけてきた。五年という歳月は、互いを熟知するには十分すぎた。彼女のほんの小さな心の揺らぎでさえ、彼にはすぐに伝わる。瑠衣は軽く首をかしげた。「……逸斗、誰に話しているの?」誰にも見えない角度で、目の縁ににじんだ涙をそっと拭いた。彼女が相変わらず聞こえないのを確認し、逸斗はほっと胸をなでおろした。朝海を鋭い目で一瞥すると、瑠衣に向けて手話を送った。「大丈夫だよ。陽太が幼稚園でけがをしたんだ。君がつらそうだから、あまり騒ぐなって言っただけ。今日は幼稚園の親子運動会でね。きのう君が体調悪いと言っていたから知らせなかった。松井さんに残業を頼んで来てもらったんだけど……やっぱり子どもは母親離れできなかったみたいでね。君がいないと集中できなくて、そのときにけがをしてしまった」あまりに「もっともらしい」説明だった。もし聞こえるようになっていなければ、瑠衣は本気で、自分がどれほど彼ら父子にとって大切な存在だと勘違いしていたかもしれない。「……そう、なの?」その声はあまりにかすかで、逸斗の胸に一瞬のざわめきを生んだ。彼が続けて何か言おうとする前に、瑠衣は歩み寄って陽太の前に立った。陽太は嫌そうに身を引く。だが今日は、いつものように痛ましげに慰めたりはしなかった。「どこをけがしたの?お医者さんは何か注意するように言っていた?」陽太の戸惑った表情を見て、瑠衣はすぐに悟った。――逸斗と朝海は、医者に何ひとつ聞きに行っていない。逸斗が近づき、瑠衣の肩に手を置いた。手話で言う。「瑠衣、俺たちもさっき来たばかりでね。後で松井さんに聞かせるよ」「……そう。じゃあ、よろしくお願いします」瑠衣は朝海に視線を向け、丁寧に頭を下げた。心が折れたせいか、もはや彼ら父子に心を砕く気力さえ残っていなかった。その静けさが、むしろ逸斗を不安にさせた。陽太の背中を軽く押し、母親に何か気の利いたことを言えと促す。だが陽太はその手を振り払った。幼い顔に、頑なな表情を浮かべて。「パパ、僕は朝海お姉さんがいい。ママには帰ってもらって」――つんぼのママなんて、いらない。「つんぼの子」だなんて言われたくない。そんな幼い拒絶が、朝海の得意げな笑みを
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第8話
病院を出た途端、玲奈は心配そうに瑠衣を見つめた。「陽太くんママ……いや、藤原さん。そんなに胸を痛めないでくださいね」――胸を痛める?瑠衣は胸元にそっと手を当てた。彼ら父子に対して、もう何の期待も抱いていない。だからこそ、あの二人がどう傷つけようと、もう心は揺るがない。「今日は、本当にありがとうございました」「いえ……どうしても見ていられなかったんです」玲奈の声には怒りが滲んでいた。行事に来るのはいつも実の母親ではなく、しかも陽太は朝海にまとわりついて「ママ」と呼ぶ。どんな女性が見ても胸が痛む光景だった。別れた後も、瑠衣の耳には玲奈の言葉が残っていた。毎回って……いったい何回目なんだろう?――そう。そんなに別の「母親」を求めるなら、もうこの子もいらない。瑠衣は電話をかけ、陽太のすべての習い事の予約をキャンセルし、前もって用意していた誕生日の贈り物を孤児院の女の子に譲る手続きをした。すべてが終わるころ、車はちょうどオークション会社の前に止まった。担当者がすでに外で待っていた。一度に大量のアクセサリーを売りに出す客など、そう多くはないのだ。「藤原様、こちらが問題のあった品でございます。本物ではありませんが、通常の模造品をはるかに上回る精巧さでして、素材も造りも、本物とほぼ同等です。もしそれでも出品をご希望でしたら、不可能ではありません」職員が差し出した箱の中には、逸斗が贈った「裏切らぬ」が静かに横たわっていた。華やかな外見は、彼が示していた「愛」とよく似ている――真摯に見えて、限りなく偽りに満ちていた。逸斗が「裏切らぬ」と呼ぶべき相手は、間違いなく自分ではなかった。「……売りません。一日後、この住所へ。白鳥逸斗宛で送ってください」そう告げてオークション会社を後にすると、瑠衣は病院へ戻らず、まっすぐ別荘へ帰った。処分し損ねていた物は、捨てるものも売るものも一気に片づけた。今の別荘には、彼女のものはひとつも残っていない。静まりかえった空間が広がるだけだ。夜になると、またあの匿名メールが届いた。今回の内容は一層露骨だった。ホテルの住所。そして、箱一杯のコンドーム。【つんぼさん、今夜は何個使うと思う?ねえ、逸斗がどれほど私を好きか分かる?息子がけがをしても、私とは狂った
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第9話
「瑠衣、お疲れさま。会社で片づけることがあってね。終わったら、君にサプライズを用意しているから」「うん。明日、病院に来て。あなたに話したいことがあるの。陽太のこと……ついでに、彼と一緒に食事をしてあげて」最後の食事――ふたりへの別れにするつもりだった。瑠衣は、逸斗の返事を待たずに電話を切った。スマホを置き、がらんとした家を見回す。そして立ち上がり、最後に残っていた一つの物を処分した。彼女がこの世界に残ってから、ずっとそばにあったAIアシスタントのあいちゃんだった。夕陽が沈む頃、瑠衣は病院へ向かった。彼女は陽太を自ら看護することはせず、代わりに看護師を雇っていた。その夜、陽太は何度も怒鳴り散らした。彼女は、聞こえないふりをした。ただ付き添い用の簡易ベッドに横になり、これまで何年もスマホに記録してきたすべてを――跡形もなく消していった。最後の一枚は、家族三人の写真。瑠衣のロック画面でもあった。朝日が昇る頃、逸斗が慌てて駆け込んできた。「瑠衣、一晩中ひとりで陽太の面倒を見てくれてありがとう。会社で大口の案件を取ったんだ。陽太が良くなったら三人でお祝いしよう」瑠衣は何も言わず、ただ彼の襟元、首筋へと視線を落とした。そこに散った細かな赤い痕が、昨夜彼がどこにいたのかを黙って物語っていた。大口の案件は……朝海とベッドで話し合っていた、ということだろうか。「パパ、朝海お姉さんはいつ来るの?ママは一晩中僕の面倒を見てくれなかった。僕嫌だよ。朝海お姉さんがいい」陽太は待ちきれないように告げ口した。瑠衣は陽太を見つめた。その静かな眼差しに、陽太は少し怯えた――今日のママは、いつもと違う気がした。逸斗も、瑠衣の異変に気づいた。後ろめたさからか、無意識に服を整える。「瑠衣、まだ体調が良くないのか?俺が気が回らなかった。君に一人で病院を任せるべきじゃなかった」瑠衣は、ふっと笑った。――気が回らなかった?彼は「体調不良」を都合よく使い、親子イベントを隠したのに。そして同じ日に、「気が回らなかった」という理由で、彼女を一人きり病院に置いていった。逸斗、あなたはいったい、いつが本心で、いつが嘘なの?「ホテルを予約したわ。行きましょう」残された時間は最後の一日。瑠衣には、もう無駄に言葉を交わす
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第10話
同じ頃、白鳥家の別荘では――逸斗は真千子の相手を済ませると、急いで外へ出ようとしていた。「逸斗、ちょうど陽太は奥様のところにいるし……私を家まで送って。ひとりじゃ怖いの」朝海は小走りで近づき、逸斗の袖をつかんだ。つま先立ちになり、耳元へ甘く息をかける。そして彼の手を取り、自分の太ももに押し当て、妖しく囁いた。「あなたに……サプライズがあるの」逸斗はその手を振り払った。その表情は、冬の霜のように冷え切っていた。ホテルを出た瞬間から、胸の奥で嫌なざわめきが続いていた。命より重い何かが、自分の傍から永遠に離れていく――そんな悪寒が感じた。「松井さん、越えてはいけない線を超えたな。今日のことは二度と繰り返すな。覚えておけ。俺のそばにいるのはお前でもいいし……お前じゃなくてもいい」逸斗はそう言い残し、大股で去った。車に乗り込み、アクセルを強く踏み込む。排気ガスの中に取り残された朝海は、咳き込みながら遠ざかる高級車を睨みつけた。歯を食いしばるほどの悔しさ。――自分のどこが、あのつんぼめに負けるっていうの?朝海はスマホをつかみ、素早く番号を打ち込んだ。今度こそ、あのつんぼめを完全に消してやる。……逸斗の頭の中は、瑠衣でいっぱいだった。あのよく拗ねる小さな癖なら……今回はホテルに置き去りにした。どれだけ機嫌を取ればいいだろう。しかし、思い浮かぶ彼女の愛らしい拗ね顔に、胸の内にほのかな温もりが灯った。車が勢いよくスピンし、別荘の中庭に止まった。逸斗が降り立つと、薄暗い空気が建物全体を包んでいた。どこにも灯りがない。いつもなら、夕方になるとあいちゃんが明かりをすべて灯し、瑠衣が眠るまで輝いていた。それが今日は真っ暗なら、考えられる理由はひとつだけ――瑠衣は、家にいない。だが、彼女は耳が聞こえない。どこへ行けるというのか?胸のざわめきが再び強くなり、数歩の距離すら耐えられず、反射的に瑠衣の番号へ電話をかけた。「申し訳ありません。おかけになった電話番号は、現在使われておりません……」――使われていない?そんなはずがない。瑠衣の番号は、自分が手続きしたもの。自分の番号の末尾がひとつ違うだけの、特別な番号だ。間違えるわけがない。瑠衣の番号が「使われていない」だ
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