アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」 のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

46 チャプター

21.通知音のたびに揺れる水面

平日の夜が、静かに形を変えていた。高橋翔希にとって、新宿のネオンはもう「仕事帰りの通り道」ではない。時折、その光のどこかに、あのビジネスホテルのロゴを探してしまう自分がいる。平日夜。短時間。村上遥人のプロフィールに書かれたその言葉が、現実の時間軸にべったりと貼りつくようになってから、もう何度夜を重ねただろう。仕事を終え、エレベーターで一階に降りる。ビルのガラス扉を抜ける風はいつもと同じ温度なのに、ジャケットの内側のスマホは、前より少しだけ重くなった気がしていた。ポケットの中で、スマホが小さく震える。翔希は、無意識のうちに歩みを緩めた。画面を取り出し、ロックを外す。新着メールでも、同期からのLINEでもない、小さなアイコンがひとつ。あのアプリの通知だ。『今日はお疲れさま』短いその一文だけ。村上からのメッセージは、いつもこんなふうにさりげない。絵文字も顔文字もなく、句読点さえ少なめで、感情の温度が読み取りづらい。それでも、確かに自分宛だということだけは分かる。「…お疲れさまです」歩きながら、翔希は打ち返す。親指がキーをなぞる感覚が、必要以上に意識に上る。返事はすぐには来ない。その間に、改札を抜け、ホームに降りる。ステンレスの手すりの冷たさが、指先に残る。電車に乗り込んでも、ポケットの中のスマホが気になって仕方がない。つい、また取り出す。新着は…ない。画面の上部、小さな緑の丸に視線が吸い寄せられる。オンライン。今、この瞬間も、村上はアプリを開いている。「…誰と喋ってんだろ」心の中で漏れる疑問は、まだごく小さい。自分がメッセージを送っているからオンラインなのか、それとも、自分以外の誰かとやり取りをしているのか。そんなの、考えたところで分かるはずがない。そもそも、自分がそこを気にする権利なんてあるのか。眉間にうっすらと皺が寄る。
last update最終更新日 : 2025-12-16
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22.「ごめん、今日は残業」と緑色の吹き出し

約束のある日の時間は、いつもより少しだけ軽く進む。その日の高橋翔希も、朝からどこか浮き足立っていた。理由は、誰にも言っていない。営業フロアの二十階。いつも通りの朝会、いつも通りのメール整理、いつも通りのタスク確認。ディスプレイの下には、何気ない顔で置かれたスマホ。通知はオフにしている。それでも、一度約束を交わした夜は、画面の向こうにいる相手の存在を、意識から完全に消すことができなかった。『今日、いつものところで』昨日、アプリ経由で届いたメッセージ。『二十時くらいなら大丈夫』そう返したあと、時間も場所も確定している。具体的なホテル名と部屋番号が、すでにチャットの履歴に残っている。平日夜、短時間。いつものパターン。それだけのことなのに、朝から何度も頭の中でその文字列をなぞっていた。「高橋ー」斜め前の席から、中村が声をかけてくる。「この前のB社の資料、最新版どこ入ってんの」「あ、共有フォルダの二〇二四フォルダっす。『B社_第二提案』のところです」「サンキュー。お、相変わらず整理されてんね」「村上さんに叩き込まれましたから」笑いながら答え、また画面に視線を戻す。午前中の商談は無難に終わった。昼食はコンビニの冷やし麺で済ませ、午後の打ち合わせもトラブルなく消化する。仕事は仕事で、ちゃんと好きだ。案件がうまく回るのは気持ちいいし、数字が積み上がっていくのを見るのは純粋に嬉しい。それでも今日は、どこか頭の片隅に、別のスケジュールが居座っている。二十時。ホテル。白いシーツ。シャワーの音。ネクタイをほどく指先。ふと、喉の奥が乾いた気がして、小さく息を飲んだ。「…集中しろ」誰にも聞こえないくらいの小ささで自分に言い聞かせ、手元の資料に目を落とす。*夕方、十八時少し手前。デスクの右隅の時計を、何度目か分からないくらいに確認する。
last update最終更新日 : 2025-12-17
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23.平常運転の顔でベッドに沈む

翌朝の新宿は、やけに白く眩しかった。高橋翔希は、地下から地上に上がるエスカレーターの途中で、思わず目を細める。ビルのガラスに反射した光が、まだ完全に覚めきっていない頭をじわじわ焼くようだった。寝不足のせいだ。眠れなかったわけではない。横になって、目を閉じて、気づいたら朝だった。それでも、体のどこかに眠り損ねた疲れが残っている。二十階の営業フロアに着くと、いつも通りの喧騒が迎えてくれた。電話の音。キーボードを叩く音。プリンターの唸り。誰かの笑い声。その全部が、いつもより半音高く響いている気がする。「おはよー、高橋」斜め前の席から、中村が手を挙げた。「…おはようございます」自分でも分かるくらい、声に覇気がない。「いや、お前さ」椅子をくるりとこちらに向けた中村が、じっと顔を覗き込んでくる。「なんか顔、死んでね」「失礼すぎません?」思わず笑って返す。口角だけは、ちゃんと上がる。「いやいや、マジで。クマってほどじゃないけどさ、その…魂が半分くらいどっかいってる感じ」「魂は全部ここにあります」「ほんとぉ?」わざとらしく首を傾げられて、肩をすくめる。「ちょっと寝不足なだけですよ。動画見すぎました」「またそれ。ほどほどにしなよ。営業は顔が命なんだから」「はいはい」軽口を交わしながらも、翔希は内心で、自分の顔がどれくらい「いつも通り」からズレているのかを気にしていた。鏡を見る余裕もなく家を出てしまったせいで、今の自分の表情を知っているのは中村たちだけだ。村上がそれを見たら、どう思うだろう。…そんなことまで考えている自分が、正直きつい。*午前中のタスクをひととおり片付けた頃、社内チャットがピコンと鳴った。管理部からの一斉連絡。稟議ルートの変更について。「うわ、また変わ
last update最終更新日 : 2025-12-18
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24.「お前には関係ないだろ」の一線

ベッドの上の空気は、まだ体温の名残りを含んでいた。薄い掛け布団の下で、高橋翔希は仰向けになり、天井のぼんやりした模様を見つめている。隣には、ほんの少し間を空けて、村上遥人が横たわっていた。照明はスタンドライト一つだけ。オレンジがかった光が、狭い部屋の隅々をやんわり照らしている。窓の向こうのネオンは、厚手のカーテンで遮られて、かすかな明るさだけが縁から漏れていた。静かだ。エアコンの低い唸りと、二人分のかすかな呼吸音だけが、この空間のすべてだった。翔希は、自分の胸の上下を意識する。呼吸は、さっきまでより落ち着いている。脈も、ようやく普通の速度に戻りつつあった。それでも、胸の奥には別の意味の荒れが残っている。今、聞かなかったら。もう二度と、聞けない気がした。この沈黙が終わって、ベッドから降りて、シャワーを浴びて、服を着て、エレベーターに乗って。それで「お疲れさま」とか「気をつけて」とか言って別れたら。自分は、ただの「遊び相手の一人」として、何も知らないまま、この人のスケジュールのどこかに薄く書き込まれたまま、やがて消えていく。自分がそういう位置にいるのは、最初から分かっていたはずだ。平日夜/短時間。感情なしの関係希望。名前聞かないで。あのプロフィール文を見たときから、ここはそういう場所だと理解していた。理解していた、はずなのに。喉の奥がきゅっと詰まる。言葉を飲み込んだままの沈黙が、部屋の中でどんどん重くなっていく。隣から、布擦れの音がした。村上が、寝返りを打ったらしい。ベッドが小さく揺れる。横目でそちらをうかがうと、村上は片腕を枕にして横向きになっていた。天井ではなく、壁の時計のほうをぼんやり見ている。横顔の輪郭が、スタンドライトの光で柔らかく縁取られる。その横顔を、ベッドの上でも、会社のデスクでも、同じくらい見てきた。どちらの顔も、好きだった。「…」喉が鳴る。
last update最終更新日 : 2025-12-19
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25.「誰も愛せねぇよ」の重さ

新宿の夜風は、生ぬるくて、やけに冷たかった。ホテルの自動ドアが背後で閉まる音を聞きながら、高橋翔希は、しばらくその場に立ち尽くしていた。ガラスに映る自分の顔は、スーツ姿の「普通の会社員」でしかない。中身は、全然普通じゃなかった。足が勝手に動き出す。駅とは逆方向のネオン街のほうへ、ふらふらと。タバコの煙と、居酒屋の油の匂いと、水っぽい香水の匂いが混ざった空気を吸い込んで、胸の奥がきしむ。『お前には関係ないだろ』村上がベッドの上で言った一言が、耳の奥で何度もリピートされていた。関係ない。そうだ。そういうはずだった。最初から、「ここ」はそういう場所で。平日夜、短時間。名前も呼ばない。仕事の話もしない。感情なし。そこに自分で足を踏み入れておいて、今さら何に傷ついているんだ、と別の自分が冷静に突っ込んでくる。それでも、胸は痛い。『俺がお前とだけ会ってるって、いつ言った?』言われて当然のことを言われた感じがして、余計に痛い。雑居ビルの壁に、キャバクラの看板やカラオケの看板がぎっしり貼られている。どの店も、夜の楽しみを派手なフォントで謳っている。翔希の足は、そのどれにも向かわない。淡々とアスファルトの上を踏みしめるだけだ。信号待ちの横断歩道で立ち止まる。隣にいるスーツ姿の男たちは、仕事帰りのテンションで笑っていた。「でさー、その課長がさ」「マジかよ、それパワハラじゃん」笑いと愚痴と、くだらない冗談と。そういうもので夜は賑わっている。自分も、本来ならその輪のどこかに混ざっているはずだった。「…遊び、なんだからな」小さく呟く。村上の言葉を、そっくりそのままなぞる。遊びなんだから。そう何度も心の中で唱えれば、そのうち本当に軽く感じられるのだろうか。信号が青に変わった。人の波に押されるように、横断歩道を渡る。『じゃあ、なんであん
last update最終更新日 : 2025-12-20
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26.昇進コースと埋まらない空白

第一会議室のホワイトボード一面に、マーカーで書き込まれた数字と矢印が並んでいた。東京都内を対象にした新しい導入プラン。クラウドサービスの利用率の推移、競合との比較、コスト削減シミュレーション。高橋翔希は、その前に立ち、最後の一枚のスライドを画面に映し出した。「…以上が、次期四半期の提案案になります」声は自分で思っているより落ち着いていた。レーザーポインターの赤い光をグラフの頂点に当てながら、翔希は視線をゆっくり会議室内に滑らせた。長机の向こうで、石田課長が腕を組んでいる。隣には、課長より上の役職の部長が二人。その後ろに、席を少し離して座る若手たち。プロジェクターの熱で、会議室の空気がわずかに乾いていた。エアコンの風が、天井のあたりで微かにうなっている。沈黙が一拍置かれる。部長の一人が、手元の資料をぱたんと閉じた。「…いいんじゃないか」低い声が落ちる。「数字のストーリーが通ってるし、競合との差別化ポイントもはっきりしてる。石田くん」「はい」「この案でいこう。細部の詰めは任せる」「承知しました」石田が軽く会釈し、それから翔希のほうを向いた。「高橋、よくまとめたな」「いえ、皆さんに見てもらって修正してもらったおかげです」口ではそう返しながらも、胸の奥でふっと小さな誇りが膨らむ。白い会議室の壁に反射するプロジェクターの光。目を細めた部長の表情。ファイルに走るペンの音。この空間の中で、自分の提案が一つの基準として扱われている。二年前までは、会議室の隅でメモを取る役だったのに。部長が、少し笑いを含んだ目でこちらを見る。「高橋くん、最近よく頑張ってるって話、あちこちから聞くよ」「…ありがとうございます」「次のリーダー候補だな。石田くん、ちゃんと育てとけよ」「それはもう。うちのエースですから」エ
last update最終更新日 : 2025-12-21
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27.抱きしめるだけの夜

新宿の夜は、平日でもどこか浮ついている。ネオンの色が濃くて、ビル風が冷たくて、誰かが笑っている声と、誰かが悪酔いした声と、タクシーのクラクションが混ざる。高橋翔希は、駅前の人波を抜けて、見慣れたビジネスホテルの看板を見上げた。ここに通うようになって、もう何度目になるのか、指折り数えることはしなくなっていた。ロビーに入ると、いつも通り、きれいに並べられた観光パンフレットと、チェックイン待ちのスーツ姿の列。床の光沢に、天井の照明がぼんやりと滲んでいる。フロントでカードキーを受け取り、いつもの階数が刻まれたボタンを押す。エレベーターの鏡に映る自分は、ネクタイを少し緩めた、どこにでもいる営業マンの顔だった。疲れがないわけじゃないのに、どこか頬だけが上気しているのが、自分でも分かる。心臓の音が、エレベーターの密閉された狭さの中で、少しだけ大きく聞こえた。廊下に出ると、カーペットが足音を吸い込む。薄いクリーム色の壁。等間隔に並ぶルームナンバー。今日は、あの部屋番号ではない。けれど、同じフロアの、似たような数字が並ぶ中の一つ。カードキーをかざして、静かな電子音が鳴る。レバーを下げて、ドアを押す。「…お疲れさま」室内の灯りの下で、ベッドの端に腰掛けていた男が顔を上げた。村上遥人。会社では管理部の主任。ここでは、ただの「この部屋で会う相手」。ネクタイはすでに外されて、ワイシャツの首元が一つ分開いている。ジャケットはハンガーに掛けられ、ベッドの脇の壁に寄りかかっていた。「お疲れさまです」ドアを閉め、靴を脱ぐ。足元から、ホテル特有の柔らかい洗剤の匂いと、空調の乾いた風がまとわりついてくる。ベッドと壁の間の、小さなスペースに立ち止まる翔希に、遥人が軽く顎をしゃくった。「先、シャワー使っていいよ」「じゃあ、お言葉に甘えて」肩からビジネスバッグを降ろし、ジャケットを脱いで、荷物置き代わりの小さなソファに置く。動作は、もう何度も繰り返したものだ。
last update最終更新日 : 2025-12-22
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28.同じルートの恐怖

管理部のフロアは、今日もいつも通り地味だった。カーペットはくすんだグレー、間仕切りパネルも淡いグレー、机は白。色という意味では、ほとんど何もない。パソコンのファンの音と、プリンタが紙を吐き出す音、ところどころで鳴る電話。派手さはないが、その単調さが、村上遥人には心地よかった。画面には、支払予定表のエクセルが開いている。請求書番号、取引先名、支払期日、金額。セルを一つずつ確認して、内部システムに照らし合わせていく。数字を見ているときだけは、余計なことを考えずに済む。…はずだった。ふと、肩甲骨のあたりが、じわりと熱を持つ感覚が蘇る。昨夜、背中に回された腕の重さ。シーツに沈み込んだまま、何も言わずに自分にしがみついてきた体温。耳のすぐ後ろに落ちてきた、かすれた呼吸の音。遥人は、すっと視線を画面に戻した。セルに入力されていた数字が、一瞬だけ頭に入ってこなくなる。無意識に、同じ行をもう一度なぞる。「村上さん」デスクの横から、遠慮がちな声がした。顔を上げると、事務の後輩が、書類を二枚ほど持って立っていた。「さっき共有された稟議の修正、ここで合ってるか見てもらえますか」「ああ…うん。ありがとう」書類を受け取り、いつものように内容を確認する。誤字脱字、金額の桁、フローの順番。口は仕事用の言葉を選び、頭の一部は業務フローをなぞりながら、別の層で昨夜のホテルの天井を見上げている自分がいる。…高橋くん、意外と力あるんだよな。背中に食い込む腕の力を思い出して、肩をわずかに回した。一晩寝たくらいでは抜けない、鈍い疲労感。嫌な重さではない。むしろ、そこに誰かが触れていた証拠みたいで、変な話だが、少し落ち着く。「村上さん?」「ごめん。…ここね、承認者の部署名が古いままだから、最新のに直しといて」「了解です」後輩が去っていく背中を見送りながら、
last update最終更新日 : 2025-12-23
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29.普通の未来と異物の感情

グラスの中の氷が、カランと軽く鳴った。金曜の夜、新宿の雑居ビルの五階。木目調でまとめられた店内は、照明が少し落とし気味で、テーブルごとに仕切りがある。女の子たちの笑い声と、店員の掛け声と、焼き鳥の煙が混ざり合っていた。「でさ、そのとき課長がマジで真っ青になって…」中村が身振り手振りをつけて武勇伝を話し、向かい側の女子たちが「やば」「それドラマじゃん」と笑う。翔希は、その輪の中で、ジョッキを片手にそれなりのタイミングで笑い、相槌を打っていた。「高橋くんって、営業なんだよね」右隣の女性が、興味ありげに覗き込んでくる。髪をゆるく巻いた、丸顔で愛嬌のある子だ。「うん、クラウド系のシステムの営業。二十階がうちのフロアで」「すご、かっこいい。絶対電話とかビシッと決めるタイプでしょ」「いやいや、意外と噛みますよ。さっきもプレゼンで一回噛んだし」「謙遜〜」そんなやり取りにも、体が勝手に反応する。笑って肩をすくめると、隣の子が安心したようにまた質問を投げてくる。仕事の話、趣味の話、学生時代の話。高校でサッカーをしていたこと。最近はジムに行こうと思って会費だけ払っていること。休日は、映画を観たり、たまに同期と飲んだり。どれも嘘ではない。多少盛ったり、削ったりはしているけれど、会話の材料としては十分だ。「高橋、普通にモテるんで。こいつ、元カノ三人いますから」向かいの席の中村が、余計な情報をぶち込む。「え、そうなの?」「やめろって」「ほら見ろよ、こういうとこ。頼めばだいたい何でも聞いてくれるから」「それ、フォローになってないから」笑いが起きる。テーブルの上に並ぶグラスが触れ合い、アルコールの匂いが鼻の奥をくすぐった。合コン。昔なら、こういう場は嫌いではなかった。雰囲気に飲まれて、いい感じの子がいたらとりあえず連絡先を交換して、何度か飲みに行って、気が合えば付き合ってみる。「付き
last update最終更新日 : 2025-12-24
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30.「こういうの、やめませんか」の夜

ホテルの廊下は、どこも同じような匂いがする。柔軟剤と洗剤と、微かに残った煙草の名残。それが空調に攪拌されて、一定の温度で保たれている。翔希は、いつものフロアの、いつものような扉の前に立っていた。カードキーを握った手に、ほんの少し汗が滲んでいる。「…」二回、深く息を吸う。今日こそ言う。そう決めて、ここまで来た。決めたはずなのに、扉の前で足が止まる。喉の奥で、何かがひっかかったまま動かない。カードキーを差し込んで、ランプが緑に変わるのを確認する。カチャリと小さな音がして、ドアが開いた。「お疲れ」先に入っていた遥人が、ベッドサイドに腰を下ろしたまま顔を上げた。ネクタイは緩められ、上着はハンガーに掛けられている。白いシャツの袖を肘までまくって、手首の骨ばったラインが露わになっていた。「お疲れさまです」翔希は、ドアを閉めながら答える。部屋の匂いは、いつものビジネスホテルの匂いだ。前の客の気配は、清掃の洗剤とリネンの香りに上書きされている。壁紙も、ベッドも、机も、前に使った部屋とほとんど同じ。違うのは部屋番号くらいで、見慣れた箱の中に戻ってきた感覚があった。それでも、今日は空気の密度が、ほんの少しだけ違って感じる。「遅れなくてよかった」遥人が、ベッドの上に投げ出していた足を下ろして、立ち上がる。「高橋くんのほう、忙しかったでしょ」「まあ、そこそこ。でも今日は早めに切り上げました」「切り上げたって言えるのがすごいよ」穏やかな口調。いつも通りの、管理部の村上主任の声。「シャワー、どっち先に入る」「先、どうぞ」何度も繰り返されてきたやり取り。翔希は、ネクタイをほどきながら、鏡に映る自分の顔をちらりと見た。いつもより少し、硬い。笑えば、誤魔化せるだろうか。「高橋くん」
last update最終更新日 : 2025-12-25
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