アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 3

3 チャプター

1.ガラス張りの箱に息を吸う

山手線のドアが開いた瞬間、空気が押し返してくるみたいだった。人の匂いと、朝から焙煎され続けているコーヒーの甘い匂いと、ほんの少しの汗の気配が、渦になってホームに吐き出される。新宿駅のホームは、いつもながら騒がしいのに、どこか音が平板だった。アナウンスも、足音も、キャリーケースの転がる音も、全部まとめて一枚のざわめきになっている。高橋翔希は、半歩だけタイミングをずらして電車を降りた。流れに逆らわない程度に、でも流されすぎない程度に。そういう「ちょうどいい位置取り」は、この街に出てきてから自然と身についたものだ。改札を抜けるまでの通路は、人の背中しか見えない。黒や紺やグレーで塗りつぶされた、小さな布の壁。コンクリートに響くヒールの音に混じって、誰かの笑い声が短く弾けて、すぐに飲み込まれる。「今日も人多いな…」誰に聞かせるつもりでもなく、小さく呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。別に嫌いなわけじゃない。このざわざわした感じも、「東京っぽい」と言えばそうなのだろう。大学の友人に写真を送ったら、きっと羨ましがられる。改札を抜けると、ビル風が一気に頬を撫でた。ガラスと金属の光が混ざり合う街並みは、もうすっかり見慣れたはずなのに、時々ふと、自分がここに溶け込めているのかどうか分からなくなる。スマホの画面を親指でなぞる。時間は八時四十五分。九時の朝会には余裕で間に合う。出勤ルートを考えるまでもなく、足は自然といつもの道を選んでいた。横断歩道を渡るたびに、リグライズ・テックのビルが近づいてくる。三十階建ての、どこにでもありそうで、どこにもない、ガラス張りの箱。朝の光を受けて反射する外壁は、一瞬きれいだと思うのに、そのすぐあとで、どこか冷たいと感じてしまう。自動ドアが静かに開く。ロビーは、外の喧騒が嘘みたいに落ち着いていた。白い床、観葉植物、受付カウンター。なめらかに話す受付の女性の声と、天井近くまで伸びるガラス越しの空。冷房の風が、首元の肌をひやりと撫でた。社員証をかざしてゲートを抜けると、翔希は少しだけ背筋を伸ばした。ここから先は、「客先に出る人間」としての自分の顔を貼り付けるエリアだ。ネクタイの結び目を指で軽く確かめ、エレベーターに乗り込む。「おはようございます」鏡面仕上げの壁に映る自分の声が、狭い箱の中で跳ねた。乗り込んできた知らない部署の社員が、会釈を
last update最終更新日 : 2025-11-26
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2.数字の罠と仕様違い

時計の針が十一時を指す頃、営業フロアの空気は、朝とはまた違う種類の熱を帯びはじめていた。電話のコール音が少しずつ増え、キーボードを叩く音が途切れなく続く。コピー機は規則的に紙を吐き出し、誰かの笑い声が短く弾けては、すぐに数字と単語の飛び交うざわめきに溶けていく。高橋翔希は、自分の席に深く腰を沈めていた。机の上には、タブレットとノートPCと、昨日から使い回している紙資料の束。モニターには「A社向けクラウド導入提案書」のタイトルが表示され、その下にぎっしりとスライドのサムネイルが並んでいる。この案件が決まれば、今期の自分の評価はかなり上がる。ボーナスも期待できるし、部内での立ち位置も変わるかもしれない。そんなことは、わざわざ考えなくても分かっている。石田課長の「決めてこいよ」という軽い一言が、冗談半分じゃないことも。だからこそ、ミスはできない。画面に視線を近づけるようにして、翔希は細かい数字と文字を追った。クラウド利用料の月額、初期費用、オプション機能ごとの加算額。スライドの右下には、小さく「合計」の数字が並んでいる。そこまでは、昨日まで何度も確認した。資料の構成も、ストーリーも、プレゼンの流れも、頭の中に叩き込んである。あとは、午後の打ち合わせで滞りなく説明するだけ…のはずだった。違和感に気づいたのは、スクロールしていった先、十何枚目かのスライドだった。「…あれ」マウスを持つ指が止まる。画面を少し戻し、スライドのタイトルと、文中の数字をひとつひとつなぞっていく。目は表面的には文字を追っているのに、奥のほうで何かが引っかかっていた。「月額ユーザー数五百名を想定した場合…初期費用は…」小さく声に出して読み上げ、見積書のPDFを別ウィンドウで開く。二つの画面を見比べた瞬間、背中を汗が一筋、ゆっくりと落ちていく感覚がした。スライドに記載されている初期費用と、見積書に記載されている数字が、微妙に、しかし確実に違っている。スライドでは、「初期導入費:四百八十万円」。見積書では、「初期導入費:四百五十万円」。
last update最終更新日 : 2025-11-27
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3.管理部の影の支配者

管理部フロアに行こう、と腹をくくったのは、昼休み開始五分前だった。時計の短針と長針を見た瞬間、「今じゃない気がする」と反射的に思った。それでも、午後一でA社に持っていく資料を思い浮かべると、もう悠長なことは言っていられない、という感覚が、胃のあたりを強く押した。「行ってくる」誰に言うともなく呟いて立ち上がると、隣の席の中村が顔を上げた。「どこ行くんだよ。飯?」「いや、管理部。ちょっと確認したいことあって」「ああ…生きて帰ってこいよ」「お前さ…」軽口を返す余裕は、一応まだあった。その余裕が、虚勢なのか、本物なのかは自分でも判然としない。ノートPCだけ閉じて、社員証を首から下げ直し、翔希は営業フロアの出入り口へ向かった。自動ドアが開くと、冷房の風が一瞬強く当たる。営業フロア特有の熱気が、背中側に貼りついたまま離れず、そのまま廊下に持ち込まれたような気がした。管理部のフロアは、二つ上の階だ。同じビルの中なのに、行くのは年に何度もない。エレベーターのボタンを押すと、ちょうど下りのカゴが着いたところで、人がどっと吐き出されてきた。昼休みに出る社員たちの波をやり過ごし、翔希は空いたエレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、数字が二十から二十二へと変わる間、狭い箱の中に静けさが満ちる。営業フロアのざわめきが遠ざかるにつれて、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。「忙しい時間帯に来るもんじゃないよな…」思わず零れた独り言は、誰にも拾われない。昼前後の管理部がどれだけ慌ただしいか、直接見たことはなくても想像はつく。経費精算、各種申請の締め切り、月次の締め。数字と書類に追われているであろう時間に、営業部の若手が「すみません、見積りの数字がちょっと…」と乗り込んでいくのだ。それでも、行かないという選択肢はなかった。今は、自分のプライドよりも、午後の失敗のほうが怖い。エレベーターが開くと、空気が変わった。同じオフィスビルの一角なのに、温度が一度くらい下がったような感覚。照明は
last update最終更新日 : 2025-11-28
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