アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」 のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

46 チャプター

31.やめると言ってしまった場所で

言ってしまったあとで、部屋の空気が音を立てて形を変えるのを、翔希はほとんど物理的な痛みとして感じていた。「俺たち、こういうの、やめませんか」ベッドの上、まだシーツには体温が残り、シャワーの湿った匂いと、うっすらと汗と体液の気配が混ざっている。その真ん中に落とした一行が、じわじわと広がっていく。スタンドライトの淡いオレンジ色が、天井近くでぼんやりと滲んでいる。その下で、隣にいる男の呼吸が、微かに変わった。沈黙が長く伸びる。エアコンの送風音と、遠くの道路を走る車の音だけが、やけに耳についた。翔希は横になったまま、視界の端で遥人の横顔を窺う。薄い汗の光る喉、乱れた前髪、枕に押しつぶされた片耳。いつもなら、そのどれを見ても、ただ満たされた気分になるはずだった。今は、胸の奥に冷たいものがじわっと広がっていく。さすがにまずかったか、と頭の片隅が囁く。やめるって、言った。言えたはずの続きが、喉の奥で固まったまま動かない。「こういうの」を、どういうふうに指したかったのか。体だけの関係、アプリ、ホテル。言葉にする前に、沈黙だけが先に落ちた。しばらくして、ようやく遥人が口を開いた。「…そう」それだけ言って、また少し間が空く。天井を眺めていた視線が、ゆっくりと閉じたり開いたりする。それから、息を小さく吐いて、低い声が続いた。「高橋くんが、そうしたいなら。そうだね」「……」当たり前の返事だ。相手にやめようと言われたら、普通、止めない。頭では分かっているのに、その「そうだね」が、思った以上にずしんと落ちてきた。翔希は、思わず横を向いた。「俺が、そうしたいなら…ですか」照明の加減で、遥人の表情ははっきりと見えない。けれど、口元だけは分かる。笑ってはいなかった。かといって、怒っているというより、色が抜けたような無表情だった。「うん。嫌なのに続けるの、変でしょ」「嫌、って&h
last update最終更新日 : 2025-12-26
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32.「もう見たくないんです」の告白

同じホテルでも、階が違うと廊下の匂いまで少し違う気がした。消毒液と洗剤の混ざった匂いの奥に、香水だとか、外から持ち込まれた煙草の残り香だとかが、うっすらと沈殿している。白いカーペットには、スーツケースの車輪がつけた細い跡がいくつも走っていた。翔希は、その一本一本を数えるみたいに視線を落としながら歩いていた。手の中のカードキーが、汗で少し滑る。約束の時間より、五分だけ早く着きすぎた。エレベーターで階数表示を見つめながら、途中で一度引き返そうかとも思ったけれど、結局そのまま乗ってきてしまった。部屋番号のプレートの前で立ち止まる。壁にかかった小さな照明が、金属の数字をぼんやり照らしている。ノックしようとした拳を、いったん握りしめる。やめるって言ったあとに、また来ている自分がおかしくて、笑えるような、笑えないような気分になる。それでも、拳は勝手に動いた。こんこん、と控えめな音が、静かな廊下に落ちる。間を置かず、中からドアロックの外れる音がした。ドアが開いて、覗いたのは見慣れた顔だった。「…来たね」遥人は相変わらず、会社帰りのスーツのままだった。ネクタイだけ少し緩めていて、襟元からのぞく喉のあたりに、ほんのりと赤みが差している。「お疲れさまです」口から出たのは、完全に会社モードの挨拶だった。自分で聞いて、違和感に眉を寄せる。遥人もそれに気づいたのか、口元だけで小さく笑った。「お疲れ。…とりあえず、入って」靴を脱ぎ、部屋に上がる。レイアウトは見慣れたものだ。ベッド、壁掛けテレビ、小さなデスクと椅子。洗面台の向こうに、ユニットバス。違うのは、部屋番号と、今日の空気だけだった。ドアが閉まる音と同時に、外のざわめきが切れる。カーテンの隙間から、ネオンの光が細く差し込んでいる。スタンドライトを点けると、柔らかなオレンジ色が部屋の隅々に広がった。「シャワー、どうする」いつもの確認の声。いつもなら、何も考えず「先どうぞ」と返すタイミン
last update最終更新日 : 2025-12-27
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33.「誰も愛せねぇよ」と久我の影

静かな部屋に、「気が狂いそうになるんです」という言葉の残響だけが、いつまでも居座っていた。スタンドライトの柔らかい灯りが、ベッドの上の二人を斜めから照らしている。掛け布団は半分ほど足元に押しやられ、まだほんの少し、肌とシーツのあいだに体温が残っていた。遥人は、天井を見たまま、呼吸だけを細く繰り返していた。動けない、というのが正確だった。耳には、さっき翔希が吐き出した言葉のひとつひとつが、まだ生々しくこびりついている。アプリのオンライン表示。緑の吹き出し。「見たくない」「気が狂いそうになる」。全部、ちゃんと届いてしまっているのに、頭はそれを受け取ることを拒んでいた。「……お前」喉の奥が、ひりついた。ようやく絞り出した声は、いつもより少し低く、掠れていた。「勘違いしてんぞ」視線を横にずらすと、翔希がこちらを見ていた。汗に濡れた髪が額に張り付き、目だけが真っ直ぐに遥人を捉えている。あの、仕事中は素直で生意気な後輩の目だ。でも今は、それにどうしようもない熱が混ざっている。見ていられなくて、遥人は視線を天井に戻した。「これ、遊びだろ」言いながら、胸の奥がぞわりと逆立つ。「そういう約束で始めたじゃん」自分で決めたルールだ。平日夜、短時間。感情なし。名前も聞かない。そうやって切り分けておけば、何も壊れない。壊さないで済む。そのはずだった。隣で、シーツが微かに動く。翔希がほんの少し、身体を起こしたのが分かった。「分かってます」即答だった。その速さに、遥人のほうが一瞬言葉を失う。「最初は、俺もそういうつもりで始めたのも分かってます」翔希が、かすかに息を吸う音がする。「でも、それでも」その一言で、どこかのスイッチが嫌な手触りで押された。「…それでも、じゃねえよ」遥
last update最終更新日 : 2025-12-28
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34.「それでも俺が勝手に好きでいる」という宣言

静まり返った部屋の中で、エアコンの送風と、隣から聞こえるかすかな息遣いだけが、薄いシーツを震わせていた。天井の白が、スタンドライトの橙に染まっている。翔希は仰向けになったまま、そのぼんやりした色のにじみを見つめていた。さっきまでの会話が、まだ耳の奥でくすぶっている。俺、誰も愛せねぇよ。そういうの、もう無理なんだよ。遥人の声は、いつもと同じ落ち着いたトーンのはずなのに、どこか掠れていて、聞いた瞬間、胸の奥をぐっと掴まれた。普通なら、そこで引き下がるべきだ。ここで「分かりました」とか、「すみません」とか言って、笑ってごまかして、いつも通りに終電の時間を気にして帰れば良い。頭では、それが一番賢いやり方だと分かっている。それでも、胸の中の何かは、それを許さなかった。喉の奥が熱い。言葉になりきれない感情が、ぐつぐつと煮え立っている。翔希は、ゆっくりと横を向いた。隣には、同じように仰向けになった遥人がいる。乱れた黒髪が枕に落ちている。スタンドライトの光が頬のラインを撫でて、睫毛の影をくっきりと浮かび上がらせていた。目は、閉じていない。天井のどこか、曖昧な一点に視線を固定している。「……」唇が自然と開いた。考えるより先に、声が喉を通り抜けていく。「それでもいい」思ったよりもはっきりした声だった。自分でも驚くくらい、震えていなかった。遥人の視線が、ゆっくりとこちらに向く。黒目がちの瞳に、淡い驚きと、それに重なる苛立ちが浮かぶ。「何が『いい』んだよ」わずかに眉が寄る。乾いた声音。けれど、完全に突き放すほどの冷たさはなかった。それが、逆に怖い。翔希は、喉を鳴らして息を飲んだ。心臓がうるさい。胸の内側を、バチバチと静電気が走っているみたいだ。それでも、目を逸ら
last update最終更新日 : 2025-12-29
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35.じゃあお前、俺のこと抱けんのかよ

スタンドライトの橙色が、シーツの皺をやわく照らしていた。薄い掛け布団の下で、肌と肌が触れている。さっきまで絡み合っていた余熱だけが、まだベッドの上に残っていた。「……ほんと、面倒くさい後輩だよ」遥人はそう言って、息を吐いた。自分でも、声が少し掠れていたのが分かる。笑っているつもりなのに、笑えているかどうか怪しい。隣で仰向けになっている高橋は、黙ったまま天井を見ている。スタンドライトの光が、喉元の汗を細く光らせていた。面倒くさい。本当に。面倒くさいくせに、その言葉のひとつひとつが、いちいち胸の内側に引っかかる。俺が勝手に、好きでいるから。そう言った。勝手に好きでいます、って、なんだそれ。ふざけているようで、全然ふざけていない顔で。遥人は目を閉じた。瞼の裏に、別の顔が浮かぶ。『お前は特別だったよ』久我遼の、少し笑った横顔。あのときのホテルの部屋は、もっと派手な色合いだった。壁紙も、ライトも。ベージュとオレンジがきつくて、安っぽい香水と煙草の匂いが混ざっていた。それでも、自分にはあの空間が、少しだけ居場所みたいに思えていた。『結婚するから、もう会えない』あっさりと告げられた一言。指輪の跡が残る、薬指の白い輪っか。あの瞬間、何かが音を立てて折れた感覚を、体が覚えている。特別、って言葉なんて、もう二度と信じないと決めたはずだった。なのに。隣から聞こえた、「村上さんが誰を愛せなくても、俺のほうはもう、止められないんで」という声が、妙に耳に残って離れない。そんな簡単に、本気、なんて。「…そんな簡単に、好きとか言うなよ」気づけば、声に出ていた。高橋が、わずかに顔を横に向ける気配がする。視線を感じる。でも、そちらを見ない。天井
last update最終更新日 : 2025-12-30
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36.「一生抱いてたい」という約束

スタンドライトの橙色が、村上の輪郭だけを浮かび上がらせていた。距離は近いのに、空気の温度が一気に変わったように感じる。「じゃあお前、俺のことずっと抱けんのかよ」その一言が落ちた瞬間、翔希の思考は、ほんの数秒真っ白になった。ずっと、という音が、頭の中でじわじわと膨らむ。一生。責任。最後まで。具体的な期限なんて示されていないのに、その言葉が含んでいる重さは、二十代半ばの自分にも理解できる。軽いノリで返せる類の質問じゃない。喉の奥がカラカラに乾いていることに気づく。ごく、と唾を飲み込む音が、自分の耳にさえやけにはっきり響いた。村上は、ベッドの上で向かい合う姿勢のまま、翔希をまっすぐ見ていた。シーツの上に投げ出された膝。赤い跡が残る肌。かすかに上を向いた顎。目だけが、真っ直ぐだった。逃げ道なんて最初から用意していない、そう言われているみたいで、背筋をぞくりと冷たいものが走る。逃げるなら、今だ。笑ってごまかすことだってできる。「そんなの分かんないですよ」って、軽く受け流して、また元の「遊び」の距離に戻ることも、きっと、できなくはない。そうすれば、この先の怖い未来からは逃げられるかもしれない。でも、その未来はきっと、村上のいない未来だ。会社では普通に顔を合わせるだろう。管理部フロアで、書類の相談をして、いつもみたいに淡々と指摘をもらって。そのたびに、「ここだけなかったことにしていきましょう」と、笑って流していく。そうやって「なかったこと」にしていくうちに、自分の中の今夜の感覚も、少しずつ薄れていくだろう。それが一番楽で、安全で、正しい選択なのかもしれない。…本当に?胸のどこかで、はっきりとした否定の声が上がる。楽だからって、それでいいのか。一生、村上の背中を、「手を伸ばせば届くのに伸ばさなかった距離」に
last update最終更新日 : 2025-12-31
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37.村上遥人として抱く夜

沈黙が、じりじりと肌に貼りついていた。ベッドの上で向かい合ったまま、二人とも動かない。スタンドライトの橙色の明かりが、村上の頬に薄く影を落とし、その向こうで、カーテンの隙間から夜のネオンがぼやけて見える。「一生抱いてたい」と口にした自分の声が、まだこの狭い部屋の中に残っている気がして、翔希は喉の奥をそっと鳴らした。村上は、じっとこちらを見ていた。視線が絡んだまま、どちらも逸らさない時間が、やけに長く感じられる。先に視線を外したのは、村上のほうだった。ふい、と少し横を向き、天井を見上げるような角度で小さく息を吐く。「…そこまで言われたら」ぽつりと落ちた声は、いつもの落ち着いたトーンと少し違う。どこか乾いていて、それでいて諦め切れていない何かが滲んでいた。「逃げるほうがダサいよね」自嘲気味に笑いながら、村上は視線を戻す。その笑い方に、翔希の胸の奥がきゅっと縮む。諦めている人間の笑顔じゃない。怖がりながらも、まだどこかで期待してしまっている人の顔だ。ベッドの上で、村上の手がそっと動いた。シーツの皺を指先でなぞりながら、ためらうような軌跡を辿る。その指が、少しずつ近づいてきて、翔希の頬に触れた。ひやりとした指先だった。シャワーを浴びてからしばらく経って、外気で少し冷えた肌。でも、その奥に確かな体温が潜んでいる。今まで何度も触れられてきたはずの手なのに、こうして頬にそっと置かれるのは初めてだと、翔希は気づく。「高橋くん」名前を呼ばれ、まぶたがひくりと震えた。村上の親指が、頬骨のあたりをゆっくり撫でる。さっきまでの「遊び」のときに見せていた、迷いのない距離感とは違う。どこまで踏み込んでいいのか、自分で確かめながら進んでいるような、慎重な触れ方だった。顔が自然と近づく。息が触れ合いそうな距離で、一瞬だけ、二人とも動きを止めた。心臓の音がうるさい。
last update最終更新日 : 2026-01-01
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38.見慣れない天井とマグカップ

目を開けた瞬間、見慣れない白が視界いっぱいに広がった。天井だ、と気づくまでに数秒かかった。会社の寮でも、自分のワンルームでも、あのよく行くビジネスホテルでもない、微妙に黄ばんだ白。真っ直ぐではなく、少しだけ歪んでいる天井の線と、角に小さなひびが走っているのが見える。カーテンの隙間から、細く差し込んだ朝の光が、斜めに部屋を横切っていた。黄ばんだ天井の一部だけが、やけに眩しく照らされている。その光の筋の中に、浮遊する細かい埃が、ゆっくりと上下しているのが分かる。頭の中が、まだ夜と朝の境目に引っかかっていた。枕の匂いが違う。洗剤の香りが自分の部屋のものと違うし、枕の弾力も少し硬い。シーツの感触も、ホテルのパリッとしたものではなく、柔らかく何度も洗われたコットンの手触りだ。ゆっくりと、首を横に動かす。カーテンの向こうで、車の走る音と、人の足音がくぐもって聞こえてくる。どこかでトラックがバックするときの電子音が、小さく鳴った。ここが新宿であることを、音が教えてくる。視線を別の方向に向けると、壁際に細い本棚が立っているのが目に入った。背の高い文庫本がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、その上には、少し元気のない観葉植物が乗っている。窓際には、ハンガーラックにかかったシャツやスーツジャケット。キッチンの冷蔵庫には、光熱費の請求書らしい紙と、何かのメモがマグネットで留めてある。村上遥人の生活の匂いがする部屋だった。そこでようやく、翔希の頭に昨夜の断片が戻ってくる。ホテルのベッドの上で、本気でぶつかり合った声。喉の奥で絞り出した「一生抱いてたい」という自分の言葉。冗談では済ませられない重さを帯びて、空気を震わせたあの瞬間。それから、部屋を出たあと、いつものホテルとは違う方向に歩き出した村上の背中。「今日は、うち来る」そう言われて、少しだけ間を置いてから頷いた自分。駅から少し歩いた先の、古いマンションのエントランス。古びたエレベーターの、ゆっくりとした上昇の感覚。鍵の開く音。狭い玄関に並ぶ革靴。全部が、昨日の夜と今につながっている。そっか、と心の中で呟く。ここは、
last update最終更新日 : 2026-01-02
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39.「アプリ、消しませんか」と湯気の向こう

マグカップの中身は、少しずつ飲まれて、縁から一センチほど下がっていた。黒い液面に、窓から差し込む光が細く映っている。テーブルを挟んで向かい合ったまま、翔希と遥人は取りとめのない話を続けていた。「今日、午後イチからまた打ち合わせなんで」翔希がカップを持ったまま言う。「例の大型案件」「はい。仕様が微妙に固まってなくて、また先方の部長さんとディスカッションです」「大変だね」遥人はそう言って、軽く笑った。マグカップを片手で持ち上げて、ひとくち飲む。その横顔は、会社で書類を見ているときと同じ落ち着いた表情で、昨夜の、感情をむき出しにしていた顔とは別人みたいだった。「管理部にも、その案件の稟議また来ると思うから」「…あ、そうですよね」「資料、また見せてね。変なところないか一緒に確認しよう」「お願いします」仕事の話は、いつも通りに通じ合う。数字のこと、部署間の調整のこと、上にどう説明するか。そういう話題をしている間だけは、二人のあいだに流れる空気が、会社の会議室とそう変わらないものに戻る。けれど、ふと話が途切れると、途端に沈黙が重くなる。マグカップをテーブルに置くときの、陶器同士が当たる乾いた音。外を走る車のエンジン音。階上の住人が歩く足音。そんな生活の音が、沈黙の隙間を埋める。昨夜のことには、どちらも触れない。触れた途端、何かが変わってしまう気がして、慎重に避けている。そんな感じが、湯気の向こう側の空気に薄く漂っていた。「高橋くん、朝ごはん、ちゃんと食べてるの」ふいに、遥人が尋ねた。「え」「いつも、朝から飛ばしてるから。パンくらいは食べてんのかなって」「ああ…コンビニのおにぎりとか、たまに」「たまに」「時間ないと、缶コーヒーだけで出ちゃったりとか」「若いな」遥人が小さく苦笑する。「まあ、今日は飲んでるからいいけど」「村上
last update最終更新日 : 2026-01-03
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40.削除ボタンを押す夜

新宿駅の改札を抜けたとき、村上遥人はポケットの中のスマホが、いつもより少しだけ重く感じられた。人の波に押されるようにして階段を降り、地下通路を歩く。スーツの布が、すれ違う誰かのコートの袖と擦れる。どこかの店から漏れてくる揚げ物の匂いと、冷えたコンクリートの湿った匂いが混ざって鼻をくすぐる。頭の中には、さっきまでの仕事の残像よりも、朝のキッチンの映像が鮮明にこびりついていた。テーブルの上に置かれたスマホ。画面の上で、迷いながらもアイコンを長押しした高橋の指先。確認画面を前に、一瞬止まって、それでも「削除」を押した親指。あれを見ていたとき、自分の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。「…アプリ、消しませんか」湯気越しに聞こえた声。真剣というより、不器用に勇気を振り絞ったような響きだった。あのとき自分が口にした「今日は、やめとく」という言葉は、言い訳以外の何物でもないと分かっている。それでも、あそこで削除ボタンを押せなかった自分の指を、簡単に責めることもできない。ポケットの中で、スマホの角が太腿に当たる。そのわずかな感触が、妙に意識に残る。ここにまだ、あの世界と自分をつなぐ小さな穴がある。そのことが、落ち着かなくもあり、安心でもある。地上に出ると、夜の空気が頬に触れた。ビルの谷間から吹き抜ける風は少し冷たくて、日中に溜まった排気ガスの匂いを薄めてくれている。ネオンがにじんだように光っている。居酒屋の看板、カラオケの電光掲示板、「飲み放題」の文字が踊るメニュー看板。信号待ちの横断歩道の前で立ち止まり、遥人は人混みの向こうをぼんやりと眺めた。この街で、自分は何人と会ってきたんだろう、と何の気なしに数えようとして、すぐにやめる。正確な数字なんて分からないし、思い出したくもない顔だってある。ホテルの部屋番号だけを覚えている夜。終わったあと、相手の本名を聞くこともなく、帰り道に同じようなネオンを見上げながら「感情なし」と心の中で繰り返していた夜。その全部に、この街のどこかの光景が張り付いている。信号が青に変わる。人の波が動き出す。遥人も、その一部として歩き出した。
last update最終更新日 : 2026-01-04
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