アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」

アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」

last updateLast Updated : 2025-11-28
By:  中岡 始Updated just now
Language: Japanese
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「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」。 アプリで見つけたそのプロフィールの主が、職場で何度も助けてくれた先輩・村上だと知った夜、高橋は迷いながらも関係を受け入れる。 仕事では完璧で優秀な管理部の人間。 けれどシーツの上で村上は、「本気になるとろくなことにならない」「誰も愛せない」と、呪いのように繰り返す。 過去の誰かに、深く傷つけられたことだけは伝わるのに、その名前も経緯も教えてはくれない。 「遊びだから」「ルールだから」と境界線を引き続ける村上と、その線の向こう側に手を伸ばしてしまった高橋。 傷ごと、抱きしめたいと思ってしまったとき、ふたりの“平日夜”はゆっくりと形を変え始める。

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Chapter 1

1.ガラス張りの箱に息を吸う

山手線のドアが開いた瞬間、空気が押し返してくるみたいだった。

人の匂いと、朝から焙煎され続けているコーヒーの甘い匂いと、ほんの少しの汗の気配が、渦になってホームに吐き出される。新宿駅のホームは、いつもながら騒がしいのに、どこか音が平板だった。アナウンスも、足音も、キャリーケースの転がる音も、全部まとめて一枚のざわめきになっている。

高橋翔希は、半歩だけタイミングをずらして電車を降りた。流れに逆らわない程度に、でも流されすぎない程度に。そういう「ちょうどいい位置取り」は、この街に出てきてから自然と身についたものだ。

改札を抜けるまでの通路は、人の背中しか見えない。黒や紺やグレーで塗りつぶされた、小さな布の壁。コンクリートに響くヒールの音に混じって、誰かの笑い声が短く弾けて、すぐに飲み込まれる。

「今日も人多いな…」

誰に聞かせるつもりでもなく、小さく呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。別に嫌いなわけじゃない。このざわざわした感じも、「東京っぽい」と言えばそうなのだろう。大学の友人に写真を送ったら、きっと羨ましがられる。

改札を抜けると、ビル風が一気に頬を撫でた。ガラスと金属の光が混ざり合う街並みは、もうすっかり見慣れたはずなのに、時々ふと、自分がここに溶け込めているのかどうか分からなくなる。

スマホの画面を親指でなぞる。時間は八時四十五分。九時の朝会には余裕で間に合う。出勤ルートを考えるまでもなく、足は自然といつもの道を選んでいた。

横断歩道を渡るたびに、リグライズ・テックのビルが近づいてくる。三十階建ての、どこにでもありそうで、どこにもない、ガラス張りの箱。朝の光を受けて反射する外壁は、一瞬きれいだと思うのに、そのすぐあとで、どこか冷たいと感じてしまう。

自動ドアが静かに開く。ロビーは、外の喧騒が嘘みたいに落ち着いていた。白い床、観葉植物、受付カウンター。なめらかに話す受付の女性の声と、天井近くまで伸びるガラス越しの空。冷房の風が、首元の肌をひやりと撫でた。

社員証をかざしてゲートを抜けると、翔希は少しだけ背筋を伸ばした。ここから先は、「客先に出る人間」としての自分の顔を貼り付けるエリアだ。ネクタイの結び目を指で軽く確かめ、エレベーターに乗り込む。

「おはようございます」

鏡面仕上げの壁に映る自分の声が、狭い箱の中で跳ねた。乗り込んできた知らない部署の社員が、会釈を返す。エレベーターのドアが閉まると、外の光は切り取られて、天井の蛍光灯だけが頼りになる。

二十階の表示が光るまでの数十秒、耳に入るのは、誰かの喉の鳴る音や、スーツが擦れる細い音だけだった。

フロアに出ると、空気が少し変わる。営業本部のフロアは、管理部や技術部に比べて、目に見えない熱が強い。電話の呼び出し音、誰かの笑い声、プリンターの音。パーティションで区切られたブースの一つ一つに、数字と、期日と、期待が詰め込まれている。

翔希の席は、窓側に近い列の真ん中あたりだ。デュアルディスプレイの前に掛けると、椅子がわずかに軋んだ。バッグを足元に置き、ノートPCを起動する。画面が光り、未読メールの数が目に飛び込んでくる。

「おはよ、翔希。今日も元気そうでなにより」

後ろから軽く肩を叩かれて振り返ると、同期の中村拓巳が缶コーヒーを片手に立っていた。スーツのジャケットはすでに椅子の背にかかっていて、ネクタイも少し緩んでいる。朝からフルスロットルなその様子は、会社に入って三年経っても変わらない。

「おはよう。中村さんこそ、朝からそれ飲んでたら心臓やられますよ」

「細けぇことは気にすんなって。昨日の資料、ちゃんと送ったんだろ?」

「送りました。夜中の一時くらいまでかかりましたけど」

「お、さすが期待の星。うちの部の希望」

「誰が言ってました、それ」

「課長」

中村は、あっけらかんと答えた。

「高橋は持ってるからな、とか何とか。プレッシャー半端なくね?」

「聞きたくなかったです、それ」

苦笑しながらも、胸の中で少しだけくすぐったい感覚が広がる。期待されている、という感覚は、嫌いじゃない。高校のサッカー部でも、大学のゼミでも、「お前ならできるだろ」と言われることが多かった。重い時もあるけれど、その言葉に背中を押されてきたことも確かだ。

ただ、営業の世界の「期待」は、数字と、売上と、会社にとっての価値に直結している。うまくハマれば評価されるが、一度滑れば、それまでの信用が一気に削られていく。そういう空気を、この二年で嫌でも知った。

画面を操作しながら、メールの件名をざっと目で追う。今日中に対応するべきものにフラグを立て、顧客からの問い合わせと社内連絡を色分けしていく。社内チャットには、既に何件かのメンションが飛んでいた。

[第一営業部・高橋さんへ]

[午後のA社打ち合わせ、仕様変更の件で確認したいことがあります]

[管理部への申請書、前回のフォーマットから変わっているので注意してください]

文字列を追う目が自然と止まった。

管理部。申請書。フォーマット変更。

「また変わったのか…」

小さく漏れた呟きは、すぐにキーボードの打鍵音に紛れた。管理部の書式やルールは、半年に一度のペースで細かく変わっていく気がする。ルールが整備されていくのは会社として当然なのだろうが、現場としては、正直追いつくのに精一杯だ。

チャットの別のスレッドに目を移すと、「管理部/申請・承認窓口」というチャンネル名のところに、見慣れた名前が並んでいた。

[管理部 村上]

[管理部 佐伯]

「困ったときは村上さんに聞け」

入社一年目の頃、石田課長に言われた言葉を、ふと思い出す。

「管理部の村上くんっているだろ。あの人に聞けば、だいたいのことはなんとかなるから。書類でも、ルールでも、誰に話通せばいいかも含めて。あいつ、管理部の影のエースだからさ」

直接話したことは、正直あまりない。申請書を出す際にメールで名前を見る程度で、顔と名前が完全に一致しているわけでもない。それでも、「困ったときの村上さん」というフレーズだけは、営業部の中で暗黙の共通認識になっていた。

どんな人なんだろう、と、一瞬だけ思う。だが、朝のルーティンがそれ以上の想像を許さなかった。頭の中に仕事のToDoが次々と並び、空白を埋めていく。

八時五十五分。チャットに朝会の通知が飛ぶ。

[第一営業部:9:00〜朝会開始 会議室B集合]

椅子から立ち上がり、タブレットとメモ帳を手に取る。中村も隣の席からひょいと顔を出した。

「行きますか、エース」

「そういうのやめてくださいって」

口で文句を言いながらも、足取りは自然と早くなる。評価される場に向かうときの、この微妙な高揚感は、どうにも誤魔化せない。

会議室Bは、窓が一面ガラス張りになっていて、向かいのビルと空が四角く切り取られていた。長机をコの字に並べた真ん中に、プロジェクターの光がぼんやりと浮かぶ。

部屋に入ると、すでに数人の先輩社員が着席していた。資料をめくる音、紙コップを机に置く音、短い挨拶。石田誠課長は、いつものようにホワイトボードの前に立ち、資料を手にしている。

「おはようございます」

一斉に声が重なる中、翔希も頭を下げた。席に座り、テーブルの上にタブレットとペンを置く。プロジェクターの光が、天井の白い板に淡く反射している。

朝会は、前日の売上報告と、今後の案件の進捗確認から始まった。数字がスクリーンに並んでいくたびに、空気のどこかが少しだけ重くなる。誰がどれだけ受注しているか、どの案件が危ないか。そのすべてが、無機質なグラフと表になって、視界に突きつけられる。

「じゃあ次、高橋」

名前を呼ばれて顔を上げると、課長といくつかの視線が自分に集まっているのが分かる。

「はい。A社のクラウド導入案件ですが、昨日、見積りと仕様書の最終版を送付しました。本日午後に先方との最終打ち合わせがあり、その場で受注可否の最終判断をいただく予定です」

少しだけ喉が乾く。水の入った紙コップを手にとるのは、なんだか負けを認めるみたいで、躊躇われた。

「先方の反応は?」

「今のところ、提案内容そのものには前向きです。ただ、競合も複数入っているので、細かい条件面で詰められる可能性があります」

「いいじゃないか。そこで勝ち切るのがうちの営業だ」

石田は、にやりと口の端を上げた。

「高橋、お前の資料は分かりやすいし、説明も上手い。昨日のレビューでも評判良かったぞ。このままいけ」

「ありがとうございます」

素直に礼を言いながらも、胸の中で「資料が分かりやすい」のは、本当に自分だけの功績ではないという感覚がくすぶっている。仕様の整合性や、見積りの細かい数字は、管理部がチェックしてくれている。さらに言えば、その調整を現場の感覚に落とし込んでくれたのは、メール越しの誰かだ。

しかし、この場でその名前が出ることはない。朝会で評価されるのは、案件を前に進めている営業の顔だけだ。

報告を終えると、話題は他のメンバーの案件に移っていく。翔希はメモを取りながら、視界の端で際限なくスクロールされていくグラフの線を眺めた。数字の上がり下がりが、人の努力や失敗や運を薄く均したもののように見える瞬間がある。

会議が終わると、部屋の空気は少し軽くなった。

「高橋、午後のA社、同行するから」

会議室を出るタイミングで、石田に肩を叩かれた。

「はい。よろしくお願いします」

「ま、これ決めれば今期はかなり楽になるぞ。期待してるからな」

「プレッシャーかけますね」

「期待してなきゃこんなこと言わねえよ」

口ではそう言いながら、課長は軽く笑った。その笑い方が、悪意のないものだと分かるからこそ、余計に気が抜けない。

デスクに戻ると、窓の向こうに、さっき会議室から見たのと同じ空が広がっていた。青とも灰色ともつかない、ぼんやりとした色合い。隙間なく立ち並ぶビルの合間から、細い光の筋だけが地面に落ちている。

自分もその中の一つの点に過ぎないのだという感覚が、ふと腹の底から浮かび上がる。誰か一人がいなくなっても、このフロアのパソコンは変わらず起動され、電話は鳴り続けるだろう。そう思うと、少しだけ胸が詰まった。

「…何考えてんだか」

自分で自分にツッコミを入れて、マウスを握り直す。センチメンタルになるのは柄じゃないし、そういうことを考え始めるとキリがない。とりあえず、目の前のメールを片付けるほうが先だ。

未読メールの中から、管理部からの一本を選んで開く。

[差出人:管理部/村上遥人]

[件名:A社案件 見積書フォーマットについて]

名前を見た瞬間、心臓がほんの少しだけ強く打った気がした。

本文には、見積書のフォーマット変更点と、それに伴う申請手順の補足が淡々と書かれていた。文章は簡潔で分かりやすく、専門用語には注釈がつけられている。最後に、「不明点あればいつでもどうぞ」と一文が添えられていた。

このメールの差出人が、あの「困ったときの村上さん」なのだろう。想像していたよりも、ずっと柔らかい文章だった。

無料で凄腕のコンサルがついてるみたいなものだよ、と、誰かが言っていた気がする。確かに、メール一本で助けてもらえると思うと心強い。

それでも、翔希はすぐに返信ボタンを押しはしなかった。まだ「困っている」と言うほど追い詰められてはいない、と思い込みたい部分があった。

大丈夫だ。これくらいなら、自分でなんとかできる。

そう思いながらも、デスクの端に置かれた紙コップの水は、ほとんど減らないまま、時間だけが静かに過ぎていく。

午前中は、メールの返事を書いたり、資料の細かい修正をしたりしているうちに終わった。社内チャットは絶え間なく通知を送り続け、誰かの名前がポップアップで画面の端に現れては消える。

昼休みが近づくと、オフィスのざわめきの質が少し変わる。お腹の空いた音や、コンビニの袋を持つ人の姿が増えていく。

「高橋、今日どうする? 外行く?」

中村が椅子の背にもたれかかりながら声をかけてきた。

「うーん…午後の資料、もうちょい見直したいんで、今日は社食でいいっす」

「真面目だなあ。まあ、A社だしな」

「決まれば楽になりますし」

「だよな。決めてこいよ。そしたら今度うまいもん奢ってくれ」

「なんで俺が奢る側になってるんですか」

「成功したやつが奢るルール。知らないの?」

適当なことを言って笑う中村の声を聞きながら、翔希は社内チャットの通知欄から目を離さなかった。

画面の隅で、もう一度だけ「管理部/村上」の名前が光る。そこにカーソルを乗せかけて、やめる。

まだいい。まだ、そこまで困ってない。

ほんの少しだけ呼吸が浅くなっていることに、翔希自身は気づいていなかった。ただ、胸の奥で、目に見えない何かが少しずつ膨らんでいくのを、漠然と感じるだけだ。

このガラス張りの箱の中で、自分はそれなりにうまくやっている。数字もそれなりに出しているし、上司からの評価も悪くない。同期と比べれば、順調なほうだと言われることも多い。

だから、これでいいのだろう、と自分に言い聞かせる。

外の世界と、ここを隔てる透明な壁は、触れれば冷たそうだ。けれど、それでも守られている感覚もある。外に放り出されるよりは、マシだ。

そんな風に思おうとするたびに、窓の向こうに広がる空が、どこまでも遠く感じられる。

何かがおかしい、とまでは思わない。ただ、どこかが少し息苦しい。その正体に、まだ名前がつけられないまま、翔希は再び、画面の中の数字と文字列に意識を沈めていった。

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1.ガラス張りの箱に息を吸う
山手線のドアが開いた瞬間、空気が押し返してくるみたいだった。人の匂いと、朝から焙煎され続けているコーヒーの甘い匂いと、ほんの少しの汗の気配が、渦になってホームに吐き出される。新宿駅のホームは、いつもながら騒がしいのに、どこか音が平板だった。アナウンスも、足音も、キャリーケースの転がる音も、全部まとめて一枚のざわめきになっている。高橋翔希は、半歩だけタイミングをずらして電車を降りた。流れに逆らわない程度に、でも流されすぎない程度に。そういう「ちょうどいい位置取り」は、この街に出てきてから自然と身についたものだ。改札を抜けるまでの通路は、人の背中しか見えない。黒や紺やグレーで塗りつぶされた、小さな布の壁。コンクリートに響くヒールの音に混じって、誰かの笑い声が短く弾けて、すぐに飲み込まれる。「今日も人多いな…」誰に聞かせるつもりでもなく、小さく呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。別に嫌いなわけじゃない。このざわざわした感じも、「東京っぽい」と言えばそうなのだろう。大学の友人に写真を送ったら、きっと羨ましがられる。改札を抜けると、ビル風が一気に頬を撫でた。ガラスと金属の光が混ざり合う街並みは、もうすっかり見慣れたはずなのに、時々ふと、自分がここに溶け込めているのかどうか分からなくなる。スマホの画面を親指でなぞる。時間は八時四十五分。九時の朝会には余裕で間に合う。出勤ルートを考えるまでもなく、足は自然といつもの道を選んでいた。横断歩道を渡るたびに、リグライズ・テックのビルが近づいてくる。三十階建ての、どこにでもありそうで、どこにもない、ガラス張りの箱。朝の光を受けて反射する外壁は、一瞬きれいだと思うのに、そのすぐあとで、どこか冷たいと感じてしまう。自動ドアが静かに開く。ロビーは、外の喧騒が嘘みたいに落ち着いていた。白い床、観葉植物、受付カウンター。なめらかに話す受付の女性の声と、天井近くまで伸びるガラス越しの空。冷房の風が、首元の肌をひやりと撫でた。社員証をかざしてゲートを抜けると、翔希は少しだけ背筋を伸ばした。ここから先は、「客先に出る人間」としての自分の顔を貼り付けるエリアだ。ネクタイの結び目を指で軽く確かめ、エレベーターに乗り込む。「おはようございます」鏡面仕上げの壁に映る自分の声が、狭い箱の中で跳ねた。乗り込んできた知らない部署の社員が、会釈を
last updateLast Updated : 2025-11-26
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2.数字の罠と仕様違い
時計の針が十一時を指す頃、営業フロアの空気は、朝とはまた違う種類の熱を帯びはじめていた。電話のコール音が少しずつ増え、キーボードを叩く音が途切れなく続く。コピー機は規則的に紙を吐き出し、誰かの笑い声が短く弾けては、すぐに数字と単語の飛び交うざわめきに溶けていく。高橋翔希は、自分の席に深く腰を沈めていた。机の上には、タブレットとノートPCと、昨日から使い回している紙資料の束。モニターには「A社向けクラウド導入提案書」のタイトルが表示され、その下にぎっしりとスライドのサムネイルが並んでいる。この案件が決まれば、今期の自分の評価はかなり上がる。ボーナスも期待できるし、部内での立ち位置も変わるかもしれない。そんなことは、わざわざ考えなくても分かっている。石田課長の「決めてこいよ」という軽い一言が、冗談半分じゃないことも。だからこそ、ミスはできない。画面に視線を近づけるようにして、翔希は細かい数字と文字を追った。クラウド利用料の月額、初期費用、オプション機能ごとの加算額。スライドの右下には、小さく「合計」の数字が並んでいる。そこまでは、昨日まで何度も確認した。資料の構成も、ストーリーも、プレゼンの流れも、頭の中に叩き込んである。あとは、午後の打ち合わせで滞りなく説明するだけ…のはずだった。違和感に気づいたのは、スクロールしていった先、十何枚目かのスライドだった。「…あれ」マウスを持つ指が止まる。画面を少し戻し、スライドのタイトルと、文中の数字をひとつひとつなぞっていく。目は表面的には文字を追っているのに、奥のほうで何かが引っかかっていた。「月額ユーザー数五百名を想定した場合…初期費用は…」小さく声に出して読み上げ、見積書のPDFを別ウィンドウで開く。二つの画面を見比べた瞬間、背中を汗が一筋、ゆっくりと落ちていく感覚がした。スライドに記載されている初期費用と、見積書に記載されている数字が、微妙に、しかし確実に違っている。スライドでは、「初期導入費:四百八十万円」。見積書では、「初期導入費:四百五十万円」。
last updateLast Updated : 2025-11-27
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3.管理部の影の支配者
管理部フロアに行こう、と腹をくくったのは、昼休み開始五分前だった。時計の短針と長針を見た瞬間、「今じゃない気がする」と反射的に思った。それでも、午後一でA社に持っていく資料を思い浮かべると、もう悠長なことは言っていられない、という感覚が、胃のあたりを強く押した。「行ってくる」誰に言うともなく呟いて立ち上がると、隣の席の中村が顔を上げた。「どこ行くんだよ。飯?」「いや、管理部。ちょっと確認したいことあって」「ああ…生きて帰ってこいよ」「お前さ…」軽口を返す余裕は、一応まだあった。その余裕が、虚勢なのか、本物なのかは自分でも判然としない。ノートPCだけ閉じて、社員証を首から下げ直し、翔希は営業フロアの出入り口へ向かった。自動ドアが開くと、冷房の風が一瞬強く当たる。営業フロア特有の熱気が、背中側に貼りついたまま離れず、そのまま廊下に持ち込まれたような気がした。管理部のフロアは、二つ上の階だ。同じビルの中なのに、行くのは年に何度もない。エレベーターのボタンを押すと、ちょうど下りのカゴが着いたところで、人がどっと吐き出されてきた。昼休みに出る社員たちの波をやり過ごし、翔希は空いたエレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、数字が二十から二十二へと変わる間、狭い箱の中に静けさが満ちる。営業フロアのざわめきが遠ざかるにつれて、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。「忙しい時間帯に来るもんじゃないよな…」思わず零れた独り言は、誰にも拾われない。昼前後の管理部がどれだけ慌ただしいか、直接見たことはなくても想像はつく。経費精算、各種申請の締め切り、月次の締め。数字と書類に追われているであろう時間に、営業部の若手が「すみません、見積りの数字がちょっと…」と乗り込んでいくのだ。それでも、行かないという選択肢はなかった。今は、自分のプライドよりも、午後の失敗のほうが怖い。エレベーターが開くと、空気が変わった。同じオフィスビルの一角なのに、温度が一度くらい下がったような感覚。照明は
last updateLast Updated : 2025-11-28
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