LOGIN「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」。 アプリで見つけたそのプロフィールの主が、職場で何度も助けてくれた先輩・村上だと知った夜、高橋は迷いながらも関係を受け入れる。 仕事では完璧で優秀な管理部の人間。 けれどシーツの上で村上は、「本気になるとろくなことにならない」「誰も愛せない」と、呪いのように繰り返す。 過去の誰かに、深く傷つけられたことだけは伝わるのに、その名前も経緯も教えてはくれない。 「遊びだから」「ルールだから」と境界線を引き続ける村上と、その線の向こう側に手を伸ばしてしまった高橋。 傷ごと、抱きしめたいと思ってしまったとき、ふたりの“平日夜”はゆっくりと形を変え始める。
View More山手線のドアが開いた瞬間、空気が押し返してくるみたいだった。
人の匂いと、朝から焙煎され続けているコーヒーの甘い匂いと、ほんの少しの汗の気配が、渦になってホームに吐き出される。新宿駅のホームは、いつもながら騒がしいのに、どこか音が平板だった。アナウンスも、足音も、キャリーケースの転がる音も、全部まとめて一枚のざわめきになっている。
高橋翔希は、半歩だけタイミングをずらして電車を降りた。流れに逆らわない程度に、でも流されすぎない程度に。そういう「ちょうどいい位置取り」は、この街に出てきてから自然と身についたものだ。
改札を抜けるまでの通路は、人の背中しか見えない。黒や紺やグレーで塗りつぶされた、小さな布の壁。コンクリートに響くヒールの音に混じって、誰かの笑い声が短く弾けて、すぐに飲み込まれる。
「今日も人多いな…」
誰に聞かせるつもりでもなく、小さく呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。別に嫌いなわけじゃない。このざわざわした感じも、「東京っぽい」と言えばそうなのだろう。大学の友人に写真を送ったら、きっと羨ましがられる。
改札を抜けると、ビル風が一気に頬を撫でた。ガラスと金属の光が混ざり合う街並みは、もうすっかり見慣れたはずなのに、時々ふと、自分がここに溶け込めているのかどうか分からなくなる。
スマホの画面を親指でなぞる。時間は八時四十五分。九時の朝会には余裕で間に合う。出勤ルートを考えるまでもなく、足は自然といつもの道を選んでいた。
横断歩道を渡るたびに、リグライズ・テックのビルが近づいてくる。三十階建ての、どこにでもありそうで、どこにもない、ガラス張りの箱。朝の光を受けて反射する外壁は、一瞬きれいだと思うのに、そのすぐあとで、どこか冷たいと感じてしまう。
自動ドアが静かに開く。ロビーは、外の喧騒が嘘みたいに落ち着いていた。白い床、観葉植物、受付カウンター。なめらかに話す受付の女性の声と、天井近くまで伸びるガラス越しの空。冷房の風が、首元の肌をひやりと撫でた。
社員証をかざしてゲートを抜けると、翔希は少しだけ背筋を伸ばした。ここから先は、「客先に出る人間」としての自分の顔を貼り付けるエリアだ。ネクタイの結び目を指で軽く確かめ、エレベーターに乗り込む。
「おはようございます」
鏡面仕上げの壁に映る自分の声が、狭い箱の中で跳ねた。乗り込んできた知らない部署の社員が、会釈を返す。エレベーターのドアが閉まると、外の光は切り取られて、天井の蛍光灯だけが頼りになる。
二十階の表示が光るまでの数十秒、耳に入るのは、誰かの喉の鳴る音や、スーツが擦れる細い音だけだった。
フロアに出ると、空気が少し変わる。営業本部のフロアは、管理部や技術部に比べて、目に見えない熱が強い。電話の呼び出し音、誰かの笑い声、プリンターの音。パーティションで区切られたブースの一つ一つに、数字と、期日と、期待が詰め込まれている。
翔希の席は、窓側に近い列の真ん中あたりだ。デュアルディスプレイの前に掛けると、椅子がわずかに軋んだ。バッグを足元に置き、ノートPCを起動する。画面が光り、未読メールの数が目に飛び込んでくる。
「おはよ、翔希。今日も元気そうでなにより」
後ろから軽く肩を叩かれて振り返ると、同期の中村拓巳が缶コーヒーを片手に立っていた。スーツのジャケットはすでに椅子の背にかかっていて、ネクタイも少し緩んでいる。朝からフルスロットルなその様子は、会社に入って三年経っても変わらない。
「おはよう。中村さんこそ、朝からそれ飲んでたら心臓やられますよ」
「細けぇことは気にすんなって。昨日の資料、ちゃんと送ったんだろ?」
「送りました。夜中の一時くらいまでかかりましたけど」
「お、さすが期待の星。うちの部の希望」
「誰が言ってました、それ」
「課長」
中村は、あっけらかんと答えた。
「高橋は持ってるからな、とか何とか。プレッシャー半端なくね?」
「聞きたくなかったです、それ」
苦笑しながらも、胸の中で少しだけくすぐったい感覚が広がる。期待されている、という感覚は、嫌いじゃない。高校のサッカー部でも、大学のゼミでも、「お前ならできるだろ」と言われることが多かった。重い時もあるけれど、その言葉に背中を押されてきたことも確かだ。
ただ、営業の世界の「期待」は、数字と、売上と、会社にとっての価値に直結している。うまくハマれば評価されるが、一度滑れば、それまでの信用が一気に削られていく。そういう空気を、この二年で嫌でも知った。
画面を操作しながら、メールの件名をざっと目で追う。今日中に対応するべきものにフラグを立て、顧客からの問い合わせと社内連絡を色分けしていく。社内チャットには、既に何件かのメンションが飛んでいた。
[第一営業部・高橋さんへ]
[午後のA社打ち合わせ、仕様変更の件で確認したいことがあります] [管理部への申請書、前回のフォーマットから変わっているので注意してください]文字列を追う目が自然と止まった。
管理部。申請書。フォーマット変更。
「また変わったのか…」
小さく漏れた呟きは、すぐにキーボードの打鍵音に紛れた。管理部の書式やルールは、半年に一度のペースで細かく変わっていく気がする。ルールが整備されていくのは会社として当然なのだろうが、現場としては、正直追いつくのに精一杯だ。
チャットの別のスレッドに目を移すと、「管理部/申請・承認窓口」というチャンネル名のところに、見慣れた名前が並んでいた。
[管理部 村上]
[管理部 佐伯]「困ったときは村上さんに聞け」
入社一年目の頃、石田課長に言われた言葉を、ふと思い出す。
「管理部の村上くんっているだろ。あの人に聞けば、だいたいのことはなんとかなるから。書類でも、ルールでも、誰に話通せばいいかも含めて。あいつ、管理部の影のエースだからさ」
直接話したことは、正直あまりない。申請書を出す際にメールで名前を見る程度で、顔と名前が完全に一致しているわけでもない。それでも、「困ったときの村上さん」というフレーズだけは、営業部の中で暗黙の共通認識になっていた。
どんな人なんだろう、と、一瞬だけ思う。だが、朝のルーティンがそれ以上の想像を許さなかった。頭の中に仕事のToDoが次々と並び、空白を埋めていく。
八時五十五分。チャットに朝会の通知が飛ぶ。
[第一営業部:9:00〜朝会開始 会議室B集合]
椅子から立ち上がり、タブレットとメモ帳を手に取る。中村も隣の席からひょいと顔を出した。
「行きますか、エース」
「そういうのやめてくださいって」
口で文句を言いながらも、足取りは自然と早くなる。評価される場に向かうときの、この微妙な高揚感は、どうにも誤魔化せない。
会議室Bは、窓が一面ガラス張りになっていて、向かいのビルと空が四角く切り取られていた。長机をコの字に並べた真ん中に、プロジェクターの光がぼんやりと浮かぶ。
部屋に入ると、すでに数人の先輩社員が着席していた。資料をめくる音、紙コップを机に置く音、短い挨拶。石田誠課長は、いつものようにホワイトボードの前に立ち、資料を手にしている。
「おはようございます」
一斉に声が重なる中、翔希も頭を下げた。席に座り、テーブルの上にタブレットとペンを置く。プロジェクターの光が、天井の白い板に淡く反射している。
朝会は、前日の売上報告と、今後の案件の進捗確認から始まった。数字がスクリーンに並んでいくたびに、空気のどこかが少しだけ重くなる。誰がどれだけ受注しているか、どの案件が危ないか。そのすべてが、無機質なグラフと表になって、視界に突きつけられる。
「じゃあ次、高橋」
名前を呼ばれて顔を上げると、課長といくつかの視線が自分に集まっているのが分かる。
「はい。A社のクラウド導入案件ですが、昨日、見積りと仕様書の最終版を送付しました。本日午後に先方との最終打ち合わせがあり、その場で受注可否の最終判断をいただく予定です」
少しだけ喉が乾く。水の入った紙コップを手にとるのは、なんだか負けを認めるみたいで、躊躇われた。
「先方の反応は?」
「今のところ、提案内容そのものには前向きです。ただ、競合も複数入っているので、細かい条件面で詰められる可能性があります」
「いいじゃないか。そこで勝ち切るのがうちの営業だ」
石田は、にやりと口の端を上げた。
「高橋、お前の資料は分かりやすいし、説明も上手い。昨日のレビューでも評判良かったぞ。このままいけ」
「ありがとうございます」
素直に礼を言いながらも、胸の中で「資料が分かりやすい」のは、本当に自分だけの功績ではないという感覚がくすぶっている。仕様の整合性や、見積りの細かい数字は、管理部がチェックしてくれている。さらに言えば、その調整を現場の感覚に落とし込んでくれたのは、メール越しの誰かだ。
しかし、この場でその名前が出ることはない。朝会で評価されるのは、案件を前に進めている営業の顔だけだ。
報告を終えると、話題は他のメンバーの案件に移っていく。翔希はメモを取りながら、視界の端で際限なくスクロールされていくグラフの線を眺めた。数字の上がり下がりが、人の努力や失敗や運を薄く均したもののように見える瞬間がある。
会議が終わると、部屋の空気は少し軽くなった。
「高橋、午後のA社、同行するから」
会議室を出るタイミングで、石田に肩を叩かれた。
「はい。よろしくお願いします」
「ま、これ決めれば今期はかなり楽になるぞ。期待してるからな」
「プレッシャーかけますね」
「期待してなきゃこんなこと言わねえよ」
口ではそう言いながら、課長は軽く笑った。その笑い方が、悪意のないものだと分かるからこそ、余計に気が抜けない。
デスクに戻ると、窓の向こうに、さっき会議室から見たのと同じ空が広がっていた。青とも灰色ともつかない、ぼんやりとした色合い。隙間なく立ち並ぶビルの合間から、細い光の筋だけが地面に落ちている。
自分もその中の一つの点に過ぎないのだという感覚が、ふと腹の底から浮かび上がる。誰か一人がいなくなっても、このフロアのパソコンは変わらず起動され、電話は鳴り続けるだろう。そう思うと、少しだけ胸が詰まった。
「…何考えてんだか」
自分で自分にツッコミを入れて、マウスを握り直す。センチメンタルになるのは柄じゃないし、そういうことを考え始めるとキリがない。とりあえず、目の前のメールを片付けるほうが先だ。
未読メールの中から、管理部からの一本を選んで開く。
[差出人:管理部/村上遥人]
[件名:A社案件 見積書フォーマットについて]名前を見た瞬間、心臓がほんの少しだけ強く打った気がした。
本文には、見積書のフォーマット変更点と、それに伴う申請手順の補足が淡々と書かれていた。文章は簡潔で分かりやすく、専門用語には注釈がつけられている。最後に、「不明点あればいつでもどうぞ」と一文が添えられていた。
このメールの差出人が、あの「困ったときの村上さん」なのだろう。想像していたよりも、ずっと柔らかい文章だった。
無料で凄腕のコンサルがついてるみたいなものだよ、と、誰かが言っていた気がする。確かに、メール一本で助けてもらえると思うと心強い。
それでも、翔希はすぐに返信ボタンを押しはしなかった。まだ「困っている」と言うほど追い詰められてはいない、と思い込みたい部分があった。
大丈夫だ。これくらいなら、自分でなんとかできる。
そう思いながらも、デスクの端に置かれた紙コップの水は、ほとんど減らないまま、時間だけが静かに過ぎていく。
午前中は、メールの返事を書いたり、資料の細かい修正をしたりしているうちに終わった。社内チャットは絶え間なく通知を送り続け、誰かの名前がポップアップで画面の端に現れては消える。
昼休みが近づくと、オフィスのざわめきの質が少し変わる。お腹の空いた音や、コンビニの袋を持つ人の姿が増えていく。
「高橋、今日どうする? 外行く?」
中村が椅子の背にもたれかかりながら声をかけてきた。
「うーん…午後の資料、もうちょい見直したいんで、今日は社食でいいっす」
「真面目だなあ。まあ、A社だしな」
「決まれば楽になりますし」
「だよな。決めてこいよ。そしたら今度うまいもん奢ってくれ」
「なんで俺が奢る側になってるんですか」
「成功したやつが奢るルール。知らないの?」
適当なことを言って笑う中村の声を聞きながら、翔希は社内チャットの通知欄から目を離さなかった。
画面の隅で、もう一度だけ「管理部/村上」の名前が光る。そこにカーソルを乗せかけて、やめる。
まだいい。まだ、そこまで困ってない。
ほんの少しだけ呼吸が浅くなっていることに、翔希自身は気づいていなかった。ただ、胸の奥で、目に見えない何かが少しずつ膨らんでいくのを、漠然と感じるだけだ。
このガラス張りの箱の中で、自分はそれなりにうまくやっている。数字もそれなりに出しているし、上司からの評価も悪くない。同期と比べれば、順調なほうだと言われることも多い。
だから、これでいいのだろう、と自分に言い聞かせる。
外の世界と、ここを隔てる透明な壁は、触れれば冷たそうだ。けれど、それでも守られている感覚もある。外に放り出されるよりは、マシだ。
そんな風に思おうとするたびに、窓の向こうに広がる空が、どこまでも遠く感じられる。
何かがおかしい、とまでは思わない。ただ、どこかが少し息苦しい。その正体に、まだ名前がつけられないまま、翔希は再び、画面の中の数字と文字列に意識を沈めていった。
翔希が目を開けたとき、最初に目に入ったのは、白い天井の小さなシミだった。マンションの古い天井板に浮いた、不規則なにじみ。薄い灰色が輪郭をぼかし、じっと見ていると、そこだけ時間が止まっているみたいに感じる。ぼんやりと焦点を合わせているうちに、枕元から、微かな寝息と、布団の擦れる音が耳に届いた。すぐ横には、うつ伏せ気味に眠っている村上の背中がある。薄いグレーのTシャツ越しに、規則正しく上下する呼吸。枕に押しつぶされた後頭部から、少し跳ねた髪がはみ出している。部屋のカーテンは、半分だけ開いていた。隙間から朝の光が斜めに差し込み、埃の粒をきらきらと浮かび上がらせている。窓の外からは、遠くの環状線を走る車の音と、近くの保育園から流れてくる子どもの声が、薄い壁越しににじんで聞こえた。ここは、新宿の古い1Kマンションの一室。すっかり見慣れてしまった部屋。けれど、朝、こうして二人でスーツに着替える前の、この一瞬だけは、いまだに少し現実味が薄い。「……七時半」枕元のスマホに手を伸ばし、画面を点ける。液晶の光に目を細めながら時刻を確認すると、会社に行くにはちょうどいい時間だ。目覚ましはとっくに止めてある。たぶん、村上が無意識に止めたのだろう。アラームの履歴が、そんな痕跡を残していた。もう一度、隣に視線を落とす。寝ている村上の横顔は、会社にいるときとは少し違う。眉間に寄りがちな皺が緩み、口元も、ほんの少しだけ開いている。頬にかかる髪の線を目でなぞっていると、胸の奥がふわりとくすぐったくなる。こんな顔を知っているのは、自分だけだと思うと、妙な優越感と同時に、怖さも生まれる。抱きしめたくなる衝動と、この瞬間を壊したくないという臆病さが、胸の中で混ざり合う。「……起きますかね」誰に聞かせるでもなく呟きながら、翔希はそっと身体を起こした。布団が擦れる音に、村上が微かに身じろぎする。肩がひとつ上下し、眠りの深さを確かめるみたいに長く息を吐いたあと、うっすらと瞼が持ち上がった。「ん……」掠れた声が漏れる。翔
古めのマンションの前に着く頃には、小雨の気配はすっかり消えていた。アスファルトに残っていた小さな水たまりも、足で踏みしめられ、車に弾かれ、だいぶ薄まっている。代わりに、マンションの外壁に染み込んだ湿り気と、どこかの部屋から漏れてくるカレーの匂いが、鼻の奥をくすぐった。翔希は、建物を見上げた。見慣れたコンクリートの肌。ところどころ黒ずんだ手すり。何度も通ったはずなのに、会社から一緒に歩いてきたせいか、少しだけ違って見える。エントランスのオートロックに番号を打ち込むのは、もう迷いがない。隣で村上がさっとキーを押し、その間に翔希は肩からバッグを掛け直す。開いたドアから、むっとした室内の空気が一気に流れ込んできて、外気と混ざった。階段を上がる音が、コツコツと一定のリズムで響く。最初の頃は、段数を数える余裕なんてなかった。今は、二階に上がるまで何段あるか、何となく感覚で分かるようになっている自分に気づき、心の中で少しだけ笑う。いつもの階で足を止め、いつものドアの前に立つ。村上がポケットから鍵を出し、慣れた動きで回す。その所作を横目で見ながら、翔希は「ああ、本当に『いつもの』なんだな」と妙に現実味を帯びた感慨を覚える。中から、きしむような小さな音を立ててドアが開いた。ふわり、と漂ってくるのは、洗剤と柔軟剤と、少しだけタバコの残り香が混ざった、村上の部屋の匂い。初めて来た日の、あの少し甘苦い印象が、今はどこか落ち着く香りになっている。「お邪魔します」口ではそう言いながら、翔希の手はもう、自分の靴の位置を決めるべき場所を知っている。玄関の端、壁から一足分空けた位置。最初の頃は遠慮して一番端に詰めて置いていたのが、今は自然と村上の革靴の隣に並ぶ形に落ち着いていた。革靴を脱ぎ、揃えて置く。その隣には、何度も見てきた村上の黒い靴。その横に自分の靴が馴染んで並んでいる光景が、胸のどこかをくすぐる。「あ、そこに掛けといて」視線を上げると、村上がジャケットを脱ぎながら顎で示したのは、玄関横のハンガーラックだった。そこにも変化がある。以前はスーツとコートでいっぱいだったラックに、今は少し隙間が作られていて、そこに翔希のジャケットが掛
新宿駅方面に向かう大通りは、雨上がりの光をまとっていた。さっきまで降っていた小雨が止んだばかりで、街路樹の葉からは時おり雫が落ち、アスファルトの上に小さな輪を広げる。車のヘッドライトと、ビルのネオンが濡れた路面に映り込んで、色の境界線を曖昧にしていた。高橋翔希は、その光のゆらめきをぼんやりと追いながら、肩にかけたバッグの持ち手を握り直した。会社を出たときよりも、少しだけ空気が冷たくなっている気がする。スーツの襟元に入り込む湿った風が、ほてった首筋を撫でていく。隣では、村上遥人が同じ速度で歩いていた。歩幅はほとんど同じで、一歩進むたびに靴底の音が微妙にずれて重なっては、また離れていく。信号待ちで横断歩道の前に立ち止まると、周囲には同じようなスーツ姿の会社員たちが集まってきた。手には折りたたんだ傘、紙袋、コンビニの袋。それぞれの一日の終わりが、同じ赤信号の前で足並みを揃えている。翔希は、何気なく右側に立った。遥人との距離は、肩と肩がかすかに触れるか触れないかくらい。以前なら「近すぎる」と感じて半歩引いていた距離だが、今はその微妙な接触が、むしろ落ち着きをもたらしていた。赤信号の光が、二人の顔色をわずかに変える。車道を走り抜けていくタクシーのライトが、視界の端で流れていく。排気ガスと、濡れたアスファルトが混ざった匂いが、吸い込むたびに胸の奥に重くたまった。ふと、指先に柔らかいものが触れた。自分の手の甲に、誰かの指がかすかに擦れたような感覚。翔希が視線を落とすと、遥人の左手の甲が、ほんの少しだけ自分の右手に寄っていた。以前なら、反射的に引っ込めていたはずだ。血の気が引いて、周囲に誰かが見ていないかと慌ててきょろきょろしただろう。けれど、今は違かった。翔希は、わざと何でもない顔をしたまま、その指先に自分の指をそっと重ねた。人混みの中で、ごく自然な動きに見えるように、慎重に。誰かの視線があるとしたら、その程度の触れ方なら、たまたまぶつかったくらいにしか映らないだろう。重ねられた指先が、一瞬だけ緊張したように固くなり、それからゆっくりと力を抜いた。遥人の指が、わずかに握り返してくる。ポケットの中に一緒に手を突っ込んでいるわけでも、露
夕方のチャイムは、このフロアには鳴らない。代わりに、各自のモニターの右下で、定時を知らせる小さなポップアップが静かに消えていく。高橋翔希は、それを斜めに視界に入れながら、まだ開いたままの見積書の数字をひとつひとつ確認していった。桁の打ち間違いがないか、単価が最新のものになっているか、営業の勘と、ここ一年で身についた「管理部がどこを気にするか」という感覚で、ざっと全体を見渡す。隣のデスクでは、四月に入ってきたばかりの後輩が、未だに慣れない様子でテンキーを叩いている。数字を打つ指先が、少しだけぎこちない。「ここ、単価こっちね」翔希は椅子ごとそちらへ滑り、モニターを指さした。「あ、すみません」「いや、最初っから全部できる人いないんで。単価の表、最新のやつブクマしといたほうが早いですよ」「はい…ありがとうございます」口をついて出る言葉が、気づけばすっかり「先輩」側のものになっている。半年前までは、自分も似たようなテンションで中村に助けられていたはずなのに、と翔希は小さく笑った。デスクの端に置いてあるマグカップには、もう冷めたコーヒーが半分ほど残っている。空調の乾いた風、コピー機の低い駆動音、人の話し声とマウスのクリック音が混ざった雑音。その全部が、毎日の背景として身体に染みついている。モニターのタスクバーに、チャットアプリのアイコンがひとつ瞬いた。社内用のツールだ。通知のポップアップに表示された送り主の名前を見て、翔希は意識して表情を変えないよう、背筋を伸ばした。「高橋くん、今日どんな感じ?」管理部の全体チャットに紛れて届いた、個別メッセージの一行。送り主は、村上遥人。数ヶ月前と違うのは、これが「管理部の誰か」ではなく、確実に自分の知っている誰かからのメッセージだということだ。画面越しではなく、生の声の温度を知っている相手。翔希はキーボードに指を滑らせた。「今、見積最終確認してるところです。あと十五分くらいで上がれそうです」返送したメッセージが送信済みの欄に沈んだ瞬間、すぐにまた通知が弾んだ。