アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」

アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」

last updateDernière mise à jour : 2026-01-10
Par:  中岡 始Complété
Langue: Japanese
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「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」。 アプリで見つけたそのプロフィールの主が、職場で何度も助けてくれた先輩・村上だと知った夜、高橋は迷いながらも関係を受け入れる。 仕事では完璧で優秀な管理部の人間。 けれどシーツの上で村上は、「本気になるとろくなことにならない」「誰も愛せない」と、呪いのように繰り返す。 過去の誰かに、深く傷つけられたことだけは伝わるのに、その名前も経緯も教えてはくれない。 「遊びだから」「ルールだから」と境界線を引き続ける村上と、その線の向こう側に手を伸ばしてしまった高橋。 傷ごと、抱きしめたいと思ってしまったとき、ふたりの“平日夜”はゆっくりと形を変え始める。

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Chapitre 1

1.ガラス張りの箱に息を吸う

山手線のドアが開いた瞬間、空気が押し返してくるみたいだった。

人の匂いと、朝から焙煎され続けているコーヒーの甘い匂いと、ほんの少しの汗の気配が、渦になってホームに吐き出される。新宿駅のホームは、いつもながら騒がしいのに、どこか音が平板だった。アナウンスも、足音も、キャリーケースの転がる音も、全部まとめて一枚のざわめきになっている。

高橋翔希は、半歩だけタイミングをずらして電車を降りた。流れに逆らわない程度に、でも流されすぎない程度に。そういう「ちょうどいい位置取り」は、この街に出てきてから自然と身についたものだ。

改札を抜けるまでの通路は、人の背中しか見えない。黒や紺やグレーで塗りつぶされた、小さな布の壁。コンクリートに響くヒールの音に混じって、誰かの笑い声が短く弾けて、すぐに飲み込まれる。

「今日も人多いな…」

誰に聞かせるつもりでもなく、小さく呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。別に嫌いなわけじゃない。このざわざわした感じも、「東京っぽい」と言えばそうなのだろう。大学の友人に写真を送ったら、きっと羨ましがられる。

改札を抜けると、ビル風が一気に頬を撫でた。ガラスと金属の光が混ざり合う街並みは、もうすっかり見慣れたはずなのに、時々ふと、自分がここに溶け込めているのかどうか分からなくなる。

スマホの画面を親指でなぞる。時間は八時四十五分。九時の朝会には余裕で間に合う。出勤ルートを考えるまでもなく、足は自然といつもの道を選んでいた。

横断歩道を渡るたびに、リグライズ・テックのビルが近づいてくる。三十階建ての、どこにでもありそうで、どこにもない、ガラス張りの箱。朝の光を受けて反射する外壁は、一瞬きれいだと思うのに、そのすぐあとで、どこか冷たいと感じてしまう。

自動ドアが静かに開く。ロビーは、外の喧騒が嘘みたいに落ち着いていた。白い床、観葉植物、受付カウンター。なめらかに話す受付の女性の声と、天井近くまで伸びるガラス越しの空。冷房の風が、首元の肌をひやりと撫でた。

社員証をかざしてゲートを抜けると、翔希は少しだけ背筋を伸ばした。ここから先は、「客先に出る人間」としての自分の顔を貼り付けるエリアだ。ネクタイの結び目を指で軽く確かめ、エレベーターに乗り込む。

「おはようございます」

鏡面仕上げの壁に映る自分の声が、狭い箱の中で跳ねた。乗り込んできた知らない部署の社員が、会釈を返す。エレベーターのドアが閉まると、外の光は切り取られて、天井の蛍光灯だけが頼りになる。

二十階の表示が光るまでの数十秒、耳に入るのは、誰かの喉の鳴る音や、スーツが擦れる細い音だけだった。

フロアに出ると、空気が少し変わる。営業本部のフロアは、管理部や技術部に比べて、目に見えない熱が強い。電話の呼び出し音、誰かの笑い声、プリンターの音。パーティションで区切られたブースの一つ一つに、数字と、期日と、期待が詰め込まれている。

翔希の席は、窓側に近い列の真ん中あたりだ。デュアルディスプレイの前に掛けると、椅子がわずかに軋んだ。バッグを足元に置き、ノートPCを起動する。画面が光り、未読メールの数が目に飛び込んでくる。

「おはよ、翔希。今日も元気そうでなにより」

後ろから軽く肩を叩かれて振り返ると、同期の中村拓巳が缶コーヒーを片手に立っていた。スーツのジャケットはすでに椅子の背にかかっていて、ネクタイも少し緩んでいる。朝からフルスロットルなその様子は、会社に入って三年経っても変わらない。

「おはよう。中村さんこそ、朝からそれ飲んでたら心臓やられますよ」

「細けぇことは気にすんなって。昨日の資料、ちゃんと送ったんだろ?」

「送りました。夜中の一時くらいまでかかりましたけど」

「お、さすが期待の星。うちの部の希望」

「誰が言ってました、それ」

「課長」

中村は、あっけらかんと答えた。

「高橋は持ってるからな、とか何とか。プレッシャー半端なくね?」

「聞きたくなかったです、それ」

苦笑しながらも、胸の中で少しだけくすぐったい感覚が広がる。期待されている、という感覚は、嫌いじゃない。高校のサッカー部でも、大学のゼミでも、「お前ならできるだろ」と言われることが多かった。重い時もあるけれど、その言葉に背中を押されてきたことも確かだ。

ただ、営業の世界の「期待」は、数字と、売上と、会社にとっての価値に直結している。うまくハマれば評価されるが、一度滑れば、それまでの信用が一気に削られていく。そういう空気を、この二年で嫌でも知った。

画面を操作しながら、メールの件名をざっと目で追う。今日中に対応するべきものにフラグを立て、顧客からの問い合わせと社内連絡を色分けしていく。社内チャットには、既に何件かのメンションが飛んでいた。

[第一営業部・高橋さんへ]

[午後のA社打ち合わせ、仕様変更の件で確認したいことがあります]

[管理部への申請書、前回のフォーマットから変わっているので注意してください]

文字列を追う目が自然と止まった。

管理部。申請書。フォーマット変更。

「また変わったのか…」

小さく漏れた呟きは、すぐにキーボードの打鍵音に紛れた。管理部の書式やルールは、半年に一度のペースで細かく変わっていく気がする。ルールが整備されていくのは会社として当然なのだろうが、現場としては、正直追いつくのに精一杯だ。

チャットの別のスレッドに目を移すと、「管理部/申請・承認窓口」というチャンネル名のところに、見慣れた名前が並んでいた。

[管理部 村上]

[管理部 佐伯]

「困ったときは村上さんに聞け」

入社一年目の頃、石田課長に言われた言葉を、ふと思い出す。

「管理部の村上くんっているだろ。あの人に聞けば、だいたいのことはなんとかなるから。書類でも、ルールでも、誰に話通せばいいかも含めて。あいつ、管理部の影のエースだからさ」

直接話したことは、正直あまりない。申請書を出す際にメールで名前を見る程度で、顔と名前が完全に一致しているわけでもない。それでも、「困ったときの村上さん」というフレーズだけは、営業部の中で暗黙の共通認識になっていた。

どんな人なんだろう、と、一瞬だけ思う。だが、朝のルーティンがそれ以上の想像を許さなかった。頭の中に仕事のToDoが次々と並び、空白を埋めていく。

八時五十五分。チャットに朝会の通知が飛ぶ。

[第一営業部:9:00〜朝会開始 会議室B集合]

椅子から立ち上がり、タブレットとメモ帳を手に取る。中村も隣の席からひょいと顔を出した。

「行きますか、エース」

「そういうのやめてくださいって」

口で文句を言いながらも、足取りは自然と早くなる。評価される場に向かうときの、この微妙な高揚感は、どうにも誤魔化せない。

会議室Bは、窓が一面ガラス張りになっていて、向かいのビルと空が四角く切り取られていた。長机をコの字に並べた真ん中に、プロジェクターの光がぼんやりと浮かぶ。

部屋に入ると、すでに数人の先輩社員が着席していた。資料をめくる音、紙コップを机に置く音、短い挨拶。石田誠課長は、いつものようにホワイトボードの前に立ち、資料を手にしている。

「おはようございます」

一斉に声が重なる中、翔希も頭を下げた。席に座り、テーブルの上にタブレットとペンを置く。プロジェクターの光が、天井の白い板に淡く反射している。

朝会は、前日の売上報告と、今後の案件の進捗確認から始まった。数字がスクリーンに並んでいくたびに、空気のどこかが少しだけ重くなる。誰がどれだけ受注しているか、どの案件が危ないか。そのすべてが、無機質なグラフと表になって、視界に突きつけられる。

「じゃあ次、高橋」

名前を呼ばれて顔を上げると、課長といくつかの視線が自分に集まっているのが分かる。

「はい。A社のクラウド導入案件ですが、昨日、見積りと仕様書の最終版を送付しました。本日午後に先方との最終打ち合わせがあり、その場で受注可否の最終判断をいただく予定です」

少しだけ喉が乾く。水の入った紙コップを手にとるのは、なんだか負けを認めるみたいで、躊躇われた。

「先方の反応は?」

「今のところ、提案内容そのものには前向きです。ただ、競合も複数入っているので、細かい条件面で詰められる可能性があります」

「いいじゃないか。そこで勝ち切るのがうちの営業だ」

石田は、にやりと口の端を上げた。

「高橋、お前の資料は分かりやすいし、説明も上手い。昨日のレビューでも評判良かったぞ。このままいけ」

「ありがとうございます」

素直に礼を言いながらも、胸の中で「資料が分かりやすい」のは、本当に自分だけの功績ではないという感覚がくすぶっている。仕様の整合性や、見積りの細かい数字は、管理部がチェックしてくれている。さらに言えば、その調整を現場の感覚に落とし込んでくれたのは、メール越しの誰かだ。

しかし、この場でその名前が出ることはない。朝会で評価されるのは、案件を前に進めている営業の顔だけだ。

報告を終えると、話題は他のメンバーの案件に移っていく。翔希はメモを取りながら、視界の端で際限なくスクロールされていくグラフの線を眺めた。数字の上がり下がりが、人の努力や失敗や運を薄く均したもののように見える瞬間がある。

会議が終わると、部屋の空気は少し軽くなった。

「高橋、午後のA社、同行するから」

会議室を出るタイミングで、石田に肩を叩かれた。

「はい。よろしくお願いします」

「ま、これ決めれば今期はかなり楽になるぞ。期待してるからな」

「プレッシャーかけますね」

「期待してなきゃこんなこと言わねえよ」

口ではそう言いながら、課長は軽く笑った。その笑い方が、悪意のないものだと分かるからこそ、余計に気が抜けない。

デスクに戻ると、窓の向こうに、さっき会議室から見たのと同じ空が広がっていた。青とも灰色ともつかない、ぼんやりとした色合い。隙間なく立ち並ぶビルの合間から、細い光の筋だけが地面に落ちている。

自分もその中の一つの点に過ぎないのだという感覚が、ふと腹の底から浮かび上がる。誰か一人がいなくなっても、このフロアのパソコンは変わらず起動され、電話は鳴り続けるだろう。そう思うと、少しだけ胸が詰まった。

「…何考えてんだか」

自分で自分にツッコミを入れて、マウスを握り直す。センチメンタルになるのは柄じゃないし、そういうことを考え始めるとキリがない。とりあえず、目の前のメールを片付けるほうが先だ。

未読メールの中から、管理部からの一本を選んで開く。

[差出人:管理部/村上遥人]

[件名:A社案件 見積書フォーマットについて]

名前を見た瞬間、心臓がほんの少しだけ強く打った気がした。

本文には、見積書のフォーマット変更点と、それに伴う申請手順の補足が淡々と書かれていた。文章は簡潔で分かりやすく、専門用語には注釈がつけられている。最後に、「不明点あればいつでもどうぞ」と一文が添えられていた。

このメールの差出人が、あの「困ったときの村上さん」なのだろう。想像していたよりも、ずっと柔らかい文章だった。

無料で凄腕のコンサルがついてるみたいなものだよ、と、誰かが言っていた気がする。確かに、メール一本で助けてもらえると思うと心強い。

それでも、翔希はすぐに返信ボタンを押しはしなかった。まだ「困っている」と言うほど追い詰められてはいない、と思い込みたい部分があった。

大丈夫だ。これくらいなら、自分でなんとかできる。

そう思いながらも、デスクの端に置かれた紙コップの水は、ほとんど減らないまま、時間だけが静かに過ぎていく。

午前中は、メールの返事を書いたり、資料の細かい修正をしたりしているうちに終わった。社内チャットは絶え間なく通知を送り続け、誰かの名前がポップアップで画面の端に現れては消える。

昼休みが近づくと、オフィスのざわめきの質が少し変わる。お腹の空いた音や、コンビニの袋を持つ人の姿が増えていく。

「高橋、今日どうする? 外行く?」

中村が椅子の背にもたれかかりながら声をかけてきた。

「うーん…午後の資料、もうちょい見直したいんで、今日は社食でいいっす」

「真面目だなあ。まあ、A社だしな」

「決まれば楽になりますし」

「だよな。決めてこいよ。そしたら今度うまいもん奢ってくれ」

「なんで俺が奢る側になってるんですか」

「成功したやつが奢るルール。知らないの?」

適当なことを言って笑う中村の声を聞きながら、翔希は社内チャットの通知欄から目を離さなかった。

画面の隅で、もう一度だけ「管理部/村上」の名前が光る。そこにカーソルを乗せかけて、やめる。

まだいい。まだ、そこまで困ってない。

ほんの少しだけ呼吸が浅くなっていることに、翔希自身は気づいていなかった。ただ、胸の奥で、目に見えない何かが少しずつ膨らんでいくのを、漠然と感じるだけだ。

このガラス張りの箱の中で、自分はそれなりにうまくやっている。数字もそれなりに出しているし、上司からの評価も悪くない。同期と比べれば、順調なほうだと言われることも多い。

だから、これでいいのだろう、と自分に言い聞かせる。

外の世界と、ここを隔てる透明な壁は、触れれば冷たそうだ。けれど、それでも守られている感覚もある。外に放り出されるよりは、マシだ。

そんな風に思おうとするたびに、窓の向こうに広がる空が、どこまでも遠く感じられる。

何かがおかしい、とまでは思わない。ただ、どこかが少し息苦しい。その正体に、まだ名前がつけられないまま、翔希は再び、画面の中の数字と文字列に意識を沈めていった。

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1.ガラス張りの箱に息を吸う
山手線のドアが開いた瞬間、空気が押し返してくるみたいだった。人の匂いと、朝から焙煎され続けているコーヒーの甘い匂いと、ほんの少しの汗の気配が、渦になってホームに吐き出される。新宿駅のホームは、いつもながら騒がしいのに、どこか音が平板だった。アナウンスも、足音も、キャリーケースの転がる音も、全部まとめて一枚のざわめきになっている。高橋翔希は、半歩だけタイミングをずらして電車を降りた。流れに逆らわない程度に、でも流されすぎない程度に。そういう「ちょうどいい位置取り」は、この街に出てきてから自然と身についたものだ。改札を抜けるまでの通路は、人の背中しか見えない。黒や紺やグレーで塗りつぶされた、小さな布の壁。コンクリートに響くヒールの音に混じって、誰かの笑い声が短く弾けて、すぐに飲み込まれる。「今日も人多いな…」誰に聞かせるつもりでもなく、小さく呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。別に嫌いなわけじゃない。このざわざわした感じも、「東京っぽい」と言えばそうなのだろう。大学の友人に写真を送ったら、きっと羨ましがられる。改札を抜けると、ビル風が一気に頬を撫でた。ガラスと金属の光が混ざり合う街並みは、もうすっかり見慣れたはずなのに、時々ふと、自分がここに溶け込めているのかどうか分からなくなる。スマホの画面を親指でなぞる。時間は八時四十五分。九時の朝会には余裕で間に合う。出勤ルートを考えるまでもなく、足は自然といつもの道を選んでいた。横断歩道を渡るたびに、リグライズ・テックのビルが近づいてくる。三十階建ての、どこにでもありそうで、どこにもない、ガラス張りの箱。朝の光を受けて反射する外壁は、一瞬きれいだと思うのに、そのすぐあとで、どこか冷たいと感じてしまう。自動ドアが静かに開く。ロビーは、外の喧騒が嘘みたいに落ち着いていた。白い床、観葉植物、受付カウンター。なめらかに話す受付の女性の声と、天井近くまで伸びるガラス越しの空。冷房の風が、首元の肌をひやりと撫でた。社員証をかざしてゲートを抜けると、翔希は少しだけ背筋を伸ばした。ここから先は、「客先に出る人間」としての自分の顔を貼り付けるエリアだ。ネクタイの結び目を指で軽く確かめ、エレベーターに乗り込む。「おはようございます」鏡面仕上げの壁に映る自分の声が、狭い箱の中で跳ねた。乗り込んできた知らない部署の社員が、会釈を
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2.数字の罠と仕様違い
時計の針が十一時を指す頃、営業フロアの空気は、朝とはまた違う種類の熱を帯びはじめていた。電話のコール音が少しずつ増え、キーボードを叩く音が途切れなく続く。コピー機は規則的に紙を吐き出し、誰かの笑い声が短く弾けては、すぐに数字と単語の飛び交うざわめきに溶けていく。高橋翔希は、自分の席に深く腰を沈めていた。机の上には、タブレットとノートPCと、昨日から使い回している紙資料の束。モニターには「A社向けクラウド導入提案書」のタイトルが表示され、その下にぎっしりとスライドのサムネイルが並んでいる。この案件が決まれば、今期の自分の評価はかなり上がる。ボーナスも期待できるし、部内での立ち位置も変わるかもしれない。そんなことは、わざわざ考えなくても分かっている。石田課長の「決めてこいよ」という軽い一言が、冗談半分じゃないことも。だからこそ、ミスはできない。画面に視線を近づけるようにして、翔希は細かい数字と文字を追った。クラウド利用料の月額、初期費用、オプション機能ごとの加算額。スライドの右下には、小さく「合計」の数字が並んでいる。そこまでは、昨日まで何度も確認した。資料の構成も、ストーリーも、プレゼンの流れも、頭の中に叩き込んである。あとは、午後の打ち合わせで滞りなく説明するだけ…のはずだった。違和感に気づいたのは、スクロールしていった先、十何枚目かのスライドだった。「…あれ」マウスを持つ指が止まる。画面を少し戻し、スライドのタイトルと、文中の数字をひとつひとつなぞっていく。目は表面的には文字を追っているのに、奥のほうで何かが引っかかっていた。「月額ユーザー数五百名を想定した場合…初期費用は…」小さく声に出して読み上げ、見積書のPDFを別ウィンドウで開く。二つの画面を見比べた瞬間、背中を汗が一筋、ゆっくりと落ちていく感覚がした。スライドに記載されている初期費用と、見積書に記載されている数字が、微妙に、しかし確実に違っている。スライドでは、「初期導入費:四百八十万円」。見積書では、「初期導入費:四百五十万円」。
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3.管理部の影の支配者
管理部フロアに行こう、と腹をくくったのは、昼休み開始五分前だった。時計の短針と長針を見た瞬間、「今じゃない気がする」と反射的に思った。それでも、午後一でA社に持っていく資料を思い浮かべると、もう悠長なことは言っていられない、という感覚が、胃のあたりを強く押した。「行ってくる」誰に言うともなく呟いて立ち上がると、隣の席の中村が顔を上げた。「どこ行くんだよ。飯?」「いや、管理部。ちょっと確認したいことあって」「ああ…生きて帰ってこいよ」「お前さ…」軽口を返す余裕は、一応まだあった。その余裕が、虚勢なのか、本物なのかは自分でも判然としない。ノートPCだけ閉じて、社員証を首から下げ直し、翔希は営業フロアの出入り口へ向かった。自動ドアが開くと、冷房の風が一瞬強く当たる。営業フロア特有の熱気が、背中側に貼りついたまま離れず、そのまま廊下に持ち込まれたような気がした。管理部のフロアは、二つ上の階だ。同じビルの中なのに、行くのは年に何度もない。エレベーターのボタンを押すと、ちょうど下りのカゴが着いたところで、人がどっと吐き出されてきた。昼休みに出る社員たちの波をやり過ごし、翔希は空いたエレベーターに乗り込む。ドアが閉まり、数字が二十から二十二へと変わる間、狭い箱の中に静けさが満ちる。営業フロアのざわめきが遠ざかるにつれて、自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。「忙しい時間帯に来るもんじゃないよな…」思わず零れた独り言は、誰にも拾われない。昼前後の管理部がどれだけ慌ただしいか、直接見たことはなくても想像はつく。経費精算、各種申請の締め切り、月次の締め。数字と書類に追われているであろう時間に、営業部の若手が「すみません、見積りの数字がちょっと…」と乗り込んでいくのだ。それでも、行かないという選択肢はなかった。今は、自分のプライドよりも、午後の失敗のほうが怖い。エレベーターが開くと、空気が変わった。同じオフィスビルの一角なのに、温度が一度くらい下がったような感覚。照明は
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4.拍手の先に向く視線
会議室の空気は、湿度だけが少し高いような気がした。午後三時ちょうど。A社本社ビルの一室で、翔希はスクリーンに映し出されたスライドと、対面に座る担当者たちの顔を交互に見ていた。会議室特有の、薄いグレーの壁。窓はあるがブラインドは半分ほど下ろされていて、外の光は細い筋になってテーブルの上に落ちている。テーブルに置かれた紙コップのコーヒーからはもう湯気は出ておらず、代わりにコピー紙とインクの匂いが鼻を刺激していた。「…以上が、今回ご提案させていただくクラウド導入プランの概要となります」自分の声が少しだけ硬いことを、自分で分かっている。喉の奥が乾いているのに、コーヒーに手を伸ばす余裕はなかった。指先は、プレゼン用のリモコンを握りしめたまま、小さく汗ばむ。スクリーンの左下に映る数字。初期導入費、月額費用、オプション料金。その合計が、さっきまで頭の中でぐるぐると回っていた「違和感のある数字」とは違う、正しい値になっている。村上が作り直してくれた、修正版の資料。「ご質問やご懸念点があれば、何でもお聞かせください」視線をA社の担当者のひとりに預けると、相手は手元の資料をめくりながら、眉を少しだけ寄せた。スーツの襟元からのぞくネクタイは、濃いボルドー。こめかみ付近の白髪が、年季と責任の重さを物語っている。「そうですね…数字の部分について、一点確認させてください」来た、と心の中で身構える。「こちらの資料ですと、ユーザー数五百名を前提とした費用になっておりますが、以前のご提案の際には、三百名のケースでの試算が出ていたかと思います。今回のこの金額が、御社として最終的な見解と考えてよろしいでしょうか」担当者は、資料のページを指で軽く叩いた。目線は鋭いが、敵意があるわけではない。単に、数字に関して妥協を許さない人の目だ。翔希は、資料に視線を落とし、ページの端を指で押さえた。「はい。今回のご提案では、当初の三百名から五百名への拡張を前提に、改めて社内の管理部とも確認を取り、こちらの金額を最終とさせていただいております」自分の口
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5.古い部屋と光るアイコン
新宿の夜は、仕事が終わっても終わらない。高層ビルの谷間を抜けるビル風が、熱の残ったスーツの布をわずかに冷やしていく。外に出たばかりの人間には、それがむしろ心地よかった。蛍光灯に晒され続けた目には、ネオンの光さえ一種の癒やしに見える。村上遥人は、会社の入っているビルを振り返らなかった。背後で自動ドアが閉まる音がしても、足はそのまま交差点に向かって進んでいく。背広の内ポケットに入れたスマホが、歩くたびにわずかに腿に当たった。信号待ちの人だかりに紛れながら、遥人は何とはなしに空を見上げる。ビルとビルの隙間から、細い夜空が覗いていた。星は見えない。代わりに、他社ビルのロゴや広告の巨大なスクリーンが、色とりどりの光を撒き散らしている。今日も一日、よく働いた。そう思うと、肩の力が少し抜ける。管理部のフロアから見下ろす営業部の案件の山も、月末前の経費精算の波も、とりあえず今は自分の手の届かない場所へ置いてきた。横断歩道の青信号が点滅し始め、人の流れが一斉に動き出す。革靴がアスファルトを打つ音、ヒールの高い靴が軽く鳴る音、遠くから聞こえるタクシーのクラクション。街の音が重なり合い、夜の新宿を満たしていた。会社から最寄り駅までは徒歩数分。その間にコンビニが三軒、居酒屋が五軒、チェーン店のカフェが二軒ある。そのどれにも寄らず、遥人はいつもの道を選んだ。駅に直結している地下通路に入ると、外の風とは違う、空調で均された空気が肌にまとわりつく。改札の前で、スーツ姿の人間がスマホをかざしながら流れを作っている。その一部として、自分も自然と動く。ピッという電子音とともに、ゲートのバーが開く。何百回と繰り返してきた動きだが、完全に無意識になったことはない。ホームに降りると、電車が滑り込んでくるところだった。車体の銀色に照明が反射し、車窓には自分と同じような顔がいくつも映っている。無表情な、少し疲れた大人の顔。乗り込んだ車内は、思ったほどの混雑ではなかった。吊り革はほとんど埋まっているが、押し合いになるほどではない。扉のすぐそばの位置に立ち、遥人は手すりに軽く指を添えた。電車が動き出すと、バランスを崩しかけた若いサラリーマンが、隣で小さ
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6.「普通」ってなんだ
午後三時を少し回った頃、営業フロアのざわめきが一段落し始めていた。電話のコール音も先ほどまでの嵐のような鳴り方ではなく、ところどころで不規則に鳴る程度になっている。プリンターの機械音と、キーボードを叩く音が、空調の低い唸り声と一緒に、背景のノイズみたいに混ざっていた。高橋翔希は、さっきまで使っていた資料をまとめてクリアファイルに戻し、背もたれに体を預けて大きく伸びをした。肩の骨がコキ、と小さく鳴る。視界の端では、モニターの画面がスリープに入る直前の薄暗い光を放っていた。「ふー…」息を吐き出すと、コーヒーと紙と人の匂いが混ざったオフィスの空気が肺の奥まで入り込んでくる。この匂いにも、もう慣れた。嫌いではない。ここにいれば、自分は「仕事をしている」という分かりやすい役割を持てる。背後から、椅子が床を擦る音がした。「お疲れさまっす、エース」振り向く前から、誰の声か分かっていた。振り返ると、案の定、中村拓巳が缶コーヒーを片手に立っていた。ネクタイは少し緩められ、ワイシャツの袖もひと折りまくってある。そのラフさでなぜかきちんと見えるのが、彼の得なところだ。「誰がエースだよ。やめてくださいって」そう言いつつ、翔希は笑って返した。「さっきの小口案件、サクッと決めてきたって聞いたぞ。石田さん、機嫌良かったじゃん」「小口って言っても、あれ同時並行で三件回してたんでけっこう大変だったんですよ?」「はいはい、謙遜、謙遜」中村は、翔希のデスク横の空きスペースに腰を預けるようにもたれかかる。視線は翔希ではなく、フロアの奥のほうをなんとなく眺めている。午後の光が窓越しに差し込み、パーティションの上に細い影を落としていた。ガラスの向こうには、同じような高層ビルが並んでいる。そのどれにも、同じように人が詰め込まれて、似たような音を立てているのだろう。「でさ」唐突に、中村が声のトーンを変えた。「高橋、最近どうなの」「…何が」聞き返すと、彼はにやりと口角
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7.寝る前のブルーライト
平日の夜、時計の針が十時を回った頃、部屋の中はほとんど音がなかった。リビング兼寝室の六畳ほどのスペースに、エアコンの送風音と、冷蔵庫の小さな唸り声だけが、一定のリズムで流れている。天井近くに取り付けた間接照明を一段階落としてあるせいで、部屋全体は柔らかいオレンジ色に沈んでいた。高橋翔希は、ベッドの上に仰向けになり、枕元に置いたスマホを片手で持ち上げていた。シャワーを浴びて、Tシャツとスウェットに着替え、コンビニのパスタとサラダで簡単な夕食を済ませたあと、特にやることもなく、この体勢に落ち着いている。画面には、さっきから同じ動画サイトの再生画面が映っている。「今日も見てくれてありがとうございます…」明るい女の声と、軽快なBGM。よくあるカップルチャンネルの一つだ。画面の中では、若い男女が並んでソファに座り、「付き合って三年記念日のお祝いをします」とか何とか言っている。翔希は、別にそのチャンネルの熱心なファンというわけではない。関連動画に出てきたものを、なんとなくタップしただけだ。ラーメンのレビュー動画を見ていたら、その次に「彼氏が作る〇〇ラーメン」みたいなタイトルが出てきて、それから芋づる式にカップル動画に流れ着いた。画面の下に表示されている「おすすめ」の欄をスクロールすると、「同棲カップルのモーニングルーティン」「遠距離恋愛あるある」「彼女にドッキリしてみた」などのサムネイルがぎっしり並んでいる。「…お前どんだけ恋愛押してくんだよ」小さくつぶやいて、苦笑する。動画サイトのアルゴリズムは、人の興味を勝手に決めつけてくる。仕事の合間にたまたま恋愛相談系の切り抜きを見たことがあったせいか、最近はやたらこの手のコンテンツが増えていた。「幸せそうで何よりです」皮肉とも本音ともつかない言葉が、喉の奥で転がる。動画の中のカップルは、画面越しにも分かるくらい仲が良さそうで、冗談を言い合っては笑っている。コメント欄には、「理想のカップル」「尊すぎる」「こんな彼氏欲しい」といった文字列が並び、その合間に、ごくたまに「リア充爆発しろ」と冗談めかしたコ
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8.顔のない写真と既視感
インストール中の円形のバーが一周りして、ぱっと消えた。代わりに現れたのは、アプリのアイコンが少しだけ弾むような演出と、「はじめる」のボタン。ベッドの上に仰向けになったまま、それを見下ろしていた高橋翔希は、天井に一度だけ視線を逃がし、それから小さく息を吐いた。「…ここまで来たら、押すしかないか」声に出すと、エアコンの送風音に紛れて自分にしか聞こえない。Tシャツ一枚の胸元には、さっき浴びたシャワーの余韻がまだ少しだけ残っていた。髪はタオルドライだけで済ませたので、首筋に湿った毛先が触れるたび、ひやりとした感触が走る。部屋は、天井近くに取り付けた間接照明だけが灯っている。柔らかいオレンジ色の光に、白い壁とグレーのカーテンが溶けている。その中で、手の中のスマホの画面だけが、青白く浮かび上がっていた。親指で「はじめる」をタップする。画面が切り替わり、シンプルなロゴのあとに、チュートリアルらしき説明文が現れる。「このアプリについて」「安心してご利用いただくために」といった見出しとともに、利用規約や禁止事項が小さな文字で並んでいた。ざっと目を通しながら、スクロールを進める。出会い系とはいえ、注意書きは意外と真面目だ。「未成年利用禁止」「違法行為禁止」「個人情報の取り扱いにご注意ください」。読み飛ばして、「同意する」にチェックを入れた。次は、プロフィールの入力画面。「ニックネーム」「年齢」「エリア」「身長」「体重」「体型」「自己紹介」。項目がいくつも並んでいて、下には「顔写真を登録するとマッチング率が上がります」とご丁寧に書いてある。さすがに、そこで笑いが漏れた。「顔なんて出すわけないだろ」小さくつぶやいて、まずニックネームの欄をタップする。本名は論外だし、会社の人間に結びつきそうなものも避けたい。とはいえ、あまりにも意味不明な記号にすると、それはそれで目立ちそうな気がする。頭に浮かんだのは、高校のときにゲームで使っていたIDの断片とか、サッカー選手の名前とか、昔飼っていた犬の名前とか。どれもしっくりこない。
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9.三日間の「気のせい」
翌朝の通勤電車は、いつも通りに混んでいた。吊り革はほとんど埋まっていて、ドアの近くには人が固まり、車内の空気はスーツの布と香水と汗が混ざった匂いで少しむっとしている。それでも、昨日アプリをインストールしたときに感じたあの妙な高揚感は、今のところほとんど表面に出ていなかった。高橋翔希は、片手でバーを掴み、もう片方の手に持ったスマホの画面を一度だけ点けて、すぐにスリープに戻した。通知はいくつか来ていたが、どれも仕事用のメールやグループチャットで、昨夜のアプリからのものはなかった。その事実に、わずかな安堵と、わずかな落胆が混ざる。「何期待してんだよ」心の中で自分に突っ込み、電車の窓に目を向ける。ガラスには、ぼんやりと自分の顔が映っていた。薄く隈のある目元、きちんと締めたネクタイ、無難な紺のスーツ。ごく普通の、どこにでもいるサラリーマンの顔だ。会社に着いてエレベーターを上がると、営業フロアの空気はすでに仕事モードに切り替わっていた。電話のコール音、キーボードを叩く音、誰かが上司に報告している声。いつものざわめき。翔希も、そのざわめきの一部として自分の席に座り、PCを立ち上げ、メールをチェックし、今日やるべきタスクを頭の中で並べていく。午前中は既存顧客へのフォローと、午後は小さな商談が二件。昨日に比べれば軽い一日だ。しばらく集中して仕事をしているうちに、昨夜のブルーライトの記憶は、意識の表層から少し引いていった。管理部に行く用事ができたのは、十一時少し前だった。先週提出した稟議書の承認ルートに変更が出て、決裁者の欄を書き換える必要があるというメールが届いたのだ。営業部側ではどうしようもないので、管理部に確認してくれ、と石田課長からチャットが飛んできた。「じゃあ、行ってきます」席を立ち、エレベーターで二つ上の階に上がる。管理部フロアの自動ドアが開くと、空気の温度が少し下がったように感じた。営業フロアに比べて静かで、電話の音も声も抑えたトーンで流れている。レイアウトも、もう見慣れたものだ。書類の棚が整然と並び、デスク上にはファイルとモニタ
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10.親指ひとつぶんの距離
金曜の夜、新宿の空気は一週間分の疲れとアルコールと油の匂いで、いつもより少し重かった。駅から会社とは逆方向に伸びる小さな路地に、赤ちょうちんが連なっている。そのうちの一軒の引き戸を、中村が勢いよく開けた。「とりあえずビールでいいっすよね、課長」「おう、そりゃそうだろ」カウンターと小上がりだけの狭い居酒屋。油で少し曇ったガラス越しに、外のネオンがにじんで見える。串焼きの煙がうっすらと漂い、醤油とタレの甘い匂いが鼻をくすぐった。高橋翔希は、カウンターの端の席に腰を下ろしながら、緩めかけたネクタイをもう一段階だけ緩めた。上着は背もたれにかける。座面が少し硬くて、その感触が仕事モードとプライベートの境界線みたいに背中に当たる。「今週もお疲れ」中村が高く掲げたジョッキの泡が、黄色い照明に透ける。「お疲れさまです」「お疲れさまです」石田課長もジョッキを持ち上げ、三つのグラスが軽くぶつかった。耳のすぐ近くで、ガラスの澄んだ音が鳴る。冷えたビールが喉を通り過ぎるとき、今日一日の細かな緊張が、胃のあたりに流れ落ちていくのが分かる。二杯目、三杯目と進むにつれて、普段なら心の奥にしまっておくような愚痴や冗談も、少しだけ口に出しやすくなる。「でさあ、課長。あのクライアントの部長マジでクセ強くないですか」「お前が言うな。お前も大概だぞ」「え、俺素直じゃないっすか」笑い声と、焼き台の上で肉が焼けるジュウという音。狭い店内に、会話が反響している。翔希は、その輪の中にちゃんといる。課長が話す昔の営業時代の武勇伝に笑い、中村の失敗談にツッコミを入れ、自分の話も少しだけする。唐揚げの脂っこさと、キャベツのざくざくした食感と、塩辛いタレの味。それらを舌の上で確かめながら、グラスの中身をちびちびと飲む。気づけば、氷の溶けたレモンサワーが二杯目に差し掛かっていた。「お前、今日はあんま飲んでなくね?」中村が覗き込んでくる。「いや、飲んでるよ。明日も一応午前中は予定あるから、
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