アプリで始まった体だけの関係、その相手は職場の先輩でした~「平日夜/短時間」「感情なしの関係希望」「名前聞かないで」 のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

46 チャプター

11.空欄に落ちる一文字目

部屋の明かりを一段落として、間接照明だけにしたのは、いつもの習慣だった。高橋翔希は、ベッドのヘッドボードに背中を預け、膝を軽く立てた姿勢で、スマホを両手に挟んでいた。シャワーを浴びたあとの湿った髪が首筋に触れるたび、ひやりとした感覚がする。Tシャツ一枚の肌に、エアコンの風がゆっくりとまとわりついていた。時刻は、日付が変わる少し前。壁掛けの時計は無音で、耳に届くのはエアコンの送風音と、マンションのどこか別の部屋から微かに漏れてくるテレビの音、それから、自分の呼吸だけだった。スマホの画面には、「マッチしました」の表示はもう消え、「メッセージを入力してください」とだけ書かれた白い空欄が広がっている。それを見つめて、十分以上が経っていた。親指を画面に近づける。文字入力の欄をタップすると、フリック入力のキーボードが立ち上がる。ひらがなの列が、青白い光の中に整列している。「…」胸の奥で、呼吸がひとつ引っかかる。とりあえず、何か打ってみる。「は」ひらがなの「は」が入力欄に現れる。「はじめまして」頭の中で、続く言葉の形だけはすぐに浮かんだ。けれど、指はそこで止まる。「…いや、違うな」小さく呟いて、バックスペースを押す。入力欄から「は」が消え、再び真っ白な空欄に戻る。「何が違うんだよ」自分で自分に突っ込む。別に、「はじめまして」で何の問題もないはずだ。マッチした相手に送る最初の一文として、十分に無難で、安全で、当たり障りがない。なのに、指はどうしても、その先に進もうとしない。再び、キーボードに視線を落とす。「い」指が滑る。「い」入力欄に一文字現れたあと、「いいねありがとうございます」と続けるつもりで、頭の中の文が先に走る。「いいねありがとうございます」礼儀正しくて、無難で、やっぱり当たり障りがない。相手が誰であれ、読んで嫌な気
last update最終更新日 : 2025-12-06
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12.句読点の位置に滲む影

最初のメッセージを送り合った翌朝、高橋翔希は、通勤電車の中でいつもよりスマホを握る手に力が入っているのを自覚していた。平日朝の車内は、相変わらず人と布と匂いでいっぱいだ。スーツ同士が押し合い、吊り革の金属が小さく揺れ、どこかでイヤホンの音漏れがかすかに聞こえる。窓の外には、まだ完全に目を覚ましていない街のビル群が、灰色の空に溶けかけていた。片手でバーを掴み、もう片方でスマホを胸の高さに持ち上げる。通知を確認する。アプリのアイコンの横には、数字は付いていなかった。「…まあ、そうだよな」小さく息を吐く。昨夜、送った「こんばんは。さっきはありがとうございます」に対する「こちらこそ。いいねありがとう」。それで会話は途切れている。別に、続ける義務なんてどこにもない。あれで終わらせてもいいし、気が向いたときにまた話し始めてもいい。それが、このアプリの世界のはずだ。にもかかわらず、画面の奥にもう一つの吹き出しが増えている光景を、どこか期待していた自分がいる。「仕事モードの時間は返ってこないだろ」心の中でそう言い聞かせて、ホーム画面に戻し、スマホをポケットにしまった。会社に着くと、そこからはいつもの流れだった。エレベーターで営業フロアまで上がり、席に着き、PCを立ち上げる。メールをチェックし、今日のタスクをリストアップし、朝会で共有する。電話のコール音と、キーボードの打鍵音が混ざる音の中に、意識が自然と引き込まれていく。午前中の忙しさに飲み込まれている間は、アプリのことをほとんど忘れていた。昼過ぎ、ひと段落ついたタイミングで、デスクの引き出しから水のペットボトルを取り出し、一口飲む。喉を潤したついでに、スマホを手に取った。画面を点けると、上部に小さな通知が一つだけ浮かんでいる。「新着メッセージがあります」胸の中で、心臓が一瞬だけ跳ねた。周囲をそれとなく見回す。同僚たちはそれぞれ自分の画面に向かっていて、誰もこちらには注意を払っていない。膝の上でさりげなくアプリを開
last update最終更新日 : 2025-12-07
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13.昼の顔と夜のハンドルネーム

朝、エレベーターの鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらないように見えた。ネクタイはまっすぐ、シャツの襟も崩れていない。寝癖もない。目の下のクマも、ギリギリ「働いてる社会人」レベルで収まっている。それなのに、高橋翔希は、喉の奥に薄く緊張が貼り付いているのを感じていた。理由は分かっている。ポケットの中のスマホだ。昨夜も、寝る直前まで画面を見つめていた。「仕事大変そうだけど、ちゃんと寝てね」あの一文が、まぶたの裏に残ったまま眠りに落ちて、今もまだ脳の片隅で光っている。営業フロアの自動ドアを抜けると、いつものざわめきが迎えてくれた。電話のコール音と、キーボードを叩く音。誰かが笑い、誰かが小走りでコピー機に向かう。人と情報がひたすら行き交う箱の中で、翔希もいつものように自分の席に座り、PCを立ち上げる。画面が青から白に切り替わるのを待ちながら、さりげなくスマホを引き出しの奥に滑り込ませた。そこにしまってしまえば、少なくとも午前中は手を伸ばさずに済むような気がした。案件の進捗を確認し、クライアントからのメールに返事をし、午前十時の社内ミーティングに出る。会議室の空調は少し強すぎて、腕に鳥肌が立った。「この部分のオプション料金、再度管理部確認してくれる?」石田課長が資料を指しながら言う。「はい。単価テーブル、前回から変わってないか念のため確認します」翔希はそう答え、メモを一つ増やした。細かい数字の違いは、あとで首を締める。昨日すでに経験したばかりのことだ。念押しできるところはしておきたい。ミーティングが終わり、席に戻ってすぐ、管理部宛てのチャットを開いた。単価テーブルとオプション条件について確認したい旨を書き、送信する。数分後、管理部の共通アカウントから短い返信が来た。『詳細確認するので、今から来れますか』文末に付いている名前の欄を見て、翔希は小さく息を呑んだ。「村上」心の中でそう呟き、立ち上がる。資料をタブレットに入れ、ボールペンを一本だけ胸ポ
last update最終更新日 : 2025-12-08
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14.「今度会ってみる?」の一行

冷蔵庫のモーターが、小さく唸る音を立てていた。高橋翔希は、シャワーを終えて濡れた髪をタオルでざっと拭き、Tシャツとスウェットに着替えると、そのままベッドの上に倒れ込んだ。マットレスが身体の重さに合わせて沈み、布団が少しだけひんやりとした感触を返してくる。部屋の灯りは天井のメインではなく、枕元のスタンドライトだけ。オレンジがかった光が、白い天井に丸い輪を作っている。窓の外からは、遠くの車の走る音がかすかに届くくらいで、人の声はほとんど聞こえない。いつもの夜だ。枕元に置いてあるスマホに手を伸ばし、指先で画面をなぞる。ロック画面が消え、並んだアイコンの中から、例のアプリのマークをタップする。起動音は鳴らない。ただ、白いローディングの円が一度だけくるりと回り、すぐにチャット画面が立ち上がる。一番上に固定されているのは、「k_19」と自分で適当に付けたハンドルネームと、相手の匿名アイコン。灰色のシルエット。名前の欄にはただ一文字、「H」のイニシャルだけが表示されている。新着メッセージの通知は、来ていない。翔希は、少しだけ息を吐いて、枕に頭を預けた。『おつかれさまです』昨日の夜の最後のメッセージが、それだ。『今日は早めに寝ます』『そっちも無理しないでくださいね』相手からの返事は、「ありがとうございます」の一言で締めくくられていた。淡々としているが、冷たくはない。一歩引いた距離感のまま、ここ数日、こんなやり取りを繰り返している。半ば習慣になりつつある、夜のルーティン。顔も知らない誰かと、日々の疲れ具合やコンビニ飯の話をするだけの、ゆるい時間。仕事の数字とも、上司の機嫌とも関係のない場所。指先でテキストボックスをタップし、『今日もおつかれさまです』と打ち込む。送信ボタンに触れると、メッセージは画面の右側に移動し、小さなチェックがついた。しばらく画面を眺める。数分後、バイブレーションが一度だけ震えた。『おつかれさまです』
last update最終更新日 : 2025-12-09
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15.ホテルでの「こっちのセリフ」

朝一番のエレベーターは、やけに遅く感じた。高橋翔希は、狭い箱の中で壁の階数表示を見上げながら、スーツのジャケットの裾を指先でいじっていた。胸ポケットの中のスマホが、いつもより存在感を主張する。電源は落としていないのに、さっきから何度も確認したような気がしていた。約束の日。頭ではただの「平日」と認識しようとしているのに、身体のどこかが落ち着かない。喉の奥に小さな棘のようなものが刺さっている感覚が抜けない。営業フロアの自動ドアをくぐると、いつものようにざわめきが出迎えた。電話のコール音、キーボードの打鍵音、誰かの笑い声。人と資料と数字が飛び交う、いつも通りの朝の光景。蛍光灯の白い光が、机の上の書類の角を冷たく照らしている。翔希は、椅子に座る前に腕時計を見た。まだ九時ちょうど。いつもなら、それを見て「よし」と気持ちを切り替えられる。今日は違った。夜の二十時の数字が、同じ円盤の中で、不自然に存在感を放っている。「…集中しろ」小さく呟いて、PCの電源を入れた。メールを開き、今日のタスクを確認する。クライアントからの問い合わせ、午後一のオンライン商談、夕方の社内ミーティング。どれも重要だ。どれも、いつもと変わらない。なのに、ふとした拍子に視線が時計に吸い寄せられる。九時半。九時四十分。まだ始業から一時間も経っていないのに、体感では午前中の後半くらいの疲労感がある。画面の文字が、少しだけピンぼけして見える。「高橋」背後から名前を呼ばれ、肩に力が入る。振り返ると、石田課長がメールのプリントアウトを手に立っていた。「今日の午後一のA社、段取り大丈夫か」「はい、資料は一通りまとめてあります」「管理部の確認、必要なとこは全部通してる?」「あ…一箇所だけ、単価テーブルの変更が入ってる部分があるので、そこだけ午前中に確認に行きます」「頼むぞ。今日決まればでかいからな」
last update最終更新日 : 2025-12-10
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16.505号室のテーブル越し

ドアの隙間から漏れた白い光の中で、ふたりはしばらく固まっていた。廊下の薄いオレンジ色の照明と、部屋の中の白い光が境界を作っている。その境目に立たされて、高橋翔希は、息をするのを忘れていた。目の前にいるのは、見慣れた顔だ。ネクタイを少し緩め、第一ボタンを外した白いシャツ。片手には脱いだジャケット。管理部のデスク越しでも、コピー機の前でも何度も見てきたはずの村上遥人の姿。ただ、ここが会社ではないことだけが、全てを異様にしていた。「……お前、何やってんの」最初に口を開いたのは、村上だった。しゃがれたわけでもなく、いつもの低く落ち着いた声。だけど、ほんの少しだけ喉が詰まっているような、聞いたことのない揺れが混ざっている。翔希は、一度唾を飲み込んでから、口を動かした。「……こっちの台詞ですよ、村上さん」言うつもりもなかった言葉が、勝手に出てくる。自分でも驚くくらい、声がちゃんと出ていた。膝の裏は軽く震えているのに、喉だけは妙に冷静だ。互いの視線がぶつかって、また逸れる。廊下の奥で、エレベーターの到着音が小さく鳴った。見知らぬ誰かの笑い声が遠くから響いてくる。その全てが、ここだけ切り取られた空間とは別の世界の音に感じられた。先に息を吐いたのは、村上だった。「……とりあえず」少し間を置いて、ドアをもう少し開く。「中、入って」それは命令でもなく、完全なお願いでもなく、その中間のような声だった。逃げ道は、まだある。このまま「すみません、間違えました」とでも言って走って逃げることは、一応できる。アプリを消して、明日から二度とこのことには触れないふりをすることもできる。けれど、その選択肢は、すでに自分の中から消えかけていた。「失礼します」反射的に口から出たのは、会社で何度も使った敬語だった。村上の横をすり抜けるようにして、
last update最終更新日 : 2025-12-11
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17.「昨日のことは忘れて」という嘘

朝の山手線は、いつも通りぎゅうぎゅうに人を詰め込んでいた。つり革につかまりながら、翔希は正面の窓ガラスをぼんやりと眺める。外の景色は地下区間のせいでほとんど見えず、黒い鏡のように自分の顔が映っていた。映っているのは、見慣れたはずの自分だ。ただ、どこか違う気がする。目の下に、うっすらとした影。寝不足と、昨夜の余韻の線引きが曖昧なクマ。唇の色はいつもより少し赤くて、乾いているのか、軽くひび割れている。意識した瞬間、どうしようもなくそこに目が行った。あの感触が、まだ残っている気がした。柔らかくて、思ったより熱くて、何度も重ねられた、他人の唇。自分のではない、別の体温。電車の揺れと関係なく、心臓がひとつ跳ねる。翔希は、無意識のうちに指先を持ち上げていた。親指で、そっと下唇の端に触れる。ざらりとした指紋の感触と、その下にある、自分の皮膚の薄さ。押すとわずかに痛いのに、それ以上の何かが蘇ってくるようで、慌てて手を下ろした。周りの視線が、急に気になりだす。もちろん、誰も彼の唇なんか見ていない。スーツ姿の男たちはスマホを握りしめ、女子たちは化粧直しをしたりイヤホンを耳にねじ込んだりしている。それぞれの朝を生きるのに精一杯だ。それでも、自分だけ違う世界を見ているような後ろめたさが、喉の奥に引っかかっていた。ポケットの中のスマホが、太もものあたりに冷たく触れる。取り出してロックを外す指が、一瞬止まった。そこに、あのアプリがある。昨夜のチャット履歴。ホテル名。部屋番号。簡素な「了解です」の文字列。その向こう側にいた「H」。…その正体を、もう知ってしまっている。村上遥人。管理部の先輩。職場ではいつも冷静で、有能で、柔らかく笑う人。翔希は、ロック画面のままスマホを握りしめた。親指が、通知バーを引き下ろそうと動いて、途中で止まる。開いたところで、何も変わらない。昨夜
last update最終更新日 : 2025-12-12
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18.平日夜/短時間/また会う?

定時を過ぎても、管理部フロアの空気は大きくは変わらなかった。電話の本数が少し減り、チャットの通知音もまばらになる。けれど、村上遥人の指先は、いつものようにキーボードの上を一定のリズムで走っていた。画面には、今日一日で承認した稟議の一覧と、まだ保留のタグがついている案件が並んでいる。「…これで、全部か」小さく息を吐いて、最後の稟議のステータスを「承認済」に切り替える。仕事は、片付いている。少なくとも、見える範囲では。ノートPCの画面を閉じると、ふっと、頭のどこかの余白に別の光景が浮かんだ。白いシーツ。薄い照明。ベッドの端に並んで座るふたりの影。閉じた目の裏側に、昨夜の505号室が、勝手に再生される。「目、閉じられる?」自分の声が、頭の中で反響する。そのあとに続いた、あのキスの感触。高橋翔希の唇は、思っていたよりも柔らかくて、少し熱かった。最初の一瞬、驚いたように身体を強張らせたのに、逃げることはしなかった。押し倒しもしないし、突き飛ばしもしない。途中でふっと力が抜けて、受け入れるように唇を開いたのに、その先で自分のほうがブレーキをかけた。「あそこで止まるんだよね」机の上のボールペンを指で転がしながら、心の中で呟く。あのまま、ベッドに押し倒されてもおかしくなかった。よくあるパターンなら、その流れで一気に最後まで行く。互いの履歴書も、休日の過ごし方も、家族構成も知らないまま。ただ、身体だけを扱う、楽な夜。「…そのほうが、よっぽど楽だったんだけど」誰にも聞こえないくらいの声で、苦笑が漏れた。高橋の反応は、読みにくかった。嫌悪で顔をしかめるわけでもなく、興奮に任せて突っ走るわけでもなく、妙に慎重で、妙に真面目なキス。「真面目にキスって何だよ」心の中でだけ、ツッコミを入れる。椅子にもたれかかり、背中を伸ばした。肩から首にかけての筋肉が、
last update最終更新日 : 2025-12-13
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19.名前を呼ばないルール

スマホが震えたのは、風呂から上がってすぐのことだった。タオルで頭を拭きながら、ベッドの上に投げ出していた画面が一瞬光るのが見える。何気なく手を伸ばし、ロックを外す。画面の上部に、小さな通知バナーが出ていた。『平日夜/短時間 また会う?』アプリの名前と、短い二行。喉の奥で、音にならない声が引っかかった。村上…さん。名前を頭の中で呼んだ瞬間、昨夜の505号室の空気が、湿ったまま蘇る。白いシーツに腰を下ろしたときの緊張。触れた唇の温度。離れたときの、妙な安心感と物足りなさ。「…また」口の中で転がしてみる。二度目がある。そういう意味のメッセージだ。本当は、来ないほうが楽だったはずだ。昨日のことを「一度きりの事故」として、記憶の棚の奥に押し込めておけた。なのに、画面を見つめる心臓は、怖さと同じくらいの速さで高鳴っている。怖い。でも、嬉しい。その二つが、ほとんど同じくらいの重さで胸の中に乗ってきて、息が浅くなる。親指が、返信欄に触れる。『また』と打ちそうになって、消す。『いいですよ』と打ちかけては、消す。『予定しだいで』と入力してみて、打算的に見える気がしてまた消す。布団の上で仰向けになり、スマホを胸の上に置いた。天井の白いシミを眺めながら、深呼吸をひとつ。「…一回だけなら」誰にともなく呟く。一回だけ。それで何もなかったら、そこで終わり。もし何かがあっても、「遊び」だと割り切る。そう自分に言い聞かせて、再び画面を持ち上げた。『会いたいです』指が勝手に動いていた。打ち終えた瞬間、慌てて削除する。「いやいやいや」布団の上で、ひとりツッコミを入れる。そんなストレートな言い方をしたら、何か別のものまで認めてし
last update最終更新日 : 2025-12-14
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20.ベッドとオフィスのあいだ

最初の「また会う?」から、もう何度目の夜になるのか、翔希には正確な回数が分からなくなっていた。平日夜。退社時間少し過ぎの新宿。ホテルのエントランスをくぐるときの、空調の匂いとガラス越しの照明は、もう見慣れた風景になりつつある。エレベーターの鏡に映る自分の顔も、「ただ仕事帰りに寄り道をする社会人」のそれだ。ネクタイを少し緩めて、指定された階のボタンを押す。今夜の部屋番号は、六〇七。二週間前は五一二、その前は四〇一。階も番号も違うのに、中身はほとんど同じ間取りだということも、もう知っている。廊下に出て、足元のカーペットの感触を確かめるように歩く。心臓の鼓動が、相変わらず少し早くなるのは、慣れではどうにもならなかった。「…」部屋の前で足を止め、深呼吸をひとつ。ノックする前に、スマホで一言だけメッセージを送る。『着きました』ほんの数秒後、カチャリと、内側からドアノブが回る音がした。少しだけ開いた隙間から、白い光と人影が覗く。「お疲れ」村上が、少しだけ緩んだネクタイ姿で立っていた。ジャケットは既に脱いでいて、シャツの袖を肘までまくっている。その腕に浮かぶ血管や、手首の細さに、視線が一瞬吸い寄せられる。「お疲れさまです」そう返すと、村上は顎で中を示した。「入って」部屋の中に入ると、前と同じような匂いがした。柔軟剤とも芳香剤ともつかない、ホテル特有の混ざった匂い。ベッドの上には、まだ誰の体温も残っていない白いシーツが、きちんと伸ばされている。村上は、鞄をテーブルに置くと、当たり前のようにバスルームのほうへ歩いていく。「先、シャワー浴びるから」「はい」これも、いつもの流れだ。一度だけ軽くシャワーを浴びてから、触れる。それは暗黙のルールというより、村上の習慣になっていた。バスルームのドアが閉まり、水の音が聞こえてくる。
last update最終更新日 : 2025-12-15
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